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ウイグル

ウイグル(744~9c.)]
懐仁可汗(骨力裴羅)-葛勒可汗(磨延啜)-牟羽可汗(移地健)-天親可汗(頓莫賀)-忠貞可汗(多邏斯)-奉誠可汗(阿啜)-懐信可汗(骨咄禄)-保義可汗-崇徳可汗-昭礼可汗(曷薩特勒)-彰信可汗(胡特勒)-盍馺可汗-烏介可汗…
懐仁可汗(?~747)
  名はクトゥルク・ボイラ(骨力裴羅)。ウイグルの初代懐仁可汗。在位744~747。護輸の子。東突厥の衰えに乗じて、九姓鉄勒をはじめとする諸部を従え、内外モンゴリアを支配した。突厥の阿史那氏を擁立して傀儡としたが、推されて可汗の地位につき、即位の翌年には突厥最後の白眉可汗を殺した。に遣使し、左驍員外大将軍の位を受けた。
葛勒可汗(?~759)
  名はモヤンチャイ(磨延啜)。ウイグルの二代葛勒可汗。英武威遠毘伽可汗。在位747~759。懐仁可汗の子。天宝二年(743)、父の命に従い、烏蘇米施可汗を討ち、これを捕らえた、翌年、父が可汗として立つと、西方の軍事をつかさどり、カルルクを破った。六載(747)、父の跡を継いで可汗として立った。の肅宗の請いを容れて、葉護太子に四千の兵を率いて救援させ、安禄山を討ち、長安を回復させた。乾年(758)、の寧国公主をめとった。
牟羽可汗(?~780)
  名はウトゥケン(移地健)。ウイグルの三代牟羽可汗。英義建功毘伽可汗、登里可汗ともいう。在位759~780。葛勒可汗の次男。ソグド人を重用し、マニ教を受け入れて、ウイグルの風俗を一変させた。の制度・文化の移入につとめ、国力を増大させた。宝応年(762)、僕固懐恩の娘を妻に迎え、史朝義を破り、洛陽を落とした。広徳年(763)、史朝義を平州石城県で殺し、安史の乱を終結させた。大暦十四年(779)、ソグド人にそそのかされてを攻撃しようと企て、頓莫賀に諫められたが聞き入れず、頓莫賀に殺された。
天親可汗(?~789)
  名はドゥンモハ(頓莫賀)。ウイグルの四代長寿天親可汗。合骨咄禄毘伽可汗、武義功可汗ともいう。在位780~789。牟羽可汗のもとで宰をつとめた。牟羽可汗がを攻めようと図ると、諫めたが聞き入れられず、ついに可汗を殺して、自ら立った。との修好を図ったが、使者に立った叔父の董突が振武軍留後の張光晟に殺される事件が起こった。それでもなおとの友好を欲し、使を自ら接待した。貞三年(787)、の咸安公主をめとり、の臣、徳宗の子を称することを約した。また毎回の使者の人員が二百人を超えず、馬が千頭を超えないことを約した。ウイグルの回紇の称を回鶻に改めるよう請願し、認められた。
忠貞可汗(?~790)
  名はタラス(多邏斯)。ウイグルの五代忠貞可汗。在位789~790。天親可汗の子。はじめ泮官特勤を称した。天親可汗の死後、擁立された。妻の少可敦葉公主とその弟により毒殺された。
奉誠可汗(773~795)
  名はアチャイ(阿啜)。ウイグルの六代奉誠可汗。在位790~795。忠貞可汗の子。父可汗が毒殺されると、その弟が自立したが、まもなく吐蕃に殺されたため、擁立された。吐蕃やカルルクに敗れて一時西域への影響力を失ったが、吐蕃を破って庭州・霊州を回復し、国勢は再び振るった。
懐信可汗(?~808)
  名はクトゥルク(骨咄禄)。ウイグルの七代懐信可汗。滕里野合倶録毗伽可汗。在位795~808。孤児となり、ウイグルの首長に養われて頭角をあらわした。奉誠可汗の死後、可汗位についた。西はシル河畔まで征服。インドやペルシアの来貢を受けた。
保義可汗(?~821)
  ウイグルの八代保義可汗。在位808~821。懐信可汗の庶長子。天親可汗のとき、キルギスの侵攻を撃退した。貞七年(791)、吐蕃を討ち、北庭を回復した。亀茲を救援して包囲を破り、軍を進めて珍珠河にいたり、カルルク・トルギッシュを破って、勢力はフェルガナにいたった。和三年(808)、父の跡を継いで可汗として立った。十一年(816)、吐蕃の反攻を受けたが、たまたま賛普の死にあって吐蕃は軍を返し、危地を脱した。と修好し、公主の降嫁を求めたが、許されなかった。
