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その後の議論-掲示板にて(Historical)

九州王朝説論争(Historical)

その後の議論-当掲示板にて

その後、Historicalの掲示板にて交わされた議論の内容を記録しておきます。 ('02.1.25現在)
隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/26() 22:25:36

楽しく拝見しています。
斐世倭国来訪の行路記事ですが、川村氏の古田批判に再批判されている部分でご教示をお願いします。

斐世は近畿には至っていないとの論旨でしょうか。

小生は、

長安をった斐世は当然船に乗り換え、航路で倭国に至ったのですから、長い航海の後上陸する地点こそ大きな関心事でしょう。

私にはどんな舟(船)か分かりませんが、ノンストップは考えられないにしてもどのくらいの間隔で寄港が必要だったのでしょうね。記載されている地名、百済・対馬・壱岐などは当然寄港して乗組員の休養や水・食料などの補給をしたと思われます。

筑紫・防から十余の港(国)へ寄港しながらやっと難波につき上陸した。寄港には上記の必要とさらに見聞を広め倭国の知識を吸収することや、の皇帝(文帝でしょうか)の徳を示す意味もあったでしょう。

難波で休息と歓迎行事の後、の都「邪靡堆」に入り王と会した。

と読めますが、もう一度言葉を変えて論拠を教えて頂けないでしょうか。ご多忙でしょうから簡単で結構です。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/26() 23:16:09

Vtecさん、はじめまして。
そうです。
私も裴世が近畿に到ったのなら、そのような解釈が最も当然だと思います。
ですが、そう解釈すると、「海岸に至る」が非常に浮だってしまうのです。
だって、港に寄りながらなら、寄るたびに「海岸に至」っていたわけでしょ?
なにも、あらたまって、難波(近畿だとすれば、一番自然な港だろうと思って書いてます)に至った時に「海岸に至る」なんて言う必要はないわけです。
やっぱり、「海岸に至る」を水行の終着点としてみた場合には、
「ながいこと海岸の見えない船旅を続けてきたが、やっと陸地が見えた」
というニュアンスにならざるを得ないだろうと思います。
そういうわけで、「近畿上陸」は”?”と思ったわけです。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 00:50:24

早速に丁寧なご返事をありがとうございます。

「海岸に至る」をどう読むかの問題ですね。斐世の航路を簡略すると、

長安から中国の港 --- 航海 --- 倭国の港=

陸路に比べ難儀な航海を終えることはこの旅程の完遂を意味しますから格別の意味を持ち得ると思います。距離的にも難易さからも圧倒的に船ですから、斐世の感覚では「この旅は船旅だ」の印象ではないでしょうか。だから無事に倭国の海岸へ至る事は旅が終ったことを意味します。(帰路はありますが)

名古屋から京都へビジネスでドライブしたとしましょう。山科へ入り東山連峰が見えると、ああ京都へ着いたと安堵するようなものです。実際は京都三条まではまだ逢坂山をえねばなりませんが。途中サービスエリア・ガソリンスタンドや食事で車を止めるてもそれは目的地への経過点に過ぎず格別の意味は持たないでしょう。

寄港は 航海の継続 のために海岸に接するのであって、その船の到着点(航海の終了)とはその持つ意味あいが質的に全然違うと思いますが。寄港地では陸(おか)へ上がったと言わないと思いますが。

貴殿にご紹介頂いた川村氏のHPから、古田氏の説を反論する方が見え驚き、また首肯せざるを得ないと思ったまでです。川村氏の指摘でも倭国と日本の関係、歴史的な推移にはすっきりしません。同じ思いらしき貴殿のHPで今後とも勉強させていただきます。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 08:11:14

ふーむ。

ただ、「陸」に上がらない「寄港」を、「十余国を経る」と表現しますか、ね。

わたしは、「海岸に至る」のもう1つの用法として、
「内陸を進んできて、海に達する」というのがあると思ってます。
こちらのほうが、「十余国を経る」という表現がすっきりすると思います。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 12:53:00

確かに実感としては内陸を進んだ方が理解し良いようにも思えます。 が。

小生が航海の難儀と言う場合あくまでも東支那海や玄海灘のことで、こと瀬戸内海や列島沿岸部はむしろ陸路よりはるかに楽だったのではないでしょうか。後の時代でも、桑名の渡しや北前船など。

博多から或いは関門海峡から上陸して山口から山陽道をテクテク歩くより、そのまま船で難波へ行く方が無難だと思いますが。途中、松山・広島・岡山・多度津・小豆島などなどを経た(筑紫から大和側の官員が案内しているようです)と思います。

勿論ご存知のことですが、隋書では、--- 一支国に至り --- 王国に至り --- とあって、次ぎ 「又十余国を経て ---」とあります。この「又」というのは 前文のいくつかの --- 〇〇国に至る --- を指していると考えられますから、至るも経るも寄港を意味していると思われます。

一般的に、たとえば電車で横浜から東京へ行ったとします。その行路を説明する場合に たとえ 途中降りなくても、「横浜から川崎・品川などいくつかの市街を 経て 東京へ着いた」という言い方と同じだと思いますが。

読み洩らしているかも知れませんが、近畿に至っていないとするとこの達っした海岸はどこを比定されているのでしょうか。小生はかって別府湾に浮かんで途方に暮れたことがあります。(笑)

質問ですが、川村氏の立論がもし正しいと仮定すると、日本書紀の推古天皇の記述と矛盾しますから、日本書紀の示す年代が疑問になりますね。有名な「開皇二十年、王あり、姓は阿毎、 --- 」の開皇二十年は推古天皇八年(600年)と註されていますが、これは絶対のものではないのですか。

古代史って面白いですね。
では、さらに真実の探求にむけて。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 13:15:15

(追記)
「海岸に至る」のもうひとつの用法ですが、当然都は海の上ではなく陸にあるわけですから、陸路を行くならそのまま都へ着くと思いますが。陸路を行って海岸に出て更に航路なら、その船はの船を使うという事でしょうか。それならなぜ自分の船をどこかの港へ停泊させるのでしょう。
 ちょっと疑問に思ったものですから。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 14:11:57

Vtecさん。
多分、より根本的なところに、Vtecさんと私との意見というか、見方の違があるように思えます。
推古紀が頭にあって、その知識を前提にして読めば、確かにそのように解釈できます。
ですが、私は、一旦推古紀を忘れ、『隋書』から得られる情報だけで読むことを前提としています。
なぜ、そのようにするのかと言うと、『隋書』は『日本書紀』よりも前に書かれたからです。
つまり、『隋書』編者は『日本書紀』を知らない。
当然『隋書』の想される読者も『日本書紀』を知らない。
知らなくても当然ちゃんと読めるように書いてあるはずなんです。
そうやって読むと、どこに辿りつくのか、が問題なのです。
隋書』には「難波」も「大和」も出てはきません。
(「邪靡堆」がそうなのかもしれませんが)
出てくる地名は九州ばかりです。

「海岸に至る」のあと、特に長距離の移動をしたことは記されずに、「彼の都に至る」とあるので、「海岸の近く」に都があったのだろうと思っています。(海岸沿いを歩いたのかもしれませんね)
「郊労」という語が使われていますが、「郊外」という言葉があるとおり、ここは「都のすぐ近く」なのです。
「海岸に達した」から「船出した」という意味ではありません。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 18:36:11

川西さん、いえいえ「日本書紀」から「隋書」を解釈しているのではありません。それほどの知識も力量も持ち合わせておりません。

川村氏の説を推し進めると「日本書紀」に矛盾しますから、「日本書紀」の記述に錯誤ないし作為があるのでしょうか?、と申し上げました。小生には自分の意見などありません。疑問に思う事を教えてもらおう、勘違いしている所を指摘してもらおうと思っているのみです。

