藤原氏元祖考
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藤原氏元祖考(鎌足ー藤原四家始祖)
1)はじめに
筆者が住んでいる京都府長岡京市には、市立「中山修一記念...
この記念館の中には、先生が生存中にご勉強された蔵書が約6...
勿論専門家のように原典に基づく史料作りは、筆者如きアマチ...
筆者が古代豪族シリーズをhpに掲載開始したのは平成16年...
当初の頃は人物列伝も調査範囲も狭く、多くの重要人物をその...
当初藤原氏を代表的古代豪族として取り上げるべく、調査を進...
ところで、本稿で取り上げる藤原氏は、古代豪族の雄である。...
古代豪族を研究することは、古代史を究明することとある面で...
さて藤原氏は、葛城氏・蘇我氏に続き、そして最終的な古代の...
勿論平安時代には新たに平氏・源氏という豪族的血脈集団が発...
藤原氏は、平安時代以降天皇家を中心とした朝廷政治の中枢に...
この藤原氏発生の原点は、色々な謎が存在しているが、「大化...
2)藤原氏元祖関係人物列伝
中臣氏から藤原氏は派生した氏族である。よって中臣鎌足以...
・天児屋根命
・中臣可多能祐(かたのすけ)(?-?)
①父:常磐 母:物部尋来津橘首女那古娘
②子供:国子・糠手子・御食子 別名:方子 妻:狭井麿古...
妻:山部歌子連女那爾毛古娘(伊予来目部播磨国司山部小楯孫...
③大連
・中臣御食子(みけこ)(?-?)
①父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
②妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614-669)・久多・垂目...
長男、中臣氏一門。
③628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に...
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。(紀)
④小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢...
(中臣本系帳)
⑤鹿島神宮の神官として東国に赴任していたという伝承が残され...
⑥大連
参考)大伴智仙媛(?ー?)
①父:大伴咋子(くいこ) 母:不明
②夫:中臣御食子 子供:中臣鎌足 兄弟:大伴長徳(大伴氏...
別名:智仙娘
③奈良県高市郡明日香村飛鳥に墓がある。
2-1)中臣(藤原)鎌足(614-669)
①父;中臣御食子 母;智仙娘(大伴咋子女)
②妻:鏡王女(38天智夫人)、車持君与志古娘、阿倍小足媛(...
子供:定恵・不比等・五百重媛(40天武夫人、不比等夫人)...
別名:鎌子・仲郎
③御食子(弥気)の長子。中臣宗家の嫡男であった(次男説もあ...
出生地:藤氏家伝では、大和国高市郡藤原。(現在の橿原市高...
「斗売娘」に猶子として、中臣国足の子意美麻呂を入れる。
④中臣氏は、天児屋根命の末裔氏族とされ、姓ははじめ連、68...
元来「卜部氏」を名乗った。鎌足の曾祖父にあたる常盤が、は...
本拠地;河内国河内郡枚岡神社付近(東大阪市出雲井町) 参...
もともと、祭祀を司る伴造氏族。推古、舒明朝頃から次第に国...
⑤鎌足と中大兄皇子の出会いの記事(644年)は日本書紀にも...
⑥644年中臣鎌子、神祇伯就任を辞退。摂津国三嶋の別業に病...
⑦645年中大兄皇子・石川麻呂とともに、蘇我入鹿を飛鳥板蓋...
⑧647年大錦冠を授与。649年政敵であった阿倍倉梯麻呂・...
⑨653-657年采女「安見児」、「鏡王女」を38天智天皇...
⑩661年内臣として百済救援軍に従い難波を出発。その年に帰...
⑩669年病にかかり重体となり、38天智天皇が見舞いに行き...
⑪墓所:死後奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られた。
三代実録:「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入...
多武峯略記:「最初は摂津国安威(現:茨木市)に葬られたが...
藤原鎌足公墓所:奈良県桜井市御破裂山頂上付近。(談山神社...
・1934年発掘の茨木市の阿武山古墳の人骨こそ鎌足のもの...
藤氏家伝:京都市山科区(山階寺と関係か?)
・談山神社伝では678年に唐から帰朝した長男真人が鎌足の...
665年には没しているのでこの説とは整合しない。
⑫百済系渡来人説・日本人養子説など謎多い出自である。
参考)イ)百済王 余豊璋説(門脇禎二・関 祐二氏など)
ロ)常陸国鹿島出身の秀才、中臣本家の養子に迎えられ...
<中臣氏と鹿島との関係>
「常陸国風土記」によると、中臣氏と武甕槌神の繋がりの話あ...
10崇神天皇の時に純白の服を付けた神が、奈良山に現れ、自...
その時天皇が、奈良山の神の正体を知る者はいないかと宮廷の...
氏の祖先、「神聞勝命」が、それは「鹿島神」であるといった...
が「鹿島神宮」に仕えるようになった。この神は、もと常陸国...
地方豪族が祀った神でその地方で最も権威ある神として「香島...
タケミカズチは、中臣氏をつうじて、日本神話の中に組み入れ...
は、中央の中臣氏の支配を受け「中臣部」を名のっていた。こ...
の神でタケミカズチとなった。この神も神武東征に出てくる。
⑬大鏡:藤原鎌足に関して「そのおとどは常陸国にてむまれたま...
⑭死没地:家伝:淡海の第で薨じ山階精舎で葬儀。
日本書紀:私第に薨じ、遷して山科の南で殯した。
・定恵(じょうえ)(643-665)
①父:鎌足? 母:車持国子娘与志古娘?
②長男、弟:不比等 別名:中臣真人・貞恵・定慧
③実父は36孝徳天皇説あり。母は36孝徳天皇の寵妃阿倍小足...
尊卑分脈:母は車持国子娘与志古娘としている。
④653年遣唐使。学僧。
⑤665年帰国。同年現在の奈良県高市郡明日香村小原でなくな...
その才が妬まれて百済人に暗殺された。との説あり。
⑥僧としての活動記録。中臣氏一門の跡取りである長男を僧にし...
・氷上娘(?-682)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇 子供:但馬皇女 別名:氷上大刀自・氷上夫人
③万葉歌人
④682年宮中で亡くなった後、赤穂に葬られる。
・五百重娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇・藤原不比等、 子供:新田部親王(天武の子)...
③万葉歌人
④680年頃新田部皇子を産む。
④695年不比等との間に京家祖となる「麻呂」を産んだ。
・耳面刀自(みみもとじ)(?-672?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:大友皇子 子供:壱志姫王
③紀・藤氏家伝に記事なし。本朝皇胤招運録・懐風藻などに関連...
④千葉県に伝承寺院あり。近江宮から落ち延びたらしい。672...
・壱志姫王
大友皇子の女と本朝皇胤招運録に記事あり。他の文献にはな...
・斗売娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:中臣意美麻呂<国足 子供:東人・安比等
③当初は鎌足は従兄弟である中臣国足の子供であった中臣意美麻...
参考)中臣意美麿(651?-711)
①父:国足 母:不明
②妻:阿伎良<多治比嶋 斗売娘<藤原鎌足 中臣東子 ...
子供:大中臣清麿・東人・泰麿・広見・安比等・長人、豊足、...
③正四位上、中納言兼神祇官。
④当初中臣鎌足の婿養子となり藤原朝臣姓を名乗った。(鎌足の...
⑤686年大津皇子事件に連座。その後赦免。
⑥699年鋳銭司長官
⑦708年不比等の推薦を得て正四位上中納言。神祇伯。
・鏡王女(?-683)
①父:鏡王?(舒明天皇系?) 母:不明
②夫:38天智天皇・鎌足(正妻)兄弟:額田王?(妹)子供:...
別名:鏡姫王(紀)鏡女王
③万葉歌人
④683年死の直前に天武天皇が見舞っている。
⑤墓:奈良県櫻井市の舒明天皇陵付近 談山神社管理。
⑥当初天智天皇の妃であった。天智天皇はこれを鎌足に下賜して...
「興福寺縁起」によれば不比等の母親であるとしている。しか...
⑦額田王の姉であるという説は現在では余り有力ではないが皇族...
(参考)額田王()
①父:鏡王 母:不明
②夫:天武天皇・天智天皇 兄弟:鏡姫王? 子供:
③万葉歌人
・車持君与志古娘(?-?)
①父:車持君国子 母:不明
②夫:鎌足 子供:定恵?・不比等?
③尊卑分脈:子供は定恵・不比等としてある。
「興福寺縁起」:不比等の母は鏡王女としている。
④奈良時代以前のその存在を証明する確実な史料がない。
⑤平安時代以降の藤原氏の系図にはこの人物が定恵・不比等両名...
父は孝徳天皇と記してある。
非常に現存したことを証明し難い人物である。
(車持君関係参考資料) (毛野氏考参照)
・御諸別
①父:彦狭島 母:不明
②子供:大荒田別 鹿我別(浮田国造:磐城国相馬)巫別(か...
別名:弥母里別
③紀(景行56年):天皇は、汝の父彦狭島王、任する所に向か...
・大荒田別
①父:御諸別 母:不明
②子供:韓矢田部現古 上毛野竹葉瀬 下毛野田道
③紀(神功49):新羅を討つ。
③紀(応神15):上毛野君祖荒田別・巫別を百済に遣わし、西...
・韓矢田部現古
①父:大荒田別 母:不明
②子供:武額・若多気姫(下毛野奈良別妻)
③神功代の人物。車持朝臣氏祖。
・車持射狭
①父:韓矢田部布禰古 母:不明
②兄弟:迦波
③雄略朝、車持姓を賜る。
④この流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出た...
⑤車持君は上毛野国が出自。真壁郡辺りか。 車評(くるまこう...
・阿倍小足媛(?-?)
①父:阿倍内麻呂 母:不明
②夫:孝徳天皇・鎌足? 子供:有馬皇子(640-658)・...
別名:男足媛
③644年(紀記事)軽皇子(孝徳天皇)が朝参しなかった時、...
④多武峯略記の記事からは鎌足の長男とされる真人の母は孝徳天...
・安見児(?-?)
天智天皇の采女であった女性。鎌足に下賜せられた。万葉集に...
子供などの記録なし。この女性こそ不比等の母であるとの説あ...
・豊璋王(ほうしょう)(?-?) (百済氏考...
①父:義慈王 母:不明
②妻:多蒋敷妹(多宇気子女)。子供:不明 別名:扶余豊璋・...
③百済国嫡流王族。倭国滞在中に百済本国が滅亡。復興のため帰...
④日本書紀:631年豊璋来日。百済本紀:653年倭国と通好...
650年の難波宮記事に豊璋登場。人質ではあったが、賓客扱...
⑤中大兄皇子は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することにな...
⑥662年帰国。663年鬼室福信を殺害。百済軍弱体化。倭国...
⑦唐本国から7,000の援軍が来て、倭国軍と白村江で戦う。...
⑧高句麗に逃げた。668年高句麗も唐により滅亡。豊璋は、中...
2-2)藤原不比等(659または、658-720)
①父;中臣鎌足 母;車持君与志古娘?諸説ある)
②次男、妻:蘇我臣連子の娘(娼子)(正妻)・賀茂比売・橘三...
子供:武智麻呂、房前・麻呂・宇合・宮子(42文武夫人、4...
大伴古慈悲室) 別名:史・淡海公
③母親については古来諸説あり。
「興福寺縁起」:母は、鏡王女(額田王の姉?)38天智天皇...
鎌足の正妻となった。また別伝では、「公避くる所の事あり(...
ところがあった)」とあり、天智落胤説の根拠とされている。
鎌足次男。父鎌足が、45才の時の男子。長男「定恵」は、当...
尊卑分脈・公卿補任:母は車持君与志古娘
その他:安見児こそ不比等の母であるとする説
④幼少期山科の田辺家(田辺史大隅;百済系渡来人)で養育を受...
⑤669年11才で父鎌足死去。幼少期の記録ほとんどない。
⑥672年壬申の乱勃発。近江方の重臣の子であった不比等は、...
幸運に恵まれた。
⑦679年(不比等21才)この頃右大臣蘇我臣連子の女、娼子...
⑧680年長男武智麻呂誕生。
⑨681年次男房前誕生。妻娼子死去。
⑩682年この頃賀茂君女比売女と再婚。
⑪683年長女宮子、次女長蛾子誕生。
⑫684年中臣朝臣姓を賜与。
⑬685年藤原朝臣姓を賜与。
⑭40天武天皇からは、生前の鎌足の徳があり、庇護を受けた。...
⑮689年41持統帝の時、31才で判事(従五位下)という高...
⑯草壁皇子の死の直前、愛用の刀(黒作懸佩刀)を遺贈され、軽...
⑰694年三男宇合誕生。695年四男麻呂誕生。
⑲697年軽皇子即位(42文武)さらに娘宮子を入内させた。
⑳698年文武天皇の時、不比等一家のみ藤原姓となる。他の中...
⑳①この頃「県犬養三千代」を美努王から奪って後妻とした。(...
⑳②701年正三位大納言。「大宝律令」参画。宮子に首皇子(...
⑳③707年42文武天皇死亡。その母阿閇皇女を推し、708...
⑳④710年平城遷都を主導。興福寺建立。「養老律令」編纂着...
⑳⑤720年62才で平城京私宅(現法華寺付近)で死去。
⑳⑥墓所は談山神社か?(延喜式)
・蘇我娼子(しょうし)(?-?) (蘇我氏考...
①父:蘇我臣連子 母:不明
②夫:不比等 兄弟:蘇我安麻呂 子供:武智麻呂・房前・宇合...
③701年に不比等が県犬養三千代と再婚の記事(続日本紀)予...
④41持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の外孫である。不比等を持...
⑤没落大豪族蘇我氏の血脈が新興豪族藤原氏に入ったのは史実で...
⑥680年武智麻呂を産む。
⑦681年房前を産む。
⑧694年宇合を産むとあるが、これは誤りらしい。
・蘇我連子(611?-664) (蘇我氏...
①父:蘇我倉麻呂 母:不明
②子供:安麻呂・娼子 兄弟:倉山田石川麻呂・日向・赤兄・果...
③664年死亡記事のみ(紀)官位は大紫 右大臣(扶桑略記)
・賀茂比売(?-735) (賀茂族...
