第4章 推古紀と俀国伝(Historical)
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第4章 推古紀と俀国伝
14.多利思北孤と利歌彌多弗利
前章までの、唐代に関する中国史書の分析や『日本書紀』と...
まず、今例にあげた「王の名と性別の矛盾」について調べよ...
a 開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣...
b 王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利。
この中に、「多利思北孤」、「利歌彌多弗利」という語が出...
まず「利歌彌多弗利」について考察しよう。
古田氏は、推古天皇の太子である聖徳太子にはこのような名...
一方、『東アジア民族史1 正史東夷伝』で『隋書』俀国伝...
山尾氏の解釈はいかにも苦しいが、一見正反対に見える古田...
中華書局から活字版で発行されている標点本24史は、句読点...
bの「名太子爲利歌彌多弗利」は「名A爲B」という文型で...
これらを眺めると、重要な事実に気づく。Bの部分には、10...
【資料14】の1の場合で考えてみよう。この文は「これより...
4の場合も、A=五色安車で、B=五時車であるから、これ...
また、21は百官志という役所や役職の新設や改名を記録した...
次に、書名の例を調べてみる。10ではA=所著之書,B=綴...
以上の例による限り、「名~爲~」という語法は「Aを名付...
それでは逆に、「AをBと名付ける」という場合は漢文では...
c 文帝名皇太子曰勇、晉王曰英、秦王曰俊、蜀王曰秀。(隋...
「文帝が皇太子を勇と名付けた」という場合に「名A曰B」...
以上の調査により、俀国伝の「名太子爲利歌彌多弗利」は、...
では、太子のことを倭語で実際に「リカミタフ(ホ)リ」と呼...
「ワカンドホリ」という古語がある。三省堂の『新明解古語...
また、音の変化については、「カミタチ(神館)→カンダチ」に...
問題は語頭の「リ」と「ワ」の食い違いであるが、既に明ら...
『隋書』の中に次のような記事がある。
d 和州刺史・新義縣公韓擒爲廬州總管。(帝紀第一 高祖上...
e 高祖作相、遷利州刺史。(列傳第十七 韓擒虎)
これらは、高祖文帝の即位時の官職の発令記事であり、どち...
この例から、「利」と「和」は『隋書』において実際に書き...
実は、この想定を裏づける記事が『翰苑』の倭国条にある。...
f 王長子号(和)哥弥多弗利、華言太子。(翰苑 蕃夷部 倭...
原文では「哥弥多弗利」と書かれた「哥」の字の右上に「和...
以上で、『隋書』俀国伝の「利歌彌多弗利」は個人名ではな...
ところが同様にして、aの「多利思北孤」も固有名詞ではな...
『隋書』では「字(あざな)」の下は例外なく個人名になっ...
この「多利思北孤」という名前は他の中国正史にも登場する...
g 次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、 始與中國通。...
h 按、隋開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、遣使致...
ここでは「多利思北孤」が「目多利思比孤」とか「自多利思...
i 隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號...
誤字や衍字は、似た字に間違えるとか、近くにある字が紛れ...
また、iにはもうひとつ奇妙な謎がある。それは「其國號阿...
ところが、この「自」と「阿輩雞彌」の謎を同時に解決する...
j 隋の文帝の開皇20年に、倭王が、─ 姓は「阿毎」であり...
つまり、「阿輩雞彌」というのは、倭王が歴代名乗って来た...
さらに、jの解読の正当性を裏づける記事が、やはり『翰苑...
k 今案、其王姓阿毎、國号為阿輩雞、華言天兒也。(翰苑 ...
「阿輩雞」の後ろに「彌」が抜けているが、「阿輩雞彌」は...
以上により、「利歌彌多弗利」とは違って、「多利思北孤」...
15.冠位十二階の「不一致」
古田氏は、推古紀と官(冠)位の問題に触れ、俀国伝中に書か...
a 内官有十二等。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大...
b 戊辰朔壬申、始行冠位。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮、...
古田氏が食い違っているというのは、その序列の順番のこと...
c 官有太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙...
d 官有十六品。長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率...
e 其官有十七等。其一曰伊罰干:貴如相國、次伊尺干、次迎...
一目瞭然、国によって、官位の名称は全く異なっている。こ...
16.開皇二十年の遣隋使
古田氏は、俀国伝の開皇20(600)年の遣隋使が、俀国としては...
確かに『日本書紀』の推古紀で対応する推古8(600)年及びそ...
既に第12節の第一次遣唐使の所で解説したように、中国史書...
a 『日本書紀』では、天皇家にとって外交上の不名誉な記事...
