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25-Dec-1999
さてさて、「倭武天皇」のお話です。
うーん、むかぁし、「倭王武」と、「倭武王」とは、似て非な...
えー、「倭王武」の方は、「倭王」の「武」であって、「武」...
当然ながら、和漢ともに諱と諡とは厳格に区別されるものであ...
…で、「倭武王」形式の方にはもうひとつの可能性があって「や...
この場合、「倭武」は和風の諱です。
これは、とくに日本列島側の文献では、考慮からはずすわけに...
さて、多分、このようなことは、以前お話しただろうと思い、...
先日の「倭武天皇」の話に戻りましょう。
「倭王武」と「倭武王」を混同すべきでないという立場から、...
従って、2は×です。
では、1はいかがでしょうか。
うーん、これも完全な○というわけにはいきません。
ですが、結論から言うと、こちらは△だろうという感じを持って...
まず、『常陸風土記』にでてくる、「倭武天皇」が、現実に「...
なぜかというと、記紀ともにヤマトタケルは常陸国まで行って...
行ったのは、武蔵まで。
(紀では、常陸をすっとばして、東北の蝦夷まで征伐していま...
また、奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)も、走水(はしり...
まぁ、そもそもヤマトタケルは皇子であって天皇ではありませ...
一説にはヤマトタケルが、日本古代史の華々しい英雄たり得る...
(まぁ、もう一方には義経にも通ずる「悲劇の主人公」である...
…で、結局のところ、いくら彼を敬愛したところで、彼を天皇に...
たしかに、草壁皇子(天武と持統の皇子)なんかのように、「...
草壁皇子は、持統が即位する前に天武の後継者として、持統自...
ヤマトタケルとは、ちょっと立場が違います。
しかも、です。中央の文献ではヤマトタケルを「天皇」として...
というわけで、「倭武天皇」とヤマトタケルは必ずしもイコー...
じゃ、なんなんでしょう。
その前に、「風土記説話」の性質と言うものを考えて見ましょ...
こんな特徴があります。
説話に登場するのは、神武・崇神・景行(ヤマトタケル)...
それぞれの天皇には、ある事跡が共通すること。それは、...
神武…神武東征
崇神…四道将軍派遣→とくに東方十二道・大彦命
景行…景行九州遠征・ヤマトタケルの熊襲・蝦夷討伐。
神功…筑紫遠征及び三韓征伐。
当然ながら、常陸においては、崇神と景行・ヤマトタケル...
九州の風土記では、景行・神功の記事が多く、近畿の風土...
神武・崇神の記事が多い。(近畿の場合は、これだけには...
また、より説話を分析してみると、この五人には、以下の...
神武…九州より近畿にやってきて、自ら戦った「英雄」であ...
崇神…各地に名将を派遣した「最高司令官」としての「王」
景行…九州の地では各地を視察した「為政者」としての「王」
ヤマトタケル…「為政者」景行によって派遣された「武将」...
神功…九州に自ら赴いた「女王」かつ「巫女」
この五人の「地域性」及び「属性」と、「風土記説話」の...
このような事実は、例えば、『常陸風土記』の次の文面に...
A)倭武天皇、東夷の国を巡狩し、新治(にひはり)県...
B)昔、美万貴(みまき=崇神)天皇の馭宇(あめのし...
A、Bが同一の説話であることは明らかである。ところが、...
以上のことから、常陸風土記の「倭武天皇」は少なくとも、風...
ですが、重要な問題、「倭武天皇」という字面はどこから来た...
これを、次回、2000年の記念すべき第1回のテーマにした...
では。
良いお年を!
19-Dec-1999
最近忙しい&疲れてることもあり、ネタに乏しいのですが、今...
「倭武天皇」という言葉、聞き慣れないかも知れませんが、常...
常陸風土記にはこの「倭武天皇」という人物がかなり頻繁に登...
例えば、この地名は倭武天皇がこれこれの出来事に遭遇された...
では、問題です。
「倭武天皇」とは、いったい誰のことでしょう。
1、「倭武」とは「やまとたける」であり、彼を崇拝する土地...
2、「倭武」とは、「倭王武」のことである。(「倭(姓)」...
さあ、どっち?
28-Nov-1999
今回は、古田武彦が「九州年号」を見出す、直接のきっかけと...
鶴峯は、師である本居宣長のあとを承けて、「熊襲偽僭説」を...
「熊襲偽僭説」とは、本居によって唱えられた、卑弥呼を熊襲...
「熊襲がいやしくも日本列島の王と偽り僭称して、中国に使者...
という説です。
まぁ、「偽り」とか「僭称」とかというのは、他でもなく、「...
…で、鶴峯はここから、「熊襲」の方の研究に情熱を燃やした。
師の本居が『古事記伝』に代表されるように、「天皇家」の方...
このようなわけですから、古田にとっては、貴重な先行説だっ...
古田自身が、このような経緯を述べています。(『失われた九...
…で、そこへ「九州年号」とくれば、古田の目の色が変わるのも...
もっともひどいのは、ほかならぬ襲国偽僭考の読解です。
襲国偽僭考をここに引用しましょう。
継体天皇十六年、武王年を建て善記といふ。是九州年号の...
年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七...
善記 (1)襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年...
:
殷到 (1)継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす。(1...
:
大長 (1)文武天皇二年戊戌、大長元年とす。(4)一...
(1、2…の番号はかわにし)
さて、一番最後に「本文」は「九州年号と題したる古写本によ...
まず、解るのは(2)と(3)の部分は違うということです。...
(4)はいかがでしょう。
古田はこれを「古写本による本文」と見なしました。
ところがこれは誤りです。
実は(4)は『和漢年契』の文なのです。
鶴峯の「襲国」が書かれたのは文政3年(1820)、高安の...
およそ20年を隔てて、ほぼ同じ時代に書かれた本を、鶴峯は...
この事実を古田は見逃しました。
これによって、古田の「九州年号」説に大きな歪みが生じてし...
それはさておき、「襲国」に戻ります。
(1)は「古写本による本文」でしょうか?
答えはNOです。
なぜなら、善記のところに「襲の元年…」とあるからです。
「襲」とは「熊襲」「襲国」、つまり鶴峯の「熊襲偽僭説」の...
もしも、鶴峯の意図とは別に、この語が「古写本」に見出され...
なぜなら、それは鶴峯にとって、自説の強力な支えとなるにふ...
しかし、それはない。つまり、この「襲」の語が、鶴峯の記す...
従って、(1)も「本文」ではない。
とすると、鶴峯が見た「九州年号と題したる古写本」にあった...
ハッキリ言えば、『二中歴』『如是院年代記』その他と大差あ...
また、現存しない以上、この「古写本」がどの程度古い物なの...
ですから、始めに古田がこれや海東諸国記をもとに「九州年号...
わたくしは、ここまで、「逸年号」を調べてきて、以下のよう...
第1に、これら「逸年号群」の原型は、表ではなく年号単体で...
第2に、これら単体の「逸年号」は、その出現時期が、古くて...
(「法興」「白鳳」「朱雀」はそれより古い)
第3に、例えば「定居」は「琳聖太子(戦国の大内氏の祖)」...
第4に、仏教関連記事が圧倒的に多いこと。
これらを踏まえると、
1、それぞれの年号を、それぞれの「ある人物」が偽作し、
2、『二中歴』著者を筆頭に、それらを収集した表が出来あが...
3、鶴峯や古田のように、別王朝の年号と見なすに至った。
という可能性が、無きにしもあらず、充分に考えられるような...
所謂「僧徒による偽作説」です。
ですから、これら「逸年号」が「九州王朝のつくった年号だ」...
もちろん、まだわかりませんが、「逸年号」史料の性格を考え...
あくまで、一次史料を基にしなければ、いかなる説も成立不能...
要するに、結論は保留。ということで…。
23-Nov-1999
さて、今回も「年号」シリーズです。
逸年号を収集した、江戸時代の2つの本について、考えてみま...
もっとも、江戸時代にはこういった研究が盛んで、ほかにもさ...
『清白士集』『和漢年契』『古代年号』『襲国偽僭考』『茅窓...
まあ、その中から、タイトルの『和漢年契』について取り上げ...
『和漢年契』(以下「年契」と略す)は、高安蘆屋によって寛...
(…詳しいことは、もっと調べてからね)
前回も多少触れました。
その後、いくつか発見したことがあります。
その前に、「逸年号史料」とはどういったものなのか、という...
たとえば、『社方開基』や『肥後国誌』、『防長風土注進案』...
これらは、年号を載せることが目的の本ではなく、寺社の由来...
つまり、「地誌」の本です。
これらの文面をご覧下さい。
目一箇男(まひとつのを)神社、或記一目神社云々。当社...
季号賢称丁酉(577)とかやの時、もろこし百済国に…(...
このように、年号は文面の主役ではありません。
…で、ここに現れてくるのは、「年号」+「何年」(+「干支」...
決して、「当年号は、何年間続いた」とか、「前の年号は何々...
これはちょうど、わたくしが何気なく「明和9年」とか「文化...
まぁ、書く方は元の本に書いてあるとおり書けばいいので、明...
おわかりでしょうか。
これが「逸年号」史料の原型です。
先ほどの縁起類にしたって、もともと伝わるとおりの年号で記...
…で、あとから調べた人や、推理を働かせた人、わからんとさじ...
(…で、そこんところに「未詳(わからん)」とか「蓋(けだし...
間違っても、『二中歴』や「年契」のような表が原型だと思っ...
むしろ、「表がないから作った」と考えるべきです。
これを踏まえて、『二中歴』系統の史料と「年契」がなぜ食い...
まず、『二中歴』系統の史料に特徴的なのは、元年の「干支」...
なるほど、これがあれば、ちょうどわれわれが西暦を用いるの...
ここに、その時の天皇名を入れておけば、完璧です。
また、「賢称6年辛丑」という記事が有ったとしましょう。
ここから、賢称元年の干支を導き出すのは、たやすいことです。
で、これをもとに、年号の配列を考えたら、できあがりです。
…こうして、『二中歴』系統の本は、逸年号表を作り上げた、と...
では、「年契」は?
実は、『二中歴』系の方法だと、天皇の在位年代と、改元が一...
(これは、古田が「逸年号(九州年号)が偽作でなく、かつ、...
少なくとも、「年契」の著者、高安蘆屋にはこれが不審だった。
そこで、天皇の即位と改元がピッタリ合うように、うまく並べ...
これが真相だろうと思います。
つまり、継体天皇代の年号は、その合計年数が継体の在位年数...
現に、各天皇代の年号群の合計年数は在位年数とほぼ等しくな...
ただし、たとえば、「善記4年、云々」という史料が目の前に...
どちらにしても、「うまくいってない」というのがわたくしの...
高安さんも苦労なされたようですが…(笑)。
まぁ、『二中歴』の方も、収集の度合いによって、抜けている...
(二中歴では「仁王」が12年続いたことになってますが、他...
てことは、他にも抜けがありそうですね)
結局、繰り返しになりますが、収集と復元は容易な作業ではな...
20-Nov-1999
今回は「大宝以前の逸年号」についてお話します。詳しくは古...
『二中歴』は後醍醐天皇代(1318~1339)の本であり...
…で、これ以降、『麗気記私抄(1401)』→『海東諸国紀(...
(たとえば、所功『年号の歴史』では、『二中歴』と『海東諸...
その一方で、『和漢年契』という本は、異流です。
これは、寛政10年刊の本ですから、かなり新しいものですが...
また、この「資料編」には載っていませんが、『古代年号』と...
このような異説の存在を侮ってはいけません。
なぜなら、多くの逸年号史料は、史料集成という性格を持つも...
というのは、いずれの史料も、様様な文献を渉猟し対校するこ...
年号というものは、その性質上、まとまって記載されると言う...
ですから、わたしたちはこれらのパーツを、パズルのように組...
(例えば、歴史書のように年代をおって、順次年号が記載され...
ですから、『二中歴』系統の本も、『和漢年契』も、その史料...
こういった観点から見てみれば、『和漢年契』のような異説の...
さて、『二中歴』系統の本に目を転じましょう。
この系統の本を、「正」とする人も多いようです。(古田など)
ですが、やはりこれも史料接合の産物と見なすほかありません。
また、残念なことに、この接合も、矛盾と言うか、大きな弱点...
それは、「法興」年号の欠如です。
実は数多い逸年号の中でも、「白鳳」とならんでもっとも確実...
「推古仏」とも「白鳳仏」ともいわれる、法隆寺釈迦三尊像銘...
これが、『二中歴』にはない。他のものにもほとんどない。
わずかに『古代年号』が載せるようですが、ほかの諸説は、一...
なぜ、ないのでしょうか。
「定居」年号とカブるからでしょうか。
「法興」は法隆寺僧徒の「私年号」というのが通説だったから...
理由はわかりませんが、これが逸年号の列に加わらないのはお...
ですから、たとえば「『二中歴』が原典」(=古田説)という...
ハッキリ言えば、わたしたちが、いろんな史料を探して、逸年...
ですから言ってみれば、わたくしが収集した逸年号群と、『二...
もちろん、手に入れられる史料は『二中歴』の方が、古い史料...
こういったわけで、逸年号群の収集と復元は、一朝一夕にでき...
コツコツと史料を集めて回り、綿密な調査・分析を行うことが...
まぁ、のんびりやるとしましょう。
30-Oct-1999
「倭書日本伝」について、です。
お解りでしょうが、実際にこんな本がある訳ではありません。
わたくしが考えました。
でも、かなりの確率で、こんなような本があっただろうと思っ...
もちろん、『倭書』という本です。
九州王朝の歴史書として、あったはずの本です。
この中には、ほぼ間違い無く、近畿地方について書かれた個所...
わたくしはそういう確信を持っています。
また、実際は「日本伝」ではなく「日本世記」がそれなのでは...
順を追ってお話しましょう。
まず『倭書』という本の存在については、多分お解りいただけ...
いずれ詳しくお話しましょう。(「日本」の国号の時のシリー...
…で、なぜ「日本伝」が予想されるのか。
それには2つの筋道から考えることが出来ます。
1つは、「倭」という王朝の性格を考えた上での、スジ論です。
これは、『倭書』の成立を、6~7世紀に想定した上での話で...
当時、倭王(多利思北孤)は、中国の冊封下で天子の配下とし...
「日の出づる処の天子」で有名な、アレです。
そういう状況下で歴史書が作られたら、どうなるか。
当然、紀伝体の史書になるでしょう。
「紀」とは「帝紀」。天子の記録です。
倭王が天子を名乗る以上、史書を書くなら、「帝紀」に自らの...
そして、実は紀伝体の史書には、もう1つ重要な記載がありま...
それが「四夷伝」です。
これがないと、正統な天子の歴史書の体裁にならないのです。
解りやすい例を挙げましょう。
『三国志』です。
有名な話ですが、「魏志」「呉志」「蜀志」の中で、「帝紀」...
じゃあ、呉や蜀は周辺民族達と関わりが無かったのか、そんな...
また、蜀も西の民族と講和・戦争の歴史を持っています。
ですが、あえて陳寿はこれらを載せなかった。
そうすることによって(孫権や劉備を「伝」として載せるのと...
魏だけを正統としたのです。
…というようなわけですから、当然、天子を称する倭王が歴史書...
「百済伝」「新羅伝」「高句麗伝」「加羅伝」「流求伝」「耽...
(これらの国々を挙げたのには理由があります。隋書には、倭...
という表現があります。ここで「国境」とは、国と国の境目と...
なぜなら、前者の意味なら「三月行、五月行」という言い方は...
もっと具体的な地名を挙げるべきだし、どことの境かを言わな...
ですから、ここは「天子の威徳が及ぶ範囲」と言う意味です。...
ですから、「北は朝鮮半島を越えて沿海州まで、南は太平洋上...
これが、「倭の天子の史書」という性格の上から予想できる、...
もう1つの根拠は、『日本書紀』の中に見出せます。
紀では数多くの九州の歴史書からの転用が見られます。
その多くは、「九州での出来事」と「朝鮮での出来事」だろう...
それは、没年齢や后妃皇子女、それに陵墓です。
なぜか、というと、『古事記』の記載と一致しないからです。
特に没年齢などは、『古事記』には神武から雄略まで、ほとん...
また、年齢そのものにも違いが有ります。
なぜかといえば、当然、依拠した史料が違うからです。
また、陵墓についても、微妙な違いがあります。
実は、『古事記』の表現のほうが、具体的で詳しいのです。
例えば神武陵だと、
「御陵は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」<古事...
「御陵は畝火山の東北陵なり」<日本書紀>
となっていて(指し示す場所は恐らく同じ)、詳しいのは古事...
(「白檮の尾」は地名→「橿原」に近い。「かし」という地域の...
なんででしょうか。
実は、これ(書紀)こそ「日本伝」の記載ではないかと思うの...
書紀編者は、国内伝承(天皇家内伝承)と国外伝承(九州王朝...
だから、史料上は絶対に詳しいはずの国内伝承を捨て、余り詳...
以上が、「日本伝」の存在を暗示する、『書紀』の記述です。
16-Oct-1999
さてさて、今回は「干支」について、考えてみたいと思います。
「干支」は「えと」と読むことも多いのですが、「えと」とは...
これは、「木(き)」「火(ひ)」「土(つち)」「金(か)...
「甲(木の兄、きのえ)」「乙(木の弟、きのと)」
「丙(火の兄、ひのえ)」「丁(火の弟、ひのと)」
「戊(土の兄、つちのえ)」「己(土の弟、つちのと)」
「庚(金の兄、かのえ)」「辛(金の弟、かのと)」
「壬(水の兄、みずのえ)」「癸(水の弟、みずのと)」
この10個ですね。
さて、一方の「十二支」の方は、説明の必要は無いでしょうが、
「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「...
の12個です。
で、これを前から順番に組み合わせていくと、
「甲子」「乙丑」「丙寅」…「壬申」「癸酉」
となって、「十二支」の方が2つ余ります。
だから、「十干」の2巡目は、「十二支」とずれて、「甲戌」...
