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※建国期

中華人民共和国(1949~)]
中華人民共和国(建国期,文革期,改革・開放期)
※建国期
毛沢東(1893~1976)
  字は潤之。湖南省湘潭県韶山の人。湖南省立第一師範学校卒業後、上京して北京大学図書館に働き、共産主義思想に触れた。1921年、中国共産党の結に参加。1927年南昌蜂起の失敗の後、井崗山に入ったが、共産党主流の都市労働者依拠・都市蜂起論を中国で適用する誤りを実感し、農村・農民に依拠した武装解放区闘争に転換した。1931年、瑞金中華ソヴィエト共和国臨時政府を立させ、その主席となる。国民党による江西根拠地に対する五次にわたる囲剿戦で危機におちいると、紅軍の大移動、いわゆる長征を開始した。王明・邦憲らソ連留学派との理論抗争の末、長征途中の1935年の遵義会議で、中国共産党における指導的地位を確立。陝西省延安に解放区を確立し、抗日戦と国共内戦を指導した。1943年から中国共産党主席。1949年北京を首都とする中華人民共和国立とともに国家主席。大躍進政策の失敗の後、一線を退いたが、1966年にプロレタリア文化大革命を動。劉少奇国家主席・鄧小平総書記らの実権派を打倒し、混乱の十年を招いた。『民主主義論』『実践論』『矛盾論』など著作多数。
恩来(1896~1976)
  字は翔宇。飛飛・伍豪・少山・冠生などの変名を用いた。江蘇省淮安の人。1917年、南開学校卒業後、日本に留学。1919年に帰国後、天津で五四運動に参加。翌年、勤工倹学の運動に参加し、渡仏した。1922年中国共産党に入党。欧州支部の指導的立場に立った。1924年に帰国の後、広州で黄埔軍官学校政治部主任などをつとめた。1926年に上海にいたり、武装蜂起を指導。翌年、八一南昌蜂起に参加した。1928年、党中央政治局委員に当選し、上海の地下活動を支えた。1931年に瑞金に入り、党ソヴィェト区中央局書記・紅軍総政治委員などをつとめた。1934年から長征に参加し、遵義会議では毛沢東の指導権を認めた。西安事件では蒋介石と会見して、抗日合作を協議。以後も、党内の諸派の調停や党外との外交に活躍した。抗日戦中は党中央長江局委員・宣伝部長・軍事部長・党中央南方局書記などをつとめ、また国民政府軍事委政治部副部長などの職にあった。戦後は共産党代表団を率いて政治協商会議に臨み、国共の談判に当たった。内戦中は、党中央軍事委副主席・代理総参謀長として軍を指揮した。1949年から76年まで国務院総理。政治協商会議主席・外交部長などを兼ねた。1956年から党中央政治局常務委員。1964年には「四つの近代化」を提唱。文革中は批判にさらされながらも、最高指導部にあって失脚をまぬかれ「不倒翁」の異名を取った。1976年北京で病没した。
王恩茂(1913~)
  江西省永の人。1927年、父や兄とともに紅軍に参加。1930年に共産党入党。長征に参加。解放後は、党西北局や疆省軍区のポストを歴任。文革で批判を受けて失脚したが、復活。吉林省党第一書記、中央委員、党第一書記、政治協商会議副主席などを歴任。
王炳南(1908~1988)
  陝西省三原の人。楊虎城の甥にあたる。独ベルリンに留学。帰国後、楊虎城の秘書となり、共産党と張学良・楊虎城の連絡にあたり、西安事件にも一役買った。1938年から恩来の政治秘書をつとめ、重慶に派遣される。国共和平会談では共産党代表団秘書。1955年からポーランド大使。1964年外交部副部長。文革中失脚したが、のち対外友好協会会長として復活。政治協商会議常務委員。
柯慶施(1900~1965)
  安徽省蕪湖の人。1922年共産党入党。南京市党委第一書記、江蘇省党委第一書記を経て、1955年上海市党委第一書記となる。1958年、党中央華東局第一書記となり、大躍進政策を推進した。1958年政治局員。1965年国務院副総理。
何香凝(1877~1972)
  もとの名は諫。広東省南海の人。香港の茶商の家に生まれた。日本に留学して、中国同盟会に加入し、東京女子美術学校を卒業した。1914年中華革命党に参加。1924年、国民党中央婦女部長に選出された。翌年には夫の廖仲愷が右派のため暗殺された。1928年、仲愷農工学校を広州に設置。翌年、蒋介石政権の一切の職を辞し、英仏に遊学し作画を楽しんだ。1931年、パリより帰国して、上海で「時局に対する意見」を表するなど抗日救亡に奔走した。1948年、香港で国民党革命委員会の結に参加した。翌年、政権工作に参与した。建国後、国務院華僑事務委員会主席・全国婦女連合会名誉主席・中国国民党革命委員会副主席を歴任した。1972年、北京で病没した。『何香凝詩画集』。
賀子珍(1909~1984)
