朝鮮半島概観
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朝鮮半島概観
7Cの朝鮮半島(高句麗・百濟・新羅・倭国)
7Cの朝鮮半島概観
朝鮮の歴史における三国時代とは朝鮮半島および満州に高句麗...
中国大陸では581年、隋(581年 - 618年)は、分裂していた中...
隋の滅亡後、唐(618年 - 907年)は、7世紀の最盛期には、中...
まさに、朝鮮半島は中国を巻き込んだ大戦乱の時代になり、倭...
隋は、中国の王朝と敵対関係にあった高句麗に対して、計5回の...
唐は高句麗との闘いに重きを置き、新羅と連合(唐・新羅の同...
その後、兵力の重点を高句麗攻撃に移したため、百済旧領地が...
そのすきに残党の百濟は力を付け、たびたび新羅に攻め込んだ。
百済と交流関係にあった倭国は661年、662年に応援兵力を繰り...
この動きに対して、唐は腹をかため、一気に決着をつける方針...
大軍を繰り出して唐・新羅連合軍は663年、白村江で百済・倭国...
この後、唐は、羈縻政策を新羅にも実行し、鶏林都督府をおい...
百済旧域の熊津都督府の下部に、北九州にも筑紫都督府が設置...
その後、唐・新羅連合軍は最終的に高句麗を滅ぼすことに成功(...
・ もとより唐は、羈縻政策をもって朝鮮半島を支配する考えで...
羈縻政策を新羅にも実行したことや百濟・高句麗の戦後処理の...
唐・新羅戦争が生じ、唐の国内情勢の問題もあって、唐は力を...
新羅はその後、唐から赦されて冊封を受け朝貢国となった。
同じ頃、満州ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を...
やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配を巡って唐と対立し、...
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外...
倭国では、672年に壬申の乱が起きて天武天皇の時代に入り近畿...
701年には大宝律令を発布し、本格的な律令国家になっていく。...
7Cの高句麗概観
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は...
このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍も...
出典 Wikipedia
隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。
これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し...
高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、...
新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果...
さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、...
ここに高句麗は滅亡した。
7Cの百済概観
600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済...
武王は、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を...
しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、隋...
一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって新羅との争い...
このころは倭国に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光...
この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立さ...
この後も新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進...
660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より...
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争...
7Cの新羅概観
600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済...
真平王の時代、防戦状態が続いたが、阿莫城での会戦では百済...
しかし608年には高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられて...
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは激しく戦って幾つもの...
626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況と...
真徳女王は王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとと...
金春秋の帰国とともに、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりい...
660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より...
文武王の時代には663年5月からは百済の旧将の鬼室福信らが王...
666年には唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東...
百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけでは...
新羅は却って旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明...
このために唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まって...
文武王は675年に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、そ...
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島...
神文王は先王が死去すると王位に就いた。三国統一後の唐の撤...
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【百済】と倭国
7cの【百済】と倭国
600年 百済王武王時代
最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(...
602年 百済王武王時代
新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、新羅...
607年 百済王武王時代
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅...
611年 百済王武王時代
隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ること...
618年 百済王武王時代
椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小...
621年 百済王武王時代
隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢。
624年 百済王武王時代
唐より帯方郡王・百済王に冊封される。
626年 百済王武王時代
高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。
627年 百済王武王時代
新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵...
新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王...
634年 百済王武王時代
先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を完成...
641年 百済王義慈王時代
在位:641年 - 660年
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立...
義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を...
642年 百済王義慈王時代
7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。
8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚...
この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬...
また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿...
644年から649年 百済王義慈王時代
新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であ...
651年 百済王義慈王時代
唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送...
653年 百済王義慈王時代
豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年...
655年 百済王義慈王時代
高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃...
660年 百済王義慈王時代
唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ...
660年 唐王朝
唐朝が百済を滅ぼすと、百済の故地に熊津都督府を設置
韓国歴史地図 平凡社
日本書紀(参考資料)
631年 日本書紀
舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年
642年 日本書紀
皇極天皇元年1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」...
647年 日本書紀
新羅は上臣の大阿飡の金春秋たちを派遣して、博士の小徳の高...
650年 日本書紀
孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機...
660年 日本書紀
唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたと...
百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだ...
当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)...
662年 日本書紀
662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来...
豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが...
663年 百済の滅亡後
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争...
663年 日本書紀
663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を...
豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵...
やがて唐本国から劉仁軌率いる7000名の救援部隊が到着し、8月...
664年5月17日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、朝散大夫の【郭務悰】等を遣わし、表函...
664年10月1日 日本書紀
郭務悰】を送り出す勅を出された。鎌足は沙門智祥を遣わして...
664年10月4日 日本書紀
【郭務悰】らに饗応された。
664年12月12日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。
665年9月23日 日本書紀
唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣してきた。
この一文には、施注が付いており「"等"とは右戎衛郎将上柱国...
およそ254人。7月28日対馬に着き、9月20日筑紫に着いた。23日...
665年10月23日 日本書紀
菟道で閲兵した。
665年11月13日 日本書紀
劉徳高等に饗応をされた。
665年12月14日 日本書紀
劉徳高等に物を賜った。この月、-劉徳高等は帰途についた。
667年天智11月 日本書紀
百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣し...
己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠...
667年11月13日 日本書紀
司馬法聰等が帰国。小山下伊吉連博徳・大乙下笠諸石をもって...
668年1月3日 日本書紀
天智天皇が即位する。 (天智7年)
669年10月16日 日本書紀
藤原内大臣(鎌足)薨去。 (天智8年)
この年、第5次遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に向う。
「大唐が【郭務悰】ら2000余人を遣わしてきた」
671年1月2日 日本書紀
大友皇子が太政大臣となった。
671年1月13日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、李守真等を遣わして、上表した。
671年7月11日 日本書紀
唐人李守真等と百済の使人らは共に帰途についた。
671年10月 朝鮮半島での出来事
新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、泗沘城を陥落...
百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の...
これにて、旧百濟領に設置された熊津都督府は消滅した。
671年11月2日 日本書紀
沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐か...
彼らが申すには、唐国の使人【郭務悰】等600人、送使沙宅孫登...
そこで道久等を遣して、前もって来朝の意を伝えたし」とのこ...
671年12月3日 日本書紀
天智天皇が近江宮で崩御。
672年3月18日 日本書紀
内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を【郭務悰】等...
是に、【郭務悰】等は、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、...
672年3月18日 日本書紀
【郭務悰】等は再拝し、書函と信物を献上した。
672年5月12日 日本書紀
甲冑弓矢を【郭務悰】等に賜る。
この日、【郭務悰】等への賜物は全部で[あしぎぬ]1673...
