隋書
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隋書(東夷伝・第81巻・倭国)を読む
隋書は隋と唐に生きた魏徴(ギチョウ=580~643年)が著した...
東夷伝には倭人に関する国として「流求国(琉球国)」が同...
< 倭 国 >
1 序説(倭国概説)
倭国は百済・新羅の東南、水陸3000里に所在し、大海の中...
「邪靡堆」に都しているが、これは魏志で言う「邪馬臺」の...
(以下、「古伝に云う」として、魏志倭人伝からの記事を援...
(注)
30余国・・・魏と国交があったのが30余国であり、このほとん...
夷人なので里数を知らず・・・野蛮人なのでまだ距離の単位を...
その証拠が半島から九州島北岸への行程(水運)で、狗邪韓...
魏志倭人伝を論じる人々は多くこれを無視し、やれ「周代の...
「邪靡堆」・・・「やまたい」と読むほかはない。一世を風靡...
東西に5ヶ月、南北に3ヶ月・・・隋の時代には倭国の範疇は...
2 隋との通交における倭国(時代順)
隋の
年号
(西暦) 倭 国 の 王 制 風土・風俗 備 ...
開皇
20年
600年 倭王の姓は「阿毎(アマ)」、字は「多利思比弧
(タリシヒコ)」。号して「阿輩雉彌(アベギミ)」。妻
は「雉彌(キミ)」といい、後宮には6、7百人の女
がいる。また太子を「利歌彌多弗利(リカミタフリ)
という。
この年、遣使して来た。使者は『倭王は天を兄、
日を弟とし、朝未明に政庁に出て、お座りになり、
日の出とともに、後は弟の日に任せよう―とおっ
しゃって政務をおやめになります。』と述べた。
官に12等があり、第一を大徳、第二を小徳など
と名付けている。また「軍尼(クニ)」というのが12
0人いるが、中国の牧宰のようである。さらに80戸
ごとに「伊尼翼(イニキ)」を置いているが、これは
里長に当たる。
(中略)
隋の時代になって、王制(官制)に冠を採用した。
・・・(略)・・・。弓・矢・刀・矛・弩・斧などがあり、
皮に漆を塗って甲冑としている。矢は骨製である。
兵はいるが、戦いに出ることは無い。
その王、朝会の際には、必ず儀仗を整え、国楽
を奏でる。戸数は10万ばかりである。 殺人・強盗・姦淫があ...
犯したものは死刑。ほかは
罪の軽重により、流罪にし
たり鞭打ちに処したりする。
人はすこぶるおとなしく、
争い事や盗賊は少ない。
男女多くが黥面文身し、
水に潜って魚をとらえる。
文字は無く、百済から仏
教が伝来して初めて文字
を持った。
(中略)
死者を埋葬するのに棺槨
に入れる。妻子や兄弟は白
布で喪服を作って着用する。
埋葬には屍を船に乗せ陸
地を曳くか、小さな御輿に載
せて行く。
「阿蘇山」がある。
如意宝珠がある。
新羅も百済も、倭を大国で
珍品の多い国として敬仰して
いる。故に常に往来がある。 日本書紀では推古天皇8年に当た...
・この年、境部臣と穂積臣とを
新羅に派遣し、任那を救わせた。新羅は「多田羅・素奈良・弗...
新羅は降伏文書を差し出したが、倭軍が引き上げると、また...
大業3年
607年
その王「多利思比弧(タラシヒコ)」が朝貢した。
その国書に『日出ずる処の天子、書を日没する処
の天子に致す。恙なしや』などとあったので、帝は
『無礼である』と悦ばず、それ以上聴こうとしなかっ
た。
推古15年に当たる。
・秋7月、大礼
小野臣妹子を大唐に遣わす
。鞍作福利を通事とする。
大業4年
608年 翌年(大業4=608年)に、文林郎の裴清を遣わ
した。百済に渡り、竹島に至り、南にタンラ国を望み
ながら、都斯麻国を経てはるか大海中に在り。また東へ壱岐国...
それからまた十余国を経て、海岸に到達した。竹
斯国より東はすべて倭国に属している。
倭王は小徳「阿輩台」以下数百人を遣わし、儀仗の礼で出迎...
倭王はたいそう喜び『大隋国は礼儀の国と聞いている。・・...
裴清いわく『ですから、徳高き皇帝の使いとして
参ったのです。皇帝のお言葉を伝えます』と。
朝命が済んだ後、裴清へ答礼の宴が催され、やがて、倭国の...
百済から竹島に至り、済州島の北を東へ船行し、対馬に立ち...
すなわち「都」は「ト」ではなく「ツ」と読んでいるわけで...
華夏(中国)にそっくりの
「秦王国」なる国がある。
祭事などの時、儀仗を設け
「鼓角(こかく)」を鳴らして出迎える。 推古16年に当たる。
・夏4月、小野臣妹子、大唐より帰る。唐、妹子を名付けて「...
飾り船30艘で難波の津に出迎える。
・秋8月、使者の一行12人は都に入る。
・9月11日、裴世清ら帰る。小野臣妹子を再度使者に立て送...
