1910 | | | #style(class=box_black_swm){{建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。鉄道網100kmから総延長6000kmに増やした併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上平均寿命24才から、42才に}}(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | #style(class=box_black_swm){{植民地=搾取する土地朝鮮に搾取できるものが何一つない歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず日本→使命感に燃えてせっせと投資}}(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | #style(class=box_black_swm){{理想の朝鮮統治とは石橋湛山朝鮮放棄論結論・・・日本人との同化は無理吉野作造外的施設だけでなく朝鮮人の心を得なければならない朝鮮人は日本臣民だが大和民族ではない}}(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910合邦条約を締結。一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910.03土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる終了した時点(1918)では水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910.07憲兵警察制度の発足集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910.08日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 日韓併合日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年] 日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった。(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 併合後李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 併合直後一進会は他の団体とともに解散を命じられた。(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | 日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年](東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 「東医宝鑑」完成(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910年日帝の国権侵奪(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 日韓併合条約調印(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 国権剥奪国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1910 | | | 1910韓国併合(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-明治時代) | |
1910 | | | 2. 小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。3. 安重根、旅順で処刑。5. 寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。6. 閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。7. 第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交(16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承(18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。9. 朝鮮総督府官制公布。11. 喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-) | |
1910 | | | 韓国併合・日帝時代(1910ー1945) 日本統治時代(日帝強占期)1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 1910日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。文盲率90%(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 1910.08.28(明治42年)日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 1910.08.22李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 1910.08.08「条約案」が韓国閣議を通過。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 日韓併合(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 併合10年後旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 韓国併合(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | *1910年日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地領地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 「韓国併合に関する条約」調印。日韓併合。朝鮮総督府設置(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、植民地併合時代のスタートであり、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | | | 韓国併合の歴史日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本の植民地となり韓国併合となったのです。そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。韓国併合の理由韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1910 | 8 | | 日韓併合(韓国併合に関する日韓条約)。朝鮮総督府設置、初代総督寺内正毅。(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1911 | | | 1911「同化政策」による第一次朝鮮教育令の公布私立学校の廃止(東アジア-朝鮮-) | |
1911 | | | 1911鴨緑江に旋回式鉄橋、鴨緑江橋梁を架ける。(東アジア-朝鮮-) | |
1911 | | | 105人事件.日帝による総督暗殺事件でっちあげにより新民会員105人逮捕(東アジア-朝鮮-) | |
1912 | | | 土地調査事業開始(~1918)多くの農民が土地を奪われる(東アジア-朝鮮-) | |
1912 | | | 土地調査事業開始始まる(-1918)国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1912 | 1 | 1 | 1912年1月1日孫文が南京で中華民国の建国宣言#style(class=box_black_swm){{中華民国は国ではなかった→中原の軍閥の集まり}}(東アジア-朝鮮-) | |
1913 | | | 1913年(大正2年)大正政変第一次護憲運動が起る(東アジア-朝鮮-) | |
1914 | | | 1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発(東アジア-朝鮮-) | |
1914 | | | 第一次世界大戦参戦(東アジア-朝鮮-) | |
