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タタール

タタール(韃靼)]
イェスデル(?~1391)
  也速迭兒。ジョリクト・ハーン。在位1388~1391。アリクブカの子孫にあたる。1388年、北元第二代のトクズ・テムルを殺して、フビライ家の嫡統を絶った。オイラトの支持をえて、大ハーン位に即位した。
エンケ・ハーン(?~1394)
  在位1391~1394。イェスデルの子。
エルベク・ハーン(?~1399)
  在位1394~1399。エンケ・ハーンの長男。末弟のハルグチュクを殺して、妃オルジェイトを奪い、皇后とした。ゴーハイの子のバトラを丞として、オイラトを統治させた。オイラトのオゲチ・ハシハが起兵して、エルベク・ハーンを殺害した。
クン・テムル(?~1402)
  在位1399~1402。エンケ・ハーンの次男。
オルク・テムル(?~1408)
  鬼力赤。在位1402~1408。オゴタイの子孫にあたる。部下に殺された。
オルジェイ・テムル(?~1412)
  ベンヤシリ(本雅室里)。完者禿王。在位1408~1412。アリクブカの子孫にあたる。1398年、オイラートと不和で、ティムールのもとに亡命した。ティムールの東方遠征に従ったが、1405年にティムールがオトラルで急死すると、なおも東進して、1408年にビシュバリクの地でハーン位についた。モンゴル高原に帰り、アルクタイと結んだ。翌年、明の丘福率いる北伐軍をケルレン河畔で破った。1410年、永楽帝の親征軍に敗れて、オイラートに逃れた。1412年、マフムードに殺された。
ダルバク・ハーン(?~1425)
  答里巴。在位1412~1425。オイラトのマフムードがオルジェイ・テムルを殺すと、アリクブカの子孫のダルバク・ハーンを擁立した。
アダイ・ハーン(?~1438)
  在位1425~1438。オルク・テムルの子。アルクタイに擁立された。
トクトア・ブハ(?~1452)
  脱脱不花。タイスン・ハーン。在位1433~1452。1409年、明に保護され、甘粛で遊牧生活を送った。1433年、オイラートのトゴン(脱歓)に迎えられて、ハーン位についた。翌年にトゴンと連合してアルクタイを滅ぼし、1438年にはアダイ・ハーンを滅ぼした。1449年、エセンのオイラート軍と協力して明に侵攻した。エセンの姉をめとっていたが、彼女の産んだ子を皇太子に立てず、別の妻の産んだ子を皇太子に立てようとしたため、エセンと敵対した。1452年、エセンを攻めたが敗れた。ウリャンハイ部の保護を求めたが、殺された。
マルコルギス・ハーン(?~1465)
  在位1455~1465。トクトア・ブハの子。オイラートのエセンの死後、ハーンに擁立された。幼くして即位したため、実権を持たず、1465年に部下のボライ・タイシに殺された。
モーラン・ハーン(?~1466)
  在位1465~1466。トクトア・ブハの子。マルコルギスの異母兄にあたる。ボライがマルコルギスを殺すと、モーリハイ王がボライを殺してモーラン・ハーンを擁立した。しかし翌年、モーリハイに殺された。
マンドールン・ハーン(?~1479)
  在位1475~1479。トクトア・ブハの末弟にあたる。モーラン・ハーンの死後、ハーン位の空位が続いたが、ベク・アルスランに擁立されてハーンとなった。ベク・アルスランがトローゲンやイスマイルらに討たれると、その間に殺された。
バヤン・モンケ・ボルフ(?~1487)
  在位1479~1487。ハルグチュクの子。マンドールン・ハーンが即位すると、ベク・アルスランらに放逐されてオルドスにうつった。マンドールン・ハーンやベク・アルスランが殺されると、イスマイルに迎えられてハーン位についた。やがてイスマイルとの間が険悪となり、戦って敗れ、オルドスに逃れた。1487年、ヨンシエブ部族に殺された。
ダヤン・ハーン(1464?~1524)
  名はバト・モンケ。達延汗。在位1487~1524。小王子とも称する。バヤン・モンケ・ボルフの子。父の死後、ハーン位を継いた。エセン・ハーンの死後、分裂状態にあったモンゴル諸部の統一に乗り出した。1510年、ダラン・テリグンの戦いでモンゴル右翼の連合軍に勝利して、左右翼の統一に功した。のちに子弟を分封した。
ボディ・アラク(?~1547)
  在位1524~1547。トロ・ボラクの子。ダヤン・ハーンの孫にあたる。
アルタン・ハーン(1507~1582)
  俺答汗。在位1542~1582。バルス・ボルトの次男。ダヤン・ハーンの孫にあたる。はじめモンゴル右翼トメト部族を率いた。兄のグン・ビリクを補佐し、青海の遊牧民を討ち、明領にたびたび侵入した。1542年に兄が没すると、モンゴル右翼の首長に推戴され、トシェート・セチェン・ハーンを称した。オイラートやモンゴル左翼を圧倒し、明朝に侵入を繰り返した。1571年に明朝と和議を結び、順義王の称号をえた。北方や青海・チベットに領域を広げ、ラマ教に傾倒してこれを広めた。

