676三国時代→統一新羅時代(東アジア-朝鮮、高句麗-)
676朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~
紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(): File not found: "image1201.jpg" at page "朝鮮三国時代";さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
676統一新羅時代(676ー935)
統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
676新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる(東アジア-朝鮮、高句麗-)
676新羅、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。(東アジア-朝鮮、新羅-)
676新羅、三国統一(東アジア-朝鮮、新羅-)
676新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代(東アジア-朝鮮、新羅-)
676統一新羅と後三国時代[676~918年]
新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。(東アジア-朝鮮、新羅-)
676平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(東アジア-朝鮮、新羅-)
676新羅、三国統一国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)
676新羅、高僧の義湘に浮石寺を創建させる
唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する(東アジア-朝鮮、新羅-)
676渤海、新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)
676百済、扶餘隆高句麗にて死去 唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(東アジア-朝鮮、百済-)

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