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モンゴル帝国

モンゴル帝国(1206~14c.)]
モンゴル帝国,(世祖期,宗期以後),ケレイト,ナイマン,ホラズム
太祖(チンギス)-太宗(オゴタイ)-定宗(グユク)-憲宗(モンケ)…
チンギス・ハーン(1162~1227)
  幼名はテムジン(鉄木真)。モンゴル帝国の創設者チンギス・ハーン(吉思汗)。追尊して太祖という。在位1206~1227。イェスゲイの子。母はホエルン。モンゴル部ボルチギン部族のキヤン氏の出身。モンゴル部の有力な氏族に生まれたが、父がタタールに毒殺されて後、タイチウド族をはじめとして人々が離反し、家族は困窮した。タイチウド族に命を狙われたが、ソルカン・シラ父子の助けでどうにか逃れた。コンギラト族の娘ボルテを妻に迎えたが、メルキドに妻を奪われ、父の義兄弟(アンダ)だったケレイトのトオリル(汪罕)やジャムカ(札木合)と結び、メルキドを討った。1189年、キヤン氏に推されて、モンゴル部の可汗に即位。義兄弟の契りを結んだジャムカと争い、一度は敗れたが、まもなく勢力を回復。テムジンとトオリルの連合軍対ジャムカとタタール・メルキド・ナイマンの諸部族の連合が、コイテンの野に大会戦をおこなって、テムジン・トオリル側が勝利した。やがて、テムジンとトオリルは決裂し、トオリルは敗残のジャムカと結んで夜襲戦をしかけたが、敗北した。テムジンはケレイトを滅ぼし、逃亡したジャムカを追ってナイマンを討ち、さらにメルキドを討ってジャムカを捕らえて処刑した。1206年、モンゴル高原を平定して、クリルタイを召集し、チンギス・ハーンの称号を受ける。三回にわたって西夏を討って従属させ、朝に遠征。モンゴルの通商使節が、オトラルの知事に殺されると、中央アジアのホラズムに遠征。各地で都市を略奪、破壊、虐殺を繰り返しながら西進。ホラズム王ムハンマドをカスピ海の孤島に追いつめて窮死させた。中央アジアから帰還すると、西夏に遠征して滅亡させたが、まもなく病死した。
石抹明安(1164~1216)
  桓州の人。契丹の出身。に仕え、モンゴルに使いした。1212年、モンゴル軍がの撫州を破ると、モンゴルに降った。軍を率いて雲中を取り、河北諸郡を経略した。1215年、通州を取り、中都を囲み、中都を降した。軍兵馬都帥となり、太保を加えられた。このため明安太保と称せられた。
石抹也先(1177~1217)
  石抹阿辛、石抹耶先ともいう。契丹の出身。の蕭氏の後裔。チンギス・ハーンが起兵すると、モンゴルに投じた。1215年、ムカリ軍の先鋒としての東京を取り、北京を破った。北京達花赤を領し、御史大夫に任ぜられ、蕭大夫と称された。一万二千人の精鋭の兵士を募集して、黒軍と号した。興中府の土豪石天応を降し、錦州の張鯨を捕殺し、ムカリに従って張鯨の弟の張致を討った。蠡州で戦死した。
ムカリ(1170~1223)
  木華黎。ジャライル部族の出身。はじめ父に連れられてチンギス・ハーンに差し出され、近習として仕えた。華北・中国東北部の経略に功績を挙げた。1217年、太師・国王の称号を受けた。四駿のひとり。
ジュチ(1172~1227?)
  求赤、または拙赤。チンギス・ハーンの長男。母ボルテがメルキドに奪われて、奪回した直後に生まれたため、チンギスに実の子であるか疑われたという。そのため、モンゴル語で客人を意味する名を与えられた。父に従い、・ホラズムの征戦に参加した。1217年、キルギスタンを征服。1219年、シル河畔地方を占領。キプチャクの地方を領地として与えられた。キプチャク(帳)汗国の祖とされる。
トゥルイ(1193~1232)
  睿宗と追尊された。チンギス・ハーンの四男。父に従って西征した。父の死後に監国となり、クリルタイを主宰した。兄のオゴタイを汗位につけることに賛同し、領地を兄に献じた。オゴタイの国遠征では右翼軍を率いて、三峯山で完顔哈達率いる軍主力を撃破した。北帰する帰途に、病をえたオゴタイの身代わりになると言って酒杯を飲み干して急死したという。
粘合重山(?~?)
  女真の出身。の貴族の生まれであったが、モンゴルに人質に出された。チンギスに馬四百匹を賜り、宿官必闍赤となった。諸国の平定戦に従軍して功績を挙げた。州を囲んだとき、大旗を振るって軍を指揮していたが、手に流れ矢を受けて動かなくなった。侍従官となって、宮廷の酒宴に侍ったが、酒に溺れて統治を忘れることを諫めた。中書省が立てられると、左丞に上った。1235年、オゴタイが南を攻めると、従軍して軍前行中書省事をつとめた。江淮地域に進軍して、民三十万あまりを降伏させ、定城・天長の二邑を奪い、一人も殺さなかったという。死後、太尉を追贈され、国公に追封され、忠武と諡された。