672年6月30日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。
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【高句麗】と隋・唐
7cの【高句麗】と隋・唐
595年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より恵慈来朝。後に聖徳太子の師となったと言う。
598年 高句麗嬰陽王時代
靺鞨の人々を率いて遼西に進入し、そのために隋の文帝の怒り...
600年 高句麗嬰陽王時代
大学博士の李文真に命じて、高句麗の建国後間もなくからの古...
607年 高句麗嬰陽王時代
東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬...
610年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より曇徴来朝。碾磑(みずうす)を製法を伝える。
613年 高句麗嬰陽王時代
第三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)でも隋軍を退け、...
618年 高句麗栄留王時代
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王は直ちに唐...
622年 高句麗栄留王時代
隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。唐に送還された...
624年 高句麗栄留王時代
唐の暦を願い出て、唐はこれに応える形で栄留王を<上柱国・...
また、このとき高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『...
625年 高句麗栄留王時代
唐に使者を送り、仏教・道教の教法を学びたいと申し入れし、...
しかし、唐が国内の混乱を収めていったころから両国間の緊張...
630年 高句麗栄留王時代
唐は東突厥を撃破した後、唐は翌631年に栄留王に対して高句麗...
640年 高句麗栄留王時代
唐が640年に高昌国を服属させると、世子の桓権を唐に派遣し国...
642年 高句麗栄留王時代
唐が高句麗を討とうとしていることに対して、国内の体制の再...
642年 高句麗宝蔵王時代
唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な...
高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済...
668年 高句麗宝蔵王時代
第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。...
668年 高句麗宝蔵王時代
高句麗が滅亡する。新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句...
この時期、倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国...
高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈ら...
高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭...
668年 唐王朝
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に設置され、鴨...
668年 唐王朝
高句麗と百済が唐朝により滅亡すると、旧高句麗に安東都護府...
677年 高句麗滅亡後
唐が朝鮮半島の経営を放棄せざるを得なくなると、これに伴っ...
そこで唐はこれを抑えるために宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に...
ところが宝蔵王は唐の意に反して高句麗流民を糾合し、靺鞨と...
これが発覚すると681年に邛州に流され、682年頃死去したと見...
高宗は詔して宝蔵王の遺体を首都長安に送らせ、突厥の頡利可...
隋・唐の高句麗出兵
隋の高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われた。
第1次遠征
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の...
第2次遠征
612年正月、隋の煬帝は、60万の大軍で高句麗に侵攻した。高句...
第3次遠征
613年、隋の煬帝は再び高句麗に侵攻したが、隋の国内で楊玄感...
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる...
出典 最新世界史図表 第一学習社
唐の高句麗出兵は、644年から668年まで計3次にわたって行われ...
第1次侵攻(644–645年) 645年2月には太宗が親征する大規模な...
第2次侵攻(661年) 唐は戦略を長期消耗戦に転換し、小規模の...
第3次侵攻(667–668年) 665年に淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が...
淵蓋蘇文の弟・淵浄土は新羅に投降した。668年には、唐軍によ...
出典 Wikipedia
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【新羅】と唐・高句麗・百濟
7cの【新羅】と唐・高句麗・百濟
602年 新羅真平王時代
百済との阿莫城(全羅北道南原市)での会戦では百済を大敗さ...
603年 新羅真平王時代
高句麗が北漢山城(ソウル特別市)に侵入した際には、親征し...
608年 新羅真平王時代
高句麗の侵入により牛鳴山城(江原道安辺郡瑞谷面)を陥落さ...
611年 新羅真平王時代
隋から帰国した僧の円光に命じ、隋に高句麗討伐を求める上表...
614年~ 新羅真平王時代
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは椵岑城(忠清北道槐山...
624年 新羅真平王時代
唐より<柱国・楽浪郡公・新羅王>に冊封される。
625年 新羅真平王時代
高句麗の無道を訴え出た。
しかしながら唐からは高句麗との和解を勧められるばかりであ...
626年 新羅真平王時代
高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三...
629年 新羅真平王時代
高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、初陣となる副将金...
631年 新羅真平王時代
伊飡の柒宿と阿飡の石品とが反逆を起こしており、新羅国内の...
こうした不穏当な状況下、632年1月に死去した。真平王と諡さ...
635年 新羅善徳女王時代
百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際...
636年 新羅善徳女王時代
百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでい...
638年 新羅善徳女王時代
高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川...
640年 新羅善徳女王時代
王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文...
642年 新羅善徳女王時代
百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済と...
同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられ...
その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求め...
643年 新羅善徳女王時代
唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐か...
645年 新羅善徳女王時代
徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して...
647年 新羅善徳女王時代
女王自らが任命した上大等の毗曇らが女王の廃位を求めて内乱...
647年 新羅真徳女王時代
内乱鎮圧の直後、唐からは善徳女王に対する追贈と真徳女王に...
648年 新羅真徳女王時代
百済からは茂山(全羅北道茂朱郡茂豊面)・甘勿(慶尚北道金...
外交面では王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとと...
651年 新羅真徳女王時代
官制についても唐制にならったものに切り替えていき、これま...
また礼部(儀礼教育)・調府(貢賦)など主要官庁への令(長...
654年 新羅真徳女王時代
理方府(立法)を新設した。
654年 新羅武烈王時代
先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。
即位直後に唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせ...
655年 新羅武烈王時代
高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺...
これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わ...
659年 新羅武烈王時代
百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使...
660年 新羅武烈王時代
唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍...
新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、...
同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈...
661年 新羅武烈王時代
唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、...
武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大...
661年 新羅文武王時代
661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。
唐からは直ちに高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武...
このときの高句麗は唐の攻撃に耐え、唐軍は食糧を受け取ると...
662年 新羅文武王時代
唐から開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封された。
663年 新羅文武王時代
百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の...
666年 新羅文武王時代
唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東道行軍大...
668年 新羅文武王時代
新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、同年9月21日に高句...
663年4月 新羅文武王時代
唐は百済の故地に熊津都督府を設置、朝鮮半島に羈縻政策を用...
新羅も鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じら...
668年9月 新羅文武王時代
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に安東都護府が...
唐の羈縻政策が開始された。
670年8月 新羅文武王時代
唐の羈縻政策に対抗するため、高句麗の宝蔵王の庶子である安...
671年 新羅文武王時代
新羅は旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明確にし...
出典 韓国歴史地図 平凡社
673年 新羅文武王時代
百済から帰属してきたものを新羅の官制に取り込んだが、百済...
673年年 新羅文武王時代
古くからの新羅の勢力だけでは唐への対抗が難しいことに気付...
旧来の新羅の身分制度は首都金城(慶州市)を中心とする京位...
674年1月 新羅文武王時代
唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まっていた王弟の...
674年9月 新羅文武王時代
新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させ、...
675年2月 新羅文武王時代
文武王は唐に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、その...
