#author("2019-06-03T00:29:20+09:00","","")
|676|>|>|''三国時代→統一新羅時代''&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~''&br;紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(image1201.jpg,nolink,画像の説明);さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:''668年''そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''統一新羅時代(676ー935)''&br;統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(green):新羅、三国統一&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||''統一新羅と後三国時代[676~918年]''&br;新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退するとCOLOR(blue):新羅による朝鮮半島の統一COLOR(black):が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅、三国統一COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||新羅、高僧の義湘に浮石寺を創建させる&br;唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||渤海、新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|676|||百済、扶餘隆高句麗にて死去唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|681|||COLOR(green):第31代新羅王神文王(681~692)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|681|||渤海、《神文王(681~692)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|682|||新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||COLOR(blue):新羅、国学を建てるCOLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||渤海、礼部の配下に国学を創立&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|684|||渤海、安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|685|||COLOR(blue):九州五小京設置&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||COLOR(blue):新羅、九州五小京設置COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|686|||渤海、高句麗、滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|686|||持統686-696&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|687|||COLOR(green):新羅、九州五京の郡県制を確率&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|687|||渤海、祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|689|||渤海、租米による俸禄制を始める&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|690|>|>|''690年~900年:渤海(属国)&deco(silver,white,9){よいこの正しい半島歴史年表};''&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|692|||COLOR(green):第32代新羅王孝昭王(692~702)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|692|||新羅、《孝昭王(692~702)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|696|||COLOR(red):大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|697|||渤海、契丹・李尽忠の乱&br;靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走&br;唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|697|||文武697-700&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|698|||''南北国時代(698ー918)''&br;COLOR(blue):南北国時代(698ー918)&size(6){(東アジア-朝鮮-南北国時代)};||
|698|||新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|698|||高句麗の滅亡後、中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、高句麗の将軍出身の大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国(のちの渤海(713-926年))を建国する。(吉林省敦化付近:東牟山)幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-)};||
|698|||COLOR(blue):渤海の建国COLOR(blue):国史年表&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-)};||
|698|||渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-)};||
|699|||渤海、唐への朝貢を再開&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|701|||RIGHT:COLOR(green):大宝律令制定&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|702|||COLOR(green):第33代新羅王聖徳王(702~737)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|702|||新羅、《聖徳王(702~737)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|703|||新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|704|||渤海、『最勝王経』&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|705|||渤海、大門芸が唐に入侍&br;唐による侍御史を震国に派遣&br;安東都督府復活&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|705|||渤海、大飢饉~706&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|713|||大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|713||>|COLOR(red):国号を震国から渤海へと改める&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-奈良時代)};||
|713|||渤海、唐、大祚栄に渤海郡王に冊封&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|717|||渤海、「十哲七十二弟子図」などがもたらされる&br;医博士・算博士を創設&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|718|||漏刻(水時計)製作&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|719|||大祚栄死去&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|719|||渤海、大祚栄卒し、大武芸即位&br;周辺の靺鞨諸部族を編入する&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|721|||渤海、渤海への対策として北辺の国境地帯に長城を築く&br;新羅による東北国境での長城建設&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|722|||新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||新羅、日本の賊の路を遮断した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||COLOR(blue):新羅、丁田支給COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||渤海、毛伐郡城を築いて日本の賊の侵入を防ぐ&br;黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|725|||渤海、唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|726|||渤海、大武芸の弟・大門芸、唐に亡命&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|727|||RIGHT:COLOR(green):渤海使来朝&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|727|||渤海、渤海、高仁義らを日本に派遣&br;蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|728|||渤海、日本、送渤海使を派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|731|||新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|731|||渤海、日本の戦船300艘が東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったがこれを撃破&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|732|||渤海、渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|733|||渤海、渤海が山東半島に攻め込んだとき、唐の要請により渤海南部を攻めたが、失敗退却する&br;唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|735|||渤海、新羅、唐より大同江以南の領有を認められる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|737|||COLOR(green):第34代新羅王孝成王(737~742)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|737|||新羅、《孝成王(737~742)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|738|||渤海、唐から『道徳経』を下賜&br;大武芸卒、大欽茂即位&br;唐との関係を修復する&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|739|||渤海、遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|742|||COLOR(green):第35代新羅王景徳王(742~765)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||渤海、《景徳王(742~765)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|743|||渤海、玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|746|||渤海、渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|749|||渤海、この頃、旧国より中京顕徳府(吉林省和龍県西古城)に遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|751|||仏国寺と石窟庵を建立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||COLOR(blue):仏国寺と石窟庵%%を建てる%%の再建始まるCOLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||渤海、仏国寺・石窟庵、築造開始&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|753|||新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|755|||渤海、この頃、中京顕徳府から上京龍泉府(黒龍江省寧安県東京城)に遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|757|||渤海、全国各地の地名を唐風に改称&br;官僚制度も行き詰まりとその矛盾により、官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|759|||渤海、中央官庁とそれに属する官職名についても唐風のものへの改称&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|762|||渤海、六城を築いて渤海への備えとした&br;唐により大欽茂を渤海国王に冊封&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|765|||COLOR(green):第36代新羅王恵恭王(765~780)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|765|||渤海、《恵恭王(765~780)即位》&br;この頃より新羅国の動揺・衰退がはじまる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|768|||渤海、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立(~780)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|774||>|渤海、大興から宝暦に改元&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|777|||渤海、日本の舞女11人を唐に献上&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|779|||渤海、渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|780|||COLOR(green):第37代新羅王宣徳王(780~785)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|780|||渤海、恵恭王、殺害される&br;《宣徳王(780~785)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|785|||COLOR(green):第38代新羅王元聖王(785~798)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|785|||渤海、宣徳王、病にて没す&br;上京龍泉府から東京龍原府(吉林省琿春県八連城)に遷都&br;《元聖王(785~798)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|788|||COLOR(green):新羅、読書三品科を設ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|788|||新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||COLOR(blue):新羅、読書三品科設置COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||渤海、官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定める&br;国の西部で盗賊が現われる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|790|||渤海、新羅、伯魚を渤海に派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|793|||渤海、大欽茂卒&br;弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位&br;都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す&br;中央集権的な官僚制度を整備&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
| | | |CENTER:&size(20){平安時代[794年~1185年]};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||h
|794|||渤海、奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築く&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|798|||渤海、唐により大嵩?を渤海国王に冊封&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|799|||COLOR(green):第39代新羅王昭聖王(799~800)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|799|||渤海、《昭聖王(799~800)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|800|||COLOR(green):第40代新羅王哀荘王(800~809)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|800|||渤海、《哀荘王(800~809)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|801|||渤海、耽羅国(済州島)からの朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|802|||新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||渤海、伽耶山に海印寺を創建&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|803|||渤海、日本とも国交が再開&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|804|||RIGHT:COLOR(green):最澄、空海が入唐&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|804|||新羅、夏五月日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|804|||渤海、日本から黄金三百両が進上された&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|805|||渤海、律令体制の没落が始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|806|||新羅、春三月日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|806|||渤海、日本からの使者を朝元殿で引見した&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|808|||新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|808|||渤海、日本国の使者を厚くもてなした&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|809|||COLOR(green):第41代新羅王憲徳王(809~826)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|809|||渤海、摂政の反乱で、哀荘王は王弟とともに殺害される&br;唐により大元瑜を渤海国王に冊封&br;《憲徳王(809~826)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|810|||渤海、唐に王子金憲章、金銀製の仏像などを献上&br;日本からの最後の第15次遣渤海使&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|812|||渤海、渤海へ使者を派遣して動向をうかがう&br;新羅が崇正を派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|813|||渤海、唐により大言義を渤海国王に冊封&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|816|||渤海、飢饉のため、唐の浙江省東部(170人)・日本へ(200人)の難民発生する&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|818|||渤海、唐により大仁秀を渤海国王に冊封&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|819|||渤海、唐の?