第1章 中国史書の「倭」と「日本」(Historical)
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第1章 中国史書の「倭」と「日本」
1.『通典』パニック
従来の古代史学では、文献の信憑性に関する一般的な方法論...
a 同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書の記...
このaを前提にすれば、『三国志』『宋書』『隋書』をはじ...
さて、殆どの中国史書は方法論aによって『記・紀』の記述...
そこで古田氏は次の方法論を追加する。
b 当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削があ...
この方法論により、国内文献である『日本書紀』より外国史...
さて、このような方法論aとbに従う限り、『三国志』から...
ところが、このような認識に水を差すような史料が存在する...
この『通典』は200巻からなり、最後の16巻が「邊防」という...
【資料1】のαには『後漢書』から『隋書』までに出現する倭...
さて、問題となるのはδの冒頭部分である。そこに、倭の一名...
これを“後で誤りであることを確認して訂正することもあるか...
また、“『通典』のδは九州王朝が先に国号を「日本」と改称...
また、δより手前、βの記事の最後に「由是遂絶」と書かれて...
しかし、『通典』の中で「倭一名日本」という記事は、倭の...
c 又歴代史倭國一名日夲在中國直東。扶桑國復在倭國之東、...
ここでは「歴代史の倭国」すなわち『三国志』から『隋書』...
それではβの「由是遂絶」というのはどういう意味なのか。ま...
d [牛羊]牱渠帥姓謝氏、舊臣中國、代爲本土牧守。隋末大亂...
e 昆彌國、一曰昆明、西南夷也。…漢武帝得其地入益州部、...
これらの例では「絶えた」直後に同じ国からの朝貢記事があ...
では問題の倭の条βの「由是遂絶」の「絶」とはどういう意味...
f 貞觀十五年十一月、使至。太宗矜其路遠、遣高表仁、持節...
永徽五年十二月、遣使獻琥珀・瑪瑙。琥珀大如斗、瑪瑙大如...
g 貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、...
fには『通典』と同様に「由是復絶」とあるが、すぐ直後に...
以上見てきたように、『通典』の「倭一名日本」を九州王朝...
では方法論aとbにより、『通典』の「倭一名日本」が真実...
実はそのように単純な話にはならないのである。といっても...
2.『新唐書』日本伝も一元説だった
『通典』問題の解決を急ぐ前に、少し飛んで、北宋で1060年...
さて『新唐書』といえば、日本伝の中にある次の記事が一部...
a 日夲乃小国、爲倭所并、故冒其號。
なぜ話題になったかというと、『旧唐書』の日本国伝の「日...
しかし、最初から各論に入ると木を見て森を見ない議論にな...
同資料を一見して明らかなように、中国史書の日本列島の伝...
そのために一番手っ取り早いのは、『新唐書』日本伝の中か...
b 日夲、古倭奴也。
c 後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。
d 使者自言「國近日所出、以爲名。」
或云「日夲乃小國、爲倭所并、故冒其號。」
使者不以情、故疑焉。又妄夸其國。
『新唐書』日本伝の著者の考えが書かれているのは、これら...
さて、この「『新唐書』日本伝の著者は大和一元説を主張し...
その1。αの部分は、次のような『旧唐書』の倭国伝(日本国...
e 倭國者古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中...
したがって、『新唐書』の著者は、日本国なるものを、歴代...
その2。αの末尾に「其王姓阿毎氏」とあり、これはその1か...
その3。用明の代を見ると、用明天皇と「目多利思比孤」を...
その4。『新唐書』に先行する歴代の正史には、次のf~k...
f 魏時有三十國通好。(晋書 倭人条)
g 倭國在高驪東南大海中、世修貢職。(宋書 倭國条)
h 倭國在帶方東南大海島中、漢末以來立女王、土俗已見前史...
i 至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢魏、以爲親...
j 魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。(隋書 俀國条)
k 世與中國通。(舊唐書 倭國条)
ところが『新唐書』日本伝では、実際に読んでみれば明らか...
以上で、『新唐書』日本伝の著者が、『通典』と同じくいわ...
この節の最後に、冒頭に挙げたaの「日夲乃小国、爲倭所并...
3.『新唐書』日本伝の情報源
『新唐書』の書かれた北宋と南宋(960~1279)の時代の歴史...
この『宋史』列伝外国七の日本条に次の記事がある。
a 雍熈元年、日本國僧奝然與其徒五六人、浮海而至、獻銅器...