676年11月 新羅文武王時代
その後も小規模な戦闘を繰り返し、白江河口部の伎伐浦(忠清...
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島...
この頃 新羅文武王時代
百済・高句麗の故地を直接統治していくことについて、百済の...
678年 新羅文武王時代
高句麗の平原城跡に北原小京(江原道原州市)を置いて地方統...
680年 新羅文武王時代
加耶郡に金官小京(慶尚南道金海市)を置いて地方統治の拠点...
6世紀に既に設置されていた州・小京とともに、新羅の地方統治...
680年 新羅文武王時代
文武王の妹を安勝に降嫁させて新羅・高句麗の王家の結合を図...
新羅文武王時代の文化政策
文武王の時代には王都金城の作りが改められてもいる。
674年2月に宮城である半月城付近に月池(後に雁鴨池と呼ばれ...
王城内には四天王寺(慶州市仁旺洞狼山)を建立させたほか、...
在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王と諡された。王自...
683年10月 新羅神文王時代
高句麗の遺民を封じた傀儡政権である報徳国の安勝に対して、...
684年11月 新羅神文王時代
報徳国の置かれた金馬渚(全羅北道益山市)で安勝の一族の将...
685年 新羅神文王時代
完山州(全羅北道全州市)の再設置、居列州(慶尚南道居昌郡...
出典 Wikipedia
687年 新羅神文王時代
九州は旧高句麗・百済・新羅の領域にそれぞれ三州が置かれる...
687年4月 新羅神文王時代
父の文武王、祖父武烈王、曽祖父文興葛文王(金龍春)、高祖...
689年 新羅神文王時代
官僚に対する禄邑制をやめて租米による俸禄制を始め、官職に...
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白村江の戦い前の倭国(日本書紀)
7cの初頭から白村江の戦い前後の倭国(日本書紀)
593年 日本
推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本
推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金...
599年9月 日本
推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本
推古 新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。...
601年3月 日本
推古 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急い...
602年2月 日本
推古 来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。
10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を...
603年4月 日本
推古 2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の...
12月、冠位十二階を制定。
604年4月 日本
推古 聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を...
605年4月 日本
推古 高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三...
607年 日本
推古 小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日...
610年3月 日本
推古 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙部...
9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。
10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫...
611年8月 日本
推古 新羅は沙部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智...
615年9月 日本
推古 百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
616年7月 日本
推古 新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
618年8月 日本
推古 高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万...
618年
-
907年 中国
唐 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき...
620年 日本
推古 聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八...
621年 日本
推古 摂政であった厩戸皇子が没す。
新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
623年 日本
推古 7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智...
この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を...
11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢...
626年 日本
推古 蘇我馬子が没す。
626年 中国
唐 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群...
630年 日本
舒明 3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子...
8月、大仁犬上君三田鍬・大仁薬師恵日を大唐に遣わした。
9月、高麗・百済の客に朝廷で饗応された。そして帰国した。...
10月、天皇は飛鳥岡のほとり、岡本宮にお移りになった.
631年 日本
舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年。
632年 日本
舒明 8月、唐が高表仁を遣わし、三田耜を送った。ともに対馬...
632年 日本
舒明 10月、唐国の使人高表仁らは難波の港に泊まった。
伊岐史乙等・難波吉士八牛を遣わし、客らを館に案内した。そ...
※『旧唐書』には、倭国伝の貞観5年(631)に、唐が高表仁を...
635年 日本
舒明 6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
638年 日本
舒明 百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
640年 日本
舒明 10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝っ...
642年 日本
皇極 1月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で...
643年 日本
皇極 聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたこと...
2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金...
高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり...
3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。
5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百...
10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使と...
644年 中国
唐 唐の高句麗出兵は644年から668年まで計3次にわたって行わ...
7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で...
645年 日本
皇極 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(...
646年 日本
孝徳 1月、改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新...
647年 日本
孝徳 正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この...
648年 日本
孝徳 2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年...
649年 日本
孝徳 5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に...
650年 日本
白雉 2月、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改...
2月、朝庭の儀式に左大臣・右大臣が百官、百済君豊璋・弟塞...
四月、新羅が遣使して貢調した。【或本はいう。この天皇の世...
651年 日本
白雉 6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新...
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になって...
652年 日本
白雉 4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
653年 日本
白雉 6月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。遣唐使...
654年 日本
白雉 2月、大唐遣使は二船に分乗し、留まること数ヶ月、新羅...
10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔っ...
655年 日本
斉明 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。新羅は...
656年 日本
斉明 8月、8日、高麗が達沙らを遣わして調を進った。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。
658年 日本
斉明 越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に...
659年 日本
斉明 7月、3日、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を唐...
伊吉連博德書はいう。小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連...
660年 日本
斉明 是歳、【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。7月云々。春...
伊吉連博德書はいう。庚申年の8月に百済を平らげた後、9月...
9月、5日、百済が達率沙彌覚従らを遣わし来朝して、奏して...
10月、百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わし、来朝して...
12月、24日、天皇は難波宮に幸した。天皇は福信の乞うと...
是歳、百済のために、まさに新羅を伐とうと思い、駿河国に船...
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白村江の戦い
白村江の戦い(663年10月)倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新...
百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。
654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢...
656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠...
657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる...
男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀...
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年...
倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国...
大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは...
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっ...
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣され...
百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定...
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸...
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こう...
黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘...
この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の...
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でた...
7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に...
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻...
唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おうぶんた...
百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去...
8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅...
9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を...
こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。
熊津都督王文度も着任後に急死している。
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が...
10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城...
10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬...
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)...
倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心とし...
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、...
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した。
斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造...
この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
双方の軍事力と戦いの経過
唐・新羅連合軍
総兵力は不明であるが、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅...
当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かっ...
この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていた...
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済...
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁原、新羅王の金法敏(文武王...
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳...
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前...
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)。
戦いの経過
661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳...
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛...
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起...
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣...
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文...
海上戦
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が1...
倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船...
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、...
陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済...
白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上し...
九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻...
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡...
戦後の朝鮮半島と倭国
唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国と...
倭国
白村江の戦いでの敗戦により倭国は日本列島の領土は奪われな...
唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整...
白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい...
戦後処理
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節...
この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐...
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占...
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式...
百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭...
670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、...
天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使はその後...
捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の...
その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむら...
その後、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できた。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百...
防衛体制の整備
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智...
百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みず...
さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、...
天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承...
「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によっ...
百済遺民の四散
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の...
百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から...
史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨...
日本書紀の信憑性と疑問
古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは...
1.唐朝の外交軍事戦略の転換(畿内ヤマト王権との接近)。
2.畿内ヤマト王権の戦闘拒否(斉明天皇の死去を口実に離脱か...
3.畿内ヤマト王権は倭国へ協力派兵していない。
またこの敗戦で捕虜となったのが倭国の王、薩夜麻でありこれ...