次ぎの二点が疑問に思うんですが、なんらかのコメントをいただければ幸甚です。

1.航海の果てに上陸の海岸に至ったとき、海岸に格別の意味があり感嘆があるでしょうが、陸路を歩いてきて海岸に達っしても同じなのでしょうか。

2.九州以外のたとえば瀬戸内海や近畿の地名が出てこないのは、この国(大和朝廷)いわゆるのちの日本が中国側に認知されていないから国史に記載できないのではないでしょうか。

貴殿のことはなにも知らないのに、「感想・意見をどうぞ」とありましたので、甘えて親しげにもメールを送らして頂いていますが、
失礼がありましたらお許しを。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 21:47:56

貴殿を、真実を追究してやまない古代史の使徒と信じて書いています。

HPで「川村明氏『九州王朝説批判』について」をプリントして再度読ませて頂いています。

「2.隋書の再批判」中、「2.夷州」の「東夷の州(くに)」の解釈がり立つなら、それはとりもなおさず未認知の大和朝廷を示唆しているのではないでしょうか。従来夷州は台湾だとか不詳だとか注釈されてきましたから、さっぱり要領を得ませんでしたが、この解釈でなにか見えてきたように思います。

筑紫までは既知の知識であるが、王国からの行程(東の方)は中国人には初出の記事ですから、それがどこであるかを説明する必要があったと思います。けれども、正式に国交のない国(柵封体制に組込まれない夷蛮の国)を史書に載せる訳にはいきません。

阿蘇山は行路中の経過地として書いてあるのでなく、倭国の 気候風土 の記述中で伝聞のように出てくるのであり、火山のない中国人には余程奇異で特筆ものだったのでしょう。阿蘇山だけが突出しているように見えるのは同じ理由で王国以東の記事が書けなかったからでしょう。

「自竹斯国以東」で筑紫以東がに附庸するなら、対馬・壱岐や筑紫ー防ライン以西以南の九州はどうなっていたのでしょう。

この隋書が大和朝廷とすると、次ぎの史書(旧唐書)では倭国が日本に名を改める事になり、貴殿の持論と整合してきますね。

思うままに書き連ねて恐縮です。いやー、古代史って尽きないですね。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 01:29:14

1.陸路を進んで海岸に達した場合、事実を事実として伝えているだけであって、特に「感嘆」したかどうかは、問題ではないと思います。『隋書』の簡単な行路記事からは、むしろ、事実だけを記述したと見るほうが、いいのだろうと思います。
これが、「裴世の旅行記」であれば、そのような「感嘆」の言葉も聞けたのかもしれませんが。
海を進んできた場合、事実を事実として記述したと考えると、先述のような「不可解さ」がつきまといます。
ここにだけ、「感嘆」を求めるとすると、ちょっとりとの整合性を欠くように思います。

2.恐らくは、そういうことです。
もちろん、絶対に無いと言うことはありませんが。
実際、の時代であれば、近畿は近畿で、独自にへ遣使していた可能性は考えられます。
隋書』の「[イ妥]」は、近畿ではないと考えた場合、そのような解釈が可能になります。
王国以降の行路記事は、やはり「彼都=の都」への行路だと見なすべきだと考えるので、「正史に載せられないような地域」を目指すものではないと思います)

「夷州」については、私は、ここは普通名詞だと思っています。
[イ妥]国も、「夷洲」の一部なのです。
もちろん、近畿も含まれているのかもしれませんが、
近畿だけを指すという意味ではないでしょう。
固有名詞だとすれば、通説に従い「台湾」と考えても良いのかもしれません。
(『後漢書伝にも「夷洲」が出てきます。こちらは間違い無く固有名詞で、これとの関連は注目しても良いでしょう。ただ、これは、いずれをさすのか不明です。近畿かもしれません)

以西は『人伝』と同じで、倭国の領域だと解釈しています。
以南は、わかりません。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 12:14:59

示唆に富むご返事を頂き、ありがとうございます。

この時代の国ってどのくらいのものなのでしょうね。それが解れば「十余国」の大きさも察しがつくというもの。隋書には直接的な記事はありませんから、前後の史書から推定するしかありません。

宋書倭国伝の武の上表文の「 --- 東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること --- 」の衆夷に当たるのが人の領域と考えて良いでしょうか。毛人は後の「旧唐書・日本の部分」にある日本アルプス以東、海北は朝鮮半島の任那地方と見ていいですよね。

史日本伝に僧の[大/]然が記したとされる五畿七道三島のうち上記の衆夷に属する部分は約57州から59州くらいあります。

隋書を挟む形のこの二書の国割りが同じだというのは勿論暴論ですが、同じ日本列島を大差ない人口で国割をすればだいたい同じものになるのではないでしょうか。だいたい60前後と見ていいでしょう。現在でも1都1道2府53県でしたか。おぼろげながら一国の面積や規模は見当がつきます。

筑紫国・防国から十余国を経て都の国ですから、十余国+三国ですから、十三余国となります。先の国割では九州はせいぜい9ケ国位ですから九州内に収まりません。九州内に収めるためには、国割が他よりうんと小さいか、九州全域を隈なくってから都に入ることになりましょうか。それを仮に大和を想定すると、無理が無いと言うか余裕があります。

以上のように考えてみました。勿論貴殿の結論とは違ってますが、異論反論を求め歓迎される方と信じて、勇気を持って送ります。なにかご指摘いただければ励みになります。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 13:43:11

いやーどうもすいません。現在の県割は北海道から沖縄まででしたね。勘違いしました。訂正させていただきます。

それと宋書倭国伝の国は爵号を得たいために多少オーバーでしょうか。でないと海北95国なら朝鮮半島はおろか中国領内まで入ってしまいますね。

色々ご教示頂きありがとうございました。長くなりましたので、一応区切りとさせて頂きます。出来ましたら、十余国に関するご意見だけ聞かせてください。よろしくお願いします。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 21:57:31

前後の史書を例に取ると、
宋書』の海北九十五国は、『志』伝が参考になります。
伝では、馬五十余国+辰十二国+弁辰十二国で計七十四国。
これよりちょっと多いのですから、『志』に言う[シ歳]や沃沮の領域をも、勢力範囲として称したのかもしれません。
次の『旧唐書』には九州島とおぼしき「倭国」が五十余国なので、やはり、そのくらいの大きさだったのではないでしょうか。
「郡」程度の大きさです。
人伝』に言う国の大きさも、たとえば、「末盧国」や「伊都国」はやはり郡程度の大きさとみなせると思います。
三十国がこの程度の大きさだったのでしょう。(人百余国も)
基本的にはこれと同程度だろうと思います。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/10/29(月) 18:38:00

 みなさん、こんにちは。川村です。
 隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸内海
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として隋書
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなかった
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理があります。

 ところがです。この航路記事を「素直に」読んで、ちゃんと「海
岸に達す」を海から陸に達したと読んで、なおかつ都がなんと熊本
近辺にあると読める、という説があるのです!!
 それは、航路記事を古田氏が人伝でやったのと同じ「至に
動詞が先行すれば主線航路、しなければ傍線航路」と読む方法です。
 これだと「東至」の国々は傍線航路で、主線航路は方角の記述か
ら南進でなければならないことになり、五島列島を「十余国」とみ
なして熊本に着く、というわけです。
 私がまだ素朴に九州王朝説を信じてた頃は「これだ!」と思いま
したが、次ぐ九州王朝説の矛盾を知ってからは、この説はどうに
も扱いあぐねています。
 何かこの件で面白い情報があったら教えてください。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/29(月) 23:12:24

隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸内海
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として隋書
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなかった
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理があります。

ふーむ。
このままでは、水掛け論になりそうです。
(自然だ/自然じゃない)
「達」の用例調査でもしましょうか。
用例はあまり多くないかもしれないので、有効かどうかわかりませんが・・・。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/30(火) 23:00:21

意見の食い違いは、「経十余国」の記事において、
1)「十余国」を経る間、海岸には至っていない。
2)「十余国」を経る間も実際には海岸を経過している。
といういずれと見なすか、という気がしています。
私は、「海岸には至っていない」と見るほうが自然で、だから、水行ではない、と考えています。
逆に水行の場合、十余国を経るために、実際は海岸に至っている(寄港を含めて)のだが、それでも「達於海岸」は、水行の終着点として、記されているのだ、ということなのだと思っています。
従って、今の所、
「経A、達B」(或は単に「達B」)の用例を探して、
Bの内容がAに含まれているか、という検証を行ってみたいと思います。
これは、「経十余国、達於海岸」という『隋書』の記事を、
a.十余国を経る間、海岸には至っていない(陸行と見なす私の立場)
b.十余国を経る間も事実としては海岸を経過している(水行と見なす川村さん、Vtecさんの立場)
と考えています。
認識に誤りがあれば、ご教示願います。

一応、このような観点から、用例調査を行ってみたいと思いますが、結果を提出出来るのはいつになるかわかりません。
宜しくお願い致します。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:西 博孝 投稿日:2001/10/31(水) 15:59:18

かわにしさん、Vtecさん、日野さん、こんにちは。
問題は、かわにしさんが整理したように経十余国をどう理解するかだと思います。竹斯国、王国と内陸部を陸行し、十余国を経て海岸に到達するというのが普通の理解だと思います。問題はそれまでの中国史書の国名表記と変わり、竹斯国(『隋書』当時のものと現在の筑紫との大きさは不明ですが)と大きな表記になっていることです。そうすると十余国が日野さん想定のように瀬戸内の国々とするのも不可能ではないと思います。
かわにしさんも提案されているように、少なくとも『隋書』あるいは先行史書の「経~達」の用例を調査するのが最良かと思います。
皆さんは既にご存知かと思いますが、二五史の検索が台湾中央科学院のデーターベースで簡単にできますので、それを利用するのも便利かと思います。私も今回やってみようと思ったのですが、それまでは問題なく検索出来たのですが、98にヴァージョンを変えたために画面が文字化けして、上手くいきません。
上手くいきましたら、また報告させていただきます。コンピューターに詳しい皆様の方が私より早く用例を見つけると思いましたので
余計なことだと思いつつ書かせていただきました。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/31(水) 23:55:44

西さん。

>二五史の検索が台湾中央科学院のデーターベースで簡単にできますので、それを利用するのも便利かと思います。

それ、私は知りません。
出きれば、そのデータベースへのアクセス方法
(多分、WEBだと思いますので、アドレス)
を教えていただければ幸いです。
宜しくお願い致します。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/02() 22:51:32

河西さんこんばんは。
終わったとばかり思っていましたら、続いているのに吃驚しました。
「経A、達B」の用例ですが、斐世の航路記事中の
「---- 行至竹島 南望X羅国 経都斯麻国 迥在大海中 ----」(岩波文庫版)
で都斯麻国を経るとあります。恐らく都斯麻国へ寄港したでしょうし、大海の中で陸行することはありえませんから、「陸行が必然だ」とも言えないのではないでしょうか。
陸行説だと行路記事全体を見たとき、「十余国を経て既に彼の都へ至る」と直に記さないで、なぜにわざわざ「海岸へ達する」と書き留めているのかが理解できません。途中何度も海岸を経ているから海岸自体が珍しい事もなく、多分船を停泊させた重要な筑紫(博多湾)の海岸のことも特に書いていないのにです。この「海岸に達す」には普通に海岸に着く以上の意味を込めていると思われます。
名古屋から東京(皇居がふさわしいですね)へ船で行けば、東京湾の竹芝桟橋に着く事は行程のひとつですが、幹線で行けば竹芝桟橋にはなんの意味もありません。
「自然な読み」は水掛け論になりますが、自然な読みのその先が九州か大和かに分かれますね。隋書の「 --- 明年(大業四年)、上、文林郎斐を遣わして倭国に使せしむ。百済を度りて ---」以下の文は日本を、前を倭国のことのように見えます。つまり混在しているというのはおかしいでしょうか。
多利思北弧の国書や九州王朝の歴史と、見えたその王の「海隅にへき在して礼儀を聞かず。是を以って境内に稽留し、---」は同一人に見えません。斐は国書を持たず従って正式な国使としてではなく、その国交開始の準備段階で来たとの解釈は無理でしょうか。
お忙しいでしょうから、短いコメントで結構です。よろしくお願いします。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/03(土) 17:34:37

Vtecさん。
もう一度、問題を整理させてください。
「経十余国、達於海岸」とあったときに、
この「達於海岸」を、
1)水行の後、海側から海岸に達す。
2)内陸を移動した後、陸側から海岸に達す。
という2通りの読み方が存在します。
ここまでは、よろしいでしょうか。
今、1の読み方を取ると、必然的に、
「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着点である「海岸」に着いた時に改めて「達於海岸」と記した」
ということになります。
ここまでは、私もVtecさんも川村さんも、見方は同じだろうと思います。
ここから、私とVtecさん、川村さんで意見がわかれました。
A.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着点である「海岸」に着いた時に改めて「達於海岸」と記した」というのは、自然な文脈ではない。だから、2の読み方を採用すべきだ。(私の立場)
B.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着点である「海岸」に着いた時に改めて「達於海岸」と記した」のは、「海岸」に対して何か特別な事情があったのだろう(Vtecさんがいくつか例を挙げて、想定し得る「事情」を示してくださいました)

Aの立場から言うと、このように言えます。
・「~を経て…に達す」という文脈では、”~”にあたる部分に、実は”…”に当る部分と同じ内容が含まれている、というケースは無い。

そういった理由で、私は「達」の用例調査をしようと考えています。『隋書』の記述は上記の命題を支持しているだろうかと言う確認です。
支持しているとすれば、「達於海岸」は2の読み方をしなくてはいけないことになります。そうでなければ、1でもよいということになります。

Re: 隋書の行路記事について

投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/03(土) 23:01:57

丁寧なご返事ありがとうございました。

旧唐書を境に倭国から日本へと変わっていく過程が、古田氏の説明で一応は解るのですが、なにか釈然としないものを少し感じるものですから。皇国史観に侵されているのかも(笑)。

今後とも勉強させてください。

中間報告

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/05(月) 23:19:56

隋書の達」について、中間報告です。

西さんに教えていただいた「台湾中央研究院」のHP内の「瀚典資料庫選單」というデータベースを利用して、「達」の用例を検索しました。
全部で三百二十九例がHITしました。
そのうち、百九十例は人名・地名などの固有名詞であり、百三十九例がそれ以外の用例でした。
「経~達…」という用例は、少なくとも一例見つけています。
(今後、詳しく調査しますので増えるかもしれません)

