最後の女帝?~後桜町天皇
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最後の女帝?~後桜町天皇
最後の女帝、正確には最後の女性天皇は皇室典範が改正されな...
いうことになります。
この女帝は一般には馴染みのない天皇ですが、実は非常に重...
(手元にある乏しい資料からですが、この女帝について書いて...
まずは後桜町天皇誕生までの女帝について書きますと
古代において女帝時代とも言われる推古天皇から称徳天皇ま...
男性のみでした。
しかし、江戸時代初期に朝廷と幕府の対立により明正天皇が...
することになります。
ただし、明正天皇は存在そのものが朝廷と幕府の関係を改善...
たものの、父帝の後水尾天皇が上皇として院政をとったため、...
りませんでした。
つまり、称徳天皇以後、天皇及び上皇として朝廷の主(治天...
かったのです。
このことを考えると後桜町天皇がいかに特殊な立場にあった...
1762年、女帝は異母弟である桃園天皇が22歳の若さで...
歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位しました(女帝はこの時...
もし、院政をとる上皇があるならば明正天皇と同様に朝廷の...
が、女帝と桃園天皇の父である桜町天皇は既に崩じていたため...
より限られた王権ではあるものの称徳天皇以来の朝廷の主であ...
ました。
こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣で...
変熱心であり、政務においても大事に際しては摂政に自らの意...
あったそうです。(女帝ということで摂政が置かれていました...
1770年、既に2年前に立太子していた英仁親王(13歳...
継ぎとしての役割は、無事に終えるはずでした。
しかし、甥の後桃園天皇は1779年に父帝と同じく22歳...
このことにより、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子...
の弟皇子は7年前に早逝していることから、当時の正統とされ...
男子は途絶えてしまいました。
こうして、上皇となっていた女帝が再び表舞台に立たなくて...
もし、欣子内親王が親王であったならば、上皇が重祚し、女...
待つという図式が再現されたでしょう。
ですが、現実に男子がいない以上は傍系である宮家から皇嗣...
上皇は桃園天皇の女御であり後桃園天皇の皇太后である一条...
弟である閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱...
めるため、祐宮を後桃園天皇の女御である近衛維子の養子とし...
であり皇統の継承者である欣子内親王を立后させ中宮としまし...
この時に即位した祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇とな...
光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主と言われていま...
てあげたのは後桜町天皇でした。
光格天皇は即位時に9歳であり、皇嗣としての教育を受けず...
は甥の後桃園天皇にしたように、その訓導には非常に熱心でし...
若き天皇が実父の閑院宮に上皇の尊号を贈ろうとした「尊号...
悪化を避けるため「御代長久が第一の孝行」と諌め、その後も...
に対しても教訓を与えたそうです。(ちなみに、天皇は上皇の...
で、非常に我の強い面のあった天皇がとった恭しい態度は、天...
残念ながら、上皇が願った光格天皇と欣子内親王の男子への...
の復活はなりませんでしたが、上皇は現在に至る皇統の成立に...
母」となりました。
上皇は二度の皇統の危機を救い、最後まで朝廷の主としての...
歳で崩御しました。
後桜町天皇の略歴
御名=智子
御父=桜町天皇
御母=桜町天皇・女御、青綺門院、二条舎子
在位=1762~1770年
上皇=1770~1813年
上皇時代の天皇=後桃園天皇、光格天皇
生誕=1740年
崩御=1813年
●東山天皇以降の皇室略系図
東山天皇(113代)
┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃
中御門天皇(114代) 閑院宮直...
┃ ┃
┣━━━━━━━━━━━┓ ┃
┃ ┃ ┃
桜町天皇(115代) 成子内親王======閑院宮典仁...
┃ ┃
┣━━━━━━━━━━━┓ ┃
┃ ┃ ┃
桃園天皇(116代) 後桜町天皇(117代) ┃
┃ ┃
後桃園天皇(118代) ┃
┃ ┃
欣子内親王(中宮)================光格天...
┃
仁孝天...
┃
孝明天...
┃
明治天...
┃
大正天...