州で反乱が起こると3万の兵を派遣する&br;各地の賊徒がいっせいに蜂起、鎮圧&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|821|||渤海、王文矩を日本に派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|822|||渤海、都督職を歴任した金憲昌が反乱、鎮圧&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|825|||渤海、金憲昌の子の金梵文が反乱、鎮圧&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|826|||COLOR(green):第42代新羅王興徳王(826~836)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|826|||渤海、大同江沿いにに300里の長城を築いて、渤海の南下の備えとした&br;新羅、渤海との国境に長城を築く&br;《興徳王(826~836)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|827|||渤海、旧高句麗系の僧丘徳が経典を持ち帰る&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、清海鎮設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|828|||新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、青海鎮設置COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||渤海、金大廉が持ち帰った茶の種子を地理山に植える&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|830||>|渤海、大仁秀卒、大彜震が即位&br;咸和と改元&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|832|||渤海、春夏の旱魃、7月の大雨で凶作&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|833|||渤海、凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者&br;賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣&br;唐により張建章の渤海遣使&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|834|||百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||COLOR(blue):百宮の服色制度の公布COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||渤海、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化「頭品制度」&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|836|||COLOR(green):第43代新羅王僖康王(836~838)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|836|||渤海、《僖康王(836~838)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|838|||COLOR(green):第44代新羅王閔哀王(838~839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|838|||渤海、金明・利弘らが軍を起こして王の側近の貴族を殺害する反乱、僖康王自殺&br;《閔哀王(838~839)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|839|||COLOR(green):第45代新羅王神武王(839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|839|||COLOR(green):第46代新羅王文聖王(839~857)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|839|||渤海、張保皐のもとに集結した祐徴らの一派、祐徴派の金陽軍により閔哀王殺害される&br;《神武王(839)即位》病に倒れ没する&br;《文聖王(839~857)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|840|||渤海、新羅からの人質や学生あわせて105名の帰国&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|846|||渤海、張保皐(弓福)の乱起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|853|||渤海、張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|857|||COLOR(green):第47代新羅王憲安王(857~861)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|857|||渤海、《憲安王(857~861)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|858|||渤海、晩霜、干害&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|859|||渤海、穀物が高騰し、国民が餓える&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|860|||渤海、憲安王、病にて没す&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|861|||COLOR(green):第48代新羅王景文王(861~875)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|861|||渤海、《景文王(861~875)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|864|||新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、日本-平安時代)};||
|864|||渤海、日本からも国使を迎える&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|867|||渤海、王都金城で疫病が流行り、洪水が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|869|||渤海、唐に王子の金胤らを派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なう&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|870|||渤海、王都が地震・洪水、冬には疫病が流行る&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|873|||渤海、飢餓と疫病が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|875|||COLOR(green):第49代新羅王憲康王(875~886)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|875|||渤海、《憲康王(875~886)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|876|||渤海、皇龍寺で百高座を設けて講義・討論を行なう&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|878|||渤海、日本からの使者を朝元殿で引見する&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|879|||新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|882|||新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|882|||渤海、日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|886|||COLOR(green):第50代新羅王定康王(886~887)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|886|||渤海、《定康王(886~887)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|887|||COLOR(green):第51代新羅王真聖女王(887~897)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|887|||新羅、《真聖女王(887~897)即位》&br;国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|887|||渤海、定康王、病死&br;《真聖女王(887~897)即位》&br;国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|888|||新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|888|||COLOR(blue):新羅、「三代目」編纂COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|892|>|>|''後三国時代(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮-後三国時代)};||
|892|||後三国時代(892年 - 936年)    新羅( - 935年)    後高句麗(894年-918年)→高麗     後百済 (892年-936年) &size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|892|||COLOR(red):''後百済(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|892|||後百済、甄萱が完山に後百済を興す&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|892||>|新羅が衰退(後三国時代へ)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|894|||後高句麗(894年-918年)→高麗&br;9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年即ち、甄萱がにCOLOR(blue):後百済を建国COLOR(black):し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|894|||''後高句麗[894年-918年]''→高麗&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|894|||RIGHT:COLOR(green):遣唐使廃止''894年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-平安時代)};||