これから、各々の用例について、検証をするところです。
最終的な結果はもう少々お待ちください。

Re: 中間報告

投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/05(月) 23:31:00

お手数をおかけします。

それにしてもすごい威力ですね。期待しています。

Re: 中間報告

投稿者:西 博孝  投稿日:2001/11/06(火) 02:57:50

皆様、こんばんは。私もようやく繁体字言語が復活し、中央科学院の検索が使えるようになりました。そのことでは、かわにしさんにいろいろとお手数をおかけしました。お礼を申し上げます。私の方は、「又経~」の検索をしましたが、ざっと見たところふさわしい用例はないようです。もう少し隋書と先行史書の検索をしたいと思います。
ところでこの間繁体字のフォントがうまくダウンロードできない時に、何か引っかかるものがあり、何度も隋書の原文を読み直しました。それは、かわにしさんが海岸の近くに[イ妥]国があるのではないか、と指摘している点です。もしそうであれば、「経十余国達於海岸」の後に続く「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」の文が意味をなさないと思います。つまりここまでの文すべてが裴の[イ妥]国への行路記事だとすると[イ妥]国の領域を通過してきているのは当然のことで、自竹斯国以東~など書く必要はないと思います。これは[イ妥]の版図を示した記事と考え、「其国境東西五月行」に対応するものと理解するのが自然ではないでしょうか。そうすると[イ妥]の入り口は文面上、竹斯国となり、そこから10日ほどで到着するのが彼都になるとは考えられないでしょうか。

Re: 中間報告

投稿者:日野陽仁  投稿日:2001/11/06(火) 10:02:02

> それは、かわにしさんが海岸の近くに[イ妥]国があるので
はないか、と指摘している点です。もしそうであれば、「経十余
国達於海岸」の後に続く「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」の文
が意味をなさないと思います。つまりここまでの文すべてが裴
の[イ妥]国への行路記事だとすると[イ妥]国の領域を通過し
てきているのは当然のことで、自竹斯国以東~など書く必要はな
いと思います。

 私も乱入させて下さい(笑)。[イ妥]国伝の航路記事では、都斯
麻国、一支国に続いて竹斯国を経過した、と書かれているわけで
す。すると、この挿入句は、都斯麻国、一支国は[イ妥]国の属領
ではないよ、属領なのは竹斯国からだよ、という意味の注釈であ
るとも考えられるわけです。実際そのように主張している研究者
もいるわけです。
 ですから、この挿入句から竹斯国の近くに都があるということ
までは主張できないと思います。

Re: 中間報告

投稿者:Kawa  投稿日:2001/11/06(火) 22:23:47

ふむふむ。
「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」
に飛び火したわけですね(笑)。

私は、以下のように考えています。
(1)海岸のあとの「後十日」は「十日間の移動」(水行及び陸行)を示すものではないのではないか。→単純に十日後という気がするんですが・・・。「鴻臚館」のようなもの?
(2)「以東」の国の関係を示したのは、それこそ、川村さんのご指摘の「特殊な国」の用法に関しての開設だと思います。つまり、普通(当時の中国)では、「国の中の国」はあり得なかった。だから、「国の中の国」を示した以上、その国同士の関係を示すことが必要だった。→一支、都斯馬は既に「人伝」で関係が判明しているから、それ以外の国について記した。

こういうことだろうと思っています。

Re: 中間報告

投稿者:西 博孝  投稿日:2001/11/07(水) 02:42:55

かわにしさん、日野さんこんばんは。まず日野さんと私との間に大きな違があります。隋書は、少なくとも人伝を主に引き、歴代中国史書を引き継ぐ形で書かれていることには異論はないと思います。ここからが問題で裴の行路記事の国を考えてみます。まず百済は伝があるから問題ありません。同書百済伝にタン羅国は百済に附庸するとあるので、これもはっきりしています。では都斯麻国と一支国は日野さんのいうようにどこにも所属していないのでしょうか?この点は、かわにしさんも指摘しているように、既に人伝に出ているので倭国([イ妥]国)に属していると読むのが自然ではないでしょうか。このように考えると、竹斯国以下のことが簡単に理解できます。つまり竹斯国は歴代史書では初出の国名で、王国もそうです。また名前は不明ですが十余国もそうです。初出であるが故に竹斯国以東は[イ妥]国に属していますとわざわざ書いたのではないでしょうか。もし初出の国名を書いているとすると、十余国を経て海岸に達すとして、明確に到達地点・国名を何故書いていないのかが問題になります。そこで例の「経~達」の用例調査に基づいての分析が必要となり、その結果によりますが、私としては十余国の箇所に「至」がないことから「経十余国達於海岸」は前回書きましたように、[イ妥]国の地勢を述べたものと理解したわけです。つまり明確に国名が書かれている竹斯国とその東にある王国のいずれかが彼都に近しているものと理解しました。わざわざ竹斯国以東が附庸すると書いたのは、そのような意味からだと思います。

Re: 中間報告

投稿者:Vtec  投稿日:2001/11/07(水) 15:55:02

ひとつ疑問があります。どなたか回答をお願いします。

隋書の読者が、先史人伝など)を見ていることが前提なら、なぜ前段に倭国の地理や国交の歴史を紹介しているのでしょうか。

隋書に限らず正史(記紀でも)はこのスタイルを取っているようですね。天子の威光と今王朝の正当性を主張することにあるのではないでしょうか。

もうひとつは、読者の理解を助けるために、倭国をはしょって紹介していると思います。その時点の王朝の官人たち一般に、先史の細かい点まで知識が常識化していたとは思えません。夷蛮伝の部分は、一番関心がある中国朝廷中央部の動静と違い、末尾でもあり附録みたいなものですから。

「則志"所謂"邪馬臺 ---」とか「"古云"去楽浪郡 ---」などの記述は、知らない人を対象にしているように思います。

常識的な知識は当然としても、それぞれの正史の中で完結的に理解し得るものではないでしょうか。

Re: 中間報告

投稿者:Kawa  投稿日:2001/11/07(水) 21:32:03

>初出であるが故に竹斯国以東は[イ妥]国に属していますとわざわざ書いたのではないでしょうか。

そうです。
私も西さんのご意見に全く賛です。

>もし初出の国名を書いているとすると、十余国を経て海岸に達すとして、明確に到達地点・国名を何故書いていないのかが問題になります。そこで例の「経~達」の用例調査に基づいての分析が必要となり、その結果によりますが、私としては十余国の箇所に「至」がないことから「経十余国達於海岸」は前回書きましたように、[イ妥]国の地勢を述べたものと理解したわけです。

この点は、私としては、「邪靡堆」というのが実はそれに当るかなぁ、とも思っています。(「邪靡堆」=「邪馬臺」は隋書編者の解釈)
とりあえずは、「達」の用例調査後にしましょう。

>なぜ前段に倭国の地理や国交の歴史を紹介しているのでしょうか。
これはおそらく、読者に対して、「これは志などの人記事を受けたものだよ」とわかってもらうためと、知らない読者の為に簡単に備知識を教えてあげたものだろうと思います。
われわれも、多分、文章を書く場合に普通にやっていることではないでしょうか。
これは別段、そのように考えて間違い無いと思います。

「赤土国伝」の行路記事

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/07(水) 23:28:34

 私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」の中
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります:

其年十月、駿等自南海郡乘舟、晝夜二旬、毎値便風、至焦石山而過。
東南泊陵伽鉢拔多洲、西與林邑對、上有神祠焉。
又南行至師子石、自是島嶼連接。
又行二三日、西望見狼牙須國之山、於是南達鶏籠島、至於赤土之界。
其王遣婆羅門鳩摩羅以舶三十艘來迎、吹蠡撃鼓、以樂使、進鎖以纜駿船。
月餘、至其都。

