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ハツクニシラス考(Historical)

古代史の論点(Historical)

ハツクニシラス考

この論文は、『古代の風』97号、98号に掲載していただきました。
目次

   「二人のハツクニシラス」
   「初国」の用例について
   「所知」について
   神武の称号

1.「二人のハツクニシラス」

「二人のハツクニシラス」論というものがある。井上光貞・直木孝次郎等によって、展開されたものだ。神武架空の論拠の一つとされる。以下に要約しよう(井上『神話から歴史へ』(『日本の歴史』1)、直木『日本神話と古代国家』による)。

1、神武と崇神の両者が同じ「ハツクニシラススメラミコト」の称号を持っていて、この称号は「建国第一代」を示す。

   始馭天下之天皇(神武)<神武紀>
   御肇国天皇(崇神)<崇神紀>
   所知初国之御真木天皇<崇神記>

2、二人の「ハツクニシラス」すなわち「建国第一代」がいるはずがない。

3、神武は架空の存在であり、崇神が真の「建国第一代」である。

これに対し、古田武彦は以下のように批判した(『盗まれた神話』等)。

1、神武の場合、『古事記』には「ハツクニシラススメラミコト」の称号が存在しない。従って、少なくとも『古事記』においては、この「二人のハツクニシラス」論は立できない。

2、神武の「始馭天下之天皇」を「ハツクニシラススメラミコト」と読むのは、傍訓によるものであり、原文に属すものではない。この種の「傍訓」は奈良朝の古写本(佐々木信綱旧蔵巻一神代上断簡、猪熊本巻一神代上断簡、四天王寺本巻一神代上断簡等)にはない。従って「傍訓」たる「ハツクニシラススメラミコト」に拠って立論することは、史料批判上、根拠が無い。

3、神武の「始馭天下之天皇」は「ハツクニシラススメラミコト」とは必ずしも読めない。

この批判は、もっともだ。では、神武・崇神のこれらの称号はいかに捉えるべきか。「ハツクニシラス」の傍訓に拠らずに考えてみよう。
2.「初国」の用例について

さて、以上のような批判の後、古田は『古事記』の中の「初国」を「規征服地」であるとして、崇神の称号「所知初国」は、領土拡大の英主の称号であって、建国者のそれではないとした。古田の説を要約しよう(古田前掲書参照)。

1、崇神の「所知初国」<記>の「初国」に対する概念として、『古事記』には「本国」という概念がある。

2、「本国」とは「故国」である。崇神にとっての「故国」は大和盆地である。

3、崇神は大和盆地の外へ、しく「東方征服」をし、これに関連して、「初国統治」の称号を得た、と記では語られている。

4、つまり「本国」なる大和盆地に対し、「東方の規征服地」が「初国」である。

5、この「所知初国」の称号は「しい征服地を統治する天皇」という意味であって、「建国第一代」を示すものではない。

6、「御肇国天皇」<紀>も意味・実質は同じ。語的表現である。

7、神武の「始馭天下之天皇」は素直に「始めて天下に馭しし天皇」と読み、「建国第一代」にふさわしい。

しかしながら、古田のこの解釈には問題がある。氏は『古事記』中の「初」や「本」「本国」の用法から「初国=規征服地」の帰結を得たようだが、『古事記』の全用例によってみても、「初」と「本」とは対応していない。「論より証拠」だ。『古事記』での「本(本国)」と「初」の用例を列挙し、それぞれを検討してみよう。