オゴタイ・ハーン(1186~1241)
  窩闊台汗。追尊して太宗という。在位1229~1241。チンギス・ハーンの三男。アルタイ山脈南麓の草原地帯に封ぜられた。父の死後、弟トゥルイの監国を経て、モンゴル帝国の第二代のハーン位に推戴された。父の遺志をついで朝を滅ぼした。さらにバトゥらの西征軍を派遣。ロシアを占領し、ポーランド・ハンガリーにまで進出した。1235年、カラコルム(ハラホリン)に万安宮を築いて首都とした。中央官庁を創設し、税制を定めるなど、統治制度を整備した。「財宝があっても死を免れることはできない。大切なのは人民の心の中に財宝を蓄積することだ」といって気前よく衆に財を分かったという。平生から酒を嗜んで、耶律材に諫められた。1241年、狩猟の帰途に深酒して床につき急逝した。
チャガタイ(?~1242)
  察合台。チンギス・ハーンの次男。チンギス・ハーンに従ってを討ち、ホラズム遠征に参加した。1229年のクリルタイでは、弟のオゴタイを推した。ジュンガル・東トルキスタン地方に封ぜられ、アルマリクを都とした。チンギス・ハーンの法令(ヤサ)を厳格に運用して統治し、イスラム教徒らに恐れられた。チャガタイ(察合台)汗国の祖とされる。
耶律阿海(?~?)
  の末裔。はじめに仕えて、ケレイト部のトオリルのもとに使者として立った。のちに弟の耶律禿花とともにテムジンに帰順した。1203年、西夏への進攻に従って功績があった。モンゴル帝国建国ののち、征戦に従ってしばしば先鋒となった。1214年、太師に任ぜられた。1219年、チンギス・ハーンに従って西域に向かった。翌年、ボハラやサマルカンドで勝利した。のちにサマルカンドの留監となった。享年は七十三。
耶律材(1190~1244)
  字は卿、号は湛然居士。諡は文正。モンゴルではウルト・サハル(長髭の人)と呼ばれた。京の人。耶律履の子。の東丹王・倍の八世の孫にあたる。首席で進士に及第して朝に仕えた。中都留守の完顔承暉のもとで、左右司員外郎をつとめた。中都が陥落すると、チンギス・ハーンに召し出され、その侍臣となった。儒学・天文・地理・律・暦・術数に詳しく、釈・老・医・卜に通じていた。チンギス・ハーンの死後、オゴタイに仕え中書令に任ぜられた。死後、太師の官を追贈され、広寧王に追封された。『西遊録』、『湛然居士集』。
テムゲ・オッチギン(?~1246)
  鉄木哥斡赤斤。チンギス・ハーンの末弟にあたる。1206年にチンギスが即位すると、興安嶺方面に八千戸を与えられた。国遠征にあたって左翼軍を率いて活躍した。オゴタイの代となると東方三王家を掌握して、帝国の最長老として勢威をふるった。オゴタイが崩ずると、兵を率いてカラコルムに乗り込み、かれの主導でクリルタイを開催しようとしたが、グユクの帰還のため阻まれた。グユクの即位の直後に没した。
スブタイ(1176~1248)
  速不台。または速別額台。ウリャンハ部族の出身。騎射を得意とした。1219年、チンギス・ハーンの西征に従い、ジェベとともに先鋒をつとめた。ホラズム王ムハンマドを追撃し、コーカサス山脈をえてロシア平原にいたり、キプチャク族・南ロシア諸侯の連合軍を撃破した。オゴタイ即位の後、トゥルイに従って朝を攻め、三峯山・汴州・州の戦いに参加した。1235年、バトゥの西征軍の副司令官となり、ロシアの諸侯国を各個撃破した。また分遣隊を率いてポーランドに侵入し、ワールシュタットの戦いでヨーロッパ連合軍を撃破し、ハンガリーに侵入した。四狗のひとり。
グユク・ハーン(1206~1248)
  貴由汗。追尊して定宗という。在位1246~1248。オゴタイの長男。オゴタイの国遠征のとき、一軍を率いて中国東北にあった蒲鮮万奴の東国を滅ぼした。またバトゥの西方遠征に加わり、主将のバトゥと衝突して東帰の途中、父ハーンの死を知って帰国した。後継者をめぐって対立があったため、しばらく母のドレゲネが国政を執った。モンゴル帝国の第三代のハーン位に推戴された後も、病弱のため母が摂政した。かれの代に・高麗への攻撃が強化された。酒色に節度がなく、バトゥの叛乱を討伐するための征途に病死した。
プラノ・カルピニ(1200?~1252?)
  名はジョヴァンニ。イタリアの人。フランチェスコ会の修道士となる。南ドイツで伝道につとめた。1223年、ザクセン教区の副管区長となり、翌年ケルンに転任。1228年、ドイツ教区管区長。1230年、スペイン教区管区長。教皇インノケンティウス4世の命で、布教と偵察のためにモンゴルに使いした。1245年にリヨンをし、翌年にカラコルムでグユクに謁見した。1247年に返書をたずさえて帰国した。アンティヴァリ大司教・ダルマティア大司教に叙せられた。『モンゴル人の歴史』。