 以上ですが、イ妥国伝の行路記事と大変よく似ています。しかも
「達」の用例があり、鶏籠島に達して赤土の境に至ったとあり、そ
こで王の使者が出迎えています。これは「達」が赤土国への経路の
中に含まれていることは明らかでしょう。

Re: 中間報告

投稿者:Vtec  投稿日:2001/11/08(木) 16:12:42

[イ妥](以下はで代用)国の概略的な地理的位置を示しています。「百済羅の東南の大海の中の山島」で読者はこの「東南、大海、山島」のイメージで備知識を持ちます。行路記事で「度百済 --- 」で大海に出たと了解し、文脈上は「行至竹島 --- 」でここから倭国になりますが、次ぎに「 --- 経都斯麻国、迥在大海中、 --- 」とあって大海である事を示して、ここからが倭国である事を特定しています。「 --- 又東至一支国 --- 」以外の方向は、東南に進んでいると無理なく想定しているでしょう。ですから、東南方向に「 --- 又至竹斯国、--- 」で、都斯麻国から竹斯国までは倭国であると了解し、竹斯国も山島であると認識しているでしょう。九州や台湾などを山島と言うかどうか知りませんが、文脈上はそうなるでしょう。だから、ストレートに都斯麻国から竹斯国までは、倭国であると読めるのではないでしょうか。
「 --- 又東至王国 ---」で方向を特定して東と指示した後、「 --- 又経十余国、達於海岸 ---」もやはり東南の方向を暗黙のうちに指示し(のちほど質問事項がありますが)、そして海岸に達します。十余国もまた山島に寄って居していると理解しているでしょう。また、見解の分かれるところですが、「達於海岸」は「度百済」に対するというか受ける言葉で、水行を示唆しているように思いますけど。
今の地理の知識を全部捨てて、九州や大和の断を廃して、先史を援用せずに読めばこうなると思いますが。

質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは「東」を以ってす』とは読めないのでしょうか。もし読むことが可能ならば、竹斯国までは東南の方向であったが、竹斯国からはそれぞれ東の方向に十余国を行って海岸に達すと読めます。
また、「--- 皆附庸於、---」の倭国と附庸はどうゆう関係になるのでしょうね。「皆」が都斯麻国以降なのか、竹斯国以降なのかです。従来のように「竹斯国より東は、---」と読めば竹斯国以降がに附庸することになり、倭国だと言ってる都斯麻や一支はどうなるのでしょう。河西さんの言われる国の概念がで違うから説明しているとすれば、「皆」は都斯麻国以降すべてに掛かかり、「自竹斯国以東」を受けなくなります。ならば、「竹斯国からは東を以ってす」という上記の読みが可能となります。
文の素養がなく苦労しています。明るい方、ご教示をお願いします。

Re: 中間報告

投稿者:Kawa  投稿日:2001/11/09() 00:40:58

>私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」の中
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります

これは、私も現在注目しています。
少なくとも、ここまでの経路で、一度も「鶏籠島」を経過していませんね。まぁ、固有名詞なんで何とも言えませんが。
また、「赤土国の界」にも一度も至ってないはずです。
・・・で、初めてここで「鶏籠島」も「赤土国の界」も経過したわけです。

>また、見解の分かれるところですが、「達於海岸」は「度百済」に対するというか受ける言葉で、水行を示唆しているように思いますけど。

これは、「ふりだしにもどる」ですね。
「一支国」に至る為にも「都斯馬国」に至る為にも、「竹斯国」に至る為にも、「海岸に達」していたわけです。

>質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは「東」を以ってす』とは読めないのでしょうか。

「読めない」かどうかまではわかりませんが、一般的な読み方ではないですね。
結果的には、「竹斯国より東は」と見て、これが実際には「王国」→「十余国」と見るべきだと思うので(そうでないと、なぜ「以南」「以西」が示されないのか説明がつかない)、似通った解釈にはなりますが。

Re: 「赤土国伝」の行路記事

投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/09() 10:51:25

日野さん、皆様、こんばんは。日野さんが出された『隋書』の「赤土国伝」の記事について考えてみたいと思います。

まず「赤土国伝」の読み下し文がありませんので、資料状況を共有するために、以下に読み下し文を示しておきます。なお原文は中華書局 標点本『隋書 六傳』p1833~1835のものです。
また「赤土国伝」の冒頭部分も読み下しておきます。

赤土
赤土国は扶南の別種なり。南海中に在りて、水行百余日にして都する所に達す。…中略…
其の年(大業3年)十月、(常)駿ら南海郡(今の広州市辺り)より舟に乗りて、昼夜二旬(約20日間)、毎(つね)に便風(順風のこと)に値(あた)る。

焦石山に至りて過ぎ、東南して陵伽鉢拔多洲に泊まるも、(その地は)西に林邑に対し、(その地の)上(ほとり)には神祠有り。
また南行して師子石に至り、これより島嶼連接す。

また行くこと二、三日にして西に狼牙須國之山を望み見て、ここに於いて南に鶏籠島に達するは、赤土の界に至れるなり。

その王、婆羅門の鳩摩羅を遣わして舶三十艘をもって来迎せしめ、
蠡を吹き鼓を撃ちて、もっての使を楽しましめ、の鎖を進(ささげ)て、もって駿の船を纜(つなが)しむ。

月余(一ヶ月余り)にして、その都に至る。

以上が「赤土国伝」の内容で、日野さんの指摘のように、確かに赤土の界に行っています。これを土台に詳しい検討を行っていきたいと思います。

Re:「赤土国伝」の行路記事 2

投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/15(木) 11:31:20

続編が遅くなってしまいましたが、赤土国の行路記事について書いておきます。

まず「赤土国伝」冒頭で、南海中に在りて、水行百余日にして都する所に達す、と中国からの距離を書いております。まず最初に当該国のアウトラインを書くというのが定石のようです。
また冒頭で水行と書いていること、常駿の行路記事の冒頭でも船に乗りと書いていることから、実際に行った常駿の記事で本文ではすべて、「行く」・「至る」とだけ書かれ、いちいち水行た書かずに、無駄なく書かれています。

また常駿の記事を読むと、総計70日前後で赤土国の都に到着しているようですが、これは冒頭の百余日と大幅に違うため、その理由として「毎(つね)に便風(順風のこと)に値(あた)る。 」ーずっと順風に乗ったーという句がさりげなく挿入されています。

そして赤土の界である鶏籠島に到達したとなっています。これらを見ると極めて短い文ではありますが、必要最低限のことを要領よくまとめたものということができます。そして彼の都に入る直前に固有名詞である鶏籠島という名が明記されていることも、イ妥国伝を
読むときに参考になると思います。

Re: 中間報告

投稿者:Kawa  投稿日:2001/11/15(木) 22:22:16

ふむふむ。

そうですね。確かに、[イ妥]国伝でも、
「又、竹斯国に至る。又、王国に至る…」と、かなり省略されて要領よく書かれたものだと言うことが出来そうです。
この点から言っても、「海岸に達す」までが水行だとしても、おかしくはありません。
(わたしは、「海岸」という語に問題があるのだろうと思っていますが)
他にも川村さんのご指摘のとおり、「王の使者の来迎」など、参考になる点が多いですね。

「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁  投稿日:2001/11/22(木) 10:02:51

 タイトルの件について、かつて「古代の風」という同人月刊誌に
3回にわたって連載を書いたことがあるのですが、一般に入手しに
くいため、自分のHPに転載しようかと思っているのですが、もとも
との原稿がワープロ専用機のファイルで、DOS変換すらしていない
ありさまです。その議論の一部は、2ちゃんねるの某トピ↓