1914 | | | 沿海州ウラジオストックに大韓光復軍政府樹立(東アジア-朝鮮-) | |
1914 | | | 大韓光復軍政府樹立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1916 | | | 朴重彬,円仏教創始.開墾事業と貯蓄運動を勧め新生活運動展開(東アジア-朝鮮-) | |
1916 | | | 朴重彬、円仏教創始国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1917 | | | シベリア出兵(東アジア-朝鮮-大正6年) | |
1918 | | | 1918産米増殖計画の実施(日本国内各地で米騒動おこる、台湾では蓬莱米増産計画)土地を失った農民は都市に流出、日本・中国東北に移住してゆく(1920~1932朝鮮米の生産高は1.2倍、輸出高は2.5倍になる)韓人社会党の結成(ハバロフスクで李東輝らが組織)(東アジア-朝鮮-) | |
1918 | | | 1918年(大正7年)ヴェルサイユ講和条約調印日本・・・人種差別撤廃を主張(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 1919.03.01三・一独立運動の始まり(米国大統領ウィルソンによる民族自決主義の提唱、ロシア革命の勃発)運動は全国に拡大して行き、3月下旬から4月上旬に最高潮200万人に達し、後に帝国主義批判の論理をもった社会主義思想の浸透となる(死者7,509人負傷者15,961人逮捕者46,948人)上海で大韓民国臨時政府の発足(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 1919年3・1運動、大韓民国臨時政府樹立排日、反日・・・日本を敵視(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 1919年三・一事件起る(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 朝鮮で三・一事件(万歳事件)(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 1919.03.01こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩(???)で、以降、最後の第13代金丸(??)まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 3・1運動.挙族的な万歳示威運動.全国に波及(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 高宗死去(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 高宗死亡。三・一独立運動が広がる。大韓民国臨時政府設立(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 上海に大韓民国臨時政府樹立(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 大韓愛国婦人会組織(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 3.1運動国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 大韓民国臨時政府樹立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 大韓愛国婦人会組織国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1919 | | | 1919全露高麗共産党の結成(イルクーツクで金哲勲らが組織)その後、イルクーツク派系の火曜会上海派系のソウル青年会東京留学生中心の北風会などが生まれる(東アジア-朝鮮、高麗-) | |
1920 | | | #style(class=box_black_swm){{1920年の朝鮮半島■日本の海外領(外地teritory)※インド帝国は植民地(Colony)カナダは海外領■日露戦争で南満州を獲得■開拓農民として朝鮮人が入植漢人の大量流入。朝鮮人vs漢民族保護国保護領植民地属領大韓民国建国の抗日闘争コミンテルンの暗躍■1922年ソビエト社会主義共和国連邦の樹立■朝鮮共産党(コミンテルン朝鮮支部)を組織■抗日パルチザンの金日成を取り込むレーニンとスターリン金日成}}(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | #style(class=box_black_swm){{日英同盟を切られる■1921年~1922年ワシントン会議■四ヶ国条約(日・米・英・仏)日英同盟撤廃■九ヶ国条約(日・米・英・仏・伊・白・蘭・葡・中)中華民国の主権を保証(日本批判)■五ヶ国条約(日・米・英・仏・伊)主力艦保有のの制限↓日英米が互いに孤立、敵視ソビエト連邦の暗躍を許すシナ大陸の動乱を放置五族(日・朝・満・蒙・漢)協和■1932年1月8日桜田門事件→李奉昌4月29日上海天長節爆弾事件→尹奉吉}}(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 1920~満州東部の間島で大韓独立軍の抗日武装闘争の激化「文化政治」に移行(基本方針としては同化主義を掲げ、具体的な政策では民族主義への配慮を行わざるを得ないと云う特徴)1.従来の憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度を発足2.朝鮮総督の文官の任用を認める3.諮問機関として、民選の府協議会・面協議会が置かれる4.禁止していた朝鮮語の新聞・雑誌の刊行の認可(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 1920年清山里大捷、「朝鮮日報」「東亜日報」創刊(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 1920年代まで文盲率80%~99%?「訓民正音」の名で民衆に与えるも、学校というものが存在しない朝鮮では一般民衆には普及しなかった。(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 「朝鮮日報」,「東亜日報」創刊(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 3・1運動で活動した「朝鮮のジャンヌダルク」柳寛順16歳で獄死(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 青山大捷.金佐鎮の独立軍,満州の青山里で日本軍に勝利(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 朝鮮日報、東亜日報創刊。 独立軍、青山里の戦いで勝利。琿春事件(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 金佐鎮、青山里大捷国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1920 | | | 「朝鮮日報」「東亜日報」創刊国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1922 | | | 1922年第二次朝鮮教育令法的に大学設立が可能に(東アジア-朝鮮-) | |
1922 | | | 天道教少年部「子どもの日」制定.少年運動展開(東アジア-朝鮮-) | |
1922 | | | 「子どもの日」制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1923 | | | 1923.09(関東大震災のあと、大規模な朝鮮人虐殺事件が起こる)(東アジア-朝鮮-) | |
1923 | | | 関東大震災1923(東アジア-朝鮮-) | |
1924 | | | 1924.04朝鮮労農総同盟の発足ソウル青年会の主導下に朝鮮青年総同盟が結成され、労働運動・農民運動などの民衆運動の中核的な存在となる(東アジア-朝鮮-) | |
1924 | | | 1924年日本で6番目の帝国大学である京城帝国大学をつくる。(東アジア-朝鮮-) | |
1924 | | | 京城帝国大学創立(東アジア-朝鮮-) | |
1924 | | | 社会主義思想流入による青年運動の分裂収拾のため朝鮮青年総同盟結成(東アジア-朝鮮-) | |
1925 | | | 1925朝鮮共産党・髙麗共産青年会が発足するも、1928年には崩壊される(東アジア-朝鮮-) | |
1925 | | | 1925年京城駅が完成(東アジア-朝鮮-) | |
1925 | | | 治安維持法施行(東アジア-朝鮮-) | |
