箕子朝鮮
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箕子朝鮮成立(前1122年-前200年)
関連概念:朝鮮半島現中国
箕子朝鮮殷周
箕子朝鮮(きしちょうせん)は、韓氏朝鮮ともいう。
朝鮮古代の伝承上の王国。
【伝承に見る箕子朝鮮】
始祖の箕子は、殷成立時中国王朝の最後の王であった___の叔父...
前1122年に、周成立時、___が殷を滅ぼしたとき,彼は、箕子に...
箕子は、朝鮮において「8条の教え」をつくり,民を教化した...
箕準はこのとき、南方に逃れ,辰国に依って韓王を称したとい...
【箕子伝承の発生と展開】
箕子の伝承は,中国の儒者の一学説からおこり,楽浪郡の役人...
このような箕子伝承が流布し定着したのは、中国古典の「箕子...
その後、高麗成立時、儒教が隆盛になるにつれて、貴族や知識...
また、李氏朝鮮成立時代に入ると、「箕子井田の跡」が喧伝さ...
しかし,近代以後に「民族意識」が高揚し,自国文化が尊重さ...
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箕子朝鮮
古朝鮮は、確実なところで、既にB.C.4世紀には、実在してい...
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は商王朝28代文丁の子...
『三国遺事』では、「周の武王は即位した己卯(きぼう)の年...
朝鮮侯・箕子は礼儀や田作・養蚕・機織りの技術を広め、ま...
人々はその徳を慕って集まったが、彼は集まった人々を、奴...
箕子は誇り高き人物でした。『史記宋微子世家』によれば、...
箕子は誇り高き人物でしたから、他人の誇りを尊重しました...
ただ建国後の動向はほとんど伝わっていません。3世紀前半に...
歴史の中の箕子朝鮮
初期鉄器時代の最初の頃、戦国期の燕国と交易を重ねていた...
箕子朝鮮はB.C.4~3世紀には、確かに実在はしていました...
戦国時代、その「箕」一族は、燕に服属しながらも、朝鮮西...
B.C.222年に燕が滅亡し、B.C.221年に秦が中国を統一します...
視点を変えれば寧ろ、斉と燕の人々は、「箕」一族の流れで...
箕子朝鮮はだいたい900年ほど続きますが、B.C.194年に、...
前漢時代の東夷諸国の状況をみると、松花江流域には夫余、...
このような箕子伝説は、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知...
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箕子朝鮮 キシチョウセン
デジタル大辞泉の解説
きし‐ちょうせん〔‐テウセン〕【箕子朝鮮】
前3世紀ごろ、朝鮮半島の北西部大同江流域に栄えた中国人の王...
箕子朝鮮【きしちょうせん】
古代朝鮮の王朝。いわゆる古朝鮮の一つで,伝説上の国。箕子...
きしちょうせん【箕子朝鮮】
朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。衛氏朝鮮が正史所...
きしちょうせん【箕子朝鮮】
古朝鮮の伝説的王朝の一。中国、周の武王が殷いん王族の箕子...
箕子朝鮮
きしちょうせん
古代朝鮮の王朝。衛氏(えいし)朝鮮とあわせ古朝鮮という。紀...
…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の...
【朝鮮】より
…この神話は北方の熊信仰,南方の聖地信仰などを基礎としたも...
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箕子朝鮮(きしちょうせん、BC12世紀? - BC194年)
箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。古...
首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰...
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代...
BC1046年
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じ...
『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、...
しかし大夫礼が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆...
以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二...
BC214年
秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐...
その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・...
BC195年
前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮...
衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡...
『漢書』巻二十八下、地理志下、燕地
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮...
とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良...
Wikipedia 箕子朝鮮より
『漢書』巻二十八下、地理志下、燕 より抜粋
燕地,尾、箕分野也。武王定殷,封召公於燕,其後三十六世與...
燕稱王十世,秦欲滅六國,燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王,不...
薊,南通齊、趙,勃、碣之間一都會也。初太子丹賓養勇士,不...
上谷至遼東,地廣民希,數被胡寇,俗與趙、代相類,有魚鹽棗...
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕...
維基文庫,自由的圖書館
衛氏朝鮮(えいしちょうせん BC195年? - BC108年)
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人...
箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八...
BC334年
この段階で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有してい...
BC284年
燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防...
また、中国商人の権益を保護していた。
秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に...
BC209年
秦末、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国...
BC206年
秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立...
その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王とな...
BC202年
『史記』によれば、前漢の高祖の時代、燕王臧荼は反乱を起こ...
BC197年
盧綰が漢に背いて匈奴に亡命。
劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を...
身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(...
衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりい...
秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人...
さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロ...
衛満は前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で...
その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦...
芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。
それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である。
衛満は、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立...
『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の...
Wikipedia 衛氏朝鮮
辰国(しんこく)
辰国は『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代...
