武田信光
をテンプレートにして作成
開始行:
***武田信光 [#h3e245dc]
生没年:1162-1248
父:武田信義
石和五郎、伊豆守、伊予守、大膳大夫、従四位下、甲斐守護、1...
室:(父:新田義重)
黒坂朝信、悪信忠、?-1265 武田信政、甲斐守 一条六郎信長...
逸見清光(武田氏)━┳━逸見光長
(源清光) ┣━女:手輿遊女
┣━武田信義━┳━一条忠頼
┣━女: ┣━男
┣━加賀美遠光┣━板垣兼信
┣━女: ┣━逸見有義
┣━安田義定 ┗━武田信光━┳━黒坂朝信
┣━平井清隆 ┣━悪信忠
┣━河内義長 ┣━武田信...
┣━田井光義 ┣━一条信...
┣━曽根厳尊 ┣━岩崎信...
┣━奈古義行 ┣━早川信...
┣━浅利義成 ┣━間淵信...
┣━八代信清 ┣━武田信...
┣━逸見義氏 ┗━武田光...
┣━逸見長義
┃(逸見長光)
┣━逸見道光
┗━逸見光賢
松前家
#html{{
武田信義の五男として応保二年(1162)生まれ。<br>
一蓮寺過去帳に、宝治二年(1248)8月19日 87歳で没...
逆算すると応保二年(1162)生まれとなる。<br>
生母は源為義の養女(源義忠の娘・・年齢的に無理があるが...
幼名は光寿丸といい、元服は叔父の加賀美遠光が加冠した。<...
八代郡石和荘を基盤とし、石和(伊澤・石禾・石沢)五郎信...
兄の武田有義失脚により、 武田姓を名乗るようになる。<br...
<b>(信光の兄達の失脚状況)</b><br>
<center>
<table border="1">
<tbody><tr>
<td><font style="font:10pt" face="MS 明朝">
<b>忠頼</b>(一条・次郎)――元暦元年(1184)鎌倉に招かれて...
<b>兼信</b>(板垣・三郎)――建久元年(1190)隠岐国に<font ...
<b>有義</b>(逸見・太郎)――正治2年(1200)梶原景時の謀反...
吾妻鑑にはすべて武田兵衛尉有義。<br>
<b>信継</b>(米倉・弥太郎)―資料無し<br><br>
<b>信光</b>(石和・五郎)――吾妻鑑では伊澤の五郎信光と武田...
有義が失踪した後は全て武田の五郎信...
</font></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
</center>
甲斐源氏が次々と失脚や排斥される中にあって、小笠原長清...
頼朝に気に入られ、甲斐の武田氏・大井氏・穴山氏等のほか...
松前氏等の大族の祖となる。<br>
そして、数々の軍功により正四位下、甲斐・安芸の守護とな...
伊豆守に叙された。伊豆は北条家の本拠地である。<br>
伊豆韮山の北条、および鎌倉の名越に住した。<br>
妻は悪源太義平の娘とも宇都宮氏の娘とも伝わる。
<br>
<table bgcolor="BLACK" border="3" width="680" cellpadding...
<tbody><tr><td valign="TOP">
<br>
<font style="font:10pt" color="WHITE" face="MS 明朝">
【尊卑分脈】による信光の系図</font><p><font style="font:1...
信義―┬忠頼(一条 ・次郎)<br>
├兼信(板垣 ・三郎)<br>
├有義(逸見→武田・太郎)<br>
├信継(米倉 ・弥太郎)<br>
├<font color="LIME">信光(石和(伊澤)→武田・五郎)...
~(尊卑分脈にはここまで) <font color="LI...
├実義(神宮寺 ・六郎) <font color="LIM...
├宗信(早川 ・七郎) <font color="LIM...
├信安(一宮 ・八郎) <font color="LIM...
└頼澄(奈胡 ・九郎) <font color="LIM...
<font color="LI...
<font color="LI...
<font color="LI...
<br>
</font></p></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
また、弓馬に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、...
と称された。<br>
頼朝亡きあとも、北条政子や北条時政・義時親子にも信頼を...
特に、「承久の乱」においては、<br>
「東山道の大将・武田五郎信光、小笠原長清・・従軍5万騎...
この功により、信光は本国・甲斐国に加え、安芸国の守護に...
そして、この流れが、「安芸武田氏」「若狭武田氏」の派生...
「吾妻鑑」の1239年(暦仁2年 改元して延應元年)1...
「武田は遁世者たり」とあり、武田入道と記されている。従...
伊豆入道光蓮と号して家督を息子・信政に譲ったものと思わ...
そして87歳で大往生した。<br><br>
菩提寺は自身が開基した伊豆国韮山の曹洞宗・金龍山信光寺...
同じく、甲斐国での菩提寺は 曹洞宗・金竜山信光寺...
<br>
</font></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
<b>「吾妻鑑」に見える信光</b><br>
<center>
<table bgcolor="ALICEBLUE" border="1" bordercolor="DARKGR...
