清王朝
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清王朝
明の時代の中国東北部。
後に満州と呼ばれるようになるこの土地は、明の支配下とは...
明の末期。この地で勢力を持っていたのは女真族でしたが、...
ここに英雄が登場します。
建州女真族の族長ヌルハチ(1559~1626)です。
ヌルハチは、祖父ギオチャンカと父タクシの死後25歳で家を...
ハンになったヌルハチは、かつて中国(全域ではなかったも...
そして明に対して七大恨(明への恨みや不満を書き連ねたも...
その後ヌルハチは1619年、10万の明軍をサルフ(瀋陽の近く...
簡単ですがこの時期の出来事を年表にしてみました。
#html{{
<table bordercolorlight="#000000" bordercolordark="#FFFFF...
<tbody><tr>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">1583年</font></p> ...
</td>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">ヌルハチ、家督を継...
</td>
</tr>
<tr>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">1592~93年<br> ...
1597~98年</font></p>
</td>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">豊臣秀吉の朝鮮侵略...
</td>
</tr>
<tr>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">1593年</font></p> ...
</td>
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<p align="left"><font size="2">ヌルハチ、女真族を...
</td>
</tr>
<tr bgcolor="#ffffff">
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">1603年</font></p> ...
</td>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">江戸幕府が開かれる...
</td>
</tr>
<tr>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">1616年</font></p> ...
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<p align="left"><font size="2">ヌルハチ、ハンに就...
</td>
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<p align="left"><font size="2">1636年</font></p> ...
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<p align="left"><font size="2">1643年</font></p> ...
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<p align="left"><font size="2">順治帝即位。</font...
</td>
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<p align="left"><font size="2">1644年</font></p> ...
</td>
<td align="left" valign="top" bgcolor="#FFFFFF" now...
<p align="left"><font size="2">李自成が北京を占領...
</td>
</tr>
</tbody></table>
}}
豊臣秀吉の朝鮮侵略はヌルハチにとって天の助けだったかも...
■満州とする
撫順を中心に一大勢力を築いたヌルハチは軍団の改革を推し...
この軍団に所属する人は旗人と呼ばれ、田地を与えられる特...
ヌルハチは、後に満州文字と呼ばれるようになる独自の文字...
これはそれぞれの民族の、自己の文化へのこだわりでしょう...
ところでいつのころからか、時代も経緯もわかりませんが、...
女真族を統一したヌルハチは、この地域を満州(Manju)と名...
満州文字
さらには漢字による姓を作り、愛新覚羅(あいしんかくら、...
漢民族は例えば、杜甫、李白のように普通は姓名一文字づつ...
ヌルハチの奮闘によって後年の清王朝の基礎が次第に出来あ...
あえて 『中国本土』 と書きましたが、現在の中国の領域の...
満州の地、つまり中国東北部は古くからの中国の領土のよう...
■清国誕生
ヌルハチの死後、家督を継いだのは八男のホンタイジ(1592...
妙な名前です。
ホンタイジとは皇太子の意味なのです。本名はどうなってい...
1626年、ハンに即位したホンタイジは、翌年従兄のアミンに...
1635年、ホンタイジは蒙古(元)皇帝に代々継承されてきた...
これを入手した経緯はどのようなものなのか。おそらく内モ...
話をちょっと戻しますが、1627年、アミンの攻撃に敗れた朝...
1636年、ホンタイジが皇帝を称するようになると、ホンタイ...
仁祖王には仁祖王の言い分があります。
皇帝を称することができるのはあくまで 『中国(当時は明...
この仁祖王の皇帝に対する考えは、特別なものではなく、...
しかしホンタイジが自ら軍を率いて朝鮮へ侵入し、『逆らえ...
三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)とは 『中国皇帝』 に...
さらにホンタイジは以下のことを要求します。強大国の属国...
1.朝鮮国王は清の皇帝によって任命される
2.朝鮮国王は朝鮮国内で起こった事件の詳細をすべて皇...
3.朝鮮国王は清の使節をソウル城門の外まで出迎えなけ...
4.朝鮮国王の地位は清国廷臣の下とする
5.朝鮮政府には貨幣の鋳造権がない
現在韓国ではこの戦争を丁卯胡乱と名付けています。胡とは...
この清と朝鮮の関係は、明治時代になって日清戦争で日本が...
さて、ホンタイジですが、悲願の中国支配を果たせぬまま164...
このころになると明王朝はますます衰退し、各地で反乱が続...
何故なのか
皇帝が先祖(創業者)の血みどろの戦いを忘れ、太平の世を...
不思議なことに、一旦下り坂になった王朝には、名君と呼ば...
権力を握った家臣は、その権力を維持するために自分以上の...
贅沢(中国の場合、これがハンパじゃない)をするから国庫...
流民のままではメシが食えないから盗賊となる。類は類を呼...
反乱を鎮圧するのはもちろん政府軍ですが、政府軍の最下層...
もし反乱軍が政府軍に打ち勝てば、その反乱の指導者が新た...
明の末期。こうした反乱軍の指導者の一人に李自成(り・じ...
明は、北方の清が万里の長城を越えて南下する気配を見せる...
1644年、この隙に李自成は40万の兵で北京を陥落させてしま...
ここに呉三桂(ご・さんけい)という男がいます。
明の将軍で、祖国防衛のため山海関で清軍と対峙していまし...
