磐井の乱
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開始行:
磐井の乱・・・・・527年継体天皇は任那へ進出を図る新羅...
大和朝廷は反乱を収めるため大連の物部麁鹿火を送り磐井を滅...
九州古代史・筑紫の磐井
私が昔一通り調べたことのある「筑紫の磐井」について、いろ...
《注意》とりあえず完結していますが、あとで何か付加するか...
目次
文献でみる「磐井の乱」
「磐井の乱」はどう読まれたか
「磐井の乱」の時代(五世紀)
「磐井の乱」の時代(六世紀)
磐井という「登場人物」
「磐井の乱」勃発から終結へ
ポスト「磐井の乱」の時代
結び
筑紫の磐井~文献集
筑紫の磐井~文献でみる「磐井の乱」
ここで言及している古文書は、「こちら」に別掲してあります...
「磐井の乱」について
記紀にしるされた古代史における最大の地方の反乱、それが「...
継体天皇二十一年の夏六月、九州筑紫国造磐井は豊肥二国を占...
この事態に対し、天皇は磐井討伐の詔を発します。討伐軍の大...
翌年二十二年の冬十一月、物部麁鹿火大連率いる討伐軍は、筑...
記述された「磐井の乱」
「磐井の乱」について、私たちが知りうる文献は前述の書紀を...
古事記 (継体天皇)
日本書紀 巻第十七 継体天皇紀
釈日本紀の引用による「筑後風土記」逸文
古事記における記述
古事記における「磐井の乱」は、書紀に比べて極めて簡潔に記...
興味深いのは、この「磐井の乱」が古事記に記述された最後の...
筑後風土記逸文における記述
筑後風土記自体は他の多くの風土記同様散逸してしまったため...
引用文には、筑紫君磐井の墳墓に関する記述があります。この...
また、その石人石馬が破損した由来において、「磐井の乱」に...
ついでに、直接筑紫の磐井に関係はありませんが、「筑紫君」...
日本書紀をよむにあたって
なお、書紀が磐井のことを国造としるされているのに対して、...
ここで問題となるのが、いかなる方針に基づいて書紀を文献と...
それでは、書紀を中心とした文献を注意深く使用しながら、「...
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筑紫の磐井~「磐井の乱」はどう読まれたか
ここでは、過去において「磐井の乱」がどのように読まれてた...
「民衆の反乱」という語られ方
「民衆の反乱」説について
最初に挙げるのは、「磐井の乱」とは九州の民衆が大和朝廷に...
この説においては、大和における政権によるたび重なる朝鮮出...
林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の史的分析」1952年
門脇禎二「磐井の反乱」(『世界史におけるアジア』1953年)
「民衆の反乱」説の問題点
しかし、「広開土王碑」から確認し得る限りにおいても、朝鮮...
あと、出兵負担に対する不満であれば、兵役の忌避や逃亡など...
「国土統一戦争」という語られ方
「国土統一戦争」説について
従来の研究が「大和の政権という中央権力に対する反乱」と定...
鬼頭清明「日本民族の形成と国際的契機」(『大系日本国家...
吉田晶「古代国家の形成」(『岩波講座日本歴史』2 1975年)
山尾幸久『日本国家の形成』1977年
この「語り」を可能とするのが、やはり記紀における「潤色」...
「国土統一戦争」説の問題点(記紀の潤色の有無)
記紀の潤色という「可能性」は、日本の古代史研究において極...
もし、「磐井の乱」が実は「国土統一戦争」であると仮定しま...
この「征服」の功労者が存在するとすれば、物部氏や大伴氏で...
「国土統一戦争」説の問題点(象嵌銘)
残念ながら、このような研究成果が発表された後で、整合性が...
いずれの象嵌銘も、ワカタケル大王との緊密性を言挙げするこ...
このワカタケル大王は、雄略天皇に比定して問題はありません...
これだけを見ても、磐井が九州における独立した国家の首長で...
「国土統一戦争」説の否定
ついでに言うと、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、前方後円墳...
やはり、「国土統一戦争」として「磐井の乱」を語ることは不...
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筑紫の磐井~「磐井の乱」の時代(五世紀)
今度は、「磐井の乱」の頃がいかなる時代であったのかを探っ...
五世紀の日本と朝鮮半島
書紀においては、磐井は新羅から「貨賂」を受け取ったとあり...
「三国史記」が語る「倭」の進出
古代朝鮮の歴史書である「三国史記」には、「倭」による新羅...
「三国史記」の「新羅本紀」における、各世紀毎の「倭」の侵...
一世紀以前:3件
二世紀: 2件
三世紀: 7件
四世紀: 5件
五世紀:16件
六世紀: 0件
「倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む。阿[冫+食]急利...