バトゥ(1207~1255)
  抜都。在位1243~1255。ジュチの次男。チンギス・ハーンの孫にあたる。兄のオルダが病弱なため、ジュチの門地を継いだ。1236年、オゴタイの命により総司令官として西征した。南ロシア諸侯国を各個撃破したのち、一軍を割いてポーランドに侵入させ、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破させた。自身は本軍を率いてハンガリーに侵入し、サヨ河畔でハンガリー軍を殲滅した。オゴタイの死の報が伝わると撤退したが、サライにとどまってキプチャク(欽察,帳)汗国を建て、征服地を所領とした。グユク・ハーンには従わなかった。グユクが没すると、最長老としてクリルタイを召集し、モンケの擁立に尽力した。
モンケ・ハーン(1209~1259)
  蒙哥汗。追尊して憲宗という。在位1251~1259。チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男。バトゥに従ってヨーロッパ遠征に参加した。グユクの死後、グユクの后オグル・ガイミシュがしばらく執政した。オゴタイ・チャガタイ系がクリルタイに欠席する中で、モンゴル帝国の第四代のハーン位に推戴された。帝位につくと、反対派を粛し、オゴタイ・チャガタイ系の所領を細分化した。弟フビライを中国に、弟フラグをペルシアに派遣して、征服戦争を拡大した。かれは寡黙で、狩猟と巫卜を好み、モンゴルの祖法を固く遵守した。かれの治世に雲南・大理・チベットを征服した。1258年、みずから南に出征したが、陣中で崩じた。
楊惟中(1205~1259)
  字は彦誠。弘洲の人。チンギス・ハーンのとき、孤童としてオゴタイに仕えた。1224年、西域三十余国に使いした。オゴタイのとき、伐に従い、儒者数十人を都に送った。ついに経書に通じ、道をもって天下を治めたいと欲した。のちに中書令に任ぜられた。モンケ即位後、フビライに従い、河南道経略使・陝右四川宣撫使・江淮京湖南北路宣撫使を歴任した。
フラグ(?~1266)
  旭烈兀。在位1258~1266。トゥルイの子。モンケやフビライの弟にあたる。モンケ・ハーンの命を受けて、西征の軍を率い、ペルシアおよびイラクに侵入。1258年、バグダッドを占領してアッバース朝を滅ぼした。次いでシリアに侵入して、ダマスクスを占領。マラガを都としてイル(伊児)汗国を建国した。のちにダブリーズに遷都した。
アリクブカ(?~1266)
  阿里不哥。チンギス・ハーンの末子トゥルイの七男。モンケ、フビライの同母弟にあたる。1259年、モンケ・ハーンが没すると王位継承を画策。翌年、フビライに対抗してカラコルムで即位した。しかし同年のうちにフビライの大軍の前に敗走。1264年、フビライに降った。死を免じられたが、まもなく大都で没した。
ルブルク(1215?~1270?)
  フランドルの人。フランチェスコ会の修道士となる。1252年、第七次十字軍に従軍した。イスラム勢力の挟撃をもくろんだルイ9世の命により、モンゴルへの使者となる。翌年、バトゥに謁見した。1254年、カラコルムにいたり、モンケに謁見した。翌年、返書をたずさえて帰国した。『蒙古帝国旅行記』。
ナヤン(?~1287)
  乃顔。チンギス・ハーンの弟テムゲの玄孫にあたる。オッチギン家を継ぎ、モンゴルの東北部で諸藩王を統率した。1287年、ハイドゥの乱に参加して挙兵した。フビライの親征を受けて、シラ・ムレン(潢河)北岸で大敗して捕らえられ、処刑された。
ハイドゥ(?~1301)
  海都。カシーの子。オゴタイの孫にあたる。カヤリクに封ぜられた。大汗位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、フビライに敵対した。アリクブカを支持し、アリクブカの死後もフビライの懐柔に応じなかった。キプチャク汗国のマングティムールやチャガタイ汗国のボラクを味方に引き込んで戦火を拡大させた。その武威はすさまじく、フビライの子・ノムガンを捕らえ、バヤンを敗走させた(ハイドゥの乱)。叛乱は三十年余も続いて、朝と四汗国の結合を破り、モンゴル帝国を疲弊させた。1301年、に総力戦を挑み、カラコルム付近で激戦を繰り広げたが、敗れて逃れる途中に病没した。
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モンゴル帝国

