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世界史ノート

世界史ノート(古代編)

はじめに
 
  
 長い教員生活も残り2年となった。今年度の2年生の世界史の授業が始 まったが、これが世界史を古代から現代までを通して行う最後の授業となる。 そこで今までの授業を振り返りながら、教材研究を兼ねて、今までの授業で話 してきたことを文章にまとめてみようと思い立った。なかなか大変なことでいっ こうにはかどらず授業の方が先行する形になってしまっているが、今後とも続 けていき、中世編・近代編・現代編とまとめていきたいと思っている。しかし、 後半の方は退職後の仕事になりそうである。 
 長い間教えてきたというだけで、浅学非才な私の力では、世界史の再構な どとても出来ないので、山川出版社の「詳説 世界史」の構をそのまま利用 させていただいた。人名・地名・年代・生没年・在位年代等もすべて「詳説   世界史」「世界史用語集」に拠った。 
 内容的には、普通科で世界史Bで受験する生徒を対象とする授業内容をまとめたが、 ここに書いたことをすべて教えているわけではなく生徒の実態に応じて適当に 取捨選択しながら授業を進めている。 
 授業内容については、過去に読んだ色々の本から得たものを使わせてもらっている。 本来なら参考文献をあげるのが当然のことであるが、今回についてはその性格上から 省略させてもらったことをお断りしたい。 
 内容に思い違いや誤りが多くあるのではないかと心配している。 ぜひご指摘・ご教示をお願いしたい。 
 年表・地図・写真・系図等については省略させてもらった。カラー写真等が ふんだんに掲載されている世界史図説のようなものがあるのでぜひそれらを 手において読んでいただければ幸いである。 
 

第1章 先史の世界

第1章 先史の世界
 

 1 人類の出現 
(1)最古の人類
 人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされている。 人類が猿から進化してきたという、150年ほど前に表されたダーウィンの進化論は 今日では一部の人々を除いて受け入れられ、常識となっている。だとすると、 人類の誕生とは猿から進化してきた動物をどの時点から人間と呼ぶかという問題になる。 
 一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行すること、道具を作ること (使うことではない)、言葉をしゃべること、火を使うことに求め、これを人類の 特性とよんでいる。ただし、この4つの条件をすべて満たさなくても、直立二足歩行、 道具の製作の条件を備えれば、これを人類と呼んでさしつかえない。猿がなぜ、 どのような過程を経て二足歩行するようになったかは、多くの学者が様々な説を 唱えているので本で読んでほしい。 
 ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場してきたのが、今のところ(今後さらに古い人骨が見されることは 間違いないが)約400万年前のこととされている。約46億年前とされる地球の誕生から 考えると、人類の誕生は地球の歴史を1年間とすると、まだ7時間36分しかたっていない ことになる。 
 現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで見された アウストラロピテクス(南方の猿の意味)などの猿人である。猿人はチンパンジーなどの 類人猿から人類への進化段階にある人類の祖であり、彼らは直立して二足歩行し、 礫石器とよばれる、普通の石と見分けられないような簡単な道具を製作していた。 大脳の容量はゴリラと大差がない500cc程(現生人類は1500cc前後)である。 
 地球の歴史でいうと更世(洪積世)、いわゆる氷河時代にあたる約50万年前になると、 原人が出現してくる。ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクタス)や北京原人 (シナントロプス・ペキネンシス)などがその代表である。原人になると大脳の容量は 平均1100ccで、簡単な言語を使用した。北京の口店(北京の西南約54km)の 石灰洞から1927~37年の大掘では北京原人をはじめ、人類や動物の化石が大量に 見された。彼らが火を使用していたことも分かっている。しかし、口店の掘は 日中戦争の勃で中止され、北京原人のほぼ完全な頭蓋骨も第二次世界大戦中に 行方不となってしまった。 

(2)旧人
 約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代表がネアンデルタール 人である。1856年にドイツで見され、その後各地で見されている。 骨格は現生人類に接近し、大脳容積も現生人類とほぼ同量の1500cc前後である。 彼らは膝を曲げて歩いていたと想像されている。精神生活も以外に達しており、 死者を葬る埋葬の習慣をすでにもっていた。 

(3)人の登場
 更世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)になると人 (現生人類)が現れた。その代表は1868年に南フランスで見されたクロマニョン 人である。彼らは約3万年前に出現したが、体質的には現代人とほぼ同じであり、 現在の我々の直接の祖先と考えられている。 
 この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較にならないほど製作の技術も達し石器の種類も増えている。 さらに石器のほかに骨角器も盛んに使われた。骨角器の使用は従来の石器では つくれなかった小さい道具、例えば針・釣針などの製作が可能となり、道具の種類も 豊富になった。また弓矢もされ、これによって今までよりはるかに容易に多くの 種類の獲物を捕らえることができるようになった。 
 こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊かになり、生活にも少し余裕ができてきた。こうした なかから洞穴美術も生まれてくる。有名な1879年に見された北スペインの アルタミラの遺跡、さらに1940年に南フランスで見されたラスコーの遺跡などである。 そこには野牛をはじめとする生き生きとした動物の絵が描かれているが、とても 1万年以上も前に描かれたとは思えないほどすばらしい。ところがこれらの絵は 洞窟の奥のほうに描かれている、ということは洞窟の奥に神聖な場所があって、 そこで獲物がたくさん取れますようにという呪術が行われた、そのために描かれた ものであろう。 

(4)環境への適応
 いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる。地球の歴史でいうと 第4紀の後半、完新世(沖積世)になると、気候は次第に温暖化し、地球の気候や水陸の 分布、動植物界が現在とほぼ同じになった。このしい環境に適応するために、地域ごと に生活様式が変わっていった。 

 2 文への歩み 
(1)農耕・牧畜の開始
 人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活を始めたことは、 人類の長い歴史のなかでも、最も重要な革命的な変化であった。この食料生産革命は 約9000~8000年前に、西アジアのどこかで始まった。これによって生産は飛躍的に 増大し、人々の生活は安定し、文化も急速に展するようになる。 
 考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼っていた時代を旧石器時代と呼び、農耕・牧畜の 開始以後の時期を石器時代と呼ぶ。人類歴史の、実に99.75%は旧石器時代と いうことになり、農耕・牧畜の開始から現代まではわずかに0.25%ということになる。 
 狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口はわずかに約1000万人ほど、 それが農耕・牧畜の達により紀前後の頃には約3億人になり、産業革命期の 1800年には約10億人に増えていく。(1900年約17億人、1996年約58億人) 農耕・牧畜の 開始による人間の生活の劇的な変化はどんなに強調してもしすぎることはないであろう。 
 農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。野性の麦を採集して 持って帰る際にこぼれた種子から翌年生育して行く様子をみて、住居の近くに種子を 撒いて収穫する過程が想像される。またたまたま捕獲してつないでいた妊娠中の 山羊が子どもを生んだということが想像できる。しかし、初期の農耕・牧畜は いままでの採集や狩猟・漁労の生活を補うものでしかなかったであろう。 
 しかし、農耕・牧畜の達によって人々の生活は安定し余裕が出てくる。こうしたなかで 磨製石器(これを作るのにどれだけ時間がかかったのか想像もできないが)、 土器の使用が始まり道具は一層豊富になり、織物もつくられた。また定住生活も 始まり、小屋のような住居がつくられ、集落が形され、大村落が出現し、 それはやがて都市に展していき、都市国家が出現してくる。 
 このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、 黄河の流域であり、これらの地域から世界の四大文生した。 
 これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件が厳しいところである。 インダス川よりガンジス川のほうが、黄河よりも長江流域のほうが農業に適している。 なぜガンジス川、長江でなくてナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、 黄河なのか。 
 これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1975) は大著 「歴史の研究」のなかで“挑戦と応戦”という言葉で説している。つまり、 自然条件が恵まれたところでは人間は余り努力しなくても自然の恵みで生活できる。 ところが自然条件が厳しいところでは人間は積極的に自然に働きかける努力をしない といけない、だからむしろ自然条件が厳しいところで文が興ったのだと説している。 
 人類歴史先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時代とは文字生以前をいい、 歴史時代は文字生以後をいう、従って歴史時代以後の歴史の研究は主に 文字資料によることになる。文字は都市国家の立と同時期に、支配階級が祭祀を 司り、租税の記録の必要のためにされた。四大文ではそれぞれ独自の文字が されている。いよいよ歴史時代にはいって行く。 
 

 

 
1.

第1章 先史の世界
 

 1 人類の出現 
(1)最古の人類
 人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされている。 人類が猿から進化してきたという、150年ほど前に表されたダーウィンの進化論は 今日では一部の人々を除いて受け入れられ、常識となっている。だとすると、 人類の誕生とは猿から進化してきた動物をどの時点から人間と呼ぶかという問題になる。 
 一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行すること、道具を作ること (使うことではない)、言葉をしゃべること、火を使うことに求め、これを人類の 特性とよんでいる。ただし、この4つの条件をすべて満たさなくても、直立二足歩行、 道具の製作の条件を備えれば、これを人類と呼んでさしつかえない。猿がなぜ、 どのような過程を経て二足歩行するようになったかは、多くの学者が様々な説を 唱えているので本で読んでほしい。 
 ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場してきたのが、今のところ(今後さらに古い人骨が見されることは 間違いないが)約400万年前のこととされている。約46億年前とされる地球の誕生から 考えると、人類の誕生は地球の歴史を1年間とすると、まだ7時間36分しかたっていない ことになる。 
 現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで見された アウストラロピテクス(南方の猿の意味)などの猿人である。猿人はチンパンジーなどの 類人猿から人類への進化段階にある人類の祖であり、彼らは直立して二足歩行し、 礫石器とよばれる、普通の石と見分けられないような簡単な道具を製作していた。 大脳の容量はゴリラと大差がない500cc程(現生人類は1500cc前後)である。 
 地球の歴史でいうと更世(洪積世)、いわゆる氷河時代にあたる約50万年前になると、 原人が出現してくる。ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクタス)や北京原人 (シナントロプス・ペキネンシス)などがその代表である。原人になると大脳の容量は 平均1100ccで、簡単な言語を使用した。北京の口店(北京の西南約54km)の 石灰洞から1927~37年の大掘では北京原人をはじめ、人類や動物の化石が大量に 見された。彼らが火を使用していたことも分かっている。しかし、口店の掘は 日中戦争の勃で中止され、北京原人のほぼ完全な頭蓋骨も第二次世界大戦中に 行方不となってしまった。 

(2)旧人
 約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代表がネアンデルタール 人である。1856年にドイツで見され、その後各地で見されている。 骨格は現生人類に接近し、大脳容積も現生人類とほぼ同量の1500cc前後である。 彼らは膝を曲げて歩いていたと想像されている。精神生活も以外に達しており、 死者を葬る埋葬の習慣をすでにもっていた。 

(3)人の登場
 更世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)になると人 (現生人類)が現れた。その代表は1868年に南フランスで見されたクロマニョン 人である。彼らは約3万年前に出現したが、体質的には現代人とほぼ同じであり、 現在の我々の直接の祖先と考えられている。 
 この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較にならないほど製作の技術も達し石器の種類も増えている。 さらに石器のほかに骨角器も盛んに使われた。骨角器の使用は従来の石器では つくれなかった小さい道具、例えば針・釣針などの製作が可能となり、道具の種類も 豊富になった。また弓矢もされ、これによって今までよりはるかに容易に多くの 種類の獲物を捕らえることができるようになった。 
 こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊かになり、生活にも少し余裕ができてきた。こうした なかから洞穴美術も生まれてくる。有名な1879年に見された北スペインの アルタミラの遺跡、さらに1940年に南フランスで見されたラスコーの遺跡などである。 そこには野牛をはじめとする生き生きとした動物の絵が描かれているが、とても 1万年以上も前に描かれたとは思えないほどすばらしい。ところがこれらの絵は 洞窟の奥のほうに描かれている、ということは洞窟の奥に神聖な場所があって、 そこで獲物がたくさん取れますようにという呪術が行われた、そのために描かれた ものであろう。 

(4)環境への適応
 いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる。地球の歴史でいうと 第4紀の後半、完新世(沖積世)になると、気候は次第に温暖化し、地球の気候や水陸の 分布、動植物界が現在とほぼ同じになった。このしい環境に適応するために、地域ごと に生活様式が変わっていった。 

 2 文への歩み 
(1)農耕・牧畜の開始
 人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活を始めたことは、 人類の長い歴史のなかでも、最も重要な革命的な変化であった。この食料生産革命は 約9000~8000年前に、西アジアのどこかで始まった。これによって生産は飛躍的に 増大し、人々の生活は安定し、文化も急速に展するようになる。 
 考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼っていた時代を旧石器時代と呼び、農耕・牧畜の 開始以後の時期を石器時代と呼ぶ。人類歴史の、実に99.75%は旧石器時代と いうことになり、農耕・牧畜の開始から現代まではわずかに0.25%ということになる。 
 狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口はわずかに約1000万人ほど、 それが農耕・牧畜の達により紀前後の頃には約3億人になり、産業革命期の 1800年には約10億人に増えていく。(1900年約17億人、1996年約58億人) 農耕・牧畜の 開始による人間の生活の劇的な変化はどんなに強調してもしすぎることはないであろう。 
 農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。野性の麦を採集して 持って帰る際にこぼれた種子から翌年生育して行く様子をみて、住居の近くに種子を 撒いて収穫する過程が想像される。またたまたま捕獲してつないでいた妊娠中の 山羊が子どもを生んだということが想像できる。しかし、初期の農耕・牧畜は いままでの採集や狩猟・漁労の生活を補うものでしかなかったであろう。 
 しかし、農耕・牧畜の達によって人々の生活は安定し余裕が出てくる。こうしたなかで 磨製石器(これを作るのにどれだけ時間がかかったのか想像もできないが)、 土器の使用が始まり道具は一層豊富になり、織物もつくられた。また定住生活も 始まり、小屋のような住居がつくられ、集落が形され、大村落が出現し、 それはやがて都市に展していき、都市国家が出現してくる。 
 このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、 黄河の流域であり、これらの地域から世界の四大文生した。 
 これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件が厳しいところである。 インダス川よりガンジス川のほうが、黄河よりも長江流域のほうが農業に適している。 なぜガンジス川、長江でなくてナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、 黄河なのか。 
 これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1975) は大著 「歴史の研究」のなかで“挑戦と応戦”という言葉で説している。つまり、 自然条件が恵まれたところでは人間は余り努力しなくても自然の恵みで生活できる。 ところが自然条件が厳しいところでは人間は積極的に自然に働きかける努力をしない といけない、だからむしろ自然条件が厳しいところで文が興ったのだと説している。 
 人類歴史先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時代とは文字生以前をいい、 歴史時代は文字生以後をいう、従って歴史時代以後の歴史の研究は主に 文字資料によることになる。文字は都市国家の立と同時期に、支配階級が祭祀を 司り、租税の記録の必要のためにされた。四大文ではそれぞれ独自の文字が されている。いよいよ歴史時代にはいって行く。 
 

 

 
2.