┃
昭和天...
┃
今上天...
┃
+---------------+
| ┃
皇太子徳仁親王 秋篠宮文仁親王
(126代予定) (12...
┃
悠...
(12...
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最後の女帝?~後桜町天皇
最後の女帝、正確には最後の女性天皇は皇室典範が改正されな...
いうことになります。
この女帝は一般には馴染みのない天皇ですが、実は非常に重...
(手元にある乏しい資料からですが、この女帝について書いて...
まずは後桜町天皇誕生までの女帝について書きますと
古代において女帝時代とも言われる推古天皇から称徳天皇ま...
男性のみでした。
しかし、江戸時代初期に朝廷と幕府の対立により明正天皇が...
することになります。
ただし、明正天皇は存在そのものが朝廷と幕府の関係を改善...
たものの、父帝の後水尾天皇が上皇として院政をとったため、...
りませんでした。
つまり、称徳天皇以後、天皇及び上皇として朝廷の主(治天...
かったのです。
このことを考えると後桜町天皇がいかに特殊な立場にあった...
1762年、女帝は異母弟である桃園天皇が22歳の若さで...
歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位しました(女帝はこの時...
もし、院政をとる上皇があるならば明正天皇と同様に朝廷の...
が、女帝と桃園天皇の父である桜町天皇は既に崩じていたため...
より限られた王権ではあるものの称徳天皇以来の朝廷の主であ...
ました。
こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣で...
変熱心であり、政務においても大事に際しては摂政に自らの意...
あったそうです。(女帝ということで摂政が置かれていました...
1770年、既に2年前に立太子していた英仁親王(13歳...
継ぎとしての役割は、無事に終えるはずでした。
しかし、甥の後桃園天皇は1779年に父帝と同じく22歳...
このことにより、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子...
の弟皇子は7年前に早逝していることから、当時の正統とされ...
男子は途絶えてしまいました。
こうして、上皇となっていた女帝が再び表舞台に立たなくて...
もし、欣子内親王が親王であったならば、上皇が重祚し、女...
待つという図式が再現されたでしょう。
ですが、現実に男子がいない以上は傍系である宮家から皇嗣...
上皇は桃園天皇の女御であり後桃園天皇の皇太后である一条...
弟である閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱...
めるため、祐宮を後桃園天皇の女御である近衛維子の養子とし...
であり皇統の継承者である欣子内親王を立后させ中宮としまし...
この時に即位した祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇とな...
光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主と言われていま...
てあげたのは後桜町天皇でした。
光格天皇は即位時に9歳であり、皇嗣としての教育を受けず...
は甥の後桃園天皇にしたように、その訓導には非常に熱心でし...
若き天皇が実父の閑院宮に上皇の尊号を贈ろうとした「尊号...
悪化を避けるため「御代長久が第一の孝行」と諌め、その後も...
に対しても教訓を与えたそうです。(ちなみに、天皇は上皇の...
で、非常に我の強い面のあった天皇がとった恭しい態度は、天...
残念ながら、上皇が願った光格天皇と欣子内親王の男子への...
の復活はなりませんでしたが、上皇は現在に至る皇統の成立に...
母」となりました。
上皇は二度の皇統の危機を救い、最後まで朝廷の主としての...
歳で崩御しました。
後桜町天皇の略歴
御名=智子
御父=桜町天皇
御母=桜町天皇・女御、青綺門院、二条舎子
在位=1762~1770年
上皇=1770~1813年
上皇時代の天皇=後桃園天皇、光格天皇
生誕=1740年
崩御=1813年
●東山天皇以降の皇室略系図
東山天皇(113代)
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中御門天皇(114代) 閑院宮直...
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桜町天皇(115代) 成子内親王======閑院宮典仁...
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桃園天皇(116代) 後桜町天皇(117代) ┃
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後桃園天皇(118代) ┃
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欣子内親王(中宮)================光格天...
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仁孝天...
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明治天...
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大正天...
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昭和天...
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今上天...
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皇太子徳仁親王 秋篠宮文仁親王
(126代予定) (12...
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