○モンゴル高原の統一
 さて、現在我々がモンゴル高原と呼んでいる場所。
 平均標高1600メートルのこの場所では、が滅んだころより遊牧民族の各部族が抗争を繰り広げていました。そんな中、12世紀の半ば過ぎ。全世界の歴史に影響を与えることになる人物が生まれました。その男の名前はテムジン。後の、チンギス=ハン(1167頃~1227年)です(ジンギスカンなど、呼び方は色々)。

 テムジンは、遊牧民族の1つであるモンゴル族の一首長、イェスゲイの息子でしたが、9歳の時、イェスゲイは、敵対するタタール族によって、毒殺されます。この地が中国であれば、幼くても息子がその地位を継ぐでしょう。しかし、モンゴルはそうはいきません。なぜならば、モンゴル高原は大変気候の厳しい場所です。我々は、モンゴルと聞くと大草原を思い浮かべがちですが、岩がごろごろとしたところや、砂漠もあります。しかも、は案外少なく、一年の大部分は雪で覆われる。そんな地域です。

 で、この地域で生き抜くためには、強大な指導者が必要。9歳の子供ではお話になりません。イェスゲイ死後、その傘下にいた人々は、みな去っていきました。テムジンは、母と弟たちだけで生活することになります。当然、過酷な環境です。

 しかし、テムジンは狩猟採集で自活し、決断力、実行力、統率力、それから冷酷さを身につけます。やがて、長したテムジンを支援する人々が出てきました。そして、人が集まるようになり、他部族との戦いに勝利して、また人が集まる。そして、モンゴル高原を統一したのでした。

 テムジンは諸部族による有力者の会議、クリルタイにおいて指導者と認められ、ハンという称号が与えられます。ハンとは王というような意味で、モンゴルだけでなく、遊牧民族一般によく見られる称号です。チンギス=ハン(位1206~27年)の誕生です。チンギスという名前の意味についてはよく解っていません。ちなみにチンギスはこの時40代~50代。既に決して若くはないんですね。

 さて、チンギス=ハンが各部族を統合すると、それを総称する形でモンゴルと呼ばれるようになります。モンゴル高原とか、モンゴル系の、という言葉はこのとき出来上がったものです。それまでは、モンゴルというのは前述したように一部族の名前。また、ロシアなどではタタール(ダッタン)という言葉でモンゴルを表すこともあります。これは、先ほど登場した、モンゴル族のライバルだったタタール族からきている名前です。

 さて、この時にチンギス=ハンは、モンゴルの各部族を部族単位(戸)で万・千・百・十に編します(千戸所・百戸所制)。さらに、「ヤサ」とよばれる法律を作ります。これは長くモンゴルで遵守されました。

モンゴル帝国への道
 そして1209年。いよいよ辺に向けて侵攻を開始します。まず、西夏(1038~1227年)に攻撃をかけこれを服従させます(さらに1227年に裏切ったため、滅亡させる)。そして、1218年に引き続き西(12世紀~1218年)を滅ぼします。

 西は、前述しましたがの王族の一人、耶律大石が建国した国です(グル・ハーンと名乗る)。1241年、イスラム教国家セルジューク朝トルコを破り、当時イスラム教徒に惨敗していたヨーロッパからは、「東方のキリスト教国の王だ!」と絶賛されました。ただし・・・、1211年にナイマン部によって乗っ取られています。

 そしてチンギス=ハン、イスラム教国家であるホラズム王国(1077~1231年 中央アジアのウイグルやイラン高原・アム川下流を支配 セルジューク朝トルコの奴隷兵=マムルークが建国)へ侵攻。ホラズムは国王ムハンマドがだらしない人物だったこともあり、1231年に滅亡させられました。この時の逸話として、こんな話があります。

 実は、ムハンマドは無能でしたが、その王子ジャラル・ウッディーンは優れた人物だったそうなんですね。
 王子はモンゴル軍と果敢に戦いますがインダス川上流の西北インドで敗北します。この時、王子は馬で、谷を飛びえて退却します。そして、王子を捕らえるべくモンゴル軍は追おうとしますが、チンギス=ハンはこれを止めました。モンゴルでは強者が尊敬されたのです。

 また、チンギス=ハンはに対しても攻撃をかけています。このという国は、モンゴル人たちにとって恨みのある国でした。なぜならば、モンゴル人はによって奴隷として連れ去られることが多かったからです。この時、チンギス=ハンの幕僚に加わったのが、耶律材という人物。

 この人物もの王族の一人でしたが、滅亡後の彼の祖先はに仕えていました。耶律素材は、チンギス=ハンが、東西を統一しようとする夢に惹かれたと同時に、おそらくはモンゴルを中国化しようとしたのでしょう。なぜならば、モンゴルは農耕社会になじんでいません。農民を全部殺して土地を獲得しようだとか、また価値観の違いから中国の文化を理解していませんでした。そのため、耶律素材は純朴な遊牧国家のモンゴルの軌道修正を図り、展に大きく貢献しました。実は、大したした人物ではなかった、という説もあります。これについては次のページで。

