#author("2019-06-03T08:55:42+09:00","","")
| | | |CENTER:&size(20){朝鮮半島の歴史};&size(6){(東アジア-朝鮮-先史時代)};||h
|1896|||徐載弼,アメリカより帰国し「独立新聞」発刊&size(6){(東アジア-朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮-)};||
|1896|||'''''1.''''' 各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。'''''2.''''' 「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。'''''4.''''' 徐載弼「独立新聞」発行。'''''5.''''' 小村・ウェーバー協定調印。'''''6.''''' 山県・ロバノフ協定調印。'''''7.''''' 徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。'''''11.''''' 漢城に独立門建立。'''''12.''''' 「大朝鮮独立協会会報」発刊。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1896|||1896山県・ロバノフ協定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||1896年大院君、隠居。COLOR(blue):「独立新聞」創刊COLOR(blue):独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||1896年露館播遷高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||俄館播遷.親露派により国王をロシア公使館へ移す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||義兵が起こる&br;露館播遷&br;独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||山県・ロバノフ協定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||太陽暦採用&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||独立協会を設立.独立門を建てる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||義兵が起こる&br;露館播遷&br;独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):俄館播遷COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):「独立新聞」発刊COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):独立協会の設立COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1897|>|>|''下関条約により清の属国から開放される←←←ココ重要!''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1897|||朝鮮が国号を韓と改める&size(6){(東アジア-朝鮮、韓-)};||
|1897|||朝鮮が国号を韓と改める&size(6){(東アジア-朝鮮、韓-)};||
|1897|||COLOR(red):大韓帝国の成立(皇帝独裁による国家的独立)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||COLOR(red):大韓帝国の設立.内外に自主国家であることを宣言&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||COLOR(RED):大韓帝国樹立&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||国号を大韓帝国に改める&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||''大韓帝国(1897~1910[日本の保護国の時期1905~1910])''&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||COLOR(RED):大韓帝国樹立&br;一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。&br;日清戦争(1894~1895)の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める(財政基盤の脆弱性により借款がうまくゆかず、各地で抗争が起きる)&br;COLOR(blue):大韓帝国成立一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた%%武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった%%。日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立し、高宗は韓国皇帝を称した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。&br;COLOR(red):大韓帝国の設立.内外に自主国家であることを宣言http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&br;国号を大韓帝国に改める&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||COLOR(blue):大韓帝国の設立COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1897|||COLOR(red):'''''10.''''' 大韓帝国成立。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1898|||釜下鉄道会社設立&br;独立協会,万民共同会開催.ロシアの侵略策動を糾弾し自主国権運動展開&br;1898独立教会、官民共同会を開き国政改革を求めるも、土地改革構想を提示しえず、農民層を陣営に取り込めず失敗し、守旧派の弾圧を受け解散する&br;COLOR(blue):万民共同会開催「皇城新聞」創刊朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。閔妃を明成皇后に祭り上げる。親露派が親日派を圧倒。&br;COLOR(black):大院君、死去。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1898|||COLOR(blue):万民共同会開催COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1898|||'''''4.''''' 西・ロ-ゼソ協定調印。米西戦争おこる。'''''7.''''' 量田事業開始。'''''9.''''' 金鵄陸ら、皇帝・皇太子殺害を計画(毒茶事件)。'''''10.''''' 官民共同会開催。'''''11.''''' 独立協会に解散命令。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1898|4||朝鮮の主権を日露両国確認。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、ロシア-)};||
|1899|||1899年COLOR(blue):京仁線開通&br;外国人の手により京仁線開通.&br;利運社,通運社などの陸運会社設立&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1899|||COLOR(blue):京仁線開通COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1899|||'''''9.''''' 韓清通商条約調印。'''''12.''''' 「独立新聞」発刊。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1900|||韓国の歴史http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1900|||1900京仁鉄道の開通&br;1900年(明治33年)日英露独墺伊仏英、八ヶ国連合軍出兵。&br;1900年、漢江に1100mの鉄橋を架ける。&br;1900年4月露清密約、満州全域に露軍駐留。&br;大韓共同郵船会社,仁川輪船株式会社,海西鉄鉱会社設立&br;万国郵便連合加入&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1900|||COLOR(blue):万国郵便連合加入COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1900|||'''''6.''''' 義和団事件。'''''11.''''' 満州に関する露清協定締結。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1900|||しかし、19世紀に入ると東アジアでは激動の時代となります。アヘン戦争などによる清の国力低下。フランスやアメリカも朝鮮を狙い始め、また日本も朝鮮に国交を強く要求します。しかし、朝鮮は清による冊封体制の下にあることを理由に日本との国交を拒否し、日本と朝鮮との間では対立が激しくなっていくのです。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、大韓帝国、アメリカ、フランス-)};||