記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不...
『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の...
三韓との関係
『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者...
これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「...
いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされている。
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漢四郡(かんのしぐん)
朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝...
各郡の位置については諸説ある。
中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部...
漢四郡に先立って、
BC134年
前漢は濊州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取ら...
BC128年
蒼海郡(そうかいぐん)
漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した植民地であ...
衛氏朝鮮に服属していた濊の君主である南閭が、衛氏朝鮮の衛...
漢四郡の設置
BC108年
楽浪郡(らくろうぐん)
漢朝によって設置され、BC108年からAD313年まで存在した、朝...
郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡...
BC108年
真番郡(しんばんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に設置され、15県からなり、郡治が...
BC108年
臨屯郡(りんとんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に臨屯郡が設置された。15県からな...
BC107年
玄菟郡(げんとぐん)
玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一...
BC107年
遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属し...
郡内の県は、夫租、高句驪、西蓋馬、上殷台の4県しかわからな...
当時の戸数は45,006戸、人口は221,845人。
当初の領域は遼東郡北端から出発して中朝国境地帯山岳部(吉...
BC82年
漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県...
玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に...
玄菟郡の郡治は夫租県から変わって高句驪県(現在の吉林省集...
これで、玄菟郡領域のうち日本海沿岸部(咸鏡南北道)は夫租...
BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治...
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治...
12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に...
30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接...
32年
建武8年に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ...
57年建武中元二年
倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印...
107年安帝永初元年
倭国王帥升等献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に...
107年
(永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内...
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡...
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句...
帯方郡(たいほうぐん)
設置から消滅する313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島...
楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)...
後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて...
204年
朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。 楽浪郡と帯方郡は313年...
後漢書 卷八十五·東夷列傳第七十五 倭 より抜粋
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界...
桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。有一女子各曰卑彌...
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高句麗前期(BC75年~313年)・扶余
夫余
現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国...
夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと...
BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治...
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治...
BC37年漢孝元帝の建昭2年
朱蒙は国を建て高句麗と号した。即位直後から隣接する濊貊(...
※東明聖王(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在...
3年
第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸...
9年
王莽が新を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周...
12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に...
25年
東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった...
30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接...
32年建武8年
高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格され...
53年
高句麗,太祖王即位。
107年永初元年
玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡...
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句...
111年
夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷した...
120年
夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝...
122年
高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、夫余は兵を派...
136年
夫余王は京師(洛陽)に来朝した。
150年
馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる。
161年
夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2...
174年
夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
189年
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 2...
194年
高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸...
197年
第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優と...
219年
高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵...
※高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿によ...
242年
西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。
244年
1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎...
245年
再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句...
312年
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の...
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落さ...
313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半...
三韓時代及びそれ以前の朝鮮半島に存在する諸国家の概説
夫余
現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国...
夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと...
元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴が遼西郡に侵入してその太守...
粛慎
粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、拼音:Sùshèn)とは...
挹婁
後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州...
古の粛慎(しゅくしん、みしはせ)の末裔とされ、魏代・晋代...
漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、...
前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎...
その後は勿吉→靺鞨と名称を変えていく。
馬韓
BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団...
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それ...
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇...
建国
『三国遺事』によると、「魏志云。魏滿擊朝鮮。朝鮮王準率宮...
『魏書』によると、「侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪,...
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人...
濊貊(わいはく、かいはく)
中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて...
BC2世紀の中国東北部にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句...
濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷...
『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地...
沃沮(よくそ)
BC2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の倭国海に沿った地方(...
『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長...
「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡...
辰韓(しんかん、BC2世紀 - 356年)
朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し...
辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』...
『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇が...
辰韓と古代中国人との関係
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』...
弁韓(べんかん)
BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一...
領域
馬韓の東、辰韓の南、倭国海に接し、後の任那・加羅と重なる...
のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国...
社会・風俗
『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や...
また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとあ...
公孫氏による帯方郡創設
189年
後漢の末、中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡...
204年
その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(...
郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ね...
228年
成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・公孫恭の位を奪い取り、...
237年景初元年
公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の...
238年
魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、...
これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変...
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魏 帯方郡と楽浪郡の二郡直轄経営
238年
襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞ...
帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の...
238年景初2年
邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述...
このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の...
240年正始元年
新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯儁に持...
245年
弓遵は、嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所...
247年
弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗...
『三国志』魏書東夷伝 倭人の条
卑弥呼(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭...
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、そ...
238年 中国
倭国 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮...
240年 中国
倭国 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭...
243年 中国
倭国 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派...
245年 中国
倭国 難升米に黄幢を授与。
247年 中国
倭国 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告...
不明年 中国
倭国 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱...
266年 中国
倭国 (西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か?)遣使し、西晋...
壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都...
帯方郡の滅亡
265年泰始元年
魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐...
300年永康元年
魏は身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。
この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提...