これが「還暦」。
これを使って、古くから、「年」「月」「日」を表現すること...
ですから、この「干支」使用の歴史、背景を考えると、古代東...
まず、「十干」について、これは所謂「五行」をもとにした概...
いや、もうひとつ可能性があります。
それは「十干」は始めから「十干」で、これに「五行」の概念...
「甲」「乙」…「壬」「癸」は始めは「五行」とは関係の無い「...
…一方の「支」は12です。
整理しましょう。
「行」…「木」「火」「土」「金」「水」の5つ。
「干」…「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」「己」「庚」「辛」「...
「支」…「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「...
「干支」…60。
これらは、同一の文化の中で生まれてきたものでしょうか。
それとも、別々の文化の中から生まれ、後に統合されたもので...
そこが問題です。
わたくしは「行」文化、「干」文化、「支」文化の3つの文化...
ここで、「干」は、殷の天子の名前の中に現れます。
つまり、(これが殷の王の本当の名前であったら)殷墟に代表...
次に「行」の中には「金」があるため、金属器文化時代の産物...
また、「支」は動物に模されていますが、この動物達は、
鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪
であって、西域(インド・中央アジア)から北方(モンゴル)...
少なくとも羊や虎なんかは、地域が限定されるでしょうが、こ...
玉文化の地域との関わりも見逃せません。
んー、いまいちまとまりませんが、要するにいろんな可能性が...
9-Oct-1999
今回は想像をたっぷり交えてお話致します。
「2倍年暦」について、です。
んー、まぁ「2倍年暦」に限らず、いろんな「こよみ」につい...
というわけで、今回は非常にお気楽なお話です。
わたしたちは、ごく当然のように、1年は12ヶ月約365日...
それはなんでしょうか。
:
答えは「1月」です。なぜでしょう。
「1日」という単位は、大まかに言って、
「太陽が昇ってから、沈み、再び太陽が昇るまでの間」
こういうことです。これだと、「暦」や「天文」に詳しくなく...
…で、ここでの基準は「太陽」です。
「1年」という単位はどうでしょう。実は「冬至から冬至まで...
とすると、「冬至」というのは、
「太陽の出ているのが一番短い日」
ですから、やっぱり、基準は「太陽」です。
もう、おわかりですね。
「1月」は読んで字の如く、「月」を基準にした単位です。
「満月から満月まで」「新月から新月まで」
どっちが正式だったかよくは知りませんが、こういうことです。
さて、これをふまえてお話しましょう。
これらの「単位」はどういう順序で成立したか、ということで...
まず、間違い無く最初に成立したのが「1日」です。何も考え...
…で、しばらくは「1日」は知っているけれども、「1月」も「...
でも、もしかしたら、その期間は案外短いかもしれません。例...
「桜の咲く時期から桜の咲く時期まで」
「雨ばかりの時期から雨ばかりの時期まで」
「暑い時期から暑い時期まで」
「葉が色づく時期から葉が色づく時期まで」
「雪の降る時期から雪の降る時期まで」
どれも「1年」です。
時計が無くても、カレンダーが無くても、これはわかるはずで...
…で、そのうち、この「1年」のうちに「満月の夜」が約12回...
こういう順序だと思います。
さて、すると、「1年」「1月」は文化によってはもっと別の...
「新月から満月まで」「満月から新月まで」
これです。これだと、約15日で「1月」となります。
…で、これは知ってるけど、「1年」は知らない場合、この「月...
今度はこんな気候を想像してみましょう。
「雨季」と「乾季」のある熱帯地方です。(「地理」の方はニ...
すると、これが「2倍年暦」です。当然、「雨季」と「乾季」...
で、これを考えると、こんなのも想像できます。
雪国の話です。「農業の季節」と「出稼ぎの季節」です。豪雪...
さて、倭人の「2倍年暦」はどう言うものだったんでしょうか。
倭人伝の記述に従えば、彼らは「南方」の文化を持っていたよ...
また、「春耕・秋収を以て年紀と為す」という『魏略』の文面...
まぁ、史料が少ないので想像に頼る部分が増えてしまいますが...
6-Oct-1999
「在位年代推定の方法」
在位年代推定にはいくつかの方法があるかと思います。
何回か出てきた「在位年数平均」による推定も1つの方法でし...
ここでは、はじめに、そのいくつかの方法についてご紹介致し...
1、那珂通世など多数の論者が使った、「1世代20~30年...
はじめにご紹介するのは、これです。今まで多くの論者が言及...
1 2 3 4
応神―仁徳┬履仲
├反正
└允恭┬安康
└雄略
こう言う系図なら、応神―雄略の間は4世代なので20~30×...
まぁ、非常に大雑把な方法ですが、ある程度的は得ていると言...
2、古事記の没年干支を使う方法。
古事記には、何人かの天皇の崩御の記事のところに、その没年...
当然「没年干支」は1通りしかないので、答えは1つだと思う...
干支 A B
崇神 戊寅 318 258
成務 乙卯 355 (以下同じ)
仲哀 壬戌 362
応神 甲午 394
仁徳 丁卯 427
履仲 壬申 432
反正 丁丑 437
允恭 甲午 454
雄略 己巳 489
継体 丁未 527
安閑 乙卯 535
敏達 甲辰 586
用明 丁未 589
崇峻 壬子 594
推古 戊子 640
こんな感じです。ですが、この説には致命的な弱点があります...
3、暦に詳しい学者がよく使う、「紀の年代修正」による推定。
日本書紀の紀年が大幅に引き伸ばされているのは周知のところ...
ただし、これによって、紀の紀年が「作られたもの」であるこ...
4、数学・統計学に強い論者が使う、「在位年数平均」による...
これは、もう何度も出てきたのでおわかりいただけるでしょう。
ざっとこんなところです。
この中でわたくしの言う「在位年数の公式」に近いのは、1で...
細かい事を言えばキリがありませんので、このくらいにしたい...
26-Sep-1999(Part-2)
ここに七媛女、高佐士野(たかさじの。所在不明)に遊行...
(1)やまとの 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れを...
とまをしき。ここに伊須気余理比売は、その媛女等の前に...
(2)かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
とこたへたまひき。神武記
さてさて、この歌謡、どういうことを歌ってるのでしょうか。
万葉以降の技巧に凝った和歌を読みなれた方は、かえって深読...
(1)なんか単純です。
「やまとの高佐士野(地名)を7人で行く女の子達の誰を抱こ...
ってだけです。
ところが、これを歌ったのが「大久米命」であるのが気に食わ...
まず、従来はこの「誰をし枕かむ」を「天皇は誰をお気に召さ...
これに対し、この解釈を「曲解」として、この歌(1)は本来...
しかし、勘違いは明白でしょう。
余計な心配をし過ぎです。
ようするに、この歌は神武達が仲間内で、
「あの子達、カワイイな。誰がいい?」
「オレ、先頭を歩いてる子がいい」
なんて言ってるだけの、お気楽な場面です。
(実際、この直後、ナンパしています。しかも成功して、ゴー...
マジメに考えてる学者さんたちの意見より、説話にも歌にも的...
26-Sep-1999(Part-1)
今日は「在位年数」の話です。
といっても、新しい話をするわけではございません。
今まで、ちょくちょく言ってきたことの繰り返しになるかもし...
ですから、ポイントだけをギュッと濃縮してお話したいと思い...
まず、もうおなじみ(?)の「在位年数の公式」から。
在位年数=退位時の年齢-即位時の年齢 …(1)
=没年齢-(先代が没した時の当代の年齢) …※
=没年齢-(先代の没年齢-先代との年齢差) …(...
=没年齢-先代の没年齢+先代との年齢差 …(3)
※:どの天皇も死没によって代替わりが起こる。
論理的には、このように展開されます。
(1)式は、常識的な式ですね。で、※印のような仮定のもとに...
ちょっとよくわかりません。)
で、その結果(3)式が導き出せる、というわけです。
これで証明終わり、Q.E.D.です。
さて、これによって明らかになることは、以下のようです。
「在位年数」には「当代と先代の没年齢の差」が影響を及...
従って、「当代」もしくは「先代」の「没年齢」の単体は...
ゆえに、例えば「弥生時代の平均寿命は40~50歳くら...
かわって注目されるべきは、「先代との年齢差」である。...
天皇家の場合、「先代との年齢差」を示唆する、もっとも...
ざっと、こんなもんでしょうか。
これらが、「在位年数の公式」から明らかになることです。
次に、各天皇の在位年代を推定する場合について考えましょう。
このとき、いくつかの仮定が必要になります。
没年齢は、一律50歳(おおよその平均寿命)とする。当...
親子である場合、その年齢差はおよそ20歳くらいと考え...
兄弟であれば、その年齢差は2、3歳程度と考える。(こ...
この他のケースは、別途考える。
数値は割と「こんなもんかな」っていうレベルで考えまし...
まぁ、妥当なところじゃないでしょうか。
で、こういう仮定を用意した場合、次のことがわかります。
1の仮定により、没年齢をすべて50とすると、在位年数...
では、実際に推定してみましょう。
安本美典が「在位年数の平均」から推定した時の基点は、
用明天皇即位年=585年
でした。
これを使ってみます。
1)用明天皇(31代)→神武天皇までの続柄。
親子…綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化...
景行、成務、応神、仁徳、履中、安康、清寧、...
兄弟…反正、允恭、雄略、仁賢、宣化、欽明…計6人
その他…仲哀(甥)、顕宗(従兄弟の子供同士)、継体(...
用明自身と、神武は除きますので、合計29人のはずです。
2)それぞれの場合の在位年数を推定。
親子…20(歳)×20(人)=400年
兄弟…2(歳)×6(人)=12年
仲哀(甥。成務の兄・日本武尊の子)は親子関係より若...
顕宗は、清寧とほぼ同世代と考え、0とする。
継体も、武烈とほぼ同世代と考え、0とする。
3)これらを合計した値が、神武天皇没年→用明天皇即位年まで...
400+12+15+0+0=427年
4)これを用明即位年=585年から引くと、神武の没年とな...
585-427=158年
5)従って、神武没年は158年頃と推定できる。
さて、これはかなり大雑把な推定です。
ところで、卑弥呼=天照大神説や、邪馬台国東遷説などがあり...
(およそ、神武が卑弥呼より後の時代に来るような推定値は、
親子:14歳差、兄弟:1歳差、その他、ことごとく0歳差
こんな感じです。そもそも「在位年数」の推定なので、0以下...
14×20+1×6+0+0+0=286年
585-286=299年
ここまでやって、これです。これが史実だったら、笑います。)
従って、
1、途中の何人かを架空として削るか、
2、「親子」とあるのを「実は兄弟の誤り」として逃げるか
のいずれかを行わざるを得ないのです。
さらに、安本美典のように「後代の在位年数の平均値は14年...
だからこういう論者は、どこかを削ろうと必死になるのです。
なんか、ネタがわれれば、ほほえましい話です。(笑)
24-Sep-1999
今回は、比較的小ネタです。
朝鮮半島にはかつて高句麗・百済・新羅という3つの国があり...
これはご存知ですね。
さらに、それ以前には、馬韓・辰韓・弁辰といういわゆる三韓...
(北側には高句麗・穢(ワイ)・貊(ハク)・沃沮(ヨクソ)...
で、今日のテーマは、この三韓です。
これら三韓のことが出てくるのは『魏志』韓伝です。
この名前からもわかるとおり、三韓とはすなわち「韓国」です。
「韓国」には3つの勢力がある。
このことを踏まえて、三韓というのであって、本来は1つの国...
では、魏志韓伝に従って、それぞれの様子を見ていきましょう。
馬韓(50余国)は三韓のリーダーともいえる存在です。どう...
辰韓(12国)はかつて「辰国」といったようです。もちろん...
彼は今、「韓王」のもとで、独立した王としての実権は備えて...
ただ、「韓王」が滅んでからはどうなったのでしょうか。それ...
弁辰は12国の小国からなりますが、それぞれに王がいたよう...
彼らは「辰王」に従うとあります。
さて、いきなり話は変わりますが、「狗邪韓国」ってご存知で...
これは「邪馬壹国」へと至る行路に書かれた、朝鮮半島南端の...
この「狗邪韓国」という名前、「狗邪」と「韓国」に別れます。
「狗邪」は「狗邪国」です。これがこの国の名前です。
で「韓国」とはこの地が「韓」という大領域の一端に属すとい...
同様に「不耐穢」とは「穢」(さっきでてきたやつ)という大...
また、「閔越」とは「越」という大領域の中の「閔」という地...
とすると、「馬韓」「辰韓」「弁辰」はどうでしょう。
「馬韓」とは、「韓国」の中の「馬国」。
「辰韓」とは、「韓国」の中の「辰国」。
「弁辰」とは、「辰国」の中の「弁国」。
こういう分析が可能です。辰韓と弁辰について、その「王」の...
さて、朝鮮半島側の史書『三国史記』に目を転じましょう。
この最初のほう(一世紀)に、「馬韓」「辰韓」「卞(弁と同...
もっとも、同時に「百済」「新羅」も存在しているので、やや...
ここで、「卞韓」の語に注目してみましょう。
この語が当時(一世紀)の語の反映ならば、この時点では「卞...
一方、魏志の方(三世紀)は、弁国は直接的には「辰王」に属...
辰王の発展が伺えます。
(三国史記では、辰王=新羅王として叙述しているふしがあり...
これについては、また考えることにします。)
従来、中国史書と『三国史記』の叙述には齟齬が多いとされて...
そこで、当然、後代史書である『三国史記』のほうを切り捨て...
もちろん、『三国史記』は「新羅」「高句麗」「百済」の順に...
17-Sep-1999
まずは、なにも先入観を持たずに
次のお話を読んでみて下さい。
ある家族には、先祖代々伝わるというお墓がありました。
家族はこのお墓を大事にしてきました。
そんなある日、ある学者がこのお墓に非常に関心を持ちま...
もちろん、学術研究のためです。
そこで学者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みま...
ですが、家族はこれを断りました。
大事なお墓だからです。
また、ある研究者は、こんな疑問を持ちました。
「このお墓は実は偽物なんじゃないか」
つまり、研究者はこのお墓には、この家族の先祖は埋葬さ...
ほかの誰かのお墓なんじゃないかと、
こう、思ったのです。
そこで研究者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼み...
ですが、家族はこれを断りました。
偽物だと言われるのを恐れたからです。
また、ある教授は、このお墓には実は何も埋まっていない...
疑っていました。
そこで教授はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みま...
ですが、家族はこれを断りました。
何も埋まってないわけがないと信じていたからです。
さて、発掘を断られた学者はこう言いました。
「学術研究のための発掘を断るとは、けしからん」
また、発掘を断られた研究者はこう言いました。
「真実を知ることを恐れるとは、けしからん」
また、発掘を断られた教授はこう言いました。
「事実を確認せずに盲信するとは、けしからん」
さてさて、この家族と学者達の言い分、どっちが正しいでしょ...
みなさん、どう思います?
13-Sep-1999
さてさて、今日は、例の「日本の国号」問題、リターンズです。
これまでに、「任那日本府問題」を通じて、欽明紀に載せる「...
ということを考えてきました。
このような結論に到ったとき、非常に大きな影響を受ける問題...
それは継体紀末尾です。
二十五年春二月、天皇、病甚(おも)し。丁未(7日)、...
時に年八十二。
冬十二月丙申朔庚子(5日)、藍野陵に葬る。
(或本に云はく「天皇、二十八年歳次甲寅、崩ず」と。
而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは、百済本記...
文を為れるなり。其の文に云はく「太歳辛亥三月、軍進み...
乞宅(ホントは「ウかんむり」なし)城を営る。是月、高...
又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず」と。此に...
辛亥歳は二十五年に当る。後に勘校(かんが)へむ者、知...
これは今まで、なぞだとされてきた個所でもあります。
有名な「安閑・宣化、欽明二朝対立説」は実はこの記事をもと...
それはさておき、この記事を整理してみましょう。
国内伝承では継体の没年は二十八年甲寅の歳(534年)...
百済本記には辛亥の歳(531年)に「日本天皇、太子皇...
書紀編者は迷ったが、百済本記の記載に従い、二十五年(...
書紀編者はなおも疑問を残し、注としてこれを付した。
またその際に次代の安閑の即位年は、「国内伝承」のとお...
こういうことです。
さて、ここの日本は、やはり天皇家でしょう。ところが、この...
天皇・太子・皇子がともに死亡、これは大事件です。ハッキリ...
ところが国内にはそんな伝承のあった形跡はない。それどころ...
この両者(国内伝承と百済本記)の食い違いは、どういうこと...
ところで、この個所について、古田はどのように見ているでし...
そいつを確かめておきましょう。
古田はここを含め、すべての百済本記の「日本」を九州だとし...
したがって、この「日本天皇及び太子皇子倶に崩薨ず」の「日...
だから、「国内伝承(近畿天皇家内の伝承)」と食い違って当...
というわけです。
さらに「3年のずれ」(二十八年→二十五年とした際のずれ)を...
しかし、前回までで明らかになったように、百済本記の「日本...
とすると、古田のこの見解には従うことが出来ません。
ですから、継体没年についてもう一度よく考えてみなければな...
もはや、だいぶ長くなってしまったので、端的にお話します。
継体没年は「国内伝承」のとおり甲寅歳(534年)が正...
ただし、継体の在位二十八年はあやしい。なぜなら、ここ...
さらに「武烈悪逆記事」からみて、継体の即位は不法の簒...
したがって、その即位を認めなかった勢力がいたと考えら...
継体はあくまで越やら近江やらの地方武将であり、大和に...
さらには、武烈の治世が実はここまで続いていた可能性も...
要するにここに言う「日本天皇」とは結局、継体以外の誰...
さて、一応このように考えてみましたが、これはもとより非常...
とくに3以降は、証拠はひとつも有りません。
ハッキリしていることと言えば、この「日本天皇」が継体その...