もし畿内ヤマト王権の離叛が無く九州各地の神籠石山城に籠も...
かつて、朝鮮半島は倭国の支配領域であり(近年朝鮮半島で前...
この戦いで畿内の将軍や重臣で戦死や捕虜になった者がいない。
万葉集では一切触れられていない。
白村江の敗戦後、畿内ヤマト王権が目覚ましい発展を遂げてい...
など、倭国の滅亡に畿内ヤマト王権が深く関与した事が疑われ...
出典 Wikipediaより編集
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律令国家日本へ(日本書紀)
白村江の戦いの結末と壬申の乱➡律令日本国家へ(日本書紀)
661年 日本
斉明 正月、6日、御船は西征して、はじめて海路に就いた。1...
3月、25日、御船は還って娜の大津(博多港)に着き、磐瀬(福...
4月、百済の福信は遣使して上表し、その王子糺解を迎えるこ...
【釈道顕の日本世記はいう。百済の福信が書を献じ、その君糺...
5月、9日、天皇は朝倉の橘の広庭の宮に遷り居た。
【伊吉連博得書はいう。(中略)智興の従者東漢草直足嶋の讒言...
7月、24日、斉明天皇が崩じた。この月、蘇将軍と突厥王子...
8月、1日、皇太子は天皇の喪を磐瀬に移した。
前将軍大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花...
9月、皇太子(天智)は長津宮にいた。織冠を百済王子豊璋に授...
10月、7日、天皇の喪は海を帰途に就いた(皇太子とともに)。
23日、天皇の喪は難波に着き泊まった。 11月、7日、天皇...
【日本世紀はいう。福信がとらえた唐人續守言らが筑紫に着い...
是年、日本の高麗を救う軍将らが百済の加巴利浜に泊まって火...
662年 日本
斉明 正月、百済の佐平鬼室福信に矢10万隻・絲500斤・綿...
3月、百済王に布を三百端賜った。この月、唐人・新羅人が高...
4月、釈道顕が占って、「北国の人が将に南国につこうとして...
5月、大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが水軍170艘を率いて、...
是歳、百済を救うため、武器を修繕し、船舶を具備し、兵糧を...
663年 日本
天智 2月、新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安德などの...
3月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣譯...
6月、前将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を...
8月、新羅は百済王が良将を斬ったので、百済に入り州柔を取...
17日、新羅の将が州柔に着き、王城を取り囲んだ。大唐の軍...
27日、日本の水軍の先陣が大唐の水軍と合戦した。日本は不...
百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦い...
9月、百済の州柔城がはじめて唐に降りた。このとき国人は、...
664年 日本
天智 是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国に防人と烽を置いた。また...
2月、天皇は大皇弟に命じて、冠位の階の名を増やしたり換え...
5月、百済の鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを遣わして、表函...
10月、郭務悰らを送り出す勅を出した。鎌足は沙門智祥を使...
665年 日本
天智 2月、百済国の官位階級を勘案した。佐平福信の功で、鬼...
8月、達率答[火本]春初を遣わし、城を長門国に築いた。達...
9月、唐国が朝散大夫沂州・司馬上柱国劉德高らを遣わした。...
10月、盛大に菟道で閲兵をした。
11月、劉德高らを饗応した。
12月、劉德高らに物を賜った。
この月、劉德高らは帰途についた。
この年、小錦守君大石等を大唐に遣わした。唐の使い人を送る...
666年 日本
天智 是歳、百済人2000余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備...
正月、高麗が前部能婁らを遣わし調を進った。この日、耽羅が...
10月、高麗が臣乙相奄○○らを遣わし調を進った。
667年 日本
天智 2月、大田皇女の墓への路で、高麗・百済・新羅の使いは...
3月、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
11月、この月、倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋島城、対...
11月、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰...
668年 日本
天智 是歳、皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
4月、百済が末都師父らを遣わして調を進った。
7月、高麗が越の路を通って、遣使して調を進った。栗前王を...
9月、12日、新羅が沙○級飡金東厳らを遣わして調を進った。...
10月、大唐の大将軍英公が高麗を打ち滅ぼした。
11月、1日、新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚を賜い...
669年 日本
天智 是歳、小錦中河内直鯨らを大唐に遣使した。
また佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女700余人を、近江国...
また大唐が郭務悰ら2000余人を派遣した。
1月、蘇我赤兄臣を筑紫宰(大宰師)に任じた。
9月、新羅が沙飡督儒らを遣わして調を進った。
670年 日本
天智 是歳、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国...
671年 日本
天智 6月、百済が羿真子らを遣わして調を進った。この月、栗...
11月、10日、対馬の国司が筑紫の大宰府に遣使して、沙門...
12月、天智天皇が近江宮で崩御
672年 日本
天武 是歳、天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇...
3月、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇の崩...
12月、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣...
672年3月 日本
大海人皇子 天皇の死を中国の使者の郭務悰に伝える。郭務悰は...
672年5月 日本
大海人皇子 郭務悰に鎧兜・弓矢・その他の品を与える。高麗が...
672年6月 日本
大海人皇子 壬申の乱(別途説明)
673年 日本
天武 是歳、大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となる
676年 日本
天武 是歳、新羅が朝鮮半島を統一
678年 日本
天武 是歳、筑紫国で大地震が発生
681年 日本
天武 是歳、天武天皇が律令制定を命ずる詔が発令。律令の編纂...
686年 日本
天武 是歳、天武天皇が没す。
689年6月 日本
持統 飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆...
701年8月 日本
文武 700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成...
日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは...
大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・...
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)...
翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し...
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み...
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謎の壬申の乱
壬申の乱は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日(672年7月24日 -...
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、...
名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたることによる。
660年代後半
都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太...
671年11月23日
天智天皇10年10月17日、自身の皇子である大友皇子を太政大臣...
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し...
天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
672年1月7日
12月3日、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。
大友皇子が跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。
672年7月24日
大海人皇子は天武天皇元年6月24日に吉野を出立した。
まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。
大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得...
続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が...
そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の...
さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ...
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員すること...
672年7月31日
美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日に軍...
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員...
特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出...
しかし、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため...
それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い...
吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広...
この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走し...
やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負...
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから...
672年8月8日
村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7...
672年8月20日
7月22日に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が...
672年8月21日
翌7月23日に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。
673年2月27日
翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造っ...
近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移...
また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち...
白村江の敗戦
天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島...
このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築...
しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えること...
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・...
また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風...
これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派...
九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説も...
以上wikipediaより抜粋
終了行:
朝鮮半島概観
7Cの朝鮮半島(高句麗・百濟・新羅・倭国)
7Cの朝鮮半島概観
朝鮮の歴史における三国時代とは朝鮮半島および満州に高句麗...