①父:賀茂朝臣小黒麻呂 母:不明
②夫:不比等 子供:宮子・長蛾子?・多比能?
③682年この頃宮子を産む。
④正四位上で死去。
・県犬養橘三千代(665?-733) (橘...
①父:県犬養東人 母:不明
②夫:美努王・不比等 兄弟:石次(参議)
子供:橘諸兄・牟漏女王(美努王の子)・佐為王
光明子・殿刀自・多比能(尊卑分脈)?(不比等の子)
③684年美努王と結婚。葛城王を産む。694年夫が太宰帥と...
④701年頃不比等と結婚、安宿媛を産む
⑤708年元明天皇より橘宿禰姓を賜る。721年正三位。
⑥733年内命婦正三位で死去。
⑦天武ー聖武帝にいたる内廷に奉仕。文武・聖武の乳母的存在。
参考)美努王(?-708) (橘氏考参照)
①父;栗隈王 母;不明 父を大俣王とする異説あり。
②妻;県犬養三千代(県犬養氏人物列伝参照)子供;葛城王(橘...
③672年「壬申の乱」の際、父栗隈王、兄武家王と共に大宰府...
④681年川島皇子らと共に「帝記及び上古の諸事」の記録、校...
685年京畿内の兵器校閲使者。
⑤694年大宰帥に任じられ筑紫に下向。妻三千代は、同行しな...
⑥701年造大弊司長官 正五位下、翌年左京大夫
⑦705年摂津大夫、従四位下。
⑧708年治部卿となり死去。贈正二位。
・宮子(683?-754)
①父:不比等 母:賀茂比売<賀茂朝臣小黒麻呂<吉備麻呂
②長女、夫:42文武天皇 異母妹:光明子 子供:45聖武天皇
③697年42文武天皇に嫁ぐ。
④701年首皇子(45聖武天皇)出産。心の病に罹る。
⑤723年従二位。
⑥724年聖武天皇即位。正一位。皇太夫人
⑦737年病気平癒。聖武天皇と36年ぶりに対面。僧「玄昉」...
⑧749年孫である孝謙天皇即位。太皇太后。
・長蛾子()
①父:不比等 母:賀茂比売娘?
②夫:長屋王 子供:教勝王・山背王・黄文王・安宿王
③尚蔵従三位。
参考)長屋王(676又は684ー729) (古代天皇...
①父;高市皇子 母;御名部皇女<天智
②高市の第1子。吉備内親王(草壁女)を正室とし、膳夫王、葛...
間に安宿王、黄文王ら。智努女王<長皇子、安倍大刀自、石川...
③皇太子であったらしい。
④718年大納言。719年右大臣不比等死亡。721年右大臣。
これ以降皇親政治に戻す動きの中心人物となる。
⑤721年元明上皇は、右大臣長屋王と藤原房前に後事を託す。
⑥723年三世一身の法施行に関与。
⑦首皇太子の即位に関し推進派武智麻呂と慎重派長屋王との間対...
この後不比等の四子との対立激化。聖武天皇妃、不比等娘光明...
⑦729年「長屋王の変」で自殺。光明子立后を反対されること...
⑧この変で大多数の妃や子供も一緒に自害した。但し藤原長娥子...
生き残った。その一人とされる桑田王の流れから高階氏が発生...
「高階氏」として活躍する。
・山背王(?-763) (古代天皇家概論...
①父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
②同母兄弟:安宿王、黄文王、桑田王など
③729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
④757年橘奈良麻呂の乱では謀反計画を密告し、反藤原勢力を...
奈良麻呂は兄弟の黄文王・安宿王などを皇位につけようとして...
⑤孝謙天皇から藤原姓を賜り、藤原弟貞と改名。
⑥762年参議。
・光明子(701-760)
①父:不比等 母:県犬養三千代
②三女、夫:45聖武天皇(后)子供:別名:安宿媛(あすか)...
③716年16才で首皇子の妃となる。718年阿倍内親王(孝...
④724年夫即位。夫人号。
⑤727年基王出産。728年皇太子基王夭折。長屋王の変。
⑥729年皇后になる。王族以外からの立后の初例とされた。
⑦749年46孝謙天皇即位。皇后宮職を紫微中台と改称。藤原...
⑧756年45聖武太上天皇死去。
⑨仏教信者・東大寺・国分寺設立。悲田院施薬院設置。正倉院創...
新薬師寺の創建整備。など多くの文化的事業を聖武天皇と共に...
・多比能(702?-?)
①父:不比等 母:橘三千代?賀茂比売?
②夫:橘諸兄 子供:奈良麻呂
③母親が橘三千代説があるが夫橘諸兄と同腹異父兄妹になりこれ...
参考)橘諸兄(683-757) (橘氏考参照)
①父;美努王 母;県犬養三千代
②妻;多比能?(不比等女)但し母が三千代でありこの関係疑問...
兄弟;弟;佐為王、妹;牟漏王女(藤原房前室)異父妹;光...
子供;清野?、奈良麻呂、諸方(子供:正方) 別名:葛城王
③710年従五位下。729年正四位下、左大弁。731年参議...
④736年弟佐為王と自ら願い出て「橘宿禰」の姓を賜って臣籍...
⑤737年藤原4兄弟の連続の死により急に中央政権に出てきた...
⑥738年阿倍内親王の立太子と同時に右大臣となる。以後政界...
⑦739年従二位。740年45聖武天皇を相楽別業(京都府綴...
⑧743年従一位左大臣。749年に正一位となる。生前に正一...
⑨745年紫香楽遷都、聖武天皇は、平城京に還都。結局諸兄の...
⑩750年朝臣姓を賜る。宿禰から朝臣への改姓の初見。
⑪755年飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告...
・殿刀自(702?ー?)
①父:不比等 母:橘三千代
②夫:大伴古慈悲 子供:弟麻呂
参考)大伴宿禰古慈斐(こしび)(695ー777) ( 大...
①父;祖父麻呂 母;不明
②吹負の孫。子;弟麻呂 妻;藤原不比等女刀自を正妻とした。
③739年従五位下、756年朝廷誹謗の件で、淡海三船と共に...
参考)大伴宿禰弟麻呂(727-809) ( 大伴氏考参照)
①父;古慈斐 母;不明(刀自?)
②794年征夷大将軍として副将軍坂上田村麻呂を用いて、蝦夷...
(参考)玄昉(?-746)
①父:阿刀氏 母:不明
②物部系か。
③717年遣唐僧。法相教学
④737年永らく鬱病だった藤原宮子を看病し快癒させた。僧正...
⑤745年行基が大僧正となる。筑紫観世音寺に左遷。そこで没。
(参考)田辺史大隅()
2-3)藤原武智麻呂(680-737)
①父;藤原不比等 母;蘇我連子女(娼子)
②長男。同母弟;房前、宇合?、異母弟;麻呂
異母姉妹;宮子、長蛾子、光明子、多比能ら。
妻;阿倍御主人孫貞媛・竹野女王
子供;豊成、仲麻呂(恵美押勝)ら。その他子、南殿(45聖...
③藤原南家の祖。
④幼くして母を失い、病弱であったが、少年時穂積皇子に才を認...
⑤701年内舎人に任官。廃れていた大学を再興。 大学頭歴任。
⑥718年式部卿。
⑦721年長屋王右大臣の時、中納言になる。724年首皇子即...
と同時に)
⑧729年「長屋王の変」では、舎人親王と共に王を訊問。自害...
⑨734年45聖武帝の右大臣。娘を45聖武に入内。その後正...
⑩737年大流行した天然痘に罹って、兄弟揃って死去。
⑪墓所:奈良県五條市 栄山寺裏山(国史跡)
・竹野女王()
①父:長屋王? 母:不明
②子供:武智麻呂女(45聖武天皇妃)
③従二位。
・阿倍御主人孫貞媛()
①父:阿倍貞吉<御主人* 母:不明
②夫:藤原武智麻呂(正室)子供:豊成・仲麻呂
*阿倍御主人(635-703) ( 阿倍氏考参照)
①父:倉梯麻呂(内麻呂) 母:不明
②子供:広庭・貞吉 兄弟:小足媛(孝徳天皇妃) 別名:布...
③壬申の乱では天武側についた。
④701年従三位中納言。従二位右大臣
2-3)藤原房前(681-737)
①父;不比等 母;蘇我連子女
②次男、妻:牟漏女王<美努王、春日倉首老娘、片野朝臣女、阿...
子供:永手、八束、千尋、北殿(聖武夫人)他に、鳥養、清河...
別名:藤原北卿
③藤原北家の祖。
⑤705年従五位下。709年東海道・東山道検察使
④717年兄より先に参議に抜擢。父子議政官の初例(参議以上...
⑤720年病床の元明上皇より長屋王と共に召され、後事を託さ...
⑥729年兄は、大納言になったが、房前は、参議中務卿のまま。
⑦737年正三位参議民部卿として、死亡。(57才)
⑦片野朝臣女との子、魚名流れより54仁明后沢子(58光孝天...
⑧平安時代「摂関家」となるのは、この藤原氏である。
・牟漏女王(?-746)
①父:美努王 母:県犬養橘三千代
②夫:藤原房前(正室)兄弟:橘諸兄・佐為王、
子供:次男永手・三男真楯(八束)
・六男御楯(千尋)・袁比良(藤原仲麻呂室)・北殿(聖武天...
③714年以前に房前と結婚。
④739年従三位。尚侍・尚蔵。夫の死後本格的に後宮吏官とし...
⑤746年正三位、正二位の記事もある。
・春日倉首老娘()
①父:春日倉首老* 母:不明
②夫:藤原房前 子供:長男馬養
*①万葉歌人 法名:弁紀
②701年朝廷の命により還俗。
③714年従五位下 常陸介
・片野朝臣女()
①父:片野朝臣(従四位下)母:不明
②夫:藤原房前 子供:四男清河 五男魚名
・阿波采女()
①父:母:不明
②夫:藤原房前 子供:七男楓麻呂 別名:粟凡直若子 板...
③阿波国板野郡出身の采女。
2-3)藤原宇合(694?ー737)
①父;不比等 母;蘇我連子女???
②三男。母は、連子女説は無理?694年頃には、既に死没して...
③藤原式家の元祖。式家は、後年50桓武朝成立の指導的氏族と...
③716年第8次遣唐使副使。入唐。従五位下。
④721年長屋王右大臣就任の時兄武智麻呂に替わり、正四位上。
⑤724年式部卿、持節大将軍に就任。725年従三位。
⑤731年多治比県守、藤原麻呂、橘諸兄らと共に参議となる。
⑥734年兄武智麻呂右大臣就任の時、正三位になる。参議式部...
⑦737年疫病死。
⑧子百川の子「旅子」は、50桓武妃となり、53淳和天皇の母...
・石上麻呂女()
①父:石上麻呂* 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:長男広嗣 次男良継
*(参考)石上麻呂(640-717) 物部氏考参照
①父:物部宇麻呂< 母:不明
②子供:石上乙麻呂・娘(藤原宇合正室)孫:石上宅嗣
③壬申の乱では大友皇子側につく。
④676年遣新羅大使。
⑤701年正三位大納言。704年従二位右大臣。708年正二...
・高橋阿禰娘()
①父:高橋笠朝臣 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:三男清成
・小治田功麿男牛女()
①養父:小治田功麿男牛 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:四男田麻呂
・久米若売(?-780)
①父:久米奈保麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:六男百川
③739年石上乙麻呂と姦通。下総国へ配流。
④740年大赦で召還。
⑤780年散位従四位下。49光仁天皇擁立に子供百川が活躍し...
・佐伯徳麻呂女()
①父:佐伯徳麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:七男蔵下麻呂 五男綱手
2-3)藤原麻呂(695-737)
①父;不比等 母;五百重娘(鎌足女)
②四男。妻:大伴坂上郎女<大伴安麻呂?因幡国造気豆女(因幡...
子供;綱執、浜成、百能(豊成室)、勝人ら。
③藤原京家の元祖。 京職大夫だったことに由来。不世出の才を...
④717年従五位下。
⑤729年従三位。
⑥731年参議となる。兵部卿。
⑦737年持節大使として、陸奥に派遣され、帰京後天然痘で死...
・大伴坂上郎女(?-?)
①父:大伴安麻呂 母:石川内命婦
②夫:穂積皇子・首皇子?・藤原麻呂・大伴宿奈麻呂 子供:坂...
③万葉大歌人
④大伴旅人の異母妹。
⑤色々の男遍歴をしたが、最終的には大伴氏の刀自として一族を...
・因幡国造気豆女()
①父:因幡国造気豆 母:不明
②夫:藤原麻呂 子供:長男浜成
③安貴王と姦通罪を犯した采女と同一人であろう、とされている...
④50桓武天皇の寵愛を受けた因幡国造浄成女とは同族か?
・当麻氏女()
①父:当麻氏 母:
②夫:藤原麻呂 子供:百能(豊成室)
参考) 当麻氏は、用明天皇と葛城直磐村の娘広子との間に生...
(参考)「藤氏家伝」
・790年に成立した藤原氏の家伝書。上下2巻。
・家伝上:「大職冠伝」:編著者:恵美押勝。藤原鎌足・定恵...
・家伝下:「武智麻呂伝」:編著者:僧延慶*。
*延慶(?-?)
・出自不詳、藤氏家伝下の著者。
・外従五位下。
・753年ー754年鑑真和尚の通訳として活躍。
3)関連寺社
3-1)談山神社(奈良県桜井市多武峰319)
主祭神:藤原鎌足
社格:別格官幣社
創建:678年
由緒:678年長男定恵が唐から帰国後父の墓を摂津国安威か...
神仏習合時代は妙楽寺と呼ばれていた時代あり。
談山の由来:645年大化の改新の談合を鎌足と中大兄皇子が...
藤原鎌足・不比等の墓所ともされている。
3-2)春日大社(奈良市春日野町160)
祭神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社格:式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・勅祭社
創建:768年(710年)
由緒:全国春日神社の総本社 藤原氏氏神社
710年(和銅3年)藤原不比等によって常陸国鹿嶋から藤原...
768年(神護景雲2年)に社殿造営(社伝ではこの年を創建...