<tbody><tr>
<td rowspan="2">1180年<br>(治承四年)</td><td width=...
</tr>
<tr>
<td>10月14日</td>
<td>鉢田の戦い<br>
信光主は景廉等を相具し先登に進み、兵法力を勵し攻め戰う<br>
(信光殿は加藤次景廉達と一緒に先へ進んで攻め戦った)
</td><td> 信光主</td>
</tr>
<tr>
<td>1181年<br>(養和元年)</td><td> 2月 4日</td><...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1184年<br>(元暦2年<br>文治元年)</t...
</tr>
<tr>
<td> 2月 7日</td><td> 一の谷の合戦。 </td>
</tr>
<tr>
<td> 6月16日</td><td> 一条忠頼、鎌倉にて頼朝に謀殺さ...
</tr>
<tr>
<td rowspan="6">1185年<br>(元暦2年<br>文治元年)</t...
<td>
源頼朝、源範頼に将士統率の要を諭す消息を送り、文中で信光...
秋山光朝を非難する。</td>
<td>いざわ殿</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月13日</td>
<td>
平家追討のために長門の国に入ったが、飢饉のため、粮が無い...
安藝の国に引き返したい。また九州を攻めようとしても船が無...
頼朝に書状を送る</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月19日</td><td> 屋島の戦い</td>
</tr><tr>
<td> 3月24日</td><td> 壇ノ浦の戦い。 <font color="BLU...
</tr>
<tr>
<td>10月24日</td><td> 南御堂(勝長寿院)供養の随兵十...
</tr>
<tr>
<td> 秋</td><td> 秋山光朝、梶原景時の讒言により、攻めら...
</tr>
<tr>
<td>1187年 <br>(文治3年)</td><td> 8月15日</td...
</tr>
<tr>
<td>1188年 <br>(文治4年)</td><td> 1月20日</td>
<td>伊豆・箱根・三島社等に参詣時の随兵として<br>
(伊澤の五郎・加々美の次郎・小山の七郎以下随兵三百騎に及...
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="5">1189年<br>(文治5年)</td><td> 4月...
</tr>
<tr>
<td> 6月 9日</td><td>御塔供養の随兵として</td><td>武...
</tr>
<tr>
<td> 7月19日</td><td>奥州の泰衡征伐の頼朝軍、鎌倉出立...
</tr>
<tr>
<td> 8月21日</td><td> 奥州・平泉陥落</td>
</tr>
<tr>
<td>10月28日</td>
<td>梶原景時が頼朝へ<br>
安藝の国の大名葉山の介宗頼、伊澤の五郎の催しに依って、奥...
勇士を卒い参向するの処、駿河の国藁科河の辺に於いて、すで...
その所より帰国しをはんぬ。仍って宗頼の所領等を収公せらる...
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td>1190年<br>(文治6年<br>建久元年)</td><td> 1月...
<td>頼朝が比企の籐四郎能員の宅に立ち寄った際の随行
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1191年<br>(建久2年)</td><td> 2月...
</tr>
<tr>
<td> 7月28日</td><td>寝殿・対屋・御厩等造畢の間、御移...
</tr>
<tr>
<td> 8月18日</td><td>信光等の馬十六匹を新厩に立て、南...
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1192年<br>(建久3年)</td><td> 7月...
</tr>
<tr>
<td>11月25日</td><td>永福寺の供養の随兵</td><td>伊澤...
</tr>
<tr>
<td rowspan="5">1193年<br> (建久4年)</td><td> 3...
<td>下野の国那須野・信濃の国三原等の狩倉を覧るための狩猟...
隔心の無い者22名の一人として随行</td><td>武田の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td> 5月 8日</td><td>富士野・藍澤の夏狩り時の随行</td...
</tr>
<tr>
<td> 5月29日</td><td> <font color="RED">曽我兄弟の仇...
</tr>
<tr>
<td> 8月16日</td><td>鶴岡八幡宮の放生会における流鏑の...
</tr>
<tr>
<td>11月28日</td><td> 安田義資、梶原景時の讒言により...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1194年<br>(建久5年)</td><td> 8月...
</tr>
<tr>
<td> 8月19日</td><td>安田義定、梶原景時の讒言により、...
</tr>
<tr>
<td>11月21日</td><td>鶴岡の三嶋別宮参詣時の小笠懸射手...
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1195年<br>(建久6年)</td><td> 3月...
</tr>
<tr>
<td> 3月12日</td><td>東大寺供養時の随兵</td><td>武田...
</tr>
<tr>
<td> 4月15日</td><td>石清水参詣時の随兵</td><td>武田...
</tr>
<tr>
<td> 5月20日</td><td>天王寺参詣の随兵</td><td>伊澤の...
</tr>
<tr>
<td>1199年<br>(建久10年<br>正治元年)</td><td> 1...
<td> <font color="RED">頼朝、落馬にて死去</font></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1200年<br>(正治2年)</td><td> 1月...