この開皇20年の遣使記事をよく読むと、俀国の使者が自国の...
ところで、開皇20年に俀国の使者が述べた風俗の内容という...
b 俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聴政、跏趺坐、日出...
これの古田氏による訳を引用しよう(『法隆寺の中の九州王...
c 俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立って...
日が出ると、すぐさま理務(統治の業務)をやめ、「わたし...
その上で、氏は次のように結論する(同書及び『失われた九...
A 俀国では、天(未明)-日(日中)と、一日を二分し、俀王は...
B このような特異な政治形態は『古事記』や『日本書紀』の...
C 一方、魏志倭人伝には、「立一女子爲王、名曰卑弥呼。…...
D ゆえに多利思北孤の俀国は、天皇家ではなく、卑弥呼の王...
古田氏は、bには「兄弟王による統治」が描かれていると考...
例えば『東アジア民族史』1の「隋書俀国伝」では、bを次...
d 俀王は、天を兄とし、太陽を弟としています。〔それで俀...
太陽が昇ると、あとは弟〔たる太陽〕に委ねるといってその...
(『東アジア民族史』1 p322)
すなわち、bは「日の出前に政治行為を終え、日が昇ったら...
17.大業三年の遣隋使
次は俀国伝の大業3(607)年と推古紀の推古15(607)年の遣使...
A 俀国伝によれば、大業三年の遣使は、仏法習学のための、...
確かに俀国伝の大業3年条には「聞、海西菩薩天子、重興仏...
a 海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆さ...
古田氏が「故遣朝」以下を「現在形」で読んだのに対し、こ...
b 是の時に、唐の国に遣はす学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明...
すなわち、大業3(607)年の遣使時に告げた「故に使して朝拝...
また、古田氏は次の「矛盾」も指摘している(『失われた九...
B 俀国伝によれば、大業三年に「日出ずる処の天子…」とい...
既に第16節において、『日本書紀』の編纂姿勢としてaの性...
18.大業四年の遣隋使
次に大業4年の遣隋使であるが、これは古田氏の指摘どおり...
【資料8】υから俀国伝における出迎えの使者の名前を抜き出...
a 俀国伝(大業3年条)
(1) 到着した海岸で数百人を従えて出迎え …… アハイ...
小徳・阿輩臺
(2) 後十日、二百余騎を従えて出迎え ………… カ タ...
大礼・哥多[田比]
一方【資料15】β~εから推古紀における出迎えの使者の名前...
b 推古紀(推古16年条)
(3) 4月、筑紫で出迎え ………………………… なにはのきしをなり
難波吉士雄成
(4) 6月15日、難波津で飾船三十艘で出迎え … なかとみの...
中臣宮地連烏摩呂
おほしかふちのあたひあらて
大河内直糠手
ふねのふびとわうへい
船史王平
(5) 8月3日、京で飾騎七十五匹で出迎え …… ぬかたべのぶ...
額田部連比羅夫
(6) 8月12日、朝庭で出迎え …………………… あへのとりのおみ
阿部鳥臣
もののべのよさみのむらじいだき
物部依網連抱
通常は、(1)の「阿輩臺」を推古19年5月5日条に出てくる「...
しかしながら、これらは音の類似も不充分なだけでなく、日...
さらに、これは古田氏も指摘していることだが、俀国伝では...
また、「阿輩臺」を「粟田細目臣」に当てる説では、皇極元...
要するに、これらの対応は、きちんとした根拠があってのこ...
ただ、第5節で解説したように、『唐会要』倭国伝の777年の...
19.推古22年の遣隋使
【資料15】κによれば、推古天皇は、推古22(614)年に中国に...
A 俀国伝によれば、(610年の)裴世清の帰国に際し、使者を...
一見尤もらしいが、問題は「此後遂絶」という語句の解釈に...
このことを実証的に調べるため、『隋書』の帝紀から他国と...
この調査により、少なくとも「後遂絶焉」の場合は、「その...
20.倭と俀
この章の最後に「倭」と「俀」の問題を取り上げる。第7節...
古田氏は『失われた九州王朝』の中で、「倭」と「俀」は別...
A 「倭」の音は「ワ」、「俀」の音は「タイ」で、これらは...
B 俀国伝によれば、大業四年に俀国を訪れた隋の裴世清の帰...
C 俀国伝の、大業四年の裴世清の帰国記事の次に「此の後、...
まず、個別の根拠を検証する前に、【資料18】の表を見ると...
また、同表の俀国伝の中で、「安帝時、又遣使朝貢、謂之俀...
次に個別の根拠について検証しよう。まずCについては、前...