|1901|||1901貨幣条令を公布し、金本位制を採用&br;1901年北京議定書(日本は駐留権)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1901|||'''''6.''''' 桂太郎内閣成立、政綱に韓国保護国化を掲げる。'''''10.''''' 朴斉純外相来日、中立化案を打診。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1902|||1902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1902|||ソウル・仁川間長距離電話開通&br;日英同盟成立&br;1902(日英同盟の締結)、日本の第一銀行、朝鮮国内で銀行券を発行&br;1902年1月30日桂太郎首相、ロシアに満韓交換論を提示。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1902|||RIGHT:COLOR(green):日英同盟成立''1902''&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1902|||COLOR(blue):ソウル・仁川間に長距離電話開通COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1902|||'''''1.''''' 第1回日英同盟協約調印。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1903|>|>|''ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1903|||YMCA発足&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1903|||遂安金鉱合資会社設立&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1903|||COLOR(blue):YMCA発足COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1903|||'''''8.''''' 日本政府、日露協商基礎条項提示。ロシア、極東総督府設置。駐日公使高永喜、戦時局外中立の承認を求める韓帝密書を小村外相に手交。韓帝、中立承認を各国に打診。'''''9.''''' 「皇城新聞」に「満韓交換の風説を破る」掲載。小村=ローゼン会談開始(30日、両者間に日露協商確定修正案まとまる)。'''''12.''''' 閣議、日露開戦時の対清韓方針決定。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1904|||日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(???)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904.02.09日露戦争の始まり、日本、ソウルを制圧し、日韓議定書の調印(朝鮮の内政干渉、軍の駐留権、土地収容権などの確保)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904.08.22第一次日韓協約の締結、(日本人による財政顧問・外交顧問の登用、外交交渉における日本政府の事前協議など)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904.02.08日英同盟締結。日露戦争勃発。高宗、中立宣言。日本側の勝利に終る。日韓議定書、韓国内での日本の軍事行動の自由を保障。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904年8月23日第一次日韓協約を結ぶ。韓国財政、外交顧問に日本の推薦者を置く。外交案件は事前にに日本と協議。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904年COLOR(blue):京釜線竣工&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||1904年一進会は日韓合邦運動を開始。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||RIGHT:COLOR(green):日露戦争が起こる''1904''&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||韓日議定書締結.日本による顧問政治始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||京釜線竣工&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||親日御用団体,一進会設立.日本の政策を支持する運動を展開&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||第一次日韓協約締結&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||日露戦争(~1905)が起こる。&br;第一次日露協約調印。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||COLOR(blue):韓日議定書を締結COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||COLOR(blue):京釜線竣工COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1904|||'''''1.''''' 林公使・李址鎔外相聞に日韓議定書案まとまる。韓国政府、局外中立宣言。 '''''2.4.''''' 御前会議、対露開戦決定 '''''2.8.~9.''''' 臨時派遣隊仁川上陸、仁川沖・旅順口でロシア艦を攻撃 '''''2.10.''''' 宣戦布告 '''''2.12.''''' 清国局外中立宣言 '''''2.23.''''' 日韓議定書調印 '''''3.''''' 韓国駐剳軍司令部設置。伊藤博文特派大使漢城入京。'''''5.''''' 鴨緑江渡河作戦、九連城占領。朝露修好通商条約廃棄。閣議、対韓施設綱領決定。'''''7.''''' 駐剳軍司令官軍律制定。「大韓毎日申報」発刊。'''''8.''''' 一進会結成。第1次日韓協約調印('''''10.''''' 目賀田種太郎財政顧問、'''''12.''''' スティ-ヴンス外交顧問着任)。'''''9.''''' 遼陽占領。京畿道始興・黄海道谷山で民擾。'''''10.''''' 咸鏡道に軍政施行。沙河会戦。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1905|>|>|''1905年~1945年:日本(保護国、併合)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1905|||''日本の保護国の時期1905~1910''&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-日本の保護国)};||
|1905|||1905.07高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905.08(第二回日英同盟の締結)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905.11.17第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905.11.17第二次日韓協約を結ぶ。韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905年7月高宗のロシア帝国への密使が発覚する。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905年COLOR(blue):乙巳条線&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905年ポーツマス条約日本の韓国における優越権を認める。日露両軍を満州から撤退する。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||RIGHT:COLOR(green):日露講和条約(ポーツマス条約)締結''1905''&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||保護条約、乙巳条約(第2次日韓協約)調印&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||関釜連絡船航路就航.現在,関釜フェリーとして運行&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||第二次日韓協約(乙巳条約).日本の強制的な保護条約&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||第二次日韓協約調印&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||東学の第3代教主孫秉熙,天道教創始&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||日本,竹島(独島)の占有権を公示&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||COLOR(blue):乙巳条約COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||COLOR(blue):天道教創立COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1905|||1905年8月日英同盟改定。イギリスが日本の韓国保護国化を承認。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、イギリス、日本-)};||
|1905|||'''''1.''''' 旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握('''''4.''''' 全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。'''''3.''''' 奉天会戦。'''''4.''''' 閣議、韓国保護権確立方針決定。'''''5.''''' イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。'''''6.''''' アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。'''''7.''''' 桂・タフト協定成立。'''''8.''''' 日露講和会議(10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。'''''8.9.''''' 露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。'''''10.''''' 朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。'''''11.''''' 伊藤博文を特派大使として韓国派遣(15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印(17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。'''''12.''''' 韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1905|7||桂・タフト協定。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本-)};||