313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半...
元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋...
高句麗、新羅、伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代。三国...
百済
4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。
それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年...
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だ...
新羅
朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「辰韓の斯蘆」(しろ)...
伽耶(かや)は加羅(から)。また加羅諸国(からしょこく)
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東...
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史...
高句麗と百済の戦争
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を...
355年
前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封さ...
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従した。
360年代
伽耶南部・倭との通交。
369年代
百済、倭国へ七支刀を献上。
この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東...
371年
高句麗、百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
百済の近肖古王は楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故...
※百済はその後、高句麗の好太王や長寿王のために押され気味と...
372年
百済、東晋への遣使。
372年
前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成の...
384年(百済枕流王1年)、
百済、東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢...
385年(百済枕流王2年)
王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
391年
19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討...
碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝...
そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条の他に...
399年
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討...
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入...
400年
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任...
404年
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これ...
碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が...
また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭...
奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記...
辛卯年条 碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二...
391年
倭が百済□□新羅を破り臣民とした。
393年
倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め...
397年
百済はいったん高句麗に従属したが、阿莘王の王子腆支を人質...
399年
百済、倭に服属した。
400年
倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新...
402年
新羅もまた倭に奈勿王の子未斯欣を人質に送って属国となった。
404年
高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。
405年
倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国...
目次に戻る
5cの朝鮮半島
高句麗
長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を...
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構え...
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収める。
475年
百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。
この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配する...
5c末
百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を...
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方...
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制の...
百済
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故...
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味...
この間の事情は好太王碑文に記されている。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定す...
これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と...
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文...
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化す...
新羅
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)...
朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て...
斯蘆国の時代
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国...
新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併...
4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国...
377年
『太平御覧』で引用する『秦書』には、前秦に初めて新羅が朝...
382年
新羅王楼寒(ろうかん)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身...
この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ...
記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年と...
『秦書』
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實...
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉...
或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派...
広開土王碑や中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によ...
加羅諸国
三韓の一つの弁韓を母体とする。
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東...
414年
に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初...
南齊書よると、加羅國,三韓種也。
建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加...
と記録されている。
宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁...
任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で...
1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金...
後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3...
首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とす...
4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形...
宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁...
任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭...
任那
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人...
任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと...
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中...
金石文
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國...
百済にも新羅にも属さなかった領域は、例えば478年の倭王武の...
ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金...
秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存し...
慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存し...
中国史料における任那
400年
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加...
438年
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見える。
451年
『宋書』では「任那、加羅」と2国が併記される。
その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
451年
宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済に「使持...
478年
宋朝の順帝は、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・...
『宋書』「夷蠻伝」倭国伝 『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南...
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服...
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ...
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安...
宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何・...
487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(...
『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官...
倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本...
413年 東晋 義熙9 讃 東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安...
421年 宋 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそら...
425年 宋 讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(...
430年 宋 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋...
438年 宋 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍...
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされん...
443年 宋 済 宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(...
451年 宋 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加...
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられ...
460年 宋 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 宋 興 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王...
477年 宋 興(武) 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝...
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・...
478年 宋 武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求め...
479年 南斉 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東...
502年 梁 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大...
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服...
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環...
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安...
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓...
と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認...
中国大陸南朝の将軍ランク
魏晋南北朝では、朝貢国の有力者に将軍の称号を与えた。東方...
①車騎将軍
②征東大将軍
③鎮東大将軍
④安東大将軍
⑤征東将軍
⑥鎮東将軍
⑦安東将軍
倭王珍は、倭だけでなく朝鮮半島の百濟、新羅、任那、辰韓、...
しかし、宋はそれより格下の安東将軍・倭王という称号を与え...
倭の五王の時代は、広開土王の石碑に記録された高句麗対百濟...
このため、南朝の宋王と交渉して、任命されることで高句麗を...
武王は、朝鮮半島の百濟以外の地域の軍を統括する安東大将軍...
宋の滅亡後に武王は斉と梁に朝貢し、このうち斉からは、より...
しかし、すでに高句麗の王は鎮東大将軍、百濟の王は鎮東将軍...
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6cの朝鮮半島
5c~6cの三国の情勢
高句麗
平壌城時代
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構え...
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済...
しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連...
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方...
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制の...
百済
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文...
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化す...
しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南...
このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清...
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためで...
聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改...
この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入...
聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを...
ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と...
百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃する...
新羅
『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて...
4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国...
当時、新羅領土の2倍である百済があった。また、新羅にとって...
新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下...
その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有...
さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間...
6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力...
高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、5...
中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その...
このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島...
隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句...
新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。
7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定され...
任那加羅諸国
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。
また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけ...
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史...
中国梁国の時の南齊書よると、
加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣...
と記録されている。
大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附...
百済が倭に対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させ...
百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王は522...
この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯...
こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれるこ...