「倭国、使を遣わし婚を請えり。辞するに女、既に出嫁せ...
「倭王、移書して交を絶つ。(第二、訖解尼師今三十六年<3...
「倭兵、猝かに風島に至り、辺戸を抄掠す。(第二、訖解尼...
(この間に、「倭」の侵攻記事2件<364>,<393>)
「倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を以て質と為す。(...
(この間に、「倭」の侵攻記事3件<405>,<407>,<415>)
「王弟未斯欣、倭国自り逃げ還る。(第三、訥祗麻立干二年...
(このあと、「倭」の侵攻記事は<431>,<440>,<444>,<459>他)
(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 よ...
実聖尼師今元年<402>の記事のように王族を「質」と為すことは...
同じ「三国史記」の「百済本紀」においては、「倭」による侵...
太子時代の腆支が倭国の質になった記事(阿?王六年<397>他...
倭国から百済への使の記事(3件)
百済から倭国への使の記事(2件)
およそ「三国史記」の記述は、書紀の「朝貢」や「西蕃」とい...
「広開土王碑文」が語る「倭」の進出
高句麗王である広開土王の業績を示した「広開土王碑」の碑文...
「百残(百済)・新羅は、旧是れ属民にして、由来朝貢す。...
「九年己亥、百残、誓いを違えて、倭と和通す。(九年己亥...
「王、平穰に巡下す。而(すなわ)ち新羅、使を遣わして、...
「十年庚子、歩騎五万を遣わして、往きて新羅を救わ教む...
「官兵、方に至り、倭賊、退く。(同上条)」
「来背急追。任那加羅従抜城に至る。・・・倭、満ち、倭...
「十四年甲辰、而(すなわ)ち倭、不軌にも帯方界(黄海・京...
「倭寇、潰敗、斬殺するもの無数なり。(同上条)」
(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 よ...
この「広開土王碑」自体、広開土王の業績を褒め称えるのが目...
この五世紀初頭の朝鮮半島における大和政権の侵攻は、書紀で...
なお、「広開土王碑文」の内容については、「発見」した...
また、辛卯年条の「来渡海破百残□□新羅以て為臣民」につ...
大和政権の朝鮮進出はあったのか
大和政権の朝鮮進出について考えると、新羅に関しては、大和...
そして、百済に関しては、大和政権との連携が緊密であったこ...
さらに、任那(加耶諸国)はどうでしょうか。「広開土王碑文」...
五世紀の日本の政治体制
前項では、五世紀においては百済・任那と緊密かつ大和政権優...
半島南部から得られる富
「国は鉄を出し、韓・[さんずい+歳](わい)・倭、皆従いてこれ...
おそらくは、任那地域を日本が実効支配していたことは間違い...
なお、任那地域には日本の特徴的な古墳の形態である、前方後...
この項の記述は、熊谷公男氏の「日本の歴史03・大王から...
富の再分配システムとしての朝廷
ここで、大和政権によって地方支配を正当化していった「杖刀...
半島南部の覇権の見返りに、大和朝廷は任那地域から鉄を得る...
つまり、地方から見れば、鉄こそは大和政権であると。鉄とい...
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筑紫の磐井~「磐井の乱」の時代(六世紀)
更に、「磐井の乱」直前に至って時代がどのように変化したの...
六世紀における半島南部の政治状況の変化
半島南部の政治状況は、「磐井の乱」直前に至って急激に変化...
百済の滅亡と再興、南進
「三国史記」の「百済本紀」によれば、蓋鹵王二十一年<475>に...
百済の南遷は、さらに南の任那地域を当然ながら圧迫するはず...
顕宗紀三年条<487?>:紀生磐宿禰、帯山城・爾林(いずれも...
継体紀三年条<509?>:任那にいる百済の逃亡農民を百済に...
継体紀六年十二月条<512?>:百済、大和政権への調貢時に...
継体紀七年六月条<513?>:任那地域の「伴跛(はへ)国」に...
継体紀七年十一月条<513?>:大和政権が己?・帯沙を百済に...
継体紀九年四月条<515?>:大和政権の物部連某が伴跛国と...
継体紀十年五月条<516?>:百済が己?にて物部連某をねぎら...
「磐井の乱」直前には、任那地域の首長の一つである伴跛国と...
新羅による任那地域への進出
大和政権・百済・任那地域の関係が動揺する頃、任那地域の北...
[火+召]知麻立干三年三月条<481>:高句麗と靺鞨が新羅に...
[火+召]知麻立干十八年二月条<496>:加耶国から尾の長い...
法興王九年三月条<522>:加耶国王、新羅に花嫁を請い、与...
法興王十一年九月条<524>:新羅は南部国境地帯の勢力を拡...