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/992238987/l50

に一部のそのまた概要について説明したところですが、原論文の転
載をできるだけ早く(できれば年内に)やりたいと思ってます。そ
れまでお待たせしますがご容赦ください。

PS.かわにしさんからメールも頂き、この件は論文を見せてくれと
 の要望が強いのですが、こんなわけで、ごカンベン下さい。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/23() 11:28:38

>2ちゃんねるの某トピ

ひととおり、読んだのですが、
(1)推古紀本文ではを「」と書いている。
(2)直説法の引用の場合はは「」と書いている。
(3)「」は中国南部を表す地名であって国号ではない。
と、考えれば、年紀はそのままでも矛盾はないのだ、という意味だと読み取りました。
「12年のずれ」は、確かに、「原文改定」になりますが、
」を「」と読むのも、「原文改定」ではあります。
従って、「推古紀は、国号か年代かのいずれかに誤りがある」と考えられるのでは。
やっぱり、「そのまま読んだら矛盾する」のです。
(「」によって実際の国号とは別に「中国」を表す例は後代の日本の文献では多く見られます。・・・が、『日本書紀』がその最初の例なのかどうかは、よく検証されるべきです)
何はともあれ、「公開」の日を楽しみにしております。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/26(月) 10:32:16

> 「」を「」と読むのも、「原文改定」ではあります。

 これは、中国のことを書紀編纂時の国号で表わしただけですか
ら原文改定ではないですよね。当時日本では「中国」という名称
は日本のことを表わした筈ですから(続日本紀参照)、チャイナ
のことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使うのは自然だ
と思います。それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神~」
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 01:33:48

なるほど。
>チャイナのことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使うのは自然だと思います。

そうですね。
確かに、そのようにも言えます。
では、だからといって、日本書紀がチャイナをすべて「」と記しているかと言うと、そうでもないわけです。
後代の日本側の文献では、全て「」と記されているものもありますが、日本書紀は必ずしもそうではありません。
」「」「」「」「晉」などがあったように記憶しています。(・晉は志・晉起居注の引用ですが)
」にしても、「直説法は違う」と主張される根拠がわからないのです。
単に数例がすべて「直説法だから」でしょうか。
逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということでしょうか。

>それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神~」
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。

これも「全ての用語」を悉く書き換えているわけではないのですから(「県」や「国名」など)、「」も「書き換え」の例なのかそうでない(=「県」などのように「原表記」か?を残すもの)なのかの検証は、やはり必要です。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/27(火) 12:44:28

> 逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということでしょうか。

 正確に言うと、「外国人の言である直説法」ということです。
このうち推古紀の「」は2例ありますが、いずれも百済人の
です。それと「この国に乱有りて」が疑問であることから、この
」は中国のことではないのではないか、という説もあります。
あるいは日本書紀の編者が「」がどこを指すのか不明だったので
これをあえて「」と書き換えなかったのかもしれません。ここは
大いに問題のあるところでしょう。
 ですが、推古紀の中国名称の全用例から帰結されるのは、私の述
べた結論です。それと確か12年のずれを仮定しても代をと呼ん
でいることになってしまう例が確か1箇所あったと思います(ウロ
覚え)。それで古田氏の本を再度読んでみたら、古田さんが用例を
1個調査し漏らしていて、それがこの例だったような記憶がありま
す。重大な点なんで、また後で調べてみます。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 21:51:38

>正確に言うと、「外国人の言である直説法」ということです。

うーん。
例えば、推古十六年六月条の「帝」(小野妹子の言)は、日本人だから書き換え。
十七年四月条の「国」(僧道欣・恵弥の言)は、外国人だから書き換えではない。
こういうことでしょうか。
「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃありません?

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:32:45

> 「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃ
> ありません?

 外国人の言は(日本語じゃないから)文をそのまま転載し
た。一方日本人の言は日本語で行われており、それを日本書紀
に書く場合はどのみち文に翻訳しなければならないから、その
とき表現を手直しした、いうのはちっともとってつけた解釈じゃ
ないです。

閑話休題:
 私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね)。

 さて、この例の場合、「推古紀の中国の呼称は外国人の言に
あらわれる例以外はすべて」となっている」というのは「事実」
です。
 これに対し「実は推古紀が12年ずれており、を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名であるですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は
立たないわけです。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:45:54

> それと確か12年のずれを仮定しても代をと呼んでいること
> になってしまう例が確か1箇所あったと思います(ウロ覚え)。

 これはちょっと正確ではありませんでした。例の高麗が「」の
捕虜を日本に貢献してきたという記事が、の滅亡直後にあたる、
という事実の覚え違いでした。
 ですが、これを12年ずらしてしまうと、高麗は、が滅びてから
12年も経って突然捕虜を貢献してきたことになります。しかも旧
書の記事は、が滅んでに変わったとき、帝の書にほだされて
捕虜を探し尽くして返した、というのです。「書にほだされて」と
いうのは美辞麗句かもしれませんが、要するに高麗にとってはにっ
くきが滅びた、しかも滅ぼした本人(帝)が書を送ってきたの
だから、これを機会に捕虜を返して中国との関係を改善しよう、と
いう巧妙な外交政策なわけですよね。そのような「雪解け外交」後
のスタンスと「日本にの捕虜を献上する」という日本に対する
の敵として協調を求める」外交は矛盾しますよね。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/28(水) 22:31:30

>私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね)。

当然だと思います。
>これに対し「実は推古紀が12年ずれており、を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名であるですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は
立たないわけです。

これでは、片面だけの説明です。

今、「事実」はいくつかあります。
(1)「」は618年の立であること。
(2)『日本書紀』の紀年では、それ(618年)は推古26年に当ること。
(3)『日本書紀』では、推古26年以前の国交記事においても「」と記していること。
これらです。
この事実同士が「矛盾している」のです。
その解釈には、今ふたつの案があります。
1)『日本書紀』に「」と書いてあっても本当はである。
2)『日本書紀』の紀年(618=推古26とする)が間違いである。
どちらも、矛盾を解決する為の案です。

さて、「推古紀の中国の呼称は外国人の言にあらわれる例以外はすべて」となっている」という史料上の事実があります。
これはなぜ生じたのか。
これに答える案は、やはりいくつかあります。
(1)外国人の言だけに「」以外が現れたのは偶然。→日本人の言や本文に「」以外が現れてもおかしくはなかったが、たまたま現れなかっただけ。
(2)外国人の言と、日本人の言や本文の間には、何かの決定的な違があった。

(1)という可能性を無視することは、立論として不完全なのです。特に、統計的なデータ(用例調査も本質的には同じです)を用いる場合には、常に考慮しなければならない問題です。
今回の場合、推古紀中三例です。(全部でいくつか忘れました・・・)
それが多いか少ないかは、微妙な数です(よね?)。
偶然と言うことも有り得る数だと、私には見えます。
「とってつけた」とは、このあたりを危惧してのものです。