後期伽耶連盟
5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部...
503年
当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、「新羅」を正式な国...
522年
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れる。
526年(百済聖王4年)
百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳...
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅...
527年(継体21)6月3日
ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南...
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であ...
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・...
このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ...
ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴...
528年(継体22年)11月11日
磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県...
529年3月
ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新...
532年
任那の金官国が新羅に降伏した。
新羅の圧力に抗しきれず、仇衝王(金仇亥)が国を挙げて降伏...
538年(宣化天皇3年)
仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(...
『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)...
一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天...
538年
百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に...
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためで...
541年(聖王19年)
百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。
554年
百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典...
ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と...
562年
大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合...
564年
新羅は北斉に朝貢して翌年に冊封を受ける。
568年
新羅、南朝の陳に朝貢した。
570年
北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが...
581年
中国の王朝 隋。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ...
588年
隋 文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮...
588年(崇峻天皇元年)
飛鳥寺(法興寺)
崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4...
589年
隋 次男楊広(後の煬帝)は、陳の都建康はあっけなく陥落し、...
593年(推古天皇元年)
四天王寺 難波(大阪)。
『日本書紀』によれば聖徳太子の発願によりに建て始められた...
594年(推古2)
仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の...
595年
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。
高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥...
604年
隋 文帝の崩御に伴い煬帝即位。
六世紀の朝鮮半島と倭国の関係(日本書紀)
500年 新羅本紀 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
502年 中国王朝(南朝) 梁 天監1 武 4月、梁の武帝、王朝樹立...
509年2月 日本
継体 百済に遣使した。
512年 標準世界史 伽耶(任那)4県を百済に譲渡
512年4月 日本
継体 穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った...
513年6月 日本
継体 済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に...
11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を...
514年3月 日本
継体 伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧...
515年2月 日本
継体 百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙...
516年5月 日本
継体 百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え...
9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地...
527年6月 日本
継体 近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[...
8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
527年 標準世界史 筑紫国国造、磐井の乱。
528年11月 日本
継体 物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り...
12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上し...
529年3月 日本
継体 百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝...
物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。
加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の...
加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀...
この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口...
4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を...
この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命...
新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴...
新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※...
530年9月 日本
継体 任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を...
毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一...
10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こし...
『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至...
534年 標準世界史 武蔵国造の乱。
534年5月 日本
安閑 百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、い...
537年10月 日本
宣化 新羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じ...
538年 日本
宣化 百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈...
540年8月 日本
欽明 麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
541年4月 日本
欽明 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の...
百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること...
7月、百済は安羅日本府と新羅が通じていると聞き、前部奈率...
そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔から...
聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉...
543年9月 日本
欽明 百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳...
11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令...
12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に...
544年1月 日本
欽明 正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに...
2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那...
これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って...
3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを...
10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。
11月、百済が日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て...
545年3月 日本
欽明 膳臣巴提便を百済に派遣した。 5月、百済が奈率其[忄...
9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇...
。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群...
546年6月 日本
欽明 百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年...
547年4月 日本
欽明 百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞...
548年1月 日本
欽明 百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送...
4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と...
6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、...
549年6月 日本
欽明 将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が...
550年2月 日本
欽明 百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、と...
4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖...
551年3月 日本
欽明 麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二...
552年5月 日本
欽明 百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多ら...
10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、...
553年1月 日本
欽明 百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を...
6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具...
8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し...
10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
554年1月 日本
欽明 百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派...
2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して...
5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。
12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え...
余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新...
555年2月 日本
欽明 百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺さ...
556年1月 日本
欽明 百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿...
560年9月 日本
欽明 新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
561年 日本
欽明 新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてな...
562年1月 日本
欽明 新羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、2...
7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅が任那を滅...
8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐...
11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅が任那を...
562年 標準世界史 伽耶(任那)の日本府が新羅に滅ぼされる。
新羅人(帰化人)の来航。
570年4月 日本
欽明 高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は...
571年3月 日本
欽明 坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊い...
4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにとい...
8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。
573年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷う...
574年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進...
575年2月 日本
敏達 百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天...
4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を...
6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼...
577年5月 日本
敏達 大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月...
579年10月 日本
敏達 新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送...
580年6月 日本
敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めず...
581年
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618年 中国
隋 中国に隋王朝が成立した。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西...
隋の大陸統一により、脅威を感じた高句麗が隋の敵・突厥と結...
612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴...
582年10月 日本
敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めず...
583年7月 日本
敏達 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部...
584年2月 日本
敏達 難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
587年2月 日本
用明 天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の...
588年1月 日本
崇峻 百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利...
591年8月 日本
崇峻 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった...
11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を...
592年 日本
崇峻 蘇我馬子は東漢駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初...
593年 標準世界史 四天王寺造立。
593年 日本
推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本
推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金...
599年9月 日本
推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本
推古 新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。...