|896|||王建,弓裔に帰服しその部将となる&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|896|||赤袴の乱.真聖女王10年,王都西部で民乱起こる&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|896|||COLOR(green):''甄萱が後百済を建国''&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|897|||COLOR(green):第52代新羅王孝恭王(897~912)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|897|||新羅、《孝恭王(897~912)即位:酒色におぼれる》&br;大規模な内乱(後三国時代)に突入しており、後百済の甄萱や後高句麗の弓裔などの勢力が急激に領土を侵食していた&br;(赤袴賊と呼ばれる集団による反乱をみる)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|900|||COLOR(red):甄萱,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|900|||COLOR(blue):甄萱、後百済建国COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|900|||9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、後百済-)};||
|901|>|>|''10世紀:長白山が過去2000年間で世界最大級の巨大噴火(半島リセット)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|901|||COLOR(blue):弓裔、後高句麗建国COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|901|||COLOR(blue):後高句麗を建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||COLOR(green):弓裔,後高句麗建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||COLOR(red):弓裔,後高句麗建国.(後三国時代のはじまり)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|901|||''後高句麗建国''&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|902|||後高句麗、弓裔が後高句麗を興す&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|904|||後高句麗、弓裔が国号を摩震とする(911:泰封と改名)&size(6){(東アジア-朝鮮、後高句麗-)};||
|906|||渤海、宰相の烏?度を唐に遣使&br;その子の光賛、賓貢に及第&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|911|||渤海、大光賛を後梁に派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|911|||弓裔,国号を泰封とする&size(6){(東アジア-朝鮮、泰封-)};||
|912|||COLOR(green):第53代新羅王神徳王(912~917)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|912|||新羅、《神徳王(912~917)即位》&br;後高句麗の弓裔、後百済の甄萱などの勢力に浸食されるだけ&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|916|||COLOR(red):契丹(遼)(916-1125)の建国&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|917|||COLOR(green):第54代新羅王景明王(917~924)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|917|||新羅、《景明王(917~924)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|918|||COLOR(red):9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、高麗-)};||
|918|||COLOR(red):王建,弓裔を追放し高麗建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||''高麗王朝[918~1392年]''&br;中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||高麗時代(918ー1392)''&br;高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||中世社会?(~1392)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-中世社会)};||
|918|||COLOR(red):COLOR(blue):王建、高麗建国COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||COLOR(red):高麗の建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||高麗、後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗(首都:開城)を建国する&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|918|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、新たにCOLOR(blue):高麗(コリョ)を建国COLOR(black):し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅、後百済、後高句麗-)};||
|918|||渤海、遼に使節を派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|919|||開城に都をおいた&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|919|||高麗,開城を都に定める&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|919|||渤海、最後の渤海使を日本に派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|920|||新羅、景明王は王建と好みを通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|922|||高麗、契丹と国交を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|923|||高麗、此の頃後梁に入朝する&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|924|||COLOR(green):第55代新羅王景哀王(924~927)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|924|||渤海、渤海軍、契丹軍(遼国)占領中の遼東に反攻&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|925|||渤海、契丹軍(遼国)、渤海の扶余府に侵攻&br;礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|926|||COLOR(red):COLOR(blue):渤海滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-)};||
|926|||渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げる&size(6){(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-)};||
|926|||COLOR(blue):渤海滅亡COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|926|||渤海、契丹軍(遼国)、上京龍泉府を攻略&br;渤海滅亡、高麗に渤海遺民が多数ながれる&br;契丹、渤海故地に東丹国設置&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|927|||新羅、COLOR(green):第56代新羅王敬順王(927~935)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|928|||渤海、東丹国、遼陽に遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|929|||渤海、東丹国使、来日&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|930|||渤海、日本との通交が絶える&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|933|||高麗、後唐の冊封を受ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|935|||高麗、朝鮮半島統一&size(6){(--)};||
|935|||高麗、朝鮮半島統一&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|935|||新羅の敬順王,高麗に投降し新羅滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、高麗、新羅-)};||
|935|||朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||COLOR(red):高麗は新羅を併合し、COLOR(blue):新羅滅亡COLOR(black):そして、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||新羅を降伏させた&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||COLOR(blue):新羅滅亡COLOR(blue):国史年表&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||高麗、新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、新羅-)};||
|935|||新羅の滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||

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