(注)
①<開皇20年=600年の記事>・・・当時の隋皇帝は文帝(初...
・阿毎・・・「アマ」と読むか「アメ」と読むかのどちらかだ...
・多利思比弧・・・「タリシヒコ」より「タラシヒコ」が正当...
・阿輩雉彌・・・直音で「アベギミ」だが、王の号であるから...
・利歌彌多弗利・・・「リカミタフリ」では倭語にはならない...
ただし「ミタフリ」に当てられるような倭語は見出せない。
・この年、遣使・・・日本書紀で西暦600年は推古8年に該当す...
ここから、<そもそもこの遣使は大和の王朝からではなく、...
ただ推古女帝が遣使しても、女帝であることを伏せ、男帝で...
・任那の6城・・・任那は西暦562年に滅んだとされる。し...
推古紀8年条にある半島出兵記事は、それに対応するもので...
②<大業3年=607年の記事>・・・この時の隋皇帝は煬帝(...
・日出る処の天子・・・余りにも有名な「対等外交国書」の一...
・小野臣妹子の遣使・・・小野妹子の姓の後ろには「臣」があ...
③<大業4年=608年の記事>・・・同上。
・裴清・・・書紀では「裴世清」と表記されるが、誤記であろ...
・都斯麻国・・・「対馬(つしま)」のこと。「都」を「ツ」...
・秦王国・・・文字通り「秦王朝の日本版」と見たい。半島に...
・阿輩台・歌多毘・・・「阿輩台」は「あはた」で「粟田」、...
・倭国の使者・・・書紀では「小野臣妹子」である。さらに推...
『隋書・流求国伝』によれば、このときの使者に流求国人か...
・返書の紛失・・・書紀の推古紀16年条の6月、「小野妹子...
付・<流求国伝>
・所在地・・・建安郡の東、水行5日で到る。今日の沖縄、す...
(注:建安郡は今日の福建省)
・王制と組織・・・王の姓は「歓斯氏」。名は「渇刺兜」。そ...
国全体には5人ほどの「帥」がいて、それぞれの洞を支配し...
(注:歓斯氏=カンシ・シ。 渇刺兜=カシト。これは「頭(...
・風土・風俗・・・前出のように、山洞の多い土地柄であり、...
人は深い目と長い鼻をしており、非常に胡人に似ている。男...
山や海の神に仕え、祭るときに酒肴を供える。また戦闘など...
・同時代史・・・大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛(シ...
翌大業4年(608)、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせた...
(注:大業4年(608)=推古紀によれば、この年に隋から...
<隋書を読む>の項終り
中国史料に見る倭人
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隋書(東夷伝・第81巻・倭国)を読む
隋書は隋と唐に生きた魏徴(ギチョウ=580~643年)が著した...
東夷伝には倭人に関する国として「流求国(琉球国)」が同...
< 倭 国 >
1 序説(倭国概説)
倭国は百済・新羅の東南、水陸3000里に所在し、大海の中...
「邪靡堆」に都しているが、これは魏志で言う「邪馬臺」の...
(以下、「古伝に云う」として、魏志倭人伝からの記事を援...
(注)
30余国・・・魏と国交があったのが30余国であり、このほとん...
夷人なので里数を知らず・・・野蛮人なのでまだ距離の単位を...
その証拠が半島から九州島北岸への行程(水運)で、狗邪韓...
魏志倭人伝を論じる人々は多くこれを無視し、やれ「周代の...
「邪靡堆」・・・「やまたい」と読むほかはない。一世を風靡...
東西に5ヶ月、南北に3ヶ月・・・隋の時代には倭国の範疇は...
2 隋との通交における倭国(時代順)
隋の
年号
(西暦) 倭 国 の 王 制 風土・風俗 備 ...
開皇
20年
600年 倭王の姓は「阿毎(アマ)」、字は「多利思比弧
(タリシヒコ)」。号して「阿輩雉彌(アベギミ)」。妻
は「雉彌(キミ)」といい、後宮には6、7百人の女
がいる。また太子を「利歌彌多弗利(リカミタフリ)
という。
この年、遣使して来た。使者は『倭王は天を兄、
日を弟とし、朝未明に政庁に出て、お座りになり、
日の出とともに、後は弟の日に任せよう―とおっ
しゃって政務をおやめになります。』と述べた。
官に12等があり、第一を大徳、第二を小徳など
と名付けている。また「軍尼(クニ)」というのが12
0人いるが、中国の牧宰のようである。さらに80戸
ごとに「伊尼翼(イニキ)」を置いているが、これは
里長に当たる。
(中略)
隋の時代になって、王制(官制)に冠を採用した。
・・・(略)・・・。弓・矢・刀・矛・弩・斧などがあり、
皮に漆を塗って甲冑としている。矢は骨製である。
兵はいるが、戦いに出ることは無い。
その王、朝会の際には、必ず儀仗を整え、国楽
を奏でる。戸数は10万ばかりである。 殺人・強盗・姦淫があ...