すなわち雍熈元(984)年に、日本の僧の奝然がやってきて、...
これと前節で引用した「日本伝」を比べれば、「日本伝」が...
証拠1。「日本伝」の欽明のところに「欽明之十一年直梁承...
証拠2。天皇の名前が、「日本伝」では光孝天皇までで終わ...
証拠3。「日本伝」の用明のところに次の記事がある。
b 亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。(新唐書 ...
つまり、用明天皇の代に初めて中国と通じた、と書いてある...
c 當此土隋開皇中、遣使泛海至中國,求法華經。(宋史 日...
したがって「年代紀」に従えば、確かに用明の時に「始めて...
証拠4。「日本伝」では、日本の年号として孝徳「白雉」、...
以上で『新唐書』日本条が奝然の『王年代紀』をベースに書...
『王年代紀』は、見てのとおり「大和一元史観」で書かれて...
また『宋史』日本条には、天子が『王年代紀』を見て、奝然...
d 太宗召見奝然、存撫之甚厚、賜紫衣、舘于太平興國寺。上...
(和訳) 太宗は奝然を招いてこれを厚くなぐさめ安んじ、紫衣...
つまり、宋の天子は「中国と違って万世一系の日本はすばら...
4.『旧唐書』の解釈は誤っていた
いよいよ『旧唐書』倭国伝と日本伝の史料批判に移る。『旧...
『旧唐書』の列伝第149上の東夷伝は、高麗、百濟、新羅、倭...
さてここで問題となるのは日本伝のδ~ηの記事の信憑性であ...
まず明らかなように、δは「日本と倭は別の国である」という...
ところが古田氏は、これらδ、ζ、ηが全部正しいのだとして「...
まず第一のポイントは、θの最後の「故に中国はこれを疑う」...
第二のポイントは、δとεは地の文なのに、ζとηは「或曰」や...
そこで、δ、ε、ζ、ηの各情報が倭国伝・日本伝の他の部分と...
まずδの「日本と倭は別の国である」という情報は、『旧唐書...
次のεの「日の辺にあるので日本と命名した」という情報は、...
ではζとηはどうだろうか。これらはそれぞれ倭国を主語にし...
事実、『旧唐書』の夷蛮伝では唐の間に滅びた国がいくつか...
a 吐谷渾自晉永嘉之末、始西渡シ兆水、建國於羣羌之故地、...
b 又有勃律國、在罽賓・吐蕃之間。開元中頻遣使朝獻。八年...
c 至景龍二年、又來入朝、拜爲左威衛將軍、無何病卒、其國...
このように滅びた国は滅びた旨が、その滅びた国の伝の中に...
d 高麗國舊分爲五部、有城百七十六、戸六十九萬七千、乃分...
すなわち高麗は分割され、中国直轄の都督府(都督は一地方...
また百済の場合は次のとおりである。
e 顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。…其...
(儀鳳二年)其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。...
つまり高麗と同様に顯慶五(660)年に分割され、都督府が置...
さて、ここで倭国の条を見てみると、γの貞観22年に朝貢して...
f 『旧唐書』の著者は、倭国が滅びたとか日本国に吸収され...
一方、国号の改定には次の例がある。
g 靺鞨、蓋肅愼之地、後魏謂之勿吉、在京師東北六千餘里。...
h 聖暦中、自立爲振國王、遣使通于突厥。…(貞元)十四年...
i 烏羅渾國、蓋後魏之烏洛侯也、今亦謂之烏羅護、…。(同...
このように、いずれも地の文で記されており、もし『旧唐書...
j 『旧唐書』の著者は、倭国が国名を日本に改称したなどと...
以上により、次のような結論が得られる。
k δとεの主張は『旧唐書』の他の部分と整合性があるが、ζ...
このことは何を意味するであろうか。δとεは地の文で、ζとη...
つまりζの「倭国が日本と改称した」とかηの「日本が倭国を...
5.『唐会要』の「倭」と「日本」
前節では、『旧唐書』日本伝の記事のうち、「倭が日本と改...
というのは、同じく「倭と日本は別国である」と書かれてい...
また同書は唐の貞元年間(785~804)に書かれた『会要』と...
さて、この『唐会要』も、『旧唐書』と同じく倭国と日本国...
ただし倭国伝と日本伝は、間に巻99の16国、巻百の20国の伝...
さて、本題に入る前に、倭国伝のβの高表仁の来朝記事の年次...