中国大陸では581年、隋(581年 - 618年)は、分裂していた中...
隋の滅亡後、唐(618年 - 907年)は、7世紀の最盛期には、中...
まさに、朝鮮半島は中国を巻き込んだ大戦乱の時代になり、倭...
隋は、中国の王朝と敵対関係にあった高句麗に対して、計5回の...
唐は高句麗との闘いに重きを置き、新羅と連合(唐・新羅の同...
その後、兵力の重点を高句麗攻撃に移したため、百済旧領地が...
そのすきに残党の百濟は力を付け、たびたび新羅に攻め込んだ。
百済と交流関係にあった倭国は661年、662年に応援兵力を繰り...
この動きに対して、唐は腹をかため、一気に決着をつける方針...
大軍を繰り出して唐・新羅連合軍は663年、白村江で百済・倭国...
この後、唐は、羈縻政策を新羅にも実行し、鶏林都督府をおい...
百済旧域の熊津都督府の下部に、北九州にも筑紫都督府が設置...
その後、唐・新羅連合軍は最終的に高句麗を滅ぼすことに成功(...
・ もとより唐は、羈縻政策をもって朝鮮半島を支配する考えで...
羈縻政策を新羅にも実行したことや百濟・高句麗の戦後処理の...
唐・新羅戦争が生じ、唐の国内情勢の問題もあって、唐は力を...
新羅はその後、唐から赦されて冊封を受け朝貢国となった。
同じ頃、満州ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を...
やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配を巡って唐と対立し、...
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外...
倭国では、672年に壬申の乱が起きて天武天皇の時代に入り近畿...
701年には大宝律令を発布し、本格的な律令国家になっていく。...
7Cの高句麗概観
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は...
このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍も...
出典 Wikipedia
隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。
これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し...
高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、...
新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果...
さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、...
ここに高句麗は滅亡した。
7Cの百済概観
600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済...
武王は、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を...
しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、隋...
一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって新羅との争い...
このころは倭国に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光...
この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立さ...
この後も新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進...
660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より...
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争...
7Cの新羅概観
600年代に入ると朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済...
真平王の時代、防戦状態が続いたが、阿莫城での会戦では百済...
しかし608年には高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられて...
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは激しく戦って幾つもの...
626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況と...
真徳女王は王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとと...
金春秋の帰国とともに、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりい...
660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より...
文武王の時代には663年5月からは百済の旧将の鬼室福信らが王...
666年には唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東...
百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけでは...
新羅は却って旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明...
このために唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まって...
文武王は675年に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、そ...
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島...
神文王は先王が死去すると王位に就いた。三国統一後の唐の撤...
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【百済】と倭国
7cの【百済】と倭国
600年 百済王武王時代
最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(...
602年 百済王武王時代
新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、新羅...
607年 百済王武王時代
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅...
611年 百済王武王時代
隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ること...
618年 百済王武王時代
椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小...
621年 百済王武王時代
隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢。
624年 百済王武王時代
唐より帯方郡王・百済王に冊封される。
626年 百済王武王時代
高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。
627年 百済王武王時代
新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵...
新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王...
634年 百済王武王時代
先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を完成...
641年 百済王義慈王時代
在位:641年 - 660年
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立...
義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を...
642年 百済王義慈王時代
7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。
8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚...
この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬...
また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿...
644年から649年 百済王義慈王時代
新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であ...
651年 百済王義慈王時代
唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送...
653年 百済王義慈王時代
豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年...
655年 百済王義慈王時代
高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃...
660年 百済王義慈王時代
唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ...
660年 唐王朝
唐朝が百済を滅ぼすと、百済の故地に熊津都督府を設置
韓国歴史地図 平凡社
日本書紀(参考資料)
631年 日本書紀
舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年
642年 日本書紀
皇極天皇元年1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」...
647年 日本書紀
新羅は上臣の大阿飡の金春秋たちを派遣して、博士の小徳の高...
650年 日本書紀
孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機...
660年 日本書紀
唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたと...
百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだ...
当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)...
662年 日本書紀
662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来...
豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが...
663年 百済の滅亡後
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争...
663年 日本書紀
663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を...
豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵...
やがて唐本国から劉仁軌率いる7000名の救援部隊が到着し、8月...
664年5月17日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、朝散大夫の【郭務悰】等を遣わし、表函...
664年10月1日 日本書紀
郭務悰】を送り出す勅を出された。鎌足は沙門智祥を遣わして...
664年10月4日 日本書紀
【郭務悰】らに饗応された。
664年12月12日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。
665年9月23日 日本書紀
唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣してきた。
この一文には、施注が付いており「"等"とは右戎衛郎将上柱国...
およそ254人。7月28日対馬に着き、9月20日筑紫に着いた。23日...
665年10月23日 日本書紀
菟道で閲兵した。
665年11月13日 日本書紀
劉徳高等に饗応をされた。
665年12月14日 日本書紀
劉徳高等に物を賜った。この月、-劉徳高等は帰途についた。
667年天智11月 日本書紀
百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣し...
己巳に、司馬法聰等を罷り歸る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠...
667年11月13日 日本書紀
司馬法聰等が帰国。小山下伊吉連博徳・大乙下笠諸石をもって...
668年1月3日 日本書紀
天智天皇が即位する。 (天智7年)
669年10月16日 日本書紀
藤原内大臣(鎌足)薨去。 (天智8年)
この年、第5次遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に向う。
「大唐が【郭務悰】ら2000余人を遣わしてきた」
671年1月2日 日本書紀
大友皇子が太政大臣となった。
671年1月13日 日本書紀
百済鎮将の劉仁願が、李守真等を遣わして、上表した。
671年7月11日 日本書紀
唐人李守真等と百済の使人らは共に帰途についた。
671年10月 朝鮮半島での出来事
新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、泗沘城を陥落...
百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の...
これにて、旧百濟領に設置された熊津都督府は消滅した。
671年11月2日 日本書紀
沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐か...
彼らが申すには、唐国の使人【郭務悰】等600人、送使沙宅孫登...
そこで道久等を遣して、前もって来朝の意を伝えたし」とのこ...
671年12月3日 日本書紀
天智天皇が近江宮で崩御。
672年3月18日 日本書紀
内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を【郭務悰】等...
是に、【郭務悰】等は、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、...
672年3月18日 日本書紀
【郭務悰】等は再拝し、書函と信物を献上した。
672年5月12日 日本書紀
甲冑弓矢を【郭務悰】等に賜る。
この日、【郭務悰】等への賜物は全部で[あしぎぬ]1673...
672年6月30日 日本書紀
【郭務悰】等が帰途についた。
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【高句麗】と隋・唐
7cの【高句麗】と隋・唐
595年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より恵慈来朝。後に聖徳太子の師となったと言う。
598年 高句麗嬰陽王時代
靺鞨の人々を率いて遼西に進入し、そのために隋の文帝の怒り...