そこへ北京陥落と皇帝の死が伝えられます。
山海関
ここは天然の要害で、その険しさから
『天下第一関』 と呼ばれた。
老龍頭(山海関)
万里の長城の最東は渤海に面し、長城を龍に例えると
海水を飲んでいるように見えるので老龍頭と呼ばれる
(どちらも中国河北省ホームページより)
おそらくほぼ同時であったでしょう。呉三桂は李自成からの...
新王朝の将軍に任命するから引き続き山海関を守り、清の侵...
呉三桂は迷います。
主君を殺した李自成の家臣になるか、昨日までの敵であった...
ついでにいうと、この呉三桂の寝返りは後世様々な論議を呼...
明の将軍のくせに、なぜ祖国を裏切って異民族に投降したの...
一説によれば呉三桂は、愛妾の陳円円という女性を北京に住...
さて、呉三桂は清軍の先鋒として李自成をあっという間に破...
この前年にホンタイジは死去し、代わりにわずか6歳の皇子が...
6歳の幼児では何もできないので、代理として政務を執ったの...
清王朝といっても当時はまだまだ弱小だったので、投降して...
もちろん呉三桂も三藩の一人で、彼の場合清軍の先鋒として...
■康煕帝
ホンタイジの後を継いだものの、順治帝は24歳の若さで亡く...
その後を継いで即位したのが3代皇帝康煕帝(こうきてい 生...
即位当時の康煕帝はまだ幼かったので、これを輔佐し実務を...
1667年、ソニンが死去すると、辣腕家のオボイの勢力が増大。
これを憂えたスクサハは 『先帝(順治帝)の墓守をして余生...
オボイはこれを機会に政敵スクサハをかたづけようと、康煕...
康煕帝はまだ幼く、このようなことは判断できずオボイのい...
しかし康煕帝の権力、清王朝の支配は全中国に及んでいたわ...
華南には三藩と呼ばれる勢力があったのです。
前記のように三藩とは明王朝の討伐に功績のあった漢人の将...
三藩はいずれも建前上は地方に駐在する軍司令官にすぎませ...
康煕帝は三藩の力を削ぐため、それぞれに軍隊を撤収するよ...
康煕帝の次のターゲットはロシアでした。
先代の順治帝のころからロシアはしばしば南下し、アムール...
次はモンゴル対策でした。
1635年以来、内モンゴルは清朝に忠誠を誓っていましたが、...
1688年、ジューン・ガル族の族長ガルダンがハルハ族を攻撃...
1696年4月、康煕帝は3個師団を編成し北京を出発。自ら37000...
ゴビ砂漠を横断し、6月にはトーラ河(現在のウランバートル...
ガルダンは、故郷のジューン・ガルは不和となった甥のツェ...
# & ♭
康煕帝の風貌は、宣教師だったフランス人のブーヴェがルイ1...
また彼は、政治・戦略に優れていただけではなく、武術、馬...
■鄭成功
ここで時間を30年ほど前に戻します。三藩の乱の20年ほど前...
明王朝最後の皇帝、崇禎帝は亡くなりましたが、これで戦い...
鄭成功(1624~1662)は中国人鄭芝龍(てい・ しりゅう)を...
父の芝龍は貿易商(といえば聞こえはいいが、実際は密貿易...
弟の次郎佐衛門は、兄の成功が明朝復興に尽力し日本に援助...
1628年、明王朝末期。
鄭芝龍は明王朝の海防都督として迎えられました。
この時鄭芝龍は日本から妻子を呼び寄せようとしましたが許...
その後各地で明朝の復興を目指す明の皇族が自立します。南...
南京から呼び戻された鄭森は唐王の軍に加わり、唐王より国...
ちなみに爺とは『お方』 とか、『様』 ということで、国姓...
森から成功に改名したのはこの時で、実際には鄭成功という...
さて優勢な清軍の前に情勢は日に日に悪くなって行き、さす...
鄭芝龍は息子の成功に、お前も明朝復活はあきらめて清に投...
やがて優勢な清軍の攻撃の前に福州は陥落し唐王は殺されま...
鄭成功の当面の目標は南京攻略でした。
1658年、10万の兵を集めた成功は、5月13日に厦門島を出発し...
6月7日には平陽、13日には瑞安、16日には温州を包囲すると...
昔から羊山沖には海龍が住んでいて、その怒りを買わぬよう...
1659年4月19日、鄭成功は長江をさかのぼって瓜州、鎮江を攻...
鎮江攻撃の時、鄭成功が編成した部隊の一部は、全身を鉄の...
この部隊がどこで編成されたか、指揮者は誰かは不明ですが...
鎮江が陥落した今、南京は指呼の間でした。
事態を重く見た清朝では皇帝の順治帝が自ら出陣するといい...
ここまで来れば南京は陥落したも同じ・・・・・そう考えた...
南京の総司令官、郎廷佐は一計をめぐらし、鄭成功に 『降伏...
さら敵将馬進宝が内応するという情報を信じ、無為に時を過...
このままでは座して死を待つばかり・・・そう考えた鄭成功...
1661年3月、25000人の兵を乗せた鄭成功率いる船団は台湾海...
奇襲攻撃だったにもかかわらずオランダ軍は良く持ちこたえ...