法興王十九年条<532>:金官国王、王妃・王子とともに来降。
「磐井の乱」勃発が西暦527年と考えられますので、最後の記事...
そして、大和政権にとって新羅と加耶の接近は、「鉄」の供給...
六世紀における政治状況の変化と磐井
ここで、ようやく視点を半島南部から日本に移し、大和政権と...
「磐井の乱」の記述と政治状況
まず、書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動...
近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
半島南部からの「朝貢」船の略奪
豊肥二国の占拠
磐井による「朝貢」船略奪の意味
最も重視すべきは、磐井が半島南部からの「朝貢」船を略奪し...
大和政権からもたらされるはずの「鉄」を磐井が横取りするこ...
そして、豊肥二国の占拠の意味も私達は理解することができま...
磐井による任那派遣軍妨害の意味
磐井が近江毛野臣率いる任那派遣軍を妨害したことは、さらに...
磐井が任那派遣軍を妨害した直接の原因として、書紀は新羅が...
これは私の推測ですが、新羅が占領した任那地域の「鉄」は、...
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筑紫の磐井~磐井という「登場人物」
ここまでの説明により、「磐井の乱」というものが単なる反乱...
「筑紫君」という氏族
まず、筑紫の磐井の姓である「筑紫君」について語ります。
「筑紫君」の勢力とその範囲
筑紫の磐井の墳墓とされる岩戸山古墳は、福岡県八女市にあり...
筑紫の磐井が筑後国八女郡地域を主に支配していたことは、墳...
ちなみに、糟屋郡内の多々良川の河口付近は、昔は箱崎神宮付...
「筑紫君」による実効支配能力
「釈日本紀五~筑後の国号」が引用する「筑後風土記逸文」の...
「肥」の由来は、書紀・景行天皇紀十八年五月条の記述に従え...
筑紫君と肥君は、政治的呪術的に協力することで境界の設置を...
筑紫の磐井の人物像
筑紫君という氏族は、政治的かつ呪詛的に筑前・筑後を伝統的...
書紀がしるす筑紫の磐井の地位
「今こそ使者たれ、昔は吾が伴(ともだち)として、肩摩り...
上記は、継体紀二十一年夏六月条がしるす、近江毛野臣に対す...
異なる本拠地の首長同士が「伴(ともだち)」の関係になること...
この書記の記述は、筑紫の磐井がすでに独立した九州の「王」...
墳墓が語る筑紫の磐井像
前述の岩戸山古墳には「釈日本紀十三」の記述のとおり、「衙...
しかし、その物語の劇の舞台である「衙頭」が設置してあるの...
そのような事態を考慮すれば、この「衙頭」という舞台が示す...
「筑紫の磐井、決断す」
大和に出仕した筑紫の磐井という姿を想像するのは、実証主義...
代々筑紫君という名門の家に生まれ、首長の地位を継承する人...
天皇への出仕という経験を積み重ね、筑紫嶋に戻った磐井は筑...
しかし、時代は大和政権による地方支配システムの下り坂に差...
続発する大和政権とのトラブルに悩む筑紫の磐井は、考えます...
そんな時でしょうか、新羅からの内密の使者が筑紫に来訪した...
しかし、その決断は、新たな悲劇の始まりでもありました。
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筑紫の磐井~「磐井の乱」勃発から終結へ
ここでようやく、「磐井の乱」という事件の流れを語ることが...
「磐井の乱」の経過
筑紫の磐井の決断
書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動につい...
近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
半島南部からの「朝貢」船の略奪
豊肥二国の占拠
いずれも、大和政権による地域支配システムからの離脱を目論...
その決断と行動は、もはや後戻りはできない危険な「賭け」で...
大和政権の決断
「磐井の乱」によって、大和政権による地域支配システムに刃...
この危機を痛切に感じていたのが、当時「大連」という地位に...
この鎮圧軍の「大将軍」となったのが、金村同様に「大連」の...
なお、書紀の記述では、その次の記述が継体天皇二十二年...
決戦・筑後平野
継体紀の二十二(二十一?)年十一月条には、磐井の軍勢と大和政...
注目すべきは、この十一月の時点ですでに三井郡北部が大和政...
そして、この時点で新羅が何らかの助力をしたという記述はあ...
筑紫の磐井の最期
死闘、そして敗北
九州の軍勢は、必死で大和政権の軍と戦いました。それは、双...
しかし、歴史の記述は死闘の末の残酷な結末をしるしています...
前にも触れましたが、継体紀の二十二(二十一?)年十二月条には...
物語として語られる「筑紫の磐井」
筑紫の磐井は、死にました。しかし、筑後の住民が語る物語の...
この筑紫の磐井の伝承は、のちの源義経の逃亡の物語を髣髴さ...