たしかにここの「日本天皇」を九州の王者と見なしたほうが少...
要はよーわからんのです。
まぁ、今後の課題として、ゆっくり考えることにしましょう。
11-Sep-1999
今回は、ガラリと変わって祝詞です。
さて、まずは祝詞に対する基本認識から。
これは、現在伝わる古記録の中でも最も古いと目される伝承で...
ただし、文献そのものは、延喜式に載せるのが最も古いので、...
ですが、祝詞の性格を考えても、平安初期に始めて作られた、...
また、神にささげる言葉ですので、古くからの伝承をそのまま...
もちろん、権力者の手によって改変が加えられている可能性も...
ただし、古事記のように、時の権力者の都合によって話が作ら...
ですが、祝詞は非常に価値ある貴重な史料だ、と言えるでしょ...
この秋、注目です。
つぎに、祝詞と一口に言っても、これはさまざまな種類のもの...
それぞれの祝詞は、それぞれの時代の要請に答える形で成立し...
それぞれ、その立場も中心も異なる、これが重要です。
たとえば、「大祓」の祝詞は「天孫降臨」当時の状況を非常に...
当然ながら、これら祝詞は各個別々の状況で誕生してきたもの...
今でこそ、「祝詞」なんていって一連の史料のごとく扱ってい...
もちろん、それぞれに共通する性格はあるでしょうが、別個に...
さて、今回はあまり膨らませません。
そのうち、それぞれの祝詞についてのお話をすることがあるで...
まぁ、今回は序論と言うことで、このへんで。
8-Sep-1999
1999/9/5の続きです。
わたくしとしては、Aが九州王朝、Bが天皇家と考えています。
理由としては、A(九州王朝)のほうが、百済との歴史的・政治...
なぜなら、高句麗好太王の時代(4世紀末から5世紀前半)か...
また、これより先、たとえば、卑弥呼の頃に、朝鮮半島側と交...
とすると、必然的にBが天皇家。(もちろん、前にも言ったよう...
ですが、書紀を見ますと、欽明紀の主人公はもちろん、「天皇...
もっとも、任那日本府関連記事に関して言えば、「百済王だ」...
「天皇」とは、書紀の中の記述である限り、「欽明天皇」であ...
こういった例は、書紀の中にはいくつか見出せます。
その筆頭が景行紀。「景行九州遠征説話」はそのほとんどすべ...
そして、わかりやすいのが神功紀。ここには『魏志』倭人伝が...
すなわち、ここでも、書紀は九州王朝の歴史を「盗用」してい...
そして、この欽明紀でも…。というわけです。
すると、欽明紀の原史料は、ほかならぬ「九州王朝の史書」で...
わたしは、この「九州王朝の史書」を仮に「倭書」と呼びたい...
おそらく、正史に当たるものでしょう。だから、「倭書」です。
当時(6~7、或は8世紀)の正史と言えば、必ず紀伝体と相...
まぁ、その話は置いとくにしろ、欽明紀の「天皇」は、実は九...
さて、だいぶ遠回りをしたようですが、もともとのお話に戻り...
「百済本記」の日本は、近畿か九州か、というお話でしたね。
大事なことがわかったはずです。
つまり、任那日本府(さっきので言えばB)側が、実は近畿天皇...
これです。
ならば、この「任那日本府」という語を載せる「百済本記」の...
こういう帰結が得られるのです。
いやー、長かった。
どうです?おわかりいただけました??
5-Sep-1999
うーん。どーも、こう、短い文章でものごとを過不足なくしっ...
毎度のことですが、補足というか、実はまだまだ続きます…って...
さて、昨日までに「欽明紀は百済本記以外の本を底本としてか...
というお話をしました(1999/9/4)。
ところが、ここでおわってしまってはいけませんでしたね。
そうです。そもそも、「百済本記」の「日本」について考えて...
忘れてました(笑)。
そこで、この問題に立ちかえる前に、「書紀本文」についても...
あらかじめ、ハッキリ申し上げておきます。
「百済本記」の「日本」がどこを指すか、という問題を積極的...
なぜかというと、「百済本記」の文面自体が非常に少ないから...
しかも断片です。
(多くは「百済本記には、この人名はこのように書かれている...
せめて、説話のひとつでも収録されていればよかったんですが...
従って、「書紀本文」の分析を深め、それとの絡みでなんとか...
「欽明紀の史料批判」
まず、従来からも言われてきたことから。
欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心とし...
同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名...
「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にど...
欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲...
任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済...
もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人...
しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えて...
さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を...
こういったあたりが、欽明紀のもつ「問題点」かとおもわれま...
1~4までの状況を考えると、確かに「百済系の史書によって...
一応、1~4と5以降とは分けて考えたほうがいいかもしれま...
では、まず、4以前について考えましょう。
ここで大事なのは、「書紀本文特有の言回し」でしょう。
従来から、これはよく知られたところです。
欽明紀に限ったことではないのですが、書紀では必ず、天皇に...
たとえば、わかりやすいのは「死」でしょう。天皇なら「崩」...
こういう決まり事がある、このことを念頭に置くとき、
「百済、遣使貢献」
とある書紀の文面を、そのまま信じてはいけないことに気づく...
書紀に「貢献」とあった場合、これは「(通好の徴として)贈...
というだけの意味です。
…で、例によって、欽明紀の本文もこのような表現に満ちていま...
当然、「敬語表現」を差し引いて考えなければいけません。
しかし、それを差し引いても、なお、百済王が「天皇」の「詔...
読めば読むほど、「天皇」と「日本府」の間にはさまれた「中...
それほど、聖明王にとって、「天皇」は重要な存在だった、と...
また、聖明王がそのような態度をとっていることが、この「任...
聖明王が「天皇」などに拘らずに行動を起こしていたなら、ま...
聖明王の父、武寧王は梁に遣使して、「寧東大将軍」となって...
この同じ頃の倭王は、あの武です。「征東大将軍」です。
両者は同格です。少なくとも中国での位取り上は。
このことから考えて、聖明王の一種卑屈な態度には、やや奇妙...
とは言っても、これは主観の問題かもしれません。
ですが、この「書紀本文」の原史料が、或は日本列島側の視点...
さて、ここでひとまず、5以降に目を転じてみましょう。
これは、不思議ですね。実は、欽明紀の中には、日本府←→天皇...
これは、従来の見方では説明不可能でしょう。
単純に、ごく単純に考えましょう。
両者は確実に仲が悪い。これは言えるでしょうね。
しかも、両者をつなぐ直接のパイプは存在していません。
むしろ、百済聖明王が自らそのパイプ役を買って出た、そんな...
これによって得られる結論。
「少なくとも「天皇」と日本府には上下関係がない」
これです。
両者には連絡がない。連絡をよこさない部下は部下ではない。
連絡をよこさない部下をそのまま放って置くのは主人ではない。
しかも、部下がトラブルを引き起こしているのに。
こういうことです。
もっとも、何の先入観も無しにこの状況を見たら両者は赤の他...
こう見たら、両者は対等、こう言っても過言ではありません。
日本府官人は「天皇」など敬っていません。
「天皇」は、そのことをとがめることもできません。
手出しが出来ないのです。
では、日本府官人はなぜ、こんなに強い立場を手に入れたので...
ここに記されているとおり、彼らは「官僚」であって「王」で...
「官僚」だということは、彼の上には「誰か」がいた、そう考...
(「天皇」のもとの「官僚」だったら、とっくにクビです)
さて、ここまで進んでくると、欽明紀には「隠された王」の存...
ここで「天皇」をA、「隠された王」をBとしておきましょう。
で、ABそれぞれの立場を確認してみます。
A…百済と親交が深い。古くから通好を続けていたようだ。また...
B…新羅と通じている。現在、任那諸国を統率しているらしいふ...
さて、ハッキリ言うと、このどちらかが九州王朝、どちらかが...
(もっとも、吉備とか出雲とか越とかも、充分に考えられるこ...
さあ、どっち?
4-Sep-1999
「百済系三書」と「書紀本文」の関係について。
「日本書紀の朝鮮半島記事の中には、「百済系三書」によって...
これは、一般的によく言われることです。この点、古田も同じ...
たとえば、このようです。
(神功)四十六年春三月乙亥朔、斯摩宿禰を卓淳国に遣す...
この書紀本文に対して、こんな解説をしています。
「以下、六十五年条まで百済を主とする対朝鮮交渉記事。...
また、同書解説(小島憲之)では、このように書かれています。
「百済関係の記録として書名の明記されて引用されている...
三書の性質についてはいろいろの説があるが、重要なこと...
津田博士は、百済の記録にある日本本位の記事は、書紀の...
以上の三種のほかにも継体紀などを丹念に検討すると、別...
このあたりが、通説と言っていいでしょう。ここで「百済本記...
もっとも、
「日本という国号は大化改新のときから」
という命題が本当に必要にして十分な論証によって証明された...
(また、小島の「推測」は、やはり単なる推測であって論証と...
ともかく、ひとまずそれは置いときましょう。
今、わたしが疑問を抱いているのは、
「本当に継体・欽明紀は百済本記によって書かれたのか」
という、このことです。
なぜなら、ここには「百済本記」引用記事が数多く存在するか...
当然、本文とは違いがあるから注に引用するのであって、この...
「百済本記」以外の書によって書かれた、と、こう、見るべき...
たとえば、こういうことです。
夫れ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従ふ。安羅...
この両者(本文と百済本記)には明白な違いがあるのがおわか...
本文は任那→安羅→日本府という3段構えの関係を述べたもので...
このような事実によって考えてみると、「百済本記」はむしろ...
この点、従来はこのように考えられたようです。
「このような違いこそ、書紀編者の「自由な述作」である」と。
でも、それは、次の問いを産むことになります。
「なぜ、ここはこのように書き換えたのだ」
「なぜ、書きかえる以前の原史料を引用したのだ」
とくに第2の問いは致命的です。そうでしょう。
どんなに弁舌を揮っても、この矛盾を覆い隠すことは出来ない...
わたくしにはそのように見えます。
ところが、「底本」は別の書だ、と考えれば、ことは簡単です。
まさに「説明敷衍」のため。
ここまでは「百済本記」引用部分について、でした。
ですが、重要なことは、「百済本記」を引用している本文と、...
「差異がない」というのは表面的な字面だけではありません。
その立場、視点などにも、大差はないのです。
従って、このように考えることが必要になってきます。
「やはり、欽明紀は「百済本記」以外の書を原史料として書か...
これです。
また、これだけ「百済本記」を「対校」しているということは...
それはなにか、これが今後の重要なテーマです。
(今のところ、『倭書』百済伝である可能性が最も高いと想像...
うーん。ちょっと今回はわかりづらかったかな。
どうでした?
31-Aug-1999
さて、今、Hotな話題は「日本の国号について」です。
まあ、似たような話は何度かしているので、そのへんも踏まえ...
今回は書紀に引く「百済系三書」について、です。
以前もお話したことがありますね(1999/7/18,Sun)。
あのときは、サワリ程度でした。
今回は、より深く、考えてみたいと思います。
「百済系三書」について、古田は以下のように、通説(前回参...
『日本書紀』では、神功紀に『魏志倭人伝』の引用が見ら...
だが、これは、
『魏志』の「倭女王」とは、卑弥呼であり、卑弥呼と...
卑弥呼は3世紀、神功皇后は4世紀の人であり、時代...
という2点(人物の異同と紀年)で無理がある。
従って、同じ神功紀に引用された「百済記」が先の2点(...
よって、「百済系三書」の叙述対象の「倭」が、どの王朝...
「百済新撰」(6世紀の成立と推定)に「大倭」の用語が...
これは、『三国志』の「使大倭」、『後漢書』の「大倭王...
(かわにし補足、「倭(=やまと)」の用法は、万葉集に...
したがって、「百済新撰」にいう「倭」は九州をさしてい...
さらに、以下のようにして、百済系三書の記述対象を
論証しています。
「百済新撰」の最終記事(502年)と「百済本記」の最...
この点から、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
同様に「百済新撰」の最初記事(458年)と「百済記」...
交錯している。また、ともに「蓋鹵王」について記述して...
したがって、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
さらに「百済記」と『魏志』は同じ神功紀にある。両書の...
少なくとも書紀の編者には、そう見えていたはずである。
『魏志』の「倭」は九州王朝である。
従って、「百済記」「百済新撰」「百済本記」の「倭」は...
さらに進んで、このようにも言っています。
「百済本記」にはしばしば「日本」という国号が出てくる。
これを「信用しない(書紀編者の書き換えと見なす)」と...
したがって、この「日本」も九州王朝と見なされる。
さて、長くなってしまいましたが、ここからが本番です。
わたくし、古田説の1~9までは、一応、賛成です。
ですが、10がいただけません。
その理由を列挙します。
「百済本記」には「倭」という表現がない。
もっぱら「日本」である。従って、先の4については判定...
つまり「倭=日本」か「倭≠日本」か、それが問題なのであ...
「百済本記」の叙述の多くは継体天皇以降に現れる(最終...
近畿天皇家が完全に自立した頃の成立である。
「百済本記」が近畿を対象にした叙述を行ってもおかしく...
「百済本記」には「任那日本府」も現れる。
ここで「日本府」の官人は、新羅よりであり、百済王とは...
新羅・近畿天皇家←→百済・筑紫
という関係を考えるとき、この「日本」が近畿である可能...
「百済本記」にも1箇所だけ「倭」ではないか、とおもわ...
百済本記に云はく、委の意斯移麻岐弥。継体紀、7年...
この「委」は「倭」に同じだろうと、従来言われている。
志賀島の金印「漢委奴国王」と同じだ。
とすれば、ここに「倭」は現れている。
いよいよ、同一書に現れる「倭」と「日本」を同一視すべ...
…とは言っても、これでは反論になりません。
可能性ばっかりだからです。
そこで、「百済系三書」と「書紀本文」の関係という視点から...
詳しくは「後半へつづく」として、ここではその入口だけ、ち...
一般に、「書紀本文」の百済関係の記事は、「百済系三書...
(これについては、通説・古田ともに同じ)
だが、普通に考えて、「百済系三書に拠って本文を作って...
継体紀には「百済本記」とは別にいくつかの「一本(ある...
と、このあたりの疑問が、出発点になります。
次回はきっと、さらに長くなりますよぉ!
29-Aug-1999
「総領」についての補足。
さて、前回のでは、「総領」についての説明が足りなかったか...
そこで、補足です。
「総領」ってのは、筑紫に置かれていたらしい、地方の政治的...
そういう意味で、大宝律令以後の「大宰府」に近いものです。
そこで、「大宰府」の前身、という解釈が今まで多くなされて...
また、「総領」は他に、吉備・伊予・周防・常陸などにあって...
…で、結局、九州を管轄する総領が「大宰府」として残った。
これが通説です。
ですが、これもわかりません。
さっきも言ったように、総領の設置記事は記紀にないのです。
しかも、大宝律令下では「大宰府」。
これは、九州王朝時代から、この地にあった、政治・軍事の拠...
しかも、「総領」と並行して「大宰府」も存在したらしいので...
両者はやはり別々の成り立ちを持つもの、そう見なしたほうが...
じゃ、いつ、だれが設置したのか。
ここがわかんないわけです。
ちなみにこれは、吉備など他の「総領」についても同じです。
同時に吉備には「吉備太宰」なんてものもあったらしくて、こ...
常陸に関しては、「大化改新」のころの「東国国司」がそれに...
どれも、660頃から700にかけて存在したらしいことだけ...
28-Aug-1999
さてさて、今回は短くいきましょう。
大宰府・都督府・総領について。
(665年)十一月丁巳朔乙丑、百済の鎮将劉仁願、熊津...
こんな史料があります。ここに見える「熊津都督府」について...
(660年)八月、蘇定方等、百済を討平し、其の王扶余...
つまり、唐は660年、百済を滅ぼし、その地を唐の支配下に...
その際、唐が設置したのが「熊津等五都督府」です。「熊津都...
この「都督府設置」という唐の政策は、百済に対してだけでは...
北の突厥や鉄勒(テュルク。トルコ系)などに対して「都督府...
これは唐の常套政策でした。
さて、先ほどの書紀の記事、665年のことで、これはあの白...
これは、何を意味するか。
お分かりですね。
この「都督府」はやはり唐の占領地です。
ことに同じ文中に「熊津都督府」とあって、これが唐の占領下...
筑紫の地は、白村江の戦後、唐に占領されていたのです。
この占領政策がいつまで続いたか、それはわかりません。
ここに1つの示唆を与えるもの、これが「筑紫総領」です。
これには、3つの解釈があるかと思います。
1、近畿天皇家の支配機構。
2、九州王朝の支配機構。
3、唐の支配機構。
どれでしょうか。わたくしとしては、このように考えています。
1の弱点は、記紀にその「設置記事」がないこと。カットする...
3は、唐に「総領」の設置は見られないこと。
…で、消去法でいけば、2かもしれません。
でも、わたくしがこの解釈を採ることをためらわせるのは、次...
(700年)六月庚辰、薩末比売(さつまひめ。恐らく官...
つまり、「薩末比売・久売波豆、衣評督・衣君県、助督・衣君...
ここでは、竺志惣領は明らかに天皇家側です。
うーん。
結局どうなんだろう。今のところ、こいつは興味深いなぞです。
よくわかりません。
まぁ、ハッキリしていることと言えば、「都督府」も「総領」...
このあたりかな。
22-Aug-1999
大変です!
とんでもないことに気づいてしまいました!!
8/21の「融天師彗星歌」!!
天師が歌ったという歌の内容です。
「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反りて福...
これです。
この最後の部分、「反」や「成」の主語は誰でしょう。
今まで何気なく、「主語なし」と見なしてきました。
「反」に到っては、「副詞」と見なしていました。
「かえって」「反対に」というわけです。
ですが、「反」の本来の用法は、動詞(一説に形容詞)です。
「反る(かえる)」或いは「反す」です。形容詞なら「反対だ...
「成」についても、特に主語はないものと考えてきました。(...