犯したものは死刑。ほかは
罪の軽重により、流罪にし
たり鞭打ちに処したりする。
人はすこぶるおとなしく、
争い事や盗賊は少ない。
男女多くが黥面文身し、
水に潜って魚をとらえる。
文字は無く、百済から仏
教が伝来して初めて文字
を持った。
(中略)
死者を埋葬するのに棺槨
に入れる。妻子や兄弟は白
布で喪服を作って着用する。
埋葬には屍を船に乗せ陸
地を曳くか、小さな御輿に載
せて行く。
「阿蘇山」がある。
如意宝珠がある。
新羅も百済も、倭を大国で
珍品の多い国として敬仰して
いる。故に常に往来がある。 日本書紀では推古天皇8年に当た...
・この年、境部臣と穂積臣とを
新羅に派遣し、任那を救わせた。新羅は「多田羅・素奈良・弗...
新羅は降伏文書を差し出したが、倭軍が引き上げると、また...
大業3年
607年
その王「多利思比弧(タラシヒコ)」が朝貢した。
その国書に『日出ずる処の天子、書を日没する処
の天子に致す。恙なしや』などとあったので、帝は
『無礼である』と悦ばず、それ以上聴こうとしなかっ
た。
推古15年に当たる。
・秋7月、大礼
小野臣妹子を大唐に遣わす
。鞍作福利を通事とする。
大業4年
608年 翌年(大業4=608年)に、文林郎の裴清を遣わ
した。百済に渡り、竹島に至り、南にタンラ国を望み
ながら、都斯麻国を経てはるか大海中に在り。また東へ壱岐国...
それからまた十余国を経て、海岸に到達した。竹
斯国より東はすべて倭国に属している。
倭王は小徳「阿輩台」以下数百人を遣わし、儀仗の礼で出迎...
倭王はたいそう喜び『大隋国は礼儀の国と聞いている。・・...
裴清いわく『ですから、徳高き皇帝の使いとして
参ったのです。皇帝のお言葉を伝えます』と。
朝命が済んだ後、裴清へ答礼の宴が催され、やがて、倭国の...
百済から竹島に至り、済州島の北を東へ船行し、対馬に立ち...
すなわち「都」は「ト」ではなく「ツ」と読んでいるわけで...
華夏(中国)にそっくりの
「秦王国」なる国がある。
祭事などの時、儀仗を設け
「鼓角(こかく)」を鳴らして出迎える。 推古16年に当たる。
・夏4月、小野臣妹子、大唐より帰る。唐、妹子を名付けて「...
飾り船30艘で難波の津に出迎える。
・秋8月、使者の一行12人は都に入る。
・9月11日、裴世清ら帰る。小野臣妹子を再度使者に立て送...
(注)
①<開皇20年=600年の記事>・・・当時の隋皇帝は文帝(初...
・阿毎・・・「アマ」と読むか「アメ」と読むかのどちらかだ...
・多利思比弧・・・「タリシヒコ」より「タラシヒコ」が正当...
・阿輩雉彌・・・直音で「アベギミ」だが、王の号であるから...
・利歌彌多弗利・・・「リカミタフリ」では倭語にはならない...
ただし「ミタフリ」に当てられるような倭語は見出せない。
・この年、遣使・・・日本書紀で西暦600年は推古8年に該当す...
ここから、<そもそもこの遣使は大和の王朝からではなく、...
ただ推古女帝が遣使しても、女帝であることを伏せ、男帝で...
・任那の6城・・・任那は西暦562年に滅んだとされる。し...
推古紀8年条にある半島出兵記事は、それに対応するもので...
②<大業3年=607年の記事>・・・この時の隋皇帝は煬帝(...
・日出る処の天子・・・余りにも有名な「対等外交国書」の一...
・小野臣妹子の遣使・・・小野妹子の姓の後ろには「臣」があ...
③<大業4年=608年の記事>・・・同上。
・裴清・・・書紀では「裴世清」と表記されるが、誤記であろ...
・都斯麻国・・・「対馬(つしま)」のこと。「都」を「ツ」...
・秦王国・・・文字通り「秦王朝の日本版」と見たい。半島に...
・阿輩台・歌多毘・・・「阿輩台」は「あはた」で「粟田」、...
・倭国の使者・・・書紀では「小野臣妹子」である。さらに推...
『隋書・流求国伝』によれば、このときの使者に流求国人か...
・返書の紛失・・・書紀の推古紀16年条の6月、「小野妹子...
付・<流求国伝>
・所在地・・・建安郡の東、水行5日で到る。今日の沖縄、す...
(注:建安郡は今日の福建省)
・王制と組織・・・王の姓は「歓斯氏」。名は「渇刺兜」。そ...
国全体には5人ほどの「帥」がいて、それぞれの洞を支配し...
(注:歓斯氏=カンシ・シ。 渇刺兜=カシト。これは「頭(...
・風土・風俗・・・前出のように、山洞の多い土地柄であり、...
人は深い目と長い鼻をしており、非常に胡人に似ている。男...
山や海の神に仕え、祭るときに酒肴を供える。また戦闘など...
・同時代史・・・大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛(シ...
翌大業4年(608)、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせた...
(注:大業4年(608)=推古紀によれば、この年に隋から...
<隋書を読む>の項終り
中国史料に見る倭人
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