|1905|7|29|桂・タフト協定&br;首相:桂太郎とタフト(アメリカ)による協定。日本はアメリカのフィリピン支配権を認める。アメリカは日本の大韓帝国支配権を認める。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本-明治時代)};||
|1905|9||日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||日本、統監府を設置&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||1906.02韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||1906年漢城に韓国統監府設置。初代統監に伊藤博文。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||大韓自強会結成.愛国運動開始&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||統監府設置.日本人次官が韓国内政全般を取り仕切る&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||日本、韓国統監府を設置&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||COLOR(blue):統監府設置COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1906|||'''''1.''''' 韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。'''''2.''''' 韓国統監府開庁。'''''3.''''' 興業借款1000万円供与。'''''5.''''' 閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退(11月逮捕される)。'''''6.''''' 崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられ1907年'''''1.''''' 対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。'''''8.''''' 関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。'''''9.''''' 日本人参与官を朝鮮各地方に配置。'''''10.''''' 鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。'''''11.''''' 満州鉄道会社設立。'''''12.''''' ロシア外相、日露協商を示唆。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1906|2||韓国統監府開庁。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1907|||1907.04~愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907.06高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907年COLOR(blue):国債報償運動&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907年6月ハーグ密使事件。オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮(大韓帝国)の高宗皇帝が密使を送る。この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907年7月19日高宗皇帝、息子の純宗に譲位。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907年7月第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||1907年8月1日韓国軍の解散が定められる。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||ハーグ特使派遣.日本との条約無効を国内外に宣言しようとしたが失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||ハーグ密使事件、高宗退位&br;第三次日韓協約調印&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||安昌浩,新民会設立.多様な反日活動を続ける&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||高宗皇帝退位.純宗王位に就く&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||国債報償運動&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||朝鮮軍隊解散&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||日本,保安法,新聞紙法などの弾圧法規により啓蒙運動を圧迫&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||COLOR(blue):国債報償運動%%(大邱)%%COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||COLOR(blue):ハーグ特使派遣COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||COLOR(blue):高宗皇帝退位COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||COLOR(blue):軍隊解散COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|||COLOR(blue):新民会設立COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907||>|'''''2.''''' ロシア外相、日露協商案を提示。'''''5.''''' 李完用内閣成立。'''''6.''''' 第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。'''''7.''''' 韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。'''''8.''''' 改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起(12月楊州に1万人集結、上京をめざす。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1907|7||高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1907|7||第三次日韓協約。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1907|8||抗日義兵抗争(~1915)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1908|||義兵,ソウル近郊まて進行,日本軍の反撃で撤退&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1908|||COLOR(blue):義兵、ソウル進攻作戦COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1908|||'''''1.''''' 裁判所構成法施行。'''''3.''''' 韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。'''''6.''''' 韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる(1909年'''''2.''''' 辞任)。'''''9.''''' 閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。'''''12.''''' 東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1909|||安重根が伊藤博文を殺害&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||1909.09韓国銀行の設立&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||1909.10統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||1909年12月4日一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||1909年COLOR(blue):安重根義士の義挙&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||1909年韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。&br;''伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」''&br;朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||日本,安奉線の鉄道敷設権を手に入れるため,清と間島を交換&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||COLOR(blue):日本、清と間島を安奉線と交換COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||COLOR(blue):安重根、伊藤博文処断COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||COLOR(blue):羅喆、大?教創始COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};||