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箕子朝鮮成立(前1122年-前200年)
関連概念:朝鮮半島現中国
箕子朝鮮殷周
箕子朝鮮(きしちょうせん)は、韓氏朝鮮ともいう。
朝鮮古代の伝承上の王国。
【伝承に見る箕子朝鮮】
始祖の箕子は、殷成立時中国王朝の最後の王であった___の叔父...
前1122年に、周成立時、___が殷を滅ぼしたとき,彼は、箕子に...
箕子は、朝鮮において「8条の教え」をつくり,民を教化した...
箕準はこのとき、南方に逃れ,辰国に依って韓王を称したとい...
【箕子伝承の発生と展開】
箕子の伝承は,中国の儒者の一学説からおこり,楽浪郡の役人...
このような箕子伝承が流布し定着したのは、中国古典の「箕子...
その後、高麗成立時、儒教が隆盛になるにつれて、貴族や知識...
また、李氏朝鮮成立時代に入ると、「箕子井田の跡」が喧伝さ...
しかし,近代以後に「民族意識」が高揚し,自国文化が尊重さ...
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箕子朝鮮
古朝鮮は、確実なところで、既にB.C.4世紀には、実在してい...
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は商王朝28代文丁の子...
『三国遺事』では、「周の武王は即位した己卯(きぼう)の年...
朝鮮侯・箕子は礼儀や田作・養蚕・機織りの技術を広め、ま...
人々はその徳を慕って集まったが、彼は集まった人々を、奴...
箕子は誇り高き人物でした。『史記宋微子世家』によれば、...
箕子は誇り高き人物でしたから、他人の誇りを尊重しました...
ただ建国後の動向はほとんど伝わっていません。3世紀前半に...
歴史の中の箕子朝鮮
初期鉄器時代の最初の頃、戦国期の燕国と交易を重ねていた...
箕子朝鮮はB.C.4~3世紀には、確かに実在はしていました...
戦国時代、その「箕」一族は、燕に服属しながらも、朝鮮西...
B.C.222年に燕が滅亡し、B.C.221年に秦が中国を統一します...
視点を変えれば寧ろ、斉と燕の人々は、「箕」一族の流れで...
箕子朝鮮はだいたい900年ほど続きますが、B.C.194年に、...
前漢時代の東夷諸国の状況をみると、松花江流域には夫余、...
このような箕子伝説は、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知...
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箕子朝鮮 キシチョウセン
デジタル大辞泉の解説
きし‐ちょうせん〔‐テウセン〕【箕子朝鮮】
前3世紀ごろ、朝鮮半島の北西部大同江流域に栄えた中国人の王...
箕子朝鮮【きしちょうせん】
古代朝鮮の王朝。いわゆる古朝鮮の一つで,伝説上の国。箕子...
きしちょうせん【箕子朝鮮】
朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。衛氏朝鮮が正史所...
きしちょうせん【箕子朝鮮】
古朝鮮の伝説的王朝の一。中国、周の武王が殷いん王族の箕子...
箕子朝鮮
きしちょうせん
古代朝鮮の王朝。衛氏(えいし)朝鮮とあわせ古朝鮮という。紀...
…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の...
【朝鮮】より
…この神話は北方の熊信仰,南方の聖地信仰などを基礎としたも...
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箕子朝鮮(きしちょうせん、BC12世紀? - BC194年)
箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。古...
首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰...
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代...
BC1046年
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じ...
『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、...
しかし大夫礼が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆...
以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二...
BC214年
秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐...
その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・...
BC195年
前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮...
衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡...
『漢書』巻二十八下、地理志下、燕地
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮...
とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良...
Wikipedia 箕子朝鮮より
『漢書』巻二十八下、地理志下、燕 より抜粋
燕地,尾、箕分野也。武王定殷,封召公於燕,其後三十六世與...
燕稱王十世,秦欲滅六國,燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王,不...
薊,南通齊、趙,勃、碣之間一都會也。初太子丹賓養勇士,不...
上谷至遼東,地廣民希,數被胡寇,俗與趙、代相類,有魚鹽棗...
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕...
維基文庫,自由的圖書館
衛氏朝鮮(えいしちょうせん BC195年? - BC108年)
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人...
箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八...
BC334年
この段階で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有してい...
BC284年
燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防...
また、中国商人の権益を保護していた。
秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に...
BC209年
秦末、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国...
BC206年
秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立...
その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王とな...
BC202年
『史記』によれば、前漢の高祖の時代、燕王臧荼は反乱を起こ...
BC197年
盧綰が漢に背いて匈奴に亡命。
劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を...
身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(...
衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりい...
秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人...
さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロ...
衛満は前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で...
その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦...
芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。
それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である。
衛満は、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立...
『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の...
Wikipedia 衛氏朝鮮
辰国(しんこく)
辰国は『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代...
記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不...