第2章 オリエントと地中海世界
1.古代オリエント

 1 古代オリエント
 
(1)メソポタミアと小アジア
 オリエントとは”太陽の昇る所”の意味で古代ローマ人からみた東方をさす。 日本では中近東とよんでいるが、これはヨーロッパ人が東方をNear East、 Middle East、Far East とよんだNear East、Middle Eastを合わせた言い方である。 ”極東”はFar Eastの訳である。従って、日本人が東アジアを”極東”とよぶのは おかしいことになる。”極東”はまさにヨーロッパ史観の現われである。 現在、日本ではオリエントはエジプト、西アジア、小アジアを含む地域をさす 言葉として使われている。 
 メソポタミアとは”川の間の地方”の意味である。ティグリス川・ユーフラテス 川の流域地方で、現在のイラクにあたる。メソポタミアの南部では、前3500年頃 から大村落が立し、やがて都市に展し、都市は独立して都市国家が形される。 
 メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人である。彼らは前2700年頃までに ティグリス川・ユーフラテス川下流にウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家を 形した。シュメール人の民族系統は不であるが、すぐれた青銅器や彩文土器をつくり、 特に楔形文字をし、粘土板に記したことは重要である。 楔形文字は以後2000年以上 にわたってメソポタミアで使用されることになる。 
 楔形文字の解読のきっかけをつかんだ のはドイツの学者、グローテフェントであったが、解読に功したのはイギリスの ローリンソンである。軍人であったローリンソンがペルシアに転任した際に、かれは ベヒストゥーン碑文(古代の街道の120mの所にあった)を最初は望遠鏡で調べていたが、 やがて断崖をよじ登り、岩にしがみつきながら碑文を数年がかりで模写し、ペルシア、 エラム、バビロニアの楔形文字で書かれた碑文の解読に取りかかり、1847年にペルシア 文字の解読に功した。 
 しかし、絶え間ない都市国家互の戦争によって、シュメール 人の都市国家は衰退し、セム系のアッカド人によって征服された。 
 アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1世(位前2350頃~ 前2294頃)はシュメール人の都市国家を次々に征服し、メソポタミア最初の統一国家を 建設した。しかし、間もなく衰退して滅亡した。 
 やがてセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア王国) を建設した。この王朝の第6代の王が有名なハンムラビ王(位前1729頃~前1686) である。 かれは30年に及ぶ征服戦争によってメソポタミア地方を統一し、中央集権国家を建設した。 なかでも彼を有名にしているのが「ハンムラビ法典」である。 
 ハンムラビ法典は 1901~02年にペルシアのスサで見された、高さ2.2mの黒い円柱の石に刻まれた 全282条の法令である。シュメール法などそれ以前にも法令はあったが、断片的にしか 残っていず、完全な形で残る最古の文法である。シュメール法を継承し、集大した 文法で刑法は、「目には目を、歯には歯を」の復讐法のの原則で書かれていること、 身分によって刑罰に違いがあることが特色である。例えば、196条「もし人が自由民の眼を 潰したときは、彼の眼を潰す」、199条「もし人の奴隷の眼を潰し、或いは人の奴隷の 骨を折たるときは、彼はその価の半分を支払う」とあるのはその好例である。 
 しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後、衰退し、前1530年頃、ヒッタイトに よって滅ぼされた。 ハンムラビ王のもとでのバビロン第1王朝の繁栄は、囲の諸民族を刺激し、 彼らはその富をねらって侵入をくりかえした。イランや小アジアの牧畜民、特に 中央アジアや南ロシアのインド=ヨーロッパ系の遊牧民は前2000年頃から前1500年頃 に大移動をおこした。 
 なかでもヒッタイトは前1650年頃ヒッタイト帝国を建設し、前16世紀初めにはバビロン 第1王朝を滅ぼし、以後ミタンニ、エジプトと抗争し、前14世紀頃最盛期を迎えた。 ヒッタイトは前1400年頃、世界史上初めて鉄製武器を使用したことで有名である。 優秀な鉄製武器と馬の引く戦車で他を圧倒し栄えた。前1190年頃、”海の民” (前13世紀末から前12世紀に東地中海一帯の諸国家・諸都市を攻撃し、広い地域を 混乱に陥れた諸民族の総称)の攻撃を受けて滅亡した。 
 ヒッタイトの滅亡後、 それまで秘密にされていた製鉄の技術は辺に広まって行き、オリエントの諸民族を 経て、さらにヨーロッパ、アフリカ、アジア各地に伝播し、鉄器時代を迎えることになる。 
 ヒッタイトのほかに同じインド=ヨーロッパ系のミタンニは北メソポタミアに、 そしてカッシート人は南メソポタミアに侵入して、一時強大な国家を建設した。 こうしてオリエントでは前15世紀から前14世紀に、エジプトの王国、ヒッタイトを はじめとする諸王国が並立する政治状況がうまれ、数世紀にわたって混乱状態が続いた。 
 この間、メソポタミアでは独自の文化が栄えた。宗教は多神教が行われたが、 民族の興亡ととともに信仰される最高神もかわった。文字はシュメール人が始めた 楔形文字が使用され、粘土板に記録された。また六十進法、太陰暦、閏年、占星術、 法律など実用的な学問・文化が達したことが大きな特色である。 
 

 

 
1.

 1 古代オリエント
 

(2)エジプトの統一国家
 「エジプトはナイルのたまもの」、この有名な言葉はギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉である。ナイル川は、上流のサバンナ気候の雨季に降った雨によって毎年7~10月に増水し氾濫をおこす、しかしこれによって上流からよく肥えた土が運ばれてくるので、下流では肥料なしで年に2~3回の収穫ができるといわれている。この洪水にそなえる治水事業、ナイルの洪水との戦いがエジプトの歴史をつくった。 
 しかし、この治水事業と灌漑事業には膨大な労働力と大規模な共同作業を必要としたので、彼らを統率する強い指導者のもとで、前4000年頃までには上下エジプトにそれぞれ22、20のノモス(小部族国家、 都市国家)が立し、やがて上流の上エジプトと下流の下エジプトの二つにまとまった。 
 そして、前3000年頃、メネス王(ナルメルともいう、エジプトの伝説的な、最初のファラオ) によって統一され、第1王朝が開かれた。後にペルシアに滅ぼされるまでの約2500年間を 大きく3つの時期(細かくは7つの時期)に分ける。この間約30の王朝が交替した。 
 古王国時代は、前3000年頃から前2135年頃までで、第1王朝から第10王朝までである。 ついで中王国時代は、前2135年頃から前1570年頃までで、第11王朝から第17王朝までをいう。 そして王国時代は、前1570年頃から前525年までで、第18王朝から第26王朝までをいう。 
 古王国時代は第3王朝~第4王朝の時期が最盛期を迎えたが、第3王朝~第6王朝の頃に あの有名なピラミッドが建設された。カイロ郊外にある第4王朝のクフ王のピラミッド (最大のピラミッド)、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドとスフィンクスは特に 有名である。 
 ピラミッドはいうまでもなくファラオ(”大きな家”の意味でエジプトの神権的 専制君主の称号)の遺体(ミイラ)を保存するための巨大な墳墓である。最大のピラミッドで あるクフ王のピラミッドは底辺の一辺約230m、高さ約137m、平均2.5tの石を230万個を積み 上げている、10万人を使役して20年を要したといわれている。ファラオの絶大な権力を うかがわせる。建設当時は莫大な銀財宝が納められていたであろうが、ピラミッドを はじめ大部分の王の墓は盗賊によって盗掘されつくしていた。 
 こうしたなかで世界中を 驚かしたのが、1922年に掘されたツタンカーメン王の墓の見である。ナイルの中流域の テーベの「王家の谷」と呼ばれる王墓の多い谷から奇跡的に盗掘されてないツタンカーメン の墓(ピラミッドでなく、横穴式の岩窟墳墓)がみつかり、そこから”黄のマスク”を はじめおびただしい財宝が出てきた。ツタンカーメンの墓はむしろ小規模な墓である、 だとするとあの大ピラミッドにはどれだけの財宝が納められていたか想像を絶するものがある。 なおこの掘に従事した多くの関係者が次々に亡くなり、”ファラオの呪い”とうわさされたが、 中心人物のカーターは掘後も16年間生きた。 
 エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰をもった。 墓に副葬されたパピルスに書かれた「死者の書」にはエジプト人の宗教観、来世観がよく 現れている。そのために死体をできるだけ生前そのままに残したいと熱望し、ミイラをつくった。 そのための驚くべきすぐれた技術を持っていた。 
 ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は 次の通りである。「ミイラ師はまず、鉄の鈎で鼻穴を通じて脳を摘出する。・・・それから、 鋭いエチオピア石をもってわき腹に沿って切開し腹部をすっかり取り出し、・・・その後、 腹中につき砕かれた純粋な没薬や桂皮やその他乳香以外の香料を詰め、通りに縫い合わす。 ・・・それを終えると、70日間ソーダの中に置いてミイラにする。・・・ミイラ師は遺体を 洗って、その全身を上製亜麻布を裂いて作った包帯で巻き包み、その上にエジプト人が普通、 膠の代わりに用いるゴムを塗りつける。」 
 古王国の第7王朝の頃から国内は混乱・分裂していった。 
 こうした状況の中からナイル川の 中流域のテーベの豪族が勢力を伸ばし、再び全エジプトを統一し、テーベを都として第11王朝を建て、 中王国時代が始まった。しかし、13王朝の頃から再び分裂・混乱状態に陥り、前1674年頃セム系 遊牧民を中心とするヒクソスがシリア方面から侵入し、馬と戦車でエジプト人を圧倒し、中王国 を征服した。以後約100年間にわたりエジプト人は初めて外国人の支配下におかれることとなった。 
 ヒクソスの支配下で苦しんだエジプトではテーベを中心とする上エジプトが抵抗の根拠と なった。やがてテーベから興ったアーメス1世は、ナイルを下り、ヒクソスをエジプトから撃退し、 国内を統一して第18王朝を樹立した。 
 この第18王朝の3代目の王、トトメス3世(位前1504~前1436)は20年間に17回の遠征を行い、 エジプトとしては初めて西アジアに進出し、シリアからユーフラテス川の上流域まで領土を拡大し、 エジプト世界帝国を建設した。 
 第18王朝に始まる王国の時代は「帝国時代」ともよばれる。 アメンホテプ3世のあと、子のアメンホテプ4世(位前1380頃~前1360頃)は10代で王位に ついたが、首都テーベの守護神アモンの神官の勢力が強く王権をしのぐ勢いだったので、在位6年で テル=エル=アマルナに遷都し、自らイクナートン(アトンに愛されるものの意味)と称し、 アモンにかわる太陽神で唯一神であるアトンを創造して宗教改革をめざした。しかし来多神教 であるエジプト人にはなじまず、王の死とともに宗教は終わりをつげ、再びアモン信仰が復活した。 しかも国内での争いのため、ヒッタイトの勢力が南下し、エジプトの勢力はアジアから後退を重ねた。 しかし、この王の治世には自由な写実的な芸術が開花して「アマルナ芸術」と呼ばれた。 
 アメンホテプ4世のあと王位についたのが、あの「黄のマスク」で有名なツタンカーメン (位前1358頃~1349頃 )で、彼はアメンホテプ4世の甥でかつ娘婿であった。しかし、 病弱で年少であったため、テーベのアモン神官の勢力が復活し、王の権威は衰えた。 
 第19王朝のラムセス2世(位前1290頃~1224頃 )は、父王の政策を引き継ぎヒッタイトと 戦うためにパレスティナに進出した。しかし、カデッシュの戦い(前1286年)で敗北し、講和条約を結び、 エジプトはアジアから撤退した。 
 第20王朝のラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰え、 その後前12世紀以後”海の民”の侵入におびやかされ、いまや公然と侵入したエチオピアやリビア人に 政権を奪われ、ついに前671年にアッシリアに征服された。間もなく独立を回復するものの、前525年 にはアケメネス朝ペルシアに征服され、以後長期間にわたって外国の支配下におかれることになる。 
 エジプト人は、ナイルの洪水との戦いの中からすぐれた実用的な文化を生み出した。そのなか には、現在われわれが恩恵を受けているものもある。太陽暦もナイルの氾濫と恒星の運行の定期性から 見され、ユリウス暦に経て現在のグレゴリウス暦へとつながっている。十進法はまさに現在も 使われている。メソポタミアの六十進法は分かりにくいが、十進法は人間の指が10本あることから うまれたことは容易に想像できる。その他、測地術天文学などが達した。 
 エジプト人の宗教も 多神教であった。主神は太陽神ラーである。後にアモンと結合してアモン=ラーとなり広く普及した。 エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じミイラをつくり、「死者の書」を 残したことは前述した。 
 エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた神聖文字 (ヒエログリフ)と最も簡略化された民衆文字(デモティック)などがある。墓の壁面等に刻まれ、 装飾と考えられていたヒエログリフが文字であることが分かるきっかけになったのが有名な 「ロゼッタ石」である。 
 1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼッタ河口で要塞の 修理中の彼の部下が偶然、黒い石碑を掘り出した。ロゼッタ石は、後にイギリス軍がフランス軍から 接収し、現在は大英博物館にある。ロゼッタ石には上段にヒエログリフ、中段にデモティック、 下段にギリシア語でしかも同一の内容が書かれていた。これをもとにフランス人のシャンポリオン (1790~1832)が1822年に解読に功した。これらの文字はナイル川に繁茂しているパピルスから つくられた紙に記録された。このパピルス(papyrus )が英語のpaperの語源になっている。 
 

 

 
2.
 1 古代オリエント
 
(3)地中海東岸の諸民族
 地中海東岸のシリア・パレスチナ地方はエジプトとメソポタミアを結ぶ通路として、 また東地中海への出入口として重要な地方で、民族の興亡がさかんであったが、 “海の民”の侵入でエジプトとヒッタイトの勢力が後退した前12世紀頃から セム系の3民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)が特色ある活動を開始した。 
 アラム人はセム系の遊牧民で、前12世紀~8世紀にシリアを中心に諸小王国を 形した。ダマスクスはアラム人の商業活動の最大の中心地となり、現在に至る まで続いている。アラム人は西アジア一帯の内陸中継貿易に活躍し、彼らの話す アラム語は西アジアの共通語となり、アラム文字は西アジアのみならず東方の 諸民族の文字の源流となった。 
 フェニキア人もセム系の民族で、前2000年頃、現在のレバノン海岸に居住 した。フェニキアの名はエジプト人が彼らを、フェンク(船を造る者)とよんだ のに由来する。当時、レバノンの山地からは良質の杉が産出したのでそれで船を つくり、クレタの海上貿易が衰えた後、地中海貿易で活躍した。 
 本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国家が栄えたが、地中海沿岸各地 (北アフリカ、スペイン南部が中心)に植民市を建設した。なかでも前814年に 建設されたカルタゴは、後にローマと地中海の覇権をめぐって争うことになる。 
 フェニキア人は前12世紀頃から地中海貿易を独占していたが、アッシリア・ バビロニアが支配した時代には一時衰退し、アケメネス朝ペルシアの貿易保護 政策のもとで再び繁栄の時代を迎えることとなる。 
 商業民族であったフェニキア 人の文化史上最大の功績は、エジプトの象形文字から達したシナイ文字を もとにつくられた世界最古の表音アルファベットをし、それをギリシア人に 伝え、これが現在使われているアルファベットの起源となったことである。 またガラスを見したのもフェニキア人といわれ、ガラス細工も達した。 
 ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川上流域で遊牧を 行っていたが、前1500年頃パレスティナに定着しが、飢饉が起きたとき一部は エジプトに移住した。ヘブライ人は外国人による呼び名で、自らはイスラエル人 と称した。バビロン捕囚以後はユダヤ人とよばれることが多い。 
 エジプトに移住したヘブライ人は、王国の外国人排斥機運がつよい なかで、奴隷とされ、悲惨な境遇にあった。そのヘブライ人を「約束された 理想の地、カナーン」へ同胞たちを導いたのが有名なモーゼ(前1350頃~ 前1250頃 )である。かれについては、実在を疑う説もあるが、実在の人物で あろう。 
 ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声に従い、 エジプト第19王朝のラムセス2世の頃、ヘブライ人を率いてエジプトを脱出、 紅海を渡り、シナイ山半島に到り、シナイ山で神ヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ とも)から「十戒」を授けられた。 
 有名なモーゼの「十戒」は”私はお前の 神ヤハウェ、エジプトの地、奴隷の家からお前を導き出したものである。 (1) お前には私以外に神があってはならぬ。(2) お前は偶像を彫ってはならぬ、 拝んでもならぬ。(3) お前の神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。 (4) 安息日を忘れず、聖く保て。(5) 父母を敬え。(6) 殺すなかれ。(7) 姦淫するなかれ。(8) 盗むなかれ。(9) 隣人に対して偽証するなかれ。 (10)隣人のものを欲しがるなかれ。”である。ユダヤ人がこの約束を守れば、 ヤハウェはユダヤ人を守ってやるという約束をモーゼは神と結んだ。 これが「旧約」である。 
 モーゼは、その後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間 の苦難を強い指導力で切り抜け、カナンを目前に没したとされている。 これが有名な「出エジプト(Exodus)」で、映画でもおなじみであり、 特に紅海の海水が真っ二つに割れて、海底が姿を現すシーンは圧巻である。 
 しかし、カナーンの地にはペリシテ人などが定着していて、ヘブライ人が この地に移住・定住するのは彼らとの激しい抗争に勝った後である。その他 民族との抗争のためにはヘブライ人が結束する必要があり、そうした状況の 中から王政が出現する。これをヘブライ王国とよぶ。 
 ヤハウェの祭司 の支持によってサウルが最初の王となった、前1010年頃のことである。 そしてサウルの武将であった牧人のダヴィデ(位前1000頃~960頃)が サウルの戦死後、2代目の王となった。彼の最大の功績はペリシテ人を敗って、 エルサレムに都をおいたことである。ダヴィデ・次王ソロモンの頃が王国の 全盛期である。国民的英雄だった若き日のダヴィデを刻んだのが、あの有名な ミケランジェロの「ダヴィデの像」である。 
 彼の死後、子のソロモン (位960頃~922頃)が第3代の王となった。「ソロモンの知恵」とか 「ソロモンの栄華」とかいわれるように、かれは官僚制を整え、軍事力を 強化し、経済展に力をそそいだ。”シバの女王”との話しも対外交渉が 盛んであったことを物語っている。しかも外国文化の吸収に熱心であったので 外国から異教の神が入りこみ、信仰されたため風紀も乱れるようになった。 また経済の展にともないイスラエル人の間にも貧富の差がひどくなり、 南北の対立も生まれてきた。 
 こうしたなかでソロモン王の死後、ヘブライ 王国は南北に分裂し、北にイスラエル王国(前922頃~前722)と南のユダ王国 (前922頃~前586)が立した。両国の抗争の間に、北ではアッシリアが 台頭し、特にイスラエル王国はその脅威にさらされることとなり、前722年 についにアッシリアに征服された。 
 南のユダ王国は、この後150年ほど生き延びた。一時はアッシリアの 勢力下におかれたが、アッシリアの退軍によって危機をのがれた。 
 この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人々に示して警告するもの )が 現れ、警告をしたが、国王や国民に受け入れられず、やがてバビロニアの ネブカドネザル王が来襲し、エルサレムを陥れ、王と多数の住民をバビロンの 強制移住させた。 
 これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(前586~前538 ) である。強制移住させられた人々の生活は、かららずしも奴隷状態ではなく、 多くは農業に従事した。こうした状況のなかで多くのものは同化され民族性を 失っていくが、一方で故郷をしたって帰国を祈願するものも多く、彼らは 今はじめてヤハウェ信仰と一体になり、ヤハウェによって解放され、 いつか帰国できるという希望のもとで試練に耐えた。 
 その期待は約50年後に、 アケメネス朝のキュロス2世のした「民族解放令」によってかなえられ、 イスラエル人の帰国が許された。しかし、その地に留まったものも多く、 帰国したものは、数十年かかって一部にすぎなかった。帰国した彼らは、 イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し、「モーゼの律法」の遵守と儀式を 定め、ユダヤ教を確立した。 
 ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的なヤハウェの 一神教である。ユダヤ人は、出エジプト・亡国・バビロン捕囚などの民族的 苦難のなかで、ヤハウェとの契約を守れば、神はユダヤ人だけを救ってくれる という排他的な選民思想や神はいつか自分たちを苦難から救い出してくれる メシア(救世主)をこの世に送ってくれるというメシア待望の信仰を生みだ した。 
 しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建することは できず、民族的苦難はさらに続いて行く。こうしたなかからモーゼの律法の 遵守を極端な形式主義を重視するパリサイ人が現れるが、この極端な形式 主義を批判し、選民主義を排し、神の絶対愛を唱えるのが、イエス・キリスト である。そうした意味で、ユダヤ教はキリスト教の母体である。このため、 ヘブライ人の歴史、預言者の言葉をまとめたユダヤ教の経典である「旧約聖書] が、イエスの言行を伝える「約聖書」とともに、キリスト教の経典となって いる。 
 

 
3.