○モンゴルの強さは何だったのか?
 ところで、モンゴルの領土を次々に広げるその軍事力。その強さはどこにあったのでしょうか。まず、先ほどの千戸・百戸制に見られるような、統率に優れた組織です。それから、忘れてはいけないのが馬。モンゴル兵は、一人が5、6頭の馬を引き連れて進軍します。1頭が疲れたら次の馬に乗り換えます。ですから、機動力がすごい。防御側の偵察がモンゴル軍を見して、都市の防を固める前に攻め込んできます。ちなみに、乗り捨てられた馬はどうなるか。馬には、帰巣本能がありますから、きちんと家に戻るのでした。もちろん、いなくなった馬もたくさんいるとは思いますが・・・。

 それから、モンゴルは抵抗する勢力・都市に対しては徹底的に虐殺をします。モンゴルは強くて野蛮だと、辺に知らしめ、そして戦う前にして降伏してくるような状況を作りました。降伏し、素直に従えばモンゴルは一切危害を加えません。

 こうして、チンギス=ハンは東西にまたがる大帝国を築き、またシルクロードの交易を保証することで、人と物の流れが活になり、世界をくっつけたのです。チンギス=ハンは1227年、命令に従わなかった西夏を攻略中に死亡しました。後を継いだのはオゴタイ=ハン。

 そして、チンギス=ハンの墓はモンゴル高原のヘルレン川流域に作られました。
 しかし、盗掘を恐れ、記念碑を作らず、場所を特定できないようにしたため、現在も見されていません。たまに、テレビで「チンギス=ハンの墓見?」なんて番組が登場しますが、もしも墓が見されたのなら全世界で一に報道されますよ。それほど見つけにくいものです。何の手がかりもないのですから・・・。

 ・・・ところが、であります。いやあ、こういう事もあるんですねえ。
 2004年10月4日、チンギス=ハンの霊をまつる霊廟(れいびょう)をモンゴル西部で見したと、国学院大、潟大とモンゴル科学アカデミー考古学研究所の合同調査団(団長、加藤平・国学院大教授)が表したそうです。もちろん、霊廟=墓ではないんですけど、墓と霊廟の位置関係を示す史料なら残されているとか。

 それは、「史」という歴史書に「この霊廟から君主の墓までの距離は5里(3キロ弱)の外」とあること。

 その霊廟の場所は、モンゴルの首都ウランバートルから東約250キロのヘルレン川沿いの草原地帯にあるアウラガ遺跡。規模は、東西約1200m、南北約500mという、当時のモンゴルとしては超巨大な遺跡で、チンギス=ハンの最大根拠地の「大オルド」と言われているそうです。既に、01年から昨年までの調査でチンギス=ハンと、オゴタイ=ハンの宮殿が掘されていたんですって。つまり、この辺を探索すれば、墓が見される可能性が高いとか。

 もっとも、墓の掘自体はモンゴルの人達が「英雄の墓を暴くのには反対」という感情があるそうで、やらないそうです。

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モンゴル帝国

モンゴル民族
 モンゴル民族は、その昔にゲルマン民族大移動を引き起こし、西ローマ帝国崩壊のきっかけを作ったフン族(Hun)が有名である。フィンランド(Finland)やハンガリ(Hungary)の国名はフンからきたという説もある。また、アメリカ原住民インディアンも、アジアからベーリング海峡を渡ったモンゴル民族である。
916

	契丹の耶律阿保機(やりつあぼき)が、渤海を滅ぼして遼を建国、満州からモンゴル高原に至る大帝国を築いた

960

	宋の建国

1038

	タングートの李元昊が西夏を建国した

1115

	遼の支配下にあった女真が台頭し、金を建国した

1125

	金と宋の連合軍が遼を滅ぼす。遼の皇族耶律大石は、中央アジアに逃れ西遼(カラキタイ)を建国した。カラは黒、キタイは契丹のこと。

1127

	

に侵略され、首都を奪われ、皇帝の弟高宗は江南に逃れて南を建国した

チンギスハンが登場する以前のモンゴル高原。西のペルシアには、セルジュク朝から分離したホラズム朝が、その西にはセルジューク朝が栄えていた。

建国

 1167年、モンゴルのビョルジン族にテムジンが誕生する。彼が9歳の時、父イェスゲイはタタール族に毒殺される。父の仇を討つため苦労しながら育ったテムジンは、次第に優れた指導者として一目置かれるようになり、昔の仲間が集まってきた。そして、ネストリウス派キリスト教徒のケレイトと組んでモンゴル高原の統一に動き出した。

 まず、対立関係にあったメルキトと戦ってこれを破り、次いでアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。そして多くの部族を服従させ、ついに1200年に父の仇タタールを滅ぼした。その後同盟関係にあったケレイトと対立してこれを滅ぼし、彼に敵対する部族はいなくなった。1206年、部族の指導者を集めたクリルタイでモンゴルの統治者大ハーン(チンギス・ハン:Genghis Khan)に選ばれ、モンゴル帝国が築かれた。