あるいは、筑前・筑後の悪霊を封じ込めた呪術力を持つ筑紫君...
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筑紫の磐井~ポスト「磐井の乱」の時代
「磐井の乱」は終結しました。その後の日本がどのように変質...
北部九州以外の反乱
「磐井の乱」の原因を大和政権による地方支配システムの崩壊...
武蔵における抗争
「磐井の乱」勃発よりおよそ八年後、安閑天皇元年(西暦534年...
書紀の語りに従えば、「性阻有逆・心高無順」な小杵に殺され...
この事件解決により、使主は「武蔵国造」の地位に就くことが...
上総における「事件」
同様に、安閑天皇元年四月の書紀の記事では、房総半島の地方...
物語自体は、上総国の由来を語るユーモラスな筋立てになって...
この筋立てによる屯倉設置の記事は、「廬城部連枳[草冠+呂]喩...
屯倉設置記事が語る地方支配の変質
設置された屯倉
書紀における安閑天皇の御世の記事は、ほとんどが屯倉設置の...
継体天皇二十二年条
筑紫国:1個所<糟屋>
安閑天皇元年条
武蔵国:4個所<横渟・橘花・多氷・倉樔>
上総国:1個所<伊甚>
安芸国:1個所<廬城部>
安閑天皇二年五月条
筑紫国:2個所<穂波・鎌>
豊 国:5個所<みさき・桑原・肝等(かと)・大抜・我...
火 国:1個所<春日部>
播磨国:2個所<越部・牛鹿>
備後国:8個所<後城・多禰・来履・葉稚・河音・婀娜...
阿波国:3個所<春日部>
紀 国:2個所<経湍(ふせ)・河辺>
丹波国:1個所<蘇斯岐(そしき)>
近江国:1個所<葦浦>
尾張国:2個所<間敷・入鹿>
上毛野国:1個所<緑野>
駿河国:1個所<稚贄>
残念ながら、安閑天皇二年五月条における屯倉設置記事には、...
大和政権による全国屯倉設置の事業は、実際は何年かの期間に...
屯倉が示す支配体制の変革
安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉...
継体天皇以前における地方の支配は、筑紫の磐井のような地方...
前述の五世紀における地方支配システムの崩壊は、地方支配を...
そして九州は、半島南部は・・・
那津官家の成立
安閑天皇が二年目で崩御し、その同母弟である宣化天皇が即位...
書紀の記述における那津官家設置の目的は、非常の事態に備え...
なお、後の七世紀には九州に大宰府政庁が設置されますが、そ...
任那滅亡と百済
そして、九州の海の向こうの朝鮮半島南部においては、この時...
かつて、地方支配システムの源泉であった「鉄」等の物資を供...
百済がもたらした仏教は、日本を仏教の国へと変貌してさせて...
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筑紫の磐井~結び
結び
「磐井の乱」とは何であったのかを問うにあたり、継体~欽明...
余談ですが、稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌銘が発見される前まで...
その理由を考えれば、記紀の語りに従った限りにおいても、や...
継体~欽明天皇の時期が歴史の分岐点であるとするならば、そ...
ただ、「筑紫の磐井」そのものの記述については、語り尽くせ...
参考文献(順不同)
倉野憲司校注「古事記」岩波文庫
坂本太郎他校注「日本書紀」岩波文庫
佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫
井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫・平凡社
吉野裕訳「風土記」東洋文庫・平凡社
吉村武彦編「古代を考える~継体・欽明朝と仏教伝来」吉...
小田富士雄編「古代を考える~磐井の乱」吉川弘文館
森浩一編「日本の古代5~前方後円墳の世紀」中央公論新社
岸俊男編「日本の古代6~王権をめぐる戦い」中央公論新社
熊谷公男「日本の歴史 第03巻~大王から天皇へ」講談社
阿部猛他編「日本古代史研究事典」東京堂出版
武田幸男編「新版世界各国史~朝鮮史」山川出版社
狩野久「部民制・国造制」(「岩波講座 日本通史 第2巻...
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筑紫の磐井~文献集
ここでは、「筑紫の磐井」に関する古文書を提示します。
古事記 (岩波文庫「古事記」より)
(継体天皇)
この御世に、竺紫(ちくし)の石井(いわい)、天皇の命に従はず...
日本書紀 (岩波文庫「日本書紀」より)
巻第十七 男大迹天皇(おほどのすめらみこと) 継体天皇
二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣(あふみのけな...
秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨(あ)、大連、惟[玄+...
二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火...
十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられ...
筑後風土記逸文 (平凡社「風土記」より)
筑後の国号~「釈日本紀五」
公望が考えるところによると、筑紫の国の風土記にいう、-筑...