春日の地主神:和迩一族小野氏の神。
神紋:下がり藤
武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされ鹿が神使とされている。
3-3)興福寺(奈良市登大路町48)(旧:山階寺)
宗派:法相宗大本山
本尊:釈迦如来
創建:669年
開基:藤原不比等
由緒:藤原氏氏寺
中臣鎌足は蘇我政治打倒を祈願のため、釈迦丈六像、脇侍菩薩...
672年に壬申の乱があり山階寺は藤原京に移り高市郡厩坂の...
3-4)聖林寺(桜井市下692)
宗派:真言宗室生寺派
本尊:子安延命地蔵菩薩
創建:伝・712年
開基:伝・定慧
由緒:伝承:712年に妙楽寺(現:談山神社)の別院として...
4)藤原氏元祖系図
藤原氏の元祖部をどう定義するかは難しいが一応藤原四家誕生...
系図は不比等の孫までの主な人物を記した。
・藤原氏元祖部概略系図(諸公知系図準拠 筆者創作系図)既...
・藤原氏元祖詳細系図(Ⅰ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)...
・藤原氏元祖詳細系図(Ⅱ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)...
5)藤原氏元祖部関連年表
中臣鎌足の誕生から不比等の子供である光明皇后の没年までの...
藤原氏元祖関連年表
(高島正人著「藤原不比等」吉川弘文館参考 筆者創作)
592年 33推古天皇即位。
593年 聖徳太子摂政となる。
596年 軽皇子(孝徳天皇)誕生。
600年 遣隋使派遣。
614年 中臣鎌子誕生。誕生地は奈良県高市郡明日香村小原?
620年 聖徳太子・蘇我馬子が天皇記・国記をつくる。
622年 聖徳太子没。
626年 蘇我馬子没。中大兄皇子誕生。
628年 推古天皇没。
629年 34舒明天皇即位。
632年 僧旻帰朝。
640年 南淵請安・高向玄理ら帰朝。有間皇子誕生。
642年 35皇極天皇即位。
643年
鎌足長男定恵誕生。飛鳥板蓋宮へ。蘇我入鹿ら山背大兄皇子を...
644年 鎌子神祇泊就任を辞退。摂津国別業に退く。
645年
3月鎌足は飛鳥法興寺の蹴鞠会で中大兄皇子と親交を結ぶ。多...
6月鎌足中大兄皇子ら蘇我入鹿を誅殺。蝦夷自害。36孝徳天皇...
646年 大化の改新の詔。
653年 鎌足長男定恵が遣唐僧として渡唐。
654年 鎌足大紫冠授与。孝徳天皇崩御。
655年 37斉明天皇即位。
658年 藤原不比等飛鳥藤原弟で誕生。
660年 百済が我が国に救援を求める。余豊璋の百済王即位...
661年
鎌足百済救援軍に従い難波出発。斉明天皇朝倉宮で崩御。
余豊璋を百済に送る。
鎌足帰京(この頃不比等は山城国山科の田辺史氏に預けられて...
663年 白村江の戦で倭軍大敗。百済滅亡。(中臣鎌足山階...
665年 定恵帰国。鎌足の大原弟で死去。
667年 大津遷都。
668年 38天智即位(大海人皇子が大皇弟)。近江令発布?...
669年
鎌足は、天智天皇より内大臣大職冠に任じられ、大臣位と藤原...
淡海私邸で死去。鏡王女が山階寺を創建。
670年 鎌足の遺体を山階寺で火葬?
671年 中臣連金右大臣(太政大臣:大友皇子)。天智天皇...
672年
壬申の乱。大友皇子自害。中臣金死刑。飛鳥浄御原宮造営。
673年 40天武天皇飛鳥浄御原宮造営で即位。
674年 不比等大舎人として宮廷に仕える?
678年 談山神社創建。
679年
不比等は右大臣蘇我連子娘娼子と結婚(大原第に戻った?)。...
天武天皇による吉野の六皇子誓約。
680年 藤原武智麻呂誕生。(大原第)
681年 草壁皇子皇太子となる。藤原房前誕生、娼子死去?...
682年 鎌足娘天武夫人「氷上娘」死去。この頃不比等は賀...
683年 この頃不比等長女宮子・次女長娥子誕生。
684年 八色の姓制定、中臣朝臣姓を賜る。中臣朝臣不比等...
685年 不比等らは藤原姓を賜り藤原朝臣となる。藤原朝臣...
686年 天武天皇崩御。
689年 不比等判事に任官(紀記事初出)。草壁皇子死去(...
690年 41持統天皇即位。
693年 藤原大嶋死去、不比等が一族の最高位者となった。
694年 不比等三男宇合誕生。藤原宮へ遷都。
695年 不比等四男麻呂誕生。
697年 42文武天皇即位。不比等長女宮子入内。
698年 文武天皇は不比等の流れ以外の藤原朝臣氏を中臣朝...
699年 中臣意美麻呂鋳銭司長官。
700年 不比等は県犬養三千代と結婚。
701年
大宝律令制定。不比等正三位大納言となる。不比等三女安宿媛...
不比等長女宮子首皇子出産。
702年 武智麻呂が阿倍貞媛と結婚。不比等四女多比能・五...
703年 房前が春日蔵首老女と結婚。
704年 不比等従二位。武智麻呂長男豊成誕生。
705年 房前長男鳥養誕生。武智麻呂・房前従五位下。
706年 武智麻呂大学頭。武智麻呂次男仲麻呂誕生。
707年 房前牟漏女王を正室とする。文武天皇崩御、43元明...
708年 不比等正二位。右大臣。意美麻呂が中納言になる。...
710年 平城京遷都。山階寺を平城京に移し興福寺建立。藤...
712年 古事記編纂。武智麻呂近江守。
713年 武智麻呂は従四位下となり、紀麻呂女・小治田功麻...
不比等三男宇合が左大臣石上麻呂女と結婚。
714年 首皇子立太子。
715年 元明天皇禅譲。44元正天皇即位。
716年 安宿媛が首皇太子妃となる。宇合遣唐副使 従五位下。
717年
橘三千代が従三位。房前参議(父子議政官初例)。不比等四男...
吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂遣唐使。
718年
不比等娘婿長屋王が大納言となる。武智麻呂式部卿。宇合帰国...
安宿媛が阿倍内親王を産む。不比等四女多比能が橘諸兄の妃と...
不比等養老律令選定開始。
719年 武智麻呂正四位下・房前従四位上・宇合正五位上
720年 不比等正二位右大臣死去。日本書紀編纂。
721年 長屋王右大臣、武智麻呂中納言。房前内臣となる。
723年 三世一身法発布。興福寺に施薬院・悲田院建てる。
724年 長屋王左大臣。房前正三位。45聖武天皇即位。
726年 麻呂正四位上
727年 光明子皇子を産む。皇太子とする。光明子立后。
728年 皇太子没。
729年 長屋王の変。武智麻呂大納言となる。
730年 施薬院・悲田院設置。
731年 麻呂参議兵部卿。宇合参議。
733年 橘三千代没。
734年 宇合正三位。武智麻呂従三位右大臣。
735年 吉備真備帰朝。
737年 天然痘の大流行により武智麻呂・房前・宇合・麻呂...
738年 阿倍内親王立太子。橘諸兄右大臣。
740年 藤原広嗣の乱。恭仁京遷都。
743年 橘諸兄左大臣。盧舎那仏鋳造詔。紫香楽宮造営。
744年 難波宮遷都。
745年 行基大僧正。平城還都。旧皇后宮を宮寺(法華寺)...
749年 三宝の奴の詔。46孝謙天皇即位。紫微中台設置。
752年 東大寺盧舎那仏開眼法会。
754年 鑑真来朝。藤原宮子没。
756年 聖武天皇没。橘諸兄失脚。
757年 橘諸兄没。橘奈良麻呂の乱。
758年 47淳仁天皇即位。藤原仲麻呂が右大臣となり恵美押...
760年 光明子没。 藤氏家伝編纂
6)藤原氏元祖系図解説・論考(藤原鎌足ー藤原四家祖まで)
藤原氏は、前述してきたように古代豪族の中で最大でかつ最...
しかし、その全盛期は平安時代までであり、以後は武家中心の...
本「古代豪族シリーズ」は、まだまだ続く予定である。しかし...
6-1)藤原氏発展の概略説明
●藤原氏は、元々一人から発生した氏族であることは明確である...
①発生源点;中臣鎌足。生年614年。藤原氏賜姓669年(3...
②発展源点;藤原不比等。生年659年。藤原氏は、鎌足次男不...
737年四人全員疫病で死亡したが、これが拡大の原点である。
④藤原四家切磋琢磨の時代;737年ー858年。四家対等の時...
⑤藤原氏筆頭「摂関家」確立;858年北家藤原良房は人臣で初...
⑥日本の朝廷は、江戸時代末までこの摂関家を中心とする、大藤...
●氏族発生から僅か約200年で膨大な人材を輩出し、その多く...
1、000年間にもわたり、中央、地方の行政に関与し、それ...
●飛鳥ー奈良時代は、天皇家の時代であった。次の皇統を決定す...
50桓武天皇まで連綿と続いた訳である。この間朝廷に関与し...
中臣氏、大伴氏、紀氏、息長氏、丹治比氏、蘇我氏、阿倍氏、...
その天皇家も、38天智天皇流れの49光仁天皇、50桓武天...
次いで、「院政時代」は、「摂関家」に替わってこれを行った...
・50桓武天皇は、簡単に(以後の平安時代の天皇のように)...
26継体天皇が即位した507年から50桓武天皇即位の78...
聖徳太子が、あの時代「17条憲法」を定め、その第1条に「...
記したこと、及び50桓武天皇が新しい都に「平安」と名付け...
非常に深い意義があると思う。
この50桓武天皇こそ、後の武家支配時代を開く「源氏」「平...
●50桓武帝成立に果たした藤原氏の貢献は大きい。
①藤原氏元祖の鎌足は、後の38天智天皇となる中大兄皇子を助...
②2代不比等は、40天武?、41持統、42文武、43元明、...
③3代房前(北家)他四兄弟は、それぞれ立場は異なるが、45...
④4代八束(北家)の時代は、南家、北家、式家、京家異なった...
・757年46孝謙天皇の時、南家豊成と北家兄永手は、次期...
・八束は、45聖武天皇に寵愛されたが、南家仲麻呂には、そ...
・南家仲麻呂が、天武天皇の子供「舎人親王」の子供「大炊(...
・式家良継は、恵美押勝の独裁に対立。暗殺計画をする。負け...
・やがて46孝謙上皇と恵美は対立。764年「押勝の乱」を...
追討軍は式家の良継、蔵下麻呂ら。
・769年48称徳天皇の時、北家永手、式家良継、南家縄麻...
・773年京家浜成は、光仁天皇の子供「山部親王」立太子に...
・式家百川は、49光仁の皇太子に山部親王を推し、成功。
・北家は、この間50桓武天皇成立に大きな役割をしてない。
⑤5代目北家内麻呂の時代
・784年長岡京遷都時、式家「藤原種継」(清成の子)が造...
・794年内麻呂は、50桓武の参議となる。
・806年同右大臣。
⑥6代目北家冬嗣の時代
・52嵯峨天皇時代、左大臣。
⑦7代目北家良房時代
・54仁明天皇時代 人臣最初の摂政。太政大臣。
等々50桓武天皇成立まで、藤原氏代々が、朝廷の中枢で舵取...
結果として、天皇家を護り継続させる中心氏族の役割を果たし...
少なくとも50桓武帝は、藤原氏、特に「式家」の力なくして...
6-2)藤原氏元祖部系図解説 (本稿関係系図参照)
藤原氏は中臣氏からの派生氏族である。よって中臣鎌足まで...
中臣鎌足は中臣鎌子とも呼ばれていた。ところが中臣氏系図で...
その長男が「鎌足」である。母親は代表的古代豪族である大伴...
即ち本来なら父御食子が祭祀氏族中臣氏の嫡流であり、鎌足は...
鎌足の生誕地は760年成立の「藤氏家伝」では大和国高市郡...
御食子の弟で二門の国子の孫に「意美麻呂」という人物がいる...
となると真人と中大兄皇子に殺されたとされる有間皇子とは異...
これは鎌足にとっては無視出来ない事であり、本人のことも考...
平安時代以降長い間真人・不比等は同腹兄弟で、母親は車持君...
後年不比等が天智天皇の娘である41持統天皇から異常なまで...
さて話を車持君国子娘与志古娘に戻したい。
この女性は、実在を証明する資料が乏しい人物とされている。...
(毛野氏考参照)上毛野国がその出自であるとされている。2...
鎌足の正妻は鏡王女でこの間の子供は不比等である。阿倍氏女...
鎌足の娘は4名いるがいずれも母親は不明である。鎌足には上...
但し、これらの娘の内2名は40天武天皇妃になっており1名...
鎌足は34舒明天皇の645年から38天智天皇の669年ま...
不比等は鎌足が44才の時の子供である。不比等の正妻は蘇我...
娼子の子供は、長男武智麻呂(南家祖)・次男房前(北家祖)...
不比等の4人の男児が所謂藤原四家(南家・北家・式家・京家...
聖武天皇の皇后である。民臣の娘が皇后になったのは16仁徳...
不比等にとってみれば、孫の聖武天皇と娘の結婚である。ガチ...
不比等の娘「長蛾子」は、母親がすっきりしないが(賀茂比売...
さらにもう一人の不比等の娘「多比能」は橘三千代と美努王と...
諸兄の妹「牟漏女王」が不比等の次男房前の正室となった。
話は戻るが不比等の娘婿の長屋王は718年には大納言となり...
不比等と三千代の間に産まれたと推定される「殿刀自」という...
以上で藤原氏元祖部「鎌足」「不比等」「藤原四家誕生」まで...
鎌足から始まった藤原氏が徐々にその人脈・血脈・姻族のネッ...
6-3)藤原氏元祖論考
6-3-1)古代豪族「藤原氏」の誕生について
中臣鎌足は死の直前に大職冠(正一位相当)の位と大臣の位と...
高島正人著;「藤原不比等」 吉川弘文堂 に記されている説...