[ハルハ]
アバダイ・ハーン(1554~1588)
  サイン・ハーンともいう。蒙古族ハルハ部左翼の首長。ノーノホの子。ダヤン・ハーンの曾孫にあたる。ハルハ部はジャライル部族ムカリの後裔。連年オイラト部を攻撃してこれを従属させた。1585年、かつてのカラコルムの地に仏教寺院エルデニ・ジョーを建立した。ダライ・ラマ三世によりノムン・イェケ・オチル・ハーンの称号を受けた。
ライフル・ハーン(?~?)
  賚瑚爾。サイン・ライフル・ハーン。バヤンダラ(巴延達喇)の子。アバダイの孫。蒙古族ハルハ部右翼を率い、ジャサクト・ハーン家の祖となる。しばしばオイラトと戦い、オイラトを屈服させた。
ジャサクト・ハーン(1581~1650)
  名はスブディ(素巴第)。蒙古族ハルハ部右翼を率いた。サイン・ライフル・ハーン(賚瑚爾)の子。ジャサクト・ハーン(扎薩克図汗)を号した。
チャグンドルジ(?~?)
  察琿多爾済。トシェート・ハーン(土謝図汗)を継いだ。ワンチュク・ジャサクト・ハーンを殺したエリンチンを討ち、これを破った。ジュンガルを頼ろうとしたシラ・ジャサクト・ハーンを殺し、またジュンガルのドルジジャブを斬った。1688年、ジュンガルのガルダン・ハーンに敗れた。

[コルチン部]
オーバ(?~1632)
  奧巴。蒙古族コルチン(科爾沁)部の首長。翁果岱の子。1624年、後金に帰順した。1626年、後金によりトシェート・ハン(土謝図汗)の称号を与えられた。後金に従って、たびたびチャハル部や明を攻撃した。

[チャハル]
リンダン・ハーン(1592~1634)
  林丹汗。フトゥクト・ハーン。蒙古族チャハル部の首長。在位1603~1634。ダヤン・ハーンの子孫にあたる。1603年、祖父ブヤンの跡を継ぎ、ハーン位に立ち、チャハル万戸を領した。明の東諸辺を犯し、建州女真と争い、モンゴル諸部の再統一をはかって転戦した。1625年に北征して、コルチン部を制した。1628年、西征してモンゴル右翼の諸部を討ち、トメット部などを制圧した。1631年、後金(のちの)を攻めたが敗れた。1634年、チベット遠征のため青海にいたる途中、甘肅の武威郊外で病没した。ラマ教を篤く信奉し、蔵文大蔵経をモンゴル文に翻訳させた。
ブルニ(?~1675)
  布爾尼。ボルジギット氏。チャハル部長。アブナイの子。リンダン・ハーンの孫にあたる。清朝により、察哈爾親王に封ぜられた。康熙十四年(1675)、三藩の乱に乗じてナイマン部などとともにに叛き、軍に敗れて殺された。

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