崇徳可汗(?~824)
  ウイグルの九代崇徳可汗。在位821~824。の穆宗の妹の太和公主を妻として迎えた。吐蕃と対峙したが、長慶二年(822)に吐蕃の北伐軍に敗れ、国勢は衰退に向かった。
昭礼可汗(?~832)
  ウイグルの十代昭礼可汗。在位824~832。はじめ曷薩特勒を号した。長慶四年(824)、可汗位を継いだ。太和六年(832)、部下に殺された。
彰信可汗(?~839)
  ウイグルの十一代彰信可汗。在位832~839。昭礼可汗の甥にあたる。はじめ胡特勒を号した。開四年(839)、ウイグルに飢饉が襲い、部族は離反した。安允合と柴革特勒による廃位の陰謀を阻止したものの、掘羅勿が沙陀兵と連絡して謀反を起こし、迫られて自殺した。
盍馺可汗(?~841)
  ウイグルの十二代盍馺可汗。署颯可汗、勿篤公ともいう。在位839~841。はじめ盍馺特勤を号した。彰信可汗が沙陀突厥に攻められて自殺すると、国人により擁立された。飢疫大雪が続き、部衆や羊馬を多く失った。句録莫賀がキルギス十万騎を引き入れて来攻すると、敗れて掘羅勿とともに殺された。ウイグルはモンゴル高原から駆逐され、その部衆は大きく三分された。ひとつは南下して中国と同化し、ひとつは河西に進んで甘州ウイグルや沙州ウイグルとなり、ひとつは天山方面に入って天山ウイグル(西ウイグル)となった。

[甘州ウイグル
龐特勤-英義可汗(仁美)-狄銀-阿咄欲-順化可汗(仁裕)-景瓊-夜落紇密礼遏-禄勝-忠順保徳可汗(夜落紇)-夜落隔-懷寧順化可汗(夜落隔帰化)-帰忠保順可汗(夜落隔通順)-宝国夜落紇-伊格勒雅蘇
仁美(?~924)
  甘州ウイグルの英義可汗。権知可汗を自称した。924年、後の荘宗(李存勗)のもとに遣使した。

744ウイグル[744~9c.](-東アジア-ウイグル)--
ウイグル[744~9c.]懐仁可汗(骨力裴羅)-葛勒可汗(磨延啜)-牟羽可汗(移地健)-天親可汗(頓莫賀)-忠貞可汗(多邏斯)-奉誠可汗(阿啜)-懐信可汗(骨咄禄)-保義可汗-崇徳可汗-昭礼可汗(曷薩特勒)-彰信可汗(胡特勒)-盍馺可汗-烏介可汗…
懐仁可汗(?~747)  名はクトゥルク・ボイラ(骨力裴羅)。ウイグルの初代懐仁可汗。在位744~747。護輸の子。東突厥の衰えに乗じて、九姓鉄勒をはじめとする諸部を従え、内外モンゴリアを支配した。突厥の阿史那氏を擁立して傀儡としたが、推されて可汗の地位につき、即位の翌年には突厥最後の白眉可汗を殺した。に遣使し、左驍員外大将軍の位を受けた。
葛勒可汗(?~759)  名はモヤンチャイ(磨延啜)。ウイグルの二代葛勒可汗。英武威遠毘伽可汗。在位747~759。懐仁可汗の子。天宝二年(743)、父の命に従い、烏蘇米施可汗を討ち、これを捕らえた、翌年、父が可汗として立つと、西方の軍事をつかさどり、カルルクを破った。六載(747)、父の跡を継いで可汗として立った。の肅宗の請いを容れて、葉護太子に四千の兵を率いて救援させ、安禄山を討ち、長安を回復させた。乾年(758)、の寧国公主をめとった。
牟羽可汗(?~780)  名はウトゥケン(移地健)。ウイグルの三代牟羽可汗。英義建功毘伽可汗、登里可汗ともいう。在位759~780。葛勒可汗の次男。ソグド人を重用し、マニ教を受け入れて、ウイグルの風俗を一変させた。の制度・文化の移入につとめ、国力を増大させた。宝応年(762)、僕固懐恩の娘を妻に迎え、史朝義を破り、洛陽を落とした。広徳年(763)、史朝義を平州石城県で殺し、安史の乱を終結させた。大暦十四年(779)、ソグド人にそそのかされてを攻撃しようと企て、頓莫賀に諫められたが聞き入れず、頓莫賀に殺された。