 1207年、チンギス・ハンは西夏を攻めて属国化し、翌年には中国遠征に乗り出す。当時の中国はが支配していた。チンギス・ハンは、北京の北東での大軍団に遭遇した。モンゴル騎兵は破壊的な力を見せ、数時問で7万の軍を壊滅させた。その後モンゴル軍は撤退と侵攻を繰り返し、の領内を蹂躙した。

 1214年、チンギス・ハンは4回目の軍を起こし、華北を席捲した。は首都北京を放棄して河南の開封へ遷都した。は河南地方のみを支配する小国に転落した。この遠征で、の王族での官僚だった耶律材がチンギス・ハンの幕僚に加わった。耶律材は、広大な領土を支配する国家体制を整えた。 1215年、チンギスハンはの攻略を部下に任せ、北に引き返した。

カスピ海へ

 モンゴルに戻ったチンギスハンの関心は西に向けられた。イランには、ホラズム・シャー・ウッディーン・ムハンマド2世が治めるホラズム王国が控えていた。1219年、10万を超すモンゴル軍は4軍団に分かれてホラズムに侵攻した。ブハラ、首都サマルカンドを攻略し、町を破壊、住民を虐殺した。

 ホラズム・シャーは西に逃げた。モンゴル軍は執拗に追いかけ、インダス川をえカスピ海沿岸に達した。その後、ホラズム・シャーは病死したが、モンゴル軍はアゼルバイジャンからグルジア王国に入り、ロシアへと侵攻した。コーカサス北部の平原でアラン族、チュルケ族、キプチャック族の連合軍を破り、カルカ河畔の戦いでロシア連合軍を撃破した。

 1225年、山のような戦利品と多くの奴隷を連れてチンギスハンは故国に戻った。ロシアやに侵攻していた部隊も戻ってきた。1226年、チンギスハンは再度西夏を攻めた。これが最後の戦いとなった。落馬による負傷が原因で60歳の生涯を閉じた。

ロシア侵攻

 チンギス・ハンの後には3男のオゴタイが帝国を継いだ。彼は1234年にを滅ぼし、首都を外モンゴルのカラコルムに定めた。そして、1236年に甥のバトゥにロシア・東ヨーロッパ遠征を指示した。
 バトゥはまず、ヴォルガ川の東側にあるブルガールを攻めた。ブルガール族は遊牧民だったが、キャンプ生活を捨て毛皮交易で豊かな都市を作っていた。部族の大半はイスラム教に改宗し、改宗しなかったブルガールがヨーロッパに移住してブルガリアを作った。モンゴル軍の襲撃でブルガールは壊滅し、二度と再建されなかった。

【ロシア侵攻】

 1237年、12万のモンゴル軍は凍てついたヴォルガ川をえてロシアに侵入した。最初にリャザン公国を攻め、みせしめに君主とその一族を虐殺した。続いてモスクワを落とし、迎え打ったスズダリ軍を破り、ロシア平原を縦横無尽に駆けめぐった。抵抗するロシアの公国はことごとく殲滅された。そして、キエフに「雲霞のごときタタールの大群」が押し寄せ、町は徹底的に破壊された。

 おびただしい避難民がロシアからポーランドやハンガリーに逃げ込んだ。モンゴル軍は、軍を二手に分け、主力はハンガリーに、2万の別働隊はポーランドに侵攻した。

ポーランド侵攻

 ポーランドに侵攻した別働隊のモンゴル軍はビスワ川をえクラクフに迫った。教会の塔の上から敵の来襲を告げるトランペットが鳴り響いた。突然ラッパの音が鳴り止み、ラッパ手はモンゴル軍の放った矢で喉を射抜かれていた。このことを悼んで今でもクラクフの聖マリア教会では、1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされている。迎撃体制を敷く間もなく、モンゴル軍はクラクフに突入、町は炎上した。

 更に西に向かうモンゴル軍を、ポーランド軍とドイツ騎士団がポーランドのレグニツァ付近で迎え撃った。モンゴル騎兵は突進し、小競り合いの後、突然馬首を返して逃げた。おとり作戦に引っかかったヨーロッパ軍は追撃する。いつの間にかヨーロッパ軍はばらばらになり、各部隊は個別に包囲されて叩き潰された。これが、ワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い:1241年)で、ポーランド王ヘンリク2世は戦死、ヨーロッパ騎士団は壊滅した。ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」の意味。

ハンガリー侵攻

 ハンガリーに侵攻したバトゥは、首都ペスト付近で国王ベーラ4世率いるハンバリー軍10万と対峙した。ヨーロッパ最強のハンガリー騎兵は勇敢に戦い、モンゴル軍を圧倒した。勝利を確信した時、ポーランドに遠征していた別働隊のモンゴル軍が突入してきた。ハンガリー軍は総崩れとなり、ペストは陥落した(モヒの戦い)。