『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の...
三韓との関係
『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者...
これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「...
いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされている。
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漢四郡(かんのしぐん)
朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝...
各郡の位置については諸説ある。
中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部...
漢四郡に先立って、
BC134年
前漢は濊州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取ら...
BC128年
蒼海郡(そうかいぐん)
漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した植民地であ...
衛氏朝鮮に服属していた濊の君主である南閭が、衛氏朝鮮の衛...
漢四郡の設置
BC108年
楽浪郡(らくろうぐん)
漢朝によって設置され、BC108年からAD313年まで存在した、朝...
郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡...
BC108年
真番郡(しんばんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に設置され、15県からなり、郡治が...
BC108年
臨屯郡(りんとんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に臨屯郡が設置された。15県からな...
BC107年
玄菟郡(げんとぐん)
玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一...
BC107年
遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属し...
郡内の県は、夫租、高句驪、西蓋馬、上殷台の4県しかわからな...
当時の戸数は45,006戸、人口は221,845人。
当初の領域は遼東郡北端から出発して中朝国境地帯山岳部(吉...
BC82年
漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県...
玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に...
玄菟郡の郡治は夫租県から変わって高句驪県(現在の吉林省集...
これで、玄菟郡領域のうち日本海沿岸部(咸鏡南北道)は夫租...
BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治...
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治...
12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に...
30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接...
32年
建武8年に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ...
57年建武中元二年
倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印...
107年安帝永初元年
倭国王帥升等献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に...
107年
(永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内...
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡...
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句...
帯方郡(たいほうぐん)
設置から消滅する313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島...
楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)...
後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて...
204年
朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。 楽浪郡と帯方郡は313年...
後漢書 卷八十五·東夷列傳第七十五 倭 より抜粋
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界...
桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。有一女子各曰卑彌...
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高句麗前期(BC75年~313年)・扶余
夫余
現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国...
夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと...
BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治...
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治...
BC37年漢孝元帝の建昭2年
朱蒙は国を建て高句麗と号した。即位直後から隣接する濊貊(...
※東明聖王(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在...
3年
第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸...
9年
王莽が新を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周...
12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に...
25年
東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった...
30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接...
32年建武8年
高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格され...
53年
高句麗,太祖王即位。
107年永初元年
玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡...
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句...
111年
夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷した...
120年
夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝...
122年
高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、夫余は兵を派...
136年
夫余王は京師(洛陽)に来朝した。
150年
馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる。
161年
夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2...
174年
夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
189年
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 2...
194年
高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸...
197年
第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優と...
219年
高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵...
※高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿によ...
242年
西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。
244年
1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎...
245年
再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句...
312年
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の...
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落さ...
313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半...
三韓時代及びそれ以前の朝鮮半島に存在する諸国家の概説
夫余
現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国...
夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと...
元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴が遼西郡に侵入してその太守...
粛慎
粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、拼音:Sùshèn)とは...
挹婁
後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州...
古の粛慎(しゅくしん、みしはせ)の末裔とされ、魏代・晋代...
漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、...
前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎...
その後は勿吉→靺鞨と名称を変えていく。
馬韓
BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団...
馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それ...
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇...
建国
『三国遺事』によると、「魏志云。魏滿擊朝鮮。朝鮮王準率宮...
『魏書』によると、「侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪,...
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人...
濊貊(わいはく、かいはく)
中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて...
BC2世紀の中国東北部にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句...
濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷...
『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地...
沃沮(よくそ)
BC2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の倭国海に沿った地方(...
『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長...
「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡...
辰韓(しんかん、BC2世紀 - 356年)
朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し...
辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』...
『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇が...
辰韓と古代中国人との関係
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』...
弁韓(べんかん)
BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一...
領域
馬韓の東、辰韓の南、倭国海に接し、後の任那・加羅と重なる...
のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国...
社会・風俗
『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や...
また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとあ...
公孫氏による帯方郡創設
189年
後漢の末、中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡...
204年
その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(...
郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ね...
228年
成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・公孫恭の位を奪い取り、...
237年景初元年
公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の...
238年
魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、...
これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変...
目次に戻る
魏 帯方郡と楽浪郡の二郡直轄経営
238年
襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞ...
帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の...
238年景初2年
邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述...
このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の...
240年正始元年
新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯儁に持...
245年
弓遵は、嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所...
247年
弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗...
『三国志』魏書東夷伝 倭人の条
卑弥呼(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭...
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、そ...
238年 中国
倭国 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮...
240年 中国
倭国 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭...
243年 中国
倭国 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派...
245年 中国
倭国 難升米に黄幢を授与。
247年 中国
倭国 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告...
不明年 中国
倭国 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱...
266年 中国
倭国 (西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か?)遣使し、西晋...
壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都...
帯方郡の滅亡
265年泰始元年
魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐...
300年永康元年
魏は身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。
この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提...