持久戦となりましたが、コイエット長官の要請で送られたバ...
その後鄭成功は 『抗清復明』 のスローガンの下、ルソンに...
マニラの長官は、受け取った国書(共同戦線の要請)が高圧...
しかし鄭成功は、この返書を読むことはありませんでした。
返書が届かないうちに彼は熱病にかかり、39歳の若さで急死...
オランダの降伏のわずか3ヵ月後、1662年5月8日のことでした。
鄭成功の死後、後を継いだのは長男の鄭経(ていけい)でし...
清とオランダの連合軍を破るなど、一時的には勝利を収めた...
●国姓爺合戦(近松門左衛門)のあらすじ
明の末期、明の将軍李韜天は韃靼王に内通し、明王朝は滅...
思宗皇帝と華清皇后は宮殿に乱入した敵兵に殺されたが、...
明の遺臣鄭芝龍も日本に逃れ、平戸の女性を娶り一児をも...
成功は成長すると中国に帰り、明王朝の復興を願って、韃...
鄭芝龍は妻(成功の母)と成功と3人で甘輝の守る城に出向...
しばらくして城外で待ってた鄭芝龍と成功は、川に紅が流...
これは鄭芝龍の妻が城内に入るとき、甘輝の説得に成功す...
甘輝は妻の死をムダにすまいと、明に味方することを約束。
呉三桂も皇子を奉じて挙兵する。
こうして鄭芝龍と成功は韃靼を打ち破り、逆臣李韜天を倒...
まあ、呉三桂を忠義の武将と書いたり、鄭成功の片腕ともい...
■雍正帝
雍正帝(ようせいてい 在位1723~1735)は清王朝4代皇帝で...
雍正帝の日常の政務を一つ。
雍正帝は、地方行政官からの書状を自ら目を通し、自ら返事...
雍正帝は、毎日のように送られてくる報告書(手紙)をすべ...
話は変わって、雍正帝のスパイはそこいらじゅうにいる・・...
ある年の元旦。一人の家臣が仲間数人を呼んで自宅でカルタ...
翌日その家臣は雍正帝から、お前は昨夜何をしていたか、と...
このカルタ遊びは賭け事でしたが、雍正帝は賭け事を禁止し...
すると雍正帝は笑いながら、これを無くしただろう。もう賭...
またある男が人事異動で遠い土地へ赴任することになりまし...
男がその旨を召使に伝えると、彼は、私は数年間あなたに仕...
雍正帝は思想統制の一環として文章を厳しく検閲し、自分に...
ここまでは良くあることですが、科挙の出題問題に 『維民所...
維の字に亠をつければ雍正帝の雍、止の字に一をつければ雍...
これは雍正の頭を切り落とそうとしているのだといい、さら...
話は康熙帝の時代になりますが、1642年、内乱が続いたチベ...
戦後措置として、チベットはタンラ山脈よりディチュ河にか...
ガンデンポタンとは、ダライ・ラマを長とし、1642年に成...
■乾隆帝
雍正帝の後を継いだのが乾隆帝(けんりゅうてい 生1711~...
乾隆帝は晩年、十全記というものを書きましたが、その中で...
金川(その1) 大金川(だいきんせん)は四川省の西北部...
ジューン・ガル 1754年、ジューン・ガル王国のハン継承争...
アムルサナー ジューン・ガル王国の滅亡後、クーデターを...
ウイグル ウイグルはジューン・ガル王国の支配下にあった...
ビルマ 当時のビルマはアラウンパヤー朝の全盛期で、1767...
金川(その2) 大金川は周囲の小国と争いは依然続いたが17...
台湾 1786年、台湾で秘密結社天地会の反乱が起こり、全島...
ベトナム 当時ベトナムは、レイ王朝は実権を失い南北に分...
1787年、タイソン王家は再びハノイを占領。チエウトンは清...
ネパール(その1) 1751年、チベットは清の保護下にありダ...
ネパール(その2) ウソはすぐばれてパジュンは河に身を投...
中には勝利には程遠いような遠征もありましたが、これによ...
最初の金川への遠征だけで国庫収入の2年分の経費を消耗する...
乾隆帝は、それまでの皇帝のように質素ではなく、北京の故...
また一個人としての乾隆帝は父祖に劣らぬ勤勉ぶりで好学で...
叢書とはある分野の書物を集約したもので、経・史・子・集...
1741年に集書の詔勅が発せられて以来、中国古来のあらゆる...
四庫全書は、最終的には正副合わせて8部が作られましたが、...
# & ♭
乾隆帝のエピソードです。
乾隆帝が楊州を訪れたとき、接待を仰せつかった地元の商人...
# & ♭
デパートのことを百貨店といいますね。その由来は乾隆帝に...
乾隆帝はおしのびで宮殿を出て市内を見物するのが好きだっ...
すると萬貨全という看板で商売をしている雑貨屋が目に止ま...
これを見た乾隆帝は、店のオヤジをからかってやろうと思っ...
その番頭は早速何種類かの糞叉子を持って来ましたが、乾隆...
やがて店の主人が出てきて事情を知ると、主人と番頭は乾隆...
乾隆帝が、この店の看板には萬貨全と書いてあるじゃないか...
乾隆帝は笑って、萬貨全ではなく、百貨全にしたらどうだ、...