<td>
<pre><b>【有義逐電を報告】</b>
夜に入り、伊澤の五郎信光甲斐の国より参上す。
申して云く、
<font color="BLUE">武田兵衛の尉有義 景時の約諾を請け、...
その告げを聞くに依って、子細を尋ねんが為彼の館に発向す...
遮って中言有るかの間、兼ねて以て<font color="BLUE">逃げ...
室屋に於いては敢えて人無し。ただ一封の書有り。
披見するの処、景時が状なり。同意の條勿論と。
凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。
多年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。
仍って逆叛の思いを挿み、且つは奏聞を経んが為、
且つは鎮西の士を語らんが為、上洛せんと擬すの刻、日来の...
源家の旧好を重んじ、彼の武衛を以て大将軍に立てんと為す。
送る所の書札、自然旧宅に落し置くなりと。
</pre>
</td><td>伊澤の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月26日</td><td>鶴岡八幡宮参詣の随兵</td><td>武...
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1203年<br>(建仁3年)</td><td> 3月...
<td>
將軍家俄に御病惱、御夢想之告げ有るに依て<br>
駿河の国方上御厨、地頭武田の五郎信光が所務を止め、大神宮...
</tr>
<tr>
<td> 5月19日</td><td>阿野全成(頼朝の弟)謀叛の疑いに...
</tr>
<tr>
<td>1204年<br>(元久元年)</td><td> 7月18日</td>
<td>北条氏により<font color="RED">源頼家、修善寺にて暗殺<...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1213年 <br>(建暦3年<br>建保元年)</...
<td><b>【和田の乱】にて強豪・朝比奈義秀と遭遇</b>
<pre> 武田の五郎信光、若宮大路米町口に於いて義秀に行き逢...
すでに相戦わんと欲するの処、信光男悪三郎信忠その中に馳...
時に義秀信忠父に代わらんと欲するの形勢を感じ、馳せ過ぎ...
</td><td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 8月20日</td><td>将軍家、新御所に入御時の随兵</td...
</tr>
<tr>
<td> 8月26日</td><td>将軍家、将軍家廣元朝臣の第に入御...
</tr>
<tr>
<td>1214年<br>(建保2年)</td><td> 7月27日</td>
<td>大倉大慈寺(新御堂)供養時の随兵</td><td>武田の五郎信...
</tr>
<tr>
<td>1219年<br>(建保7年<br> 承久元年) </td><td> 1...
<td>拝賀の為、鶴岡八幡宮参詣時の随兵、<br>
この時、<font color="RED">将軍・実朝、公暁により殺害<...
へ<br>
走りあがり、武田信光が先頭に進む</td><td>武田の五郎信...
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1221年 <br>(承久3年)</td><td> 5...
<td>
<b>【承久の乱】の大将軍として</b><br>
東海・東山・北陸の三道より軍士惣て十九万騎<br>
東山道(従軍五万余騎)の大将軍は<br>
武田の五郎信光・小笠原の次郎長清・小山左衛門の尉朝長・結...
</tr>
<tr>
<td> 6月24日</td>
<td>
合戦(承久の乱)張本の公卿等を捕らえ、それぞれの武将に預...
・按察卿光親(武田の五郎信光これを預かる)<br>
・中納言宗行卿(小山新左衛門の尉朝長これを預かる) <br>
・入道二位兵衛の督有雅卿(小笠原の次郎長清これを預かる...
・宰相中将範茂卿(式部の丞朝時これを預かる)<br>
</td><td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 7月12日</td><td>信光が預かった按察卿を鎌倉への下...
<td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td>11月 9日</td><td>祝髪して光蓮と称す。(参考:出所...
<td> </td>
</tr>
<tr>
<td>1229年 <br>(寛喜元年)</td><td>10月6日</td>
<td>
伊豆守任官(明月記)</td><td> </td>
</tr>
<tr>
<td>1239年 <br>(暦仁2年<br> 延應元年)</td><td>12...
<td>
若君御前御行始めの間の事御沙汰を経らる。吉方を問わる。<br>
加賀民部大夫康持並びに武田入道等の名越の家、方角に叶うの...
武田は遁世者たり。然るべからざるの由仰せ出ださると。
</td><td>武田入道</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1241年<br>(仁治2年)</td><td> 1月...
<td>馬場殿にて若輩等の遠笠懸・小笠懸、宿老の類を相加え射...
宿老:武田伊豆入道光蓮・海野左衛門の尉幸氏・望月左衛...
</td>
<td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td> 3月25日</td>
<td>海野左衛門の尉幸氏と武田伊豆入道光蓮と、上野の国三原...
境の事を相論。(この結果、海野左衛門の言い分が認めら...
<td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td> 4月16日</td>
<td>武田伊豆入道光蓮去る月の御沙汰の趣を漏れ聞き、殊にこ...
<table align="center" border="1">
<tbody><tr>
<td>
これは、上記3月25日の沙汰で光蓮の言い分が認められなか...