まずは「本(本国)」だ。

A-起源。初め。基本。みなもと。根源。生来。本来。従来。

   亦、姓におきて日下を「くさか」と謂ひ、名におきて帯の字を「たらし」と謂ふ。此の如き類、本の随に改めず。<序文>
   我が女は、本より八稚女在り。是の高志之八俣遠呂智、年毎に来て喫へり。<神代記、須佐之男命の大蛇退治>
   是に大穴牟遅神、其の菟に教へ告ぐ。「…(略)…汝が身、本の膚の如く必ず差えむ」と。故、教への如せしに、其の身、本の如くなりき。<神代記、稲羽の素菟>
   故、今の諺に「雉の頓使」と曰ふ本、是なり。<神代記、天若日子>
   亦、一千鉤を作り、償へども受けず、「猶其の正本の鉤を得む」と云ひき。是に其の弟、泣き患ひて海辺に居りし時、塩椎神来りて、問ひて曰く「…(略)…」と。答へて曰く「…(略)…多くの鉤償へども、受けず。『其の本の鉤を得む』と云ふ。故、泣き患ふ。…(略)…」<神代記、海幸彦と山幸彦>
   是に大后、神を帰せ、言教へ覚し詔りしく「西方に国有り。金銀を本とし、目の炎耀く、種種の珍宝、多に其の国に在り。吾今其の国を帰せ賜ふ」と。<仲哀記>
   是に其の身、本の如く安らかに平らぎき。(此は「神うれづく」の言の本なり)<応神記>
   本、難波宮に坐しし時、<履中記>

B-ふるさと。故国。故郷。

   凡そ他国の人は、産む時に臨み、本国の形を以て産生む。故、妾、今、本の身を以て産を為す。<神代記、鵜葺草葺不合命>
   其の弟王二柱は、甚だ凶醜に因り、本土に返し送る。<垂仁記>
   然るに其の大后の嫉みを畏み、本国に逃げ下りき。<仁徳記>
   是に置目老媼白ししく「僕は甚だ耆老たり。本国に退らむと欲す」と。<顕宗記>

C-ねもと。ふもと。地勢表現。

   黄泉比良坂の坂本に到る時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて待ち撃たば、悉くに迯げ返るなり。<神代記、黄泉国>
   伯伎国の手間の山本に至りて云ふ。<神代記、八十神の迫害>
   足柄の坂本に到り…<景行記>

D-その他。

   本教に因りて土を孕み嶋を産みし時を識り…<序文>(「この」等の意味。「本書」「本稿」「本件」等の「本」)
   諸家の齎す帝紀及び本辞<序文>(今は固有名詞と見ておく)

『古事記』の「本」の用法は大きくこの四つに分類出来るだろう(他に「ほ」の表音表記が多数あるが、これは省く)。見て解るように、「初」と対応する例は一つも無い。「本国」はBの用法だが、ここで対応していると見られるのは「他国」である。

次に「初」の用例を見よう。

   1.夫れ、混元既に凝り、気象未だ效れず。…然れども、乾坤初めて分れ、参神造化の首を作す。<序文>
   2.是を以て、番仁岐命、初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に経歴す。<序文>
   3.天地初めて発く時、高天原に成れる神の名は…(略)。次に国稚く浮きし脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は…。<神代記、別天神五柱>
   4.…初め中瀬に堕りかづきて漱ぐ時、成り坐せる神の名は…。次に其の禍を直さむと為て成れる神の名は…。<神代記、禊祓と神々の化成>
   5.[玄玄]に大神、初めて須賀宮を作りし時。<神代記、須佐之男命の大蛇退治>
   6.是に火遠理命、其の初めの事を思ひて、大きなる一歎す。<神代記、火照命の服従>
   7.是に初めて男弓端の調・女手末の調を貢がしむ。<崇神記>
   8.故、其の御世を称へ、初国知らしし御真木天皇と謂ふなり。<崇神記>
   9.此の太子の御名、大鞆和気命と負ひし所以は、初め生れし時、鞆の如き宍、御腕に生り。<仲哀記>
   10.天皇初め天津日継知らさむと為し時<允恭記>

どれ一つとして「本」と対比されている用例は無い。3や4を見れば、むしろ「次」と対応しているといえる。また、古田が「本」と対応しているとした1や6についても、必ずしも「本」と対応する形で「初」があるのではない。全用例、「物事のはじめ、とっかかり、第一番目」という通常の意味である(ただ、9に関しては「生まれたばかり」の意味が適当だろう)。