これが百貨店という名称の語源だとか。
乾隆帝は康煕帝、雍正帝が確立した政治的、財務的財産を継...
この時代、貨幣経済が全国に行き渡ります。自給制は崩壊し...
これが後になって、中国の不幸のはじまりになるのです。
乾隆帝の晩年、たび重なる遠征や大規模な建築工事は財政を...
■アヘン戦争
アヘンは明の時代から中国に輸出されていました。最初は医...
それまでは東インド会社は清から茶は買うものの、見返りと...
中華思想上、イギリスの特産品である毛織物は清の人にとっ...
余談ですが、かつて満州族は中華思想上は蛮族でした。
その蛮族である満州族が中国を支配したため、自らが中華...
当時のイギリスは3時のティー・タイムの習慣が一般化し、茶...
アヘンの輸入量は急増しました。
1821年には4770箱でしたが1838年には23000箱(1300トン)、...
もはや、清にとって貿易などという生易しい段階ではなく、...
清の朝廷ではアヘン対策として二つの意見が出ました。
一つはこれほど広まっているのだから密輸ではなく、正規の...
そして後者に賛成した人の中に林則徐(りんそくじょ 1785...
林則徐がさらに具体的な方法を具申すると、皇帝(道光帝)...
1839年3月、林則徐は広東に到着するとアヘン商人から20283...
イギリスはアヘンを中国にもちこまないという誓書の提出を...
これに反発したアヘン商人達は帰国し、パーマストン外相に...
・・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名...
開戦反対を唱えたグランストンの演説です。
そのとおり。これほど恥知らずな戦争というものが古来あっ...
近代兵器で武装したイギリス軍の前に、清軍はあっけなく壊...
清、いや、中国の悲劇はここに始まりました。林則徐は腐敗...
アヘン戦争の敗北は、同時に中国册封体制の終焉でもありま...
册封体制とは古代より近世に至るまでの 『中国式東アジア統...
中国の最高権力者は皇帝であり、従属した周辺諸国の最高権...
1844年、アメリカとフランスは清国敗北につけこんで、イギ...
■西大后
清王朝の末期に君臨したのは皇帝ではなく、一人の女性、そ...
その時代は19世紀半ばから20世紀初めに至る約50年間。すで...
西大后(1835~1908)は満州人恵徴(けいちょう)の娘とし...
③ ② ① 人数 等級
皇
后
候
補 秀
女 宮
女
↓
↓ 常
在 不定 下級
妃嬪
答
応
貴
人 貴
人 中級
妃嬪
嬪 嬪 六人
妃 妃 妃 四人 貴級
妃嬪
貴
妃 貴
妃 貴
妃 二人
皇
貴
妃 一人
皇
后 一人
ここで中国王朝の皇后や妃嬪(側室)の制度について少々書...
宮女や秀女は宮廷内の女官ですが、格が違います。もし皇帝...
宮女は25歳までに皇帝のお手がつかなければ、実家に帰れま...
西大后は、秀女として宮廷に入って3年で貴人から嬪になった...
戴惇は咸豊帝のただ一人の皇子であり、生母の西大后の権力...
1860年9月。
天津条約に不満を持つイギリスとフランスの連合軍が北京に...
ところが翌年7月、咸豊帝は病に臥し、死期を悟った帝は上記...
私は西大后を信じていない。もしあの女にけしからぬふる...
という内容でした。
咸豊帝の死後、皇后は宮廷内の東六宮に住んだため東大后と...
このころから西大后の権勢欲は、加速度的に膨張していきま...
そのために邪魔な怡親王、鄭親王、粛順を謀殺すると政治は...
そのうち同治帝が病に倒れ、19歳の若さで亡くなってしまい...
続く皇帝は4歳の戴恬(さいてん)でした。後の光緒帝です。
戴恬の母親は西大后の妹でしたから、西大后は引き続き権力...
このころになると西大后は、東大后と恭親王が邪魔になって...
1880年3月、病床にあった西大后を見舞った東大后は、お土産...
1898年、日清戦争後の中国は列強にとって格好の餌食でした。
この国難は宮廷内に改革派(変法維新派)を誕生させます。
彼等の計画は、光緒帝を使って西大后等の保守派を追放する...
しかし西大后のスパイはこの動きをいち早くキャッチし、光...
幽閉された光緒帝には囚人より悲惨な毎日が待っていました...
1900年、義和団の変が起き、義和団がドイツ公使を殺害する...
この時光緒帝が寵愛していた珍姫(ちんき)は西大后に、逃...
9月4日、西大后の一行は西安に到着。
その後連合軍との交渉がはじまり、1901年7月にようやく調印...
西大后は、その年の11月に生まれてはじめて汽車に乗って北...
さて、1908年の春から、光緒帝はますます衰弱し、口もきけ...
10月20日、光緒帝の死が近いことを知った西大后は、次の皇...
翌21日19時、光緒帝は死去。
その数日前から西大后も体調を崩していましたが22日17時に...
偶然とはいえ、あまりに近い二つの死じは様々な憶測が生む...
西大后の臨終の言葉は、以後女をして国を当たらしむるべか...
どういう考えでこういったのでしょうか?
●略式系図
愛新覚羅一族は膨大な人数がいますので、例え半数でも系図...
清王朝は必ずしも長子相続制ではありません。ホンタイジは...