裁定した北条泰時を恨み、光蓮が一族や朋友と語らい泰時を討...
との噂が流れたための謝罪<br>
</td>
</tr>
</tbody></table>
</td><td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td>12月27日</td>
<td>
<b>【次男信忠を義絶】</b><br>
<pre> 武田伊豆入道光蓮次男信忠(悪三郎と号す)を義絶せし...
御所並びに前の武州の御方に申し入れ先にをはんぬ。
公私に於いて大功有るの子息なり。
何の過失に就いてこの儀に及ぶやの由、前の武州頻りに宥め...
数箇條の不可に依るの上は、厳命に随い免許せしめ難きの由...
而るに今日光蓮前の武州に謁し奉るの間、信忠その便宜を伺...
申して云く、信忠父の為孝有り怠り無し。義絶の故何事ぞや。
先ず建暦年中和田左衛門の尉義盛謀叛の時、諸人防戦を以て...
遁れ、朝夷名の三郎義秀の武威に怖れ、或いは彼の発向の方...
或いは見逢うと雖も傍路に義秀に逢うを以て自らの凶と為す。
爰に光蓮は武州を尋ね奉り、若宮大路の東頬米町前を通り、...
義秀は牛渡津橋より同西頬に打ち出て、御所方を指し馳参す。
各々妻手番に相逢う。
義秀光蓮を見て、頗る鐙を合わせ進み寄る。光蓮暫くは目に...
ただ降り行くと雖も、すでに箭比に在るの間、聊か轡を西に...
時に信忠忽ち父の命に相代わらんが為、身を捨て両人の中を...
義秀太刀を取ると雖も、信忠の無二の躰を見て、直に感詞を...
闘戦に及ばず馳せ過ぎをはんぬ。
且つはこれ兼ねて信忠の武略の実を知るが故か。
次いで承久三年兵乱の時、京方の要害等に向かい、軍陣を敗...
信忠の先登に非ずと云うこと莫し。
舎弟等これに相伴うと雖も、その功を論ずるに全く信忠の労...
両度の事、共に以て亭主知ろし食さるる所なり。
然かれば父に於いては哀憐を忘れると雖も、上として爭か御...
前の武州閑かに事の始終を聞こし食され、御落涙に及ぶ。
仍って殊に御詞を加えられて曰く、申す所皆子細有るか。
泰時に優じ早く免許せらるべしてえり。
光蓮申して云く、御旨を重んじ奉るの事勿論と雖も、この一...
枉げて御免を蒙らんと欲すてえり。
次いで信忠に対して云く、
汝の申す所悉く虚言に非ず。武略に於いては誠に以て神妙な...
凡そ父の慈愛と云い子の至孝と云い、今に忘却すること能わ...
但し心操せ調窮せざりをはんぬ。
且つは親疎の思う所を憚り義絶せしむるの上は、宥めるに拠...
須く己が凶器を量るべしと。前の武州重ねての仰せ無し。
信忠泣く々々座を起つ。
観る者これを憐れむと。
</pre>
</td><td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
<table bgcolor="BLACK" border="6" width="650" cellpadding...
<tbody><tr><td valign="TOP">
<br>
<font style="font:12pt" color="WHITE" face="MS 明朝"><p>
<b>「武田五郎信光の評価」</b><br><br>
<font style="font:10.5pt" color="WHITE"></font></p><p><fo...
=========================================================...
<u><b>長坂町誌</b></u>(山梨県北巨摩郡長坂町:現・北杜市...
有義と信光は、ともに信義の子とされるが、有義は実子で、...
信光は、平治の乱に源義朝に味方して参戦したただ一人の甲...
実子で信義の猶子となった。<br>
信光は折を見て有義を倒し、武田総領職に就こうと時を待つ...
信光は有義を景時の一味として没落させ、武田総領職と甲斐...
そのため、有義の残党逸見氏は深く武田信義を恨み、以降二...
展開する・・・・。<br><br>
確かに「甲斐国志」にも以下のように記載されているが・・。<...
「信景ハ刑部三郎義清子弟の類ニテ、信光ハ其男ナラン」<br>
=========================================================...
<u><b>石和町誌</b></u>(山梨県東八代郡石和町:現・笛吹市...
信光は古来あまり好印象をもって迎えられていない。<br>
確かに信光は謀叛、失脚、暗殺などの事件に関連して登場す...
<br>
①源平盛衰記<br>
信光が娘の婿に、義仲の嫡子(義高)を望んだところ、義...
義高に宮仕えさせたいというならば考えようと言われ、こ...
義仲が平家と組んで頼朝を討とうとしていると讒言した。<...
②有義の失踪の鎌倉への通報<br>
③阿野全成(源義朝の七男、母:常盤御前・義経の兄、頼朝の...
</font></table>
}}
終了行:
***武田信光 [#h3e245dc]
生没年:1162-1248
父:武田信義
石和五郎、伊豆守、伊予守、大膳大夫、従四位下、甲斐守護、1...
