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ハーグ密使事件

ハーグ密使事件 ハーグみっしじけんHaeg milsa sakǒn
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
ハーグ密使事件
ハーグみっしじけん
Haeg milsa sakǒn
隆煕1 (1907) 年6月,オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮 (大帝国) の高宗皇帝が密使を派遣し,光武9 (05) 年の第2次日韓協約 (保護条約) が日本の強圧によるもので無効であることを訴えた事件。日本代表小村寿太郎の妨害工作だけでなく,すでに桂=タフト密約,第2次日英同盟,日露講和条約などで,日本の朝鮮支配を欧米列強に了解させていたので,この密使の要請を欧米代表が取上げなかったため,失敗した。この計画は宮廷の御雇教師 H.ハルバートが立案したもので,この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議し,日本の外務大臣林薫と協議のすえ,皇太子の摂政を強く要求した。7月 19日皇帝は詔書で皇太子の摂政を表したが,日本側はこれを譲位と宣伝し,ついに摂政に譲位させた。民心は険悪になり,各所で官憲や日本人と衝突,李完用内閣閣僚は暗殺を恐れて日本側に保護を求めるなど騒擾状況のなかで同 27日日本の傀儡として純宗皇帝が即位し,日協約が結ばれ,8月1日には軍隊が解散されて,日本は朝鮮の内政干渉権までを手にした。

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デジタル大辞泉の解説
ハーグ‐みっしじけん【ハーグ密使事件
1907年、国の李太王が、ハーグで開かれた第2回万国平和会議に日本の侵略の真を訴えようとして密使を送った事件。会議への参加を拒否されたうえ、かえって日本による植民地化推進の口実となった。

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百科事典マイペディアの解説
ハーグ密使事件【ハーグみっしじけん】
1905年の第2次日韓協約で日本に外交権を奪われた国(大帝国)が,1907年ハーグで開催中の第2回万国平和会議に国皇帝の全権委任状をもった密使を派遣,主権の回復を訴えようとした事件。
→関連項目高宗|李朝(朝鮮)

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世界大百科事典 第2版の解説
ハーグみっしじけん【ハーグ密使事件
1907年6月,オランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれることを知った朝鮮国王(高宗)は,国際会議の場で朝鮮が日本の支配下におかれていることの窮状を訴え,日保護条約(1905)が無効であることを列国に承認させようと計画,アメリカ人H.B.ハルバートらの援助を得て,李卨(りそうせつ),李儁(りしゆん),李瑋鍾(りいしよう)の3名を代表としてハーグへ派遣した。彼らは平和会議への朝鮮代表の参加を実現しようと試みたが,朝鮮は〈外交権〉を失っているという理由で受け入れられなかった。

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大辞林 第三版の解説
ハーグみっしじけん【ハーグ密使事件
1907年(明治40)ハーグでの第二回平和会議に国が日本の併合政策に抵抗して密使を派遣した事件。外交権を失っていた国は参加を拒否され、以後、日本は国保護国化を急いだ。

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