 1 古代オリエント
 

(4)古代オリエントの統一
 古代オリエント史は、前2000年から前1500年頃の諸民族の大移動と それに続く国家の建設の混乱期を経て、諸国が統合されて行く時代へと 移って行く。古代オリエントを初めて統一したのがアッシリアである。 
 アッシリア人はセム系の民族で、前2000年頃、北メソポタミアに都市国家を 建設した。アッシリアの名は、彼らが最初の都を、民族神アッシュールの名に ちなんで、「アッシュール神の都」すなわちアッシュールと名ずけたことに 由来する。しかし、前1500年頃からミタンニに服属し、前14世紀にミタンニ から独立し、以後次第に国力を展させていった。そして前9世紀頃から 大展を遂げて行く。 
 アッシリアが非常な功を納めたのはヒッタイトから 学んだ鉄の力による。優秀な製鉄技術を持ち、鉄製武器で装備された勇猛果敢な 軍隊を率いて、次々と辺の諸民族・諸国家を征服していき、前8世紀の ティグラトピレセス3世、サルゴン2世(位前722~前705)の時には大帝国と なった。 
 特に、サルゴン2世はイスラエル王国を滅ぼし、エジプトをパレスティナ から逐い、バビロンを陥れた。その子セナケリブ(位前704~前681)は、都を ニネヴェに移した。そしてアッシュール=バニパル(位前669~前626)の父の とき、前671年についにエジプトを征服し、史上初めて全オリエントを統一した。 
 ”大征服王”といわれるアッシュール=バニパルの時には、史上空前の世界 帝国となった。彼はニネヴェに壮大な王宮を営んだが、その宮殿の浮彫は 有名である。アッシリアの歴代の王は猛獣狩りを非常に好み、当時シリアから メソポタミア北部に多くいたライオン狩りが盛んに行われ、その様子が浮彫に 描かれている。王はまた世界最初の図書館を建てた。1850年から行われた ニネヴェの掘によって、2万点以上の粘土板文書(楔形文字)が見され アッシリア学立の基礎となった。 
 アッシリア王は、専制君主として、軍事・ 政治・宗教を統括し、帝国を州に分け総督を派遣して統治させたが、強力な 軍事力による圧政と重税、被征服民の強制移住、情け容赦のない大殺戮、 大略奪を行ったので、被征服民族の反乱に絶えず悩まされた。 アッシュール=バニパルの時代には兄との内紛もあって帝国は衰退し、 前612年、メディア・バビロニア連合軍に首都ニネヴェの陥落とともに 滅亡した。 
 アッシリアの滅亡後、オリエントにはエジプト、リディア、バビロニア、 メディアの四国が分立することとなった。エジプトには最後の第26王朝が立 したが振わなかった。小アジアに建国されたリディア(前670頃~前546) は 経済的に繁栄し、前7世紀後半、この国では世界で初めてて鋳造貨幣が使用 された。 
 アッシリアの滅亡後、オリエント諸国の主導権を握ったのはバビロニア (カルデア)(前625~前538)である。バビロニアの支配階級はセム系の カルデア人だったが、被支配民は古い伝統をもつバビロニア人であった。 
 王国の最盛期は治世40年に及んだネブカドネザル2世(位前604~前562)の時代で、 侵入してきたエジプト軍を大破してシリアを奪い、ユダ王国を滅ぼして 「バビロン捕囚」を行い、フェニキア人の都市ティルスを滅ぼし、また首都 バビロンに壮大な宮殿を建造し、経済的にも繁栄し、その繁栄は「バビロンの栄華」 と呼ばれ、空中庭園やバベルの塔が造られ、バビロニアはオリエント第一の 強国となった。 
 しかし、王の死後、衰退し、前538年にアケメネス朝ペルシアに よって滅ばされた。メディア(?~前550)は前9世紀頃にペルシアの北西の 山岳地帯に入ったインド=ヨーロッパ語族(アーリア人)のメディア人が、 前8世紀末に建国、前7世紀にバビロニアと連合してアッシリアを滅ぼし、 イラン高原を支配下におさめ、大帝国を建設した。 
 メディアに臣従する王として、イラン高原の南西部のペルシス (パールス)地方(ペルシアの名の起源)を支配していたキュロス2世 (前600頃~前529)はメディアに反旗を翻し、前550年にメディアを滅ぼして アケメネス朝ペルシア帝国(アケメネスはキュロス2世の4代前の王国の始祖の 名)を興し、次いで前546年にはリディアを滅ぼし、そして前538年には バビロニアを滅ぼし、「バビロン捕囚」からユダヤ人を解放した。そして、 エジプトを除く全オリエントを統一し、以後200年以上続く大帝国である アケメネス朝ペルシア帝国の基礎を築いた。 
 ついで2代目カンビュセス2世 (位前530~前522) は、前525年に、父以来の懸案であったエジプト征服を 完した。 
 アケメネス朝3代目の王が、史上有名なダレイオス1世(大王) (位前522~前486)である。彼は王家の分家の出身であるが、キュロス2世の 娘と結婚し、カンビュセス2世死後の反乱を鎮圧して即位した。彼は治世の 間に、東はインダス川流域から西はエジプト、マケドニアまでを征服し、 アジア、アフリカ、ヨーロッパの3つの大陸にまたがる世界史始まって以来の 空前の大帝国を築きあげた。 
 この大帝国の統治にあたっては、全土を20の州に 分け、王が任命するサトラップ(知事、総督)を派遣して統治させ、 サトラップの監視のために「王の目」「王の耳」と呼ばれた直属の監察官を 派遣し、州を巡察させて王に報告させた。首都スサに大宮殿を造営、都 ペルセポリスにも壮大な宮殿を建設した。 
 また首都と各都市を結ぶ軍道 (「王の道」)を建設するとともに、駅伝制を確立した。ちなみに、スサと 小アジアのサルディス間は2600kmあるが、111の駅をおき、役人と馬を配置し、 隊商隊が90日かかるところを7日で連絡したといわれる。 
 さらに彼は大帝国を 統治する財源を確保するため、ダレイオス貨を鋳造して貨幣を統一し、 税制を整備し、フェニキア人の海上貿易を保護して税収の増大をはかった。 
 宗教については、彼自身はゾロアスター教を信仰したが強制せず、服属した 異民族には固有の信仰を認め、また風俗・習慣も認めるなど寛容な統治を 行ったので、アケメネス朝は200年以上にわたって続いた。 
 しかし、 商業圏をめぐる争いから小アジアのギリシア植民市が反乱を起こしたので、 ギリシア遠征を行った。これが有名なペルシア戦争(前500~前449)である。 第1回目の失敗の後、第2回目の遠征でもマラトンの戦い(前490)に敗れ、 さらに遠征を準備中に病没した。 
 彼の死後、7代、8人の王が150年間帝国を 支配するが、最後の皇帝ダレイオス3世(位前336~前330) は、 アレクサンドロス大王の侵入を受け、アルベラの戦いに敗れた後、バクトリア (中央アジア)に逃れたが、同地のサトラップに殺され、ついにアケメネス朝 ペルシア帝国は前330年に滅亡した。 
 ペルシア人は、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)(生没年不、 前7世紀頃)が30才頃、天啓を得て預言者となり、伝統的信仰の改革を進めて 創始したといわれるゾロアスター教を信仰した。 
 その教義は、善神アフラ= マズダ(光・善神)と悪神アーリマン(暗黒・悪神)の対立を前提とする 二論で、善神アフラ=マズダと悪神アーリマンの抗争で善神が勝利すれば、 それが我々の世界に反映されこの世は平和でよい世界になる、反対の場合は この世は乱れ悪いことが起きると考える。善神と悪神の優は3000年毎に 交替し、9000年または12000年目に決定的戦闘の結果、善神が勝利し善なる 人々の霊魂が救われるとした。従って人間は善神に味方しなければならず、 そのためには厳しい戒律が必要とされた。 
 善神アフラ=マズダは光神で あるので、火が神聖視され、儀式には盛んに火が焚かれる。そこで後に 中国に伝来した時、「けん(示へんに夭)教」「拝火教」と呼ばれた。ゾロアスター教の 最後の審判、天国と地獄、天使と悪魔の思想はユダヤ教やキリスト教にも 影響を及ぼしている。 
 イランのベヒストゥーン碑文は、ダレイオス1世が戦勝を記念して 刻んだものであり、捕虜を引見する王とアフラ=マズダ神の浮彫、そして 銘文が楔形文字でペルシア語、エラム語、バビロニア語をもって書かれている。 これをローリンソンが転写して、研究し、楔形文字解読に功したことは 前に述べた。アケメネス朝の時代にはペルシア語を表すために楔形文字が 採用され、いわゆるペルシア文字がつくられた。 
 

 
4.
2.ギリシア世界

2 ギリシア世界
 

(1)エーゲ文
(2)ポリスの

(1)エーゲ文
 古代文のうちもっとも早く立したオリエント文は、辺の地域に影響を 及ぼして行くが、その影響を受けてオリエントに近く、地中海で結ばれていた ヨーロッパの東南端のギリシアを中心とする地中海東部でヨーロッパの古代文が ひらけた。これがエーゲ文であり、エジプトの王国、古バビロニアと時を 同じくして栄えた。19世紀頃までは、エジプト文が直接ギリシア本土に伝わり、 ギリシア文立したと考えられていたが、19世紀の後半にエーゲ文が その媒介の役割を果たしていたことがらかになった。 
 エーゲ文は前20世紀頃から前12世紀頃までエーゲ海を中心に栄えた 青銅器文で前期のクレタ文と後期のミケーネ文からる。 
 この文の内容は、19世紀の後半にドイツ人のシュリーマン(1822~90) やイギリス人のエヴァンズ(1851~1941)らの掘によってらかになった。 
 シュリーマンは幼少の頃読んだ本のなかで、トロヤ落城の挿し絵をみて、 その遺跡の掘を生涯の念願として追い続け、ついにそれを実現した。 貧しい牧師の子として生まれ、生家の没落で雑貨屋の小僧に始まり、 船の給仕を経てある商店に勤め、苦労しながらもその間、十数カ国語を マスターし、24才頃ロシアに移住し、クリミア戦争や南北戦争の状況を利用し、 インド藍や木綿の取り引きで功し巨万の富を築いた。そして40才過ぎに 事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1870年に少年時代 からの夢であった3回にわたるトロヤの掘(1870~90)に取りかかった。 
 トロヤはホメロス(前8世紀頃 )の叙事詩「イリアス」に歌われたトロヤ戦争の 舞台となったところである。「イリアス」には、トロヤの王子パリスが スパルタの王妃ヘレネを誘拐したことから、ミケーネの王アガメンノンを 指揮者とするギリシアの英雄たち(例えばアキレウス(アキレス腱にその名が 残っている) )がトロヤに遠征し、10年の包囲の末、有名な”トロヤの木馬” の計略を使って落城させ炎上させたと書かれている。シュリーマンはこの ホメロスの詩を真実だと確信していた、しかし当時の常識ではこれは伝説で あると考えられていたから、さらにシュリーマンが学界の定説に反して海に 近いヒッサリクの丘をトロヤと考えて掘を始めたので、学者たちは冷やや かな目でそれを見た。 
 ところが第1回目の掘で城壁、宮殿址と財宝を掘り出し、 専門の学者たちを驚かせた。これに気をよくした彼は、総指揮官アガメンノンが ミケーネ王であったこと、ホメロスが”黄に富むミケーネ”とうたっている こと、古代の記録に多くの墓があることが記録されていることから1876年以来 ミケーネの掘に取りかかり、ここでもおびただしい副葬品、特に”黄の仮面” をはじめとする黄製品は人々を驚かせた。さらに彼はクレタ島の掘に取り かかったが、90年に亡くなった。 
 シュリーマンの後を受け継ぎ、クレタ文を 見したのがエヴァンズである。彼は聞社に勤めバルカンを旅行したときに、 シュリーマンに会ってその指導を受け、のちオックスフォード大の博物館の 館員となり考古学を教えた。そしてギリシア旅行中に見た出土品がクレタの 起源のものと推定し、クレタ島に渡り、1900年以降クノッソス王宮遺跡の 掘を始めた。そして伝説上のミノス王の宮殿跡をはじめ、陶器、壁画、 銀細工などを見し、この文がそれまで知られていない青銅器文である こと、エーゲ文の中心がクレタであることを証した。 
 こうしてシュリーマンや エヴァンズによるこれらの遺跡の掘によってエーゲ文の存在が実証された。
 クレタ(ミノス)文は、前20世紀頃から前15世紀頃にクレタ島を中心に 地中海の海上貿易によって栄えた海洋文、青銅器文である。クノッソスの 大宮殿の遺跡から強い権力を持った王がいたことなどが分かるが、この文を つくりあげた民族系統などは不である。最古の海洋文として繁栄したが、 前15世紀頃アカイア人(ギリシア人)の侵入によって滅んだ。 
 ミケーネ文は前15世紀頃から前13世紀頃、最も栄えた文でその中心は シュリーマンの掘で有名なギリシア本土のミケーネ・ティリンスである。 この文の小国家は巨石で造られた城壁を持っているところから小規模ながら 専制国家であったと考えられている。この文はアカイア人がオリエントや クレタの文の影響を受けてつくった青銅器文だが、ギリシア的な要素も 濃い。前12世紀頃、ドーリア人の侵入を受けて滅亡した。 