室:(父:新田義重)
黒坂朝信、悪信忠、?-1265 武田信政、甲斐守 一条六郎信長...
逸見清光(武田氏)━┳━逸見光長
(源清光) ┣━女:手輿遊女
┣━武田信義━┳━一条忠頼
┣━女: ┣━男
┣━加賀美遠光┣━板垣兼信
┣━女: ┣━逸見有義
┣━安田義定 ┗━武田信光━┳━黒坂朝信
┣━平井清隆 ┣━悪信忠
┣━河内義長 ┣━武田信...
┣━田井光義 ┣━一条信...
┣━曽根厳尊 ┣━岩崎信...
┣━奈古義行 ┣━早川信...
┣━浅利義成 ┣━間淵信...
┣━八代信清 ┣━武田信...
┣━逸見義氏 ┗━武田光...
┣━逸見長義
┃(逸見長光)
┣━逸見道光
┗━逸見光賢
松前家
#html{{
武田信義の五男として応保二年(1162)生まれ。<br>
一蓮寺過去帳に、宝治二年(1248)8月19日 87歳で没...
逆算すると応保二年(1162)生まれとなる。<br>
生母は源為義の養女(源義忠の娘・・年齢的に無理があるが...
幼名は光寿丸といい、元服は叔父の加賀美遠光が加冠した。<...
八代郡石和荘を基盤とし、石和(伊澤・石禾・石沢)五郎信...
兄の武田有義失脚により、 武田姓を名乗るようになる。<br...
<b>(信光の兄達の失脚状況)</b><br>
<center>
<table border="1">
<tbody><tr>
<td><font style="font:10pt" face="MS 明朝">
<b>忠頼</b>(一条・次郎)――元暦元年(1184)鎌倉に招かれて...
<b>兼信</b>(板垣・三郎)――建久元年(1190)隠岐国に<font ...
<b>有義</b>(逸見・太郎)――正治2年(1200)梶原景時の謀反...
吾妻鑑にはすべて武田兵衛尉有義。<br>
<b>信継</b>(米倉・弥太郎)―資料無し<br><br>
<b>信光</b>(石和・五郎)――吾妻鑑では伊澤の五郎信光と武田...
有義が失踪した後は全て武田の五郎信...
</font></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
</center>
甲斐源氏が次々と失脚や排斥される中にあって、小笠原長清...
頼朝に気に入られ、甲斐の武田氏・大井氏・穴山氏等のほか...
松前氏等の大族の祖となる。<br>
そして、数々の軍功により正四位下、甲斐・安芸の守護とな...
伊豆守に叙された。伊豆は北条家の本拠地である。<br>
伊豆韮山の北条、および鎌倉の名越に住した。<br>
妻は悪源太義平の娘とも宇都宮氏の娘とも伝わる。
<br>
<table bgcolor="BLACK" border="3" width="680" cellpadding...
<tbody><tr><td valign="TOP">
<br>
<font style="font:10pt" color="WHITE" face="MS 明朝">
【尊卑分脈】による信光の系図</font><p><font style="font:1...
信義―┬忠頼(一条 ・次郎)<br>
├兼信(板垣 ・三郎)<br>
├有義(逸見→武田・太郎)<br>
├信継(米倉 ・弥太郎)<br>
├<font color="LIME">信光(石和(伊澤)→武田・五郎)...
~(尊卑分脈にはここまで) <font color="LI...
├実義(神宮寺 ・六郎) <font color="LIM...
├宗信(早川 ・七郎) <font color="LIM...
├信安(一宮 ・八郎) <font color="LIM...
└頼澄(奈胡 ・九郎) <font color="LIM...
<font color="LI...
<font color="LI...
<font color="LI...
<br>
</font></p></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
また、弓馬に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、...
と称された。<br>
頼朝亡きあとも、北条政子や北条時政・義時親子にも信頼を...
特に、「承久の乱」においては、<br>
「東山道の大将・武田五郎信光、小笠原長清・・従軍5万騎...
この功により、信光は本国・甲斐国に加え、安芸国の守護に...
そして、この流れが、「安芸武田氏」「若狭武田氏」の派生...
「吾妻鑑」の1239年(暦仁2年 改元して延應元年)1...
「武田は遁世者たり」とあり、武田入道と記されている。従...
伊豆入道光蓮と号して家督を息子・信政に譲ったものと思わ...
そして87歳で大往生した。<br><br>
菩提寺は自身が開基した伊豆国韮山の曹洞宗・金龍山信光寺...
同じく、甲斐国での菩提寺は 曹洞宗・金竜山信光寺...
<br>
</font></td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
<b>「吾妻鑑」に見える信光</b><br>
<center>
<table bgcolor="ALICEBLUE" border="1" bordercolor="DARKGR...
<tbody><tr>
<td rowspan="2">1180年<br>(治承四年)</td><td width=...