『唐会要』の夷蛮伝は、東夷・南蛮・西戎・北狄という分類...
同資料の☆印と★印の所に若干の前後はあるが、概ね最初の遣...
さて本題に戻る。『唐会要』の倭国と日本国の記事は『旧唐...
確かに日本国の方はνに粟田眞人、ξに阿倍仲麿(仲満、朝衡...
a 大宰府飛驛、上奏入唐大使藤原朝臣常嗣等歸着之由、兼使...
つまり『唐会要』では日本国の条だけでなく、倭国の条にも...
しかもこれだけではない。その直前のζに大暦12(777)年の...
b 勅遣唐副使從五位上小野朝臣石根・從五位下大神朝臣末足...
ここでまた脇道に逸れるが、この777年の使者の名前に注目し...
c 大使今毛人。身病弥重、不堪進途。宜知此状。到唐下牒之...
(和訳) 大使の今毛人の病はますます重く、出発するのに堪え...
つまりこの時の遣唐使は、大使が不在で石根が大使の代役を...
本論に戻って、大和の遣唐使が倭国伝にも日本国伝にも登場...
また、『唐会要』の倭国・日本国をよく見ると、他にも『旧...
一方、日本伝にある「倭が日本と改称した」という内容の記...
つまり『旧唐書』『唐会要』には共に「日本は倭国の別種で...
以上『通典』『新唐書』『旧唐書』『唐会要』の四文献を分...
6.「倭一名日本」の情報源
『新唐書』の「大和一元史観」の情報源は、宋代に日本の使...
そういう観点から、本節では長らく宿題にしていた『通典』...
a 倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」。武太后長安二...
まず、“倭一名日本”に続く“自云「國在日邊、故以爲稱」”の...
b 則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不...
つまりそれは則天武后の時(684~704)だというのである。で...
同資料の国交記事からわかるように、則天武后の時代(684~7...
c 秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人、自唐國至。初至唐...
(和訳) 秋7月1日に、正四位下の粟田朝臣真人が唐から太宰府...
この冒頭部分で、真人一行は、まさに「日本国の使者だ」と...
つまりaの「倭一名日夲」というのは、大和からの使者であ...
以上をまとめよう。第1節でbとして「当該王朝で作られた...
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第1章 中国史書の「倭」と「日本」
1.『通典』パニック
従来の古代史学では、文献の信憑性に関する一般的な方法論...
a 同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書の記...
このaを前提にすれば、『三国志』『宋書』『隋書』をはじ...
さて、殆どの中国史書は方法論aによって『記・紀』の記述...
そこで古田氏は次の方法論を追加する。
b 当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削があ...
この方法論により、国内文献である『日本書紀』より外国史...
さて、このような方法論aとbに従う限り、『三国志』から...
ところが、このような認識に水を差すような史料が存在する...
この『通典』は200巻からなり、最後の16巻が「邊防」という...
【資料1】のαには『後漢書』から『隋書』までに出現する倭...
さて、問題となるのはδの冒頭部分である。そこに、倭の一名...
これを“後で誤りであることを確認して訂正することもあるか...
また、“『通典』のδは九州王朝が先に国号を「日本」と改称...
また、δより手前、βの記事の最後に「由是遂絶」と書かれて...
しかし、『通典』の中で「倭一名日本」という記事は、倭の...
c 又歴代史倭國一名日夲在中國直東。扶桑國復在倭國之東、...
ここでは「歴代史の倭国」すなわち『三国志』から『隋書』...
それではβの「由是遂絶」というのはどういう意味なのか。ま...
d [牛羊]牱渠帥姓謝氏、舊臣中國、代爲本土牧守。隋末大亂...
e 昆彌國、一曰昆明、西南夷也。…漢武帝得其地入益州部、...
これらの例では「絶えた」直後に同じ国からの朝貢記事があ...
では問題の倭の条βの「由是遂絶」の「絶」とはどういう意味...
f 貞觀十五年十一月、使至。太宗矜其路遠、遣高表仁、持節...
永徽五年十二月、遣使獻琥珀・瑪瑙。琥珀大如斗、瑪瑙大如...
g 貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、...
fには『通典』と同様に「由是復絶」とあるが、すぐ直後に...
以上見てきたように、『通典』の「倭一名日本」を九州王朝...
では方法論aとbにより、『通典』の「倭一名日本」が真実...
実はそのように単純な話にはならないのである。といっても...