(2)ポリスの
 ギリシアは、平野に乏しく、山がちで、島が多く、海岸線は非常に複雑で ある。面積は日本の九州の約1.5倍くらいである。は少雨で乾燥し、冬は 温暖で雨が多い、典型的な地中海性気候で、穀物農業よりも、オリーブ、 ぶどう、いちじくなどの果樹栽培に適している。 
 ギリシア人はインド=ヨーロッパ語族に属し、もともとは中央アジア・ 南ロシアに住んでいたが、大多数が西に進みヨーロッパに入って行くなか、 途中から分かれバルカン半島を南下したギリシア系は、前20世紀頃からギリシア 半島に南下、定住していった。 
 そのギリシア人の南下・定住は二度にわたる。 前20世紀頃の第1次移動で南下・定住したギリシア人をアカイア人と総称して いる。彼らは後に方言の違いからイオニア人、アイオリス人に分けられるが、 一部はクレタ島に渡り、クレタ文を滅ぼし、その影響のもとでミケーネ文を 築いた。 
 第2次移動は前12世紀頃で、ドーリア人が鉄器をもって南下、ミケーネ 文を滅ぼし、半島南部からクレタ島に侵入し、先住民を征服し、定住して いった。ドーリア人が鉄器を持ち込んだことから、以後ギリシアは鉄器時代に 入る。このドーリア人の侵入によって先住民であるイオニア人、アイオリス人は 追われてエーゲ海の島や小アジアにも移住した。 
 ドーリア人の侵入とミケーネ文の滅亡後、長い混乱時代(暗黒時代) が続いた。この混乱は前8世紀頃にはおさまり、ギリシアには1000あるいは 1500以上のポリスが立した。 
 ポリスの立の過程はさまざまであるが、 多くは集住(シノイキスモス)によって立した。アテネ(アッティカ)型 ポリスと呼ばれ、代表的なポリスはアテネである。地域ごとに有産者(貴族) が中心となり、軍事的・政治的・経済的要地へ全住民を強制的に移住させた。 ポリスの中心部をアクロポリスと呼ぶが、一般的には小高い丘で主に貴族が 住み、政治・宗教の中心であった。そのりの麓にあった公共広場はアゴラと 呼ばれ、商業・集会・裁判などが行われた。そしてそのりを城壁で取り 囲んだ。 
 もう1つの典型はスパルタである。スパルタは、ドーリア人が先住民を 征服して建てたポリスで、これはスパルタ型ポリス、征服型ポリスと呼ばれる。 スパルタでは、スパルティアタイと呼ばれる約5000人程の完全市民=戦士が 貴族であり、支配階級であり、官職を独占した。そして征服された先住民は ヘロットと呼ばれて国有奴隷とされ、農業労働を強制された。その数は 約5万人程。そして約2万人程のペリオイコイ(辺に住む者の意味)と 呼ばれた劣格市民がいた。彼らは、同じドーリア人だが、何等かの理由で この身分とされ、主として商工業に従事し、従軍の義務はあったが参政権は なかった。 
 数の上で少数の完全市民は十倍以上の人口を数えるペリオイコイ、 ヘロットを支配するためには、全員が強い戦士であることを要求され、 そのためにいわゆるスパルタ教育が行われ、軍国主義が形された。 二人の王、長老会(30人)、民会(30才以上全員)を国の基本の制度と すること、そして独特の軍国主義、鎖国的諸制度を定めたのはスパルタの 伝説的立法者のリュクルゴス(前9世紀頃 )であるとされている。 
 完全市民のスパルタ人の一生は次のようであった。生児のうち虚弱、 奇形の場合は山に遺棄された。7才で家庭を離れ、共同生活に入る。12才から 肉体的訓練を中心に本格的な訓練を受ける。18才で軍隊に編入され、20才で 主力軍となり、30才で兵営を離れ、家庭を持つが、兵役義務を負い、60才で 兵役が解除となった。 
 古代ギリシアの歴史は、ポリスの生・展・没落の歴史と言える。 ポリスは独立した都市国家で、その間には戦争が絶えることがなく、また ギリシア全体が一つにまとまることもなかった。しかし、その一方で ギリシア人は一つの民族としての意識を失わなかった。 
 彼らは自らをヘレネス (英雄ヘレンの子孫の意味)と呼び、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を 話す者の意味、この単語から英語のbarbarian=未開人、野蛮人が出来る)と 呼んで軽蔑した。なおギリシア人という言い方は、後のローマ人が呼んだ 呼び方である。 
 宗教では、ギリシア神話でおなじみの主神ゼウス、その妻 ヘラをはじめポセイドン(海と大地の神)、アポロン(太陽の神)、アテナ (知恵の神)、アフロディテ(美の女神)をはじめとするオリンポスの十二神が 信仰された。オリンポスは山の名でそこに神々が住んでいると考えられていた。 また神託を信じた。各ポリスの守護神の神託を求めたが、特にデルフィ (ポリスの名)の守護神アポロン神の神託は有名で、全ギリシアのポリスが 宣戦・講和・植民の是非などを尋ねた。神殿と祭礼を同じくするポリス間では 隣保同盟が結ばれた。 
 そして有名なホメロスの二大叙事詩である「イリアス」と 「オデュッセイア」は全ギリシア人に愛誦された。 
 一番有名なのがオリンピア (ポリスの名)の競技である。前776年から4年毎に行われ、後393年まで実に 千年以上続いた。近代オリンピックは1896年にクーベルタンによって提唱され 始まったが、1996年のアトランタ大会でやっと100年が経過しただけである。 4年毎の真に行われるオリンピックの期間中は選手や見物人の往来安全の ために一切の戦争行為が停止されたことはよく知られている。もちろん選手は 男性だけで、全裸で競技を行い、競技には競争(短距離、中距離、長距離) と五種競技(走り幅跳び、槍投げ、短距離走、円盤投げ、レスリング)そして レスリング、ボクシング、競馬、戦車競争などがあったが、当時の体育の 目的がよりよい戦士の養にあったことをよく示している。 
 

 
 
1.

2 ギリシア世界
 

(3)ポリスの展(その1)
 ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(前12世紀~前8世紀頃)に滅び、王権は 衰え、ポリスが立する頃には、王は貴族の中の第一人者にすぎなくなった。 従って、はじめ王を頂いていた各ポリスでは、前7世紀頃までには広い土地と 多くの家畜を保有し、馬を飼育し、高価な武具を備え、騎兵としてポリス防に 重要な役割を果たした貴族がポリスの政治・軍事の実権を握る、貴族政治が 確立した。アテネでも、貴族出身の9人のアルコン(執政官、任期1年)が実権を握っていた。 
 前750年から550年の約200年間の間に、ギリシア人は地中海・黒海沿岸に かけてめざましい植民活動を行った。ポリス内部での人口の増大の結果、 土地獲得の要求が最大の原因だが、さらに商業活動への関心がそれに拍車を かけた。 
 この植民活動の結果、しいポリスが次々に誕生していった。その 中にはその後展を遂げ、現在まで続いている都市がある。代表的な都市が マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、ビザンティオン (現在のイスタンブル)等である。 
 植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増えただけでなく、 ポリス内部にも大きな変化を引き起こした。本国のポリスと植民市のポリス間の 商業・貿易が盛んとなるに従って、貨幣が使われるようになった。 
 鋳造貨幣の 使用は前7世紀頃、リディアで始まったが、小アジアとの交易を通してギリシアに 伝わり、広まっていった。さらに商業の達にともなって、手工業も達し、 陶器をはじめブドウ酒、オリーブ油、属器等が作られ輸出された。このような 商業・貿易・手工業の達、貨幣経済の進展により、貴族のように大きな土地は もってないが貨幣財産では彼らに負けない富を蓄えた豊かな平民が出現して くる。「貨幣こそは人」ということわざは当時の状況をよく現している。 
 さらに、商工業の達によって武器の製造も盛んとなり、安価な武器が 普及するようになり、豊かな平民の中には、武器・武具を手に入れ、重装歩兵と なり、ポリスの防に参加するものも出てきた。 
 従来、貴族が政治を独占して きた最大の理由は、彼らが騎兵としてポリスの防の主体だったことにあった。 ところが平民の重装歩兵からる密集隊(ファランクス)が戦術の中心となって くると、騎馬の貴族の役割が低下していく。そのため国防の主体である貴族が 政治を独占するのは当然であるという論理は崩れざるを得なくなり、いまや 自分たちもポリス防に重要な役割を果たしているのだから当然政権に参加 する権利があると主張する平民との対立・抗争が激しくなっていった。 
 従来の貴族政治の時代には、慣習は文化されず、貴族によって自分 たちに都合のよいように自由に解釈されてきたので、平民は慣習を文化する ことを要求した。アテネではドラコン(生没年不 )が、前621年頃、従来の 慣習法を整理・改正してギリシア最初の文法をまとめた。その内容は刑罰が 非常に厳しく、やたらに死刑が適用されたので”血で書かれた”と評された。 
 貨幣経済の展によって、平民の経済的地位が向上したと前述したが、 もちろん全ての平民が豊かになったのではない。一方では貨幣経済の進展に よって没落していく者も多かった。農民の中には、借財に苦しみ、土地を失い、 奴隷に売られる者も次第に増えていった。借財を払えないものは土地を債権者に 差押さえられ、生産物の6分の1を彼に納めた。それが滞納になった場合とか、 はじめから身体を抵当として借して返済できない者は、奴隷として外国に 売られるのが当時の慣習法だった。 
 貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が急速に進み 奴隷に転落する者が急増していくという、アテネの内政の危機に「調停者」と して登場してくるのがソロン(前640頃~前560頃 )である。「調停者」とは、 ポリスが危機に陥ったとき、市民の合意により一定の期間全権を委ねられ、 争う党派の調停に当たり、重要な立法を行う人をいう。 
 王家にさかのぼる 名門生まれのソロンは前594年に「調停者」に選ばれ、有名な「ソロンの改革]を 行った。まず最大の問題であった没落する市民を救うために、いわゆる” 重荷おろし”といわれた借財の帳消しを行い、今後は身体を抵当とする借財を 禁止した。次に国政の改革を行い、「財産政治」を実施した。これは市民を 土地・財産によって4等級に分け、参政権や軍事上の義務をそれぞれの等級に 応じて決めた。第1級(富者、500メトロンの土地)はアルコンなどの最高の 官職に、第2級(騎士、300メトロンの土地)はその他の官職に、第3級(農民、 200メトロンの土地)は重装歩兵となり、その他の官職につける。そして第4級 (労働者、無産者)にも民会への参加を認めた。 
 財産政治は生まれでなく、 土地・財産によって官職を定めているところから、平民にも最高官職への道が 開かれた。その意味で、貴族政治は終わりを告げた。しかし、当然のこと ながら借財の帳消しに対しては貴族・富裕者が強い不満を持ち、一方土地の 再分配、つまり大土地所有者の土地を取り上げ、それを貧しい農民に分ける ことを期待していた貧農も不満を持った。また身体を抵当とする借財の禁止に よって借の道を閉ざされた人々の生活も問題であった。双方から不満を もたれたソロンは、国外に出て各地を旅行した。帰国後、僭主の出現に警告を したが効果なく、自分の法が行われないことを悲しみながら亡くなった。 
 ソロンの改革後の30年間は、アテネは混乱の連続であった。当時、 3つの党派があり、対立していた。これは地域的な対立でもあり、中央の平野を 地盤とし寡頭政治を求めた平野党、中庸の政体を求める海岸党、そして山地党は 貧しい者の党で民主政治を要求した。 
 この山地党の首領であった名門出身の ペイシストラトス(前600頃~前528)が、前560年に山地党を率い、親隊と ともにアクロポリスを占領して僭主となり、政権の座についた。僭主とは貴族と 平民の対立を利用して非合法な手段で独裁権を握った者をいう。 
 彼は、後に反対派によって2度亡命を余儀なくされるが、三たび僭主と して政権を担当した。彼の政権は手工業者・商人の支持を背景に中小農民を 支柱とし、農業奨励と小農民保護を政策の中心とした。また5%の地租を課して アテネの財政力を高めた。さらに手工業や海上展にも力を注いだ。彼の人柄は 穏和で親しみやすく、ソロンの国政を変更せず巧みな政治運営を行ったので 、後世の人々からは理想の政治といわれた。 
 しかし、彼は自分の一族を高官に つけたり、また彼の二人の子の時には僭主政治は暴政と化したので、僭主は 英語のtyrant(暴君)の語源となった。ペイシストラトスの長男のヒッピアスは 弟が暗殺された後、暴虐となり、前510年にはスパルタ王の軍がアクロポリスを 包囲し、約50年間続いた僭主政治は終わりを告げた。ヒッピアスは国外に 追放され、のちペルシア戦争の際には、ダレイオス1世の案内役をつとめたりした。 
 クレイステネス(生没年不 )は名門の出身で、民衆の支持を得て ヒッピアスを打倒し、貴族派がスパルタ王と結んで寡頭政治を樹立しようと した時、民衆と手を結んで民衆の力でスパルタ王を退去させ、前508年に最高官の アルコンとなり、いわゆる「クレイステネスの改革」を行った。そのなかで 最も有名なのが、陶片追放(オストラシズム)である。 
 これは市民が僭主に なる恐れのある人物の名前を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し、 投票総数が6000票以上あったとき、最高得票者1人が10年間、国外に追放される 制度である。前487年にはじめて施行されたが、後には政敵を陥れる手段に 悪用され、有能な政治家が追放されたため、前5世紀末以降中止された。 
 もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となっていた古い血縁的な4部族制を 改めて、市域・海岸・内地の3つの地域に分け、各々をさらに10の小地域に分け、 機械的に組み合わせて地域別による10部族制を創設し、各部族から50人ずつの 代表を選出し、「500人評議会」を創設した。また毎年各部族から1名、計10名の 将軍をたに選びんだ。将軍は、アテネ民主政下で最重要官職となった。以後、 人々は居住地域によって部族が決まり、家柄を表に出させないようにした。 「500人評議会」は、世界史上最も古い比例代表制である。これによってアテネの 民主政の基礎が確立した。 
 小アジアの西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする多くの植民市 が建設されていた。当時、東方ではアケメネス朝ペルシアが大展を遂げ、 小アジアにも進出し、イオニア諸都市を支配下に置いた。ペルシアはこの イオニア諸都市に専制政治・僭主政を強制し、課税した。 
 これに対して、 前500年にミレトスを中心とするイオニア諸都市が反乱を起こした。イオニア 諸都市はギリシア本土へ救援を依頼したが、スパルタは応じなかった。前494年、 ペルシアはミレトスを占領・破壊し、反乱は鎮圧されたが、このイオニアの 反乱の際、アテネが20隻の軍艦を派遣したことがペルシアに懲罰の軍を派遣 する口実を与えることとなり、こうして歴史上有名なペルシア戦争(前500~ 前449、狭義には前492~前449)が始まった。 
 第1回ペルシア戦争 前492年、ダレオイス1世はトラキア、マケドニア 遠征を行ったが、アトス岬において猛烈な北風のために艦艇300、兵員2万人を 失い、失敗に終わったが、エーゲ海北岸に対するペルシアの支配権を確立した。 
 第2回ペルシア戦争 前490年、ついにダレイオス1世は、アテネ・ エレトリアに対する報復の大軍を動かした。エレトリアもイオニアの反乱の際、 アテネとともに軍艦を派遣したので、ペルシア軍はまずエレトリアを攻撃、 これを陥落させ、ただちにアテネに向かい、9月初めアテネから東北方のかなり 離れたマラトンへ上陸した。この時ペルシア軍を導いたのが20年前にアテネを 追放されたヒッピアスであった。なぜアテネのすぐ近くに上陸しなかったか 謎である。アテネではマラトンへの出撃をめぐって意見が割れたが、積極作戦を 主張するミルティアデスの意見が入れられ、マラトンに出撃した。 
 数日のにらみ合い後、激戦が始まった。10万人のペルシア軍(実際は3~4万か)と 約1万人のアテネ軍が激突した、有名なマラトンの戦いは、夜け前に始まり 午前中いっぱいで終わった。結果は、アテネ重装歩兵の密集隊の活躍でアテネ 側の勝利に終わり、ペルシア軍の大敗走となった。戦死者、ペルシア軍約6400名、 アテネ軍約200名であった。この有名な戦いは、今日「マラソン」によって記念 されている。激戦が終わった直後、エウクレスという市民が完全武装のままで アテネまで35kmを力走、”我ら勝てり”と一言いうなり息が絶えたと伝え られている。この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会で現在の マラトン村からアテネまでの約40kmの競技が行われ、後に42.195kmとなり 現在に至っている。 
 

 
 