でも、やっぱり、ここの主語は「日本兵」と見なすべきではな...
「日本兵が反り」「日本兵が福慶を成す」のです。
この際、「反」は「叛」と同意でしょう。誰に…もちろん、「倭...
新羅国内にいた日本兵が日本に帰り、(新羅の敵国たる)倭に...
「成す」という語も「達成する」という語感を持つところが「...
吉凶の問題ではなさそうです。
新羅でなんらかの共同作戦が、画策されていたのかもしれませ...
対倭(任那)戦略の協議でなんらかの手段が用意されたのかも...
任那日本府を通じて。
うーん、結構思いつきに近いものなのでどうかとは思いますが。
21-Aug-1999(Part-3)
『遺事』の説話について。
2、融天師彗星歌
融天師彗星歌(新羅、真平王(579-631)代)
第五、居烈郎、第六、実処郎(一に突処郎に作る)、第七...
彗星の心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近...
郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師...
「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反り...
大王、歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。
(このあとに「新羅の郷歌(新羅語の歌)」がある。そこ...
「倭理叱軍置来叱多烽焼邪隠辺也藪也」
とあり、これは「倭軍が攻めてきたとして烽火をあげた国...
ここにも、「日本」の国号が現れます。時代を考えれば(天皇...
また、古田はこれを以って、「九州が日本と称していた」と考...
すでに何度かお話したとおり、この時代は継体よりも後です。
つまり、「日本」が「倭」と並行して、独自に朝鮮経営に乗り...
とすると、この「日本」は天皇家であったとしても、おかしく...
ここのところ、古田は「朝鮮半島記事と言えば九州王朝」と考...
ましてや、これを『百済本記』の「日本天皇及び太子皇子倶に...
これは「新羅」は「鶏林」とも書いた、という問題と同一視す...
(また、「新羅」「鶏林」もそれぞれに別個の意義があるよう...
単なる「異称」と見なして、それで済ませうる問題ではないで...
どちらにせよ、この説話からは「日本」は敵国です。
「大王」にとって、最も憂慮すべき問題だったことは間違いあ...
この辺り、わたくしのように「日本」を近畿天皇家と見なす立...
つまり、単なる友好国などと言う関係ではなかったのです。
(新羅・日本←→倭・百済という関係について、前にお話したこ...
両国の関係というか、国民感情は結構複雑なようです。
21-Aug-1999(Part-2)
「三国史記・三国遺事における倭と日本」
でしたね。でも、長くなるので「遺事」だけにします。
さて、『三国遺事』にはいくつかの興味ある説話が載っていま...
1、延烏郎・細烏女説話
第八阿達羅王即位四年丁酉(157年)。東海の浜に延烏...
細烏、夫の帰り来らざるを恠(あや)しみて之を尋ぬ。夫...
是の時、新羅の日月、光無し。日者(占い師みたいなもの...
仍りて其の肖(さっきと同じ)を賜ふ。使人、来り奏す。...
長っ!やめときゃよかった。
とおもいつつ、全部引用してみました。この説話は漢の時代、...
この説話について、古田はこんな分析を行っています。(『風...
この説話の「日本」は後代の国名によって記されたもので...
これは、この『遺事』編成の仕方によるものだろう。
「負いて日本に帰る」とある「帰る」とは「かつていたと...
したがってこの「日本」とは「海の国」であり、「天国(...
「降りて我が国に在り」と「日者」は述べている。
記紀でも「高天原から新羅へ降る」という表現がある。こ...
従ってこの表現も「この夫婦が対馬・壱岐の人だった」と...
「日本」の都城の地は、「細肖」=絹の出土地である。そ...
従って説話中の「日本の帝記を按ずるに…」という注釈の見...
なぜなら、この「日本」は近畿天皇家を差すのではないか...
…とこんな感じです。ですが、わたくし、納得していません。そ...
後代の名前かどうかは、『遺事』の原史料が明らかでない...
もちろん、こういうケースがないとは言わないが、逆に「...
「負いて日本に帰る」について、これは古田の誤読だ。「...
これは、「巌が延烏郎を背負って(上に乗っけて)日本に...
これは後文に「巌、亦負ひて帰ること、前の如し」とある...
こういった説話によくある「巌」の擬人的表現だ。
(例えば、岩波文庫の佐伯有清編『三国史記倭人伝』では...
ただし「海に帰る」のは延烏郎で、間違いはない。しかし...
これは先の「天国」という解釈がなくなった今、あまり意...
むしろ、「降る」とは「垂直的な天」を考えたほうが良さ...
これは確かに有力だ。だが、重要なこと。
説話上、「細肖」の「織られた場所」は明らかでない、と...
むしろ、かつていた新羅の地で「日月の精」だった頃に「...
このほうが説話としてスジが通るような気がするのだが…。
もし、そうなら考古学上の分布図によって、「日本」の地...
「日本の帝記」については、確かに天皇家の話ではないだ...
なぜなら、弥生時代、近畿での王と言えば、それは銅鐸の...
すなわち、「日本」は銅鐸王朝時代からの呼称、そういう...
さらに、こんな点を付け足しておきましょう。
「巌」について。例えば『紀』にニギハヤヒの降臨説話が...
それは「天磐船にのって天からヤマトの国(一説に河内)...
また、ニギハヤヒと神武は同じ天国を母域にもつ人だった...
この「天磐船(あめのいはふね)」は宇宙船なんて、すっ...
「磐」とは縄文以来の巨石信仰の対象物だ。
また、石器などの材料として、採石場から各地に運搬され...
延烏郎を乗せた「(霊力ある、不思議な)巌」もそういっ...
当時(弥生)の新羅は、倭国(九州王朝)の内部か、外部...
魏志倭人伝には朝鮮半島の南端は倭の領域だったことが書...
倭の内部なら、「日本に帰る」という表現は、古田説(「...
ざっと、こんなところです。
うぉ!長っ!!
うーん、『遺事』の説話について、もうひとつ面白い話がある...
続きはまた今度…。
21-Aug-1999(Part-1)
今回は「倭国と日本」です。
ご承知のとおり、「倭国」と「日本」は両者別国です。
今回は、史料の整理をしておきましょう。
中国側史書『旧唐書』(10世紀、五代晋、劉怐(リュウク)...
また、内容から言っても、両国は別であることが明記されてい...
ただし、両国には「倭(先)→日本(後)」という先後関係があ...
両国の交代時期は明記されていませんが、701年頃(則天武...
また「倭国の分派としての日本」ということも忘れてはいけま...
続いて『新唐書』(11世紀、宋、宋祁(ソウキ)撰)です。
ここでは「日本伝」だけで、「倭国伝」はありません。
ですが、全体の記事をよく読むと、例えば「白江(白村江)の...
なぜ、「倭国伝」がないのかというと、「亡国」だからです。
「『旧唐書』は唐創業の頃には詳しいが、最近(唐滅亡の頃)...
と、序文に書かれているので、この辺が参考になるでしょう。
(ちなみに『旧唐書』が「最近」のことに詳しくないのは、五...
むしろ、わたくしの知りたい時代(7~8世紀)については、...
ほかに、唐の時代(に書かれた/を描いた)いろんな書物(例...
一方、朝鮮半島側からはどのように描かれているでしょう。
『三国史記』(12世紀、高麗、金富軾(キンフショク、朝鮮...
で、670年に「倭国が日本に変わった」という記事があります。
ただし、これは『新唐書』の記事を誤読したものだ、という説...
両書の文体は酷似し、確かに『新唐書』の記事は、読みように...
『新唐書』には『旧唐書』と同じく両国の交代時期は明記され...
ですから、例えば古田はこの『三国史記』の記述から670年(天...
次に『三国遺事』(13世紀、高麗、僧一然(イチゼン)撰)...
どちらも同じように、いろいろな個所でお目にかかれます。
このような現象はこの本だけですが、それはこの本の性格によ...
この本は歴史書ではなくて、史料集成・説話集という性格を持...
もとの史料の表記に従った、ということです。つまり、史料の...
こういう解釈です。古田なんかもそう言っています。
ですが、これもあやしい。これでは「日本」と記された金石文...
古田はこれをもって、「倭」がかつて「日本」とも称していた...
やっぱり「日本」は「日本」と考えるべきです。
ここらへんについては、またお話します。
さて、日本列島側はどうでしょうか。
まず、『古事記』には「日本」という語が出てきません。
これは、天武天皇の意思によってまとめられた史書という『記...
まぁ、のちほど。
『日本書紀』はどうかというと、言うまでもなく「日本」が目...
神倭伊波礼毘古(カム倭イハレビコ、神武天皇)〈記〉を神日...
さて、大きな問題があるのは『万葉集』です。
第1の問題は「ヤマト」の表記についてです。
古田は「ヤマト」という語の表記の仕方について、こんなこと...
それは、天智天皇以前は「ヤマト」を「倭」と表記したものが...
ここからも、先の670年のラインが引かれる、というのです。
なるほど、たしかに天智以降、「倭」という文字が「ヤマト」...
ところが、「倭」→「日本」という変化はそれよりもさらに後、...
たとえば山上憶良や大伴旅人などが使っています。
むしろ、中国史料が示唆する701年に近いようです。
このあたりを考えると、「九州→近畿」の権力委譲は670年に...
なぜなら、「倭」を「ヤマト」と読めるようになった、という...
また、「倭」を「ヤマト」と読むようにしたのは、天智の時代...
こう考えると「天武天皇の意思によってまとめられた史書」『...
さて、今回は「倭」と「日本」について、各史料の整理と、国...
次は第2章「三国史記・三国遺事における倭と日本」です。
18-Jul-1999
今回は、「日本書紀に見える5つの書物について」です。
5つの書物とは、日本書紀編纂にあたって、原史料となったで...
どれも、『日本書紀』に引用されています。が、逆に言えば『...
それぞれについて、簡単にまとめておきましょう。
『百済記』
神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。...
『百済新撰』
雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王か...
『百済本記』
継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王ま...
『日本旧記』
雄略紀の1箇所でのみ引用。百済関係の記事。
『日本世記』
斉明紀、天智紀に引用。白村江あたりの史料。
それぞれ、5つの本は、すべての時代について書かれたもので...
ただし、大事なのは、百済系の三書はその「連絡時点」におい...
つまり、蓋鹵王は『記』と『新撰』に、武寧王は『新撰』と『...
これらは恐らく、日本の「六国史」のように、一貫した事業と...
そこで、それぞれの本の「来歴」について考えてみます。
まずは、『百済記』です。この書に最初に見える「肖古王」に...
古記に云はく、百済開国已来(「以来」に同じ)、未だ文...
要するに、歴史の記録が始まったのは、肖古王の時代だ、と言...
その通り、『百済記』は肖古王から記述が始まっています。
だからと言って、『百済記』がここに言う「高興」の書いた本...
次に『新撰』です。引用個所が、3ヶ所と少ないので、はっき...
『本記』は紛れもなく史書です。この書には「日本」という語...
古田武彦はこの「日本」も「九州」のことだ、と言っています...
私は「日本」はやはり近畿を指すと考えています。
それは、「継体以降」だからです。
「磐井の変」以来、九州と近畿は敵対関係にありました。
反乱者はやはり継体ですが、もはや九州はこの「反乱」を鎮圧...
と、いうことは両雄並び立つ状況だった、と考えるのが筋です。
対等です。
古田のように、朝鮮半島記事は九州の独占事項だ、とは言えな...
一方、天皇(欽明つまり近畿の王ではない)は「親百済派」で...
ここの分裂も重要です。
新羅・日本←→百済・倭
という構図が見えます。これは白村江と同じ構図です。
ここのところは重要です。私は
欽明紀の「天皇」は九州の王である
と考えています。(これについては、また今度)
『本記』は天皇に対して敬語を用いています。このあたりもこ...
それから、『日本旧記』です。
これは、1箇所で引用されているのみです。
私はこれは書名ではなくて、「日本の旧記」という普通名詞で...
(古田は九州だといっています)
『日本世記』は、どうでしょう。ポイントは「世記」という語...
『倭姫世記』は「倭姫をはじめとする伊勢神宮史」です。『史...
こうした点から見て、「世記」という語は「帝王の歴史」では...
帝王の歴史は「紀」といい、いわゆる「帝紀」です。
また、1個人の伝記は「伝」「列伝」です。
これに対し「世記」「世家」「載記」(「載」は「世」とほと...
私はこれこそ「倭書(仮題)」中にあった日本(近畿)の部分...
また、『晋書』に「五胡十六国」のことが載っている「載記」...
少なくとも、『日本世記』と言う場合、「日本の帝王の歴史」...
まあ、「任那日本府」や「倭書」など、話し始めると非常に長...
7-Jul-1999
今回は6/20のつづきです。
で、范曄のいう「国皆王を称し」は、倭をはじめとして、朝鮮...
ところが、よくよく考えてみると、これもなんかおかしい。
なぜなら、范曄はその直前で、
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居す。凡そ...
武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使駅、漢に通ずる者、三十許...
国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国...
と、書いてあるからです。だから、文脈上は、この「国」とは...
ですが、前も言ったように、「世世統を伝ふ」というのは、『...
この文章からは、まるで漢代を通じて諸王がその血統を伝えて...
やっぱり、「国皆王を称し」の部分を漢代のことと考えるのは...
うーん、この一句、かなりの強敵になってきました。
難しい。
というのは、「皆王を称し」ていたのが5世紀のことであれば、...
そこで、「南朝鮮の国のことじゃないか」と考えたのですが、...
こまったもんです。
というわけで、よーわからん…。
24-Jun-1999
えー、今回のネタは、「欠史八代」の系図です。
ここんところ、大きなネタはないんで、今回も非常に小ネタで...
神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化―崇神
という系図。
まー、社会の資料集でも見てください。
一直線に書かれていることも多いかと思います。
ところが、崇神より後の系図は、例えば兄弟で継承したり、途...
なのに、神武―崇神の間は一直線。
つまり、100%、親→子という継承です。
「これはおかしい」
従来から、こう言われてきたのも、まー、しかたのないことで...
でも、それは「皇位継承」なら…の話。特別な地位についた人の...
別にこれは、たとえば「徳川将軍」でも「源氏の棟梁」でも、...
ここで
「だから、神武―崇神は架空なんだ」
と言いたい気持ちはわかります。
でも
「だから、神武―崇神の系図は皇位継承をあらわすものではない」
と考えてみる必要があります。
と、同時に
「これは、天皇(姓はよくわからないので)氏の最有力者をあ...
ともいえます。
たとえ一氏族の長(最有力者)であっても、やっぱり親→子継承...
例えば、懿徳天皇は安寧天皇の次男だからといって末子相続う...
ここんところは、非常に間違えやすいので、注意してください。
さてさて、じゃぁ、なんなんだ?と思うかもしれません。
それに答える前に、わたくし、こういう一直線の系図を
いくつか知っていますんで、ご紹介しましょう。
<その1>「稲荷山古墳出土、辛亥年銘鉄剣」に見える「乎獲...
「意富比危―多加利足尼―弖已加利獲居―多加披次獲居―...
<その2>「釈日本紀所引、上宮記」に見える継体天皇の系図
「凡牟都和希(ホムツワケ)王(応神)―若野毛二俣王...
<その3>「古事記、崇神記」に見える意富多多泥古(オホタ...
「大物主神―櫛御方(クシミカタ)命―飯肩巣見(イヒ...
どうです?お気づきになりました?
これらの系図で中心になるのは、頭と尻です。
つまり、<その1>では「意富比危」と「乎獲居臣」。
<その2>では応神と継体。<その3>では「大物主神」と「...
一番最後に書かれているけど、本当の主語は一番最後の人物な...
そこから、何代か前の「偉大な先祖」までさかのぼって書いた...
まー、5~6代前の先祖まで辿ってみてください。
絶対に「一直線」になるはずです。
(辿れれば…の話ですが。別に徳川でも足利でもなんでもいいで...
そーだな、徳川慶喜から家康まで、「血の繋がり」をさかのぼ...
長くなりましたが、ここで結論!
「神武―…―崇神」の系図は崇神を原点に神武(大和の地にやって...
「記紀」ではこれに対して「天皇」の称号を与えただけである。
20-Jun-1999
今回は「倭の五王」で行きたいと思います。
聞けば当たり前の話です。
倭王は中国南朝に使者を送って、その冊封下に入りました。
そのときもらった称号は、たとえば珍なら、
「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国...
という長ったらしいものです。
これは、「使持節」「都督諸軍事」「安東将軍」「倭国王」と...
ここで実質的に、東アジアで効果を持っていたのは「都督諸軍...
あとの2つは中国国内での位取りです。
で、「都督諸軍事」と「倭国王」の称号。
この2つの示す支配領域には違いがあります。
「都督」のほうは、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓という...
一方、「倭国王」はというと、倭1国のみです。
もし、さっきの6国に対しての「王」だったら、
「倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国王」
か、総称して「東夷王」「海東王」などと言わなければならな...
ということは、新羅王・任那王・加羅王などは他にいたという...
そして彼らは都督諸軍事たる珍の支配下にあった、これが確認...
そこで『後漢書』です。著者の范曄(ハンヨウ)は南朝劉宋の...
彼は『後漢書』でこう書いてます。
国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国...
これは、今まで2世紀後半から3世紀のことだと言われてきま...
でも、そうじゃありません。これは彼が5世紀の事実を踏まえ...
…で、何が言いたいかというと、「国皆王を称し」の「国」は倭...
そのことを踏まえて范曄は、こんな風に書いたんじゃないか、...
つまり「邪馬臺国に居」した「大倭王」とは倭の五王のことだ...
そういうことです。
終了行:
[[独り言(Historical)]]
#menu(menu_Historical)
25-Dec-1999
さてさて、「倭武天皇」のお話です。
うーん、むかぁし、「倭王武」と、「倭武王」とは、似て非な...
えー、「倭王武」の方は、「倭王」の「武」であって、「武」...
当然ながら、和漢ともに諱と諡とは厳格に区別されるものであ...