筆者が理解判断した範囲で記したものであることをお断りして...
①一般に、中臣氏は「連」のカバネを持つ伴造系氏族で、その勢...
政治的地位は、5世紀の葛城、平群、大伴氏、6世紀の大伴、...
②「日本書紀」(11垂仁天皇紀)には、中臣連氏の遠祖、大鹿...
③4世紀ごろは、大伴、物部らと中臣(ナカツオミ)氏(連系で...
国政に参与していた。
④その後中臣氏に連姓が賜与され、神事奉斎を職掌とするように...
⑤6世紀「日本書紀」に3名中臣氏が記されている。
・欽明朝;中臣連鎌子 物部大連尾興と共に仏教受容反対をし...
・敏達朝;中臣勝海大夫 物部守屋と共に仏教反対。
・敏達朝;中臣連磐余 物部守屋と仏像を壊す。
現存する藤原氏諸系図、「中臣氏系図」「大中臣氏系図」には...
なお、上記系図には、6世紀ごろ 黒田(継体朝)常盤(欽明...
の名はある。しかし、「古事記」「日本書紀」には無いし、そ...
⑥6世紀の中臣氏を総括すれば、一般に言われるように政治的に...
各氏には、一歩を譲る中級氏族であった。
⑦7世紀になると、推古朝には、国(国子)と弥気(御食子)の...
・中臣連国;推古31年新羅征討軍大将軍として参画。
・中臣連弥気;推古崩御後、田村皇子を立てることに賛意を表...
⑧中臣669年鎌足は、大職冠、内大臣となり、その死に臨み、...
を賜った。(この段階では、鎌足だけの姓)
⑨671年中臣連金が、右大臣となる。(氏上の証)ーーー鎌足...
⑩672年中臣金は、「壬申の乱」で敗戦、死刑となる。この後...
⑪684年朝臣姓を賜与され、中臣朝臣となる。
⑫685年藤原姓を賜与され、中臣氏は総て藤原姓となった。
⑬693年藤原朝臣大嶋が死亡。意美麻呂が氏上を継承したらし...
族中での位階は、不比等(36才)が最上位者となっている。
⑭698年藤原朝臣不比等一家以外、旧姓(中臣)に復するよう...
・詔;「藤原朝臣(鎌足)賜るところの姓、よろしくその子不...
藤原姓は、父鎌足が薨去した時、藤原姓は子供の不比等や、家...
その後、上記詔によって、藤原朝臣氏は、不比等と不比等の子...
この詔により藤原不比等を始祖とし、不比等の子孫に限定した...
⑮本来中臣氏は、5,6世紀以降、神祇祭祀氏族として朝廷に仕...
不比等も父鎌足にならって政治に志を立て、祭祀供奉の職業的...
⑯この詔により、不比等は、イ)不比等の一家を新たな一氏とし...
ことをやった。
これぞその後の藤原氏発展の原点的戦略であり、大政治家不比...
以上である。
これでお分かりのように古代豪族「藤原氏」の初代は、不比等...
藤原氏が誕生したのである。この時、鎌足の猶子であった藤原...
血脈を嗣いだものしか藤原姓は名乗ってはならないとしたのは...
しかし、当時の政界の実質的な実力ナンバーワン的存在だった...
6-3-2)「中臣鎌足」について
我々戦後教育を受けた者にも「鎌足」は、超有名人である。...
鎌足の出自については上述したことが通説である。しかし、古...
「大鏡」などには、常陸国鹿島神宮の神官の子供を中臣御食子...
戦後は、一部学者の間で鎌足は百済王「余豊璋」であるという...
筆者はこの説は、無理なところが多く同意出来ない。
鎌足については、奈良時代(760年)に鎌足の曾孫にあたる...
これと日本書紀との記事で食い違いがあるのが日本書紀の64...
①614年誕生。子供の頃から非常に聡明で読書を良くし、有名...
②632年に鎌足の師となった遣隋使「僧旻」が帰朝した。鎌足...
この後鎌足は蘇我入鹿らと僧旻の塾で中国の学問を修得。周易...
③640年南淵請安らが中国から帰朝した。鎌足27才の時。中...
この後鎌足は中大兄皇子らとこの南淵請安の塾で学び「法興寺...
④644年には中臣氏の嫡男であった鎌足に対して家業である神...
⑥644年以後に軽皇子に接近、続いて中大兄皇子に接近と日本...
一方軽皇子の寵妃を阿倍女ではなく、車持君与志古娘であると...
644年以降に鎌足が軽皇子と接触したのが事実なら、定恵が...
ここら辺りの日本書紀・家伝の記事は、総て虚飾記事であると...
⑦鎌足が祭祀氏族である中臣氏の嫡流に生まれながら、何故その...
・鎌足は幼少の頃より当時の先進国である中国の政治・文化に...
⑧645年に蘇我入鹿が誅殺されたことは現在では史実として間...
⑨大化の改新後、36孝徳天皇(軽皇子)が即位し、皇太子は中...
⑩658年に次男不比等が誕生している。この誕生に関しても古...
⑪661年37斉明天皇は百済救援のため大軍を率いて九州に赴...
これが鎌足の正体は「百済王余豊璋」であるという説の根拠の...
この頃不比等は既に山背国山階の田辺史氏に預けられていたと...
確かに663年頃鎌足は自分の別荘を山階に有し、そこに山階...
山階寺は正式には669年鎌足没直後に正室鏡王女によって創...
この山階寺こそ有名な「興福寺」の前身の寺なのである。
⑫667年大津京に遷都され翌年38天智天皇が即位した。鎌足...
⑬669年鎌足は病に倒れた。天智天皇はこれを見舞った。この...
鎌足は、「私は全く不敏で、いまさら何を申しましょう。ただ...
⑭上述してきたように鎌足の夫人は、鏡女王・安見児は38天智...
諸情報を基に筆者が推定したのは、長女:斗売娘(638?-...
643年に長男定恵誕生、が確認されている。とすると、母親...
斗売娘(638?-?)、定恵(643-665)、耳面刀自...
斗売娘は鎌足が24才頃の子供ということになる。そしてこの...
天武天皇が壬申の乱後になって「鎌足が生きていれば、壬申の...
⑮鎌足の墓所には諸説ある。死没地は家伝及び日本書紀に記され...
山階寺跡地の比定もされているようだが、この付近に埋葬され...
以上で鎌足についての概観を終わりたい。
ここから見えてくる鎌足像は、「経営不安定な老舗の大番頭」...
中流の神祇祭祀氏族中臣氏を飛び出した個性の強い思慮深い青...
結果として中臣氏の殻に留まっていたら決して達成出来なかっ...
少なくとも鎌足の生存中に、後の藤原氏を日本一の大豪族にす...
娘婿であり養子であった中臣意美麻呂は政治的な活動より神祇...
ところが戦後記紀批判の嵐の中でご多分に漏れずこれらの日...
蘇我氏が朝廷を支配し、悪業非業を思いのままにしている様を...
筆者はこれらの研究活動はある面では非常に有効であり、古代...
6-3-3)「藤原不比等」について
不比等は学校教育の場では余り出てこない人物である。父鎌...
不比等に関する文献は膨大量ある。筆者は高島正人「藤原不比...
藤氏家伝にも不比等伝があったようだが、現在まで伝わってい...
①不比等の誕生に関する謎については前述したので省略する。誕...
余談になるが不比等を養育した田辺史氏は山背国乙訓郡と関係...
ーーー大野東人に関連して、「田辺史難波」のことを述べてお...
ところが筆者系図に示したように、上毛野竹葉瀬の流れから田...
一方藤原不比等は田辺史大隈に養育されたとある。この田辺史...
太田亮の姓氏大辞典にも色々な出自の田辺史氏があることは記...
但し太田氏は一部田辺史氏だけでなく総ての河内田辺史氏が上...
一説では、前述の6代上毛野竹葉瀬らが仁徳朝に百済に派遣さ...
ところで、山背国乙訓郡にも実は上毛野系田辺史氏が居住して...
このことより「鞆岡廃寺」は、白鳳時代の寺院であり、皇極朝...
この寺は平安時代頃までは存在していたらしいが、詳しいこと...
ーーー以上である。
この記事に登場する田辺史大隅が不比等を養育した人物である...
②674年頃不比等(16才)は通常の貴族と同じく大舎人とし...
680年に長男武智麻呂が産まれていることからその前年に蘇...
681年には次男房前が産まれた。この後娼子は没したとされ...
娼子没後682年頃に不比等は賀茂君比売と再婚していると考...
684年に八色の姓制度が発足したが不比等らは一様に中臣朝...
686年から690年まで41持統天皇は称制をとり、690...
その上、子供の頃から田辺史氏の元で勉学の道に励み、和漢の...
40天武天皇には多数の皇子がいた。しかし、持統から見れば...
この持統天皇の思いを蔭から支え良き相談相手になったのが不...
④697年に42文武天皇(683-707)が即位した。持統...
などである。当時不比等は中臣氏の氏長ではなかったが、実質...
これぞ後の大藤原氏誕生の瞬間だったのである。その意味で不...
日本の朝廷政治を牛耳る大豪族に成長するとは想像だにしなか...
⑤ 701年不比等は正三位大納言となった。その年大宝律令が...
702年末に持統上皇が崩御された。持統ー不比等体制がここ...
しかし、この時不比等は既に次ぎの天皇候補筆頭の外戚となり...
⑥707年文武天皇崩御。首皇子が余りに幼いので文武天皇の母...
不比等は鎌足が創建したとも言われる山背国山階にあった山階...
同じく春日大社は710年に藤原不比等によって常陸国鹿嶋か...
奈良公園の主要部分を占める春日大社・興福寺は不比等が藤原...
⑦712年古事記編纂。これは元明天皇の711年の勅命により...
718年不比等の娘(長蛾子)婿である長屋王が不比等の後ろ...
この年日本書紀が編纂された。これこそ日本に現存する最古の...
戦後の記紀批判の中で記紀共にその内容には不比等・持統天皇...
神話部分・万世一系の天皇家に関する部分(系図問題も含む)...
文字の無かった時代の史実を忠実に再現することは至難なこと...
a.神話のようなものは相当長年月の間をかけて醸成されたもの...
b.系図の類も同じである。勝手にどこかをいじくると必ずどこ...
c.天皇家の万世一系思想は持統天皇時代に急に出来たものでは...
d.神功皇后・武内宿禰・倭武尊など架空的臭いが濃いとされる...
e.朝鮮半島との交流問題は、当時の複雑な国際問題を反映して...
これを持統天皇・不比等に責任を持たせることはナンセンスで...
f.伊勢神宮問題は既稿「度会氏・荒木田氏考」で色々述べたの...
g.最後に蘇我氏問題がある。これは持統天皇にとっても不比等...
筆者は記紀の記述が史実と乖離している箇所があることを否定...
勿論中臣氏又は不比等が中臣氏に直接関係するような例えば天...
以上が筆者の記紀批判における持統天皇・不比等観である。...
戦後の一部の歴史家は逆説的にいえば、この二人の人物を過大...
⑧不比等は若い頃は父鎌足と同じように持統天皇らの内臣的存在...
ここから先が蘇我氏とはどのように違ってくるのであろうか。
6-3-4)藤原四家誕生、光明子について
藤原不比等には4人の男児が生まれた。長男「武智麻呂」次男...
不比等の時と異なりこの4兄弟は父不比等が権力の座にいる間...
長男武智麻呂は721年長屋王が右大臣になった時、中納言と...
これが可能となった最大の原因は、藤原氏は聖武天皇の外戚で...
筆者はそれだけではないと判断している。イ.天武朝になった時...
ロ.持統朝からの皇位継承問題に関わり反持統派の勢力が抑えら...
ハ.新勢力は文武・聖武天皇に妃を出した氏族に限られており、...
ニ.その新勢力の中で不比等の子供達はそれぞれ能力及び実績が...
ホ.従前のような各氏族バランスをとってその氏長が議政官にな...
などの政治状況の大きな変動が起きてきた背景があったのであ...
731年前後の動きを記すと、
720年不比等が亡くなると、後任の右大臣には不比等の娘婿...
彼は天武系の皇族の代表である。724年には左大臣となり聖...
この最大の功労者が武智麻呂だったのである。これにより朝廷...
しかし、この藤原4兄弟全盛時代は737年の天然痘の大流行...
武智麻呂:58才(子供:男4名、女3名) 房前:57才(...
宇合:44才(子供:男7名、女1名) 麻呂:43才(子供...
であった。
藤原一族にとっては大打撃であった。
ここで満を持して登場してきたのが、不比等の後妻である橘三...
752年東大寺廬舎那仏開眼法会。この年に聖武天皇の母宮子...
757年橘諸兄が没。諸兄の息子奈良麻呂(母は不比等の娘)...
758年には藤原氏とは血脈的には繋がらないが、藤原武智麻...
光明子の藤原氏盛り立てに果たした役割は非常に大きかったも...
これで不比等の子供の代までの主要人物を概観したことになる...
上記したようにそれぞれに男児が沢山おり、これらがその後の...
7)まとめ(筆者主張)
①本稿では33推古天皇朝の614年鎌足誕生から47淳仁天皇...
②元祖中臣鎌足は、神祇氏族中臣氏の嫡流であったが、その殻を...
③鎌足の次男不比等が公的記録(日本書紀)に初登場するのは6...
④持統朝になってからの不比等は、初期は、父鎌足と似た活躍を...
701年には正三位大納言となったのである。これは破格の昇...
真の藤原氏はこの時誕生したのである。よって真の藤原氏初代...
この史実は一般的には余り知られていないことである。この頃...
⑤702年に持統天皇が崩御し、これ以降の天皇家の護持は一手...
⑥715年には、また女性の44元正天皇が即位した。これにも...
⑦720年に不比等は正二位右大臣として死去した。この間に不...
⑧不比等の死後、不比等の子供等が4人も議政官となる時代がき...
⑨何故不比等及びその子供らがこのように国を動かし朝廷を牛耳...
⑩藤原氏のことを38天智天皇から鎌足の死に臨んだ折に賜った...
⑪鎌足も不比等も公的な記録には殆ど詳しい記事が残されていな...