天親可汗(?~789)  名はドゥンモハ(頓莫賀)。ウイグルの四代長寿天親可汗。合骨咄禄毘伽可汗、武義功可汗ともいう。在位780~789。牟羽可汗のもとで宰をつとめた。牟羽可汗がを攻めようと図ると、諫めたが聞き入れられず、ついに可汗を殺して、自ら立った。との修好を図ったが、使者に立った叔父の董突が振武軍留後の張光晟に殺される事件が起こった。それでもなおとの友好を欲し、使を自ら接待した。貞三年(787)、の咸安公主をめとり、の臣、徳宗の子を称することを約した。また毎回の使者の人員が二百人を超えず、馬が千頭を超えないことを約した。ウイグルの回紇の称を回鶻に改めるよう請願し、認められた。
忠貞可汗(?~790)  名はタラス(多邏斯)。ウイグルの五代忠貞可汗。在位789~790。天親可汗の子。はじめ泮官特勤を称した。天親可汗の死後、擁立された。妻の少可敦葉公主とその弟により毒殺された。
奉誠可汗(773~795)  名はアチャイ(阿啜)。ウイグルの六代奉誠可汗。在位790~795。忠貞可汗の子。父可汗が毒殺されると、その弟が自立したが、まもなく吐蕃に殺されたため、擁立された。吐蕃やカルルクに敗れて一時西域への影響力を失ったが、吐蕃を破って庭州・霊州を回復し、国勢は再び振るった。
懐信可汗(?~808)  名はクトゥルク(骨咄禄)。ウイグルの七代懐信可汗。滕里野合倶録毗伽可汗。在位795~808。孤児となり、ウイグルの首長に養われて頭角をあらわした。奉誠可汗の死後、可汗位についた。西はシル河畔まで征服。インドやペルシアの来貢を受けた。
保義可汗(?~821)  ウイグルの八代保義可汗。在位808~821。懐信可汗の庶長子。天親可汗のとき、キルギスの侵攻を撃退した。貞七年(791)、吐蕃を討ち、北庭を回復した。亀茲を救援して包囲を破り、軍を進めて珍珠河にいたり、カルルク・トルギッシュを破って、勢力はフェルガナにいたった。和三年(808)、父の跡を継いで可汗として立った。十一年(816)、吐蕃の反攻を受けたが、たまたま賛普の死にあって吐蕃は軍を返し、危地を脱した。と修好し、公主の降嫁を求めたが、許されなかった。
崇徳可汗(?~824)  ウイグルの九代崇徳可汗。在位821~824。の穆宗の妹の太和公主を妻として迎えた。吐蕃と対峙したが、長慶二年(822)に吐蕃の北伐軍に敗れ、国勢は衰退に向かった。
昭礼可汗(?~832)  ウイグルの十代昭礼可汗。在位824~832。はじめ曷薩特勒を号した。長慶四年(824)、可汗位を継いだ。太和六年(832)、部下に殺された。
彰信可汗(?~839)  ウイグルの十一代彰信可汗。在位832~839。昭礼可汗の甥にあたる。はじめ胡特勒を号した。開四年(839)、ウイグルに飢饉が襲い、部族は離反した。安允合と柴革特勒による廃位の陰謀を阻止したものの、掘羅勿が沙陀兵と連絡して謀反を起こし、迫られて自殺した。
盍馺可汗(?~841)  ウイグルの十二代盍馺可汗。署颯可汗、勿篤公ともいう。在位839~841。はじめ盍馺特勤を号した。彰信可汗が沙陀突厥に攻められて自殺すると、国人により擁立された。飢疫大雪が続き、部衆や羊馬を多く失った。句録莫賀がキルギス十万騎を引き入れて来攻すると、敗れて掘羅勿とともに殺された。ウイグルはモンゴル高原から駆逐され、その部衆は大きく三分された。ひとつは南下して中国と同化し、ひとつは河西に進んで甘州ウイグルや沙州ウイグルとなり、ひとつは天山方面に入って天山ウイグル(西ウイグル)となった。
[甘州ウイグル]龐特勤-英義可汗(仁美)-狄銀-阿咄欲-順化可汗(仁裕)-景瓊-夜落紇密礼遏-禄勝-忠順保徳可汗(夜落紇)-夜落隔-懷寧順化可汗(夜落隔帰化)-帰忠保順可汗(夜落隔通順)-宝国夜落紇-伊格勒雅蘇
仁美(?~924)  甘州ウイグルの英義可汗。権知可汗を自称した。924年、後の荘宗(李存勗)のもとに遣使した。