…で、「倭武王」形式の方にはもうひとつの可能性があって「や...
この場合、「倭武」は和風の諱です。
これは、とくに日本列島側の文献では、考慮からはずすわけに...
さて、多分、このようなことは、以前お話しただろうと思い、...
先日の「倭武天皇」の話に戻りましょう。
「倭王武」と「倭武王」を混同すべきでないという立場から、...
従って、2は×です。
では、1はいかがでしょうか。
うーん、これも完全な○というわけにはいきません。
ですが、結論から言うと、こちらは△だろうという感じを持って...
まず、『常陸風土記』にでてくる、「倭武天皇」が、現実に「...
なぜかというと、記紀ともにヤマトタケルは常陸国まで行って...
行ったのは、武蔵まで。
(紀では、常陸をすっとばして、東北の蝦夷まで征伐していま...
また、奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)も、走水(はしり...
まぁ、そもそもヤマトタケルは皇子であって天皇ではありませ...
一説にはヤマトタケルが、日本古代史の華々しい英雄たり得る...
(まぁ、もう一方には義経にも通ずる「悲劇の主人公」である...
…で、結局のところ、いくら彼を敬愛したところで、彼を天皇に...
たしかに、草壁皇子(天武と持統の皇子)なんかのように、「...
草壁皇子は、持統が即位する前に天武の後継者として、持統自...
ヤマトタケルとは、ちょっと立場が違います。
しかも、です。中央の文献ではヤマトタケルを「天皇」として...
というわけで、「倭武天皇」とヤマトタケルは必ずしもイコー...
じゃ、なんなんでしょう。
その前に、「風土記説話」の性質と言うものを考えて見ましょ...
こんな特徴があります。
説話に登場するのは、神武・崇神・景行(ヤマトタケル)...
それぞれの天皇には、ある事跡が共通すること。それは、...
神武…神武東征
崇神…四道将軍派遣→とくに東方十二道・大彦命
景行…景行九州遠征・ヤマトタケルの熊襲・蝦夷討伐。
神功…筑紫遠征及び三韓征伐。
当然ながら、常陸においては、崇神と景行・ヤマトタケル...
九州の風土記では、景行・神功の記事が多く、近畿の風土...
神武・崇神の記事が多い。(近畿の場合は、これだけには...
また、より説話を分析してみると、この五人には、以下の...
神武…九州より近畿にやってきて、自ら戦った「英雄」であ...
崇神…各地に名将を派遣した「最高司令官」としての「王」
景行…九州の地では各地を視察した「為政者」としての「王」
ヤマトタケル…「為政者」景行によって派遣された「武将」...
神功…九州に自ら赴いた「女王」かつ「巫女」
この五人の「地域性」及び「属性」と、「風土記説話」の...
このような事実は、例えば、『常陸風土記』の次の文面に...
A)倭武天皇、東夷の国を巡狩し、新治(にひはり)県...
B)昔、美万貴(みまき=崇神)天皇の馭宇(あめのし...
A、Bが同一の説話であることは明らかである。ところが、...
以上のことから、常陸風土記の「倭武天皇」は少なくとも、風...
ですが、重要な問題、「倭武天皇」という字面はどこから来た...
これを、次回、2000年の記念すべき第1回のテーマにした...
では。
良いお年を!
19-Dec-1999
最近忙しい&疲れてることもあり、ネタに乏しいのですが、今...
「倭武天皇」という言葉、聞き慣れないかも知れませんが、常...
常陸風土記にはこの「倭武天皇」という人物がかなり頻繁に登...
例えば、この地名は倭武天皇がこれこれの出来事に遭遇された...
では、問題です。
「倭武天皇」とは、いったい誰のことでしょう。
1、「倭武」とは「やまとたける」であり、彼を崇拝する土地...
2、「倭武」とは、「倭王武」のことである。(「倭(姓)」...
さあ、どっち?
28-Nov-1999
今回は、古田武彦が「九州年号」を見出す、直接のきっかけと...
鶴峯は、師である本居宣長のあとを承けて、「熊襲偽僭説」を...
「熊襲偽僭説」とは、本居によって唱えられた、卑弥呼を熊襲...
「熊襲がいやしくも日本列島の王と偽り僭称して、中国に使者...
という説です。
まぁ、「偽り」とか「僭称」とかというのは、他でもなく、「...
…で、鶴峯はここから、「熊襲」の方の研究に情熱を燃やした。
師の本居が『古事記伝』に代表されるように、「天皇家」の方...
このようなわけですから、古田にとっては、貴重な先行説だっ...
古田自身が、このような経緯を述べています。(『失われた九...
…で、そこへ「九州年号」とくれば、古田の目の色が変わるのも...
もっともひどいのは、ほかならぬ襲国偽僭考の読解です。
襲国偽僭考をここに引用しましょう。
継体天皇十六年、武王年を建て善記といふ。是九州年号の...
年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七...
善記 (1)襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年...
:
殷到 (1)継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす。(1...
:
大長 (1)文武天皇二年戊戌、大長元年とす。(4)一...
(1、2…の番号はかわにし)
さて、一番最後に「本文」は「九州年号と題したる古写本によ...
まず、解るのは(2)と(3)の部分は違うということです。...
(4)はいかがでしょう。
古田はこれを「古写本による本文」と見なしました。
ところがこれは誤りです。
実は(4)は『和漢年契』の文なのです。
鶴峯の「襲国」が書かれたのは文政3年(1820)、高安の...
およそ20年を隔てて、ほぼ同じ時代に書かれた本を、鶴峯は...
この事実を古田は見逃しました。
これによって、古田の「九州年号」説に大きな歪みが生じてし...
それはさておき、「襲国」に戻ります。
(1)は「古写本による本文」でしょうか?
答えはNOです。
なぜなら、善記のところに「襲の元年…」とあるからです。
「襲」とは「熊襲」「襲国」、つまり鶴峯の「熊襲偽僭説」の...
もしも、鶴峯の意図とは別に、この語が「古写本」に見出され...
なぜなら、それは鶴峯にとって、自説の強力な支えとなるにふ...
しかし、それはない。つまり、この「襲」の語が、鶴峯の記す...
従って、(1)も「本文」ではない。
とすると、鶴峯が見た「九州年号と題したる古写本」にあった...
ハッキリ言えば、『二中歴』『如是院年代記』その他と大差あ...
また、現存しない以上、この「古写本」がどの程度古い物なの...
ですから、始めに古田がこれや海東諸国記をもとに「九州年号...
わたくしは、ここまで、「逸年号」を調べてきて、以下のよう...
第1に、これら「逸年号群」の原型は、表ではなく年号単体で...
第2に、これら単体の「逸年号」は、その出現時期が、古くて...
(「法興」「白鳳」「朱雀」はそれより古い)
第3に、例えば「定居」は「琳聖太子(戦国の大内氏の祖)」...
第4に、仏教関連記事が圧倒的に多いこと。
これらを踏まえると、
1、それぞれの年号を、それぞれの「ある人物」が偽作し、
2、『二中歴』著者を筆頭に、それらを収集した表が出来あが...
3、鶴峯や古田のように、別王朝の年号と見なすに至った。
という可能性が、無きにしもあらず、充分に考えられるような...
所謂「僧徒による偽作説」です。
ですから、これら「逸年号」が「九州王朝のつくった年号だ」...
もちろん、まだわかりませんが、「逸年号」史料の性格を考え...
あくまで、一次史料を基にしなければ、いかなる説も成立不能...
要するに、結論は保留。ということで…。
23-Nov-1999
さて、今回も「年号」シリーズです。
逸年号を収集した、江戸時代の2つの本について、考えてみま...
もっとも、江戸時代にはこういった研究が盛んで、ほかにもさ...
『清白士集』『和漢年契』『古代年号』『襲国偽僭考』『茅窓...
まあ、その中から、タイトルの『和漢年契』について取り上げ...
『和漢年契』(以下「年契」と略す)は、高安蘆屋によって寛...
(…詳しいことは、もっと調べてからね)
前回も多少触れました。
その後、いくつか発見したことがあります。
その前に、「逸年号史料」とはどういったものなのか、という...
たとえば、『社方開基』や『肥後国誌』、『防長風土注進案』...
これらは、年号を載せることが目的の本ではなく、寺社の由来...
つまり、「地誌」の本です。
これらの文面をご覧下さい。
目一箇男(まひとつのを)神社、或記一目神社云々。当社...
季号賢称丁酉(577)とかやの時、もろこし百済国に…(...
このように、年号は文面の主役ではありません。
…で、ここに現れてくるのは、「年号」+「何年」(+「干支」...
決して、「当年号は、何年間続いた」とか、「前の年号は何々...
これはちょうど、わたくしが何気なく「明和9年」とか「文化...
まぁ、書く方は元の本に書いてあるとおり書けばいいので、明...
おわかりでしょうか。
これが「逸年号」史料の原型です。
先ほどの縁起類にしたって、もともと伝わるとおりの年号で記...
…で、あとから調べた人や、推理を働かせた人、わからんとさじ...
(…で、そこんところに「未詳(わからん)」とか「蓋(けだし...
間違っても、『二中歴』や「年契」のような表が原型だと思っ...
むしろ、「表がないから作った」と考えるべきです。
これを踏まえて、『二中歴』系統の史料と「年契」がなぜ食い...
まず、『二中歴』系統の史料に特徴的なのは、元年の「干支」...
なるほど、これがあれば、ちょうどわれわれが西暦を用いるの...
ここに、その時の天皇名を入れておけば、完璧です。
また、「賢称6年辛丑」という記事が有ったとしましょう。
ここから、賢称元年の干支を導き出すのは、たやすいことです。
で、これをもとに、年号の配列を考えたら、できあがりです。
…こうして、『二中歴』系統の本は、逸年号表を作り上げた、と...
では、「年契」は?
実は、『二中歴』系の方法だと、天皇の在位年代と、改元が一...
(これは、古田が「逸年号(九州年号)が偽作でなく、かつ、...
少なくとも、「年契」の著者、高安蘆屋にはこれが不審だった。
そこで、天皇の即位と改元がピッタリ合うように、うまく並べ...
これが真相だろうと思います。
つまり、継体天皇代の年号は、その合計年数が継体の在位年数...
現に、各天皇代の年号群の合計年数は在位年数とほぼ等しくな...
ただし、たとえば、「善記4年、云々」という史料が目の前に...
どちらにしても、「うまくいってない」というのがわたくしの...
高安さんも苦労なされたようですが…(笑)。
まぁ、『二中歴』の方も、収集の度合いによって、抜けている...
(二中歴では「仁王」が12年続いたことになってますが、他...
てことは、他にも抜けがありそうですね)
結局、繰り返しになりますが、収集と復元は容易な作業ではな...
20-Nov-1999
今回は「大宝以前の逸年号」についてお話します。詳しくは古...
『二中歴』は後醍醐天皇代(1318~1339)の本であり...
…で、これ以降、『麗気記私抄(1401)』→『海東諸国紀(...
(たとえば、所功『年号の歴史』では、『二中歴』と『海東諸...
その一方で、『和漢年契』という本は、異流です。
これは、寛政10年刊の本ですから、かなり新しいものですが...
また、この「資料編」には載っていませんが、『古代年号』と...
このような異説の存在を侮ってはいけません。
なぜなら、多くの逸年号史料は、史料集成という性格を持つも...
というのは、いずれの史料も、様様な文献を渉猟し対校するこ...
年号というものは、その性質上、まとまって記載されると言う...
ですから、わたしたちはこれらのパーツを、パズルのように組...
(例えば、歴史書のように年代をおって、順次年号が記載され...
ですから、『二中歴』系統の本も、『和漢年契』も、その史料...
こういった観点から見てみれば、『和漢年契』のような異説の...
さて、『二中歴』系統の本に目を転じましょう。
この系統の本を、「正」とする人も多いようです。(古田など)
ですが、やはりこれも史料接合の産物と見なすほかありません。
また、残念なことに、この接合も、矛盾と言うか、大きな弱点...
それは、「法興」年号の欠如です。
実は数多い逸年号の中でも、「白鳳」とならんでもっとも確実...
「推古仏」とも「白鳳仏」ともいわれる、法隆寺釈迦三尊像銘...
これが、『二中歴』にはない。他のものにもほとんどない。
わずかに『古代年号』が載せるようですが、ほかの諸説は、一...
なぜ、ないのでしょうか。
「定居」年号とカブるからでしょうか。
「法興」は法隆寺僧徒の「私年号」というのが通説だったから...
理由はわかりませんが、これが逸年号の列に加わらないのはお...
ですから、たとえば「『二中歴』が原典」(=古田説)という...
ハッキリ言えば、わたしたちが、いろんな史料を探して、逸年...
ですから言ってみれば、わたくしが収集した逸年号群と、『二...
もちろん、手に入れられる史料は『二中歴』の方が、古い史料...
こういったわけで、逸年号群の収集と復元は、一朝一夕にでき...
コツコツと史料を集めて回り、綿密な調査・分析を行うことが...
まぁ、のんびりやるとしましょう。
30-Oct-1999
「倭書日本伝」について、です。
お解りでしょうが、実際にこんな本がある訳ではありません。
わたくしが考えました。
でも、かなりの確率で、こんなような本があっただろうと思っ...
もちろん、『倭書』という本です。
九州王朝の歴史書として、あったはずの本です。
この中には、ほぼ間違い無く、近畿地方について書かれた個所...
わたくしはそういう確信を持っています。
また、実際は「日本伝」ではなく「日本世記」がそれなのでは...
順を追ってお話しましょう。
まず『倭書』という本の存在については、多分お解りいただけ...
いずれ詳しくお話しましょう。(「日本」の国号の時のシリー...
…で、なぜ「日本伝」が予想されるのか。
それには2つの筋道から考えることが出来ます。
1つは、「倭」という王朝の性格を考えた上での、スジ論です。
これは、『倭書』の成立を、6~7世紀に想定した上での話で...
当時、倭王(多利思北孤)は、中国の冊封下で天子の配下とし...
「日の出づる処の天子」で有名な、アレです。
そういう状況下で歴史書が作られたら、どうなるか。
当然、紀伝体の史書になるでしょう。
「紀」とは「帝紀」。天子の記録です。
倭王が天子を名乗る以上、史書を書くなら、「帝紀」に自らの...
そして、実は紀伝体の史書には、もう1つ重要な記載がありま...
それが「四夷伝」です。
これがないと、正統な天子の歴史書の体裁にならないのです。
解りやすい例を挙げましょう。
『三国志』です。
有名な話ですが、「魏志」「呉志」「蜀志」の中で、「帝紀」...
じゃあ、呉や蜀は周辺民族達と関わりが無かったのか、そんな...
また、蜀も西の民族と講和・戦争の歴史を持っています。
ですが、あえて陳寿はこれらを載せなかった。
そうすることによって(孫権や劉備を「伝」として載せるのと...
魏だけを正統としたのです。
…というようなわけですから、当然、天子を称する倭王が歴史書...
「百済伝」「新羅伝」「高句麗伝」「加羅伝」「流求伝」「耽...
(これらの国々を挙げたのには理由があります。隋書には、倭...
という表現があります。ここで「国境」とは、国と国の境目と...
なぜなら、前者の意味なら「三月行、五月行」という言い方は...
もっと具体的な地名を挙げるべきだし、どことの境かを言わな...
ですから、ここは「天子の威徳が及ぶ範囲」と言う意味です。...
ですから、「北は朝鮮半島を越えて沿海州まで、南は太平洋上...
これが、「倭の天子の史書」という性格の上から予想できる、...
もう1つの根拠は、『日本書紀』の中に見出せます。
紀では数多くの九州の歴史書からの転用が見られます。
その多くは、「九州での出来事」と「朝鮮での出来事」だろう...
それは、没年齢や后妃皇子女、それに陵墓です。
なぜか、というと、『古事記』の記載と一致しないからです。
特に没年齢などは、『古事記』には神武から雄略まで、ほとん...
また、年齢そのものにも違いが有ります。
なぜかといえば、当然、依拠した史料が違うからです。
また、陵墓についても、微妙な違いがあります。
実は、『古事記』の表現のほうが、具体的で詳しいのです。
例えば神武陵だと、
「御陵は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」<古事...
「御陵は畝火山の東北陵なり」<日本書紀>
となっていて(指し示す場所は恐らく同じ)、詳しいのは古事...
(「白檮の尾」は地名→「橿原」に近い。「かし」という地域の...
なんででしょうか。
実は、これ(書紀)こそ「日本伝」の記載ではないかと思うの...
書紀編者は、国内伝承(天皇家内伝承)と国外伝承(九州王朝...
だから、史料上は絶対に詳しいはずの国内伝承を捨て、余り詳...
以上が、「日本伝」の存在を暗示する、『書紀』の記述です。
16-Oct-1999
さてさて、今回は「干支」について、考えてみたいと思います。
「干支」は「えと」と読むことも多いのですが、「えと」とは...
これは、「木(き)」「火(ひ)」「土(つち)」「金(か)...
「甲(木の兄、きのえ)」「乙(木の弟、きのと)」
「丙(火の兄、ひのえ)」「丁(火の弟、ひのと)」
「戊(土の兄、つちのえ)」「己(土の弟、つちのと)」
「庚(金の兄、かのえ)」「辛(金の弟、かのと)」
「壬(水の兄、みずのえ)」「癸(水の弟、みずのと)」
この10個ですね。
さて、一方の「十二支」の方は、説明の必要は無いでしょうが、
「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「申」「...
の12個です。
で、これを前から順番に組み合わせていくと、
「甲子」「乙丑」「丙寅」…「壬申」「癸酉」
となって、「十二支」の方が2つ余ります。
だから、「十干」の2巡目は、「十二支」とずれて、「甲戌」...
これが「還暦」。
これを使って、古くから、「年」「月」「日」を表現すること...
ですから、この「干支」使用の歴史、背景を考えると、古代東...
まず、「十干」について、これは所謂「五行」をもとにした概...