</tr>
<tr>
<td>10月14日</td>
<td>鉢田の戦い<br>
信光主は景廉等を相具し先登に進み、兵法力を勵し攻め戰う<br>
(信光殿は加藤次景廉達と一緒に先へ進んで攻め戦った)
</td><td> 信光主</td>
</tr>
<tr>
<td>1181年<br>(養和元年)</td><td> 2月 4日</td><...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1184年<br>(元暦2年<br>文治元年)</t...
</tr>
<tr>
<td> 2月 7日</td><td> 一の谷の合戦。 </td>
</tr>
<tr>
<td> 6月16日</td><td> 一条忠頼、鎌倉にて頼朝に謀殺さ...
</tr>
<tr>
<td rowspan="6">1185年<br>(元暦2年<br>文治元年)</t...
<td>
源頼朝、源範頼に将士統率の要を諭す消息を送り、文中で信光...
秋山光朝を非難する。</td>
<td>いざわ殿</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月13日</td>
<td>
平家追討のために長門の国に入ったが、飢饉のため、粮が無い...
安藝の国に引き返したい。また九州を攻めようとしても船が無...
頼朝に書状を送る</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月19日</td><td> 屋島の戦い</td>
</tr><tr>
<td> 3月24日</td><td> 壇ノ浦の戦い。 <font color="BLU...
</tr>
<tr>
<td>10月24日</td><td> 南御堂(勝長寿院)供養の随兵十...
</tr>
<tr>
<td> 秋</td><td> 秋山光朝、梶原景時の讒言により、攻めら...
</tr>
<tr>
<td>1187年 <br>(文治3年)</td><td> 8月15日</td...
</tr>
<tr>
<td>1188年 <br>(文治4年)</td><td> 1月20日</td>
<td>伊豆・箱根・三島社等に参詣時の随兵として<br>
(伊澤の五郎・加々美の次郎・小山の七郎以下随兵三百騎に及...
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="5">1189年<br>(文治5年)</td><td> 4月...
</tr>
<tr>
<td> 6月 9日</td><td>御塔供養の随兵として</td><td>武...
</tr>
<tr>
<td> 7月19日</td><td>奥州の泰衡征伐の頼朝軍、鎌倉出立...
</tr>
<tr>
<td> 8月21日</td><td> 奥州・平泉陥落</td>
</tr>
<tr>
<td>10月28日</td>
<td>梶原景時が頼朝へ<br>
安藝の国の大名葉山の介宗頼、伊澤の五郎の催しに依って、奥...
勇士を卒い参向するの処、駿河の国藁科河の辺に於いて、すで...
その所より帰国しをはんぬ。仍って宗頼の所領等を収公せらる...
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td>1190年<br>(文治6年<br>建久元年)</td><td> 1月...
<td>頼朝が比企の籐四郎能員の宅に立ち寄った際の随行
</td><td>伊澤の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1191年<br>(建久2年)</td><td> 2月...
</tr>
<tr>
<td> 7月28日</td><td>寝殿・対屋・御厩等造畢の間、御移...
</tr>
<tr>
<td> 8月18日</td><td>信光等の馬十六匹を新厩に立て、南...
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1192年<br>(建久3年)</td><td> 7月...
</tr>
<tr>
<td>11月25日</td><td>永福寺の供養の随兵</td><td>伊澤...
</tr>
<tr>
<td rowspan="5">1193年<br> (建久4年)</td><td> 3...
<td>下野の国那須野・信濃の国三原等の狩倉を覧るための狩猟...
隔心の無い者22名の一人として随行</td><td>武田の五郎</td>
</tr>
<tr>
<td> 5月 8日</td><td>富士野・藍澤の夏狩り時の随行</td...
</tr>
<tr>
<td> 5月29日</td><td> <font color="RED">曽我兄弟の仇...
</tr>
<tr>
<td> 8月16日</td><td>鶴岡八幡宮の放生会における流鏑の...
</tr>
<tr>
<td>11月28日</td><td> 安田義資、梶原景時の讒言により...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1194年<br>(建久5年)</td><td> 8月...
</tr>
<tr>
<td> 8月19日</td><td>安田義定、梶原景時の讒言により、...
</tr>
<tr>
<td>11月21日</td><td>鶴岡の三嶋別宮参詣時の小笠懸射手...
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1195年<br>(建久6年)</td><td> 3月...
</tr>
<tr>
<td> 3月12日</td><td>東大寺供養時の随兵</td><td>武田...
</tr>
<tr>
<td> 4月15日</td><td>石清水参詣時の随兵</td><td>武田...
</tr>
<tr>
<td> 5月20日</td><td>天王寺参詣の随兵</td><td>伊澤の...
</tr>
<tr>
<td>1199年<br>(建久10年<br>正治元年)</td><td> 1...
<td> <font color="RED">頼朝、落馬にて死去</font></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1200年<br>(正治2年)</td><td> 1月...