この二人を原点として大豪族藤原氏が誕生したのである。
終了行:
藤原氏元祖考(鎌足ー藤原四家始祖)
1)はじめに
筆者が住んでいる京都府長岡京市には、市立「中山修一記念...
この記念館の中には、先生が生存中にご勉強された蔵書が約6...
勿論専門家のように原典に基づく史料作りは、筆者如きアマチ...
筆者が古代豪族シリーズをhpに掲載開始したのは平成16年...
当初の頃は人物列伝も調査範囲も狭く、多くの重要人物をその...
当初藤原氏を代表的古代豪族として取り上げるべく、調査を進...
ところで、本稿で取り上げる藤原氏は、古代豪族の雄である。...
古代豪族を研究することは、古代史を究明することとある面で...
さて藤原氏は、葛城氏・蘇我氏に続き、そして最終的な古代の...
勿論平安時代には新たに平氏・源氏という豪族的血脈集団が発...
藤原氏は、平安時代以降天皇家を中心とした朝廷政治の中枢に...
この藤原氏発生の原点は、色々な謎が存在しているが、「大化...
2)藤原氏元祖関係人物列伝
中臣氏から藤原氏は派生した氏族である。よって中臣鎌足以...
・天児屋根命
・中臣可多能祐(かたのすけ)(?-?)
①父:常磐 母:物部尋来津橘首女那古娘
②子供:国子・糠手子・御食子 別名:方子 妻:狭井麿古...
妻:山部歌子連女那爾毛古娘(伊予来目部播磨国司山部小楯孫...
③大連
・中臣御食子(みけこ)(?-?)
①父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
②妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614-669)・久多・垂目...
長男、中臣氏一門。
③628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に...
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。(紀)
④小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢...
(中臣本系帳)
⑤鹿島神宮の神官として東国に赴任していたという伝承が残され...
⑥大連
参考)大伴智仙媛(?ー?)
①父:大伴咋子(くいこ) 母:不明
②夫:中臣御食子 子供:中臣鎌足 兄弟:大伴長徳(大伴氏...
別名:智仙娘
③奈良県高市郡明日香村飛鳥に墓がある。
2-1)中臣(藤原)鎌足(614-669)
①父;中臣御食子 母;智仙娘(大伴咋子女)
②妻:鏡王女(38天智夫人)、車持君与志古娘、阿倍小足媛(...
子供:定恵・不比等・五百重媛(40天武夫人、不比等夫人)...
別名:鎌子・仲郎
③御食子(弥気)の長子。中臣宗家の嫡男であった(次男説もあ...
出生地:藤氏家伝では、大和国高市郡藤原。(現在の橿原市高...
「斗売娘」に猶子として、中臣国足の子意美麻呂を入れる。
④中臣氏は、天児屋根命の末裔氏族とされ、姓ははじめ連、68...
元来「卜部氏」を名乗った。鎌足の曾祖父にあたる常盤が、は...
本拠地;河内国河内郡枚岡神社付近(東大阪市出雲井町) 参...
もともと、祭祀を司る伴造氏族。推古、舒明朝頃から次第に国...
⑤鎌足と中大兄皇子の出会いの記事(644年)は日本書紀にも...
⑥644年中臣鎌子、神祇伯就任を辞退。摂津国三嶋の別業に病...
⑦645年中大兄皇子・石川麻呂とともに、蘇我入鹿を飛鳥板蓋...
⑧647年大錦冠を授与。649年政敵であった阿倍倉梯麻呂・...
⑨653-657年采女「安見児」、「鏡王女」を38天智天皇...
⑩661年内臣として百済救援軍に従い難波を出発。その年に帰...
⑩669年病にかかり重体となり、38天智天皇が見舞いに行き...
⑪墓所:死後奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られた。
三代実録:「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入...
多武峯略記:「最初は摂津国安威(現:茨木市)に葬られたが...
藤原鎌足公墓所:奈良県桜井市御破裂山頂上付近。(談山神社...
・1934年発掘の茨木市の阿武山古墳の人骨こそ鎌足のもの...
藤氏家伝:京都市山科区(山階寺と関係か?)
・談山神社伝では678年に唐から帰朝した長男真人が鎌足の...
665年には没しているのでこの説とは整合しない。
⑫百済系渡来人説・日本人養子説など謎多い出自である。
参考)イ)百済王 余豊璋説(門脇禎二・関 祐二氏など)
ロ)常陸国鹿島出身の秀才、中臣本家の養子に迎えられ...
<中臣氏と鹿島との関係>
「常陸国風土記」によると、中臣氏と武甕槌神の繋がりの話あ...
10崇神天皇の時に純白の服を付けた神が、奈良山に現れ、自...
その時天皇が、奈良山の神の正体を知る者はいないかと宮廷の...
氏の祖先、「神聞勝命」が、それは「鹿島神」であるといった...
が「鹿島神宮」に仕えるようになった。この神は、もと常陸国...
地方豪族が祀った神でその地方で最も権威ある神として「香島...
タケミカズチは、中臣氏をつうじて、日本神話の中に組み入れ...
は、中央の中臣氏の支配を受け「中臣部」を名のっていた。こ...
の神でタケミカズチとなった。この神も神武東征に出てくる。
⑬大鏡:藤原鎌足に関して「そのおとどは常陸国にてむまれたま...
⑭死没地:家伝:淡海の第で薨じ山階精舎で葬儀。
日本書紀:私第に薨じ、遷して山科の南で殯した。
・定恵(じょうえ)(643-665)
①父:鎌足? 母:車持国子娘与志古娘?
②長男、弟:不比等 別名:中臣真人・貞恵・定慧
③実父は36孝徳天皇説あり。母は36孝徳天皇の寵妃阿倍小足...
尊卑分脈:母は車持国子娘与志古娘としている。
④653年遣唐使。学僧。
⑤665年帰国。同年現在の奈良県高市郡明日香村小原でなくな...
その才が妬まれて百済人に暗殺された。との説あり。
⑥僧としての活動記録。中臣氏一門の跡取りである長男を僧にし...
・氷上娘(?-682)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇 子供:但馬皇女 別名:氷上大刀自・氷上夫人
③万葉歌人
④682年宮中で亡くなった後、赤穂に葬られる。
・五百重娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇・藤原不比等、 子供:新田部親王(天武の子)...
③万葉歌人
④680年頃新田部皇子を産む。
④695年不比等との間に京家祖となる「麻呂」を産んだ。
・耳面刀自(みみもとじ)(?-672?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:大友皇子 子供:壱志姫王
③紀・藤氏家伝に記事なし。本朝皇胤招運録・懐風藻などに関連...
④千葉県に伝承寺院あり。近江宮から落ち延びたらしい。672...
・壱志姫王
大友皇子の女と本朝皇胤招運録に記事あり。他の文献にはな...
・斗売娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:中臣意美麻呂<国足 子供:東人・安比等
③当初は鎌足は従兄弟である中臣国足の子供であった中臣意美麻...
参考)中臣意美麿(651?-711)
①父:国足 母:不明
②妻:阿伎良<多治比嶋 斗売娘<藤原鎌足 中臣東子 ...
子供:大中臣清麿・東人・泰麿・広見・安比等・長人、豊足、...
③正四位上、中納言兼神祇官。
④当初中臣鎌足の婿養子となり藤原朝臣姓を名乗った。(鎌足の...
⑤686年大津皇子事件に連座。その後赦免。
⑥699年鋳銭司長官
⑦708年不比等の推薦を得て正四位上中納言。神祇伯。
・鏡王女(?-683)
①父:鏡王?(舒明天皇系?) 母:不明
②夫:38天智天皇・鎌足(正妻)兄弟:額田王?(妹)子供:...
別名:鏡姫王(紀)鏡女王
③万葉歌人
④683年死の直前に天武天皇が見舞っている。
⑤墓:奈良県櫻井市の舒明天皇陵付近 談山神社管理。
⑥当初天智天皇の妃であった。天智天皇はこれを鎌足に下賜して...
「興福寺縁起」によれば不比等の母親であるとしている。しか...
⑦額田王の姉であるという説は現在では余り有力ではないが皇族...
(参考)額田王()
①父:鏡王 母:不明
②夫:天武天皇・天智天皇 兄弟:鏡姫王? 子供:
③万葉歌人
・車持君与志古娘(?-?)
①父:車持君国子 母:不明
②夫:鎌足 子供:定恵?・不比等?
③尊卑分脈:子供は定恵・不比等としてある。
「興福寺縁起」:不比等の母は鏡王女としている。
④奈良時代以前のその存在を証明する確実な史料がない。
⑤平安時代以降の藤原氏の系図にはこの人物が定恵・不比等両名...
父は孝徳天皇と記してある。
非常に現存したことを証明し難い人物である。
(車持君関係参考資料) (毛野氏考参照)
・御諸別
①父:彦狭島 母:不明
②子供:大荒田別 鹿我別(浮田国造:磐城国相馬)巫別(か...
別名:弥母里別
③紀(景行56年):天皇は、汝の父彦狭島王、任する所に向か...
・大荒田別
①父:御諸別 母:不明
②子供:韓矢田部現古 上毛野竹葉瀬 下毛野田道
③紀(神功49):新羅を討つ。
③紀(応神15):上毛野君祖荒田別・巫別を百済に遣わし、西...
・韓矢田部現古
①父:大荒田別 母:不明
②子供:武額・若多気姫(下毛野奈良別妻)
③神功代の人物。車持朝臣氏祖。
・車持射狭
①父:韓矢田部布禰古 母:不明
②兄弟:迦波
③雄略朝、車持姓を賜る。
④この流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出た...
⑤車持君は上毛野国が出自。真壁郡辺りか。 車評(くるまこう...
・阿倍小足媛(?-?)
①父:阿倍内麻呂 母:不明
②夫:孝徳天皇・鎌足? 子供:有馬皇子(640-658)・...
別名:男足媛
③644年(紀記事)軽皇子(孝徳天皇)が朝参しなかった時、...
④多武峯略記の記事からは鎌足の長男とされる真人の母は孝徳天...
・安見児(?-?)
天智天皇の采女であった女性。鎌足に下賜せられた。万葉集に...
子供などの記録なし。この女性こそ不比等の母であるとの説あ...
・豊璋王(ほうしょう)(?-?) (百済氏考...
①父:義慈王 母:不明
②妻:多蒋敷妹(多宇気子女)。子供:不明 別名:扶余豊璋・...
③百済国嫡流王族。倭国滞在中に百済本国が滅亡。復興のため帰...
④日本書紀:631年豊璋来日。百済本紀:653年倭国と通好...
650年の難波宮記事に豊璋登場。人質ではあったが、賓客扱...
⑤中大兄皇子は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することにな...
⑥662年帰国。663年鬼室福信を殺害。百済軍弱体化。倭国...
⑦唐本国から7,000の援軍が来て、倭国軍と白村江で戦う。...
⑧高句麗に逃げた。668年高句麗も唐により滅亡。豊璋は、中...
2-2)藤原不比等(659または、658-720)
①父;中臣鎌足 母;車持君与志古娘?諸説ある)
②次男、妻:蘇我臣連子の娘(娼子)(正妻)・賀茂比売・橘三...
子供:武智麻呂、房前・麻呂・宇合・宮子(42文武夫人、4...
大伴古慈悲室) 別名:史・淡海公
③母親については古来諸説あり。
「興福寺縁起」:母は、鏡王女(額田王の姉?)38天智天皇...
鎌足の正妻となった。また別伝では、「公避くる所の事あり(...
ところがあった)」とあり、天智落胤説の根拠とされている。
鎌足次男。父鎌足が、45才の時の男子。長男「定恵」は、当...
尊卑分脈・公卿補任:母は車持君与志古娘
その他:安見児こそ不比等の母であるとする説
④幼少期山科の田辺家(田辺史大隅;百済系渡来人)で養育を受...
⑤669年11才で父鎌足死去。幼少期の記録ほとんどない。
⑥672年壬申の乱勃発。近江方の重臣の子であった不比等は、...
幸運に恵まれた。
⑦679年(不比等21才)この頃右大臣蘇我臣連子の女、娼子...
⑧680年長男武智麻呂誕生。
⑨681年次男房前誕生。妻娼子死去。
⑩682年この頃賀茂君女比売女と再婚。
⑪683年長女宮子、次女長蛾子誕生。
⑫684年中臣朝臣姓を賜与。
⑬685年藤原朝臣姓を賜与。
⑭40天武天皇からは、生前の鎌足の徳があり、庇護を受けた。...
⑮689年41持統帝の時、31才で判事(従五位下)という高...
⑯草壁皇子の死の直前、愛用の刀(黒作懸佩刀)を遺贈され、軽...
⑰694年三男宇合誕生。695年四男麻呂誕生。
⑲697年軽皇子即位(42文武)さらに娘宮子を入内させた。
⑳698年文武天皇の時、不比等一家のみ藤原姓となる。他の中...
⑳①この頃「県犬養三千代」を美努王から奪って後妻とした。(...
⑳②701年正三位大納言。「大宝律令」参画。宮子に首皇子(...
⑳③707年42文武天皇死亡。その母阿閇皇女を推し、708...
⑳④710年平城遷都を主導。興福寺建立。「養老律令」編纂着...
⑳⑤720年62才で平城京私宅(現法華寺付近)で死去。
⑳⑥墓所は談山神社か?(延喜式)
・蘇我娼子(しょうし)(?-?) (蘇我氏考...
①父:蘇我臣連子 母:不明
②夫:不比等 兄弟:蘇我安麻呂 子供:武智麻呂・房前・宇合...
③701年に不比等が県犬養三千代と再婚の記事(続日本紀)予...
④41持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の外孫である。不比等を持...
⑤没落大豪族蘇我氏の血脈が新興豪族藤原氏に入ったのは史実で...
⑥680年武智麻呂を産む。
⑦681年房前を産む。
⑧694年宇合を産むとあるが、これは誤りらしい。
・蘇我連子(611?-664) (蘇我氏...
①父:蘇我倉麻呂 母:不明
②子供:安麻呂・娼子 兄弟:倉山田石川麻呂・日向・赤兄・果...
③664年死亡記事のみ(紀)官位は大紫 右大臣(扶桑略記)
・賀茂比売(?-735) (賀茂族...