いや、もうひとつ可能性があります。
それは「十干」は始めから「十干」で、これに「五行」の概念...
「甲」「乙」…「壬」「癸」は始めは「五行」とは関係の無い「...
…一方の「支」は12です。
整理しましょう。
「行」…「木」「火」「土」「金」「水」の5つ。
「干」…「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」「己」「庚」「辛」「...
「支」…「子」「丑」「寅」「卯」「辰」「巳」「午」「未」「...
「干支」…60。
これらは、同一の文化の中で生まれてきたものでしょうか。
それとも、別々の文化の中から生まれ、後に統合されたもので...
そこが問題です。
わたくしは「行」文化、「干」文化、「支」文化の3つの文化...
ここで、「干」は、殷の天子の名前の中に現れます。
つまり、(これが殷の王の本当の名前であったら)殷墟に代表...
次に「行」の中には「金」があるため、金属器文化時代の産物...
また、「支」は動物に模されていますが、この動物達は、
鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪
であって、西域(インド・中央アジア)から北方(モンゴル)...
少なくとも羊や虎なんかは、地域が限定されるでしょうが、こ...
玉文化の地域との関わりも見逃せません。
んー、いまいちまとまりませんが、要するにいろんな可能性が...
9-Oct-1999
今回は想像をたっぷり交えてお話致します。
「2倍年暦」について、です。
んー、まぁ「2倍年暦」に限らず、いろんな「こよみ」につい...
というわけで、今回は非常にお気楽なお話です。
わたしたちは、ごく当然のように、1年は12ヶ月約365日...
それはなんでしょうか。
:
答えは「1月」です。なぜでしょう。
「1日」という単位は、大まかに言って、
「太陽が昇ってから、沈み、再び太陽が昇るまでの間」
こういうことです。これだと、「暦」や「天文」に詳しくなく...
…で、ここでの基準は「太陽」です。
「1年」という単位はどうでしょう。実は「冬至から冬至まで...
とすると、「冬至」というのは、
「太陽の出ているのが一番短い日」
ですから、やっぱり、基準は「太陽」です。
もう、おわかりですね。
「1月」は読んで字の如く、「月」を基準にした単位です。
「満月から満月まで」「新月から新月まで」
どっちが正式だったかよくは知りませんが、こういうことです。
さて、これをふまえてお話しましょう。
これらの「単位」はどういう順序で成立したか、ということで...
まず、間違い無く最初に成立したのが「1日」です。何も考え...
…で、しばらくは「1日」は知っているけれども、「1月」も「...
でも、もしかしたら、その期間は案外短いかもしれません。例...
「桜の咲く時期から桜の咲く時期まで」
「雨ばかりの時期から雨ばかりの時期まで」
「暑い時期から暑い時期まで」
「葉が色づく時期から葉が色づく時期まで」
「雪の降る時期から雪の降る時期まで」
どれも「1年」です。
時計が無くても、カレンダーが無くても、これはわかるはずで...
…で、そのうち、この「1年」のうちに「満月の夜」が約12回...
こういう順序だと思います。
さて、すると、「1年」「1月」は文化によってはもっと別の...
「新月から満月まで」「満月から新月まで」
これです。これだと、約15日で「1月」となります。
…で、これは知ってるけど、「1年」は知らない場合、この「月...
今度はこんな気候を想像してみましょう。
「雨季」と「乾季」のある熱帯地方です。(「地理」の方はニ...
すると、これが「2倍年暦」です。当然、「雨季」と「乾季」...
で、これを考えると、こんなのも想像できます。
雪国の話です。「農業の季節」と「出稼ぎの季節」です。豪雪...
さて、倭人の「2倍年暦」はどう言うものだったんでしょうか。
倭人伝の記述に従えば、彼らは「南方」の文化を持っていたよ...
また、「春耕・秋収を以て年紀と為す」という『魏略』の文面...
まぁ、史料が少ないので想像に頼る部分が増えてしまいますが...
6-Oct-1999
「在位年代推定の方法」
在位年代推定にはいくつかの方法があるかと思います。
何回か出てきた「在位年数平均」による推定も1つの方法でし...
ここでは、はじめに、そのいくつかの方法についてご紹介致し...
1、那珂通世など多数の論者が使った、「1世代20~30年...
はじめにご紹介するのは、これです。今まで多くの論者が言及...
1 2 3 4
応神―仁徳┬履仲
├反正
└允恭┬安康
└雄略
こう言う系図なら、応神―雄略の間は4世代なので20~30×...
まぁ、非常に大雑把な方法ですが、ある程度的は得ていると言...
2、古事記の没年干支を使う方法。
古事記には、何人かの天皇の崩御の記事のところに、その没年...
当然「没年干支」は1通りしかないので、答えは1つだと思う...
干支 A B
崇神 戊寅 318 258
成務 乙卯 355 (以下同じ)
仲哀 壬戌 362
応神 甲午 394
仁徳 丁卯 427
履仲 壬申 432
反正 丁丑 437
允恭 甲午 454
雄略 己巳 489
継体 丁未 527
安閑 乙卯 535
敏達 甲辰 586
用明 丁未 589
崇峻 壬子 594
推古 戊子 640
こんな感じです。ですが、この説には致命的な弱点があります...
3、暦に詳しい学者がよく使う、「紀の年代修正」による推定。
日本書紀の紀年が大幅に引き伸ばされているのは周知のところ...
ただし、これによって、紀の紀年が「作られたもの」であるこ...
4、数学・統計学に強い論者が使う、「在位年数平均」による...
これは、もう何度も出てきたのでおわかりいただけるでしょう。
ざっとこんなところです。
この中でわたくしの言う「在位年数の公式」に近いのは、1で...
細かい事を言えばキリがありませんので、このくらいにしたい...
26-Sep-1999(Part-2)
ここに七媛女、高佐士野(たかさじの。所在不明)に遊行...
(1)やまとの 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れを...
とまをしき。ここに伊須気余理比売は、その媛女等の前に...
(2)かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
とこたへたまひき。神武記
さてさて、この歌謡、どういうことを歌ってるのでしょうか。
万葉以降の技巧に凝った和歌を読みなれた方は、かえって深読...
(1)なんか単純です。
「やまとの高佐士野(地名)を7人で行く女の子達の誰を抱こ...
ってだけです。
ところが、これを歌ったのが「大久米命」であるのが気に食わ...
まず、従来はこの「誰をし枕かむ」を「天皇は誰をお気に召さ...
これに対し、この解釈を「曲解」として、この歌(1)は本来...
しかし、勘違いは明白でしょう。
余計な心配をし過ぎです。
ようするに、この歌は神武達が仲間内で、
「あの子達、カワイイな。誰がいい?」
「オレ、先頭を歩いてる子がいい」
なんて言ってるだけの、お気楽な場面です。
(実際、この直後、ナンパしています。しかも成功して、ゴー...
マジメに考えてる学者さんたちの意見より、説話にも歌にも的...
26-Sep-1999(Part-1)
今日は「在位年数」の話です。
といっても、新しい話をするわけではございません。
今まで、ちょくちょく言ってきたことの繰り返しになるかもし...
ですから、ポイントだけをギュッと濃縮してお話したいと思い...
まず、もうおなじみ(?)の「在位年数の公式」から。
在位年数=退位時の年齢-即位時の年齢 …(1)
=没年齢-(先代が没した時の当代の年齢) …※
=没年齢-(先代の没年齢-先代との年齢差) …(...
=没年齢-先代の没年齢+先代との年齢差 …(3)
※:どの天皇も死没によって代替わりが起こる。
論理的には、このように展開されます。
(1)式は、常識的な式ですね。で、※印のような仮定のもとに...
ちょっとよくわかりません。)
で、その結果(3)式が導き出せる、というわけです。
これで証明終わり、Q.E.D.です。
さて、これによって明らかになることは、以下のようです。
「在位年数」には「当代と先代の没年齢の差」が影響を及...
従って、「当代」もしくは「先代」の「没年齢」の単体は...
ゆえに、例えば「弥生時代の平均寿命は40~50歳くら...
かわって注目されるべきは、「先代との年齢差」である。...
天皇家の場合、「先代との年齢差」を示唆する、もっとも...
ざっと、こんなもんでしょうか。
これらが、「在位年数の公式」から明らかになることです。
次に、各天皇の在位年代を推定する場合について考えましょう。
このとき、いくつかの仮定が必要になります。
没年齢は、一律50歳(おおよその平均寿命)とする。当...
親子である場合、その年齢差はおよそ20歳くらいと考え...
兄弟であれば、その年齢差は2、3歳程度と考える。(こ...
この他のケースは、別途考える。
数値は割と「こんなもんかな」っていうレベルで考えまし...
まぁ、妥当なところじゃないでしょうか。
で、こういう仮定を用意した場合、次のことがわかります。
1の仮定により、没年齢をすべて50とすると、在位年数...
では、実際に推定してみましょう。
安本美典が「在位年数の平均」から推定した時の基点は、
用明天皇即位年=585年
でした。
これを使ってみます。
1)用明天皇(31代)→神武天皇までの続柄。
親子…綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化...
景行、成務、応神、仁徳、履中、安康、清寧、...
兄弟…反正、允恭、雄略、仁賢、宣化、欽明…計6人
その他…仲哀(甥)、顕宗(従兄弟の子供同士)、継体(...
用明自身と、神武は除きますので、合計29人のはずです。
2)それぞれの場合の在位年数を推定。
親子…20(歳)×20(人)=400年
兄弟…2(歳)×6(人)=12年
仲哀(甥。成務の兄・日本武尊の子)は親子関係より若...
顕宗は、清寧とほぼ同世代と考え、0とする。
継体も、武烈とほぼ同世代と考え、0とする。
3)これらを合計した値が、神武天皇没年→用明天皇即位年まで...
400+12+15+0+0=427年
4)これを用明即位年=585年から引くと、神武の没年とな...
585-427=158年
5)従って、神武没年は158年頃と推定できる。
さて、これはかなり大雑把な推定です。
ところで、卑弥呼=天照大神説や、邪馬台国東遷説などがあり...
(およそ、神武が卑弥呼より後の時代に来るような推定値は、
親子:14歳差、兄弟:1歳差、その他、ことごとく0歳差
こんな感じです。そもそも「在位年数」の推定なので、0以下...
14×20+1×6+0+0+0=286年
585-286=299年
ここまでやって、これです。これが史実だったら、笑います。)
従って、
1、途中の何人かを架空として削るか、
2、「親子」とあるのを「実は兄弟の誤り」として逃げるか
のいずれかを行わざるを得ないのです。
さらに、安本美典のように「後代の在位年数の平均値は14年...
だからこういう論者は、どこかを削ろうと必死になるのです。
なんか、ネタがわれれば、ほほえましい話です。(笑)
24-Sep-1999
今回は、比較的小ネタです。
朝鮮半島にはかつて高句麗・百済・新羅という3つの国があり...
これはご存知ですね。
さらに、それ以前には、馬韓・辰韓・弁辰といういわゆる三韓...
(北側には高句麗・穢(ワイ)・貊(ハク)・沃沮(ヨクソ)...
で、今日のテーマは、この三韓です。
これら三韓のことが出てくるのは『魏志』韓伝です。
この名前からもわかるとおり、三韓とはすなわち「韓国」です。
「韓国」には3つの勢力がある。
このことを踏まえて、三韓というのであって、本来は1つの国...
では、魏志韓伝に従って、それぞれの様子を見ていきましょう。
馬韓(50余国)は三韓のリーダーともいえる存在です。どう...
辰韓(12国)はかつて「辰国」といったようです。もちろん...
彼は今、「韓王」のもとで、独立した王としての実権は備えて...
ただ、「韓王」が滅んでからはどうなったのでしょうか。それ...
弁辰は12国の小国からなりますが、それぞれに王がいたよう...
彼らは「辰王」に従うとあります。
さて、いきなり話は変わりますが、「狗邪韓国」ってご存知で...
これは「邪馬壹国」へと至る行路に書かれた、朝鮮半島南端の...
この「狗邪韓国」という名前、「狗邪」と「韓国」に別れます。
「狗邪」は「狗邪国」です。これがこの国の名前です。
で「韓国」とはこの地が「韓」という大領域の一端に属すとい...
同様に「不耐穢」とは「穢」(さっきでてきたやつ)という大...
また、「閔越」とは「越」という大領域の中の「閔」という地...
とすると、「馬韓」「辰韓」「弁辰」はどうでしょう。
「馬韓」とは、「韓国」の中の「馬国」。
「辰韓」とは、「韓国」の中の「辰国」。
「弁辰」とは、「辰国」の中の「弁国」。
こういう分析が可能です。辰韓と弁辰について、その「王」の...
さて、朝鮮半島側の史書『三国史記』に目を転じましょう。
この最初のほう(一世紀)に、「馬韓」「辰韓」「卞(弁と同...
もっとも、同時に「百済」「新羅」も存在しているので、やや...
ここで、「卞韓」の語に注目してみましょう。
この語が当時(一世紀)の語の反映ならば、この時点では「卞...
一方、魏志の方(三世紀)は、弁国は直接的には「辰王」に属...
辰王の発展が伺えます。
(三国史記では、辰王=新羅王として叙述しているふしがあり...
これについては、また考えることにします。)
従来、中国史書と『三国史記』の叙述には齟齬が多いとされて...
そこで、当然、後代史書である『三国史記』のほうを切り捨て...
もちろん、『三国史記』は「新羅」「高句麗」「百済」の順に...
17-Sep-1999
まずは、なにも先入観を持たずに
次のお話を読んでみて下さい。
ある家族には、先祖代々伝わるというお墓がありました。
家族はこのお墓を大事にしてきました。
そんなある日、ある学者がこのお墓に非常に関心を持ちま...
もちろん、学術研究のためです。
そこで学者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みま...
ですが、家族はこれを断りました。
大事なお墓だからです。
また、ある研究者は、こんな疑問を持ちました。
「このお墓は実は偽物なんじゃないか」
つまり、研究者はこのお墓には、この家族の先祖は埋葬さ...
ほかの誰かのお墓なんじゃないかと、
こう、思ったのです。
そこで研究者はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼み...
ですが、家族はこれを断りました。
偽物だと言われるのを恐れたからです。
また、ある教授は、このお墓には実は何も埋まっていない...
疑っていました。
そこで教授はこの家族に、お墓を掘らせてほしいと頼みま...
ですが、家族はこれを断りました。
何も埋まってないわけがないと信じていたからです。
さて、発掘を断られた学者はこう言いました。
「学術研究のための発掘を断るとは、けしからん」
また、発掘を断られた研究者はこう言いました。
「真実を知ることを恐れるとは、けしからん」
また、発掘を断られた教授はこう言いました。
「事実を確認せずに盲信するとは、けしからん」
さてさて、この家族と学者達の言い分、どっちが正しいでしょ...
みなさん、どう思います?
13-Sep-1999
さてさて、今日は、例の「日本の国号」問題、リターンズです。
これまでに、「任那日本府問題」を通じて、欽明紀に載せる「...
ということを考えてきました。
このような結論に到ったとき、非常に大きな影響を受ける問題...
それは継体紀末尾です。
二十五年春二月、天皇、病甚(おも)し。丁未(7日)、...
時に年八十二。
冬十二月丙申朔庚子(5日)、藍野陵に葬る。
(或本に云はく「天皇、二十八年歳次甲寅、崩ず」と。
而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは、百済本記...
文を為れるなり。其の文に云はく「太歳辛亥三月、軍進み...
乞宅(ホントは「ウかんむり」なし)城を営る。是月、高...
又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず」と。此に...
辛亥歳は二十五年に当る。後に勘校(かんが)へむ者、知...
これは今まで、なぞだとされてきた個所でもあります。
有名な「安閑・宣化、欽明二朝対立説」は実はこの記事をもと...
それはさておき、この記事を整理してみましょう。
国内伝承では継体の没年は二十八年甲寅の歳(534年)...
百済本記には辛亥の歳(531年)に「日本天皇、太子皇...
書紀編者は迷ったが、百済本記の記載に従い、二十五年(...
書紀編者はなおも疑問を残し、注としてこれを付した。
またその際に次代の安閑の即位年は、「国内伝承」のとお...
こういうことです。
さて、ここの日本は、やはり天皇家でしょう。ところが、この...
天皇・太子・皇子がともに死亡、これは大事件です。ハッキリ...
ところが国内にはそんな伝承のあった形跡はない。それどころ...
この両者(国内伝承と百済本記)の食い違いは、どういうこと...
ところで、この個所について、古田はどのように見ているでし...
そいつを確かめておきましょう。
古田はここを含め、すべての百済本記の「日本」を九州だとし...
したがって、この「日本天皇及び太子皇子倶に崩薨ず」の「日...
だから、「国内伝承(近畿天皇家内の伝承)」と食い違って当...
というわけです。
さらに「3年のずれ」(二十八年→二十五年とした際のずれ)を...
しかし、前回までで明らかになったように、百済本記の「日本...
とすると、古田のこの見解には従うことが出来ません。
ですから、継体没年についてもう一度よく考えてみなければな...
もはや、だいぶ長くなってしまったので、端的にお話します。
継体没年は「国内伝承」のとおり甲寅歳(534年)が正...
ただし、継体の在位二十八年はあやしい。なぜなら、ここ...
さらに「武烈悪逆記事」からみて、継体の即位は不法の簒...
したがって、その即位を認めなかった勢力がいたと考えら...
継体はあくまで越やら近江やらの地方武将であり、大和に...
さらには、武烈の治世が実はここまで続いていた可能性も...
要するにここに言う「日本天皇」とは結局、継体以外の誰...
さて、一応このように考えてみましたが、これはもとより非常...
とくに3以降は、証拠はひとつも有りません。
ハッキリしていることと言えば、この「日本天皇」が継体その...
たしかにここの「日本天皇」を九州の王者と見なしたほうが少...
要はよーわからんのです。
まぁ、今後の課題として、ゆっくり考えることにしましょう。
11-Sep-1999
今回は、ガラリと変わって祝詞です。
さて、まずは祝詞に対する基本認識から。
これは、現在伝わる古記録の中でも最も古いと目される伝承で...