筑紫の磐井~「釈日本紀十三」
筑後の国の風土記にいう、-上妻の県。県の南方二里に筑紫君...
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大和朝廷は反乱を収めるため大連の物部麁鹿火を送り磐井を滅...
九州古代史・筑紫の磐井
私が昔一通り調べたことのある「筑紫の磐井」について、いろ...
《注意》とりあえず完結していますが、あとで何か付加するか...
目次
文献でみる「磐井の乱」
「磐井の乱」はどう読まれたか
「磐井の乱」の時代(五世紀)
「磐井の乱」の時代(六世紀)
磐井という「登場人物」
「磐井の乱」勃発から終結へ
ポスト「磐井の乱」の時代
結び
筑紫の磐井~文献集
筑紫の磐井~文献でみる「磐井の乱」
ここで言及している古文書は、「こちら」に別掲してあります...
「磐井の乱」について
記紀にしるされた古代史における最大の地方の反乱、それが「...
継体天皇二十一年の夏六月、九州筑紫国造磐井は豊肥二国を占...
この事態に対し、天皇は磐井討伐の詔を発します。討伐軍の大...
翌年二十二年の冬十一月、物部麁鹿火大連率いる討伐軍は、筑...
記述された「磐井の乱」
「磐井の乱」について、私たちが知りうる文献は前述の書紀を...
古事記 (継体天皇)
日本書紀 巻第十七 継体天皇紀
釈日本紀の引用による「筑後風土記」逸文
古事記における記述
古事記における「磐井の乱」は、書紀に比べて極めて簡潔に記...
興味深いのは、この「磐井の乱」が古事記に記述された最後の...
筑後風土記逸文における記述
筑後風土記自体は他の多くの風土記同様散逸してしまったため...
引用文には、筑紫君磐井の墳墓に関する記述があります。この...
また、その石人石馬が破損した由来において、「磐井の乱」に...
ついでに、直接筑紫の磐井に関係はありませんが、「筑紫君」...
日本書紀をよむにあたって
なお、書紀が磐井のことを国造としるされているのに対して、...
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ここでは、過去において「磐井の乱」がどのように読まれてた...
「民衆の反乱」という語られ方
「民衆の反乱」説について
最初に挙げるのは、「磐井の乱」とは九州の民衆が大和朝廷に...
この説においては、大和における政権によるたび重なる朝鮮出...
林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の史的分析」1952年
門脇禎二「磐井の反乱」(『世界史におけるアジア』1953年)
「民衆の反乱」説の問題点
しかし、「広開土王碑」から確認し得る限りにおいても、朝鮮...
あと、出兵負担に対する不満であれば、兵役の忌避や逃亡など...
「国土統一戦争」という語られ方
「国土統一戦争」説について
従来の研究が「大和の政権という中央権力に対する反乱」と定...
鬼頭清明「日本民族の形成と国際的契機」(『大系日本国家...
吉田晶「古代国家の形成」(『岩波講座日本歴史』2 1975年)
山尾幸久『日本国家の形成』1977年
この「語り」を可能とするのが、やはり記紀における「潤色」...
「国土統一戦争」説の問題点(記紀の潤色の有無)
記紀の潤色という「可能性」は、日本の古代史研究において極...
もし、「磐井の乱」が実は「国土統一戦争」であると仮定しま...
この「征服」の功労者が存在するとすれば、物部氏や大伴氏で...
「国土統一戦争」説の問題点(象嵌銘)
残念ながら、このような研究成果が発表された後で、整合性が...
いずれの象嵌銘も、ワカタケル大王との緊密性を言挙げするこ...
このワカタケル大王は、雄略天皇に比定して問題はありません...
これだけを見ても、磐井が九州における独立した国家の首長で...
「国土統一戦争」説の否定
ついでに言うと、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、前方後円墳...
やはり、「国土統一戦争」として「磐井の乱」を語ることは不...
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今度は、「磐井の乱」の頃がいかなる時代であったのかを探っ...
五世紀の日本と朝鮮半島
書紀においては、磐井は新羅から「貨賂」を受け取ったとあり...
「三国史記」が語る「倭」の進出
古代朝鮮の歴史書である「三国史記」には、「倭」による新羅...
「三国史記」の「新羅本紀」における、各世紀毎の「倭」の侵...
一世紀以前:3件
二世紀: 2件
三世紀: 7件
四世紀: 5件
五世紀:16件
六世紀: 0件
「倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む。阿[冫+食]急利...
「倭国、使を遣わし婚を請えり。辞するに女、既に出嫁せ...
「倭王、移書して交を絶つ。(第二、訖解尼師今三十六年<3...
「倭兵、猝かに風島に至り、辺戸を抄掠す。(第二、訖解尼...