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:24:55

 仰っておられることは論理的にはごもっともです。古代史では、
数学や物理と違って「解釈」によって「解決」できてしまう要素
が非常に多く、そのために「邪馬台国論争」とか「邪馬台か邪馬
壱か」とか「三角縁神獣鏡の生産地はどこか」などが未だに決着
しないのも、それぞれの立場で史料の「解釈」が可能だからです。
 同じように推古紀の12年のずれ問題も、いずれの立場にたった
としても「解釈」は可能だと思います。ですからここで私の立場
からの解釈をいくら説明したところで結論が出るわけではないで
しょう。
 では古代史では何をすべきかというと、史料事実の提示とその
整理した結果の提示です。古田氏は推古紀の中国呼称を抜き出し
代にも「」になっていることを提示しましたが、「外国人
言だけが例外になっている」という事実は提示し(でき)なか
った。従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。ところがこ
の解釈が可能になったことで、古田論証の「絶対性(こうとしか
解釈できない)」が薄れたわけです。結局たな史料事実を提示
するというのはこういうことであり、また我々にはそれしかでき
ないのではないでしょうか(ハイセイセイがを訪れた直後に死
んだ、とかいう墓碑でも出土すれば決定的なので、そういう
でもあれば別ですが)。ですから、できる限り史料事実の掘に
努めることが文献史学の基本だと思います。解釈問題は、出尽く
したらそれ以上論争を続けるのは無意味だと思われるからです。
(続く)

Re: 「推古紀の12年のずれ」批判

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:27:16

(承前)

 さて、私の論文では他の根拠も提示しています。その一つは、
百済関係記事のずれ問題です。古田氏の指摘によれば、推古・ジ
ョメイ紀には、百済関係記事のずれの例として、が「乱有りて
入ることを得」なかったという記事の他にもう一つ、まだ即位し
ていないはずの百済王の名がジョメイ紀に見られ、これを12年ず
らすとまさにその王の在位期間に含まれる、というのがありまし
た。そして前者の記事はハイセイセイ来の前年にあたり、この
ことがハイセイセイ来記事も12年ずれていることの根拠になる、
というのです。
 ところが後者の百済記事の「翌年」に高表仁の来記事があり
ます。これも「12年ずらさずに」中国史書と日本書紀で来年次
が一致していることはよく知られています。すると、同じ理由で
高表仁の来年次もずれているというのでしょうか?ハイセイセ
イだけこれを根拠にしてずれていると主張し、高表仁の場合は根
拠にせず、ずれていない、と主張するのもおかしい。これは年次
がずれているはずの年の翌年の記事なのです。
 また、もし高表仁記事もずれているというのなら、「偶然にも」
2人は12年の間隔をあけて再度「日本」に訪れたことになる。そ
んな偶然があるだろうかという問題がひとつ。しかもと日本を
併記する旧唐書会要やと日本を一緒に記す通典や新唐書(そ
の他冊府亀、太平御覧など)にもハイセイセイや高表仁の渡航は
への1回しか記されていないのです。この辺り古田氏はどう考
えているのでしょうか。

 ちなみに私の「解決案」はこうです。百済関係記事を日本書紀
からすべて抜き出すと、三国史記と日本書紀では百済王の即位年
次とか在位期間はもうずれまくっており、甚だしい例としては、
応神紀で死んだはずの百済王がその後に日本を訪れている、とい
う有様です。ですから百済関係記事の年次は日本書紀本文の年次
とは一応切り離して論ずべきであり、百済関係記事のずれをもっ
て本文記事のずれの根拠にすることはできない、というのが私の
「解決案」です。

「12年のずれ」

投稿者:Kawa  投稿日:2001/11/30() 00:42:39

スレッドが長くなり過ぎたので、改めて。

>従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。

そうでしょうか。
そもそも、始めから、推古紀の「」の一部は、事実としては、という解釈が一般的でしたが・・・。
結果的には、同じことを言ってますよね?

「日本書紀が現代の名称で故意に書き換えている」のだとすれば、
全てのチャイナは「」とあるはずです。
にもかかわらず、「」などの国号が現れるのは、「外国人の言だけが例外になっている」ためだとすれば、外国人の言には日本人の言や本文とは、異なる特徴が多く見出されるはずです。

高表仁や百済の義慈王については、そうですね。
そもそも、「推古天皇」はずれているのか、という問題も残ったままです。
少なくとも「白村江」がずれているという認識は古田氏にはないはずですから、「どこまでがずれているのか」という問題も残ったままです。
「いつから」も。

Re: 「12年のずれ」

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/30() 10:23:52

> そうでしょうか。
> そもそも、始めから、推古紀の「」の一部は、事実としては、という解釈が一般的でしたが・・・。

 そうです。しかしその理由を書いたものはなかったですね。また
「一部は」というより、「中国を一般にと表わしている」とい
うのが正解でしょう。
 それに日本書紀の「」は、実は訓で「から」と読ませるつもり
で書いたのかもしれません。だとすると「」という表記は実は日
本語で中国を意味する「から」を単に字で表記しただけであり
(もちろんなぜ「から」の音に「」という字を当てたかと言う
と、当時の中国の国号が「」だったからでしょう)、当時の日本
では中国を時代に関係なく「から」と呼んでいたから、そのとお
り、それを字で記しただけだ、という可能性もありうるわけです。

> 外国人の言には日本人の言や本文とは、異なる特徴が多く見出されるはずです。

 ここで思い出されるのは、森博通氏のα群β群の議論です。推古
紀とジョメイ紀はその前後がα群(中国人著者によるもの)である
中で例外的にβ群(日本人著者によるもの)であり、しかもその
文にはかなり強い「習」が見られるようです。
 ですから、本文とか日本人の言の部分などは、もともと日本語
を「たどたどしい」文で記録したものがあり、それをやはりたど
たどしい文(実際に読むときは返り点を付けて日本語で読み下す)
に直訳したものである可能性が高いわけですね。すると、これらの
」も「から」と読み下すつもりで書かれている可能性は高いです。
 それに対して外国人の言は、もし筆談だったりすると、例えば
」とか書いてあっても、それは日本語を文で表現したもので
はないので、そのまま引き写しただけだったかもしれませんね。

Re: 「12年のずれ」

投稿者:Kawa  投稿日:2001/12/01(土) 09:55:08

森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議論だったと記憶していますが、もしも、これを、文章の構にまで適用する場合、本当にそのように言えますか。
α群原音依拠とは、「正しい中国語の音が出来るものが,正しい中国音で万葉仮名を当てた」というものです。「正しい中国語の音が出来ないもの」であっても、正しい文を書くことは可能です。「音できないけど読み書きは出来る」というのは、言語能力として当然あり得る状態です。
それを踏まえて、「習」とは、何をもってそう言っています?
プラス、巻二十二、二十三(推古紀と舒明紀)は、確かにβ群とされますが、日野さんの意見では、その巻二十二の中でも、外国人の言は別ということですよね。
恐らく、森氏も言っていない領域に踏み込んでいるのだろうと思われます。(その後、森氏がそのような見解を表されているのなら、わたしの不勉強ですが)
やはり、それを証明する為の用意が要るのではないでしょうか。

Re: 「12年のずれ」

投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/12/03(月) 09:54:28

> 森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議
> 論だったと記憶していますが、もしも、これを、文章の構
> まで適用する場合、本当にそのように言えますか。

 確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。
 私自身も日本書紀を文のまま追っていったときに、推古紀の
「和文」くささを感じたことがあります。

 私が推古朝の12年のずれが誤りだとする論考を表した時点で
は森氏の論文は知りませんでしたが、この観点からも推古紀の
文の「習」について改めて調べてみる必要がありそうですね。
何かたな見があるかもしれません。

Re: 「12年のずれ」

投稿者:Kawa  投稿日:2001/12/03(月) 22:25:02

>確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。

なるほど。
確か、他にもいろいろあったと思います。
なんだったか思い出せませんが・・・(汗)。
小川彦氏の暦の話も、関連がありますね。
(たしか、雄略以前と以後で、書紀の性質が異なると言う話があって、その中にこれらの果が含まれるような・・・)
・・・で、確かに推古紀あたりは、またちょっと違うと言う話があったという気がしています。