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2 ギリシア世界
 

(3)ポリスの展(その2)
(4)奴隷制度

(3)ポリスの展(その2)
  第3回ペルシア戦争 マラトンの敗戦を知ったダレイオスは、ただちに より大規模な遠征の準備に取りかかったが、4年目の前486年に亡くなり、王子 クレルクセス1世(位前486~前465)が後を継いだ。クレルクセスは前480年、 空前の規模の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻した。このため陸上部隊を全員 船で運ぶことは不可能となり、陸上部隊はエーゲ海の北岸沿いに進み、海軍が これを援護しながら進んだ。前492年のアトス岬の悲劇を避けるため、半島の 付け根にに運河を開鑿した。ペルシア軍の兵力は、ヘロドトスは陸軍210万人と しているが、実際は約30万人、そして海軍は三段櫂船(上中下3段にならんだ 漕ぎ手が櫂を使って動かす古代の軍船 )約1200隻位と考えられている。 
 マラトン以来、ペルシアの来寇が測される中でも、ギリシアは まとまりを欠いていた。アテネでは、クセルクセスの準備が本格化していた 前483年に大きな銀山が見された。アテネ市民は慣例にしたがってこれを 市民の間で分配しようとしたが、この時、テミストクレス(前528頃 ~前462頃 )は、その分配を差し止め、200隻の三段櫂船の造させ、ペルシアの侵攻に 備えた。 
 ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求めた。 最初、巫女はアテネの壊滅を言した、さらに神託を求めたところ「ゼウスは、 女神(アテナ)に木の壁(艦船の意味)を与え給う。これぞ唯一つ難攻不落に して汝と子に益さん。」とのお告げを得たとされている。 
 ペルシア軍はマケドニアから南下し、ギリシア連合軍も出撃し、 テルモピレー(海沿いの土地で山が迫り、隘路になっている)でペルシアの 南下を阻もうとした。前480年8月、ここに有名なテルモピレーの戦いが 始まった。 
 テルモピレーのギリシアの守備隊は、スパルタ王レオニダスの指揮下に、 スパルタ市民の精鋭300人を中心に総勢約6000人であった。守備隊は、ペルシアの 弓兵の威力が揮できないように、隘路の断崖で戦った。守備隊はペルシアの 大軍を手によく戦ったが、地のギリシア人がペルシア軍に迂回路を教えた ため、背後をつかれ挟撃にあい激戦の末、300人のスパルタ兵は全員戦死した。 この戦場跡に建てられた墓碑の詩「旅人よ、ラケダイモン(スパルタのこと) の国人に行き伝えよ。御身らが命に服して、我らここに死にきと」 
 テルモピレーの戦い後、ほとんど無抵抗状態のなかを南下し、9月に ついにアテネのアクロポリスを占領した。アテネでは、「テミストクレスの 決議」に従ってほとんどの市民は、アテネの南にあるサラミス島へ疎開して いて、少数のものが籠城していた。 
 テミストクレスは、軍船の数で劣るため広い水域での戦いを避け、狭い 水道での戦いに持ちこもうと考え、内通者を装った使者をペルシア軍に送り、 ギリシア海軍がサラミスから撤退しようとしていると告げさせた。 クセルクセスはサラミスを封鎖する作戦に出て、500隻のペルシアの主力艦隊が 狭い水道に侵入した。ギリシアの三段櫂船の総数は約310隻と伝えられている。 
 こうして夜けとともに狭い水域で史上有名なサラミスの海戦(前480年9月 下旬)が始まった。機動力に優るギリシア海軍は追い風を利用して、いわゆる 衝角戦法(出来るだけ直角に近い角度で手の船にぶつかって打撃を与える 戦法)で、狭い水域で混乱に陥ったペルシア海軍に襲いかかり、敵艦を多数 撃沈した。 
 このサラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いで あるだけでなく、ギリシアのその後の歴史を考えるときたいへんな意義ある 戦いであったと言える。特に三段櫂船の漕ぎ手として無産市民が活躍した ことは後の民主主義の達に大きな影響を及ぼした。 
 三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170~200名なので、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万 4千人以上が必要になる。当時ののアテネの重装歩兵階層以上の市民が 約1万5千人、無産市民が約2万人と推定されているので、全市民が乗り 組んだであろう。特にマラトンの戦いでは活躍出来なかった無産市民 (文字通り財産がないために、武器・武具を自分で買うことができず、重装歩兵 部隊に入れなかった人々、当時は武器・武具は、ポリスから支給されず、自分で 調達しなければならなかった)の活躍が大きな比重を占めた。このため、 戦後、従来参政権を与えられなかった無産市民が参政権を要求し、それが 認められて行くなかで、ギリシアの民主主義が完して行く。 
 サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退いたが、約15万人の ペルシア軍はギリシア半島の北方で冬待機していたので、ギリシアは依然と して大きな脅威にさらされていた。 
 前479年、アテネ・スパルタ連合軍は プラタイアに進撃してペルシア陸軍を撃破した。同じ頃、イオニアのミカレー 岬ではギリシア連合艦隊がペルシア艦隊を破り、ギリシア側の勝利が確定した。 前449年に「カリアスの平和」でアテネとペルシア間の和約が結ばれ、 小アジアのギリシア植民市の独立が承認され、ペルシア戦争は正式に終わった。 
 ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し、ギリシア的な 自由な市民国家がオリエント的な専制国家に対して勝利し、以後のギリシア のみならず、後世のヨーロッパの歴史にも大きな影響を及ぼす出来事であるといえる。 
 第3回ペルシア戦争後も、ペルシアの再攻の可能性は依然としてあった。 こうした状況のなかで、従来のスパルタに替わって「ギリシア連合」の中心と なったアテネを盟主として、前477年にデロス同盟が結され、エーゲ海辺の 数百のポリスが参加した。 
 参加したポリスは、ペルシアに対抗するための軍船・ 兵員を提供するか、軍資として貢租を納める義務を課せられた。この同盟 資は、最初はエーゲ海の小島デロスに置かれたが、前454年に同盟の庫が アテネに移され、資がアテネ財政に流用されるようになり、アテネは盟主と して他の同盟国を支配下に置き、アテネは事実上の[アテネ帝国」となり、 繁栄していく。 
 前述したように、サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自分たちが ギリシアの自由を守ったと主張し、政治的権利を要求を強めていった。この ような状況のなかで、ついに前462年に、母はクレイステネスの姪という富裕な 名門の出である若きペリクレス(前495頃~前429)が一種のクーデターによって、 老院から実権を奪い取り、政治・司法における実権を五百人評議会、民会、 民衆裁判所に与えた。 
 特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が 最高の司法機関としての力を持つようになった。このためアルコン(最高官職、 執政官、任期1年)の権威は落ち、任期は1年だが重任、再任が認められていた 将軍職の地位がきわめて高くなり、15年間連続で将軍職に重任したペリクレスが 台頭し、前443年に保守派の中心人物が陶片追放で退けられると、”名の うえでは民主政だが、事実は第一人者による支配”と言われた、いわゆる ペリクレス時代(前443~前429)が現出した。このペリクレス時代にアテネ 民主主義が完した。 
 国家の最高決定機関は民会であった。民会は500人評議会が提案した 議案のみを審議した。民会には年男子市民であれば誰でも出席し、自由に 言できた。民会への出席者には日当が支給された。民会は年に40回位開かれたが、 出席率等分からないことも多い。また将軍・財務官などの一部の官職を除いて、 一般官職が市民に開放され、抽選で決められた。官職抽選制も古代ギリシアの 民主主義の特色である。このように庶民までが役人となったため、官職についた とき報酬が支給されるようになった。 
 これを現代の民主主義と比較してみると 当然のことながらいくつかの違点がある。まず第1に、現代の間接民主制に 対して直接民主制であったこと、第2に年男子市民による民主制であり、 女性には参政権がなかったこと、第3に民主主義に最も反する奴隷制の上に り立っていた民主主義であるということである。そのほかに官職抽選制が 取り入れられたこと、政党がなかったことなどがあげられる。 
 ペリクレスは、市民の日当を公から支払う政策を取って市民の歓心を かい、その資はデロス同盟の資を流用し、同じくデロス同盟の資で アテネ海軍の増強にも務めた。対外的には、ペルシアとスパルタを同時に敵に まわすことの不利をさとり、前449年にはペルシアと「カリアスの平和」を結び、 前446年にはスパルタと30年間の和約を結んだ。またペルシア戦争の際、破壊 された神殿の跡にパルテノン神殿を再興し(前447年着工~前432年完)、 文化を奨励し、アテネの全盛期を現出したが、晩年には専横な行動もあった。 嫡子2人をペストで失い、自らもペストにかかって亡くなった。 
(4)奴隷制度
 奴隷制は古代社会にはどこでもみられるが、ギリシアのポリス社会は、 古代ローマとともに、世界史上最も奴隷制が達した社会である。奴隷とは、 他人への隷属性が最も強い人間であり、人格が認められず、所有者の意の ままに労働を強制され、譲渡・売買された人々である。一般的に、その生の 原因は、戦争の捕虜・略奪・世襲・債務の不払いなどである。ギリシアでも 債務のために転落した市民、捕虜、奴隷として輸入された異民族などが奴隷と して売買された。 
 アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がいた。 その多くは異民族の奴隷であった。債務奴隷も多かったが、ソロンの立法以後は 禁止された。アテネの場合、奴隷の多くは召し使いなどの家内奴隷であったが、 銀山(ラウレイオン銀山が有名)をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用されたが、 その生活は最も悲惨であった。また陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が 使用され、市民の生活を支えた。スパルタでは被征服民が奴隷とされ、 ヘロットと呼ばれ、農業労働に従事した。 
 有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・ 奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に 奉仕するものだから。・・・」と述べている。当時のギリシアでは奴隷制は 不可欠であったので、大学者にとっても疑問を持つ余地のないことだったのである。 
 

 
 
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2 ギリシア世界
 

(5)ポリス社会の没落
 アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強化し、前449年の ペルシアとの和約によって存在理由がなくなった後も、デロス同盟の加盟国から、 貢租を取り立て、それをアテネのために流用し、またアテネの民主制を加盟 ポリスに強要するなど、種々の干渉、強制を加え、反乱に対しては武力で弾圧した。 ペリクレス時代のアテネは、まさに「アテネ帝国」として、エーゲ海辺に 確固たる覇権を確立した。 
 このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタである。スパルタは、 その強力な武力を背景に、前6世紀末までに、ペロポネソス半島一帯の諸ポリス からるペロポネソス同盟の盟主となり、ギリシア随一の強力なポリスと 自他ともに認められるようになっていた。 
 スパルタは、少数のスパルタ人が 多数のペリオイコイやヘロットを支配している貴族政の国であり、従って他の ポリスの貴族政や寡頭政を支持した。アテネのような民主政治が入ってくれば、 それはスパルタの崩壊につながると考え、民主派を弾圧するのが国是であった。 従って、アテネが興隆し、その影響が辺に広まることはスパルタにとって 脅威であった。その意味でも、いずれ両ポリス間の激突は避けられないことでも あった。それでも前446年に30年間の和約が結ばれたが、結局15年で破綻し、 ギリシア世界を二分しての大戦争であるペロポネソス戦争(前431~前404)が 勃することになる。 
 前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側の プラタイアに侵入した。これが以後27年間続くペロポネソス戦争のきっかけとなった。 スパルタはペロポネソス同盟軍を動員して、アッティカ(中部ギリシアの東部の エーゲ゛海につき出した半島部をさす、アテネはアッティカ地方にある )に侵入し、 耕地を荒らして引き上げた。 
 当時、ペロポネソス同盟側の兵力は約5万人の重装 歩兵とそれを上回る軽装歩兵、約100隻の三段櫂船であり、対するデロス同盟側は 約3万人の重装歩兵、数千の軽装歩兵、約300隻の三段櫂船を持ち、陸軍では劣るが、 海軍力では圧倒的に強みをもっていた。そこでペリクレスは陸戦を避けて、海戦に 持ちこもうと考え、アッティカの田園地方を放棄して、籠城戦術を取っていた。 ペリクレスは艦隊をペロポネソス半島に出動させ、耕地や村落を荒らし回り、 第1年目はアテネ側がやや優勢のうちに終わった。 
 翌年の前430年、アテネでは 戦死者の国葬が行われ、ペリクレスが有名な葬礼演説を行った。そのなかで、 民主政治、自由、勇気、理性など”ギリシアの学校”としてのアテネが優する 点をあげ、次のように言っている。「われらの政体は他国の制度を追従するもの ではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。 その名は、少数者の独占を廃し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と 呼ばれる。」 
 前430年、スパルタは再びアッティカに侵入し、40日間にわたり破壊を行った。 この侵入の直後に、思いがけないことが起こった。ペストの大流行である。 ペストはアテネの外港のピレウスで始まり、アテネに飛び火した。当時のアテネは 家も人も密集している不生な籠城生活であるため、このおそろしい疫病は 非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1が死んでしまった。 
 現在ではペストは地球上からなくなったが、歴史的には何度も大流行し、多くの人々の 命を奪った。主な症状は、高熱、激しい嘔吐、下痢、腫物で、大多数は病後 7~9日目に死亡した。さいわい一命を取りとめた者も、末端部の機能喪失、 盲目、健忘症に悩まされた。死体は街路にも神殿にも積み重ねられ、それを 食べた鳥獣もまた死んだ。人々は自暴自棄に陥り、ペリクレスに非難が集中し、 彼は罷免され、前429年に再び将軍に選ばれたが、彼自身ペストにかかり、 この年に亡くなった。ペストは前430~429年に荒れ狂い、ようやく下火に なったが、前427年にぶり返し、426年まで及んだ。 
 ペリクレス亡き後のアテネの政治を指導したのは、いわゆるデマゴーグ 達であった。来は”民衆を指導する者”を意味するが、普通”煽動政治家” と訳されているように、民衆に迎合してこれを煽動し、土地や戦利品獲得の 夢をかき立て、貧しい民衆達に好戦機運を盛り上げ、彼らの支持で政権を維持し ようとした人々をさす。”デマ”と言う言葉がこれから出ていることは言う までもない。民主政治はまさに衆愚政治へと堕落して行った。 
 前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲した。そのためスパルタは現状 維持の条件で和平を申し入れた。ところが有名なデマゴーグのクレオン(皮 なめし業者)は、和平に強硬に反対し、法外な要求を出し、もっと多くの戦争に よる利益を要求する民衆を煽動し、交渉を決裂させ、絶好のチャンスを逃がした。 
 その後、スパルタはトラキアに出兵し、トラキアの諸都市をアテネから離反 させようとしたので、前422年、クレオンはトラキアに出陣したが、大敗し、 戦死した。そのためアテネでもようやく和平の機運が強まり、前421年に、 双方占領地を返還する条件で「ニキアスの和約」が締結された。 
 ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山の採掘を営み、千人の奴隷を 所有する持ちであった。彼はスパルタとの和平を続ける努力をした。ところが こうした状況のなかで、アルキビアデスが急に頭角を現してきた。彼は富裕な 名門の出で、後見人のペリクレスの家で育てられ、ソクラテスに愛された、 美貌、才気煥の人気者であった。前420年、30才になり将軍に選ばれた彼は ニキアスと対立し、ニキアスの和平主義に対して、スパルタの仇敵アルゴスと 同盟し、前418年にスパルタと戦って大敗を喫した。 
 この頃、シチリア島の アテネの同盟国がアテネに救援を求めてきた。アルキビアデスは第1人者となる 絶好のチャンスと考え、大衆は勇ましい計画に魅せられ、空前の大遠征が決議され、 アルキビアデスとニキアスが指揮官に選ばれ、前415年に60隻の三段櫂船を含む 100隻の大船隊と約6000人の歩兵からなる大遠征隊が出航した。ところがシチリア 到着後、アルキビアデスに対する本国への召喚命令が来た。彼は召喚の途上、 脱出し、スパルタに逃亡した。 
 シチリア遠征軍は、シラクサを包囲したが、スパルタからの遠征軍の 到着によって、包囲軍は次第に不利な状況に陥り、前413年、陸戦で惨敗を喫し、 帰国しようとしたが、退路を封鎖され、それを突破しようとした海戦でも敗れ、 約4万人の退却は悲惨を極めた。約7千人が捕虜となり、多くの者が病気や 飢えで死んだ。アテネはこの遠征で莫大な艦隊と兵員を失い、資面でも 大打撃をこうむった。 
 シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスがアテネから離反し、 スパルタと結んだため、以後小アジアをめぐって攻防戦が続いたが、スパルタは ペルシアと同盟を結んで海上で死闘を繰り返し、前405年の最後の海戦に敗れた アテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年の前404年にアテネはついに 降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの 勝利で終わった。 
 ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊を派遣し、 寡頭政を強要した。しかし、鎖国政策を放棄した影響がすぐに現れ、貨幣 経済が普及し、市民間に貧富の差が生じてきた。 
 スパルタの覇権をくつがえそうとアテネ、テーベ、アルゴス、コリントが 同盟してコリント戦役(前395~前386)を起こした。その背後にはペルシアの 策謀があった。ペルシアはスパルタが強大になることを警戒し、分裂・抗争を 起こさせることをねらってアテネその他のポリスを経済的に援助し、ギリシアの 政局を左右した。 
 しかし、この頃テーベが急速に勃興してきた。テーベは、アテネの北方の ボイオティア地方にあり、早くからギリシア中部の中心のポリスであったが、 ペロポネソス戦争ではアテネ攻撃の先鋒となった。しかし、戦後はスパルタと 対立したが、前4世紀前半にエパメイノンダス(エパミノンダス)(?~前362) の指導のもとで国力を充実させ、前371年のレウクトラの戦いで、 エパメイノンダスの考案した斜線陣戦法で、スパルタに対して決定的な勝利を 得た。 
 これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移った。 エパメイノンダスはスパルタに対抗して諸ポリスの解放に努めたが、 前362年にエパメイノンダスはスパルタとの戦いで戦死し、テーベの覇権も、 彼の戦死とともに失われ、以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、 ギリシア世界全体が衰退していった。 
 ちょうどこの頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィリッポス2世 (位前359~前336)が、ギリシアに侵入してきた。アテネとテーベは連合して、 前338年にカイロネイアで戦ったが敗れ、全ギリシアはマケドニアの支配下に 置かれることとなった。 
 

 
 
4.