600年 高句麗嬰陽王時代
大学博士の李文真に命じて、高句麗の建国後間もなくからの古...
607年 高句麗嬰陽王時代
東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬...
610年 高句麗嬰陽王時代
(倭国)高句麗より曇徴来朝。碾磑(みずうす)を製法を伝える。
613年 高句麗嬰陽王時代
第三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)でも隋軍を退け、...
618年 高句麗栄留王時代
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王は直ちに唐...
622年 高句麗栄留王時代
隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。唐に送還された...
624年 高句麗栄留王時代
唐の暦を願い出て、唐はこれに応える形で栄留王を<上柱国・...
また、このとき高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『...
625年 高句麗栄留王時代
唐に使者を送り、仏教・道教の教法を学びたいと申し入れし、...
しかし、唐が国内の混乱を収めていったころから両国間の緊張...
630年 高句麗栄留王時代
唐は東突厥を撃破した後、唐は翌631年に栄留王に対して高句麗...
640年 高句麗栄留王時代
唐が640年に高昌国を服属させると、世子の桓権を唐に派遣し国...
642年 高句麗栄留王時代
唐が高句麗を討とうとしていることに対して、国内の体制の再...
642年 高句麗宝蔵王時代
唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な...
高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済...
668年 高句麗宝蔵王時代
第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。...
668年 高句麗宝蔵王時代
高句麗が滅亡する。新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句...
この時期、倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国...
高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈ら...
高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭...
668年 唐王朝
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に設置され、鴨...
668年 唐王朝
高句麗と百済が唐朝により滅亡すると、旧高句麗に安東都護府...
677年 高句麗滅亡後
唐が朝鮮半島の経営を放棄せざるを得なくなると、これに伴っ...
そこで唐はこれを抑えるために宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に...
ところが宝蔵王は唐の意に反して高句麗流民を糾合し、靺鞨と...
これが発覚すると681年に邛州に流され、682年頃死去したと見...
高宗は詔して宝蔵王の遺体を首都長安に送らせ、突厥の頡利可...
隋・唐の高句麗出兵
隋の高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われた。
第1次遠征
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の...
第2次遠征
612年正月、隋の煬帝は、60万の大軍で高句麗に侵攻した。高句...
第3次遠征
613年、隋の煬帝は再び高句麗に侵攻したが、隋の国内で楊玄感...
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる...
出典 最新世界史図表 第一学習社
唐の高句麗出兵は、644年から668年まで計3次にわたって行われ...
第1次侵攻(644–645年) 645年2月には太宗が親征する大規模な...
第2次侵攻(661年) 唐は戦略を長期消耗戦に転換し、小規模の...
第3次侵攻(667–668年) 665年に淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が...
淵蓋蘇文の弟・淵浄土は新羅に投降した。668年には、唐軍によ...
出典 Wikipedia
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【新羅】と唐・高句麗・百濟
7cの【新羅】と唐・高句麗・百濟
602年 新羅真平王時代
百済との阿莫城(全羅北道南原市)での会戦では百済を大敗さ...
603年 新羅真平王時代
高句麗が北漢山城(ソウル特別市)に侵入した際には、親征し...
608年 新羅真平王時代
高句麗の侵入により牛鳴山城(江原道安辺郡瑞谷面)を陥落さ...
611年 新羅真平王時代
隋から帰国した僧の円光に命じ、隋に高句麗討伐を求める上表...
614年~ 新羅真平王時代
隋の高句麗遠征が止んだ後は、百済とは椵岑城(忠清北道槐山...
624年 新羅真平王時代
唐より<柱国・楽浪郡公・新羅王>に冊封される。
625年 新羅真平王時代
高句麗の無道を訴え出た。
しかしながら唐からは高句麗との和解を勧められるばかりであ...
626年 新羅真平王時代
高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三...
629年 新羅真平王時代
高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、初陣となる副将金...
631年 新羅真平王時代
伊飡の柒宿と阿飡の石品とが反逆を起こしており、新羅国内の...
こうした不穏当な状況下、632年1月に死去した。真平王と諡さ...
635年 新羅善徳女王時代
百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際...
636年 新羅善徳女王時代
百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでい...
638年 新羅善徳女王時代
高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川...
640年 新羅善徳女王時代
王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文...
642年 新羅善徳女王時代
百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済と...
同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられ...
その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求め...
643年 新羅善徳女王時代
唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐か...
645年 新羅善徳女王時代
徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して...
647年 新羅善徳女王時代
女王自らが任命した上大等の毗曇らが女王の廃位を求めて内乱...
647年 新羅真徳女王時代
内乱鎮圧の直後、唐からは善徳女王に対する追贈と真徳女王に...
648年 新羅真徳女王時代
百済からは茂山(全羅北道茂朱郡茂豊面)・甘勿(慶尚北道金...
外交面では王族の金春秋(後の武烈王)を息子の金文王らとと...
651年 新羅真徳女王時代
官制についても唐制にならったものに切り替えていき、これま...
また礼部(儀礼教育)・調府(貢賦)など主要官庁への令(長...
654年 新羅真徳女王時代
理方府(立法)を新設した。
654年 新羅武烈王時代
先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。
即位直後に唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせ...
655年 新羅武烈王時代
高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺...
これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わ...
659年 新羅武烈王時代
百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使...
660年 新羅武烈王時代
唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍...
新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、...
同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈...
661年 新羅武烈王時代
唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、...
武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大...
661年 新羅文武王時代
661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。
唐からは直ちに高句麗討伐軍に呼応することを求められ、文武...
このときの高句麗は唐の攻撃に耐え、唐軍は食糧を受け取ると...
662年 新羅文武王時代
唐から開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封された。
663年 新羅文武王時代
百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の...
666年 新羅文武王時代
唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐は李勣を遼東道行軍大...
668年 新羅文武王時代
新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、同年9月21日に高句...
663年4月 新羅文武王時代
唐は百済の故地に熊津都督府を設置、朝鮮半島に羈縻政策を用...
新羅も鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じら...
668年9月 新羅文武王時代
唐(新羅軍も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に安東都護府が...
唐の羈縻政策が開始された。
670年8月 新羅文武王時代
唐の羈縻政策に対抗するため、高句麗の宝蔵王の庶子である安...
671年 新羅文武王時代
新羅は旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明確にし...
出典 韓国歴史地図 平凡社
673年 新羅文武王時代
百済から帰属してきたものを新羅の官制に取り込んだが、百済...
673年年 新羅文武王時代
古くからの新羅の勢力だけでは唐への対抗が難しいことに気付...
旧来の新羅の身分制度は首都金城(慶州市)を中心とする京位...