次にAであるが、字や発音が異なるからといって、直ちに別...
a 壬寅、高麗王高陽遣使朝貢。授陽大將軍・遼東郡公。(隋...
b 辛亥、高麗遼東郡公高陽卒。(隋書 文帝紀 開皇十年七...
ここに高麗王「陽」の名が出てくる。ところが、『隋書』高...
c 璉六世孫湯在周。遣使朝貢、武帝拜湯上開府遼東郡公遼東...
高祖受禅、湯復遣使詣闕、進授大將軍、改封高麗王。(中略...
十七年、上賜湯璽書曰「…」。湯得書惶恐、將奉表陳謝、會病...
(隋書 列伝第46 東夷 高麗)
このように、帝紀では「陽」だった高麗王の名が、高麗伝で...
また、中国人の名でありながら、煬帝紀と流求国伝では「張...
以上により、「俀」と「倭」が音さえも異なる字だからとい...
次にBであるが、古田氏は、裴世清の帰国が、倭を訪れたの...
その中で、裴世清の帰国を記しているのはψの部分である。古...
ところがこのような判断は実は正しくないのである。同じ『...
d 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希...
e 三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻...
f 明年、帝復令寛慰撫之。流求不從。寛取其布甲而還。時俀...
g 帝遣武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州率兵、自義安浮海撃之...
(隋書 列傳第四十六 東夷 流求)
これら一連の記事のうち、gの部分には冒頭に新たな年次が...
h (大業六年)二月乙巳、武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州、撃...
i 大業三年、拜武賁郎将。後三歳、與朝請大夫張鎭周、發東...
これらはいずれもgと同一の事件を指している。そして、こ...
すなわち『隋書』の東夷伝では、年次が変わっても、その新...
以上で「倭」と「俀」が別物であるとする根拠は全く存在せ...
以上の結果を踏まえて、推古紀は使わず、純粋に『隋書』の...
j 毎至正月一日、必射戯飲酒、其餘節畧與華同。
つまり、俀国では正月の習慣だけ中国と違っていて、それ以...
すると、裴世清らが倭(=俀)国を発ったのは、大業5年以降...
以上により判明した事実は次のとおりである。倭(=俀)国か...
つまり、『隋書』自体は決して“日本列島に倭と俀という二つ...
本節の結論は、既に千歳竜彦氏により指摘されたものである...
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第4章 推古紀と俀国伝
14.多利思北孤と利歌彌多弗利
前章までの、唐代に関する中国史書の分析や『日本書紀』と...
まず、今例にあげた「王の名と性別の矛盾」について調べよ...
a 開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣...
b 王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利。
この中に、「多利思北孤」、「利歌彌多弗利」という語が出...
まず「利歌彌多弗利」について考察しよう。
古田氏は、推古天皇の太子である聖徳太子にはこのような名...
一方、『東アジア民族史1 正史東夷伝』で『隋書』俀国伝...
山尾氏の解釈はいかにも苦しいが、一見正反対に見える古田...
中華書局から活字版で発行されている標点本24史は、句読点...
bの「名太子爲利歌彌多弗利」は「名A爲B」という文型で...
これらを眺めると、重要な事実に気づく。Bの部分には、10...
【資料14】の1の場合で考えてみよう。この文は「これより...
4の場合も、A=五色安車で、B=五時車であるから、これ...
また、21は百官志という役所や役職の新設や改名を記録した...
次に、書名の例を調べてみる。10ではA=所著之書,B=綴...
以上の例による限り、「名~爲~」という語法は「Aを名付...
それでは逆に、「AをBと名付ける」という場合は漢文では...
c 文帝名皇太子曰勇、晉王曰英、秦王曰俊、蜀王曰秀。(隋...
「文帝が皇太子を勇と名付けた」という場合に「名A曰B」...
以上の調査により、俀国伝の「名太子爲利歌彌多弗利」は、...
では、太子のことを倭語で実際に「リカミタフ(ホ)リ」と呼...
「ワカンドホリ」という古語がある。三省堂の『新明解古語...
また、音の変化については、「カミタチ(神館)→カンダチ」に...
問題は語頭の「リ」と「ワ」の食い違いであるが、既に明ら...
『隋書』の中に次のような記事がある。
d 和州刺史・新義縣公韓擒爲廬州總管。(帝紀第一 高祖上...
e 高祖作相、遷利州刺史。(列傳第十七 韓擒虎)
これらは、高祖文帝の即位時の官職の発令記事であり、どち...
この例から、「利」と「和」は『隋書』において実際に書き...