2 ギリシア世界
 

(6)ギリシア文化
 ギリシア人は、東方の先進文化であるオリエント文化の影響を受けながらも、 自由なポリスの市民生活のなかから、独自の人間中心的な、現実的な、合理的な 文化をつくりあげた。広義でのヘレニズム(ギリシア風文化)は、ヘブライズム (キリスト教)とともにヨーロッパ文の二大潮流として後世に大きな影響を 及ぼした。 
 ギリシア人はゼウスを主神とするオリンポスの12神など多くの神々を 信仰した。彼らが信仰した神々は、人間と同じような系図を持ち、喜怒哀楽の 感情を持ち、恋愛をし、時には嫉妬もする人間的な神々であり、人間との違いは 不老不死であることにあった。この人間的な神々の姿はギリシア神話に生き生きと 描かれている。 
 文学は、神話の中から生まれ、神々や英雄の活躍を描いた叙事詩が前8世紀から 前7世紀頃に盛んとなった。最古の大叙事詩である「イリアス」と「オデュッセイア」の 作者であるホメロス(生没年不、前8世紀頃 )は盲目の詩人であった。 
 「イリアス」はトロヤ戦争が10年目を迎えた時の49日間の出来事を総指揮官の アガメンノンと第1の勇者アキレウスの対立を軸に描いている。そして 「オデュッセイア」はその後編とも言えるもので、トロヤ戦争が終わって諸将が 帰国した後も、イタカの王オデュッセウスはトロヤの神の怒りに触れ、10年に わたって海上を漂流し、様々な冒険・苦難の末に帰国に功するまでを描いている。 この二大叙事詩は、今日に至るまで世界中の多くの人々に愛読されている。 
 ヘシオドス(前700年頃)は、「労働と日々」で知られるが、この作品は 小土地所有農民であった彼が、怠惰な弟への戒めのかたちで書いたもので、 人間は額に汗して働くべきであると、勤労の尊さを歌った。彼には、神々系譜を 扱った「神統記」があり、ホメロス以来の大叙事詩人とされている。 
 前7世紀から前6世紀の貴族政の末期になると、人々の感情を歌った叙情詩が 盛んとなっり、有名な女流詩人のサッフォー(前612頃~? )は、レスボス島の 富裕な家に生まれた。少女時代をシチリアで過ごし、帰郷後、宗教団体をつくり 少女たちと生活をともにし、詩や音楽を教えたとされる。恋愛詩が残っているが、 少女達への激しい情熱を歌っているところから、”レスボスの女”からレスビアン (同性愛)という言葉が生まれた。後に彼女の詩は激しすぎるという理由から禁書と なった。さらに恋と酒を歌ったアナクレオン(前560頃~? )、オリンピアの 競技祝勝歌で有名なピンダロス(前518~前438 )などが活躍した。 
 前5世紀のアテネ民主政の全盛期の時代に盛んとなったのが演劇である。 演劇はギリシア文化を代表する分野といってもよく、優れた作品は今日でも しばしば上演されている。演劇は、来はぶどうの神、ディオニソス(バッカス) に捧げる祭礼であったが、国家の祭典にともなう行事となり、この頃から コンクールの形を取るようになり、市民から選挙と抽選で選ばれた5人の審査員の 投票により順位が決められ、優勝者にはオリンピア競技の優勝者と同様の称賛が 与えられたので、多くの劇作家が競って優れた作品を表した。 
 そのために立派な 野外劇場が建てられた。現在までよく保存されており、その音響効果のすばらしさで 有名なペロポネソスにある「エピダウロスの劇場」、アテネの「ディオニソスの劇場」 などが特に有名である。多くの劇作家の劇が上演され、競いあった。 なかでもアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスは三大悲劇詩人と讃えられて いる。 
 アイスキュロス(前525~前456)は、マラトンやサラミスの戦いに参加して いるが、悲劇作家として活躍し、90の作品を書いたといわれるが、現存するのは 7編である。「ペルシア人」「アガメムノン」「縛られたプロメテウス」などが 代表作品とされている。悲劇のコンクールでもしばしば優勝している。 
 ソフォクレス(前496頃~前406)は、最初の作品で優勝し、120編以上の作品を書き、24回 優勝している。代表作の「オイディプス王」他7編が現存している。エウリピデス (前485頃~前406頃 )しい手法をとったため優勝回数は5回と少ないが、18編が 現存しており、特に「メディア」は代表作とされている。彼の後、悲劇は急速に衰え、 前5世紀から前4世紀には喜劇が隆盛となった。 
 悲劇とは、不老不死の神と違い、いつか死ぬ運命にあり、しかも神の意志に よって運命が決められる人間そのものが悲しいということで、神に操られる人間の 運命を題材とした。これに対して喜劇は、権力やに固執する人間や社会の 批判・風刺を題材とした。 
 代表的な喜劇作家がアリストファネス(前445頃~前385頃)である。彼の青年時代は ペロポネソス戦争の時代で戦乱にけ暮れた時代であり、アテネではデマゴーグの 時代であり、ポリス社会が腐敗・衰退していく時期であった。そのなかで彼は 平和を念願し、デマゴーグを徹底的に批判した。喜劇44編のうち、現存するのは 11編で、そのなかでは「女の平和」「女の議会」「雲」「蜂」などが代表作品と して知られている。前411年に上演された「女の平和」は、アテネとスパルタ双方の 女達がセックス・ストライキによって戦争を中止させるという反戦劇になっている。 
 美術の分野では、絵画は壺絵などに盛んに描かれたが、後世でいう絵画は 達せず、彫刻が中心となった。ギリシアではよい大理石が取れたことも1つの 原因と考えられる。 
 最も代表的な彫刻家はフェイディアス(前490頃~前430頃 ) である。彼はアテネの人で神像彫刻に優れ、ペリクレスの知遇を得て、パルテノン 神殿造営の監督をした。パルテノン神殿の「アテナ女神像」は代表作だが模造が 伝わるのみである。しかし、パルテノン神殿造営で不正があったと摘され獄死 したといわれる。さらに「円盤投げ」で知られるミュロン(前5世紀)、 「オリンピアのヘルメス像」で有名なプラクシテレス(前4世紀)らが活躍した。 
 ギリシア美術を代表するのが、神殿建築を中心とする建築の分野である。特に パルテノン神殿は荘重なドーリア式の代表で、ペリクレスの時に建立され、 フェイディアスが造営監督を務めた。現在もアテネのアクロポリスの上にそびえ 立っているが、ギリシア政府はその保存に頭を痛めていると言われている。 神殿建築の様式は時代とともに変化している。一般的には、ドーリア式から イオニア式へ、そしてコリント式へと、特に列柱形式に特色が顕著に表れている。 優雅なイオニア式、華麗で技巧的なコリント式と言われている。 
 ギリシア文化のなかで特に重要なのが哲学と歴史である。哲学とは国語辞典 によると、「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようと する学問」とある。ギリシア語のphilo(愛する)ーsophia(知、叡智)が英語の philosophy(哲学)の語源であることはよく知られている。今日では 「人間とは何か」「人はいかに生きるべきか」を追求する学問である哲学のは、 自然哲学と呼ばれた学問である。 
 自然哲学は前6世紀頃、ミレトスを中心とする イオニア植民市で、万物の根源を追求する学問として立した。その最初の有名な 学者がタレース(前624頃~前546頃 )である。前585年におきた皆既日食の言や ピラミッドの高さの測定などで有名でギリシアの“七賢人”の一人として知られている。 彼は「万物の根源は水である」と唱え、自然哲学の祖とされている。 
 彼の後に多くの学者が出て、様々な説を唱えた。アナクシマンドロス(前611頃~前547頃)は、 「万物の根源は特定できない無限なるもの」と考えた。“ピタゴラスの定理”で 有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(前582頃~前497頃 )は「万物の根源 は数である」とした。アナクシメネス(前580頃~)は「万物の根源は空気である」と 言い、ヘラクレイトス((前544~?)は宇宙の根源は「永遠に生きている火」で あり、一切の物は火にして火に還るとし、「万物は流転する」という言葉を残している。 アナクサゴラス(前500頃~前428頃)は物体は微小なスペルマタ(種子)に分けられ、 それが混沌の状態から知性によって整理され世界を形したと説いた。 そしてエンペドクレス(前493頃~前433頃)は、土・水・火・風の4素による 結合・分離から万物の生・消滅を説した。 
 自然哲学の大者とされるのが、 デモクリトス(前460頃~前370頃 )である。彼は、同質・不可分・不変不滅の 小粒子であるアトム(原子)こそが実在で、無数のアトムが結合・分離して万物が 生・変化・消滅するという「原子論」を唱えた。この原子論によって万物の 根源の追求には終止符がうたれた。 
 彼が活躍した時期は、アテネの民主政治の 全盛期であったので、アテネでは弁論・修辞を教え、報酬を受け取る職業教師とも 言える人々が活躍していた。彼らは自ら、“知恵のある者”と称したので ソフィストと呼ばれた。 
 その代表的な学者がプロタゴラス(前485頃~前415頃 )で ある。彼は「人間は万物の尺度である」という有名な言葉を残している。 この言葉は色々に解釈されているが、普遍的な真理の存在を否定して全てを 対化する、ソフィストの対主義を表わしていると、また哲学の主流を従来の 自然哲学、自然論哲学から人間論哲学、現在の哲学のように「人間とは何か」 「人はいかに生きるべきか」を追求する学問に転換させる契機になったとされている。 
 このソフィストの対主義に対して、絶対的真理の存在を説いたのが、 有名なソクラテス(前469頃~前399)である。彼は彫刻家(または石工)を父に、 助産婦を母としてアテネに生まれたが前半生は不である。後半はペロポネソス 戦争の時期に当たるが、3回従軍して国外に出たほかはアテネで暮らした。 デルフィの神託の「ソクラテスより賢者はなし」という神託の真意を確かめるため、 当時ソフィスト(知恵のある者)を尋ね、問答を行った。その結果、“何も 知らないことも知らない”ソフィスト達よりは“何も知らないことも知っている” 自分のほうが勝っていると確信した。これが「無知の知」である。 
 そこで「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した上で、真理を追求 しようとして、街頭で「問答法」によって人々を真理に導こうとした。この時、 ソフィストの対主義を批判し、絶対的真理(真なるもの・善なるもの)の 存在を説きたので、ソフィストの反を招き、衆愚政治に堕した民主政治に 反対したので、ペロポネソス戦争に敗れたアテネで、青年を害し、堕落させたのが スパルタに敗れた原因だという理由で告され、死刑の判決を受けた。1ヶ月間の 入獄中に脱走を進められたが、「悪法といえども国家の法に従うべし」といい、 毒盃をあおいで死んだが、彼の死は弟子達に衝撃を与えた。彼は著書は一切 残してないが、我々は、プラトンの「ソクラテスの弁」「クリトン」「饗宴」や クセノフォンの「ソクラテスの思い出」などから彼の哲学を知ることができる。 
 ソクラテスの最大の弟子がプラトン(前427~前347 )である。アテネの 名門に生まれ、10代の終わり頃からソクラテスに師事し、10年間教えを受けた。 ソクラテスの死後、一時国外に亡命したが、後帰国し、「ソクラテスの弁」 などを執筆した。のちシチリアに旅行し、同市の僭主と親交を持ち、「国家論」で 知を愛する哲学者(哲人)が支配者になれば、理想的な政治が実現できるという “哲人政治”を説き、実現を期待したが、裏切られ、奴隷にされそうになったが、 かろうじて逃れ、帰国した。帰国後、「アカデメイア」(学園、英語 academyの 語源)を創設し、弟子の教育にあたった。 
 彼は”イデア論”によってギリシア 最高の哲学者と言われている。彼は、イデアこそが完全な、真の実在であり、 現実の世界にある個々の事物は不完全な”イデアの影”にしか過ぎないという。 それではなぜ人間は見たこともない完全なものに憧れるのか。それは人間の魂は、 かってイデアの世界に住んでいて、完全なものを知っている、ところが現実の 世界に生まれ肉体に閉じ込められ、不完全なものしか見えない。そこで魂が イデアを想起し、完全なもの、真なるものに憧れるのだと説いた。そして最高の イデアは”善のイデア”であるとし、善は人間の最高目的であり、実現すべき 最高目標であると説いた。 
 プラトンの最大の弟子が、アリストテレス(前384~前322 )である。 彼は、17才の時アテネに出て、プラトンの「アカデメイア」で20年間学び かつ教えた。プラトンの死後、各地を旅行し、マケドニアのフィリッポス2世に 招かれ、王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師を 勤めたことは有名である。フィリッポス2世の死後、アテネに帰り、学園 「リュケイオン」を開いた。彼は、哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・ 論理・美学・生物などあらゆる学問の祖であり、「万学の祖」と言われ、古代の 学問の集大者であった。彼の哲学は後世、イスラムや中世のヨーロッパの 学問に大きな影響を及ぼすこととなる。 
 自然哲学は、現在の学問の分野から言うと自然科学に近い。 その意味からも自然哲学から自然科学が起こったのも当然である。 ”ピタゴラスの定理”で有名な数学者・哲学者であるピタゴラス (前582頃~前497頃 )、”医学の父”ヒッポクラテス(前460頃~前375頃 ) らが活躍した。ヒッポクラテスは、当時の医学が宗教的・迷信的であったのに 対し、人体の自然治癒力を重んじ、病気の原因を科学的に追求しようとした。 
 イギリスの歴史学者、E.H.カーは「歴史は、過去と現在との対話である。」 と言った。 歴史は過去の具体的な出来事を扱う学問である。過去の事実が不確かで あってはならない、従って、正確な事実をつきとめることがまず大切である。 しかし、いくら正確な事実であっても、単にそれを積み重ね、列挙しただけでは 歴史とはいえない。それらの事実を取捨選択し、意味のあるものに組み立てると いう歴史の解釈が不可欠である。我々が歴史を学ぶのは、単に過去の事実を知る ためだけではなく、過去を知ることによって社会全体の展の過程を学び、 現在の社会をよりよく理解するためである。現在の問題を知るために学ぶと いうことがなければ、歴史は単に好奇心を満たすものとなってしまう。 そうした意味を込めて、カーは「歴史は、過去と現在との対話である。」と言った。 
 古代オリエントにも、王の業績など事実を記録した年代記のようなものは あったが、本当の意味での歴史はギリシアに始まる。 
 「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス (前485頃~前425頃 )である。彼は、小アジアのハリカルナソスの名家に 生まれ、同市を追われ、前445頃アテネに移り、南イタリアの植民市の建設に 参加、そこで亡くなった。その間、彼は北アフリカ、エジプト、フェニキア、 バビロン、黒海北岸を旅行した。 
 彼は、ペルシア戦争そのものと、それに至る 背景を叙述することを生涯のテーマとし、「ヒストリアイ」(「歴史」、 あるいはその内容から「ペルシア戦争史」と訳されている。historiaiは、 言うまでもなく英語historyの語源となった言葉で、もとは探求の意味である)を著した。 「歴史」は、ペルシア戦争の原因・背景に始まり、前479年までを叙述している。 旅行から得られた見聞を豊富に使い、伝承もそのまま取り入れるなど、 読んでおもしろい物語風の歴史になっている。 
 ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い 「科学的な歴史の祖」とされているのがトゥキディデス(前460頃~前400頃 ) である。彼は、ペロポネソス戦争が始まると「この戦乱が史上特筆に値する 大事件に展することを測して、ただちに記述を始めた」と自ら記している。 また「実際に自分で見聞したこと、または本当に確かだと思えることのみを 記述する」と事実を正確に伝えようとした。しかし、前424年には彼自身将軍の 一人として戦争に参加し、作戦失敗の責任を問われて国外追放となり、トラキア に移り、「歴史」(「ペロポネソス戦争史」)の著述を行った。ペロポネソス戦争の 終了で帰国を許されたが、数年後に没した。「歴史」は、前411年の部分までで 未完に終わった。 
 クセノフォン(前430頃~前354頃 )は、アテネに生まれ、 後アケメネス朝ペルシアの王子キュロスのギリシア人傭兵隊に参加(前401)、 バビロン付近で戦ったがペルシア王ダレイオス2世軍に敗れ、キュロスも 戦死したので、彼は1万人のギリシア兵を率いて黒海沿岸に脱出し帰国した。 この体験を「アナバシス」に著述した。また「ギリシア史」7巻の初め2巻で、 トゥキディデスの後を継いでペロポネソス戦争の終結までを叙述した。 
 

 
 