○○王の横にある( )内はその人の実際の名前です。
ホンタイジの長男の粛親王の子孫が東洋のマタハリと呼ばれ...
また緑、赤、青の字にご注目を。
清王朝では兄弟、従兄弟など世代が同じ人の名前には共通の...
これを字輩(じはい)といい、明王朝にもこの習慣がありま...
この一文字は勝手につけることはできず、永・綿・奕・載・...
さらに咸豊帝は奉・慈・娯を溥・毓・恒・啓に変更しました...
(1) 最初に書いたようにあまりにも人数が多いので永・綿...
(2) 資料によってはヌルハチを初代皇帝としているものも...
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http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/shin.htm
終了行:
清王朝
明の時代の中国東北部。
後に満州と呼ばれるようになるこの土地は、明の支配下とは...
明の末期。この地で勢力を持っていたのは女真族でしたが、...
ここに英雄が登場します。
建州女真族の族長ヌルハチ(1559~1626)です。
ヌルハチは、祖父ギオチャンカと父タクシの死後25歳で家を...
ハンになったヌルハチは、かつて中国(全域ではなかったも...
そして明に対して七大恨(明への恨みや不満を書き連ねたも...
その後ヌルハチは1619年、10万の明軍をサルフ(瀋陽の近く...
簡単ですがこの時期の出来事を年表にしてみました。
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豊臣秀吉の朝鮮侵略はヌルハチにとって天の助けだったかも...
■満州とする
撫順を中心に一大勢力を築いたヌルハチは軍団の改革を推し...
この軍団に所属する人は旗人と呼ばれ、田地を与えられる特...
ヌルハチは、後に満州文字と呼ばれるようになる独自の文字...
これはそれぞれの民族の、自己の文化へのこだわりでしょう...
ところでいつのころからか、時代も経緯もわかりませんが、...
女真族を統一したヌルハチは、この地域を満州(Manju)と名...
満州文字
さらには漢字による姓を作り、愛新覚羅(あいしんかくら、...
漢民族は例えば、杜甫、李白のように普通は姓名一文字づつ...
ヌルハチの奮闘によって後年の清王朝の基礎が次第に出来あ...
あえて 『中国本土』 と書きましたが、現在の中国の領域の...
満州の地、つまり中国東北部は古くからの中国の領土のよう...
■清国誕生
ヌルハチの死後、家督を継いだのは八男のホンタイジ(1592...
妙な名前です。
ホンタイジとは皇太子の意味なのです。本名はどうなってい...
1626年、ハンに即位したホンタイジは、翌年従兄のアミンに...
1635年、ホンタイジは蒙古(元)皇帝に代々継承されてきた...
これを入手した経緯はどのようなものなのか。おそらく内モ...
話をちょっと戻しますが、1627年、アミンの攻撃に敗れた朝...
1636年、ホンタイジが皇帝を称するようになると、ホンタイ...
仁祖王には仁祖王の言い分があります。
皇帝を称することができるのはあくまで 『中国(当時は明...
この仁祖王の皇帝に対する考えは、特別なものではなく、...
しかしホンタイジが自ら軍を率いて朝鮮へ侵入し、『逆らえ...
三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)とは 『中国皇帝』 に...
さらにホンタイジは以下のことを要求します。強大国の属国...
1.朝鮮国王は清の皇帝によって任命される
2.朝鮮国王は朝鮮国内で起こった事件の詳細をすべて皇...
3.朝鮮国王は清の使節をソウル城門の外まで出迎えなけ...
4.朝鮮国王の地位は清国廷臣の下とする
5.朝鮮政府には貨幣の鋳造権がない
現在韓国ではこの戦争を丁卯胡乱と名付けています。胡とは...
この清と朝鮮の関係は、明治時代になって日清戦争で日本が...
さて、ホンタイジですが、悲願の中国支配を果たせぬまま164...
このころになると明王朝はますます衰退し、各地で反乱が続...
何故なのか
皇帝が先祖(創業者)の血みどろの戦いを忘れ、太平の世を...
不思議なことに、一旦下り坂になった王朝には、名君と呼ば...
権力を握った家臣は、その権力を維持するために自分以上の...
贅沢(中国の場合、これがハンパじゃない)をするから国庫...
流民のままではメシが食えないから盗賊となる。類は類を呼...
反乱を鎮圧するのはもちろん政府軍ですが、政府軍の最下層...
もし反乱軍が政府軍に打ち勝てば、その反乱の指導者が新た...
明の末期。こうした反乱軍の指導者の一人に李自成(り・じ...
明は、北方の清が万里の長城を越えて南下する気配を見せる...
1644年、この隙に李自成は40万の兵で北京を陥落させてしま...
ここに呉三桂(ご・さんけい)という男がいます。
明の将軍で、祖国防衛のため山海関で清軍と対峙していまし...
そこへ北京陥落と皇帝の死が伝えられます。
山海関
ここは天然の要害で、その険しさから
『天下第一関』 と呼ばれた。
老龍頭(山海関)
万里の長城の最東は渤海に面し、長城を龍に例えると
海水を飲んでいるように見えるので老龍頭と呼ばれる
(どちらも中国河北省ホームページより)
おそらくほぼ同時であったでしょう。呉三桂は李自成からの...
新王朝の将軍に任命するから引き続き山海関を守り、清の侵...