<td>
<pre><b>【有義逐電を報告】</b>
夜に入り、伊澤の五郎信光甲斐の国より参上す。
申して云く、
<font color="BLUE">武田兵衛の尉有義 景時の約諾を請け、...
その告げを聞くに依って、子細を尋ねんが為彼の館に発向す...
遮って中言有るかの間、兼ねて以て<font color="BLUE">逃げ...
室屋に於いては敢えて人無し。ただ一封の書有り。
披見するの処、景時が状なり。同意の條勿論と。
凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。
多年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。
仍って逆叛の思いを挿み、且つは奏聞を経んが為、
且つは鎮西の士を語らんが為、上洛せんと擬すの刻、日来の...
源家の旧好を重んじ、彼の武衛を以て大将軍に立てんと為す。
送る所の書札、自然旧宅に落し置くなりと。
</pre>
</td><td>伊澤の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 2月26日</td><td>鶴岡八幡宮参詣の随兵</td><td>武...
</tr>
<tr>
<td rowspan="2">1203年<br>(建仁3年)</td><td> 3月...
<td>
將軍家俄に御病惱、御夢想之告げ有るに依て<br>
駿河の国方上御厨、地頭武田の五郎信光が所務を止め、大神宮...
</tr>
<tr>
<td> 5月19日</td><td>阿野全成(頼朝の弟)謀叛の疑いに...
</tr>
<tr>
<td>1204年<br>(元久元年)</td><td> 7月18日</td>
<td>北条氏により<font color="RED">源頼家、修善寺にて暗殺<...
</tr>
<tr>
<td rowspan="3">1213年 <br>(建暦3年<br>建保元年)</...
<td><b>【和田の乱】にて強豪・朝比奈義秀と遭遇</b>
<pre> 武田の五郎信光、若宮大路米町口に於いて義秀に行き逢...
すでに相戦わんと欲するの処、信光男悪三郎信忠その中に馳...
時に義秀信忠父に代わらんと欲するの形勢を感じ、馳せ過ぎ...
</td><td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 8月20日</td><td>将軍家、新御所に入御時の随兵</td...
</tr>
<tr>
<td> 8月26日</td><td>将軍家、将軍家廣元朝臣の第に入御...
</tr>
<tr>
<td>1214年<br>(建保2年)</td><td> 7月27日</td>
<td>大倉大慈寺(新御堂)供養時の随兵</td><td>武田の五郎信...
</tr>
<tr>
<td>1219年<br>(建保7年<br> 承久元年) </td><td> 1...
<td>拝賀の為、鶴岡八幡宮参詣時の随兵、<br>
この時、<font color="RED">将軍・実朝、公暁により殺害<...
へ<br>
走りあがり、武田信光が先頭に進む</td><td>武田の五郎信...
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1221年 <br>(承久3年)</td><td> 5...
<td>
<b>【承久の乱】の大将軍として</b><br>
東海・東山・北陸の三道より軍士惣て十九万騎<br>
東山道(従軍五万余騎)の大将軍は<br>
武田の五郎信光・小笠原の次郎長清・小山左衛門の尉朝長・結...
</tr>
<tr>
<td> 6月24日</td>
<td>
合戦(承久の乱)張本の公卿等を捕らえ、それぞれの武将に預...
・按察卿光親(武田の五郎信光これを預かる)<br>
・中納言宗行卿(小山新左衛門の尉朝長これを預かる) <br>
・入道二位兵衛の督有雅卿(小笠原の次郎長清これを預かる...
・宰相中将範茂卿(式部の丞朝時これを預かる)<br>
</td><td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td> 7月12日</td><td>信光が預かった按察卿を鎌倉への下...
<td>武田の五郎信光</td>
</tr>
<tr>
<td>11月 9日</td><td>祝髪して光蓮と称す。(参考:出所...
<td> </td>
</tr>
<tr>
<td>1229年 <br>(寛喜元年)</td><td>10月6日</td>
<td>
伊豆守任官(明月記)</td><td> </td>
</tr>
<tr>
<td>1239年 <br>(暦仁2年<br> 延應元年)</td><td>12...
<td>
若君御前御行始めの間の事御沙汰を経らる。吉方を問わる。<br>
加賀民部大夫康持並びに武田入道等の名越の家、方角に叶うの...
武田は遁世者たり。然るべからざるの由仰せ出ださると。
</td><td>武田入道</td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="4">1241年<br>(仁治2年)</td><td> 1月...
<td>馬場殿にて若輩等の遠笠懸・小笠懸、宿老の類を相加え射...
宿老:武田伊豆入道光蓮・海野左衛門の尉幸氏・望月左衛...
</td>
<td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td> 3月25日</td>
<td>海野左衛門の尉幸氏と武田伊豆入道光蓮と、上野の国三原...
境の事を相論。(この結果、海野左衛門の言い分が認めら...
<td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td> 4月16日</td>
<td>武田伊豆入道光蓮去る月の御沙汰の趣を漏れ聞き、殊にこ...
<table align="center" border="1">
<tbody><tr>
<td>
これは、上記3月25日の沙汰で光蓮の言い分が認められなか...
