空白の4世紀のヤマト王権
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日本人の源流を探して-4
03.空白の4世紀のヤマト王権
倭国が歴史に記載されない空白の4世紀といわれる時代、中国...
五胡十六国(ごこじゅうろっこく)と
は、当時、中国華北に分立興亡した民族
・国家の総称である。
また朝鮮半島は強大な高句麗と馬韓(→
百済)、辰韓(→新羅)、弁韓(→伽耶(かや)
の時代である。
古事記・日本書紀にはこの時代、神功皇
后の業績が華々しく記述されているが史実
であるかどうかははなはだ疑わしい。
また、朝鮮側の資料として三国史記(新羅
本紀)の記載や三国遺事があるが、これら
の下敷きとなった「旧三国史」など原本が
詳しくはhttp://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/newpage11.htm
現存しないこと、そもそも執筆が12世紀のことであり、4世紀の...
そうなると考古学的知見で歴史の隙間を埋めざるを得ない。
空白の4世紀を明らかにする遺物の数々
先に「邪馬台王権」は台与の死後衰え、「ヤ
マト王権」の時代に移ったのではないかと
したが、それを証明する遺物が釜山金海地
区の遺跡から出土した。
2~3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡か
ら出土した倭系の遺物は小型仿製鏡や中広
形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作さ
れたとみられるものが少なくない。
ところが同じ金海の大成洞遺跡や釜山東
の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の
墳墓群からは倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品、筒...
のヤマトを中心に分布しているものが出土した。
韓国の考古学者シン・キョンチョル(申敬澈)は指摘している。
3~4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北
九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果だと。これ
は邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を伊都国王が握ってい
たと考えられ、それがヤマト王権の時代となって外交・交易権
も畿内に移ったと考えられることに合致する。
玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島がある。ここには宗像大社の...
このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「...
更に重要なことは半島の金海や釜山、慶州や馬山で4世紀~5...
この項のテキストとしている熊谷公男(専門 日本古代史)「日...
これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろ...
半島ルート掌握の目的
ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく...
3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に
「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこ...
倭人は弥生時代から鉄の原料を半島の資源に依存してき
たことが判る。
この情況は古墳時代にあっても基本的に変わらなかった
に違いない。古墳から鉄ていと呼ばれる短冊形の鉄素材が
出土する。成分分析から金海・釜山地域からの搬入品であ
る可能性が高い。右の写真の鉄ていはそれぞれ別の古墳か
ら出土したものであるが、重さや形に一定の規格が認めら ...
れるので、貨幣に代わるような機能を果たしていた可能性もあ...
考古学の都出比呂志は---倭王権がこのような半島からの鉄素...
半島の動乱とヤマト王権の成長
このページの1番上の地図を参照いただきたい。半島ルートを...
一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の文物の供給先とし...
奈良県石上神宮に銘文の入った七枝刀という国宝が...
その銘文の大意は「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を...
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王...
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」
というようなことである。
要するに七枝刀を倭王に贈ったということは、百済が倭王の...
認めていたわけであり、倭国と百済の間にそういう緊密な国交...
たということであろう。
そしてそれが軍事同盟にまで発展していたことは、やがて百...
請を受けてその宿敵高句麗と倭が直接戦火を交えることになる...
証明される。
それを伝えるのが広開土王碑(好太王碑とも言う)で資料の乏...
紀、半島での倭の動向を記した貴重な資料である。
この碑には「倭」は強国として現れる。そして本質的にはそ...
ち破った高句麗国の広開土王の武勲は素晴らしいものである、...
碑である。だから多少、誇張もあるであろうことは想像に難く...
し根も葉もない虚構と見てしまうことはもちろん出来ない。
簡単にその内容を拾うと
391年 倭が百残(百済の蔑称)、新羅を「臣民」とした。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って...
まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづか...
いて倭に壊滅的打撃を与えた。
この碑文を裏側から読むと、ヤマト王権が力をつけ百済や新羅...
これは中国が五胡十六国時代の混乱期にあり、ヤマト王権と...
さらに直接的な利益としては、軍事援助の見返りとして従来...
この時期、4世紀末葉、大王の墓がもっとも大型化する古墳時...