①父:賀茂朝臣小黒麻呂 母:不明
②夫:不比等 子供:宮子・長蛾子?・多比能?
③682年この頃宮子を産む。
④正四位上で死去。
・県犬養橘三千代(665?-733) (橘...
①父:県犬養東人 母:不明
②夫:美努王・不比等 兄弟:石次(参議)
子供:橘諸兄・牟漏女王(美努王の子)・佐為王
光明子・殿刀自・多比能(尊卑分脈)?(不比等の子)
③684年美努王と結婚。葛城王を産む。694年夫が太宰帥と...
④701年頃不比等と結婚、安宿媛を産む
⑤708年元明天皇より橘宿禰姓を賜る。721年正三位。
⑥733年内命婦正三位で死去。
⑦天武ー聖武帝にいたる内廷に奉仕。文武・聖武の乳母的存在。
参考)美努王(?-708) (橘氏考参照)
①父;栗隈王 母;不明 父を大俣王とする異説あり。
②妻;県犬養三千代(県犬養氏人物列伝参照)子供;葛城王(橘...
③672年「壬申の乱」の際、父栗隈王、兄武家王と共に大宰府...
④681年川島皇子らと共に「帝記及び上古の諸事」の記録、校...
685年京畿内の兵器校閲使者。
⑤694年大宰帥に任じられ筑紫に下向。妻三千代は、同行しな...
⑥701年造大弊司長官 正五位下、翌年左京大夫
⑦705年摂津大夫、従四位下。
⑧708年治部卿となり死去。贈正二位。
・宮子(683?-754)
①父:不比等 母:賀茂比売<賀茂朝臣小黒麻呂<吉備麻呂
②長女、夫:42文武天皇 異母妹:光明子 子供:45聖武天皇
③697年42文武天皇に嫁ぐ。
④701年首皇子(45聖武天皇)出産。心の病に罹る。
⑤723年従二位。
⑥724年聖武天皇即位。正一位。皇太夫人
⑦737年病気平癒。聖武天皇と36年ぶりに対面。僧「玄昉」...
⑧749年孫である孝謙天皇即位。太皇太后。
・長蛾子()
①父:不比等 母:賀茂比売娘?
②夫:長屋王 子供:教勝王・山背王・黄文王・安宿王
③尚蔵従三位。
参考)長屋王(676又は684ー729) (古代天皇...
①父;高市皇子 母;御名部皇女<天智
②高市の第1子。吉備内親王(草壁女)を正室とし、膳夫王、葛...
間に安宿王、黄文王ら。智努女王<長皇子、安倍大刀自、石川...
③皇太子であったらしい。
④718年大納言。719年右大臣不比等死亡。721年右大臣。
これ以降皇親政治に戻す動きの中心人物となる。
⑤721年元明上皇は、右大臣長屋王と藤原房前に後事を託す。
⑥723年三世一身の法施行に関与。
⑦首皇太子の即位に関し推進派武智麻呂と慎重派長屋王との間対...
この後不比等の四子との対立激化。聖武天皇妃、不比等娘光明...
⑦729年「長屋王の変」で自殺。光明子立后を反対されること...
⑧この変で大多数の妃や子供も一緒に自害した。但し藤原長娥子...
生き残った。その一人とされる桑田王の流れから高階氏が発生...
「高階氏」として活躍する。
・山背王(?-763) (古代天皇家概論...
①父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
②同母兄弟:安宿王、黄文王、桑田王など
③729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
④757年橘奈良麻呂の乱では謀反計画を密告し、反藤原勢力を...
奈良麻呂は兄弟の黄文王・安宿王などを皇位につけようとして...
⑤孝謙天皇から藤原姓を賜り、藤原弟貞と改名。
⑥762年参議。
・光明子(701-760)
①父:不比等 母:県犬養三千代
②三女、夫:45聖武天皇(后)子供:別名:安宿媛(あすか)...
③716年16才で首皇子の妃となる。718年阿倍内親王(孝...
④724年夫即位。夫人号。
⑤727年基王出産。728年皇太子基王夭折。長屋王の変。
⑥729年皇后になる。王族以外からの立后の初例とされた。
⑦749年46孝謙天皇即位。皇后宮職を紫微中台と改称。藤原...
⑧756年45聖武太上天皇死去。
⑨仏教信者・東大寺・国分寺設立。悲田院施薬院設置。正倉院創...
新薬師寺の創建整備。など多くの文化的事業を聖武天皇と共に...
・多比能(702?-?)
①父:不比等 母:橘三千代?賀茂比売?
②夫:橘諸兄 子供:奈良麻呂
③母親が橘三千代説があるが夫橘諸兄と同腹異父兄妹になりこれ...
参考)橘諸兄(683-757) (橘氏考参照)
①父;美努王 母;県犬養三千代
②妻;多比能?(不比等女)但し母が三千代でありこの関係疑問...
兄弟;弟;佐為王、妹;牟漏王女(藤原房前室)異父妹;光...
子供;清野?、奈良麻呂、諸方(子供:正方) 別名:葛城王
③710年従五位下。729年正四位下、左大弁。731年参議...
④736年弟佐為王と自ら願い出て「橘宿禰」の姓を賜って臣籍...
⑤737年藤原4兄弟の連続の死により急に中央政権に出てきた...
⑥738年阿倍内親王の立太子と同時に右大臣となる。以後政界...
⑦739年従二位。740年45聖武天皇を相楽別業(京都府綴...
⑧743年従一位左大臣。749年に正一位となる。生前に正一...
⑨745年紫香楽遷都、聖武天皇は、平城京に還都。結局諸兄の...
⑩750年朝臣姓を賜る。宿禰から朝臣への改姓の初見。
⑪755年飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告...
・殿刀自(702?ー?)
①父:不比等 母:橘三千代
②夫:大伴古慈悲 子供:弟麻呂
参考)大伴宿禰古慈斐(こしび)(695ー777) ( 大...
①父;祖父麻呂 母;不明
②吹負の孫。子;弟麻呂 妻;藤原不比等女刀自を正妻とした。
③739年従五位下、756年朝廷誹謗の件で、淡海三船と共に...
参考)大伴宿禰弟麻呂(727-809) ( 大伴氏考参照)
①父;古慈斐 母;不明(刀自?)
②794年征夷大将軍として副将軍坂上田村麻呂を用いて、蝦夷...
(参考)玄昉(?-746)
①父:阿刀氏 母:不明
②物部系か。
③717年遣唐僧。法相教学
④737年永らく鬱病だった藤原宮子を看病し快癒させた。僧正...
⑤745年行基が大僧正となる。筑紫観世音寺に左遷。そこで没。
(参考)田辺史大隅()
2-3)藤原武智麻呂(680-737)
①父;藤原不比等 母;蘇我連子女(娼子)
②長男。同母弟;房前、宇合?、異母弟;麻呂
異母姉妹;宮子、長蛾子、光明子、多比能ら。
妻;阿倍御主人孫貞媛・竹野女王
子供;豊成、仲麻呂(恵美押勝)ら。その他子、南殿(45聖...
③藤原南家の祖。
④幼くして母を失い、病弱であったが、少年時穂積皇子に才を認...
⑤701年内舎人に任官。廃れていた大学を再興。 大学頭歴任。
⑥718年式部卿。
⑦721年長屋王右大臣の時、中納言になる。724年首皇子即...
と同時に)
⑧729年「長屋王の変」では、舎人親王と共に王を訊問。自害...
⑨734年45聖武帝の右大臣。娘を45聖武に入内。その後正...
⑩737年大流行した天然痘に罹って、兄弟揃って死去。
⑪墓所:奈良県五條市 栄山寺裏山(国史跡)
・竹野女王()
①父:長屋王? 母:不明
②子供:武智麻呂女(45聖武天皇妃)
③従二位。
・阿倍御主人孫貞媛()
①父:阿倍貞吉<御主人* 母:不明
②夫:藤原武智麻呂(正室)子供:豊成・仲麻呂
*阿倍御主人(635-703) ( 阿倍氏考参照)
①父:倉梯麻呂(内麻呂) 母:不明
②子供:広庭・貞吉 兄弟:小足媛(孝徳天皇妃) 別名:布...
③壬申の乱では天武側についた。
④701年従三位中納言。従二位右大臣
2-3)藤原房前(681-737)
①父;不比等 母;蘇我連子女
②次男、妻:牟漏女王<美努王、春日倉首老娘、片野朝臣女、阿...
子供:永手、八束、千尋、北殿(聖武夫人)他に、鳥養、清河...
別名:藤原北卿
③藤原北家の祖。
⑤705年従五位下。709年東海道・東山道検察使
④717年兄より先に参議に抜擢。父子議政官の初例(参議以上...
⑤720年病床の元明上皇より長屋王と共に召され、後事を託さ...
⑥729年兄は、大納言になったが、房前は、参議中務卿のまま。
⑦737年正三位参議民部卿として、死亡。(57才)
⑦片野朝臣女との子、魚名流れより54仁明后沢子(58光孝天...
⑧平安時代「摂関家」となるのは、この藤原氏である。
・牟漏女王(?-746)
①父:美努王 母:県犬養橘三千代
②夫:藤原房前(正室)兄弟:橘諸兄・佐為王、
子供:次男永手・三男真楯(八束)
・六男御楯(千尋)・袁比良(藤原仲麻呂室)・北殿(聖武天...
③714年以前に房前と結婚。
④739年従三位。尚侍・尚蔵。夫の死後本格的に後宮吏官とし...
⑤746年正三位、正二位の記事もある。
・春日倉首老娘()
①父:春日倉首老* 母:不明
②夫:藤原房前 子供:長男馬養
*①万葉歌人 法名:弁紀
②701年朝廷の命により還俗。
③714年従五位下 常陸介
・片野朝臣女()
①父:片野朝臣(従四位下)母:不明
②夫:藤原房前 子供:四男清河 五男魚名
・阿波采女()
①父:母:不明
②夫:藤原房前 子供:七男楓麻呂 別名:粟凡直若子 板...
③阿波国板野郡出身の采女。
2-3)藤原宇合(694?ー737)
①父;不比等 母;蘇我連子女???
②三男。母は、連子女説は無理?694年頃には、既に死没して...
③藤原式家の元祖。式家は、後年50桓武朝成立の指導的氏族と...
③716年第8次遣唐使副使。入唐。従五位下。
④721年長屋王右大臣就任の時兄武智麻呂に替わり、正四位上。
⑤724年式部卿、持節大将軍に就任。725年従三位。
⑤731年多治比県守、藤原麻呂、橘諸兄らと共に参議となる。
⑥734年兄武智麻呂右大臣就任の時、正三位になる。参議式部...
⑦737年疫病死。
⑧子百川の子「旅子」は、50桓武妃となり、53淳和天皇の母...
・石上麻呂女()
①父:石上麻呂* 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:長男広嗣 次男良継
*(参考)石上麻呂(640-717) 物部氏考参照
①父:物部宇麻呂< 母:不明
②子供:石上乙麻呂・娘(藤原宇合正室)孫:石上宅嗣
③壬申の乱では大友皇子側につく。
④676年遣新羅大使。
⑤701年正三位大納言。704年従二位右大臣。708年正二...
・高橋阿禰娘()
①父:高橋笠朝臣 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:三男清成
・小治田功麿男牛女()
①養父:小治田功麿男牛 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:四男田麻呂
・久米若売(?-780)
①父:久米奈保麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:六男百川
③739年石上乙麻呂と姦通。下総国へ配流。
④740年大赦で召還。
⑤780年散位従四位下。49光仁天皇擁立に子供百川が活躍し...
・佐伯徳麻呂女()
①父:佐伯徳麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:七男蔵下麻呂 五男綱手
2-3)藤原麻呂(695-737)
①父;不比等 母;五百重娘(鎌足女)
②四男。妻:大伴坂上郎女<大伴安麻呂?因幡国造気豆女(因幡...
子供;綱執、浜成、百能(豊成室)、勝人ら。
③藤原京家の元祖。 京職大夫だったことに由来。不世出の才を...
④717年従五位下。
⑤729年従三位。
⑥731年参議となる。兵部卿。
⑦737年持節大使として、陸奥に派遣され、帰京後天然痘で死...
・大伴坂上郎女(?-?)
①父:大伴安麻呂 母:石川内命婦
②夫:穂積皇子・首皇子?・藤原麻呂・大伴宿奈麻呂 子供:坂...
③万葉大歌人
④大伴旅人の異母妹。
⑤色々の男遍歴をしたが、最終的には大伴氏の刀自として一族を...
・因幡国造気豆女()
①父:因幡国造気豆 母:不明
②夫:藤原麻呂 子供:長男浜成
③安貴王と姦通罪を犯した采女と同一人であろう、とされている...
④50桓武天皇の寵愛を受けた因幡国造浄成女とは同族か?
・当麻氏女()
①父:当麻氏 母:
②夫:藤原麻呂 子供:百能(豊成室)
参考) 当麻氏は、用明天皇と葛城直磐村の娘広子との間に生...
(参考)「藤氏家伝」
・790年に成立した藤原氏の家伝書。上下2巻。
・家伝上:「大職冠伝」:編著者:恵美押勝。藤原鎌足・定恵...
・家伝下:「武智麻呂伝」:編著者:僧延慶*。
*延慶(?-?)
・出自不詳、藤氏家伝下の著者。
・外従五位下。
・753年ー754年鑑真和尚の通訳として活躍。
3)関連寺社
3-1)談山神社(奈良県桜井市多武峰319)
主祭神:藤原鎌足
社格:別格官幣社
創建:678年
由緒:678年長男定恵が唐から帰国後父の墓を摂津国安威か...
神仏習合時代は妙楽寺と呼ばれていた時代あり。
談山の由来:645年大化の改新の談合を鎌足と中大兄皇子が...
藤原鎌足・不比等の墓所ともされている。
3-2)春日大社(奈良市春日野町160)
祭神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社格:式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・勅祭社
創建:768年(710年)
由緒:全国春日神社の総本社 藤原氏氏神社
710年(和銅3年)藤原不比等によって常陸国鹿嶋から藤原...
768年(神護景雲2年)に社殿造営(社伝ではこの年を創建...