  江西省永の人。永県福音中学で学んだ。1925年共産主義青年団に入り、翌年共産党に入党した。1927年永農民暴動に参加し、のち井岡山に逃れた。1928年に毛沢東の三番目の妻となる。六人の子を産んだが、人したのは李敏のみだった。長征に参加し、被弾して負傷した。1937年に負傷治療のためモスクワへおもむいた。1947年に帰国。天津や杭州で婦連工作に従事した。1949年以降は上海、ついで江西省南昌に住んだ。1979年に政治協商会議委員。1984年に杭州で病没した。
賀龍(1896~1969)
  湖南省桑植の人。幼少のころからいわゆる「土匪」として英名をあげた。1914年中華革命党に参加。鍔の反袁蜂起に呼応。1916年には塩局を襲撃。護国軍独立大隊を自称して桑植県城を攻略。八つの県を支配した。1920年には国民党軍の一旅団を編。1926年、国民革命軍第二十軍団長だったとき、共産党に入党。南昌蜂起に参加。1935年、第二方面軍総指揮として長征に参加。抗日戦争では、八路軍第百二十師師長。国共内戦では、西北軍区司令員として活躍。解放後は、人民解放軍帥のひとりとなる。国務院副総理、国家体育運動委員会主任を歴任した。文革が始まると、羅瑞卿に同情的として攻撃を受け、迫害の末に死去した。
郭沫若(1892~1978)
  本名は郭開貞。字は鼎堂、号は尚武。四川省楽山の人。1914年日本に留学し、六高を経て、1923年福岡医科大学を卒業した。在学中、五四運動に刺激を受けて、郁達夫・田らとともに創造社を結。芸術主義を標榜して文学創造の運動をはじめた。1925年、広東中山大学院院長となった。のち武政府に入り、中国国民党に入った。北伐・南昌蜂起に参加。のちに日本に亡命して、中国古代社会史の研究に従った。1937年、抗日戦争がはじまると日本を脱出し、上海へ。翌年、香港を経て武に入り、国民政府の軍事委員会政治部第三庁長として宣伝活動に従事した。重慶にうつり、左派文化人に対する抑圧がひどくなると、第三庁長をやめ、歴史劇を通じて政治腐敗を批判した。戦後は政治協商会議に無党派代表として出席し、内戦反対と民主政府樹立を訴えた。中国建国後、国務院副総理・中国科学院院長・全国文学芸術連合会首席を歴任した。北京で病没した。作家・詩人・劇作家・歴史学者・古代文学研究者として知られる。『中国古代社会史研究』、『卜辞通纂』、『わが幼年』、『牧羊哀話』など著作多数。
許世友(1905~1985)
  河南省の人。修行僧として武芸に励み、1927年共産党入党。1954年南京軍区司令員、1969年政治局員、1974年広州軍区司令員。
許広平(1898~1968)
  広東省広州の人。没落した官僚の家に生まれ、1911年にマカオにうつった。1917年天津第一女子師範学校科に入った。1919年の五四運動で、天津学生連合会に参加した。1923年北京女子高等師範学校国文系に入り、迅の教えを受けた。1926年、広州女子師範学校で教えた。翌年、迅が広州中山大学に赴任してくると、その下で助教をつとめた。のち上海にうつり、迅と結婚。文筆活動を助けた。迅の死後は命の危険をおかして租界にとどまり、迅の遺稿を保護し、全集の編纂を進めた。1941年冬、日本軍に逮捕されたが、転向を拒否した。出獄後、上海の地下運動を支えた。中国建国後、政務院副秘書長となり、全国民主婦女連合会副主席・全人代常任委員などを歴任した。北京で病没した。『両地書』、『遭難前後』、『迅回憶録』。
饒漱石(1903~1975)
  江西省臨川の人。上海大学卒業。1925年共産党入党。1929年、東北地方に入り、省委書記などをつとめた。1935年、ソ連に赴き、赤色職工国際代表に選ばれた。抗日戦中は、党中央委員・党華中局副書記・四軍政治委員代理などをつとめた。1953年、党中央組織部長に任ぜられた。1955年、反党連盟共謀のかどで高崗とともに告され、投獄を受け党籍を奪われた。1975年、病没した。
黄華(1913~)
  本名は王汝梅。河北省磁県の人。京大学で学生運動で活動し、1935年の一二・九学生運動に指導的役割を果たした。1936年共産党入党。エドガー・スノーと毛沢東の会見を通訳した。1939年から延安の外交部に入り、国共和平会談、朝鮮戦争休戦交渉、ジュネーブ会議などで手腕を揮した。国連初代常駐代表・外交部長・国務院副総理・全人代副委員長を歴任した。
黄敬(1911~1958)
  本名は兪啓威、デビット兪ともいう。浙江省紹興の人。1932年共産党入党。1935年の一二・九学生運動に指導的役割を果たした。解放後、天津市長・国務院第一機械工業部長・国家技術委主任を歴任するが、毛沢東に批判されて解任された。
高崗(1891~1954)
  陝西省横山の人。劉子丹らとともに共産党の西北遊撃戦基地を建設した。解放後、党中央東北局書記・中央人民政府委員会副主席・政治局員を歴任した。饒漱石とともに反党連盟共謀のかどで告され、自殺した。スターリンの後援で、東北地方に独立国を作ろうとしたというが詳細不明。