1925 | | | 朝鮮共産党結成(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | | | 1926年6・10万歳運動(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | | | 映画「アリラン」上映(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | | | 活動写真「フィルム」検閲規制施行(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | | | 青年学生による6・10万歳運動.多くの学校に広がっていく(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | | | 6.10万歳運動国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1926 | 6 | | 6・10万歳運動(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 1927朝鮮労働総同盟と農民総同盟に分離民族解放運動の結節点として「新幹会」の発足をみるが、(1931年に解散)(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 新幹会創立(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 京城放送局がラジオ放送開始(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 新幹会結成(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 民族主義陣営と社会主義陣営が統合し新幹会組織.民族唯一党運動推進(東アジア-朝鮮-) | |
1927 | | | 新幹会組織される国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1928 | | | 台北帝国大学(東アジア-台湾、日本-) | |
1928 | | | 上海で李東寧、金九らが韓国独立党結成(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1929 | | | 1929.01元山ゼネスト(2,200人の労働者がゼネストに突入し、交通・港湾荷役は完全に停止する)(東アジア-朝鮮-) | |
1929 | | | 1929年光州学生抗日運動(東アジア-朝鮮-) | |
1929 | | | 元山労働党ゼネスト。光州学生運動(東アジア-朝鮮-) | |
1929 | | | 光州学生抗日運動国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1929 | | | 日本人学生が韓国人女性を愚弄した事件をきっかけに光州学生運動起こる(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1930 | | | 19301930年前半では、昭和恐慌で工業が活気を帯びる(東アジア-朝鮮-) | |
1931 | | | 万宝山事件(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | 1932年李奉昌、尹奉吉義挙(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | 満州国建国。五・一五事件。(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | 李奉昌義挙.日本の桜田門で天皇暗殺未遂(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | 尹奉吉義挙.上海虹口公園での投弾テロ(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | 李奉昌、尹奉吉義挙国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1932 | | | #style(class=box_black_swm){{中華民国は、満州国設立により日本が侵略目的で中国人留学生を受け入れたと言う。現代中国の思想は日本からはいった歴史プロパガンダ・・・中国ファンタジー・・・韓国ヒストリー・・・・日本現代の中国史は毛沢東が書いた歴史→日本の影響、おかげで発展した事を否定}}(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1933 | | | 国際連合脱退1933(東アジア-朝鮮-) | |
1933 | | | 朝鮮語学会,ハングル綴字法統一案制定(東アジア-朝鮮-) | |
1933 | | | ハングル綴字正書法統一案制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1934 | | | 震檀学会組織される国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1934 | | | 震檀学会組織.日本人御用学者の韓国学に反発.震檀学報発刊(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1935 | | | 中国、抗日統一戦線の樹立を提唱(東アジア-朝鮮-) | |
1936 | | | 1936年就学児童、110万人になり、文盲率が40%までに。日本がつくったのは小学校だけでなく、24の専門学校、75の中学校、75の高等女学校、133の実業高校、145の実業補習学校、1つの大学予科、36年で建てた公立学校の総数は5000校、22の師範学校(東アジア-朝鮮-) | |
1936 | | | 二・二六事件1936(東アジア-朝鮮-) | |
1936 | | | 孫基禎,ベルリンオリンピック大会マラソン優勝.日章旗抹消事件(東アジア-朝鮮-) | |
1936 | | | 日章旗扶梢事件(東アジア-朝鮮-) | |
1936 | | | 孫基禎、ベルリンオリンピック大会のマラソンで優勝国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1937 | | | 1937祖国光復会(朝鮮民族解放同盟)の師団長(金日成)が日本軍を撃破する(ソビエト連邦の対日参戦の直前に組織された朝鮮工作団の責任者に選ばれた金日成は、日本の降伏後にソビエト連邦軍と共に元山に上陸する)(東アジア-朝鮮-) | |
1937 | | | 1937.10皇国臣民の誓詞が発布される(東アジア-朝鮮-) | |
1937 | 7 | | 日中戦争の勃発)朝鮮は軍需物資の生産を担う兵站基地となる一面に一神社を設置し参拝の強制創氏改名の強要従軍慰安婦は日本人は将校用、朝鮮人は兵隊用と差別される(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 1938年電化による鉄道を走らせた。(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 1938年7月29日通州事件(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 1938年7月7日盧溝橋事件(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 1938年8月13日北支事変(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 1938年9月3日支那事変日本は朝鮮人のテロにもめげず・・・(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 国家総動員法施行1938(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 朝鮮語教育廃止(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | ハングル教育禁止国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1938 | | | 朝鮮教育令改正,ハングル教育禁止 →韓国、北朝鮮の日本語を強要されたという嘘(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1939 | | | 1939日本人労働者不足を補うために85,000人の朝鮮人が日本に強制移動される(1939~1945約113万人)(東アジア-朝鮮-) | |