(この間に、「倭」の侵攻記事2件<364>,<393>)
「倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を以て質と為す。(...
(この間に、「倭」の侵攻記事3件<405>,<407>,<415>)
「王弟未斯欣、倭国自り逃げ還る。(第三、訥祗麻立干二年...
(このあと、「倭」の侵攻記事は<431>,<440>,<444>,<459>他)
(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 よ...
実聖尼師今元年<402>の記事のように王族を「質」と為すことは...
同じ「三国史記」の「百済本紀」においては、「倭」による侵...
太子時代の腆支が倭国の質になった記事(阿?王六年<397>他...
倭国から百済への使の記事(3件)
百済から倭国への使の記事(2件)
およそ「三国史記」の記述は、書紀の「朝貢」や「西蕃」とい...
「広開土王碑文」が語る「倭」の進出
高句麗王である広開土王の業績を示した「広開土王碑」の碑文...
「百残(百済)・新羅は、旧是れ属民にして、由来朝貢す。...
「九年己亥、百残、誓いを違えて、倭と和通す。(九年己亥...
「王、平穰に巡下す。而(すなわ)ち新羅、使を遣わして、...
「十年庚子、歩騎五万を遣わして、往きて新羅を救わ教む...
「官兵、方に至り、倭賊、退く。(同上条)」
「来背急追。任那加羅従抜城に至る。・・・倭、満ち、倭...
「十四年甲辰、而(すなわ)ち倭、不軌にも帯方界(黄海・京...
「倭寇、潰敗、斬殺するもの無数なり。(同上条)」
(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝 他六篇」岩波文庫 よ...
この「広開土王碑」自体、広開土王の業績を褒め称えるのが目...
この五世紀初頭の朝鮮半島における大和政権の侵攻は、書紀で...
なお、「広開土王碑文」の内容については、「発見」した...
また、辛卯年条の「来渡海破百残□□新羅以て為臣民」につ...
大和政権の朝鮮進出はあったのか
大和政権の朝鮮進出について考えると、新羅に関しては、大和...
そして、百済に関しては、大和政権との連携が緊密であったこ...
さらに、任那(加耶諸国)はどうでしょうか。「広開土王碑文」...
五世紀の日本の政治体制
前項では、五世紀においては百済・任那と緊密かつ大和政権優...
半島南部から得られる富
「国は鉄を出し、韓・[さんずい+歳](わい)・倭、皆従いてこれ...
おそらくは、任那地域を日本が実効支配していたことは間違い...
なお、任那地域には日本の特徴的な古墳の形態である、前方後...
この項の記述は、熊谷公男氏の「日本の歴史03・大王から...
富の再分配システムとしての朝廷
ここで、大和政権によって地方支配を正当化していった「杖刀...
半島南部の覇権の見返りに、大和朝廷は任那地域から鉄を得る...
つまり、地方から見れば、鉄こそは大和政権であると。鉄とい...
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筑紫の磐井~「磐井の乱」の時代(六世紀)
更に、「磐井の乱」直前に至って時代がどのように変化したの...
六世紀における半島南部の政治状況の変化
半島南部の政治状況は、「磐井の乱」直前に至って急激に変化...
百済の滅亡と再興、南進
「三国史記」の「百済本紀」によれば、蓋鹵王二十一年<475>に...
百済の南遷は、さらに南の任那地域を当然ながら圧迫するはず...
顕宗紀三年条<487?>:紀生磐宿禰、帯山城・爾林(いずれも...
継体紀三年条<509?>:任那にいる百済の逃亡農民を百済に...
継体紀六年十二月条<512?>:百済、大和政権への調貢時に...
継体紀七年六月条<513?>:任那地域の「伴跛(はへ)国」に...
継体紀七年十一月条<513?>:大和政権が己?・帯沙を百済に...
継体紀九年四月条<515?>:大和政権の物部連某が伴跛国と...
継体紀十年五月条<516?>:百済が己?にて物部連某をねぎら...
「磐井の乱」直前には、任那地域の首長の一つである伴跛国と...
新羅による任那地域への進出
大和政権・百済・任那地域の関係が動揺する頃、任那地域の北...
[火+召]知麻立干三年三月条<481>:高句麗と靺鞨が新羅に...
[火+召]知麻立干十八年二月条<496>:加耶国から尾の長い...
法興王九年三月条<522>:加耶国王、新羅に花嫁を請い、与...
法興王十一年九月条<524>:新羅は南部国境地帯の勢力を拡...
法興王十九年条<532>:金官国王、王妃・王子とともに来降。
「磐井の乱」勃発が西暦527年と考えられますので、最後の記事...
そして、大和政権にとって新羅と加耶の接近は、「鉄」の供給...
六世紀における政治状況の変化と磐井
ここで、ようやく視点を半島南部から日本に移し、大和政権と...