呉三桂は迷います。
主君を殺した李自成の家臣になるか、昨日までの敵であった...
ついでにいうと、この呉三桂の寝返りは後世様々な論議を呼...
明の将軍のくせに、なぜ祖国を裏切って異民族に投降したの...
一説によれば呉三桂は、愛妾の陳円円という女性を北京に住...
さて、呉三桂は清軍の先鋒として李自成をあっという間に破...
この前年にホンタイジは死去し、代わりにわずか6歳の皇子が...
6歳の幼児では何もできないので、代理として政務を執ったの...
清王朝といっても当時はまだまだ弱小だったので、投降して...
もちろん呉三桂も三藩の一人で、彼の場合清軍の先鋒として...
■康煕帝
ホンタイジの後を継いだものの、順治帝は24歳の若さで亡く...
その後を継いで即位したのが3代皇帝康煕帝(こうきてい 生...
即位当時の康煕帝はまだ幼かったので、これを輔佐し実務を...
1667年、ソニンが死去すると、辣腕家のオボイの勢力が増大。
これを憂えたスクサハは 『先帝(順治帝)の墓守をして余生...
オボイはこれを機会に政敵スクサハをかたづけようと、康煕...
康煕帝はまだ幼く、このようなことは判断できずオボイのい...
しかし康煕帝の権力、清王朝の支配は全中国に及んでいたわ...
華南には三藩と呼ばれる勢力があったのです。
前記のように三藩とは明王朝の討伐に功績のあった漢人の将...
三藩はいずれも建前上は地方に駐在する軍司令官にすぎませ...
康煕帝は三藩の力を削ぐため、それぞれに軍隊を撤収するよ...
康煕帝の次のターゲットはロシアでした。
先代の順治帝のころからロシアはしばしば南下し、アムール...
次はモンゴル対策でした。
1635年以来、内モンゴルは清朝に忠誠を誓っていましたが、...
1688年、ジューン・ガル族の族長ガルダンがハルハ族を攻撃...
1696年4月、康煕帝は3個師団を編成し北京を出発。自ら37000...
ゴビ砂漠を横断し、6月にはトーラ河(現在のウランバートル...
ガルダンは、故郷のジューン・ガルは不和となった甥のツェ...
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康煕帝の風貌は、宣教師だったフランス人のブーヴェがルイ1...
また彼は、政治・戦略に優れていただけではなく、武術、馬...
■鄭成功
ここで時間を30年ほど前に戻します。三藩の乱の20年ほど前...
明王朝最後の皇帝、崇禎帝は亡くなりましたが、これで戦い...
鄭成功(1624~1662)は中国人鄭芝龍(てい・ しりゅう)を...
父の芝龍は貿易商(といえば聞こえはいいが、実際は密貿易...
弟の次郎佐衛門は、兄の成功が明朝復興に尽力し日本に援助...
1628年、明王朝末期。
鄭芝龍は明王朝の海防都督として迎えられました。
この時鄭芝龍は日本から妻子を呼び寄せようとしましたが許...
その後各地で明朝の復興を目指す明の皇族が自立します。南...
南京から呼び戻された鄭森は唐王の軍に加わり、唐王より国...
ちなみに爺とは『お方』 とか、『様』 ということで、国姓...
森から成功に改名したのはこの時で、実際には鄭成功という...
さて優勢な清軍の前に情勢は日に日に悪くなって行き、さす...
鄭芝龍は息子の成功に、お前も明朝復活はあきらめて清に投...
やがて優勢な清軍の攻撃の前に福州は陥落し唐王は殺されま...
鄭成功の当面の目標は南京攻略でした。
1658年、10万の兵を集めた成功は、5月13日に厦門島を出発し...
6月7日には平陽、13日には瑞安、16日には温州を包囲すると...
昔から羊山沖には海龍が住んでいて、その怒りを買わぬよう...
1659年4月19日、鄭成功は長江をさかのぼって瓜州、鎮江を攻...
鎮江攻撃の時、鄭成功が編成した部隊の一部は、全身を鉄の...
この部隊がどこで編成されたか、指揮者は誰かは不明ですが...
鎮江が陥落した今、南京は指呼の間でした。
事態を重く見た清朝では皇帝の順治帝が自ら出陣するといい...
ここまで来れば南京は陥落したも同じ・・・・・そう考えた...
南京の総司令官、郎廷佐は一計をめぐらし、鄭成功に 『降伏...
さら敵将馬進宝が内応するという情報を信じ、無為に時を過...
このままでは座して死を待つばかり・・・そう考えた鄭成功...
1661年3月、25000人の兵を乗せた鄭成功率いる船団は台湾海...
奇襲攻撃だったにもかかわらずオランダ軍は良く持ちこたえ...
持久戦となりましたが、コイエット長官の要請で送られたバ...
その後鄭成功は 『抗清復明』 のスローガンの下、ルソンに...
マニラの長官は、受け取った国書(共同戦線の要請)が高圧...
しかし鄭成功は、この返書を読むことはありませんでした。
返書が届かないうちに彼は熱病にかかり、39歳の若さで急死...
オランダの降伏のわずか3ヵ月後、1662年5月8日のことでした。
鄭成功の死後、後を継いだのは長男の鄭経(ていけい)でし...
清とオランダの連合軍を破るなど、一時的には勝利を収めた...