伍修権(1908~)
  湖北省武昌の人。モスクワの東方大学で学び、帰国後は上海の復旦大学教授となる。1950年、国連への北京代表として姿を現わし、アメリカをベトナムの侵略者と非難した。文革がはじまると、彭真の一味と批判されて失脚するが、1975年に全人代常務委員・軍副総参謀長として復活した。党中央委員・党中央顧問常務委員・北京国際戦略問題学会長などを歴任した。
玉章(1878~1966)
  本名は永珊、号は樹人。四川省栄県の人。日本に留学し、中国同盟会に参加した。1911年に帰国して、辛亥革命に参加した。1922年、都高等師範学校校長となった。1925年共産党入党。1927年に訪ソ。抗日戦争中は、迅芸術学院院長・延安大学校長をつとめた。解放後、中国人民大学の校長となり、字ラテン化・文盲一掃運動などに尽力した。全人代常任委員。『辛亥革命』。
亮平(1908~1986)
  浙江省奉化の人。廈門・大夏両大学に学び、五・三〇事件に参加。モスクワの東方大学で学び、中国共産党支部に入った。上海で地下活動に従事するかたわら、エンゲルスの著作を翻訳した。1931年、上海で投獄されたが、出獄後は江西ソヴィエトに入り、林彪の政治部で活動した。解放後、交通部長・全国政治協商会議常務委員・党中央顧問委員会常務委員などを歴任した。
朱徳(1886~1976)
  もとの名は代珍。字は玉階。四川省儀隴の人。客家の貧農の生まれ。席国珍により式の教育を受けた。1909年、雲南陸軍講武学堂に在学中に中国同盟会に参加。辛亥革命では鍔の下で雲南の武装蜂起に加わった。鍔の死後、軍閥との抗争に敗れて上海、次いでヨーロッパに渡った。1922年にベルリンで恩来に会い、共産党に入党。1925年にソ連に渡り、東方大学で学んだ。1927年、南昌蜂起に参加した。翌年、工農革命軍第一師師長、毛沢東と合流して第四軍軍長となった。井崗山に上って、紅軍第一軍団長・紅軍第一方面軍総司令。1930年、紅軍総司令となる。毛沢東の「三つ目の腕」として、ともに転戦した。長征に参加して、左路軍総指揮などをつとめた。抗日戦時は、八路軍総司令・第二戦区東路総指揮となり、対日戦争を指揮した。内戦期にも中央軍事委副主席・解放軍総司令として軍事面を指導した。建国後は、人民政府副主席・国家副主席・人民解放軍総司令。人民解放軍帥のひとりとなる。1956年から党中央委副主席・政治局常務委員。文革がはじまると紅兵から攻撃されたが、失脚はまぬかれ政治局員にとどまった。『朱徳選集』。
聶栄臻(1899~1992)
  四川省江津の人。1920年に渡仏し、軍需工場で働き、またベルギーの労働大学で学んで、共産党に加入した。帰国後、黄埔軍官学校政治部書記・葉挺師団政治委員などをつとめる。南昌蜂起や広東コミューンに参加。1936年紅軍第一軍団参謀。解放後、人民解放軍の帥のひとりとなる。国務院副総理・国防委員会副主席などをつとめる。文革で批判を受けたが、林彪の死後に復活。高齢のため1987年にすべての職を辞任。1989年の天安門武力弾圧には反対していたと伝えられる。
簫勁光(1903~1989)
  湖南省長沙の人。1920年上海で社会主義青年団に参加。モスクワの東方大学で学び、帰国後は黄埔軍官学校の幹部候補生・教官となり、北伐に参加した。国共合作崩壊後、ソ連の赤軍大学に留学。帰国後、閩軍区参謀長・同政治部主任・中央軍政大学校長・紅軍第五軍団政治委員・第十一軍政治委員などをつとめた。抗日戦中は後方留守処主任・留守兵団司令などに任ぜられた。国共内戦では、東北民主連軍副司令・参謀長となり、功績を挙げた。1950年初代海軍司令官、1955年人民解放軍大将となる。文革では批判を受けながら地位を保った。1979年全人代副委員長。1982年党中央顧問委員会常務委員。1989年北京で病没した。
蕭華(1916~1985)
  江西省興国の人。紅軍に教育を受けて育った。1930年共産党に入党。のち紅軍総政治部青年部長・第一方面軍政治部組織部長・第一方面軍第二師政治委員などをつとめ、長征に参加した。抗日戦中は、八路軍一一五師政治部主任・山東軍区政治部主任。内戦時は、党中央東北局委員・東省委書記・第四野戦軍特種兵司令員・第十四兵団政治委員。建国後、人民解放軍総政治部主任・党中央軍事委委員・党甘肅省委書記などを歴任した。1961年党軍事委副書記。文革がはじまると、1967年全軍文革小組副組長となるが、同年失脚。1975年軍事科学院第二政治委員として復活。1983年全国政治協商会議副主席をつとめた。
邵力子(1881~1967)
  浙江省寧波の人。上海震旦学院を卒業。共産党結に参加したが離党。1923年中国国民党青年同志会を設立した。上海大学副校長となる。1925年黄埔軍官学校政治部主任。翌年国民党中央監察委員。1931年甘粛省主席。1933年陝西省主席に遷る。1937年中央宣伝部長。1940年駐ソ大使。日中戦争後の国共の連合政府を支持し、政治協商会議の組織化を支援した。内戦により共産軍に投降し、国民党を除名された。全人代常務委員・国民党革命委員会中央常務委員をつとめた。
徐向前(1901~1990)
  本名は徐象謙。字は子敬。山西省五台の人。1924年黄埔軍官学校に第一期生として入学した。1927年共産党に入党し、広州蜂起に参加した。1931年以降、張国燾の下で第四方面軍に属して鄂皖地方を転戦した。長征の中途で第四方面軍は自ら兵力を分断したため、黄河を渡ろうとしたとき、徐向前の軍はみじめに敗北した。だが張国燾が責任を追及されたとき、かれは失脚を免れた。抗日戦では山東省に遊撃戦根拠地をきずき、国共内戦では山西の省都・太原を解放した。解放後は、人民解放軍帥のひとりとなる。1966年党中央軍事委員会副主席。1967年人民解放軍文革小組主任となるが、「二月逆流」の首謀者とされて追求された。1968年から翌年にかけて北京機関車車両工場で労働に従事した。1975年に復活して全人代常務委副委員長。1978年国務院副総理・国防部長。『歴史の回顧』。
徐特立(1877~1968)
  湖南省長沙の人。数学を独学するかたわら教師となる。湖南第一師範学校で毛沢東らに教えた。1919年渡仏したが、中仏研究所を占拠した学生集団に加わり、追放される。湖南にもどり、1927年に共産党入党。翌年にはソ連へ留学した。1931年中華ソヴィエト政府の教育部副部長をつとめた。1934年長征に参加したときは最長老で、中央工作団副主任となる。1936年陝北政府の教育部長。抗日戦時は八路軍高級参議駐湘弁事処代表。建国後は、中央人民政府委員。1954年以降、全人代の常務議員として、政治・文化の広い分野で活動した。毛沢東は彼を評して「最も尊敬する大切な教師」と呼んだ。1968年北京で病没した。
徐冰(1903~1972)
  河南省の人。ドイツに留学し、1920年ベルリンで共産主義青年団に加盟した。モスクワの東方大学で学び、帰国。北京の大学教授となる。1949年より北京副市長・党中央委統一戦線工作部副部長をつとめる。文革のとき指弾され、獄中死した。
慶齢(1893~1981)
  広東省文昌の人。耀如(チャーリー・スーン)の次女。母は倪桂珍。靄齢の妹、子文・美齢の姉にあたる。上海に生まれた。中西女塾で学び、米ウエスレイアン大学に留学した。1914年、日本で孫文と結婚した。1916年、帰国。1925年、孫文の死後、五・三〇事件に抗議した。国民党左派で容共的立場をとり、1927年の上海クーデターに反対し、武政府を支持したが国共合作が崩壊して挫折した。モスクワ、次いでベルリンにおもむき、中国革命への支援を要請。帰国後、蒋介石政府に反対して、中国民権保障同盟を組織した。抗日戦中、香港にうつり、保中国同盟を設立して抵抗。内戦がはじまると、アメリカの軍事支援に反対した。中国建国後も大陸に残り、1949年国家副主席となる。婦人運動や子女の保護、教育の分野で指導的地位に立った。1981年死去の前日に名誉国家主席職を与えられた。「中国の良心」と呼ばれた女性。
粟裕(1904~1984)
  湖南省会同の人。1926年共産主義青年同盟に加入。翌年南昌蜂起に参加した。1932年から、方志敏の下で紅軍第十軍団の参謀長を務めた。方志敏の死後、毅の部隊に合流し、1937年四軍に編入されて、第一師団師団長・政治委員となった。以後、毅の副官として行動を共にした。国共内戦では、華東野戦軍司令員代理・政治委員代理・第三野戦軍司令員をつとめる。1954年人民解放軍総参謀長。1966年党軍事委員。1980年全人代副委員長。1982年中央顧問委員会常務委員。
譚平山(1886~1956)
  字は誠斎、号は鳴谷。広東省高明の人。若くして中国同盟会に加入した。1920年北京大学文科を卒業。翌年、共産党に入党して区執行委首任書記となった。1924年以後、国民党に入党して、執行委常任委員となり、国共合作に尽力した。しかし1927年に国民党を除名された。のち香港から欧州に渡った。抗日戦が勃すると帰国し、国民党籍を回復して国民参政会参政員などをつとめた。中国建国後は、中国国民党革命委員会に参加し、1956年には中央委副主席となった。北京で病没した。
譚震林(1902~1983)
  変名で林俊とも称した。江西省攸県の人。1926年共産党に入党。翌年の秋収蜂起以来、毛沢東に従った。王明・邦憲らに反対して、毛の軍事思想を支持した。長征・抗日戦に参加。1943年四軍第六師師長・政治委員をつとめた。国共内戦では華東の人民解放軍を指揮した。建国後、浙江省・江蘇省の人民政府主席を歴任。1966年国務院副総理・党中央委書記局員。文革中は紅兵の攻撃を受け、失脚したが、1973年党中央委員に返り咲いた。1975年党中央委副委員長。1982年中央顧問委員会副主任。翌年、北京で病没した。
張鼎丞''''(1895~1981)
  福建省永定の人。小学校の教師だった。広州農民講習所に入所していた1926年に、共産党入党。故郷で農民運動を組織した。1928年沙蜂起を指導。西部福建ソヴィエトの主席となる。長征の間、福建にとどまり、毅や粟裕を後方支援。1940年から延安の党学校で教団に立つ。1949年毅の下で華東人民解放軍および第三野戦軍の副参謀長。1954年全人代代表・最高人民検察院検察長。文革中は福建省党委員会書記にとどまった。1974年から全人代副委員長。
張瀾(1872~1955)
  四川省の人。都大学学長。1941年民主同盟の主席となり、中国の民主化、民族統一戦線に尽力した。解放後、国家副主席に選出された。
寅恪(1890~1969)
  江西省義寧の人。三立の子。長沙で生まれた。南京にうつって、家塾に通い、王伯沆に師事した。経史や哲学書を読みふけった。1902年、日本に留学して巣鴨の弘文学院で学んだ。1905年、帰国して上海の復旦大学へ。1910年以後、官費で独・スイス・仏に留学した。第一次大戦が起こると帰国。1918年、江西省の官費で米ハーバード大学に留学し、サンスクリットを学ぶ。1921年、独ベルリン大学で東方古文字学やモンゴル語を学んだ。1925年、帰国して華国学研究院で講師となった。1928年、華大学中文歴史系教授となり、北京大学も兼務した。抗日戦がはじまると、重慶にうつり、西南連合大学で南北朝史・史・白詩などを講義した。1939年、オクスフォード大学の招聘を受けたが、渡航できず、香港大学で教えた。香港が陥落すると、桂林・都を転々とした。戦後、華大学にもどった。1948年、広州嶺南大学。1952年、中山大学教授。1960年、中央文史研究館副館長。1969年、広州で病没した。『南北朝史講演録』、『代政治史述論稿』、『白詩箋証稿』など。
(1905~1995)
  廖雲。江蘇省浦の人。はじめ上海商務印書館の植字工として働いていた。1925年の五・三〇運動に参加し、共産党入党。1934年党中央政治局常務委員・白区工作部長となり、長征に参加した。翌年、党国際代表団に加わり、ソ連へ。1937年に帰国して延安へ、党中央組織部長となり、経済・財政面の仕事に従事した。1945年から党東北局副書記・東北軍区副政治委員などをつとめ、東北地方で内戦の指導にあたった。建国後、中央人民政府委員となる。1954年国務院副総理となった。文革中、劉少奇との交友を批判されて、冷遇された。1978年党中央委副主席として復活した。1979年国務院副総理。改革・開放路線には批判的で、計画経済の維持と鳥籠経済理論を提唱した。八十年代、保守派の代表人物とみなされた。1992年すべての公職から退いたが、影響力は保持した。『雲文集』。
(1901~1972)
  字は仲弘。四川省楽至の人。1919年勤工倹学の運動に参加し、渡仏。帰国後の1923年、国民党ならびに共産党に入党。1927年葉挺の幕僚として南昌蜂起に参加、失敗後に朱徳とともに敗軍を率い井崗山にのぼる。長征の間は項英とともに後方にとどまった。皖南事変後、四軍軍長代理となる。国共内戦では華東野戦軍司令員・政治委員をつとめた。解放後、人民解放軍帥のひとりとなる。1949年上海市長。1954年国務院副総理・国防委員会副主席となる。1958年外交部長。文革がはじまると、紅兵による迫害を受け、1969年工場労働に従事した。翌年、癌治療のため北京に戻った。
錫聯(1913~)
  湖北省紅安の人。1930年共産党入党。人民解放軍砲兵司令員・瀋陽軍区司令員・寧省党地方委第一書記を経て、北京軍区司令員・国務院副総理・政治局員となる。毛遠や四人組との親密な関係から、1980年に辞任したが、軍の長老として生き残った。
丁玲(1904~1986)
  本名は蒋冰之。湖南省臨澧の人。北京大学および上海大学で学んだ。婦人作家として左翼作家連盟の一員となる。同じく作家の胡也頻と結婚。1931年共産党入党。1933年に南京で国民党官憲によって夫婦ともに逮捕され、夫は処刑された。三年後釈放されると南京を離れ、延安に逃れた。1950年中央文学研究所主任。1952年「太陽は桑乾河を照す」はスターリン賞を得た。1957年右派・反党の宣告を受けた。誤りを認めず、除名され、人民公社に送られた。文革中には五年間投獄された。1979年名誉回復。1982年中国文学芸術団体連合会副主席。1984年『中国文学』誌を創刊したが、彼女の死後廃刊となった。
鄧潁超(1904~1992)
  湖南省信陽の人。恩来らとともに、勤工倹学の運動に参加し、渡仏。1924年帰国して共産党入党、恩来と結婚。1927年南昌蜂起に参加。江西ソヴィエトでは婦人労働部を指導。長征の途中で肺を病み、北京で療養。日本軍の北京占領のとき、エドガー・スノーらと脱出した。解放前も解放後も婦人組織の指導者として活躍。1955年以降全人代常務委員会委員。1978年政治局員。1983年政治協商会議主席。1988年全職務より退くが、総理・李鵬の後ろ盾といわれた。
鄧子恢(1896~1972)
  福建省竜岩の人。日本で短期間学び、教師になる。1925年国民党に入党。翌年共産党入党。江西ソヴィエトでは朱徳・張鼎丞とともに活動。長征の間、福建にとどまり、遊撃戦を展開した。抗日戦時には、四軍政治部主任・四軍第四師政治委員をつとめた。内戦時は、党華中分局書記・華中軍区政治委員。1953年党中央農村工作部長、翌年国務院副総理となる。毛沢東の農業集団化路線に公然と反対した。農村工作部は解散させられ、政治協商会議に左遷された。文革中迫害を受けて、1972年北京で病逝した。1981年名誉回復された。
鄧拓(1912~1966)
  筆名は馬南邨。福建省閩侯の人。1930年共産党入党。ジャーナリスト・作家として活躍し、左翼社会科学作家連盟に参加した。1937年『察冀日報』社長。北平解放後、市委宣伝部部長。1950年、『人民日報』社長・編集長となる。文革動直前に随筆「山夜話」「三家村札記」を毛沢東に名指しで批判され、迫害の中で服毒自殺した。
陶鋳(1906~1969)
  湖南省祁陽の人。1926年に黄埔軍官学校に入学し、同年のうちに共産党に入党した。南昌蜂起・広州蜂起に参加した。1929年より党福建省委秘書長・福建省委組織部長・福州市委書記などをつとめた。1933年に国民党に逮捕されたが、1937年に釈放された。抗日戦中は党湖北省委常任委員や四軍鄂豫支隊の政治委員などをつとめた。内戦中は、党寧省委書記や東北野戦軍の政治委員などをつとめた。建国後、広東省党地方委第一書記・党中央政治局常務委員・党中央華南局書記を経て、国務院副総理となるが、文革で批判を受け、1967年に失脚した。自宅軟禁中に癌で病死。1978年名誉回復。
董必武(1886~1975)
  名は賢琮、号は璧伍。湖北省黄安の人。1911年口蜂起に参加し、孫文の中国同盟会に加入した。1913年袁世凱に反対して日本に亡命。法政大学に学び、孫文の側近のひとりとなる。1921年、上海で中国共産党の結に参加。武地委書記、湖北省委委員。国民党にも加入し、国共合作では連絡役をつとめた。1927年の反共クーデターで上海から逃れ、ソ連に渡る。東方大学で学び、帰国後は江西省で党学校の校長となる。遵義会議では毛沢東を支持。長征後は、陝甘寧辺区政府代理主席。抗日戦争中は恩来とともに重慶で工作。戦後は連合政府樹立交渉の一員として国民党と交渉。解放後の1954年には、最高人民法院院長。1959年国家副主席。
(1904~2005)
  本名は李堯棠。字は芾甘。四川省都の人。生家は没落した地主で、中学進学も許されなかった。『青年』などの思想に触れて、とくにアナキズムに傾倒した。1927年、仏に留学して、サッコ、ヴァンセッティー救援運動に参加し、さらに社会矛盾への怒りを深めた。1929年、帰国して、中編『滅亡』で作家としてデビュー。1930年代に『激流』三部作で小説家としての地位を確立した。抗日戦争中は戦火を避けて、各地を転々とし、社会の底辺で暮らす人々をスケッチした(『小人小事』)。戦後も『第四病室』『寒い夜』など名作を表した。文革で批判されたが、1977年に名誉回復。中国作家協会主席となった。その後も多くのエッセイを表した。エスペラント学者としても著名。2003年、国務院により人民作家の栄誉称号を与えられた。晩年はパーキンソン病や慢性気管支炎などを患った。2005年、上海華東医院で逝去した。
梅蘭芳(1885~1961)
  本名は瀾。北京の人。京劇の女形として舞台で活躍し、国際的名優として知られた。抗日戦時は、髭をたくわえて、対日協力を拒否した。解放後は、中国京劇院院長となる。京劇を諸外国に紹介し、京劇の現代化に尽力した。
薄一波(1908~2007)
  本名は薄書存。山西省定襄の人。1925年共産党入党。太原や天津で工作にあたった。1931年、北京で逮捕、投獄された。1936年、釈放された。抗日戦争期は山西で「犠盟会」を組織した。また抗日期・内戦期を通じて、華北遊撃戦地域で党政治委員として活躍。1949年財政部長。1954年国家建設委員会副主任。1956年国務院副総理・国家経済委員会主任。文革中に劉少奇に近しいとして迫害を受けたが、1978年名誉回復された。翌年国務院副総理となり、老として力を振るった。1982年党中央顧問委員会副主任。1987年、胡耀邦総書記と対立して、胡氏の辞任を促した。1989年の天安門事件では、武力鎮圧を主張したとされる。2007年、北京で死去した。
茅盾(1896~1981)
  本名は沈徳鴻、字は雁冰。浙江省桐郷の人。1916年、北京の大学科を卒業。上海の商務印書館に就職した。『小説月報』編集長となり、誌面の改革と海外文学の紹介を進めた。また文学研究会を設立して上海文壇の形と作家の育につとめた。1927年「幻滅」で作家としてデビュー。1933年に『文学』を創刊。迅らとともに左翼作家連盟を支えた。抗日戦争中は、重慶で活躍した。解放後は北京にうつり、文化部長・作家協会主席をつとめた。代表作は『蝕』、『虹』、『子夜』などで、中国リアリズム文学の旗手として高く評価された。
彭真(1902~1997)
  本名は傅懋恭。山西省曲沃の人。山西省第一中学卒。1923年共産党入党。劉少奇の下で活動し、石家荘・天津の労働者争議を指導した。1929年に天津で逮捕され、1935年に出獄。翌年、党北方局代表。1937年、延安に行き、党全国代表会議に参加。翌年、党中央察冀分局書記。1939年から党学校で教える。1945年から党中央政治局員。1949年北京市党委第一書記。1951年から北京市長。1960年代に入って中ソ論争で活躍した。文革では、劉少奇の一派とみなされて失脚。十年間、陝西省の山村に家族とともに移された。1979年名誉回復され、全人代副委員長、党中央政治局員。1983年全人代常務委員長。1988年高齢のためすべての役職から退いた。
彭徳懐(1898~1974)
  もとの名は彭得華。湖南省湘潭の人。1916年、湘軍に参加。1922年、湖南陸軍軍官講武堂に入学。北伐に参加し国民革命軍の営長・師長をつとめた。上海クーデター後、国民党に見切りをつけ、1928年共産党入党。紅軍第五軍を率いて湘鄂贛地区を転戦し、井崗山で朱徳・毛沢東らの紅軍第四軍と合流した。長征にも参加。抗日戦中は、朱徳の下で八路軍副総司令をつとめ、華北抗日根拠地を築いた。国共内戦では、第一野戦軍司令員・西北辺区副司令などをつとめた。建国後、党中央西北局第一書記となり、また人民解放軍の副総司令に任ぜられ、帥のひとりとなる。朝鮮戦争のとき、義勇軍の総司令となり、援朝戦を指揮した。1954年国務院副総理・国防部長となる。1959年の盧山会議で、毛沢東の「大躍進」政策を批判して失脚。1966年に投獄されて、八年後に北京で獄中死した。1978年名誉回復された。
葉剣英(1897~1986)
  もとの名は宜偉。字は滄白。広東省梅県の人。1922年国民党に参加、翌年黄埔軍官学校の教官となる。1924年共産党入党。南昌蜂起や広州蜂起に参加。のち、独・ソ連に留学した。帰国後、江西ソヴィエトや長征に参加。抗日戦争のときは、軍弁事処主任。1946年人民解放軍総参謀長。1949年華南軍区司令・党華南分局第一書記。解放後、人民解放軍の帥のひとりとなる。1950年政治局常務委員。1962年国防委員会副主席。文革中は批判を受けた。1971年党中央軍事委員会副主席に復帰。1973年党中央副主席。1975年国防部長。毛沢東の死後、四人組の逮捕に主導的役割を演じた。1978年全人代常務委員長。
洛甫(1900~1976)
  張聞天。江蘇省の人。五四運動に参加。1921年カルフォルニア大学に留学。1926年モスクワの東方大学で学び、パベル・ミフに教育された「二十八人のボルシェヴィキ」のひとりとなる。帰国後、毛沢東の農村革命路線に反対した。1935年政治局総書記。遵義会議で毛沢東を支持し、党総書記となる。解放後の1949年、初代駐ソ大使。1956年の盧山会議で、彭徳懐反党集団の一員と批判されて失脚した。文革がはじまると、攻撃、迫害され、無錫で監禁中に死去した。1979年名誉回復された。
羅瑞卿(1906~1978)
  四川省南充の人。黄埔軍官学校卒業後、1928年共産党入党。翌年から紅軍に参加し、第四軍に属した。朱徳と毛沢東に従って井崗山に登った。長征中は保局局長などをつとめる。抗日戦時は、抗日軍政大学で教育長・副校長をつとめ、教鞭を取った。また八路軍野戦政治部主任となった。内戦時は、察冀野戦軍政治委員・華北軍区政治部主任など。建国後、公安部長となる。1959年人民解放軍総参謀長・国務院副総理となるが、文革直前に失脚。紅兵から暴行を受けて、足を切断された。1975年名誉回復。1977年党中央軍事委常務委員・秘書室長。1978年西独で手術を受けた後、死亡した。
陸定一(1906~1996)
  江蘇省無錫の人。上海交通大学卒業。ソ連に留学し、1925年共産党入党。1954年党中央宣伝部長。1959年国務院副総理。1965年文化部長。文革がはじまると、彭真の協力者として迫害された。1978年名誉回復。1982年党中央顧問委常務委員。「改革・解放」を積極的に支持した。
李井泉(1909~1989)
  江西省臨川の人。広州の農民講習所で講義を受けた。1930年共産党入党。長征に参加し、第二方面軍第四師政治委員などをつとめた。抗日戦争では、モンゴル国境地域で遊撃戦を指揮。内戦期には党中央綏分局書記・軍区政治委員となる。建国後は党四川省委第一書記・四川省軍区政治委員・四川省政府主席などを歴任。1956年党中央委員。1961年党中央西南局第一書記。文革中、攻撃を受けて失脚。1975年全人代副委員長。1982年党中央顧問委員会常務委員。1989年北京で病没した。
李富春(1900~1975)
  湖南省長沙の人。1919年、勤工倹学の運動に参加し、渡仏。1921年共産主義青年団に参加。翌年には仏で共産党に入党。1924年ソ連で学んだ後、帰国。北伐に参加。1927年党江西省委代理書記。上海クーデターの後、上海の地下活動を支えた。1931年には江西根拠地に入り、党江西省委書記・江西軍区政治委員となる。長征に参加して、紅軍総政治部副主任・代理主任。1936年陝西・甘肅・寧省党委書記。抗日戦中は、党中央秘書長・中央組織部副部長・中央財政経済工作部部長など。1945年高崗とともに東北に派遣された。内戦中は、党中央西満分局書記・東北局副書記・東北人民政府副主席。1950年重工業部長。1954年国家計画委主任。文革で攻撃されたが、党中央委員として残った。1972年国務院副総理として復活した。1975年北京で病没した。
李立三''''''''(1899~1967)
  本名は李能至。湖南省醴陵の人。1919年、勤工倹学の運動に参加し、渡仏。1921年共産主義青年団に参加。翌年共産党入党、帰国。1924年上海総工会書記。翌年五・三〇運動を指導。世界労連委委員。上海や南昌での蜂起を指導。コミンテルンの指導のもと、労働者組織を統率した。都市蜂起・労働者路線を取り、農民革命を主張する毛沢東と敵対した。二回にわたる長沙攻撃は失敗に終わった。1930年以降、コミンテルンに査問され、政治局から追放。党内の指導者の地位を、王明・邦憲らに取ってかわられ、ソ連にとどまった。1945年、中国共産党に復帰。1948年中華全国総工会第一副主席。1949年党中央委交通政治部主任。1962年党中央華北局書記。
劉伯承(1892~1986)
  四川省開県の人。辛亥革命で戦い、重慶軍政府に参加した。1914年中華革命党に入党。数多くの戦闘で片目を失明。「独眼竜」と呼ばれた。1926年共産党入党。翌年南昌蜂起に参加し、失敗して逃亡。ソ連の赤軍軍官学校に留学。帰国後、江西に入り、中央革命軍事委総参謀長。長征に参加。抗日戦争では、八路軍第一二九師指揮。国共内戦時には第二野戦軍司令員。解放後、人民解放軍の帥のひとりとなる。全人代常務委副委員長。党軍事委委員。
劉漱溟(1893~1988)
  北京の人。1917年、培の招きで北京大学でインド哲学を講じた。1930年代から儒教理念に基づき、山東省鄒平県で郷村建設運動を指導した。共産党に反対し、郷村自治連合による農本主義を主張した。中国民主同盟に参加。土地改革にも加わった。1953年に毛沢東に批判されて、沈黙を余儀なくされた。儒家のひとり。
林伯渠(1882~1960)
  名は祖涵、号は邃園。湖南省臨#&X6fa7;の人。1904年に日本に留学して、翌年中国同盟会に参加。辛亥革命後に湖南都督府科長・湖南護路軍司令秘書官を歴任した。1921年上海で中国共産党の設立に尽力した。1927年、南昌蜂起の失敗後、ソ連に留学。1933年江西根拠地に入り、ソヴィエト政府の国民経済部長・財政部長。翌年から長征に参加。抗日戦中は陝甘寧辺区政府主席となった。建国後、政府秘書長・全人代常務委副委員長などをつとめた。ほか字ローマ字化などの国語改革につとめた。1960年北京で病没した。『林伯渠日記』。
老舎(1899~1966)
  本名は舒慶春、字は舎。北京の人。満洲正紅旗の出身。父が1900年の八カ国連合軍の北京侵攻のときに戦死して、貧苦の中を母に育てられた。京師第三中学を中退。北京師範学校を卒業。五四運動の影響を受けて、教員をしながら白話小説の習作をはじめた。1924年、渡英してロンドン大学東方学院の中国語教師になった。『老張の哲学』『子曰』などを書いて、ユーモアと風刺の作風を確立した。帰国後は大学の助教授、ついで山東大学の教授となった。抗日戦争中は文芸界の抗日統一戦線を図り、宣伝活動に従事した。戦後、渡米したが、中国立とともに帰国。中国作家協会理事をつとめた。1966年に文革で批判を受け、北京北西の太平湖で死体が見された。自殺とも他殺ともいう。1978年に名誉回復された。『四世同堂』、『茶館』、『駱駝祥子』など多数。
ウランフ(1906~1988)
  烏蘭夫。名は雲沢。内蒙古の人。1927年中国共産党入党。ソ連に留学。延安で抗日軍政大学教育長をつとめる。1947年に内蒙古自治政府首席。1954年に全人代内蒙古代表。1956年党中央委委員・国務院副総理。文革で民族分裂を画策したとして批判され、失脚した。1973年に復活した。1983年から88年まで国家副主席をつとめた。
↓次の時代=中華人民共和国-文革期

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