   <初>
   一、はじめ。イ、おこり。ロ、まへかた。むかし。以前。ハ、もと。根本。
   二、ふるごと。
   三、はじめの。はつ。
   四、はじめて。はじめに。<諸橋大漢和辞典>

と、あるとおりだ。従って、「初国」は「はじめの国」「第一番目の国」「はじめに(建てた)国」の意味と考えるのが、ごく自然な解釈と言えよう。或は、9の用例のように、「立したばかりの国」といった解釈も可能であるかもしれない。

さらに、『出雲国風土記』に「初国」の用例がある。

   所以号意宇者、国引坐八束水臣津野命詔、八雲立出雲国者、狭布之堆国在哉。初国小所作。故、将作縫詔而。
   (意宇と号く所以は、国引き坐しし八束水臣津野命詔しく「八雲立つ出雲国は、狭布の堆き国在るかな。初国小さく作れり。故、作り縫はむ」と詔して…)<出雲国風土記、意宇郡、国引き>

ここでは、明確に「初国」は「初めに作った(小さい)国」の意味だ。国引き前の「小出雲国」を指している。決して国引き後の(規の)「大出雲国」を指してはいない。勿論、この『出雲国風土記』は和文臭の強い「国風文」であり、「初国」を文字通り「はつくに」という言葉として捉えてよいのかという問題はある。「はじめに、国、小さく作れり」という読み方も可能ではある。いずれにせよ、文意に大差は無く、「本」に対応するような用例ではない。以上によって、『古事記』の「初国」が「本国」と対応する概念である、という古田の指摘は非であることが、明らかとなった。

次に『書紀』の「肇国」について、このような例がある。

   乃穆考文王、肇国在西土。<尚書、酒詰>

ここでは、「肇国(国を肇む)」は「建国」の意味だ。古田は書紀の「肇国」を「初国」の文的修辞に過ぎないとしているが、その文における「肇国」が「建国」の謂いであることは注目すべきだろう。
3.「所知」について

さて、崇神の称号「所知初国」「御肇国」について、より分析を深めよう。先述のように、「ハツクニ」の意義は解った。「初国」「肇国」は「初めて建てた国」だ。次は「シラス」だ。『古事記』の「所知」の用例を見よう。その係り方によって、ABに分類した。

A-「所知」が「国(国名・領域名を含む)」に係るもの

   賜天照大御神而詔之、汝命者、所知高天原矣、事依而賜也。…次詔月読命、汝命者、所知夜之食国矣、事依也(注略)。次建須佐之男命、汝命者、所知海原矣、事依也。<神代記、三貴子分治>
   豊葦原之千秋長五百秋之水穂国者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命之所知国<神代記、天菩比神>
   此葦原中国者、我御子之所知国。<神代記、天菩比神>
   汝之宇志波祁流(注略)葦原中国者、我御子之所知国。<神代記、建御雷神>
   此豊葦原水穂国者、汝将知国。<神代記、天孫降臨>
   吾者坐纏向之日代宮、所知大八嶋国、大帯日子淤斯呂和気天皇之子、名倭男具那王者也。<景行記>
   凡[玄玄]天下者、汝非応知国。汝者向一道。<仲哀記>
   凡此国者、坐汝命御腹之御子、所知国者也。<仲哀記>

B-「ひつぎ」(「天津日継」「日継」「日続」)に係るもの

   唯僕住所者、如天神御子之天津日継所知之登陀流(注略)天之御巣而…<神代記、国譲り>
   宇遅能和紀郎子所知天津日継也。<応神記>
   天皇初為将所知天津日継之時、天皇辞而詔之、我者有一長病。不得所知日継。<允恭記>
   天皇崩之後、定木梨之軽太子所知日継。未即位之間…<允恭記>
   於是問日継所知之王、市辺忍歯別王之妹、忍海郎女、亦名飯豊女王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。<清寧記>
   天皇既崩、無可知日続之王。<武烈記>