春日の地主神:和迩一族小野氏の神。
神紋:下がり藤
武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされ鹿が神使とされている。
3-3)興福寺(奈良市登大路町48)(旧:山階寺)
宗派:法相宗大本山
本尊:釈迦如来
創建:669年
開基:藤原不比等
由緒:藤原氏氏寺
中臣鎌足は蘇我政治打倒を祈願のため、釈迦丈六像、脇侍菩薩...
672年に壬申の乱があり山階寺は藤原京に移り高市郡厩坂の...
3-4)聖林寺(桜井市下692)
宗派:真言宗室生寺派
本尊:子安延命地蔵菩薩
創建:伝・712年
開基:伝・定慧
由緒:伝承:712年に妙楽寺(現:談山神社)の別院として...
4)藤原氏元祖系図
藤原氏の元祖部をどう定義するかは難しいが一応藤原四家誕生...
系図は不比等の孫までの主な人物を記した。
・藤原氏元祖部概略系図(諸公知系図準拠 筆者創作系図)既...
・藤原氏元祖詳細系図(Ⅰ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)...
・藤原氏元祖詳細系図(Ⅱ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)...
5)藤原氏元祖部関連年表
中臣鎌足の誕生から不比等の子供である光明皇后の没年までの...
藤原氏元祖関連年表
(高島正人著「藤原不比等」吉川弘文館参考 筆者創作)
592年 33推古天皇即位。
593年 聖徳太子摂政となる。
596年 軽皇子(孝徳天皇)誕生。
600年 遣隋使派遣。
614年 中臣鎌子誕生。誕生地は奈良県高市郡明日香村小原?
620年 聖徳太子・蘇我馬子が天皇記・国記をつくる。
622年 聖徳太子没。
626年 蘇我馬子没。中大兄皇子誕生。
628年 推古天皇没。
629年 34舒明天皇即位。
632年 僧旻帰朝。
640年 南淵請安・高向玄理ら帰朝。有間皇子誕生。
642年 35皇極天皇即位。
643年
鎌足長男定恵誕生。飛鳥板蓋宮へ。蘇我入鹿ら山背大兄皇子を...
644年 鎌子神祇泊就任を辞退。摂津国別業に退く。
645年
3月鎌足は飛鳥法興寺の蹴鞠会で中大兄皇子と親交を結ぶ。多...
6月鎌足中大兄皇子ら蘇我入鹿を誅殺。蝦夷自害。36孝徳天皇...
646年 大化の改新の詔。
653年 鎌足長男定恵が遣唐僧として渡唐。
654年 鎌足大紫冠授与。孝徳天皇崩御。
655年 37斉明天皇即位。
658年 藤原不比等飛鳥藤原弟で誕生。
660年 百済が我が国に救援を求める。余豊璋の百済王即位...
661年
鎌足百済救援軍に従い難波出発。斉明天皇朝倉宮で崩御。
余豊璋を百済に送る。
鎌足帰京(この頃不比等は山城国山科の田辺史氏に預けられて...
663年 白村江の戦で倭軍大敗。百済滅亡。(中臣鎌足山階...
665年 定恵帰国。鎌足の大原弟で死去。
667年 大津遷都。
668年 38天智即位(大海人皇子が大皇弟)。近江令発布?...
669年
鎌足は、天智天皇より内大臣大職冠に任じられ、大臣位と藤原...
淡海私邸で死去。鏡王女が山階寺を創建。
670年 鎌足の遺体を山階寺で火葬?
671年 中臣連金右大臣(太政大臣:大友皇子)。天智天皇...
672年
壬申の乱。大友皇子自害。中臣金死刑。飛鳥浄御原宮造営。
673年 40天武天皇飛鳥浄御原宮造営で即位。
674年 不比等大舎人として宮廷に仕える?
678年 談山神社創建。
679年
不比等は右大臣蘇我連子娘娼子と結婚(大原第に戻った?)。...
天武天皇による吉野の六皇子誓約。
680年 藤原武智麻呂誕生。(大原第)
681年 草壁皇子皇太子となる。藤原房前誕生、娼子死去?...
682年 鎌足娘天武夫人「氷上娘」死去。この頃不比等は賀...
683年 この頃不比等長女宮子・次女長娥子誕生。
684年 八色の姓制定、中臣朝臣姓を賜る。中臣朝臣不比等...
685年 不比等らは藤原姓を賜り藤原朝臣となる。藤原朝臣...
686年 天武天皇崩御。
689年 不比等判事に任官(紀記事初出)。草壁皇子死去(...
690年 41持統天皇即位。
693年 藤原大嶋死去、不比等が一族の最高位者となった。
694年 不比等三男宇合誕生。藤原宮へ遷都。
695年 不比等四男麻呂誕生。
697年 42文武天皇即位。不比等長女宮子入内。
698年 文武天皇は不比等の流れ以外の藤原朝臣氏を中臣朝...
699年 中臣意美麻呂鋳銭司長官。
700年 不比等は県犬養三千代と結婚。
701年
大宝律令制定。不比等正三位大納言となる。不比等三女安宿媛...
不比等長女宮子首皇子出産。
702年 武智麻呂が阿倍貞媛と結婚。不比等四女多比能・五...
703年 房前が春日蔵首老女と結婚。
704年 不比等従二位。武智麻呂長男豊成誕生。
705年 房前長男鳥養誕生。武智麻呂・房前従五位下。
706年 武智麻呂大学頭。武智麻呂次男仲麻呂誕生。
707年 房前牟漏女王を正室とする。文武天皇崩御、43元明...
708年 不比等正二位。右大臣。意美麻呂が中納言になる。...
710年 平城京遷都。山階寺を平城京に移し興福寺建立。藤...
712年 古事記編纂。武智麻呂近江守。
713年 武智麻呂は従四位下となり、紀麻呂女・小治田功麻...
不比等三男宇合が左大臣石上麻呂女と結婚。
714年 首皇子立太子。
715年 元明天皇禅譲。44元正天皇即位。
716年 安宿媛が首皇太子妃となる。宇合遣唐副使 従五位下。
717年
橘三千代が従三位。房前参議(父子議政官初例)。不比等四男...
吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂遣唐使。
718年
不比等娘婿長屋王が大納言となる。武智麻呂式部卿。宇合帰国...
安宿媛が阿倍内親王を産む。不比等四女多比能が橘諸兄の妃と...
不比等養老律令選定開始。
719年 武智麻呂正四位下・房前従四位上・宇合正五位上
720年 不比等正二位右大臣死去。日本書紀編纂。
721年 長屋王右大臣、武智麻呂中納言。房前内臣となる。
723年 三世一身法発布。興福寺に施薬院・悲田院建てる。
724年 長屋王左大臣。房前正三位。45聖武天皇即位。
726年 麻呂正四位上
727年 光明子皇子を産む。皇太子とする。光明子立后。
728年 皇太子没。
729年 長屋王の変。武智麻呂大納言となる。
730年 施薬院・悲田院設置。
731年 麻呂参議兵部卿。宇合参議。
733年 橘三千代没。
734年 宇合正三位。武智麻呂従三位右大臣。
735年 吉備真備帰朝。
737年 天然痘の大流行により武智麻呂・房前・宇合・麻呂...
738年 阿倍内親王立太子。橘諸兄右大臣。
740年 藤原広嗣の乱。恭仁京遷都。
743年 橘諸兄左大臣。盧舎那仏鋳造詔。紫香楽宮造営。
744年 難波宮遷都。
745年 行基大僧正。平城還都。旧皇后宮を宮寺(法華寺)...
749年 三宝の奴の詔。46孝謙天皇即位。紫微中台設置。
752年 東大寺盧舎那仏開眼法会。
754年 鑑真来朝。藤原宮子没。
756年 聖武天皇没。橘諸兄失脚。
757年 橘諸兄没。橘奈良麻呂の乱。
758年 47淳仁天皇即位。藤原仲麻呂が右大臣となり恵美押...
760年 光明子没。 藤氏家伝編纂
6)藤原氏元祖系図解説・論考(藤原鎌足ー藤原四家祖まで)
藤原氏は、前述してきたように古代豪族の中で最大でかつ最...
しかし、その全盛期は平安時代までであり、以後は武家中心の...
本「古代豪族シリーズ」は、まだまだ続く予定である。しかし...
6-1)藤原氏発展の概略説明
●藤原氏は、元々一人から発生した氏族であることは明確である...
①発生源点;中臣鎌足。生年614年。藤原氏賜姓669年(3...
②発展源点;藤原不比等。生年659年。藤原氏は、鎌足次男不...
737年四人全員疫病で死亡したが、これが拡大の原点である。
④藤原四家切磋琢磨の時代;737年ー858年。四家対等の時...
⑤藤原氏筆頭「摂関家」確立;858年北家藤原良房は人臣で初...
⑥日本の朝廷は、江戸時代末までこの摂関家を中心とする、大藤...
●氏族発生から僅か約200年で膨大な人材を輩出し、その多く...
1、000年間にもわたり、中央、地方の行政に関与し、それ...
●飛鳥ー奈良時代は、天皇家の時代であった。次の皇統を決定す...
50桓武天皇まで連綿と続いた訳である。この間朝廷に関与し...
中臣氏、大伴氏、紀氏、息長氏、丹治比氏、蘇我氏、阿倍氏、...
その天皇家も、38天智天皇流れの49光仁天皇、50桓武天...
次いで、「院政時代」は、「摂関家」に替わってこれを行った...
・50桓武天皇は、簡単に(以後の平安時代の天皇のように)...
26継体天皇が即位した507年から50桓武天皇即位の78...
聖徳太子が、あの時代「17条憲法」を定め、その第1条に「...
記したこと、及び50桓武天皇が新しい都に「平安」と名付け...
非常に深い意義があると思う。
この50桓武天皇こそ、後の武家支配時代を開く「源氏」「平...
●50桓武帝成立に果たした藤原氏の貢献は大きい。
①藤原氏元祖の鎌足は、後の38天智天皇となる中大兄皇子を助...
②2代不比等は、40天武?、41持統、42文武、43元明、...
③3代房前(北家)他四兄弟は、それぞれ立場は異なるが、45...
④4代八束(北家)の時代は、南家、北家、式家、京家異なった...
・757年46孝謙天皇の時、南家豊成と北家兄永手は、次期...
・八束は、45聖武天皇に寵愛されたが、南家仲麻呂には、そ...
・南家仲麻呂が、天武天皇の子供「舎人親王」の子供「大炊(...
・式家良継は、恵美押勝の独裁に対立。暗殺計画をする。負け...
・やがて46孝謙上皇と恵美は対立。764年「押勝の乱」を...
追討軍は式家の良継、蔵下麻呂ら。
・769年48称徳天皇の時、北家永手、式家良継、南家縄麻...
・773年京家浜成は、光仁天皇の子供「山部親王」立太子に...
・式家百川は、49光仁の皇太子に山部親王を推し、成功。
・北家は、この間50桓武天皇成立に大きな役割をしてない。
⑤5代目北家内麻呂の時代
・784年長岡京遷都時、式家「藤原種継」(清成の子)が造...
・794年内麻呂は、50桓武の参議となる。
・806年同右大臣。
⑥6代目北家冬嗣の時代
・52嵯峨天皇時代、左大臣。
⑦7代目北家良房時代
・54仁明天皇時代 人臣最初の摂政。太政大臣。
等々50桓武天皇成立まで、藤原氏代々が、朝廷の中枢で舵取...
結果として、天皇家を護り継続させる中心氏族の役割を果たし...
少なくとも50桓武帝は、藤原氏、特に「式家」の力なくして...
6-2)藤原氏元祖部系図解説 (本稿関係系図参照)
藤原氏は中臣氏からの派生氏族である。よって中臣鎌足まで...
中臣鎌足は中臣鎌子とも呼ばれていた。ところが中臣氏系図で...
その長男が「鎌足」である。母親は代表的古代豪族である大伴...
即ち本来なら父御食子が祭祀氏族中臣氏の嫡流であり、鎌足は...
鎌足の生誕地は760年成立の「藤氏家伝」では大和国高市郡...
御食子の弟で二門の国子の孫に「意美麻呂」という人物がいる...
となると真人と中大兄皇子に殺されたとされる有間皇子とは異...
これは鎌足にとっては無視出来ない事であり、本人のことも考...
平安時代以降長い間真人・不比等は同腹兄弟で、母親は車持君...
後年不比等が天智天皇の娘である41持統天皇から異常なまで...
さて話を車持君国子娘与志古娘に戻したい。
この女性は、実在を証明する資料が乏しい人物とされている。...
(毛野氏考参照)上毛野国がその出自であるとされている。2...
鎌足の正妻は鏡王女でこの間の子供は不比等である。阿倍氏女...
鎌足の娘は4名いるがいずれも母親は不明である。鎌足には上...
但し、これらの娘の内2名は40天武天皇妃になっており1名...
鎌足は34舒明天皇の645年から38天智天皇の669年ま...
不比等は鎌足が44才の時の子供である。不比等の正妻は蘇我...
娼子の子供は、長男武智麻呂(南家祖)・次男房前(北家祖)...
不比等の4人の男児が所謂藤原四家(南家・北家・式家・京家...
聖武天皇の皇后である。民臣の娘が皇后になったのは16仁徳...
不比等にとってみれば、孫の聖武天皇と娘の結婚である。ガチ...
不比等の娘「長蛾子」は、母親がすっきりしないが(賀茂比売...
さらにもう一人の不比等の娘「多比能」は橘三千代と美努王と...
諸兄の妹「牟漏女王」が不比等の次男房前の正室となった。
話は戻るが不比等の娘婿の長屋王は718年には大納言となり...
不比等と三千代の間に産まれたと推定される「殿刀自」という...
以上で藤原氏元祖部「鎌足」「不比等」「藤原四家誕生」まで...
鎌足から始まった藤原氏が徐々にその人脈・血脈・姻族のネッ...
6-3)藤原氏元祖論考
6-3-1)古代豪族「藤原氏」の誕生について
中臣鎌足は死の直前に大職冠(正一位相当)の位と大臣の位と...
高島正人著;「藤原不比等」 吉川弘文堂 に記されている説...
筆者が理解判断した範囲で記したものであることをお断りして...