2.『新唐書』日本伝も一元説だった
『通典』問題の解決を急ぐ前に、少し飛んで、北宋で1060年...
さて『新唐書』といえば、日本伝の中にある次の記事が一部...
a 日夲乃小国、爲倭所并、故冒其號。
なぜ話題になったかというと、『旧唐書』の日本国伝の「日...
しかし、最初から各論に入ると木を見て森を見ない議論にな...
同資料を一見して明らかなように、中国史書の日本列島の伝...
そのために一番手っ取り早いのは、『新唐書』日本伝の中か...
b 日夲、古倭奴也。
c 後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。
d 使者自言「國近日所出、以爲名。」
或云「日夲乃小國、爲倭所并、故冒其號。」
使者不以情、故疑焉。又妄夸其國。
『新唐書』日本伝の著者の考えが書かれているのは、これら...
さて、この「『新唐書』日本伝の著者は大和一元説を主張し...
その1。αの部分は、次のような『旧唐書』の倭国伝(日本国...
e 倭國者古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中...
したがって、『新唐書』の著者は、日本国なるものを、歴代...
その2。αの末尾に「其王姓阿毎氏」とあり、これはその1か...
その3。用明の代を見ると、用明天皇と「目多利思比孤」を...
その4。『新唐書』に先行する歴代の正史には、次のf~k...
f 魏時有三十國通好。(晋書 倭人条)
g 倭國在高驪東南大海中、世修貢職。(宋書 倭國条)
h 倭國在帶方東南大海島中、漢末以來立女王、土俗已見前史...
i 至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢魏、以爲親...
j 魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。(隋書 俀國条)
k 世與中國通。(舊唐書 倭國条)
ところが『新唐書』日本伝では、実際に読んでみれば明らか...
以上で、『新唐書』日本伝の著者が、『通典』と同じくいわ...
この節の最後に、冒頭に挙げたaの「日夲乃小国、爲倭所并...
3.『新唐書』日本伝の情報源
『新唐書』の書かれた北宋と南宋(960~1279)の時代の歴史...
この『宋史』列伝外国七の日本条に次の記事がある。
a 雍熈元年、日本國僧奝然與其徒五六人、浮海而至、獻銅器...
すなわち雍熈元(984)年に、日本の僧の奝然がやってきて、...
これと前節で引用した「日本伝」を比べれば、「日本伝」が...
証拠1。「日本伝」の欽明のところに「欽明之十一年直梁承...
証拠2。天皇の名前が、「日本伝」では光孝天皇までで終わ...
証拠3。「日本伝」の用明のところに次の記事がある。
b 亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。(新唐書 ...
つまり、用明天皇の代に初めて中国と通じた、と書いてある...
c 當此土隋開皇中、遣使泛海至中國,求法華經。(宋史 日...
したがって「年代紀」に従えば、確かに用明の時に「始めて...
証拠4。「日本伝」では、日本の年号として孝徳「白雉」、...
以上で『新唐書』日本条が奝然の『王年代紀』をベースに書...
『王年代紀』は、見てのとおり「大和一元史観」で書かれて...
また『宋史』日本条には、天子が『王年代紀』を見て、奝然...
d 太宗召見奝然、存撫之甚厚、賜紫衣、舘于太平興國寺。上...
(和訳) 太宗は奝然を招いてこれを厚くなぐさめ安んじ、紫衣...
つまり、宋の天子は「中国と違って万世一系の日本はすばら...
4.『旧唐書』の解釈は誤っていた
いよいよ『旧唐書』倭国伝と日本伝の史料批判に移る。『旧...
『旧唐書』の列伝第149上の東夷伝は、高麗、百濟、新羅、倭...
さてここで問題となるのは日本伝のδ~ηの記事の信憑性であ...
まず明らかなように、δは「日本と倭は別の国である」という...
ところが古田氏は、これらδ、ζ、ηが全部正しいのだとして「...
まず第一のポイントは、θの最後の「故に中国はこれを疑う」...
第二のポイントは、δとεは地の文なのに、ζとηは「或曰」や...
そこで、δ、ε、ζ、ηの各情報が倭国伝・日本伝の他の部分と...
まずδの「日本と倭は別の国である」という情報は、『旧唐書...
次のεの「日の辺にあるので日本と命名した」という情報は、...
ではζとηはどうだろうか。これらはそれぞれ倭国を主語にし...