313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半...
元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋...
高句麗、新羅、伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代。三国...
百済
4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。
それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年...
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だ...
新羅
朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「辰韓の斯蘆」(しろ)...
伽耶(かや)は加羅(から)。また加羅諸国(からしょこく)
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東...
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史...
高句麗と百済の戦争
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を...
355年
前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封さ...
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従した。
360年代
伽耶南部・倭との通交。
369年代
百済、倭国へ七支刀を献上。
この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東...
371年
高句麗、百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
百済の近肖古王は楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故...
※百済はその後、高句麗の好太王や長寿王のために押され気味と...
372年
百済、東晋への遣使。
372年
前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成の...
384年(百済枕流王1年)、
百済、東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢...
385年(百済枕流王2年)
王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
391年
19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討...
碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝...
そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条の他に...
399年
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討...
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入...
400年
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任...
404年
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これ...
碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が...
また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭...
奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記...
辛卯年条 碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二...
391年
倭が百済□□新羅を破り臣民とした。
393年
倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め...
397年
百済はいったん高句麗に従属したが、阿莘王の王子腆支を人質...
399年
百済、倭に服属した。
400年
倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新...
402年
新羅もまた倭に奈勿王の子未斯欣を人質に送って属国となった。
404年
高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。
405年
倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国...
目次に戻る
5cの朝鮮半島
高句麗
長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を...
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構え...
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収める。
475年
百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。
この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配する...
5c末
百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を...
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方...
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制の...
百済
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故...
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味...
この間の事情は好太王碑文に記されている。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定す...
これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と...
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文...
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化す...
新羅
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)...
朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て...
斯蘆国の時代
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国...
新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併...
4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国...
377年
『太平御覧』で引用する『秦書』には、前秦に初めて新羅が朝...
382年
新羅王楼寒(ろうかん)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身...
この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ...
記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年と...
『秦書』
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實...
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉...
或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派...
広開土王碑や中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によ...
加羅諸国
三韓の一つの弁韓を母体とする。
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東...
414年
に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初...
南齊書よると、加羅國,三韓種也。
建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加...
と記録されている。
宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁...
任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で...
1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金...
後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3...
首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とす...
4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形...
宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁...
任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭...
任那
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人...
任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと...
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中...
金石文
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國...
百済にも新羅にも属さなかった領域は、例えば478年の倭王武の...
ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金...
秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存し...
慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存し...
中国史料における任那
400年
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加...
438年
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見える。
451年
『宋書』では「任那、加羅」と2国が併記される。
その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
451年
宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済に「使持...
478年
宋朝の順帝は、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・...
『宋書』「夷蠻伝」倭国伝 『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南...
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服...
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ...
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安...
宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何・...
487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(...
『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官...
倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本...
413年 東晋 義熙9 讃 東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安...
421年 宋 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそら...
425年 宋 讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(...
430年 宋 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋...
438年 宋 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍...
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされん...
443年 宋 済 宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(...
451年 宋 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加...
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられ...
460年 宋 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 宋 興 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王...
477年 宋 興(武) 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝...
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・...
478年 宋 武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求め...
479年 南斉 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東...
502年 梁 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大...
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服...
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環...
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安...
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓...
と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認...
中国大陸南朝の将軍ランク
魏晋南北朝では、朝貢国の有力者に将軍の称号を与えた。東方...
①車騎将軍
②征東大将軍
③鎮東大将軍
④安東大将軍
⑤征東将軍
⑥鎮東将軍
⑦安東将軍
倭王珍は、倭だけでなく朝鮮半島の百濟、新羅、任那、辰韓、...
しかし、宋はそれより格下の安東将軍・倭王という称号を与え...
倭の五王の時代は、広開土王の石碑に記録された高句麗対百濟...
このため、南朝の宋王と交渉して、任命されることで高句麗を...
武王は、朝鮮半島の百濟以外の地域の軍を統括する安東大将軍...
宋の滅亡後に武王は斉と梁に朝貢し、このうち斉からは、より...
しかし、すでに高句麗の王は鎮東大将軍、百濟の王は鎮東将軍...
目次に戻る
6cの朝鮮半島
5c~6cの三国の情勢
高句麗
平壌城時代
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構え...
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済...
しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連...
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方...
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制の...
百済
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文...
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化す...
しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南...
このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清...
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためで...
聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改...
この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入...
聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを...
ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と...
百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃する...
新羅
『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて...
4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国...
当時、新羅領土の2倍である百済があった。また、新羅にとって...
新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下...
その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有...
さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間...
6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力...
高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、5...
中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その...
このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島...
隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句...
新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。
7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定され...
任那加羅諸国
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。
また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけ...
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史...
中国梁国の時の南齊書よると、
加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣...
と記録されている。
大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附...
百済が倭に対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させ...
百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王は522...
この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯...
こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれるこ...