 モンゴル軍はイタリア侵攻の準備を始めた。しかし、オゴタイハン急死の報を受け突然撤退した。ヨーロッパはモンゴルに征服される危機を脱した。バトゥはモンゴルには帰らず、ロシアにサライを首都とするキプチャク・ハン国を建国する。オゴタイハンの後は息子のグユクが第3代ハーンに就くが2年後に亡くなり、フビライの兄モンケが即位した。

タタール(Tatar)】 ロシア人が呼んだモンゴル人のこと、中国語では韃靼(だったん)。ヨーロッパでは、ギリシャ語の地獄の住民を意味するタルタロスに重ねてタルタル人(Tartar)と呼んだ。

中東侵攻

 モンケは弟フビライに南攻略を、もう一人の弟フラグにイラン方面攻撃を命じた。

【ペルシア侵攻】 1256年、フラグはペルシアに進軍した。チンギス・ハンのもとで鍛えぬかれた兵士とカタパルトや火薬などを装備した軍団の前に、ほとんどのイスラム太守は帰順した。しかし、エルブールズ山脈に潜む暗殺教団は200もの要塞を築いて抵抗した。モンゴル軍は2年がかりで要塞を一つ一つ潰し、暗殺教団を抹殺した。

【バグダード陥落】 フラグはバグダードに迫った。第37代カリフのムスターシムは迎え撃ったが敗れ、500年続いたアッバース朝は滅んだ(1258年)。モンゴル軍のバグダードでの虐殺はすざましく、80~200万人が殺された。この破壊の先頭に立ったのはグルジアのキリスト教軍だった。バグダードの陥落はイスラム世界に大きな衝撃を与えた。

【シリア・パレスチナへ】 フラグはチグリス川をえ、シリアに侵攻した。もはやモンゴル軍に立ち向かう君主はなく、アレッポ、ダマスカスが次々と陥落していった。残るイスラム国家はエジプトのマムルーク朝のみとなった。

中国侵攻

【一息ついた十字軍】 地中海沿岸の要塞には、まだ十字軍が身をひそめていた。イスラム軍の崩壊で息を吹き返した十字軍は、モンゴルと組んでエルサレムに進軍すべきか迷っていた。しかし、ロシア、リトアニアの反乱鎮圧に向かったモンゴル軍の残虐行為を知ってモンゴルとの連携を断念した。ルブリンやクラクフの町は、前回以上に破壊されたのである。

【中国侵攻】 フビライは南攻略に手こずっていた。これを見てモンケは、自ら軍を率いて南に攻め入った。遠征は順調に進んでいたが、重慶を攻略後に突然モンケは病死した(1259年)。この時、フビライは揚子江北岸に布陣していた。フビライは兄の訃報を聞いても引き上げず、揚子江を渡り南の奥深く進軍を続けた

不敗神話の崩壊

 フラグ゙はエルサレム攻撃の準備中だった。モンゴル軍があと一押しすればイスラム勢力は消滅する。その時飛び込んできたモンケの訃報、フラグ゙は一部の守備隊をダマスカスに残して撤退した。軍事情勢は一変した。まず、シドンとベイルートの十字軍が反旗を翻した。反乱はあっさり鎮圧されるが、モンゴル軍ががら空きになっていることが知れ渡った。

 このチャンスに降伏寸前のマムルーク軍は北上を開始し、フラグのいないモンゴル軍とパレスチナのアイン・ジャールート渓谷で激突した。ここはその昔、ダビデがゴリアテを倒した渓谷である。一進一退の激闘の末、モンゴル軍は破れた。イスラム軍は、ダマスカス、アレッポを奪回し、イスラム世界は窮地を脱した。

 この頃フラグはモンゴルに戻らずイランに留まっていた。そして、この地にイル・ハン国が建設される。シリアに残っていた十字軍の要塞は、マムルークに次々と攻略された。1291年にアッコンが陥落して十字軍基地は全て消滅した。

 フビライはなおもと戦っていた。大軍を握っていたフビライは、1260年に自らクリルタイを開き、強引にハンの座に就いた。このクリルタイにはモンゴル一門は誰も参加しておらず、オゴタイの孫ハイドゥが起こしたハイドゥの乱などハン位をめぐる争いが続いた。実力者フビライに逆らう者はいなくなったが、後の帝国分裂の火種が残った。

 フビライの治世の時がモンゴル帝国の絶頂期であった。彼の威令は中国を始め、中央アジア、西アジア、ロシアなど帝国の全てに行き渡った。陸上/海上の貿易は盛んになり、東西の製品が流通した。首都はカラコルムから大都(北京)に移した。

 1279年、懸案の南を滅ぼし大を建国した。続いてベトナムへ侵攻、ミャンマーのパガン朝、雲南のタイ人の国:大理国を滅ぼす。しかし、ベトナムの朝大国(チャン朝ダイヴェト国)は、首都ハノイを明け渡し、その後町を包囲、補給路を断つという戦法で3度にわたっての侵攻を撃退した。