実は、この想定を裏づける記事が『翰苑』の倭国条にある。...
f 王長子号(和)哥弥多弗利、華言太子。(翰苑 蕃夷部 倭...
原文では「哥弥多弗利」と書かれた「哥」の字の右上に「和...
以上で、『隋書』俀国伝の「利歌彌多弗利」は個人名ではな...
ところが同様にして、aの「多利思北孤」も固有名詞ではな...
『隋書』では「字(あざな)」の下は例外なく個人名になっ...
この「多利思北孤」という名前は他の中国正史にも登場する...
g 次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、 始與中國通。...
h 按、隋開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、遣使致...
ここでは「多利思北孤」が「目多利思比孤」とか「自多利思...
i 隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號...
誤字や衍字は、似た字に間違えるとか、近くにある字が紛れ...
また、iにはもうひとつ奇妙な謎がある。それは「其國號阿...
ところが、この「自」と「阿輩雞彌」の謎を同時に解決する...
j 隋の文帝の開皇20年に、倭王が、─ 姓は「阿毎」であり...
つまり、「阿輩雞彌」というのは、倭王が歴代名乗って来た...
さらに、jの解読の正当性を裏づける記事が、やはり『翰苑...
k 今案、其王姓阿毎、國号為阿輩雞、華言天兒也。(翰苑 ...
「阿輩雞」の後ろに「彌」が抜けているが、「阿輩雞彌」は...
以上により、「利歌彌多弗利」とは違って、「多利思北孤」...
15.冠位十二階の「不一致」
古田氏は、推古紀と官(冠)位の問題に触れ、俀国伝中に書か...
a 内官有十二等。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大...
b 戊辰朔壬申、始行冠位。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮、...
古田氏が食い違っているというのは、その序列の順番のこと...
c 官有太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙...
d 官有十六品。長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率...
e 其官有十七等。其一曰伊罰干:貴如相國、次伊尺干、次迎...
一目瞭然、国によって、官位の名称は全く異なっている。こ...
16.開皇二十年の遣隋使
古田氏は、俀国伝の開皇20(600)年の遣隋使が、俀国としては...
確かに『日本書紀』の推古紀で対応する推古8(600)年及びそ...
既に第12節の第一次遣唐使の所で解説したように、中国史書...
a 『日本書紀』では、天皇家にとって外交上の不名誉な記事...
この開皇20年の遣使記事をよく読むと、俀国の使者が自国の...
ところで、開皇20年に俀国の使者が述べた風俗の内容という...
b 俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聴政、跏趺坐、日出...
これの古田氏による訳を引用しよう(『法隆寺の中の九州王...
c 俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立って...
日が出ると、すぐさま理務(統治の業務)をやめ、「わたし...
その上で、氏は次のように結論する(同書及び『失われた九...
A 俀国では、天(未明)-日(日中)と、一日を二分し、俀王は...
B このような特異な政治形態は『古事記』や『日本書紀』の...
C 一方、魏志倭人伝には、「立一女子爲王、名曰卑弥呼。…...
D ゆえに多利思北孤の俀国は、天皇家ではなく、卑弥呼の王...
古田氏は、bには「兄弟王による統治」が描かれていると考...
例えば『東アジア民族史』1の「隋書俀国伝」では、bを次...
d 俀王は、天を兄とし、太陽を弟としています。〔それで俀...
太陽が昇ると、あとは弟〔たる太陽〕に委ねるといってその...
(『東アジア民族史』1 p322)
すなわち、bは「日の出前に政治行為を終え、日が昇ったら...
17.大業三年の遣隋使
次は俀国伝の大業3(607)年と推古紀の推古15(607)年の遣使...
A 俀国伝によれば、大業三年の遣使は、仏法習学のための、...
確かに俀国伝の大業3年条には「聞、海西菩薩天子、重興仏...
a 海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆さ...
古田氏が「故遣朝」以下を「現在形」で読んだのに対し、こ...
b 是の時に、唐の国に遣はす学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明...
すなわち、大業3(607)年の遣使時に告げた「故に使して朝拝...
また、古田氏は次の「矛盾」も指摘している(『失われた九...
B 俀国伝によれば、大業三年に「日出ずる処の天子…」とい...
既に第16節において、『日本書紀』の編纂姿勢としてaの性...
18.大業四年の遣隋使
次に大業4年の遣隋使であるが、これは古田氏の指摘どおり...
【資料8】υから俀国伝における出迎えの使者の名前を抜き出...
a 俀国伝(大業3年条)
(1) 到着した海岸で数百人を従えて出迎え …… アハイ...
小徳・阿輩臺
(2) 後十日、二百余騎を従えて出迎え ………… カ タ...