|1909|||'''''1.''''' 韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従(~2月)。'''''2.''''' 大竹貫一代議士、統監政治批判演説。'''''4.''''' 伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。'''''6.''''' 伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。'''''7.''''' 閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。'''''10.''''' 伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。'''''12.''''' 一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1909|||'''''6.''''' 李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。'''''10.''''' 警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。'''''11.''''' 純宗、昌徳宮へ遷る。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1909|6||伊藤博文、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1909|7||閣議は韓国併合方針を決定。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||#style(class=box_black_swm){{建築や燃料のため木を伐り、又、「火田民」による焼畑農業によるやせた土地を、植林する事なく放置されていたため、山々にはほとんど木が生えていなく、盗伐が多いため「山覧」をおき、一般人が植林した山に入る事を禁じた。火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止し、定住型の農業を進め、5億9000万本の植林をすすめた。鉄道網100kmから総延長6000kmに増やした併合時の人工約1300万人あまり、1942年には2550万人以上平均寿命24才から、42才に}}&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||#style(class=box_black_swm){{植民地=搾取する土地朝鮮に搾取できるものが何一つない歴代シナ王朝→反抗時の軍事制裁はすれども占有はせず日本→使命感に燃えてせっせと投資}}&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||#style(class=box_black_swm){{理想の朝鮮統治とは石橋湛山朝鮮放棄論結論・・・日本人との同化は無理吉野作造外的施設だけでなく朝鮮人の心を得なければならない朝鮮人は日本臣民だが大和民族ではない}}&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''1910''COLOR(blue):合邦条約を締結。COLOR(blue):一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''1910.03''土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる終了した時点(1918)では水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''1910.07''憲兵警察制度の発足集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''1910.08''日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''日韓併合%%日本帝国の植民地%%時代(日帝時代)[1910~1945年]''&br;日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた%%武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった%%。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''併合後''李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||''併合直後''一進会は他の団体とともに解散を命じられた。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|>|>|''日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年]''&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||「東医宝鑑」完成&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||1910年COLOR(blue):日帝の国権侵奪&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||日韓併合条約調印&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||COLOR(blue):国権剥奪COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1910|||1910韓国併合&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-明治時代)};||
|1910|||'''''2.''''' 小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。'''''3.''''' 安重根、旅順で処刑。'''''5.''''' 寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。'''''6.''''' 閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。'''''7.''''' 第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交(16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承(18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。'''''9.''''' 朝鮮総督府官制公布。'''''11.''''' 喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。&size(6){(日韓併合)};&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)};||
|1910|||''韓国併合・日帝時代(1910ー1945)''&br;日本統治時代(日帝強占期)1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''1910''日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。文盲率90%&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''1910.08.28(明治42年)''日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''1910.08.22''李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''1910.08.08''「条約案」が韓国閣議を通過。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''日韓併合''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''併合10年後''旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''韓国併合''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||*1910年日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の%%植民地%%領地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||「韓国併合に関する条約」調印。日韓併合。朝鮮総督府設置&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。%%いわゆる日帝時代、植民地併合時代のスタートであり、%%日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|||''韓国併合の歴史''日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、%%1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。%%1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本の植民地となり韓国併合となったのです。そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。%%韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。%%このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。%%1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。%%昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。韓国併合の理由韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|1910|8||日韓併合(韓国併合に関する日韓条約)。朝鮮総督府設置、初代総督寺内正毅。&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||

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