674年1月 新羅文武王時代
唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まっていた王弟の...
674年9月 新羅文武王時代
新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させ、...
675年2月 新羅文武王時代
文武王は唐に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、その...
676年11月 新羅文武王時代
その後も小規模な戦闘を繰り返し、白江河口部の伎伐浦(忠清...
唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島...
この頃 新羅文武王時代
百済・高句麗の故地を直接統治していくことについて、百済の...
678年 新羅文武王時代
高句麗の平原城跡に北原小京(江原道原州市)を置いて地方統...
680年 新羅文武王時代
加耶郡に金官小京(慶尚南道金海市)を置いて地方統治の拠点...
6世紀に既に設置されていた州・小京とともに、新羅の地方統治...
680年 新羅文武王時代
文武王の妹を安勝に降嫁させて新羅・高句麗の王家の結合を図...
新羅文武王時代の文化政策
文武王の時代には王都金城の作りが改められてもいる。
674年2月に宮城である半月城付近に月池(後に雁鴨池と呼ばれ...
王城内には四天王寺(慶州市仁旺洞狼山)を建立させたほか、...
在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王と諡された。王自...
683年10月 新羅神文王時代
高句麗の遺民を封じた傀儡政権である報徳国の安勝に対して、...
684年11月 新羅神文王時代
報徳国の置かれた金馬渚(全羅北道益山市)で安勝の一族の将...
685年 新羅神文王時代
完山州(全羅北道全州市)の再設置、居列州(慶尚南道居昌郡...
出典 Wikipedia
687年 新羅神文王時代
九州は旧高句麗・百済・新羅の領域にそれぞれ三州が置かれる...
687年4月 新羅神文王時代
父の文武王、祖父武烈王、曽祖父文興葛文王(金龍春)、高祖...
689年 新羅神文王時代
官僚に対する禄邑制をやめて租米による俸禄制を始め、官職に...
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白村江の戦い前の倭国(日本書紀)
7cの初頭から白村江の戦い前後の倭国(日本書紀)
593年 日本
推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本
推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金...
599年9月 日本
推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本
推古 新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。...
601年3月 日本
推古 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急い...
602年2月 日本
推古 来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。
10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を...
603年4月 日本
推古 2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の...
12月、冠位十二階を制定。
604年4月 日本
推古 聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を...
605年4月 日本
推古 高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三...
607年 日本
推古 小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日...
610年3月 日本
推古 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙部...
9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。
10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫...
611年8月 日本
推古 新羅は沙部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智...
615年9月 日本
推古 百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
616年7月 日本
推古 新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
618年8月 日本
推古 高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万...
618年
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907年 中国
唐 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき...
620年 日本
推古 聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八...
621年 日本
推古 摂政であった厩戸皇子が没す。
新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
623年 日本
推古 7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智...
この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を...
11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢...
626年 日本
推古 蘇我馬子が没す。
626年 中国
唐 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群...
630年 日本
舒明 3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子...
8月、大仁犬上君三田鍬・大仁薬師恵日を大唐に遣わした。
9月、高麗・百済の客に朝廷で饗応された。そして帰国した。...
10月、天皇は飛鳥岡のほとり、岡本宮にお移りになった.
631年 日本
舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年。
632年 日本
舒明 8月、唐が高表仁を遣わし、三田耜を送った。ともに対馬...
632年 日本
舒明 10月、唐国の使人高表仁らは難波の港に泊まった。
伊岐史乙等・難波吉士八牛を遣わし、客らを館に案内した。そ...
※『旧唐書』には、倭国伝の貞観5年(631)に、唐が高表仁を...
635年 日本
舒明 6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
638年 日本
舒明 百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
640年 日本
舒明 10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝っ...
642年 日本
皇極 1月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で...
643年 日本
皇極 聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたこと...
2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金...
高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり...
3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。
5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百...
10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使と...
644年 中国
唐 唐の高句麗出兵は644年から668年まで計3次にわたって行わ...
7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で...
645年 日本
皇極 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(...
646年 日本
孝徳 1月、改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新...
647年 日本
孝徳 正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この...
648年 日本
孝徳 2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年...
649年 日本
孝徳 5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に...
650年 日本
白雉 2月、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改...
2月、朝庭の儀式に左大臣・右大臣が百官、百済君豊璋・弟塞...
四月、新羅が遣使して貢調した。【或本はいう。この天皇の世...
651年 日本
白雉 6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新...
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になって...
652年 日本
白雉 4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
653年 日本
白雉 6月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。遣唐使...
654年 日本
白雉 2月、大唐遣使は二船に分乗し、留まること数ヶ月、新羅...
10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔っ...
655年 日本
斉明 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。新羅は...
656年 日本
斉明 8月、8日、高麗が達沙らを遣わして調を進った。
是歳、高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。
658年 日本
斉明 越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に...
659年 日本
斉明 7月、3日、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を唐...
伊吉連博德書はいう。小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連...
660年 日本
斉明 是歳、【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。7月云々。春...
伊吉連博德書はいう。庚申年の8月に百済を平らげた後、9月...
9月、5日、百済が達率沙彌覚従らを遣わし来朝して、奏して...
10月、百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わし、来朝して...
12月、24日、天皇は難波宮に幸した。天皇は福信の乞うと...
是歳、百済のために、まさに新羅を伐とうと思い、駿河国に船...
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白村江の戦い
白村江の戦い(663年10月)倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新...
百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。
654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢...
656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠...
657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる...
男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀...
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年...
倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国...
大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは...
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっ...
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣され...
百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定...
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸...
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こう...
黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘...
この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の...
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でた...
7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に...
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻...
唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おうぶんた...
百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去...
8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅...
9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を...
こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。
熊津都督王文度も着任後に急死している。
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が...
10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城...
10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬...
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)...
倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心とし...
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、...
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した。
斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造...
この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
双方の軍事力と戦いの経過
唐・新羅連合軍
総兵力は不明であるが、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅...
当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かっ...
この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていた...
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済...
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁原、新羅王の金法敏(文武王...
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳...
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前...
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)。
戦いの経過
661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳...
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛...
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起...
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣...
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文...
海上戦
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が1...
倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船...
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、...
陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済...
白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上し...
九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻...
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡...
戦後の朝鮮半島と倭国
唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国と...
倭国
白村江の戦いでの敗戦により倭国は日本列島の領土は奪われな...
唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整...
白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい...
戦後処理
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節...
この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐...
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占...
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式...
百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭...
670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、...
天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使はその後...
捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の...
その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむら...
その後、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できた。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百...
防衛体制の整備
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智...
百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みず...
さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、...
天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承...
「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によっ...
百済遺民の四散
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の...
百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から...
史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨...
日本書紀の信憑性と疑問
古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは...