以上のように、大きく二つの用法に分類できる。この両者は一見同義のようであるが、多少のニュアンスの違いを持っている。Aは「国」や「国名(及びそれに準ずるであろう領域名―「高天原」「海原」等)」を目的語に持ち、その「国」の統治を表している。一方、Bは「日継」を目的語に持ち、「皇位を継承する」の意味である。@古事記』中・下巻の用例が全て「皇位継承」にまつわることからも明らかだ。

さて、今問題となるのは、Aの用法だ。崇神の「所知初国」は、Aの用法に合致する。「統治」を示す用法である。従って、「所知初国」は「初めて建てた国を統治する」の意味だ。やはり、「ハツクニシラススメラミコト」の称号は、「建国者」を意味していたのである。

また、『書紀』の「御肇国」の「御」にも、「統治」の意味がある。

   飛鳥清原大宮に大八洲御しし天皇の御世に曁りて…<古事記、序文>
   素戔嗚尊曰く「韓郷の嶋は、是金銀有り。若使、吾が児の御す所の国、浮宝有らずは、未だ是佳からじ」と。<神代紀、第八段、一書第五>
   又詔して曰く「吾が高天原に御す所の斎庭の穂を以て、亦吾が児に御さしむべし」と。<神代紀、第九段、一書第二>

こういった具合だ。さらに、記紀の説話自身も崇神=建国者を支持している。崇神記の説話を以下にまとめてみよう。

a.美和の大物主大神の祭祀の開始。天神地祇の社の制定。

b.高志道、東方十二道、旦波国への進出。

c.山代国の建波邇安王を討つ。

d.「調」の開始。

『書紀』も本筋において同じだ。aやdのテーマ、これは重大だ。「古代王者」の必須項目と言える。これらが行われるようになったのが崇神の時代だと、記紀は述べているのである。そして、これらの業績を受けて、「所知初国」の称号が現れるのである。説話の上からも、崇神は「建国者」の資格を十分に備えていると言っていいのである。
4.神武の称号

では、神武の「始馭天下」の方はどうだろうか。先の「所知国」の用例(A)の中に、神武記の用例が無いことを覚えておこう。

まず、「始馭天下」の「馭」の用法だ。これは「御」とも通じ、やはり「統治」を示すものと考えてよい。

   故、其の父母勅して曰く「仮使、汝此の国を治らば、必ず残傷する所多くあらむ。故、汝以て極遠の根国に馭すべし」と。<神代紀、第五段、一書第二>

という用例もある。

次は「天下」だ。ここで一つ注目したい点がある。『古事記』での「治天下」だ。『古事記』において「治天下」は言わば決り文句だ。用例は数多い。『古事記』の「治天下」は神武以降推古まで、全天皇に記されている。欠けるところは無い。実は、この「欠損部ナシ」という史料事実こそが、「治天下」の語の政治的意味を示唆している。それは、「天皇」称号と対応したものだ。記紀に言わせれば、「天皇になる」ことと「天下を統治する」こととは、同義だ。この点、邇邇芸や天津日高日子穂穂手見は、「治天下」とは書かれていない。彼等が「天皇」称号を持たないことと対応しているようだ。(『書紀』においては以下の用例がある。

   已而伊奘諾尊、勅任三子曰く、天照大神者、可以治高天原也。月読尊者、可以治滄海原潮之八百重也。素戔嗚尊者、可治天下也。<神代紀、第五段、一書第六>
   (大己貴神)遂因言、今理此国、唯吾一身而已。其可与吾共理天下者、蓋有之乎<神代紀、第八段、一書第六>

と、あるように、天皇以外にも「天下を治めた」者がいる。いずれも「神代」すなわち「天皇以前」であり、しかも「出雲系」であることは興味深い)