①一般に、中臣氏は「連」のカバネを持つ伴造系氏族で、その勢...
政治的地位は、5世紀の葛城、平群、大伴氏、6世紀の大伴、...
②「日本書紀」(11垂仁天皇紀)には、中臣連氏の遠祖、大鹿...
③4世紀ごろは、大伴、物部らと中臣(ナカツオミ)氏(連系で...
国政に参与していた。
④その後中臣氏に連姓が賜与され、神事奉斎を職掌とするように...
⑤6世紀「日本書紀」に3名中臣氏が記されている。
・欽明朝;中臣連鎌子 物部大連尾興と共に仏教受容反対をし...
・敏達朝;中臣勝海大夫 物部守屋と共に仏教反対。
・敏達朝;中臣連磐余 物部守屋と仏像を壊す。
現存する藤原氏諸系図、「中臣氏系図」「大中臣氏系図」には...
なお、上記系図には、6世紀ごろ 黒田(継体朝)常盤(欽明...
の名はある。しかし、「古事記」「日本書紀」には無いし、そ...
⑥6世紀の中臣氏を総括すれば、一般に言われるように政治的に...
各氏には、一歩を譲る中級氏族であった。
⑦7世紀になると、推古朝には、国(国子)と弥気(御食子)の...
・中臣連国;推古31年新羅征討軍大将軍として参画。
・中臣連弥気;推古崩御後、田村皇子を立てることに賛意を表...
⑧中臣669年鎌足は、大職冠、内大臣となり、その死に臨み、...
を賜った。(この段階では、鎌足だけの姓)
⑨671年中臣連金が、右大臣となる。(氏上の証)ーーー鎌足...
⑩672年中臣金は、「壬申の乱」で敗戦、死刑となる。この後...
⑪684年朝臣姓を賜与され、中臣朝臣となる。
⑫685年藤原姓を賜与され、中臣氏は総て藤原姓となった。
⑬693年藤原朝臣大嶋が死亡。意美麻呂が氏上を継承したらし...
族中での位階は、不比等(36才)が最上位者となっている。
⑭698年藤原朝臣不比等一家以外、旧姓(中臣)に復するよう...
・詔;「藤原朝臣(鎌足)賜るところの姓、よろしくその子不...
藤原姓は、父鎌足が薨去した時、藤原姓は子供の不比等や、家...
その後、上記詔によって、藤原朝臣氏は、不比等と不比等の子...
この詔により藤原不比等を始祖とし、不比等の子孫に限定した...
⑮本来中臣氏は、5,6世紀以降、神祇祭祀氏族として朝廷に仕...
不比等も父鎌足にならって政治に志を立て、祭祀供奉の職業的...
⑯この詔により、不比等は、イ)不比等の一家を新たな一氏とし...
ことをやった。
これぞその後の藤原氏発展の原点的戦略であり、大政治家不比...
以上である。
これでお分かりのように古代豪族「藤原氏」の初代は、不比等...
藤原氏が誕生したのである。この時、鎌足の猶子であった藤原...
血脈を嗣いだものしか藤原姓は名乗ってはならないとしたのは...
しかし、当時の政界の実質的な実力ナンバーワン的存在だった...
6-3-2)「中臣鎌足」について
我々戦後教育を受けた者にも「鎌足」は、超有名人である。...
鎌足の出自については上述したことが通説である。しかし、古...
「大鏡」などには、常陸国鹿島神宮の神官の子供を中臣御食子...
戦後は、一部学者の間で鎌足は百済王「余豊璋」であるという...
筆者はこの説は、無理なところが多く同意出来ない。
鎌足については、奈良時代(760年)に鎌足の曾孫にあたる...
これと日本書紀との記事で食い違いがあるのが日本書紀の64...
①614年誕生。子供の頃から非常に聡明で読書を良くし、有名...
②632年に鎌足の師となった遣隋使「僧旻」が帰朝した。鎌足...
この後鎌足は蘇我入鹿らと僧旻の塾で中国の学問を修得。周易...
③640年南淵請安らが中国から帰朝した。鎌足27才の時。中...
この後鎌足は中大兄皇子らとこの南淵請安の塾で学び「法興寺...
④644年には中臣氏の嫡男であった鎌足に対して家業である神...
⑥644年以後に軽皇子に接近、続いて中大兄皇子に接近と日本...
一方軽皇子の寵妃を阿倍女ではなく、車持君与志古娘であると...
644年以降に鎌足が軽皇子と接触したのが事実なら、定恵が...
ここら辺りの日本書紀・家伝の記事は、総て虚飾記事であると...
⑦鎌足が祭祀氏族である中臣氏の嫡流に生まれながら、何故その...
・鎌足は幼少の頃より当時の先進国である中国の政治・文化に...
⑧645年に蘇我入鹿が誅殺されたことは現在では史実として間...
⑨大化の改新後、36孝徳天皇(軽皇子)が即位し、皇太子は中...
⑩658年に次男不比等が誕生している。この誕生に関しても古...
⑪661年37斉明天皇は百済救援のため大軍を率いて九州に赴...
これが鎌足の正体は「百済王余豊璋」であるという説の根拠の...
この頃不比等は既に山背国山階の田辺史氏に預けられていたと...
確かに663年頃鎌足は自分の別荘を山階に有し、そこに山階...
山階寺は正式には669年鎌足没直後に正室鏡王女によって創...
この山階寺こそ有名な「興福寺」の前身の寺なのである。
⑫667年大津京に遷都され翌年38天智天皇が即位した。鎌足...
⑬669年鎌足は病に倒れた。天智天皇はこれを見舞った。この...
鎌足は、「私は全く不敏で、いまさら何を申しましょう。ただ...
⑭上述してきたように鎌足の夫人は、鏡女王・安見児は38天智...
諸情報を基に筆者が推定したのは、長女:斗売娘(638?-...
643年に長男定恵誕生、が確認されている。とすると、母親...
斗売娘(638?-?)、定恵(643-665)、耳面刀自...
斗売娘は鎌足が24才頃の子供ということになる。そしてこの...
天武天皇が壬申の乱後になって「鎌足が生きていれば、壬申の...
⑮鎌足の墓所には諸説ある。死没地は家伝及び日本書紀に記され...
山階寺跡地の比定もされているようだが、この付近に埋葬され...
以上で鎌足についての概観を終わりたい。
ここから見えてくる鎌足像は、「経営不安定な老舗の大番頭」...
中流の神祇祭祀氏族中臣氏を飛び出した個性の強い思慮深い青...
結果として中臣氏の殻に留まっていたら決して達成出来なかっ...
少なくとも鎌足の生存中に、後の藤原氏を日本一の大豪族にす...
娘婿であり養子であった中臣意美麻呂は政治的な活動より神祇...
ところが戦後記紀批判の嵐の中でご多分に漏れずこれらの日...
蘇我氏が朝廷を支配し、悪業非業を思いのままにしている様を...
筆者はこれらの研究活動はある面では非常に有効であり、古代...
6-3-3)「藤原不比等」について
不比等は学校教育の場では余り出てこない人物である。父鎌...
不比等に関する文献は膨大量ある。筆者は高島正人「藤原不比...
藤氏家伝にも不比等伝があったようだが、現在まで伝わってい...
①不比等の誕生に関する謎については前述したので省略する。誕...
余談になるが不比等を養育した田辺史氏は山背国乙訓郡と関係...
ーーー大野東人に関連して、「田辺史難波」のことを述べてお...
ところが筆者系図に示したように、上毛野竹葉瀬の流れから田...
一方藤原不比等は田辺史大隈に養育されたとある。この田辺史...
太田亮の姓氏大辞典にも色々な出自の田辺史氏があることは記...
但し太田氏は一部田辺史氏だけでなく総ての河内田辺史氏が上...
一説では、前述の6代上毛野竹葉瀬らが仁徳朝に百済に派遣さ...
ところで、山背国乙訓郡にも実は上毛野系田辺史氏が居住して...
このことより「鞆岡廃寺」は、白鳳時代の寺院であり、皇極朝...
この寺は平安時代頃までは存在していたらしいが、詳しいこと...
ーーー以上である。
この記事に登場する田辺史大隅が不比等を養育した人物である...
②674年頃不比等(16才)は通常の貴族と同じく大舎人とし...
680年に長男武智麻呂が産まれていることからその前年に蘇...
681年には次男房前が産まれた。この後娼子は没したとされ...
娼子没後682年頃に不比等は賀茂君比売と再婚していると考...
684年に八色の姓制度が発足したが不比等らは一様に中臣朝...
686年から690年まで41持統天皇は称制をとり、690...
その上、子供の頃から田辺史氏の元で勉学の道に励み、和漢の...
40天武天皇には多数の皇子がいた。しかし、持統から見れば...
この持統天皇の思いを蔭から支え良き相談相手になったのが不...
④697年に42文武天皇(683-707)が即位した。持統...
などである。当時不比等は中臣氏の氏長ではなかったが、実質...
これぞ後の大藤原氏誕生の瞬間だったのである。その意味で不...
日本の朝廷政治を牛耳る大豪族に成長するとは想像だにしなか...
⑤ 701年不比等は正三位大納言となった。その年大宝律令が...
702年末に持統上皇が崩御された。持統ー不比等体制がここ...
しかし、この時不比等は既に次ぎの天皇候補筆頭の外戚となり...
⑥707年文武天皇崩御。首皇子が余りに幼いので文武天皇の母...
不比等は鎌足が創建したとも言われる山背国山階にあった山階...
同じく春日大社は710年に藤原不比等によって常陸国鹿嶋か...
奈良公園の主要部分を占める春日大社・興福寺は不比等が藤原...
⑦712年古事記編纂。これは元明天皇の711年の勅命により...
718年不比等の娘(長蛾子)婿である長屋王が不比等の後ろ...
この年日本書紀が編纂された。これこそ日本に現存する最古の...
戦後の記紀批判の中で記紀共にその内容には不比等・持統天皇...
神話部分・万世一系の天皇家に関する部分(系図問題も含む)...
文字の無かった時代の史実を忠実に再現することは至難なこと...
a.神話のようなものは相当長年月の間をかけて醸成されたもの...
b.系図の類も同じである。勝手にどこかをいじくると必ずどこ...
c.天皇家の万世一系思想は持統天皇時代に急に出来たものでは...
d.神功皇后・武内宿禰・倭武尊など架空的臭いが濃いとされる...
e.朝鮮半島との交流問題は、当時の複雑な国際問題を反映して...
これを持統天皇・不比等に責任を持たせることはナンセンスで...
f.伊勢神宮問題は既稿「度会氏・荒木田氏考」で色々述べたの...
g.最後に蘇我氏問題がある。これは持統天皇にとっても不比等...
筆者は記紀の記述が史実と乖離している箇所があることを否定...
勿論中臣氏又は不比等が中臣氏に直接関係するような例えば天...
以上が筆者の記紀批判における持統天皇・不比等観である。...
戦後の一部の歴史家は逆説的にいえば、この二人の人物を過大...
⑧不比等は若い頃は父鎌足と同じように持統天皇らの内臣的存在...
ここから先が蘇我氏とはどのように違ってくるのであろうか。
6-3-4)藤原四家誕生、光明子について
藤原不比等には4人の男児が生まれた。長男「武智麻呂」次男...
不比等の時と異なりこの4兄弟は父不比等が権力の座にいる間...
長男武智麻呂は721年長屋王が右大臣になった時、中納言と...
これが可能となった最大の原因は、藤原氏は聖武天皇の外戚で...
筆者はそれだけではないと判断している。イ.天武朝になった時...
ロ.持統朝からの皇位継承問題に関わり反持統派の勢力が抑えら...
ハ.新勢力は文武・聖武天皇に妃を出した氏族に限られており、...
ニ.その新勢力の中で不比等の子供達はそれぞれ能力及び実績が...
ホ.従前のような各氏族バランスをとってその氏長が議政官にな...
などの政治状況の大きな変動が起きてきた背景があったのであ...
731年前後の動きを記すと、
720年不比等が亡くなると、後任の右大臣には不比等の娘婿...
彼は天武系の皇族の代表である。724年には左大臣となり聖...
この最大の功労者が武智麻呂だったのである。これにより朝廷...
しかし、この藤原4兄弟全盛時代は737年の天然痘の大流行...
武智麻呂:58才(子供:男4名、女3名) 房前:57才(...
宇合:44才(子供:男7名、女1名) 麻呂:43才(子供...
であった。
藤原一族にとっては大打撃であった。
ここで満を持して登場してきたのが、不比等の後妻である橘三...
752年東大寺廬舎那仏開眼法会。この年に聖武天皇の母宮子...
757年橘諸兄が没。諸兄の息子奈良麻呂(母は不比等の娘)...
758年には藤原氏とは血脈的には繋がらないが、藤原武智麻...
光明子の藤原氏盛り立てに果たした役割は非常に大きかったも...
これで不比等の子供の代までの主要人物を概観したことになる...
上記したようにそれぞれに男児が沢山おり、これらがその後の...
7)まとめ(筆者主張)
①本稿では33推古天皇朝の614年鎌足誕生から47淳仁天皇...
②元祖中臣鎌足は、神祇氏族中臣氏の嫡流であったが、その殻を...
③鎌足の次男不比等が公的記録(日本書紀)に初登場するのは6...
④持統朝になってからの不比等は、初期は、父鎌足と似た活躍を...
701年には正三位大納言となったのである。これは破格の昇...
真の藤原氏はこの時誕生したのである。よって真の藤原氏初代...
この史実は一般的には余り知られていないことである。この頃...
⑤702年に持統天皇が崩御し、これ以降の天皇家の護持は一手...
⑥715年には、また女性の44元正天皇が即位した。これにも...
⑦720年に不比等は正二位右大臣として死去した。この間に不...
⑧不比等の死後、不比等の子供等が4人も議政官となる時代がき...
⑨何故不比等及びその子供らがこのように国を動かし朝廷を牛耳...
⑩藤原氏のことを38天智天皇から鎌足の死に臨んだ折に賜った...
⑪鎌足も不比等も公的な記録には殆ど詳しい記事が残されていな...
この二人を原点として大豪族藤原氏が誕生したのである。
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