たしかに、再検証の余地は有りそうですね。

イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:日野陽仁  投稿日:2002/01/11() 00:43:33

昔々書いた論文です。原論文そのままで登録しました。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_wk2.htm

Re: イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/13(日) 21:08:53

「ネオ九州王朝説」読みました。
正直言って、かなり「傾き」つつあります(笑)。

問題点を挙げると、
1)方向としては「東」をメインにしたような記述(・・・と少なくとも私の目にはそう見えていましたし、今も変わりません)であり、行路記事には「南」という方向は必ずしも示されていない。
2)「又…又…」という構文の一部は主線行路、一部は傍線行路と見なさなければならない。先行動詞の有無と言っても、やはり不自然の感は否めないのではないか。

といったところでしょうか。

また、日程・里程は示されていないので、必ずしも熊本だけが候補だとは思えず、筑後なども(そうだとしても「有明海」ですが)考えられる気はします。
ふむ。

Re:イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/15(火) 21:49:06

日野さん、連日のアップご苦労様です。

ダウンロードして、じっくりと読ませていただきます。今回のものを画面で読んでいて、倭国研究会でいろいろとやっていた7年ほど前が懐かしく思い出されました。あのときはみんな燃えていましたね。

ところで前回アップの推古朝の方の出典は、「記紀を読む会論集創刊号」でよいのでしょうか。私も少しずつですが、隋書の行路記事について書き出していますので、引用させていただきたいと思いますので、正確なところを知りたいと思います。

Re:イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:日野陽仁(川村) 投稿日:2002/01/16(水) 01:07:43

 そうですね。私も懐かしいです。なんか、あのときは九州王朝説
を再構築して古代の謎を解明できるんだという幻想もあったと思い
ます。しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「推古
紀の陰謀」説がリードするようになり、「王=聖徳太子、天皇=
推古女帝で王と天皇は別の概念」という説が研究されています。
 じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったのかもし
れないと思っていますが、7年前当時のような「自分で資料の根本
を疑って真見を楽しむ」というのとは違ってきているように思い
ます。何か今後ブレークスルーがあるといいのですが・・・・。
 それから推古朝の謎の出典はそのとおりで結構です。(若干横書
きに合わせて改定している所もありますが)。

Re:イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/16(水) 10:11:22

日野さん、丁寧なコメントを有難うございます。

ところで、
>しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「推古
>紀の陰謀」説がリードするようになり、「王=聖徳太子、天皇>=推古女帝で王と天皇は別の概念」という説が研究されていま>す。
> じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったのかも>しれないと思っていますが、7年前当時のような「自分で資料の>根本を疑って真見を楽しむ」というのとは違ってきているよう>に思います。何か今後ブレークスルーがあるといいのですが・・・・。

 市民の古代研究会のオピニオンリーダーである半沢さんの説では、邪馬台国は筑後甘木辺説だったと思います。半沢説の優れているところは、マツロ国を博多湾岸、伊都国を福岡平野南部に比定したことです。古田説も含めて従来のマツロ国=津湾辺部、伊都国=前原付近としているすべての説は誤りだとした半沢説は、卓見だと思います。

 ところが半沢説の結論である邪馬台国=甘木(筑後)説も隋書によって立しないことは明らかです。なぜなら隋書では竹斯国は都ではないからです。
 さらには、隋書ではイ妥国の都は、かつての邪馬台国だと言っているのですから、もし7世紀代の都を定説のように大和としているなら、それまでの自説の邪馬台国=甘木説自体と矛盾することになると思います。その点では、邪馬台国=大和説の方が矛盾はありません。

三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく、整合性を持って理解しようとすると、これまでの邪馬台国=筑紫説(筑前、筑後の両方を含む)、大和説のいずれも再検討の必要があると思います。

Re: イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/16(水) 22:29:55

>市民の古代研究会はオーソドックスな「推古紀の陰謀」説がリードするようになり、「王=聖徳太子、天皇=推古女帝で王と天皇は別の概念」という説が研究されています。

詳細はよく知らないのですが…、
「陰謀説」ですか。
便利と言えば便利な解決策ですね。
(イ妥)王」は『隋書』にしか現れず、
「天皇」は推古紀にしか現れないわけですから、
両者は別物、と見なすのは簡単なことです。
ものは言いようですが、私も「王と天皇は別概念」だと思います。(王=九州の王者、天皇=推古天皇)
本当は推古天皇がいるのに聖徳太子が「私がナンバー1だ」と振舞ったという説なのか、本当は聖徳太子こそがナンバー1だったのに、日本書紀がナンバー2に書き換えてしまったのか、
いずれかなのでしょうが・・・。
どちらにも、矛盾があるような気がするのですが、どうなんでしょうね。
そういえば、「推古紀は、隋書に合うように、九州王朝の史料を切り貼りして造作したんだ」というような話もきいたことがあるようなないような。
これもご都合主義的で容易には賛できません。
むむむ

>三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく、整合性を持って理解しようとすると、これまでの邪馬台国=筑紫説(筑前、筑後の両方を含む)、大和説のいずれも再検討の必要があると思います。

そうですね。
ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、というのは、賛できません。
隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤ったか、『隋書』編者の誤認なのか、これを決めるのは難しいですが、必ずしも、「だから『三国志』の読解に問題に有るんだ」と結びつけるべきではないように思います。
(勿論、絶対に無いとは思いません)
うーん、私が言うと、自説を擁護してるようで、説得力がないですね(汗)

Re:イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/17(木) 16:58:31

>かわにしさん

早速のレスを有り難うございます。

>ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、というのは、賛できません。
隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤ったか、『隋書』編者の誤認なのか、これを決めるのは難しいですが、必ずしも、「だから『三国志』の読解に問題に有るんだ」と結びつけるべきではないように思います。

おっしゃることに私も賛です。『三国志』も『隋書』もそれぞれ独立した文献資料で、それぞれ固有の立条件と背景をもっているのですから画一的に、あるいは後代資料である『隋書』から先行史書を考えるというのは問題だと思います。

私が言いたかったのは、『隋書』に「人伝」を引用して、3世紀代の邪馬台国と7世紀代の都は同じであると表記していることから、邪馬台国=甘木、イ妥国=大和というのは説は立しないという点を指摘したかっただけです。

当然、邪馬台国の都とイ妥国の都はまったく同じ所だとは思いません。400年間の間に都は移動しているはずです。しかし、それは大和地域であれば、大和内あるいはその辺部ということで、筑後から大和というものではありません。

他に長年わからなかった「志」の「女王国より以北…」の問題と末廬国=辺、伊都国=前原の問題がありますが、長くなるので次回以降にまわします。

Re: イ妥国=熊本説をロードしました

投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/18() 00:00:32

>私が言いたかったのは、『隋書』に「人伝」を引用して、3世紀代の邪馬台国と7世紀代の都は同じであると表記していることから、邪馬台国=甘木、イ妥国=大和というのは説は立しないという点を指摘したかっただけです。

そうですね。
隋書』編者が、「同じと見なせる」くらいの関係であったことは確実だろうと思います。
程度の問題になりますが、いくらなんでも「近畿と九州」では・・・、といったところでしょうか。
じゃぁ、どこまでならいいんだ?と聞かれても困りますが(笑)。
個人的には、筑後、豊、肥あたりは、問題無いかなぁとおもいますが、ね。
うーん、何か、別の観点からアプローチ出来るといいのですが。