事実、『旧唐書』の夷蛮伝では唐の間に滅びた国がいくつか...
a 吐谷渾自晉永嘉之末、始西渡シ兆水、建國於羣羌之故地、...
b 又有勃律國、在罽賓・吐蕃之間。開元中頻遣使朝獻。八年...
c 至景龍二年、又來入朝、拜爲左威衛將軍、無何病卒、其國...
このように滅びた国は滅びた旨が、その滅びた国の伝の中に...
d 高麗國舊分爲五部、有城百七十六、戸六十九萬七千、乃分...
すなわち高麗は分割され、中国直轄の都督府(都督は一地方...
また百済の場合は次のとおりである。
e 顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。…其...
(儀鳳二年)其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。...
つまり高麗と同様に顯慶五(660)年に分割され、都督府が置...
さて、ここで倭国の条を見てみると、γの貞観22年に朝貢して...
f 『旧唐書』の著者は、倭国が滅びたとか日本国に吸収され...
一方、国号の改定には次の例がある。
g 靺鞨、蓋肅愼之地、後魏謂之勿吉、在京師東北六千餘里。...
h 聖暦中、自立爲振國王、遣使通于突厥。…(貞元)十四年...
i 烏羅渾國、蓋後魏之烏洛侯也、今亦謂之烏羅護、…。(同...
このように、いずれも地の文で記されており、もし『旧唐書...
j 『旧唐書』の著者は、倭国が国名を日本に改称したなどと...
以上により、次のような結論が得られる。
k δとεの主張は『旧唐書』の他の部分と整合性があるが、ζ...
このことは何を意味するであろうか。δとεは地の文で、ζとη...
つまりζの「倭国が日本と改称した」とかηの「日本が倭国を...
5.『唐会要』の「倭」と「日本」
前節では、『旧唐書』日本伝の記事のうち、「倭が日本と改...
というのは、同じく「倭と日本は別国である」と書かれてい...
また同書は唐の貞元年間(785~804)に書かれた『会要』と...
さて、この『唐会要』も、『旧唐書』と同じく倭国と日本国...
ただし倭国伝と日本伝は、間に巻99の16国、巻百の20国の伝...
さて、本題に入る前に、倭国伝のβの高表仁の来朝記事の年次...
『唐会要』の夷蛮伝は、東夷・南蛮・西戎・北狄という分類...
同資料の☆印と★印の所に若干の前後はあるが、概ね最初の遣...
さて本題に戻る。『唐会要』の倭国と日本国の記事は『旧唐...
確かに日本国の方はνに粟田眞人、ξに阿倍仲麿(仲満、朝衡...
a 大宰府飛驛、上奏入唐大使藤原朝臣常嗣等歸着之由、兼使...
つまり『唐会要』では日本国の条だけでなく、倭国の条にも...
しかもこれだけではない。その直前のζに大暦12(777)年の...
b 勅遣唐副使從五位上小野朝臣石根・從五位下大神朝臣末足...
ここでまた脇道に逸れるが、この777年の使者の名前に注目し...
c 大使今毛人。身病弥重、不堪進途。宜知此状。到唐下牒之...
(和訳) 大使の今毛人の病はますます重く、出発するのに堪え...
つまりこの時の遣唐使は、大使が不在で石根が大使の代役を...
本論に戻って、大和の遣唐使が倭国伝にも日本国伝にも登場...
また、『唐会要』の倭国・日本国をよく見ると、他にも『旧...
一方、日本伝にある「倭が日本と改称した」という内容の記...
つまり『旧唐書』『唐会要』には共に「日本は倭国の別種で...
以上『通典』『新唐書』『旧唐書』『唐会要』の四文献を分...
6.「倭一名日本」の情報源
『新唐書』の「大和一元史観」の情報源は、宋代に日本の使...
そういう観点から、本節では長らく宿題にしていた『通典』...
a 倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」。武太后長安二...
まず、“倭一名日本”に続く“自云「國在日邊、故以爲稱」”の...
b 則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不...
つまりそれは則天武后の時(684~704)だというのである。で...
同資料の国交記事からわかるように、則天武后の時代(684~7...
c 秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人、自唐國至。初至唐...
(和訳) 秋7月1日に、正四位下の粟田朝臣真人が唐から太宰府...
この冒頭部分で、真人一行は、まさに「日本国の使者だ」と...
つまりaの「倭一名日夲」というのは、大和からの使者であ...
以上をまとめよう。第1節でbとして「当該王朝で作られた...
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