裁定した北条泰時を恨み、光蓮が一族や朋友と語らい泰時を討...
との噂が流れたための謝罪<br>
</td>
</tr>
</tbody></table>
</td><td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
<tr>
<td>12月27日</td>
<td>
<b>【次男信忠を義絶】</b><br>
<pre> 武田伊豆入道光蓮次男信忠(悪三郎と号す)を義絶せし...
御所並びに前の武州の御方に申し入れ先にをはんぬ。
公私に於いて大功有るの子息なり。
何の過失に就いてこの儀に及ぶやの由、前の武州頻りに宥め...
数箇條の不可に依るの上は、厳命に随い免許せしめ難きの由...
而るに今日光蓮前の武州に謁し奉るの間、信忠その便宜を伺...
申して云く、信忠父の為孝有り怠り無し。義絶の故何事ぞや。
先ず建暦年中和田左衛門の尉義盛謀叛の時、諸人防戦を以て...
遁れ、朝夷名の三郎義秀の武威に怖れ、或いは彼の発向の方...
或いは見逢うと雖も傍路に義秀に逢うを以て自らの凶と為す。
爰に光蓮は武州を尋ね奉り、若宮大路の東頬米町前を通り、...
義秀は牛渡津橋より同西頬に打ち出て、御所方を指し馳参す。
各々妻手番に相逢う。
義秀光蓮を見て、頗る鐙を合わせ進み寄る。光蓮暫くは目に...
ただ降り行くと雖も、すでに箭比に在るの間、聊か轡を西に...
時に信忠忽ち父の命に相代わらんが為、身を捨て両人の中を...
義秀太刀を取ると雖も、信忠の無二の躰を見て、直に感詞を...
闘戦に及ばず馳せ過ぎをはんぬ。
且つはこれ兼ねて信忠の武略の実を知るが故か。
次いで承久三年兵乱の時、京方の要害等に向かい、軍陣を敗...
信忠の先登に非ずと云うこと莫し。
舎弟等これに相伴うと雖も、その功を論ずるに全く信忠の労...
両度の事、共に以て亭主知ろし食さるる所なり。
然かれば父に於いては哀憐を忘れると雖も、上として爭か御...
前の武州閑かに事の始終を聞こし食され、御落涙に及ぶ。
仍って殊に御詞を加えられて曰く、申す所皆子細有るか。
泰時に優じ早く免許せらるべしてえり。
光蓮申して云く、御旨を重んじ奉るの事勿論と雖も、この一...
枉げて御免を蒙らんと欲すてえり。
次いで信忠に対して云く、
汝の申す所悉く虚言に非ず。武略に於いては誠に以て神妙な...
凡そ父の慈愛と云い子の至孝と云い、今に忘却すること能わ...
但し心操せ調窮せざりをはんぬ。
且つは親疎の思う所を憚り義絶せしむるの上は、宥めるに拠...
須く己が凶器を量るべしと。前の武州重ねての仰せ無し。
信忠泣く々々座を起つ。
観る者これを憐れむと。
</pre>
</td><td>武田伊豆入道光蓮</td>
</tr>
</tbody></table>
<br>
<table bgcolor="BLACK" border="6" width="650" cellpadding...
<tbody><tr><td valign="TOP">
<br>
<font style="font:12pt" color="WHITE" face="MS 明朝"><p>
<b>「武田五郎信光の評価」</b><br><br>
<font style="font:10.5pt" color="WHITE"></font></p><p><fo...
=========================================================...
<u><b>長坂町誌</b></u>(山梨県北巨摩郡長坂町:現・北杜市...
有義と信光は、ともに信義の子とされるが、有義は実子で、...
信光は、平治の乱に源義朝に味方して参戦したただ一人の甲...
実子で信義の猶子となった。<br>
信光は折を見て有義を倒し、武田総領職に就こうと時を待つ...
信光は有義を景時の一味として没落させ、武田総領職と甲斐...
そのため、有義の残党逸見氏は深く武田信義を恨み、以降二...
展開する・・・・。<br><br>
確かに「甲斐国志」にも以下のように記載されているが・・。<...
「信景ハ刑部三郎義清子弟の類ニテ、信光ハ其男ナラン」<br>
=========================================================...
<u><b>石和町誌</b></u>(山梨県東八代郡石和町:現・笛吹市...
信光は古来あまり好印象をもって迎えられていない。<br>
確かに信光は謀叛、失脚、暗殺などの事件に関連して登場す...
<br>
①源平盛衰記<br>
信光が娘の婿に、義仲の嫡子(義高)を望んだところ、義...
義高に宮仕えさせたいというならば考えようと言われ、こ...
義仲が平家と組んで頼朝を討とうとしていると讒言した。<...
②有義の失踪の鎌倉への通報<br>
③阿野全成(源義朝の七男、母:常盤御前・義経の兄、頼朝の...
</font></table>
}}
ページ名: