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「日下」と「日本」(Historical)

倭国と日本(Historical)

5.「日下」と「日本」

以上の各史料に語られる、「倭国」「日本」を整理すれば、「日本」をもって、「九州王朝」と見なすべき史料は存在しないことになる。(『日本書紀』本文において、「」を「日本」に書き換えたと見なされるものは別)

したがって、古田の言うように「九州王朝が日本を名乗った」とは考えられないのである。ところが、記紀に見えるように、また、後世の我々の一般的な語法(「和歌」「和食」「和風」「和服」などの熟語の使用)からも、「」をもって「天皇家の王朝」を指す場合があることが判っている。(「和」は「」の代用。「大」→「大和」)その始まりは、『万葉集』によれば、天智天皇以降である。

さて、以上を踏まえた上で、『旧唐書』『新唐書』の記載を振り返ろう。

   (い)倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す<旧唐書、日本伝>
   (ろ)日本は旧小国、倭国の地を併す<旧唐書、日本伝>
   (は)後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す<新唐書、日本伝>
   (に)日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す<新唐書、日本伝>

(い)と(は)は、中国側にとっての国号転換をあらわしている。大まかに言えば「白村江」以降「太宝」以前である。このように見た場合、次のような見方が可能だ。

   1.「倭」=九州王朝の時代が連綿と続いていた。
   (この間、天皇家は自立を始め「日本」を称したと見られる。→「百済本記」)
   2.白村江以降、天皇家(天智か)がこれにとってかわり、「倭国」を継承した。(「倭国」=天皇家)
   3.天皇家は「倭国」という「倭人統一の国号」を捨て、「日本」に換えた。(文武や持統の頃)

これが、平明かつ自然な推移ではないか。したがって、(い)と(は)の「倭国」は、天皇家そのものを指しているのである。また、(ろ)は、上記2の経緯を述べたものだ。もともと、「倭国」の一部に過ぎなかった「日本」=天皇家が「倭国」=九州王朝を併呑したと言うのである。

ところが、これでも未だ(に)は釈然としない。もともと、天皇家は九州王朝の一端にいた。したがって、「天皇家が九州王朝に併呑された」という記載は、しっくり来ないのである。勿論、「一旦自立した天皇家を再び吸収した」という経緯が無かったとは思わないが、その記述としても、何かしっくり来ないのである。「」に併呑された「日本」とは、いったい、何を意味するのであろうか。(に)の文を詳細に見てみれば、

「小国日本」=(不明)
」=天皇家、或は九州王朝
を改称した日本」=天皇家

であって、九州王朝の一端としての天皇家によって併呑された国、それが、「日本」である。だとすれば、「小国日本」にあたり得るのは、「銅鐸の王朝」以外に無い。

このように考えた場合、注目されるのは、「日下」という地名である。これは、神武が、長髄彦と始めて戦い、敗れた地である。(書紀では「草香」)いかに素直に読んでも、「日下」を「くさか」とは読めない。また、「くさ」に「太陽(日)」の意味があるのかも、不明である。『日本書紀』においては、「日本」に対し、

   日本、此をば耶麻騰と云ふ。下皆此に効へ<神代紀、訓注>

とあって、「日本」の字面を「やまと」と読め、と明示するが、「日本」を「やまと」と読むのと同じ位、「日下」を「くさか」と読むのは難しいと思うのであるが、いかがだろうか。(古事記には、

   亦、姓に於て日下を玖沙訶と謂ひ・・・本の随に改めず。<古事記序文>

とあって、「日下」=「くさか」の表記が古いことを示している)

また、『三国遺事』延烏郎・細烏女説話における、「日本」が「銅鐸の王朝」をさす可能性があることは、前述したとおりだ。

さらに、後世の例になるが、室町時代に安倍・安東氏が、自らを「日ノ本将軍」と称した。彼等は、蝦夷の血を引く者である。また、「蝦夷」=「日本」「日下」を主張する中世・近世文献は数多く見うけられる。(いわゆる「和田家文書」もその一つである)一方、神武紀に、神武達の戦勝歌として、

   >愛濔詩烏、毘[イ嚢]利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒(えみしを、ひだり(一人)、もも(百)なひと、ひとはいへども、たむかい(抵抗)もせず)<神武紀、歌謡一一>

と歌われており、神武達の「敵」は「えみし」と称される人々だった。また、弥生期における、銅鐸の出土領域から見て、その「愛濔詩」の中心地域が、ほかならぬ「日下」であった。(厳密に言えば、「日下」の地(枚岡)は、子遺跡・東奈良遺跡とは離れてはいる。両遺跡の中間に位置すると言っていいだろう。だが、この地が、「銅鐸圏」の中心的位置にあることは、疑い得ないのではないか)「えみし」達の誇りある美称、それが「日本」であった可能性は、十分にあると言える。

もっとも、この点については、なお考えるべき点が数多くあり、断定することは出来ない。現時点ではそのように言うほかは無いのである。