1.唐朝の外交軍事戦略の転換(畿内ヤマト王権との接近)。
2.畿内ヤマト王権の戦闘拒否(斉明天皇の死去を口実に離脱か...
3.畿内ヤマト王権は倭国へ協力派兵していない。
またこの敗戦で捕虜となったのが倭国の王、薩夜麻でありこれ...
もし畿内ヤマト王権の離叛が無く九州各地の神籠石山城に籠も...
かつて、朝鮮半島は倭国の支配領域であり(近年朝鮮半島で前...
この戦いで畿内の将軍や重臣で戦死や捕虜になった者がいない。
万葉集では一切触れられていない。
白村江の敗戦後、畿内ヤマト王権が目覚ましい発展を遂げてい...
など、倭国の滅亡に畿内ヤマト王権が深く関与した事が疑われ...
出典 Wikipediaより編集
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律令国家日本へ(日本書紀)
白村江の戦いの結末と壬申の乱➡律令日本国家へ(日本書紀)
661年 日本
斉明 正月、6日、御船は西征して、はじめて海路に就いた。1...
3月、25日、御船は還って娜の大津(博多港)に着き、磐瀬(福...
4月、百済の福信は遣使して上表し、その王子糺解を迎えるこ...
【釈道顕の日本世記はいう。百済の福信が書を献じ、その君糺...
5月、9日、天皇は朝倉の橘の広庭の宮に遷り居た。
【伊吉連博得書はいう。(中略)智興の従者東漢草直足嶋の讒言...
7月、24日、斉明天皇が崩じた。この月、蘇将軍と突厥王子...
8月、1日、皇太子は天皇の喪を磐瀬に移した。
前将軍大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花...
9月、皇太子(天智)は長津宮にいた。織冠を百済王子豊璋に授...
10月、7日、天皇の喪は海を帰途に就いた(皇太子とともに)。
23日、天皇の喪は難波に着き泊まった。 11月、7日、天皇...
【日本世紀はいう。福信がとらえた唐人續守言らが筑紫に着い...
是年、日本の高麗を救う軍将らが百済の加巴利浜に泊まって火...
662年 日本
斉明 正月、百済の佐平鬼室福信に矢10万隻・絲500斤・綿...
3月、百済王に布を三百端賜った。この月、唐人・新羅人が高...
4月、釈道顕が占って、「北国の人が将に南国につこうとして...
5月、大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが水軍170艘を率いて、...
是歳、百済を救うため、武器を修繕し、船舶を具備し、兵糧を...
663年 日本
天智 2月、新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安德などの...
3月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣譯...
6月、前将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を...
8月、新羅は百済王が良将を斬ったので、百済に入り州柔を取...
17日、新羅の将が州柔に着き、王城を取り囲んだ。大唐の軍...
27日、日本の水軍の先陣が大唐の水軍と合戦した。日本は不...
百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦い...
9月、百済の州柔城がはじめて唐に降りた。このとき国人は、...
664年 日本
天智 是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国に防人と烽を置いた。また...
2月、天皇は大皇弟に命じて、冠位の階の名を増やしたり換え...
5月、百済の鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを遣わして、表函...
10月、郭務悰らを送り出す勅を出した。鎌足は沙門智祥を使...
665年 日本
天智 2月、百済国の官位階級を勘案した。佐平福信の功で、鬼...
8月、達率答[火本]春初を遣わし、城を長門国に築いた。達...
9月、唐国が朝散大夫沂州・司馬上柱国劉德高らを遣わした。...
10月、盛大に菟道で閲兵をした。
11月、劉德高らを饗応した。
12月、劉德高らに物を賜った。
この月、劉德高らは帰途についた。
この年、小錦守君大石等を大唐に遣わした。唐の使い人を送る...
666年 日本
天智 是歳、百済人2000余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備...
正月、高麗が前部能婁らを遣わし調を進った。この日、耽羅が...
10月、高麗が臣乙相奄○○らを遣わし調を進った。
667年 日本
天智 2月、大田皇女の墓への路で、高麗・百済・新羅の使いは...
3月、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
11月、この月、倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋島城、対...
11月、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰...
668年 日本
天智 是歳、皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
4月、百済が末都師父らを遣わして調を進った。
7月、高麗が越の路を通って、遣使して調を進った。栗前王を...
9月、12日、新羅が沙○級飡金東厳らを遣わして調を進った。...
10月、大唐の大将軍英公が高麗を打ち滅ぼした。
11月、1日、新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚を賜い...
669年 日本
天智 是歳、小錦中河内直鯨らを大唐に遣使した。
また佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女700余人を、近江国...
また大唐が郭務悰ら2000余人を派遣した。
1月、蘇我赤兄臣を筑紫宰(大宰師)に任じた。
9月、新羅が沙飡督儒らを遣わして調を進った。
670年 日本
天智 是歳、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国...
671年 日本
天智 6月、百済が羿真子らを遣わして調を進った。この月、栗...
11月、10日、対馬の国司が筑紫の大宰府に遣使して、沙門...
12月、天智天皇が近江宮で崩御
672年 日本
天武 是歳、天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇...
3月、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇の崩...
12月、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣...
672年3月 日本
大海人皇子 天皇の死を中国の使者の郭務悰に伝える。郭務悰は...
672年5月 日本
大海人皇子 郭務悰に鎧兜・弓矢・その他の品を与える。高麗が...
672年6月 日本
大海人皇子 壬申の乱(別途説明)
673年 日本
天武 是歳、大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となる
676年 日本
天武 是歳、新羅が朝鮮半島を統一
678年 日本
天武 是歳、筑紫国で大地震が発生
681年 日本
天武 是歳、天武天皇が律令制定を命ずる詔が発令。律令の編纂...
686年 日本
天武 是歳、天武天皇が没す。
689年6月 日本
持統 飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆...
701年8月 日本
文武 700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成...
日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは...
大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・...
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)...
翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し...
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み...
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謎の壬申の乱
壬申の乱は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日(672年7月24日 -...
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、...
名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたることによる。
660年代後半
都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太...
671年11月23日
天智天皇10年10月17日、自身の皇子である大友皇子を太政大臣...
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し...
天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
672年1月7日
12月3日、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。
大友皇子が跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。
672年7月24日
大海人皇子は天武天皇元年6月24日に吉野を出立した。
まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。
大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得...
続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が...
そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の...
さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ...
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員すること...
672年7月31日
美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日に軍...
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員...
特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出...
しかし、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため...
それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い...
吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広...
この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走し...
やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負...
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから...
672年8月8日
村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7...
672年8月20日
7月22日に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が...
672年8月21日
翌7月23日に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。
673年2月27日
翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造っ...
近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移...
また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち...
白村江の敗戦
天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島...
このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築...
しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えること...
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・...
また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風...
これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派...
九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説も...
以上wikipediaより抜粋
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