5.
3.ヘレニズム世界

3 ヘレニズム世界 
 

(1)ヘレニズム時代
 ヘレニズムという言葉は、広義と狭義の2義に使われる。広義には ヘブライズムとともにヨーロッパ文の二大基調であるギリシア精神を意味する。 狭義には純粋のヘレネスの文化と区別される前4世紀末以後の文化をさし、 政治的にヘレニズム時代という場合は、前334年から前30年の約300年間をさす。 狭義のヘレニズムという言葉は、ドイツの歴史家ドロイゼン(1808~84 )が、 しい時代と文化に意義を見だして以来普及した。 
 ギリシアのポリス社会が 衰退にむかっていた頃、ギリシアの北方でマケドニアが勃興してきた。マケドニア人は、 前12世紀頃、この地に侵入したドーリア人の一派で、はじめ部族的な原始王政の 形態をとり、ギリシアと交渉を持つようになったのはペルシア戦争の頃からである。 
 前359年に即位したフィリッポス2世(位前359~前336)は、15才から3年間テーベの 人質に取られていたが、その間、エパメイノンダスの斜線陣戦法を学んだ。帰国後、 摂政を経て王位につき、エパメイノンダスの斜線陣戦法を採用し、農民による長槍 歩兵のファランクス(密集隊形、古代ギリシアで行われた隊形で、重装歩兵を横長の 長方形に密に並べて敵と戦った)を完し、巧みな外交政策によりマケドニアを 強国にするとともにギリシアのポリスの抗争に介入した。 
 当時、アテネではイソクラテス(前436~前338 )が、ペルシア征討のためのポリスの統一を フィリッポス2世に期待したが、これに対してデモステネス(前384~前322 )は、 フィリッポス2世を弾劾する反マケドニア演説を行い、マケドニアがギリシアの ポリスの自由にとって脅威であることを力説した。彼はテーベに赴き、同盟を 作りあげた。 
 これをみたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を率いて ギリシアに侵攻し、前338年にはカイロネイアの戦いで約3万5千のアテネ・テーベ 連合軍を撃破した。フィリッポス2世は前337年ヘラス同盟を立させ、その盟主と なり、全ギリシアを統一した。続いて対ペルシアとの戦争の準備を進めている最中に、 娘の結婚式のとき部下に暗殺された。 
 父王の暗殺後、20才で王位についたのがアレクサンドロス3世(大王) (前356~前323、位前336~前323)である。彼は、父王の暗殺直後に国内の反対 勢力を破り、動揺したギリシア諸市の反乱を平定し、テーベを徹底的に破壊し、 全市民を奴隷とした。そしてヘラス同盟の盟主として、前334年に父王の遺志を 継いでペルシア遠征に出した。この時のマケドニア・ギリシア連合軍の兵力は、 騎兵5千・重装歩兵2万4千・補助部隊8千からる計3万7千であった。 
 遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡の古名)を渡り、小アジア西岸から 東方に進撃した。当時、アケメネス朝ペルシアは、かっての繁栄は失われていたが、 なお老大国として体面を保っていた。その最後の王として前336年に即位した ダレイオス3世(位前336~前330)は、小アジア防のために約4万の軍を小アジア 西北端に集結させた。前334年にグラニコス川の戦いで、ペルシア軍を撃破した アレクサンドロス軍は、小アジア西岸を南下し、サルデス、ミレトスなどの 諸都市を占領し、小アジアを平定しながら小アジアの東南に達した。 
 ダレイオス3世は バビロンに大軍を集め、シリア北部に進出し、地中海東岸の北端で激突した。 前333年11月の有名なイッソスの戦いである。騎兵5千・歩兵4万からなる アレクサンドロス軍は、60万(らかに誇張された数字だが、アレクサンドロスの 軍よりはるかに多い軍 )のペルシア軍を破り、ダレイオス3世を敗走させ、 母・妃・子を捕虜とした。この戦いによって、メソポタミアへの進出の道が 開かれたが、彼はシリアを南下し、フェニキア人の都市ティルスを攻略し、 さらに南下し、前332年にエジプトに入った。 
 エジプト人はペルシアからの 解放者としてアレクサンドロスを歓迎した。そこに半年滞在し、その間ナイル 河口にティルスにかわる商港・軍港を建設し、自分の名にちなんで アレクサンドリアと名づけた(前331)。 
 ついで北上したアレクサンドロスは、たな兵を遠征軍に 加え、騎兵7千、歩兵4万の軍を率いて、いよいよペルシアの中心部のメソポタミアへ 侵入していった。ダレイオス3世はこれを迎い打つベく、4万の騎兵、1万6千の 重装・軽装歩兵と大鎌で敵をなぎたおす式の戦車200、象15頭まで用意し、 ティグリス川の上流のガウガメラに進出した。前331年10月1日、アルベラ (ガウガメラ)の戦いが始まった。激戦の末、ペルシア軍が不利な形勢となり、 ダレイオス3世は戦車で逃走した。アレクサンドロス軍は追撃に移り、翌朝 アルベラを占領した。しかし、すでにダレイオス3世はイラン高原に逃亡した 後だった。 
 アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに進み、前330年 ペルセポリスを占領し、財宝を獲得し、壮大な王宮を焼き払った。彼は、 この地で東征終了を宣言した。しかし、彼はダレイオス3世がエクバタナにいるとの 情報を得て、ペルセポリスから西北のエクバタナに進出したが、ダレイオス3世は 逃亡した後だった。すでにペルシア帝国の首都・副首都をことごとく陥れ、 ペルシア戦争の復讐戦としての遠征は目的を達したので、アレクサンドロスは エクバタナに入ると、ヘラス同盟軍を解散し、一部の部隊は本国に帰した。 
 しく編された軍は、マケドニア人が中心だが、彼らも従来の資格でなく、 傭兵として留まり、それに各地の原住民を傭兵として採用し編された。 こうして軍を再編して、残るペルシア帝国の領土征服に向かって、逃走中の ダレイオス3世の後を追って、東に軍を進め、パルティアからバクトリア (中央アジア)に進出した。しかし、ダレイオス3世はバクトリアのサトラップ (総督)に殺され、ついにアケメネス朝ペルシア帝国は前330年に完全に滅亡した。 
 アレクサンドロスが次に目指したのがインドの征服であった。若き 日の大王は家庭教師であったアリストテレスからインドに関する知識を得ていて、 インド征服は彼の夢であったと言われている。いまや「アジアの王」となった アレクサンドロスにとって、彼の征服事業はインドの征服なしには完しないと 考えていた。 
 前327年の初、アレクサンドロスは、マケドニアを出した時を上回る 大軍を率いて、ヒンドゥークシ山脈をえ、西北インドのパンジャープ地方へ 侵入した。翌年の前326年春、インダス川を渡り、さらに東進し、雨季に 悩まされながら、反抗する諸部族の鎮圧にあたり、さらにガンジス川流域に 進出しようとした。 
 しかし、すでに出以来の行程は約1万8千km(地球の囲が 約4万km )に及び、軍隊は疲れきり、しきりに帰国を望み、それ以上の行軍を 拒否した。やむなく、水路と陸路を使って、前326年11月、インダス川を下り はじめた。彼は南下しながら、両岸の服従しない部族を鎮圧しながら下り、 インダス河口に前325年の7月に到達した。そこで季節風を待ち、9月に出し、 スサへ向かった。彼自身は、約1万の軍隊を率いて陸路を、暑さ、飢え、砂に 悩まされ、惨憺たる状態で西に進んだ。海路も、インド人の妨害、逆風、嵐、 水と食料の不足に悩まされながら80日かかってペルシア湾に到達した。陸路、 海路ともに前324年の春にスサへ到着した。 
 スサに数ヶ月留まったが、そのとき 有名な集団結婚式があげられた。彼自身は、ダレイオス3世の娘を娶い、 マケドニアの貴族約80人にペルシアの高貴な女性が割り当てられた。前323年の 初め、彼はバビロンに帰還した。そこで地中海西部への遠征、アラビア半島の 航の準備にかかったが、7月初め、酒宴であびるように酒を飲んだ翌日に急に 熱病におそわれ、10日後の前323年6月13日に32才で波乱の生涯を閉じた。 
 アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的な専制君主として君臨した。 彼は東方を統治するうえで諸民族の文化や制度を尊重する融和政策が必要である ことを心得ていたので、ペルシアの行政組織や儀礼を継承し、東西の民族・文化の 融合をはかった。前述した集団結婚式はその現われと言える。また自身の名を 冠したアレクサンドリア市を70余り建設し、ギリシア人の東方移住を進めた。 そのため、ギリシア文化とオリエント文化が融合して独特の文化が生まれた。 これがヘレニズム文化である。大王は・銀貨を鋳造したので貨幣経済が普及し、 東西貿易も活となった。 
 アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世が賤しい身分の 女に生ませたフィリッポス3世とアレクサンドロスとソグディアナの豪族の娘との 間に生まれた子供で共治という形を取ったが、前310年までに王家は断絶し、 ディアドコイ(「後継者」)は自ら王を称し始めた。 
 アレクサンドロスの死後、、ディアドコイ(「後継者」)と呼ばれた マケドニアの武将達が領土をめぐって争った、前323年から前301年(または前281、 前276年)までは「ディアドコイ戦争」の時代と呼ばれる。主なディアドコイは 以下の通りである。 
 カッサンドロス(358~前297)は大王の死後、マケドニアとギリシアの 大部分を領有し、大王の異母弟のフィリッポス3世・母・子のアレクサンドロス 4世・妻を次々に殺し、前301年のイプソスの戦いではリュシマコスと結んで死ぬ までマケドニアを確保した。 
 アンティゴノス1世(前382頃~前301)は、マケドニアの下級貴族の生まれ、 部将として東方遠征に従軍したが、翌年、小アジアのペリギアの総督に任命され、 支配地を拡大し、大王の死後、マケドニア、小アジアを領有し、前306年に王を 称し、エジプトに侵入したが、前301年のイプソスの戦い(アンティゴノス、 デメトリオス父子対セレウコス、リュシマコス連合軍 )に敗れて戦死し、その 領土は勝者に分割された。後、孫のアンティゴノス2世がケルト人を撃退し、 マケドニア王に承認され、アンティゴノス朝(前276~前168)を開いた。 
 セレウコス1世(前358頃~前280)は、マケドニアの貴族出身で、部将と して東方遠征に従い、死後バビロニア総督となり、大王領のうちシリアから 中央アジアを領有し、王を称し、セレウコス朝(前312~前63)の創始者となった。 前301年のイプソスの戦いではアンティゴノス1世を、前281年にはリュシマコスを 破ったが、マケドニア遠征中にプトレマイオス1世の子に殺された。 
 プトレマイオス1世(前367頃~前283)は、マケドニアの貴族出身、大王の 部将、大王の死後、エジプトにおもむき、大王が任命した総督を追い払い エジプトを支配下におさめ、前304年に王を称し、プトレマイオス朝 (前304~前30)の創始者となり、以後東地中海に領土を広め、アレクサンドリア市の 経営に努め、王朝の基礎を築いた。 
 「ディアドコイ戦争」の後、かってのアレクサンドロス大王領はシリアから 中央アジアまでを領有するセレウコス朝シリア、エジプトのプトレマイオス朝 エジプト、マケドニアと小アジアの諸王国の4つに固まった。 
 プトレマイオス朝エジプトは、いわゆる「ヘレニズム三国」の中でもっとも 繁栄した国家で、王は全国土を所有し、神として専制政治を行った。その首都 アレクサンドリアはヘレニズム時代を通して、もっとも繁栄した都市であった。 
 プトレマイオス1世はアレクサンドリアに「ムセイオン」(Museion、これが英語の museum(博物館)の語源になっている)を建て、学者を集め、付属の大図書館を 設け、文化を保護奨励したので、アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大 中心地となり、自然科学研究の中心地となった。アレクサンドリアは大貿易港でも あり、インド、アラビア、アフリカの産物が集まり、小麦などが地中海に輸出された。 人口は100万人を超えたとも言われ、「アレクサンドリアにないものは雪だけである」 とも言われた。 
 プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム世界の中心として、約300年間続いたが、 前30年、あの有名な最後の女王クレオパトラ7世の死とともに滅亡していく。 
 セレウコス朝シリアは、かってのアレクサンドロス大王領の大部分を 支配下に置いたが、余りにも広すぎ、民族の上でも複雑な王国であったため、 早くから領土の分裂作用がおき、首都も最初はティグリス河畔のセレウキアで あったが、やがてシリアのアンティオキアに移された。これはシリアが王国の 中心となったことを示している。 
 セレウコス1世の死後約30年後には、中央アジアに 移住していたギリシア人が独立してバクトリア(前255頃~前139)を建てると 遊牧イラン人もパルティア(前248頃~後226)を建国し、セレウコス朝は 前2世紀に入ると、パルティアに次々と領土を奪われ、シリアを領有する のみとなり、前63年にはローマのポンペイウスによって滅ぼされた。 
 

 
 
1.

3 ヘレニズム世界 
 

(2)ヘレニズム文化
 ヘレニズム時代にはギリシア人が盛んに東方に移住したため、ギリシア 文化が広く普及し、東西文化が融合し、しい文化が生まれた。これを ヘレニズム文化と呼ぶ。 
 美術は、華麗だが技巧的・誇張的な面が強くなる。建築ではコリント式が この時代に流行した。絵画では、1820年にミロ島で見された「ミロのヴィーナス」、 ギリシア神話に題材を取った「ラオコーン」が有名である。 
 ヘレニズム時代には、ポリスが崩壊し、ギリシア人の民族意識が衰える なかで、従来、人々の行動の規範となっていた「ポリスの人間としていかに 行動するか」、「ポリスのために何をなすべきか」というポリス社会の規範が 無意味となり、人々の思考・行動の規範は「個人としていかに生きるべきか」 という個人主義、「ヘレネス(ギリシア人)もバルバロイ(野蛮人、ギリシア人 以外の人々)もない、同じ世界の人間だという「世界市民主義 (コスモポリタニズム)」の風潮が強まった。 
 この風潮を反映して、哲学も 政治から逃避し、個人の安心立命をを求めるようになる。エピクロス派や ストア派が盛んとなった。 
 エピクロス(前342頃~前271頃 )はサモス島 生まれ、前306年にアテネに移住し、弟子を教えた。彼は、哲学を幸福を得る 手段と考え、幸福=快楽=善と考える快楽主義を唱えたが、彼の言う快楽とは、 死や神への恐怖を免れ、肉体に苦痛がなく心が平穏な状態を快楽と呼んだ。 節度のある快楽、精神的な快楽こそが幸福であると考えた。 
 ストア派の祖、ゼノン(前335~前263)は、キプロス島生まれで純粋の ギリシア人でなく、フェニキア人との混血とも言われる。22才の時アテネに 出て学び、35才頃から講義をして絶大な人気を得た。彼は幸福とは「心の平静」 な状態にあるとし、そのために理性による欲望のコントロールを主張した。 
 ヘレニズム時代には、自然科学が盛んとなった。 自然科学研究の中心地であったアレクサンドリアでは多くの学者が活躍 している。 
 有名な数学者エウクレイデス(ユークリッド)(前300頃 )は アテネで学び、アレクサンドリアのムセイオンで活躍した。彼が大した平面 幾何学は「ユークリッド幾何学」として、現在に至るまで学校で学ばれている。 「幾何学に王道なし」は彼の言葉として有名である。 
 数学者・物理学者として 有名なアルキメデス(前287頃~前212)もシチリアに生まれ、アレクサンドリアの ムセイオンで学問を修め、円率の近似値を求め、梃子や浮力の原理 (「アルキメデスの原理」)、比重の原理を見したことでも有名である。 
 ムセイオンの館長を務めたエラトステネス(前275頃~前194)は地球の囲の 長さを測定したことで有名である。彼は約45,000kmと測定したが、これは 現在の約40,000kmにほぼ近いものである。 
 さらに天文学者のアリスタルコス (前310頃~前230頃 )は地球は太陽を中心にして円軌道を描いて回転すると いう太陽中心説・地動説を唱えた。しかし、この説は当時は受け入れられず、 16世紀のコペルニクス、ガリレイの時代にやっと認められることになる。 
 

 
 