1939 | | | 1939年名古屋帝国大学(東アジア-朝鮮-) | |
1939 | | | ハングルを弾圧(東アジア-朝鮮-) | |
1939 | | | 国民徴用令公布(東アジア-朝鮮-) | |
1939 | | | 国民徴用令実施.強制連行はじまる(東アジア-朝鮮-) | |
1939 | | | 創氏改名公布.死をもって抵抗する者あり →創氏改名の真実(東アジア-朝鮮-) | |
1940 | | | 創氏改名(東アジア-朝鮮-) | |
1940 | | | 創氏改名実施。皇民化教育の強化(東アジア-朝鮮-) | |
1940 | | | 民族抹殺政策強化.皇民化教育の強化(東アジア-朝鮮-) | |
1940 | | | 民族抹殺政策強化国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1940 | | | 1940.09大韓民国臨時政府は重慶に移転し、韓国光復軍を創設(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1940 | | | 1940年韓国光復軍設立(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1940 | | | 大韓民国臨時政府,重慶で韓国光復軍結成(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1940 | | | 韓国光復軍結成国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、日本-) | |
1941 | | | 臨時政府の対日宣戦布告(東アジア-朝鮮-) | |
1942 | | | 朝鮮語学会事件(東アジア-朝鮮-) | |
1942 | | | 徴兵制の実施を閣議決定。朝鮮語学会事件(東アジア-朝鮮-) | |
1942 | | | 朝鮮での徴兵制実施(東アジア-朝鮮-) | |
1942 | | | 朝鮮語学会事件.独立運動団体とみなされ逮捕,投獄,解散させられる(東アジア-朝鮮-) | |
1942 | | | 朝鮮語学会事件国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1943 | | | 訓民正音(ハングル)を創制(東アジア-朝鮮-) | |
1944 | | | 1944.02朝鮮徴兵令施行(東アジア-朝鮮-) | |
1944 | | | 学徒軍事教育要綱発表。 学徒動員非常措置法実施。 全面徴用の実施。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 朝鮮が南北に分割占領される(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 連合軍軍政期(東アジア-朝鮮-連合軍軍政期) | |
1945 | | | 1945.08ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、朝鮮半島東北部に侵攻トルーマン大統領が「連合国一般命令を」ソビエト連邦に通告し同意させる(北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することの内容)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.08.15第二次世界大戦で大日本帝国敗北朝鮮半島での日本の植民地支配終了、連合軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.08.15日本はポツダム宣言の受諾管轄はアメリカ軍とソビエト連邦軍になる(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.09ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸し翌日、朝鮮総督府が降伏文書に調印するアメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.09.06民族主義者、呂運亨らにより「朝鮮建国準備委員会」の結成全国人民代表大会で臨時政府の樹立を決定し「朝鮮人民共和国」を興す(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.10米政府による「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の否定北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.11.20第一回全国人民委員会代表者会議(人民共和国による)をソウルで開く(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.12モスクワ協定(米・英・ソ三国外相会議)において、信託統治期間を5年間とし、朝鮮における民主的な臨時政府樹立のために米・英・ソ・中の4大国が朝鮮を信託統治し、その準備を米ソ共同委員会で行うとした(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945.12.19米軍政府がソウルの人民共和国政庁を急襲し、解体を宣告する同じ頃、北朝鮮でもソビエト連邦軍の規制が始まり「北朝鮮共産党」に改組され、党首を金日成とする(統一戦線的な北半部の建国の動きを、ソビエト連邦型の共産党独裁政権作りに変質させる)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945年かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945年8月18日停戦命令、しかしソビエト連邦は新侵攻を止めず、マッカーサーは、北緯38度線までソビエト連邦軍の駐留を認める。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 1945年9月8日米軍仁川上陸ジョンホッジ中将朝鮮の開放を謳いつつ、日韓の対立を煽る。しかし、開放せず3年間、軍政を敷く。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 終戦。ポツダム宣言受諾(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 解放、大韓民国[1945年~](東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 八・一五民族光復(朝鮮解放)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | *1945年第二次世界大戦終戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は解放された。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 現代*1945年第二次世界大戦での日本の敗戦により、朝鮮半島は解放され、かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 現代社会?(1945~)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 光復第二次世界大戦での日本の敗戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は植民地支配から解放された。(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 在日朝鮮人を乗せ青森から釜山に向かった浮島丸爆沈.原因不明(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 日本の植民地支配からの開放。 呂運亨ら建国準備委員会を結成 モスクワで三国外相会議開催(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 8.15光復国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | 1945年~1948年:アメリカ(非独立)←←←ココも重要!(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-) | |
1945 | | | 解放、大韓民国[1945年~] 日本の降伏により、朝鮮は植民地支配から解放されたが、北緯38度線を境界としてアメリカとソビエト連邦に分割統治され、国土は南北に分断された。(東アジア-朝鮮、大韓民国-) | |
1945 | 8 | 15 | 8・15光復.日本の降伏により植民地支配から開放(東アジア-朝鮮-) | |