「磐井の乱」の記述と政治状況
まず、書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動...
近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
半島南部からの「朝貢」船の略奪
豊肥二国の占拠
磐井による「朝貢」船略奪の意味
最も重視すべきは、磐井が半島南部からの「朝貢」船を略奪し...
大和政権からもたらされるはずの「鉄」を磐井が横取りするこ...
そして、豊肥二国の占拠の意味も私達は理解することができま...
磐井による任那派遣軍妨害の意味
磐井が近江毛野臣率いる任那派遣軍を妨害したことは、さらに...
磐井が任那派遣軍を妨害した直接の原因として、書紀は新羅が...
これは私の推測ですが、新羅が占領した任那地域の「鉄」は、...
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筑紫の磐井~磐井という「登場人物」
ここまでの説明により、「磐井の乱」というものが単なる反乱...
「筑紫君」という氏族
まず、筑紫の磐井の姓である「筑紫君」について語ります。
「筑紫君」の勢力とその範囲
筑紫の磐井の墳墓とされる岩戸山古墳は、福岡県八女市にあり...
筑紫の磐井が筑後国八女郡地域を主に支配していたことは、墳...
ちなみに、糟屋郡内の多々良川の河口付近は、昔は箱崎神宮付...
「筑紫君」による実効支配能力
「釈日本紀五~筑後の国号」が引用する「筑後風土記逸文」の...
「肥」の由来は、書紀・景行天皇紀十八年五月条の記述に従え...
筑紫君と肥君は、政治的呪術的に協力することで境界の設置を...
筑紫の磐井の人物像
筑紫君という氏族は、政治的かつ呪詛的に筑前・筑後を伝統的...
書紀がしるす筑紫の磐井の地位
「今こそ使者たれ、昔は吾が伴(ともだち)として、肩摩り...
上記は、継体紀二十一年夏六月条がしるす、近江毛野臣に対す...
異なる本拠地の首長同士が「伴(ともだち)」の関係になること...
この書記の記述は、筑紫の磐井がすでに独立した九州の「王」...
墳墓が語る筑紫の磐井像
前述の岩戸山古墳には「釈日本紀十三」の記述のとおり、「衙...
しかし、その物語の劇の舞台である「衙頭」が設置してあるの...
そのような事態を考慮すれば、この「衙頭」という舞台が示す...
「筑紫の磐井、決断す」
大和に出仕した筑紫の磐井という姿を想像するのは、実証主義...
代々筑紫君という名門の家に生まれ、首長の地位を継承する人...
天皇への出仕という経験を積み重ね、筑紫嶋に戻った磐井は筑...
しかし、時代は大和政権による地方支配システムの下り坂に差...
続発する大和政権とのトラブルに悩む筑紫の磐井は、考えます...
そんな時でしょうか、新羅からの内密の使者が筑紫に来訪した...
しかし、その決断は、新たな悲劇の始まりでもありました。
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筑紫の磐井~「磐井の乱」勃発から終結へ
ここでようやく、「磐井の乱」という事件の流れを語ることが...
「磐井の乱」の経過
筑紫の磐井の決断
書紀が記述した「磐井の乱」の発端となった磐井の行動につい...
近江毛野臣率いる任那派遣軍の妨害行為
半島南部からの「朝貢」船の略奪
豊肥二国の占拠
いずれも、大和政権による地域支配システムからの離脱を目論...
その決断と行動は、もはや後戻りはできない危険な「賭け」で...
大和政権の決断
「磐井の乱」によって、大和政権による地域支配システムに刃...
この危機を痛切に感じていたのが、当時「大連」という地位に...
この鎮圧軍の「大将軍」となったのが、金村同様に「大連」の...
なお、書紀の記述では、その次の記述が継体天皇二十二年...
決戦・筑後平野
継体紀の二十二(二十一?)年十一月条には、磐井の軍勢と大和政...
注目すべきは、この十一月の時点ですでに三井郡北部が大和政...
そして、この時点で新羅が何らかの助力をしたという記述はあ...
筑紫の磐井の最期
死闘、そして敗北
九州の軍勢は、必死で大和政権の軍と戦いました。それは、双...
しかし、歴史の記述は死闘の末の残酷な結末をしるしています...
前にも触れましたが、継体紀の二十二(二十一?)年十二月条には...
物語として語られる「筑紫の磐井」
筑紫の磐井は、死にました。しかし、筑後の住民が語る物語の...
この筑紫の磐井の伝承は、のちの源義経の逃亡の物語を髣髴さ...
あるいは、筑前・筑後の悪霊を封じ込めた呪術力を持つ筑紫君...
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筑紫の磐井~ポスト「磐井の乱」の時代
「磐井の乱」は終結しました。その後の日本がどのように変質...