後期伽耶連盟
5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部...
503年
当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、「新羅」を正式な国...
522年
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れる。
526年(百済聖王4年)
百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳...
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅...
527年(継体21)6月3日
ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南...
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であ...
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・...
このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ...
ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴...
528年(継体22年)11月11日
磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県...
529年3月
ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新...
532年
任那の金官国が新羅に降伏した。
新羅の圧力に抗しきれず、仇衝王(金仇亥)が国を挙げて降伏...
538年(宣化天皇3年)
仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(...
『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)...
一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天...
538年
百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に...
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためで...
541年(聖王19年)
百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。
554年
百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典...
ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と...
562年
大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合...
564年
新羅は北斉に朝貢して翌年に冊封を受ける。
568年
新羅、南朝の陳に朝貢した。
570年
北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが...
581年
中国の王朝 隋。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ...
588年
隋 文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮...
588年(崇峻天皇元年)
飛鳥寺(法興寺)
崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4...
589年
隋 次男楊広(後の煬帝)は、陳の都建康はあっけなく陥落し、...
593年(推古天皇元年)
四天王寺 難波(大阪)。
『日本書紀』によれば聖徳太子の発願によりに建て始められた...
594年(推古2)
仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の...
595年
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。
高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥...
604年
隋 文帝の崩御に伴い煬帝即位。
六世紀の朝鮮半島と倭国の関係(日本書紀)
500年 新羅本紀 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
502年 中国王朝(南朝) 梁 天監1 武 4月、梁の武帝、王朝樹立...
509年2月 日本
継体 百済に遣使した。
512年 標準世界史 伽耶(任那)4県を百済に譲渡
512年4月 日本
継体 穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った...
513年6月 日本
継体 済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に...
11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を...
514年3月 日本
継体 伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧...
515年2月 日本
継体 百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙...
516年5月 日本
継体 百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え...
9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地...
527年6月 日本
継体 近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[...
8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
527年 標準世界史 筑紫国国造、磐井の乱。
528年11月 日本
継体 物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り...
12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上し...
529年3月 日本
継体 百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝...
物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。
加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の...
加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀...
この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口...
4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を...
この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命...
新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴...
新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※...
530年9月 日本
継体 任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を...
毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一...
10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こし...
『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至...
534年 標準世界史 武蔵国造の乱。
534年5月 日本
安閑 百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、い...
537年10月 日本
宣化 新羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じ...
538年 日本
宣化 百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈...
540年8月 日本
欽明 麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
541年4月 日本
欽明 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の...
百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること...
7月、百済は安羅日本府と新羅が通じていると聞き、前部奈率...
そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔から...
聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉...
543年9月 日本
欽明 百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳...
11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令...
12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に...
544年1月 日本
欽明 正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに...
2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那...
これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って...
3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを...
10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。
11月、百済が日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て...
545年3月 日本
欽明 膳臣巴提便を百済に派遣した。 5月、百済が奈率其[忄...
9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇...
。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群...
546年6月 日本
欽明 百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年...
547年4月 日本
欽明 百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞...
548年1月 日本
欽明 百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送...
4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と...
6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、...
549年6月 日本
欽明 将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が...
550年2月 日本
欽明 百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、と...
4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖...
551年3月 日本
欽明 麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二...
552年5月 日本
欽明 百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多ら...
10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、...
553年1月 日本
欽明 百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を...
6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具...
8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し...
10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
554年1月 日本
欽明 百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派...
2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して...
5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。
12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え...
余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新...
555年2月 日本
欽明 百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺さ...
556年1月 日本
欽明 百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿...
560年9月 日本
欽明 新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
561年 日本
欽明 新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてな...
562年1月 日本
欽明 新羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、2...
7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅が任那を滅...
8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐...
11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅が任那を...
562年 標準世界史 伽耶(任那)の日本府が新羅に滅ぼされる。
新羅人(帰化人)の来航。
570年4月 日本
欽明 高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は...
571年3月 日本
欽明 坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊い...
4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにとい...
8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。
573年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷う...
574年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進...
575年2月 日本
敏達 百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天...
4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を...
6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼...
577年5月 日本
敏達 大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月...
579年10月 日本
敏達 新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送...
580年6月 日本
敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めず...
581年
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618年 中国
隋 中国に隋王朝が成立した。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西...
隋の大陸統一により、脅威を感じた高句麗が隋の敵・突厥と結...
612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴...
582年10月 日本
敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めず...
583年7月 日本
敏達 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部...
584年2月 日本
敏達 難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
587年2月 日本
用明 天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の...
588年1月 日本
崇峻 百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利...
591年8月 日本
崇峻 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった...
11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を...
592年 日本
崇峻 蘇我馬子は東漢駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初...
593年 標準世界史 四天王寺造立。
593年 日本
推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本
推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金...
599年9月 日本
推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本
推古 新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。...
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