大礼・哥多[田比]
一方【資料15】β~εから推古紀における出迎えの使者の名前...
b 推古紀(推古16年条)
(3) 4月、筑紫で出迎え ………………………… なにはのきしをなり
難波吉士雄成
(4) 6月15日、難波津で飾船三十艘で出迎え … なかとみの...
中臣宮地連烏摩呂
おほしかふちのあたひあらて
大河内直糠手
ふねのふびとわうへい
船史王平
(5) 8月3日、京で飾騎七十五匹で出迎え …… ぬかたべのぶ...
額田部連比羅夫
(6) 8月12日、朝庭で出迎え …………………… あへのとりのおみ
阿部鳥臣
もののべのよさみのむらじいだき
物部依網連抱
通常は、(1)の「阿輩臺」を推古19年5月5日条に出てくる「...
しかしながら、これらは音の類似も不充分なだけでなく、日...
さらに、これは古田氏も指摘していることだが、俀国伝では...
また、「阿輩臺」を「粟田細目臣」に当てる説では、皇極元...
要するに、これらの対応は、きちんとした根拠があってのこ...
ただ、第5節で解説したように、『唐会要』倭国伝の777年の...
19.推古22年の遣隋使
【資料15】κによれば、推古天皇は、推古22(614)年に中国に...
A 俀国伝によれば、(610年の)裴世清の帰国に際し、使者を...
一見尤もらしいが、問題は「此後遂絶」という語句の解釈に...
このことを実証的に調べるため、『隋書』の帝紀から他国と...
この調査により、少なくとも「後遂絶焉」の場合は、「その...
20.倭と俀
この章の最後に「倭」と「俀」の問題を取り上げる。第7節...
古田氏は『失われた九州王朝』の中で、「倭」と「俀」は別...
A 「倭」の音は「ワ」、「俀」の音は「タイ」で、これらは...
B 俀国伝によれば、大業四年に俀国を訪れた隋の裴世清の帰...
C 俀国伝の、大業四年の裴世清の帰国記事の次に「此の後、...
まず、個別の根拠を検証する前に、【資料18】の表を見ると...
また、同表の俀国伝の中で、「安帝時、又遣使朝貢、謂之俀...
次に個別の根拠について検証しよう。まずCについては、前...
次にAであるが、字や発音が異なるからといって、直ちに別...
a 壬寅、高麗王高陽遣使朝貢。授陽大將軍・遼東郡公。(隋...
b 辛亥、高麗遼東郡公高陽卒。(隋書 文帝紀 開皇十年七...
ここに高麗王「陽」の名が出てくる。ところが、『隋書』高...
c 璉六世孫湯在周。遣使朝貢、武帝拜湯上開府遼東郡公遼東...
高祖受禅、湯復遣使詣闕、進授大將軍、改封高麗王。(中略...
十七年、上賜湯璽書曰「…」。湯得書惶恐、將奉表陳謝、會病...
(隋書 列伝第46 東夷 高麗)
このように、帝紀では「陽」だった高麗王の名が、高麗伝で...
また、中国人の名でありながら、煬帝紀と流求国伝では「張...
以上により、「俀」と「倭」が音さえも異なる字だからとい...
次にBであるが、古田氏は、裴世清の帰国が、倭を訪れたの...
その中で、裴世清の帰国を記しているのはψの部分である。古...
ところがこのような判断は実は正しくないのである。同じ『...
d 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希...
e 三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻...
f 明年、帝復令寛慰撫之。流求不從。寛取其布甲而還。時俀...
g 帝遣武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州率兵、自義安浮海撃之...
(隋書 列傳第四十六 東夷 流求)
これら一連の記事のうち、gの部分には冒頭に新たな年次が...
h (大業六年)二月乙巳、武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州、撃...
i 大業三年、拜武賁郎将。後三歳、與朝請大夫張鎭周、發東...
これらはいずれもgと同一の事件を指している。そして、こ...
すなわち『隋書』の東夷伝では、年次が変わっても、その新...
以上で「倭」と「俀」が別物であるとする根拠は全く存在せ...
以上の結果を踏まえて、推古紀は使わず、純粋に『隋書』の...
j 毎至正月一日、必射戯飲酒、其餘節畧與華同。
つまり、俀国では正月の習慣だけ中国と違っていて、それ以...
すると、裴世清らが倭(=俀)国を発ったのは、大業5年以降...
以上により判明した事実は次のとおりである。倭(=俀)国か...
つまり、『隋書』自体は決して“日本列島に倭と俀という二つ...
本節の結論は、既に千歳竜彦氏により指摘されたものである...
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