神武や崇神が、当時から「天皇」号を用いていた、と考える論者は、今日ではいないだろう。「天皇」号の立は、早くて推古朝、或は、天武・持統朝というのが一般的だ。だから、記紀に見える「天皇」号は、明らかに後代の付加だ。それならば、「治天下」の表示も同じだ。後代の付加である。実際に「天下を統治した事実」の表示ではない。記紀の主張に属するところだ。この目で「始馭天下之天皇」を見れば、これも同じなのではないかという疑いが生まれる。記紀において、神武天皇は紛れも無く「はじめの天皇」だ。言いかえれば「初めて即位した天皇」であり、「初めて天下を統治した天皇」である。そして、果たして「始馭天下之天皇」という称号が書紀に現れたのだ。そう考えるのが自然だ。さて、『古事記』に戻ろう。神武記には神武紀のような称号は無い。これが第一点(古田が指摘している)。次に、先も少し触れたが、神武記には、「神武天皇は○○国を統治した」旨の記述が無い。唯一、

   坐畝火之白檮原宮、治天下也。

これだけだ。一方、「国」そのものは神武記にも登場する。

   豊国、竺紫、阿岐国、吉備、紀国、葦原中国

これらである。「天下」という語によって、これら「国」の支配を全て言い尽くしているのだ、そのようにも解せよう。『古事記』編者の立場はそのとおりであろう。だが「神武東征」を「建国説話」と見る時、神武記にはなんとしても足りないものがある。それは「建国のエピソード」だ。「建国説話のない建国説話」なのだ。「素朴」などという言葉では、説明がつかない。これは「建国説話」ではないのである。この点、書紀は十分だ。「日本国」の国号起源説話等が盛り込まれている。「建国説話の無い古事記」と「建国説話のある書紀」いずれが原型だろうか。「記紀は天皇家の有利になるように加削しても不利になるように加削することはない」という古田の言葉を借りれば、やはり、「建国説話を持たない古事記」のほうが原型に近いだろう。もともとあった「建国のエピソード」をわざわざ削る謂れは無いのである。書紀の側が「建国説話」として立するように形を整えたのである。つまり、この「神武東征」説話は、その原型において「建国説話」などではなかったのである。すなわち、神武は「建国者」ではない。

ここで、一つの疑問が生じる。

「何故、神武が初代の天皇なのか」という問いだ。「国生み」の伊奘諾神や、皇祖神たる天照大神はもとより、「天孫降臨」の瓊瓊杵尊を始めとする「日向三代」も天皇ではない。また、「建国者」崇神は、初代ではなく、第十代だ。この答えは、実は簡単だ。神武は「天皇家」という氏族の始祖なのだ。九州から大和の地にやってきて「天皇家」という氏族を築いた。それが神武なのだ。つまり、「建国者と始祖は別」なのだ。後代、記紀編者は、「天皇家」の正統継承者(と記紀が見なした者)全員に「天皇」号と「治天下」を付加したのだ。だから、始祖以前の「日向三代」は「天皇」ではないのである。「氏族の始祖と建国者が別」という概念は、常軌を逸したものだろうか。そんなことはない。例えば源氏。鎌倉幕府を建てたのは源頼朝だ。だが、彼は源氏の始祖ではない。中国歴代の王者達も、決して初代の皇帝が、彼等の始祖なのではない。むしろ、彼等の祖先からの勢力基盤の上に立って、それを背景にしながら徐々に力をつけていった、それが自然なあり方だ。九州から大和にやってきて、建国者・崇神の勢力基盤を作った祖が、神武だったのである。

以上をまとめよう。

第一に、「二人のハツクニシラス」論によって、神武の架空を証明することは出来ない。

第二に、一方、古田の提示した「初国=規征服地」説は、立できない。

第三に、真の「建国者」は崇神であり、神武は「建国者」ではない。

付言しよう。今まで、崇神が「建国者」であると見なす論者は決して少なくは無かった。むしろ、大勢を占めていると言っていい。だが、このことによって、ただちに神武の架空が導き出されると考えられてきたふしがある。「二人のハツクニシラス」論が、神武架空の有力な証拠の一つと見なされたのも、その現れだ。しかしながら、崇神が「建国者」であることと、神武が実在であることは、決して矛盾しない。私が提示したとおりである。

また、「建国」の意義についても所論の有るところだ。崇神は「記紀における建国説話の主人公」としての「建国者」であることを、最後に断っておく。