北部九州以外の反乱
「磐井の乱」の原因を大和政権による地方支配システムの崩壊...
武蔵における抗争
「磐井の乱」勃発よりおよそ八年後、安閑天皇元年(西暦534年...
書紀の語りに従えば、「性阻有逆・心高無順」な小杵に殺され...
この事件解決により、使主は「武蔵国造」の地位に就くことが...
上総における「事件」
同様に、安閑天皇元年四月の書紀の記事では、房総半島の地方...
物語自体は、上総国の由来を語るユーモラスな筋立てになって...
この筋立てによる屯倉設置の記事は、「廬城部連枳[草冠+呂]喩...
屯倉設置記事が語る地方支配の変質
設置された屯倉
書紀における安閑天皇の御世の記事は、ほとんどが屯倉設置の...
継体天皇二十二年条
筑紫国:1個所<糟屋>
安閑天皇元年条
武蔵国:4個所<横渟・橘花・多氷・倉樔>
上総国:1個所<伊甚>
安芸国:1個所<廬城部>
安閑天皇二年五月条
筑紫国:2個所<穂波・鎌>
豊 国:5個所<みさき・桑原・肝等(かと)・大抜・我...
火 国:1個所<春日部>
播磨国:2個所<越部・牛鹿>
備後国:8個所<後城・多禰・来履・葉稚・河音・婀娜...
阿波国:3個所<春日部>
紀 国:2個所<経湍(ふせ)・河辺>
丹波国:1個所<蘇斯岐(そしき)>
近江国:1個所<葦浦>
尾張国:2個所<間敷・入鹿>
上毛野国:1個所<緑野>
駿河国:1個所<稚贄>
残念ながら、安閑天皇二年五月条における屯倉設置記事には、...
大和政権による全国屯倉設置の事業は、実際は何年かの期間に...
屯倉が示す支配体制の変革
安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉...
継体天皇以前における地方の支配は、筑紫の磐井のような地方...
前述の五世紀における地方支配システムの崩壊は、地方支配を...
そして九州は、半島南部は・・・
那津官家の成立
安閑天皇が二年目で崩御し、その同母弟である宣化天皇が即位...
書紀の記述における那津官家設置の目的は、非常の事態に備え...
なお、後の七世紀には九州に大宰府政庁が設置されますが、そ...
任那滅亡と百済
そして、九州の海の向こうの朝鮮半島南部においては、この時...
かつて、地方支配システムの源泉であった「鉄」等の物資を供...
百済がもたらした仏教は、日本を仏教の国へと変貌してさせて...
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筑紫の磐井~結び
結び
「磐井の乱」とは何であったのかを問うにあたり、継体~欽明...
余談ですが、稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌銘が発見される前まで...
その理由を考えれば、記紀の語りに従った限りにおいても、や...
継体~欽明天皇の時期が歴史の分岐点であるとするならば、そ...
ただ、「筑紫の磐井」そのものの記述については、語り尽くせ...
参考文献(順不同)
倉野憲司校注「古事記」岩波文庫
坂本太郎他校注「日本書紀」岩波文庫
佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫
井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫・平凡社
吉野裕訳「風土記」東洋文庫・平凡社
吉村武彦編「古代を考える~継体・欽明朝と仏教伝来」吉...
小田富士雄編「古代を考える~磐井の乱」吉川弘文館
森浩一編「日本の古代5~前方後円墳の世紀」中央公論新社
岸俊男編「日本の古代6~王権をめぐる戦い」中央公論新社
熊谷公男「日本の歴史 第03巻~大王から天皇へ」講談社
阿部猛他編「日本古代史研究事典」東京堂出版
武田幸男編「新版世界各国史~朝鮮史」山川出版社
狩野久「部民制・国造制」(「岩波講座 日本通史 第2巻...
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筑紫の磐井~文献集
ここでは、「筑紫の磐井」に関する古文書を提示します。
古事記 (岩波文庫「古事記」より)
(継体天皇)
この御世に、竺紫(ちくし)の石井(いわい)、天皇の命に従はず...
日本書紀 (岩波文庫「日本書紀」より)
巻第十七 男大迹天皇(おほどのすめらみこと) 継体天皇
二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣(あふみのけな...
秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨(あ)、大連、惟[玄+...
二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火...
十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられ...
筑後風土記逸文 (平凡社「風土記」より)
筑後の国号~「釈日本紀五」
公望が考えるところによると、筑紫の国の風土記にいう、-筑...
筑紫の磐井~「釈日本紀十三」
筑後の国の風土記にいう、-上妻の県。県の南方二里に筑紫君...
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http://homepage2.nifty.com/toka3aki/history/iwai.html
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