●国姓爺合戦(近松門左衛門)のあらすじ
明の末期、明の将軍李韜天は韃靼王に内通し、明王朝は滅...
思宗皇帝と華清皇后は宮殿に乱入した敵兵に殺されたが、...
明の遺臣鄭芝龍も日本に逃れ、平戸の女性を娶り一児をも...
成功は成長すると中国に帰り、明王朝の復興を願って、韃...
鄭芝龍は妻(成功の母)と成功と3人で甘輝の守る城に出向...
しばらくして城外で待ってた鄭芝龍と成功は、川に紅が流...
これは鄭芝龍の妻が城内に入るとき、甘輝の説得に成功す...
甘輝は妻の死をムダにすまいと、明に味方することを約束。
呉三桂も皇子を奉じて挙兵する。
こうして鄭芝龍と成功は韃靼を打ち破り、逆臣李韜天を倒...
まあ、呉三桂を忠義の武将と書いたり、鄭成功の片腕ともい...
■雍正帝
雍正帝(ようせいてい 在位1723~1735)は清王朝4代皇帝で...
雍正帝の日常の政務を一つ。
雍正帝は、地方行政官からの書状を自ら目を通し、自ら返事...
雍正帝は、毎日のように送られてくる報告書(手紙)をすべ...
話は変わって、雍正帝のスパイはそこいらじゅうにいる・・...
ある年の元旦。一人の家臣が仲間数人を呼んで自宅でカルタ...
翌日その家臣は雍正帝から、お前は昨夜何をしていたか、と...
このカルタ遊びは賭け事でしたが、雍正帝は賭け事を禁止し...
すると雍正帝は笑いながら、これを無くしただろう。もう賭...
またある男が人事異動で遠い土地へ赴任することになりまし...
男がその旨を召使に伝えると、彼は、私は数年間あなたに仕...
雍正帝は思想統制の一環として文章を厳しく検閲し、自分に...
ここまでは良くあることですが、科挙の出題問題に 『維民所...
維の字に亠をつければ雍正帝の雍、止の字に一をつければ雍...
これは雍正の頭を切り落とそうとしているのだといい、さら...
話は康熙帝の時代になりますが、1642年、内乱が続いたチベ...
戦後措置として、チベットはタンラ山脈よりディチュ河にか...
ガンデンポタンとは、ダライ・ラマを長とし、1642年に成...
■乾隆帝
雍正帝の後を継いだのが乾隆帝(けんりゅうてい 生1711~...
乾隆帝は晩年、十全記というものを書きましたが、その中で...
金川(その1) 大金川(だいきんせん)は四川省の西北部...
ジューン・ガル 1754年、ジューン・ガル王国のハン継承争...
アムルサナー ジューン・ガル王国の滅亡後、クーデターを...
ウイグル ウイグルはジューン・ガル王国の支配下にあった...
ビルマ 当時のビルマはアラウンパヤー朝の全盛期で、1767...
金川(その2) 大金川は周囲の小国と争いは依然続いたが17...
台湾 1786年、台湾で秘密結社天地会の反乱が起こり、全島...
ベトナム 当時ベトナムは、レイ王朝は実権を失い南北に分...
1787年、タイソン王家は再びハノイを占領。チエウトンは清...
ネパール(その1) 1751年、チベットは清の保護下にありダ...
ネパール(その2) ウソはすぐばれてパジュンは河に身を投...
中には勝利には程遠いような遠征もありましたが、これによ...
最初の金川への遠征だけで国庫収入の2年分の経費を消耗する...
乾隆帝は、それまでの皇帝のように質素ではなく、北京の故...
また一個人としての乾隆帝は父祖に劣らぬ勤勉ぶりで好学で...
叢書とはある分野の書物を集約したもので、経・史・子・集...
1741年に集書の詔勅が発せられて以来、中国古来のあらゆる...
四庫全書は、最終的には正副合わせて8部が作られましたが、...
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乾隆帝のエピソードです。
乾隆帝が楊州を訪れたとき、接待を仰せつかった地元の商人...
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デパートのことを百貨店といいますね。その由来は乾隆帝に...
乾隆帝はおしのびで宮殿を出て市内を見物するのが好きだっ...
すると萬貨全という看板で商売をしている雑貨屋が目に止ま...
これを見た乾隆帝は、店のオヤジをからかってやろうと思っ...
その番頭は早速何種類かの糞叉子を持って来ましたが、乾隆...
やがて店の主人が出てきて事情を知ると、主人と番頭は乾隆...
乾隆帝が、この店の看板には萬貨全と書いてあるじゃないか...
乾隆帝は笑って、萬貨全ではなく、百貨全にしたらどうだ、...
これが百貨店という名称の語源だとか。
乾隆帝は康煕帝、雍正帝が確立した政治的、財務的財産を継...
この時代、貨幣経済が全国に行き渡ります。自給制は崩壊し...
これが後になって、中国の不幸のはじまりになるのです。
乾隆帝の晩年、たび重なる遠征や大規模な建築工事は財政を...
■アヘン戦争
アヘンは明の時代から中国に輸出されていました。最初は医...
それまでは東インド会社は清から茶は買うものの、見返りと...
中華思想上、イギリスの特産品である毛織物は清の人にとっ...
余談ですが、かつて満州族は中華思想上は蛮族でした。
その蛮族である満州族が中国を支配したため、自らが中華...