ただし、文献そのものは、延喜式に載せるのが最も古いので、...
ですが、祝詞の性格を考えても、平安初期に始めて作られた、...
また、神にささげる言葉ですので、古くからの伝承をそのまま...
もちろん、権力者の手によって改変が加えられている可能性も...
ただし、古事記のように、時の権力者の都合によって話が作ら...
ですが、祝詞は非常に価値ある貴重な史料だ、と言えるでしょ...
この秋、注目です。
つぎに、祝詞と一口に言っても、これはさまざまな種類のもの...
それぞれの祝詞は、それぞれの時代の要請に答える形で成立し...
それぞれ、その立場も中心も異なる、これが重要です。
たとえば、「大祓」の祝詞は「天孫降臨」当時の状況を非常に...
当然ながら、これら祝詞は各個別々の状況で誕生してきたもの...
今でこそ、「祝詞」なんていって一連の史料のごとく扱ってい...
もちろん、それぞれに共通する性格はあるでしょうが、別個に...
さて、今回はあまり膨らませません。
そのうち、それぞれの祝詞についてのお話をすることがあるで...
まぁ、今回は序論と言うことで、このへんで。
8-Sep-1999
1999/9/5の続きです。
わたくしとしては、Aが九州王朝、Bが天皇家と考えています。
理由としては、A(九州王朝)のほうが、百済との歴史的・政治...
なぜなら、高句麗好太王の時代(4世紀末から5世紀前半)か...
また、これより先、たとえば、卑弥呼の頃に、朝鮮半島側と交...
とすると、必然的にBが天皇家。(もちろん、前にも言ったよう...
ですが、書紀を見ますと、欽明紀の主人公はもちろん、「天皇...
もっとも、任那日本府関連記事に関して言えば、「百済王だ」...
「天皇」とは、書紀の中の記述である限り、「欽明天皇」であ...
こういった例は、書紀の中にはいくつか見出せます。
その筆頭が景行紀。「景行九州遠征説話」はそのほとんどすべ...
そして、わかりやすいのが神功紀。ここには『魏志』倭人伝が...
すなわち、ここでも、書紀は九州王朝の歴史を「盗用」してい...
そして、この欽明紀でも…。というわけです。
すると、欽明紀の原史料は、ほかならぬ「九州王朝の史書」で...
わたしは、この「九州王朝の史書」を仮に「倭書」と呼びたい...
おそらく、正史に当たるものでしょう。だから、「倭書」です。
当時(6~7、或は8世紀)の正史と言えば、必ず紀伝体と相...
まぁ、その話は置いとくにしろ、欽明紀の「天皇」は、実は九...
さて、だいぶ遠回りをしたようですが、もともとのお話に戻り...
「百済本記」の日本は、近畿か九州か、というお話でしたね。
大事なことがわかったはずです。
つまり、任那日本府(さっきので言えばB)側が、実は近畿天皇...
これです。
ならば、この「任那日本府」という語を載せる「百済本記」の...
こういう帰結が得られるのです。
いやー、長かった。
どうです?おわかりいただけました??
5-Sep-1999
うーん。どーも、こう、短い文章でものごとを過不足なくしっ...
毎度のことですが、補足というか、実はまだまだ続きます…って...
さて、昨日までに「欽明紀は百済本記以外の本を底本としてか...
というお話をしました(1999/9/4)。
ところが、ここでおわってしまってはいけませんでしたね。
そうです。そもそも、「百済本記」の「日本」について考えて...
忘れてました(笑)。
そこで、この問題に立ちかえる前に、「書紀本文」についても...
あらかじめ、ハッキリ申し上げておきます。
「百済本記」の「日本」がどこを指すか、という問題を積極的...
なぜかというと、「百済本記」の文面自体が非常に少ないから...
しかも断片です。
(多くは「百済本記には、この人名はこのように書かれている...
せめて、説話のひとつでも収録されていればよかったんですが...
従って、「書紀本文」の分析を深め、それとの絡みでなんとか...
「欽明紀の史料批判」
まず、従来からも言われてきたことから。
欽明紀の朝鮮半島記事はもっぱら、百済聖明王を中心とし...
同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名...
「天皇」はただ、「詔勅」を発すだけの存在だ。実際にど...
欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲...
任那日本府は明らかに新羅よりだ。一方、「天皇」は百済...
もっとも重大な疑点、それは「なぜか天皇は日本府の官人...
しかも、「天皇」の「詔勅」を「百済王が日本府に伝えて...
さらに、日本府官人は、「天皇」の言い分などに聞く耳を...
こういったあたりが、欽明紀のもつ「問題点」かとおもわれま...
1~4までの状況を考えると、確かに「百済系の史書によって...
一応、1~4と5以降とは分けて考えたほうがいいかもしれま...
では、まず、4以前について考えましょう。
ここで大事なのは、「書紀本文特有の言回し」でしょう。
従来から、これはよく知られたところです。
欽明紀に限ったことではないのですが、書紀では必ず、天皇に...
たとえば、わかりやすいのは「死」でしょう。天皇なら「崩」...
こういう決まり事がある、このことを念頭に置くとき、
「百済、遣使貢献」
とある書紀の文面を、そのまま信じてはいけないことに気づく...
書紀に「貢献」とあった場合、これは「(通好の徴として)贈...
というだけの意味です。
…で、例によって、欽明紀の本文もこのような表現に満ちていま...
当然、「敬語表現」を差し引いて考えなければいけません。
しかし、それを差し引いても、なお、百済王が「天皇」の「詔...
読めば読むほど、「天皇」と「日本府」の間にはさまれた「中...
それほど、聖明王にとって、「天皇」は重要な存在だった、と...
また、聖明王がそのような態度をとっていることが、この「任...
聖明王が「天皇」などに拘らずに行動を起こしていたなら、ま...
聖明王の父、武寧王は梁に遣使して、「寧東大将軍」となって...
この同じ頃の倭王は、あの武です。「征東大将軍」です。
両者は同格です。少なくとも中国での位取り上は。
このことから考えて、聖明王の一種卑屈な態度には、やや奇妙...
とは言っても、これは主観の問題かもしれません。
ですが、この「書紀本文」の原史料が、或は日本列島側の視点...
さて、ここでひとまず、5以降に目を転じてみましょう。
これは、不思議ですね。実は、欽明紀の中には、日本府←→天皇...
これは、従来の見方では説明不可能でしょう。
単純に、ごく単純に考えましょう。
両者は確実に仲が悪い。これは言えるでしょうね。
しかも、両者をつなぐ直接のパイプは存在していません。
むしろ、百済聖明王が自らそのパイプ役を買って出た、そんな...
これによって得られる結論。
「少なくとも「天皇」と日本府には上下関係がない」
これです。
両者には連絡がない。連絡をよこさない部下は部下ではない。
連絡をよこさない部下をそのまま放って置くのは主人ではない。
しかも、部下がトラブルを引き起こしているのに。
こういうことです。
もっとも、何の先入観も無しにこの状況を見たら両者は赤の他...
こう見たら、両者は対等、こう言っても過言ではありません。
日本府官人は「天皇」など敬っていません。
「天皇」は、そのことをとがめることもできません。
手出しが出来ないのです。
では、日本府官人はなぜ、こんなに強い立場を手に入れたので...
ここに記されているとおり、彼らは「官僚」であって「王」で...
「官僚」だということは、彼の上には「誰か」がいた、そう考...
(「天皇」のもとの「官僚」だったら、とっくにクビです)
さて、ここまで進んでくると、欽明紀には「隠された王」の存...
ここで「天皇」をA、「隠された王」をBとしておきましょう。
で、ABそれぞれの立場を確認してみます。
A…百済と親交が深い。古くから通好を続けていたようだ。また...
B…新羅と通じている。現在、任那諸国を統率しているらしいふ...
さて、ハッキリ言うと、このどちらかが九州王朝、どちらかが...
(もっとも、吉備とか出雲とか越とかも、充分に考えられるこ...
さあ、どっち?
4-Sep-1999
「百済系三書」と「書紀本文」の関係について。
「日本書紀の朝鮮半島記事の中には、「百済系三書」によって...
これは、一般的によく言われることです。この点、古田も同じ...
たとえば、このようです。
(神功)四十六年春三月乙亥朔、斯摩宿禰を卓淳国に遣す...
この書紀本文に対して、こんな解説をしています。
「以下、六十五年条まで百済を主とする対朝鮮交渉記事。...
また、同書解説(小島憲之)では、このように書かれています。
「百済関係の記録として書名の明記されて引用されている...
三書の性質についてはいろいろの説があるが、重要なこと...
津田博士は、百済の記録にある日本本位の記事は、書紀の...
以上の三種のほかにも継体紀などを丹念に検討すると、別...
このあたりが、通説と言っていいでしょう。ここで「百済本記...
もっとも、
「日本という国号は大化改新のときから」
という命題が本当に必要にして十分な論証によって証明された...
(また、小島の「推測」は、やはり単なる推測であって論証と...
ともかく、ひとまずそれは置いときましょう。
今、わたしが疑問を抱いているのは、
「本当に継体・欽明紀は百済本記によって書かれたのか」
という、このことです。
なぜなら、ここには「百済本記」引用記事が数多く存在するか...
当然、本文とは違いがあるから注に引用するのであって、この...
「百済本記」以外の書によって書かれた、と、こう、見るべき...
たとえば、こういうことです。
夫れ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従ふ。安羅...
この両者(本文と百済本記)には明白な違いがあるのがおわか...
本文は任那→安羅→日本府という3段構えの関係を述べたもので...
このような事実によって考えてみると、「百済本記」はむしろ...
この点、従来はこのように考えられたようです。
「このような違いこそ、書紀編者の「自由な述作」である」と。
でも、それは、次の問いを産むことになります。
「なぜ、ここはこのように書き換えたのだ」
「なぜ、書きかえる以前の原史料を引用したのだ」
とくに第2の問いは致命的です。そうでしょう。
どんなに弁舌を揮っても、この矛盾を覆い隠すことは出来ない...
わたくしにはそのように見えます。
ところが、「底本」は別の書だ、と考えれば、ことは簡単です。
まさに「説明敷衍」のため。
ここまでは「百済本記」引用部分について、でした。
ですが、重要なことは、「百済本記」を引用している本文と、...
「差異がない」というのは表面的な字面だけではありません。
その立場、視点などにも、大差はないのです。
従って、このように考えることが必要になってきます。
「やはり、欽明紀は「百済本記」以外の書を原史料として書か...
これです。
また、これだけ「百済本記」を「対校」しているということは...
それはなにか、これが今後の重要なテーマです。
(今のところ、『倭書』百済伝である可能性が最も高いと想像...
うーん。ちょっと今回はわかりづらかったかな。
どうでした?
31-Aug-1999
さて、今、Hotな話題は「日本の国号について」です。
まあ、似たような話は何度かしているので、そのへんも踏まえ...
今回は書紀に引く「百済系三書」について、です。
以前もお話したことがありますね(1999/7/18,Sun)。
あのときは、サワリ程度でした。
今回は、より深く、考えてみたいと思います。
「百済系三書」について、古田は以下のように、通説(前回参...
『日本書紀』では、神功紀に『魏志倭人伝』の引用が見ら...
だが、これは、
『魏志』の「倭女王」とは、卑弥呼であり、卑弥呼と...
卑弥呼は3世紀、神功皇后は4世紀の人であり、時代...
という2点(人物の異同と紀年)で無理がある。
従って、同じ神功紀に引用された「百済記」が先の2点(...
よって、「百済系三書」の叙述対象の「倭」が、どの王朝...
「百済新撰」(6世紀の成立と推定)に「大倭」の用語が...
これは、『三国志』の「使大倭」、『後漢書』の「大倭王...
(かわにし補足、「倭(=やまと)」の用法は、万葉集に...
したがって、「百済新撰」にいう「倭」は九州をさしてい...
さらに、以下のようにして、百済系三書の記述対象を
論証しています。
「百済新撰」の最終記事(502年)と「百済本記」の最...
この点から、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
同様に「百済新撰」の最初記事(458年)と「百済記」...
交錯している。また、ともに「蓋鹵王」について記述して...
したがって、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
さらに「百済記」と『魏志』は同じ神功紀にある。両書の...
少なくとも書紀の編者には、そう見えていたはずである。
『魏志』の「倭」は九州王朝である。
従って、「百済記」「百済新撰」「百済本記」の「倭」は...
さらに進んで、このようにも言っています。
「百済本記」にはしばしば「日本」という国号が出てくる。
これを「信用しない(書紀編者の書き換えと見なす)」と...
したがって、この「日本」も九州王朝と見なされる。
さて、長くなってしまいましたが、ここからが本番です。
わたくし、古田説の1~9までは、一応、賛成です。
ですが、10がいただけません。
その理由を列挙します。
「百済本記」には「倭」という表現がない。
もっぱら「日本」である。従って、先の4については判定...
つまり「倭=日本」か「倭≠日本」か、それが問題なのであ...
「百済本記」の叙述の多くは継体天皇以降に現れる(最終...
近畿天皇家が完全に自立した頃の成立である。
「百済本記」が近畿を対象にした叙述を行ってもおかしく...
「百済本記」には「任那日本府」も現れる。
ここで「日本府」の官人は、新羅よりであり、百済王とは...
新羅・近畿天皇家←→百済・筑紫
という関係を考えるとき、この「日本」が近畿である可能...
「百済本記」にも1箇所だけ「倭」ではないか、とおもわ...
百済本記に云はく、委の意斯移麻岐弥。継体紀、7年...
この「委」は「倭」に同じだろうと、従来言われている。
志賀島の金印「漢委奴国王」と同じだ。
とすれば、ここに「倭」は現れている。
いよいよ、同一書に現れる「倭」と「日本」を同一視すべ...
…とは言っても、これでは反論になりません。
可能性ばっかりだからです。
そこで、「百済系三書」と「書紀本文」の関係という視点から...
詳しくは「後半へつづく」として、ここではその入口だけ、ち...
一般に、「書紀本文」の百済関係の記事は、「百済系三書...
(これについては、通説・古田ともに同じ)
だが、普通に考えて、「百済系三書に拠って本文を作って...
継体紀には「百済本記」とは別にいくつかの「一本(ある...
と、このあたりの疑問が、出発点になります。
次回はきっと、さらに長くなりますよぉ!
29-Aug-1999
「総領」についての補足。
さて、前回のでは、「総領」についての説明が足りなかったか...
そこで、補足です。
「総領」ってのは、筑紫に置かれていたらしい、地方の政治的...
そういう意味で、大宝律令以後の「大宰府」に近いものです。
そこで、「大宰府」の前身、という解釈が今まで多くなされて...
また、「総領」は他に、吉備・伊予・周防・常陸などにあって...
…で、結局、九州を管轄する総領が「大宰府」として残った。
これが通説です。
ですが、これもわかりません。
さっきも言ったように、総領の設置記事は記紀にないのです。
しかも、大宝律令下では「大宰府」。
これは、九州王朝時代から、この地にあった、政治・軍事の拠...
しかも、「総領」と並行して「大宰府」も存在したらしいので...
両者はやはり別々の成り立ちを持つもの、そう見なしたほうが...
じゃ、いつ、だれが設置したのか。
ここがわかんないわけです。
ちなみにこれは、吉備など他の「総領」についても同じです。
同時に吉備には「吉備太宰」なんてものもあったらしくて、こ...
常陸に関しては、「大化改新」のころの「東国国司」がそれに...
どれも、660頃から700にかけて存在したらしいことだけ...
28-Aug-1999
さてさて、今回は短くいきましょう。
大宰府・都督府・総領について。
(665年)十一月丁巳朔乙丑、百済の鎮将劉仁願、熊津...
こんな史料があります。ここに見える「熊津都督府」について...
(660年)八月、蘇定方等、百済を討平し、其の王扶余...
つまり、唐は660年、百済を滅ぼし、その地を唐の支配下に...
その際、唐が設置したのが「熊津等五都督府」です。「熊津都...
この「都督府設置」という唐の政策は、百済に対してだけでは...
北の突厥や鉄勒(テュルク。トルコ系)などに対して「都督府...
これは唐の常套政策でした。
さて、先ほどの書紀の記事、665年のことで、これはあの白...
これは、何を意味するか。
お分かりですね。
この「都督府」はやはり唐の占領地です。
ことに同じ文中に「熊津都督府」とあって、これが唐の占領下...
筑紫の地は、白村江の戦後、唐に占領されていたのです。
この占領政策がいつまで続いたか、それはわかりません。
ここに1つの示唆を与えるもの、これが「筑紫総領」です。
これには、3つの解釈があるかと思います。
1、近畿天皇家の支配機構。
2、九州王朝の支配機構。
3、唐の支配機構。
どれでしょうか。わたくしとしては、このように考えています。
1の弱点は、記紀にその「設置記事」がないこと。カットする...
3は、唐に「総領」の設置は見られないこと。
…で、消去法でいけば、2かもしれません。
でも、わたくしがこの解釈を採ることをためらわせるのは、次...
(700年)六月庚辰、薩末比売(さつまひめ。恐らく官...
つまり、「薩末比売・久売波豆、衣評督・衣君県、助督・衣君...
ここでは、竺志惣領は明らかに天皇家側です。
うーん。
結局どうなんだろう。今のところ、こいつは興味深いなぞです。
よくわかりません。
まぁ、ハッキリしていることと言えば、「都督府」も「総領」...
このあたりかな。
22-Aug-1999
大変です!
とんでもないことに気づいてしまいました!!
8/21の「融天師彗星歌」!!
天師が歌ったという歌の内容です。
「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反りて福...
これです。
この最後の部分、「反」や「成」の主語は誰でしょう。
今まで何気なく、「主語なし」と見なしてきました。
「反」に到っては、「副詞」と見なしていました。
「かえって」「反対に」というわけです。
ですが、「反」の本来の用法は、動詞(一説に形容詞)です。
「反る(かえる)」或いは「反す」です。形容詞なら「反対だ...