 東アジアでは、朝鮮半島の高麗は服属したが、日本は若き執権北条時宗が使者の首をはねて服従を拒否した。

【文永の役】 1274年、3万の大軍が押し寄せ、対馬、壱岐、平戸を襲い博多湾沿岸に上陸した。軍は火薬を使い、集団戦法で日本軍を苦しめた。しかし日本軍も激しく抵抗したため前進できず、博多市街に火をかけて船に引き上げた。翌日、の大船団は姿を消していた。

【弘安の役】 1281年、南を制圧したは、・高麗の東路軍4万と旧南の江南軍10万の二手に分かれて侵攻して来た。日本側は博多湾沿岸に防塁を築き、関東の武士も駆けつけて迎え討った。まず、東路軍が上陸しようとするが激しい抵抗にあって海に追い落とされた。1ヶ月遅れて江南軍が到着し総攻撃の準備にとりかかった。しかし神風が生し4000隻の軍船は壊滅した。

 弘安の役後、フビライの人生は下り坂に向かった。この年に妻のチャブンが、数年後に息子のチンキムが死んだ。日本への3度目の遠征計画を放棄し、1294年に79歳で亡くなった。

帝国の分裂

 フビライの後継に孫のテムルが大ハンに就くが、各ハン国は独自の道を歩み始め、大ハンが世界に君臨する時代は終わった。モンゴル帝国は、、オゴタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国に分裂した。

 オゴタイ・ハン国は建国まもない1301年に滅亡し、チャガタイ・ハン国とに併合された。イル・ハン国とチャガタイ・ハン国はイスラム化し、その後ティムールに征服された。

 はモンゴル貴族間の内部抗争や次ぐ天災のため各地で反乱が起った。そして反乱軍のリーダ朱璋が建国した明に滅ぼされた。

 キプチャク・ハン国は、バトゥの孫モンケの時が最盛期で、その後ロシアが独立し衰退していった。

プレスタージョンの伝説

 「東方にはプレスタージョンの教国がある。その国には黄の河が流れている。東方のどこかにアトランティス大陸がある」中世ヨーロッパで実際に信じられていた話である。教会は絶大な力を持ち、エルサレム奪回の十字軍を起こした。敵イスラムを粉砕するチンギスハンを東方のキリスト教国の王プレスタージョンと思い込んだ。

 一方で、黄の国ジパングを見することが、莫大な富を得る道であった。それが冒険家たちの情熱を掻き立て、マルコポーロをはじめ命がけで未知の世界に飛び出していった。それは一部の人間だけでなく、ヨーロッパ全体が狂気のごとく動き出し、略奪の大航海時代を迎えた。

帝国のその後

【オゴタイ・ハン国 (~1301) 】  1301年にハイドゥが死去すると、チャガタイ・ハン国とに吸収された。

【イル・ハン国 (1260~1353)】 フラグの死後、後継者争いで分裂の危機を迎えるが、第7代ガザン・ハンが自らイスラム教に改宗して国を立て直した。宰のラシード・アッディーンはモンゴルの歴史書集史を著わした。その後、後継者争いが激化し、1353年にティムール帝国に吸収された。

【チャガタイ・ハン国 (~1370) 】 1321年、東西に分裂しパミール高原をはさんで互いに抗争した。1370年、西チャガタイ・ハン国のティムールが反旗を翻し、ティムール帝国を建国した。16世紀初頭には、チンギスハンの血を引くバーブルが北インドにムガール帝国を建国した。

【キプチャク・ハン国 (~1419)】 ヨーロッパ遠征を行ったバトゥが建国した。バトゥの血筋が途絶えると国は分裂し、モスクワ大公国を中心とするロシア軍にクリコボ平原で敗れた(1371年)。しかし、ティムールの後ろ盾を得たモンゴル軍は反撃し、再びロシアを徹底的に破壊した。ロシアがキプチャク・ハン国から独立したのは、イヴァン3世(1462~1505)の時である。彼は、ビサンツ帝国の娘と結婚し、その孫のイワン4世は、ツァーリ(皇帝:カエサルのロシア語)を名乗ってローマ帝国の後継であることを宣言した。

 1441年にキプチャク・ハン国から独立したクリミア・ハン国は、オスマン帝国に従属しながら1783年まで存続した。1768年の露土戦争後、クリミア・ハン国は300年続いたオスマン帝国から切り離された。これ以降、クリミアに対するロシアの影響力は急速に深まり、1783年にロシアのエカテリーナは条約を破ってクリミアをロシアに併合した。

 (1279~1368)】 フビライの死後、後継者争いが起き国は乱れた。モンゴルの支配に対する民族の不満が爆し、紅巾の乱が生した。紅巾の乱は群集が頭に赤い布を巻いていたことから付いた名前で、そのリーダ朱璋は南京で明を建国した。明の北伐軍は大都を攻略し、の順帝(トゴン・テムル)はモンゴル高原に去っていった(1368年)。

参考資料>
モンゴル帝国の戦い 東洋書林
詳説世界史 山川出版
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu14.html