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http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html
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03.空白の4世紀のヤマト王権
倭国が歴史に記載されない空白の4世紀といわれる時代、中国...
五胡十六国(ごこじゅうろっこく)と
は、当時、中国華北に分立興亡した民族
・国家の総称である。
また朝鮮半島は強大な高句麗と馬韓(→
百済)、辰韓(→新羅)、弁韓(→伽耶(かや)
の時代である。
古事記・日本書紀にはこの時代、神功皇
后の業績が華々しく記述されているが史実
であるかどうかははなはだ疑わしい。
また、朝鮮側の資料として三国史記(新羅
本紀)の記載や三国遺事があるが、これら
の下敷きとなった「旧三国史」など原本が
詳しくはhttp://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/newpage11.htm
現存しないこと、そもそも執筆が12世紀のことであり、4世紀の...
そうなると考古学的知見で歴史の隙間を埋めざるを得ない。
空白の4世紀を明らかにする遺物の数々
先に「邪馬台王権」は台与の死後衰え、「ヤ
マト王権」の時代に移ったのではないかと
したが、それを証明する遺物が釜山金海地
区の遺跡から出土した。
2~3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡か
ら出土した倭系の遺物は小型仿製鏡や中広
形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作さ
れたとみられるものが少なくない。
ところが同じ金海の大成洞遺跡や釜山東
の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の
墳墓群からは倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品、筒...
のヤマトを中心に分布しているものが出土した。
韓国の考古学者シン・キョンチョル(申敬澈)は指摘している。
3~4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北
九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果だと。これ
は邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を伊都国王が握ってい
たと考えられ、それがヤマト王権の時代となって外交・交易権
も畿内に移ったと考えられることに合致する。
玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島がある。ここには宗像大社の...
このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「...
更に重要なことは半島の金海や釜山、慶州や馬山で4世紀~5...
この項のテキストとしている熊谷公男(専門 日本古代史)「日...
これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろ...
半島ルート掌握の目的
ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく...
3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に
「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこ...
倭人は弥生時代から鉄の原料を半島の資源に依存してき
たことが判る。
この情況は古墳時代にあっても基本的に変わらなかった
に違いない。古墳から鉄ていと呼ばれる短冊形の鉄素材が
出土する。成分分析から金海・釜山地域からの搬入品であ
る可能性が高い。右の写真の鉄ていはそれぞれ別の古墳か
ら出土したものであるが、重さや形に一定の規格が認めら ...
れるので、貨幣に代わるような機能を果たしていた可能性もあ...
考古学の都出比呂志は---倭王権がこのような半島からの鉄素...
半島の動乱とヤマト王権の成長
このページの1番上の地図を参照いただきたい。半島ルートを...
一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の文物の供給先とし...
奈良県石上神宮に銘文の入った七枝刀という国宝が...
その銘文の大意は「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を...
かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王...
にわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」
というようなことである。
要するに七枝刀を倭王に贈ったということは、百済が倭王の...
認めていたわけであり、倭国と百済の間にそういう緊密な国交...
たということであろう。
そしてそれが軍事同盟にまで発展していたことは、やがて百...
請を受けてその宿敵高句麗と倭が直接戦火を交えることになる...
証明される。
それを伝えるのが広開土王碑(好太王碑とも言う)で資料の乏...
紀、半島での倭の動向を記した貴重な資料である。
この碑には「倭」は強国として現れる。そして本質的にはそ...
ち破った高句麗国の広開土王の武勲は素晴らしいものである、...
碑である。だから多少、誇張もあるであろうことは想像に難く...
し根も葉もない虚構と見てしまうことはもちろん出来ない。
簡単にその内容を拾うと
391年 倭が百残(百済の蔑称)、新羅を「臣民」とした。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って...
まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづか...
いて倭に壊滅的打撃を与えた。
この碑文を裏側から読むと、ヤマト王権が力をつけ百済や新羅...
これは中国が五胡十六国時代の混乱期にあり、ヤマト王権と...
さらに直接的な利益としては、軍事援助の見返りとして従来...
この時期、4世紀末葉、大王の墓がもっとも大型化する古墳時...
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http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html
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