当時のイギリスは3時のティー・タイムの習慣が一般化し、茶...
アヘンの輸入量は急増しました。
1821年には4770箱でしたが1838年には23000箱(1300トン)、...
もはや、清にとって貿易などという生易しい段階ではなく、...
清の朝廷ではアヘン対策として二つの意見が出ました。
一つはこれほど広まっているのだから密輸ではなく、正規の...
そして後者に賛成した人の中に林則徐(りんそくじょ 1785...
林則徐がさらに具体的な方法を具申すると、皇帝(道光帝)...
1839年3月、林則徐は広東に到着するとアヘン商人から20283...
イギリスはアヘンを中国にもちこまないという誓書の提出を...
これに反発したアヘン商人達は帰国し、パーマストン外相に...
・・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名...
開戦反対を唱えたグランストンの演説です。
そのとおり。これほど恥知らずな戦争というものが古来あっ...
近代兵器で武装したイギリス軍の前に、清軍はあっけなく壊...
清、いや、中国の悲劇はここに始まりました。林則徐は腐敗...
アヘン戦争の敗北は、同時に中国册封体制の終焉でもありま...
册封体制とは古代より近世に至るまでの 『中国式東アジア統...
中国の最高権力者は皇帝であり、従属した周辺諸国の最高権...
1844年、アメリカとフランスは清国敗北につけこんで、イギ...
■西大后
清王朝の末期に君臨したのは皇帝ではなく、一人の女性、そ...
その時代は19世紀半ばから20世紀初めに至る約50年間。すで...
西大后(1835~1908)は満州人恵徴(けいちょう)の娘とし...
③ ② ① 人数 等級
皇
后
候
補 秀
女 宮
女
↓
↓ 常
在 不定 下級
妃嬪
答
応
貴
人 貴
人 中級
妃嬪
嬪 嬪 六人
妃 妃 妃 四人 貴級
妃嬪
貴
妃 貴
妃 貴
妃 二人
皇
貴
妃 一人
皇
后 一人
ここで中国王朝の皇后や妃嬪(側室)の制度について少々書...
宮女や秀女は宮廷内の女官ですが、格が違います。もし皇帝...
宮女は25歳までに皇帝のお手がつかなければ、実家に帰れま...
西大后は、秀女として宮廷に入って3年で貴人から嬪になった...
戴惇は咸豊帝のただ一人の皇子であり、生母の西大后の権力...
1860年9月。
天津条約に不満を持つイギリスとフランスの連合軍が北京に...
ところが翌年7月、咸豊帝は病に臥し、死期を悟った帝は上記...
私は西大后を信じていない。もしあの女にけしからぬふる...
という内容でした。
咸豊帝の死後、皇后は宮廷内の東六宮に住んだため東大后と...
このころから西大后の権勢欲は、加速度的に膨張していきま...
そのために邪魔な怡親王、鄭親王、粛順を謀殺すると政治は...
そのうち同治帝が病に倒れ、19歳の若さで亡くなってしまい...
続く皇帝は4歳の戴恬(さいてん)でした。後の光緒帝です。
戴恬の母親は西大后の妹でしたから、西大后は引き続き権力...
このころになると西大后は、東大后と恭親王が邪魔になって...
1880年3月、病床にあった西大后を見舞った東大后は、お土産...
1898年、日清戦争後の中国は列強にとって格好の餌食でした。
この国難は宮廷内に改革派(変法維新派)を誕生させます。
彼等の計画は、光緒帝を使って西大后等の保守派を追放する...
しかし西大后のスパイはこの動きをいち早くキャッチし、光...
幽閉された光緒帝には囚人より悲惨な毎日が待っていました...
1900年、義和団の変が起き、義和団がドイツ公使を殺害する...
この時光緒帝が寵愛していた珍姫(ちんき)は西大后に、逃...
9月4日、西大后の一行は西安に到着。
その後連合軍との交渉がはじまり、1901年7月にようやく調印...
西大后は、その年の11月に生まれてはじめて汽車に乗って北...
さて、1908年の春から、光緒帝はますます衰弱し、口もきけ...
10月20日、光緒帝の死が近いことを知った西大后は、次の皇...
翌21日19時、光緒帝は死去。
その数日前から西大后も体調を崩していましたが22日17時に...
偶然とはいえ、あまりに近い二つの死じは様々な憶測が生む...
西大后の臨終の言葉は、以後女をして国を当たらしむるべか...
どういう考えでこういったのでしょうか?
●略式系図
愛新覚羅一族は膨大な人数がいますので、例え半数でも系図...
清王朝は必ずしも長子相続制ではありません。ホンタイジは...
○○王の横にある( )内はその人の実際の名前です。
ホンタイジの長男の粛親王の子孫が東洋のマタハリと呼ばれ...
また緑、赤、青の字にご注目を。
清王朝では兄弟、従兄弟など世代が同じ人の名前には共通の...
これを字輩(じはい)といい、明王朝にもこの習慣がありま...
この一文字は勝手につけることはできず、永・綿・奕・載・...
さらに咸豊帝は奉・慈・娯を溥・毓・恒・啓に変更しました...
(1) 最初に書いたようにあまりにも人数が多いので永・綿...
(2) 資料によってはヌルハチを初代皇帝としているものも...
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http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/shin.htm
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