「成」についても、特に主語はないものと考えてきました。(...
でも、やっぱり、ここの主語は「日本兵」と見なすべきではな...
「日本兵が反り」「日本兵が福慶を成す」のです。
この際、「反」は「叛」と同意でしょう。誰に…もちろん、「倭...
新羅国内にいた日本兵が日本に帰り、(新羅の敵国たる)倭に...
「成す」という語も「達成する」という語感を持つところが「...
吉凶の問題ではなさそうです。
新羅でなんらかの共同作戦が、画策されていたのかもしれませ...
対倭(任那)戦略の協議でなんらかの手段が用意されたのかも...
任那日本府を通じて。
うーん、結構思いつきに近いものなのでどうかとは思いますが。
21-Aug-1999(Part-3)
『遺事』の説話について。
2、融天師彗星歌
融天師彗星歌(新羅、真平王(579-631)代)
第五、居烈郎、第六、実処郎(一に突処郎に作る)、第七...
彗星の心大星(二十八宿の一。心宿。さそり座の中央付近...
郎徒、之を疑い、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師...
「星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反り...
大王、歓喜す。郎を遣わして岳に遊ばしむ。
(このあとに「新羅の郷歌(新羅語の歌)」がある。そこ...
「倭理叱軍置来叱多烽焼邪隠辺也藪也」
とあり、これは「倭軍が攻めてきたとして烽火をあげた国...
ここにも、「日本」の国号が現れます。時代を考えれば(天皇...
また、古田はこれを以って、「九州が日本と称していた」と考...
すでに何度かお話したとおり、この時代は継体よりも後です。
つまり、「日本」が「倭」と並行して、独自に朝鮮経営に乗り...
とすると、この「日本」は天皇家であったとしても、おかしく...
ここのところ、古田は「朝鮮半島記事と言えば九州王朝」と考...
ましてや、これを『百済本記』の「日本天皇及び太子皇子倶に...
これは「新羅」は「鶏林」とも書いた、という問題と同一視す...
(また、「新羅」「鶏林」もそれぞれに別個の意義があるよう...
単なる「異称」と見なして、それで済ませうる問題ではないで...
どちらにせよ、この説話からは「日本」は敵国です。
「大王」にとって、最も憂慮すべき問題だったことは間違いあ...
この辺り、わたくしのように「日本」を近畿天皇家と見なす立...
つまり、単なる友好国などと言う関係ではなかったのです。
(新羅・日本←→倭・百済という関係について、前にお話したこ...
両国の関係というか、国民感情は結構複雑なようです。
21-Aug-1999(Part-2)
「三国史記・三国遺事における倭と日本」
でしたね。でも、長くなるので「遺事」だけにします。
さて、『三国遺事』にはいくつかの興味ある説話が載っていま...
1、延烏郎・細烏女説話
第八阿達羅王即位四年丁酉(157年)。東海の浜に延烏...
細烏、夫の帰り来らざるを恠(あや)しみて之を尋ぬ。夫...
是の時、新羅の日月、光無し。日者(占い師みたいなもの...
仍りて其の肖(さっきと同じ)を賜ふ。使人、来り奏す。...
長っ!やめときゃよかった。
とおもいつつ、全部引用してみました。この説話は漢の時代、...
この説話について、古田はこんな分析を行っています。(『風...
この説話の「日本」は後代の国名によって記されたもので...
これは、この『遺事』編成の仕方によるものだろう。
「負いて日本に帰る」とある「帰る」とは「かつていたと...
したがってこの「日本」とは「海の国」であり、「天国(...
「降りて我が国に在り」と「日者」は述べている。
記紀でも「高天原から新羅へ降る」という表現がある。こ...
従ってこの表現も「この夫婦が対馬・壱岐の人だった」と...
「日本」の都城の地は、「細肖」=絹の出土地である。そ...
従って説話中の「日本の帝記を按ずるに…」という注釈の見...
なぜなら、この「日本」は近畿天皇家を差すのではないか...
…とこんな感じです。ですが、わたくし、納得していません。そ...
後代の名前かどうかは、『遺事』の原史料が明らかでない...
もちろん、こういうケースがないとは言わないが、逆に「...
「負いて日本に帰る」について、これは古田の誤読だ。「...
これは、「巌が延烏郎を背負って(上に乗っけて)日本に...
これは後文に「巌、亦負ひて帰ること、前の如し」とある...
こういった説話によくある「巌」の擬人的表現だ。
(例えば、岩波文庫の佐伯有清編『三国史記倭人伝』では...
ただし「海に帰る」のは延烏郎で、間違いはない。しかし...
これは先の「天国」という解釈がなくなった今、あまり意...
むしろ、「降る」とは「垂直的な天」を考えたほうが良さ...
これは確かに有力だ。だが、重要なこと。
説話上、「細肖」の「織られた場所」は明らかでない、と...
むしろ、かつていた新羅の地で「日月の精」だった頃に「...
このほうが説話としてスジが通るような気がするのだが…。
もし、そうなら考古学上の分布図によって、「日本」の地...
「日本の帝記」については、確かに天皇家の話ではないだ...
なぜなら、弥生時代、近畿での王と言えば、それは銅鐸の...
すなわち、「日本」は銅鐸王朝時代からの呼称、そういう...
さらに、こんな点を付け足しておきましょう。
「巌」について。例えば『紀』にニギハヤヒの降臨説話が...
それは「天磐船にのって天からヤマトの国(一説に河内)...
また、ニギハヤヒと神武は同じ天国を母域にもつ人だった...
この「天磐船(あめのいはふね)」は宇宙船なんて、すっ...
「磐」とは縄文以来の巨石信仰の対象物だ。
また、石器などの材料として、採石場から各地に運搬され...
延烏郎を乗せた「(霊力ある、不思議な)巌」もそういっ...
当時(弥生)の新羅は、倭国(九州王朝)の内部か、外部...
魏志倭人伝には朝鮮半島の南端は倭の領域だったことが書...
倭の内部なら、「日本に帰る」という表現は、古田説(「...
ざっと、こんなところです。
うぉ!長っ!!
うーん、『遺事』の説話について、もうひとつ面白い話がある...
続きはまた今度…。
21-Aug-1999(Part-1)
今回は「倭国と日本」です。
ご承知のとおり、「倭国」と「日本」は両者別国です。
今回は、史料の整理をしておきましょう。
中国側史書『旧唐書』(10世紀、五代晋、劉怐(リュウク)...
また、内容から言っても、両国は別であることが明記されてい...
ただし、両国には「倭(先)→日本(後)」という先後関係があ...
両国の交代時期は明記されていませんが、701年頃(則天武...
また「倭国の分派としての日本」ということも忘れてはいけま...
続いて『新唐書』(11世紀、宋、宋祁(ソウキ)撰)です。
ここでは「日本伝」だけで、「倭国伝」はありません。
ですが、全体の記事をよく読むと、例えば「白江(白村江)の...
なぜ、「倭国伝」がないのかというと、「亡国」だからです。
「『旧唐書』は唐創業の頃には詳しいが、最近(唐滅亡の頃)...
と、序文に書かれているので、この辺が参考になるでしょう。
(ちなみに『旧唐書』が「最近」のことに詳しくないのは、五...
むしろ、わたくしの知りたい時代(7~8世紀)については、...
ほかに、唐の時代(に書かれた/を描いた)いろんな書物(例...
一方、朝鮮半島側からはどのように描かれているでしょう。
『三国史記』(12世紀、高麗、金富軾(キンフショク、朝鮮...
で、670年に「倭国が日本に変わった」という記事があります。
ただし、これは『新唐書』の記事を誤読したものだ、という説...
両書の文体は酷似し、確かに『新唐書』の記事は、読みように...
『新唐書』には『旧唐書』と同じく両国の交代時期は明記され...
ですから、例えば古田はこの『三国史記』の記述から670年(天...
次に『三国遺事』(13世紀、高麗、僧一然(イチゼン)撰)...
どちらも同じように、いろいろな個所でお目にかかれます。
このような現象はこの本だけですが、それはこの本の性格によ...
この本は歴史書ではなくて、史料集成・説話集という性格を持...
もとの史料の表記に従った、ということです。つまり、史料の...
こういう解釈です。古田なんかもそう言っています。
ですが、これもあやしい。これでは「日本」と記された金石文...
古田はこれをもって、「倭」がかつて「日本」とも称していた...
やっぱり「日本」は「日本」と考えるべきです。
ここらへんについては、またお話します。
さて、日本列島側はどうでしょうか。
まず、『古事記』には「日本」という語が出てきません。
これは、天武天皇の意思によってまとめられた史書という『記...
まぁ、のちほど。
『日本書紀』はどうかというと、言うまでもなく「日本」が目...
神倭伊波礼毘古(カム倭イハレビコ、神武天皇)〈記〉を神日...
さて、大きな問題があるのは『万葉集』です。
第1の問題は「ヤマト」の表記についてです。
古田は「ヤマト」という語の表記の仕方について、こんなこと...
それは、天智天皇以前は「ヤマト」を「倭」と表記したものが...
ここからも、先の670年のラインが引かれる、というのです。
なるほど、たしかに天智以降、「倭」という文字が「ヤマト」...
ところが、「倭」→「日本」という変化はそれよりもさらに後、...
たとえば山上憶良や大伴旅人などが使っています。
むしろ、中国史料が示唆する701年に近いようです。
このあたりを考えると、「九州→近畿」の権力委譲は670年に...
なぜなら、「倭」を「ヤマト」と読めるようになった、という...
また、「倭」を「ヤマト」と読むようにしたのは、天智の時代...
こう考えると「天武天皇の意思によってまとめられた史書」『...
さて、今回は「倭」と「日本」について、各史料の整理と、国...
次は第2章「三国史記・三国遺事における倭と日本」です。
18-Jul-1999
今回は、「日本書紀に見える5つの書物について」です。
5つの書物とは、日本書紀編纂にあたって、原史料となったで...
どれも、『日本書紀』に引用されています。が、逆に言えば『...
それぞれについて、簡単にまとめておきましょう。
『百済記』
神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。...
『百済新撰』
雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王か...
『百済本記』
継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王ま...
『日本旧記』
雄略紀の1箇所でのみ引用。百済関係の記事。
『日本世記』
斉明紀、天智紀に引用。白村江あたりの史料。
それぞれ、5つの本は、すべての時代について書かれたもので...
ただし、大事なのは、百済系の三書はその「連絡時点」におい...
つまり、蓋鹵王は『記』と『新撰』に、武寧王は『新撰』と『...
これらは恐らく、日本の「六国史」のように、一貫した事業と...
そこで、それぞれの本の「来歴」について考えてみます。
まずは、『百済記』です。この書に最初に見える「肖古王」に...
古記に云はく、百済開国已来(「以来」に同じ)、未だ文...
要するに、歴史の記録が始まったのは、肖古王の時代だ、と言...
その通り、『百済記』は肖古王から記述が始まっています。
だからと言って、『百済記』がここに言う「高興」の書いた本...
次に『新撰』です。引用個所が、3ヶ所と少ないので、はっき...
『本記』は紛れもなく史書です。この書には「日本」という語...
古田武彦はこの「日本」も「九州」のことだ、と言っています...
私は「日本」はやはり近畿を指すと考えています。
それは、「継体以降」だからです。
「磐井の変」以来、九州と近畿は敵対関係にありました。
反乱者はやはり継体ですが、もはや九州はこの「反乱」を鎮圧...
と、いうことは両雄並び立つ状況だった、と考えるのが筋です。
対等です。
古田のように、朝鮮半島記事は九州の独占事項だ、とは言えな...
一方、天皇(欽明つまり近畿の王ではない)は「親百済派」で...
ここの分裂も重要です。
新羅・日本←→百済・倭
という構図が見えます。これは白村江と同じ構図です。
ここのところは重要です。私は
欽明紀の「天皇」は九州の王である
と考えています。(これについては、また今度)
『本記』は天皇に対して敬語を用いています。このあたりもこ...
それから、『日本旧記』です。
これは、1箇所で引用されているのみです。
私はこれは書名ではなくて、「日本の旧記」という普通名詞で...
(古田は九州だといっています)
『日本世記』は、どうでしょう。ポイントは「世記」という語...
『倭姫世記』は「倭姫をはじめとする伊勢神宮史」です。『史...
こうした点から見て、「世記」という語は「帝王の歴史」では...
帝王の歴史は「紀」といい、いわゆる「帝紀」です。
また、1個人の伝記は「伝」「列伝」です。
これに対し「世記」「世家」「載記」(「載」は「世」とほと...
私はこれこそ「倭書(仮題)」中にあった日本(近畿)の部分...
また、『晋書』に「五胡十六国」のことが載っている「載記」...
少なくとも、『日本世記』と言う場合、「日本の帝王の歴史」...
まあ、「任那日本府」や「倭書」など、話し始めると非常に長...
7-Jul-1999
今回は6/20のつづきです。
で、范曄のいう「国皆王を称し」は、倭をはじめとして、朝鮮...
ところが、よくよく考えてみると、これもなんかおかしい。
なぜなら、范曄はその直前で、
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居す。凡そ...
武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使駅、漢に通ずる者、三十許...
国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国...
と、書いてあるからです。だから、文脈上は、この「国」とは...
ですが、前も言ったように、「世世統を伝ふ」というのは、『...
この文章からは、まるで漢代を通じて諸王がその血統を伝えて...
やっぱり、「国皆王を称し」の部分を漢代のことと考えるのは...
うーん、この一句、かなりの強敵になってきました。
難しい。
というのは、「皆王を称し」ていたのが5世紀のことであれば、...
そこで、「南朝鮮の国のことじゃないか」と考えたのですが、...
こまったもんです。
というわけで、よーわからん…。
24-Jun-1999
えー、今回のネタは、「欠史八代」の系図です。
ここんところ、大きなネタはないんで、今回も非常に小ネタで...
神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化―崇神
という系図。
まー、社会の資料集でも見てください。
一直線に書かれていることも多いかと思います。
ところが、崇神より後の系図は、例えば兄弟で継承したり、途...
なのに、神武―崇神の間は一直線。
つまり、100%、親→子という継承です。
「これはおかしい」
従来から、こう言われてきたのも、まー、しかたのないことで...
でも、それは「皇位継承」なら…の話。特別な地位についた人の...
別にこれは、たとえば「徳川将軍」でも「源氏の棟梁」でも、...
ここで
「だから、神武―崇神は架空なんだ」
と言いたい気持ちはわかります。
でも
「だから、神武―崇神の系図は皇位継承をあらわすものではない」
と考えてみる必要があります。
と、同時に
「これは、天皇(姓はよくわからないので)氏の最有力者をあ...
ともいえます。
たとえ一氏族の長(最有力者)であっても、やっぱり親→子継承...
例えば、懿徳天皇は安寧天皇の次男だからといって末子相続う...
ここんところは、非常に間違えやすいので、注意してください。
さてさて、じゃぁ、なんなんだ?と思うかもしれません。
それに答える前に、わたくし、こういう一直線の系図を
いくつか知っていますんで、ご紹介しましょう。
<その1>「稲荷山古墳出土、辛亥年銘鉄剣」に見える「乎獲...
「意富比危―多加利足尼―弖已加利獲居―多加披次獲居―...
<その2>「釈日本紀所引、上宮記」に見える継体天皇の系図
「凡牟都和希(ホムツワケ)王(応神)―若野毛二俣王...
<その3>「古事記、崇神記」に見える意富多多泥古(オホタ...
「大物主神―櫛御方(クシミカタ)命―飯肩巣見(イヒ...
どうです?お気づきになりました?
これらの系図で中心になるのは、頭と尻です。
つまり、<その1>では「意富比危」と「乎獲居臣」。
<その2>では応神と継体。<その3>では「大物主神」と「...
一番最後に書かれているけど、本当の主語は一番最後の人物な...
そこから、何代か前の「偉大な先祖」までさかのぼって書いた...
まー、5~6代前の先祖まで辿ってみてください。
絶対に「一直線」になるはずです。
(辿れれば…の話ですが。別に徳川でも足利でもなんでもいいで...
そーだな、徳川慶喜から家康まで、「血の繋がり」をさかのぼ...
長くなりましたが、ここで結論!
「神武―…―崇神」の系図は崇神を原点に神武(大和の地にやって...
「記紀」ではこれに対して「天皇」の称号を与えただけである。
20-Jun-1999
今回は「倭の五王」で行きたいと思います。
聞けば当たり前の話です。
倭王は中国南朝に使者を送って、その冊封下に入りました。
そのときもらった称号は、たとえば珍なら、
「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国...
という長ったらしいものです。
これは、「使持節」「都督諸軍事」「安東将軍」「倭国王」と...
ここで実質的に、東アジアで効果を持っていたのは「都督諸軍...
あとの2つは中国国内での位取りです。
で、「都督諸軍事」と「倭国王」の称号。
この2つの示す支配領域には違いがあります。
「都督」のほうは、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓という...
一方、「倭国王」はというと、倭1国のみです。
もし、さっきの6国に対しての「王」だったら、
「倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国王」
か、総称して「東夷王」「海東王」などと言わなければならな...
ということは、新羅王・任那王・加羅王などは他にいたという...
そして彼らは都督諸軍事たる珍の支配下にあった、これが確認...
そこで『後漢書』です。著者の范曄(ハンヨウ)は南朝劉宋の...
彼は『後漢書』でこう書いてます。
国、皆王を称し、世世統を伝ふ。其の大倭王は、邪馬臺国...
これは、今まで2世紀後半から3世紀のことだと言われてきま...
でも、そうじゃありません。これは彼が5世紀の事実を踏まえ...
…で、何が言いたいかというと、「国皆王を称し」の「国」は倭...
そのことを踏まえて范曄は、こんな風に書いたんじゃないか、...
つまり「邪馬臺国に居」した「大倭王」とは倭の五王のことだ...
そういうことです。
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