2.
4.ローマ帝国

4 ローマ帝国
 

(1)共和政ローマ
 インド=ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人とほぼ並行して イタリア半島に、2波にわたり南下した。第1波は前16世紀頃、第2波は前11世紀頃、 半島中部の西側に入り、定着して農業を営んだ。イタリア人の第2波南下で ラティウム地方に定住した人々がラテン人と呼ばれる。彼らは、イタリア半島の 中央を流れるティベル川の下流、ティベル川北岸を中心に少数の都市国家を建設した。 
 ローマはイタリア人の一派のラテン人が、ティベル河畔に建設した都市国家 からおこった。ヴェルギリウス(前70~前19)が大叙事詩「アエネイス」で建国 伝説を歌っている。それによるとトロヤの英雄アエネイス(アエネアス)が、トロヤ落城後、 長い漂浪をへてラティウムにローマ建国の基礎を築いたこと、その子孫ロムルスは 双子の兄弟レムスとティベル川に捨てられたが、牝狼に拾われ育てられ、後に 協力して、前753年にローマ市を建て、ローマ初代の王となり、39年間在位した という。 
 ロムルス以下7代の王が立ったが、7代目の王は傲慢であったので貴族の 協力によってローマから追放され、前509年(510)に共和政が樹立された伝えられている。 
 エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族だが、民族系統は不である。 小アジアからイタリア半島に来住した。彼らは早くから都市に分かれて住み、 12の都市国家が分立していた。前7世紀から前6世紀頃が全盛期で、イタリア半島 南部のギリシア植民地を除けば、最も進んだ文化を持った民族であったが、 前5世紀以後衰え、前3世紀にローマに征服された。しかし、その芸術・宗教・ 習俗はローマに大きな影響を及ぼした。 
 王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれた。7人の王の最後の 3人はエトルリア人と考えられている。前509年に王政を廃止して共和政を樹立 したと伝えられているが、これはエトルリア人の支配から解放され、貴族共和政を 樹立したことを意味する。 
 貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占していた。当時のローマ ではパトリキ(貴族、名門)とプレブス(平民、中小農民)の二つの身分の差が はっきりしていた。2名のコンスル(執政官、統領と訳す、最高政務官、任期1年、 無給)やディクタトル(独裁官、非常時に臨時に置かれる、老院の提案で コンスルの1名が任命される。任期は半年で重任は認められない。)、そして 300人の老院議員はすべて貴族から選ばれた。老院は最高の立法・諮問 機関で、議員の任期は終身、定員は最初300人、後に600人(一時900人)で構された。 
 共和政が立して間もない、前494年に貴族に対する平民の不満が爆し、 平民達は団結してローマを退去し、北方の聖山と呼ばれた丘に立てこもり、 ローマとは別に自分たちの国を創ろうとした。いわゆる聖山事件である。平民の 強硬な態度に対して、平民を国家の中に留めて置くために貴族達は譲歩し、護民官の 設置を認めたと言われている。 
 護民官は平民の生命・財産を守るために生まれた 官職で平民会の投票で選出された。任期は1年、定員は初め2名、前449年以降は 10名になった。身体は神聖不可侵でコンスルや老院の決定に拒否権を行使できる 権限を持った。その権限が拒否権に留まったとは言え、平民の権利伸長に果たした 役割は大きかった。 
 護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、文法の 制定であった。従来パトリキ(貴族)とプレブス(平民)間の身分的差別が厳しく、 法知識もパトリキが独占していたのに対し、プレブスは平等を求めて、パトリキと 闘争し、前450年頃、従来の慣習法を文化したローマ最初の文法である 十二表法を制定させた。内容は私権の保証、強大な家父長権、身分差別など 原始法的色彩が強いが、文法を公布させたことはプレブスにとって勝利であった。 
 ケルト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前10~8世紀頃に原住地の ライン・エルベ・ドナウ川から出て、前5~4世紀にはガリア(現フランス)、 ブリタニア(現イギリス)に広まり、前3世紀には小アジアにも侵入した。 鉄製武器を使用し、好戦的で中央ヨーロッパでは最も有力な民族であった。 しかし、ガリアは前1世紀に、ブリタニアは後1世紀にローマに征服された。 ケルト人は現在ではアイルランドで民族の独立を保っているが、イギリスの ウェールズ地方、フランスのブルターニュ地方にも住んでいる。 
 ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマが獲得した 公有地を貴族の有力者が勝手に占有する問題など多くの問題が出てきた。 こうした状況のなかでプレブスの間から、単にパトリキの施政に反対する だけでなく、プレブスのなかからコンスルを出す運動が、前370年頃から激しく なった。 
 護民官のリキニウス(前376~前367)とセクスティウス(前376~前367)が この運動の先頭に立ち、パトリキの激しい抵抗を排除して、前367年にリキニウス・ セクスティウス法を立させ、ついにコンスルのうち一人はプレブスから選出する ことを認めさせた。また同法によって、一人の占有地は500ユゲラ(約125ha) 以下とし、そこに放牧される家畜は牛・馬は100頭まで、羊・山羊なら500頭に 限ると定められた。コンスルが平民に開放された後、ディクタトル(独裁官)・ 法務官・神官職にも平民がつけるようになり、前300年までには官職の上での 身分の差は完全になくなった。 
 最後まで残った問題が、平民会の決議の取り扱いについてであった。 当時、ローマは近隣のラテン人のラティウムの諸都市と戦い(前340~前338)、 東南方のサムニウム人と3回にわたるサムニウム戦争(前343~前290)に苦戦し ながらもこれに勝ち、有名な軍用道路であるアッピア街道の建設(前312) などが次いでいたが、その一方で中小農民の負債問題(征服戦争に駆り 出され、武器・武具・遠征費の負担が重くなり、借が支払えず、奴隷に転落する ものが多かった )から貴族・平民の対立が激化した。プレブスはティベル川の 向こう側のヤニクルム丘に拠ってローマからの分離も辞せずとの行動に出た。 
 この危機を乗り切るためにディクタトルに選出されたのがプレブス出身の ホルテンシウス(生没年不 )である。彼は有名なホルテンシウス法を立 させた(前287年)。ホルテンシウス法は「平民会の決議を老院の承認が なくても国法とする」と言う内容で、貴族と平民は法的に完全に平等となった。 この身分闘争で貴族が譲歩したのは、当時最終段階を迎えていた半島の 征服戦争で重装歩兵として活躍した平民の協力が必要としたからである。 
 

 
 
1.

4 ローマ帝国
 

(2)ローマの展と内乱(その1)
 ローマのイタリア半島征服に最後に立ちはだかったのが、南イタリアの ギリシア人植民市タレントゥムであった。タレントゥムは前8世紀にスパルタ人の 植民市として建設され、前5世紀から前4世紀にマグナ・グレキア(ラテン語で 大きいギリシアの意味、南イタリアのギリシア植民市群をさす )の中心都市として 繁栄した。そのタレントゥムがギリシアのエピルス王ピロスの援助を得てローマと 戦ったが、前272年に敗れてローマの支配下に置かれた。これによってローマの 100年以上にわたるイタリア半島征服が終わった。 
 ローマが短期間にイタリア半島征服に功したのは、訓練された重装歩兵の 活躍、軍道の建設、要所に植民市を設置したこと等もあるが、最大の理由はローマ 以外の都市、部族に対する統治政策が賢・巧妙であったことにある。市民権 賦与について寛大であり、また「分割統治」と呼ばれるように100以上の「同盟者」 (ローマに服属した都市、部族 )の待遇に差別をつけ、団結して反抗することを防いだ 巧みな統治方法をとった。 
 イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐってカルタゴと死闘を 演ずることになる。これが三回にわたるポエニ戦争(前264~前146)である。 
 カルタゴは現在のチュニスの近くにあったフェニキア人の植民市で、前9世紀 頃ティルスの人によって建設された。前6世紀に西地中海の商業権を握り、シチリア・ サルディニア・イスパニアにも進出し、前5~前4世紀にはシチリアをめぐって ギリシアと激しく争った。ポエニとはラテン語でフェニキア人の意味である。 
 当時のシチリア島はカルタゴが西半分を押さえ、東半分にはギリシア人の 勢力がシラクサを中心に少し残っていた。そのシチリア島の東北部のメッサナを 押さえていた傭兵隊のマメルス隊に対して、シラクサのヒエロンがカルタゴと 結んで討伐にかかった。そのためマメルス隊はローマに救援を求めてきた。 これがポエニ戦争のきっかけとなった。 
 第1回ポエニ戦争 前264年ローマは艦隊を派遣し、カルタゴが宣戦を布告 して戦いは始まった。シチリア島をめぐる戦いではローマはカルタゴの拠点の アグリジェントを陥れ、シチリア全土を支配下に置いたが、カルタゴは西地中海では 無敵を誇る五段櫂船120隻からる海軍を擁し、ローマ軍を奇襲した。このため 決定的な勝利を得るにはカルタゴ本拠を攻撃しなければならず、そのためには 海軍が不可欠と考え、軍艦の建造を始め、前260年春までに120隻の艦隊を作り 上げた。 
 当時の海戦は、船同志がぶつかり合って打撃を与え、手の船を沈める 作戦が中心になっていた。そのため船首には強固な鉄嘴が装備されていたが、 急造のローマの軍艦には、船首に跳ね橋(桟橋)が装備され、強力な鉄の鉤が ついていた。手の船に接近した時、跳ね橋を降ろし、鉄の鉤で繋ぎ止め、敵の 甲板に乗り移り、陸上の戦闘と変わらない戦いに持ちこもうとした。前260年、 シチリア島の東北沖のミレ岬の海戦で工夫は効果をあげ、敵艦の半分の約50隻を 撃沈・拿捕する大勝利を得て、一躍、海軍国にのしあがった。 
 その後、ローマは 直接カルタゴを攻撃したがカルタゴの反撃に合い、シチリアをめぐる戦いが続いたが、 前241年にカルタゴ海軍を全滅させ、講和条約が結ばれ、第1回ポエニ戦争は終わった。 この結果ローマは、シチリア・サルディニア・コルシカ島を獲得し、巨額な賠償を 課し、20年賦とした。 
 第2回ポエニ戦争(前218~前201) ハミルカル・バルカスは第1回ポエニ戦争の 後半からカルタゴ軍の指揮をとったがローマに敗れた。彼は前236年に部隊を率いて カルタゴを出て、北アフリカを西進し、北上してスペインに入り、前228年に亡く なるまでスペイン経営に専念した。 
 その父の後を継いだのが、世界史上有名な 名将の一人、ハンニバル(前247/246~前183)である。前221年、26才の ハンニバルは全スペイン軍の指揮官となり、前219年、スペインにあったローマの 同盟都市を包囲し、陥落させた。この戦争が第2回ポエニ戦争のきっかけとなった。 
 イタリア遠征の準備を整え、前218年春、歩兵9万、騎兵1万2千、アフリカ象37頭を 率いて陸路イタリアに向かった。そしてピレネー山脈をえ、ローヌ川を渡り、 8月から9月に有名なアルプスえを行った。しかし、9月に入って雪も降り初め、 道に迷い、谷に転落し、9月半ばに北イタリアの平原に着いたときには、歩兵5万、 騎兵9千のうち、半分以上を失っていた。 
 北イタリアに入ったハンニバル軍は、南下し、ローマの近くまでせまったが、 ローマを中心とするイタリア同盟都市の固い結束をみて、アペニン山脈をえて 南下しカンネーを奪った。ローマ軍もハンニバルの進出を何とかくい止めようと、 歩兵8万、騎兵6千を集めた。対するハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万であった。 この有名なカンネーの戦い(前216)は、ハンニバル軍の大勝利に終わり、 ローマ軍の戦死者は7万人に達した。 
 ハンニバルはさらにカプア(ナポリの北)に 進出し、そこに本営を置いた。カンネーの戦いに敗れたローマは、中・北部の イタリア諸都市が依然として忠誠を誓う中で、軍の再建に努力を払い、前215年 には逆にハンニバル軍とカプアを包囲した。一方、ハンニバル軍は、彼を支援 すべきカルタゴ本国が動かず兵力・兵器の補充がつかず、スペインから援軍を 率いてイタリアに向かった弟もスキピオ軍に完敗して戦死した(前207)。 また同盟していたマケドニア軍も来援せず、イタリアの戦争は膠着状態に陥る なかで、戦いはシチリア、スペインにも拡大した。 
 この時スペイン遠征の指揮を 自ら志願したのが、スキピオ(大アフリカヌス)(前236~前184)である。 彼はカンネーの戦いでかろうじて死を免れた後、前210にスペイン遠征を行い、 前206年までにスペインは完全にローマ領となった。スペインから帰国した彼は、 前205年にコンスルになり、老院の反対を押し切ってカルタゴ遠征に踏み切った。 
 前205年シチリアで艦隊を建造し、遠征軍を準備した。前204年彼はアフリカに 向かい、カルタゴの近くに上陸し、カルタゴ軍を破った。カルタゴはハンニバルを イタリアから呼び返し、ハンニバルは北アフリカに上陸し、西進した。こうして 前202年の春、ザマの戦いが始まった。両軍の死闘の末、騎兵の活躍でローマ軍が 勝ち、ハンニバル戦争と呼ばれた第2回ポエニ戦争はようやく終わった。この結果、 カルタゴは一切の海外領土を失い、以後50年間の賠償を課せられ、北アフリカ 以外では戦争をしないこと、アフリカでの戦争もローマの許可を必要とすること となった。 
 ハンニバルは、敗戦後国政の改革に当たったが、親ローマ派の政敵に 陥れられ、シリアに亡命し(前196)、さらにローマの追求を逃れて小アジアへ 逃げ、ローマの身柄引き渡し要求にあってついに自殺した。 
 第3回ポエニ戦争(前149~前146) 第2回ポエニ戦争の敗戦後もカルタゴの 経済力は衰えず、50年賦の賠償を10年で一度に支払った。こうしたカルタゴの 潜在力に対してローマのなかでは、「カルタゴを滅ぼすべし」の声も高まった。 この頃、カルタゴは西隣りのヌミディア王の侵入に悩まされていた。前150年に カルタゴはたまりかねてヌミディアに開戦したが、これは“アフリカでの戦争も ローマの許可を必要とする”という約束に違反するものであった。翌年のローマの 宣戦に対してカルタゴは泣訴して和議を求めた。ローマ軍は無抵抗のうちに上陸し、 武装解除を行い、さらに全住民の立ちのきと内地移住を命じた。そのため カルタゴは抗戦に踏み切り、ゲリラ戦でローマ軍を悩ました。 
 こうした状況の なかでスキピオ(小アフリカヌス)(前185~前129)が登場してくる。彼は 大アフリカヌスの長男の養子で、前147年、若くしてコンスルとなりカルタゴ 遠征軍を率いて、前146年にカルタゴを陥落させ、カルタゴの町は徹底的に破壊され、 捕虜は奴隷として売られ、17日間にわたって焼き払われ、カルタゴはついに滅びた。 
 このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退していくなかで 繁栄を続けていたコリントがローマに反旗を翻したが敗れ、コリントの町は 徹底的に破壊され、婦女子は奴隷として売られ、ギリシはローマの支配下に置かれた。 
 第2回ポエニ戦争の勝利によってローマは海外に広大な属州(プロウィンキア、 一般的にはポエニ戦争以後にローマが獲得したイタリアの外の海外領土をいう ) を獲得し、地中海の支配に乗り出した。ヒスパニア(スペイン)を(前197)、 三回にわたるマケドニア戦争でマケドニアを(前168)、そして前146年に カルタゴ、ギリシアを、さらに前133年には小アジアを征服し、属州として、 総督を派遣して直接支配した。この属州から安い穀物が大量に流入し、 おびただしい安価な奴隷が流入したことは、ローマ社会に大きな影響を及ぼす こととなった。 
 最大の問題は中小土地所有農民の没落である。彼らは重装歩兵として征服戦争に 連年にわたって従軍し、その負担と戦争による農地の荒廃のため離農する者も多く、 次第に窮乏していった。そのためこれまでローマの展を支えてきた重装歩兵を 中心とするローマ軍の編が維持出来なくなり、傭兵制に変わらざるを得なくなっていく。 
 中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティフンディア (ラティフンディウム、広大な土地を意味するラテン語)の展である。 ローマの展に伴う占領地は国有地とされたが、未分配の公有地は資力のある者から 地代を取って占有を許した。はじめは単に彼らの占有地であった土地が次第に 私有地化され、大規模に果樹栽培や牧畜を経営するようになり、そこでの 労働力として当時大量に安価に手に入れることができた奴隷を使用した。 この奴隷制大農場経営をラティフンディアと呼んだ。このラティフンディアの 展に伴って没落しつつあった中小農民の私有地は次々に買い占められて行き、 そのことが中小土地所有農民の没落を一層促進していった。 
 もう一つの大問題は、奴隷制の問題である。ローマがイタリア半島を統一し 地中海へと展していくなかでのつぐ戦勝はおびただしい安価な奴隷を供給した。 前2世紀から前1世紀は奴隷制の最盛期で、多くの奴隷が家内奴隷や手工業・鉱山労働、 大規模な農場での穀物・果樹栽培に使用された。奴隷反乱はしばしばおこり市民を 脅かした。特に前135年のシチリアの奴隷反乱は全島をあげての大反乱となった。 
 前3世紀頃から老院を中心に政権を独占してきたのは、貴族 (ノビレス、ノビリタス)と呼ばれる人々であった。貴族は富裕なプレブス (平民)とパトリキ(貴族)の両身分の最上層部が融合し、最高官職(コンスルなど)に 就任した者の直系の子孫で形され、少数の家柄の者が主要な官職を独占した。 彼らは政治的決定は老院によってなされるべきだと考え、閥族(オプティマテス)と 呼ばれ閥族派を形し、貴族中心の老院支配を守ろうとした。 
 ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済的には第一の勢力と なったのが騎士(エクィテス)階級である。彼らは来は馬にのって戦う騎兵の身分、 従ってある程度富裕な階級であったが、ローマの属州が増えるに従い、老院議員が 商業に従事することを禁止されているのに乗じて、商業・貿易・公共事業の請負、 特に属州における徴税請負によって財をし、一部は政治家、老院議員など 政界に進出していく。 
 一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地をさまよい、 ローマに流れこみ、「パンとサーカス(見世物)」を要求した。または遊民と ならず有力者の傭兵となり、一部はラティフンディアの小作人になっていった。 
 こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守るという口実のもとに 貧民の支持を得て、民会の多数決によって政治がれるべきだと唱え、民会を 足がかりに政権を握ろうとする政治家、及びそのグループが現れてくる。 彼らは平民派(ポプラレス)と呼ばれる。 
 このようにローマでは平民の間にも 貧富の差が拡大し、そのなかで閥族派と平民派の争いが激しくなって行く。 このローマの危機、いわゆる「内乱の一世紀」(前133~前30)に、没落していく 中小土地所有農民を何とか救済し、もう一度かっての重装歩兵である平民を 中心とする社会を再建しようとしたのがグラックス兄弟である。 
 兄、ティベリウス・グラックス(前162頃~前132)は、政治家・ 将軍の父とスキピオ(大アフリカヌス)の娘を母として生まれた。若い頃軍務に ついた後、中小農民の没落・貧民化が大問題になってきた頃の前133年に護民官に 選ばれた。彼は、リキニウス・セクステイウス法を復活させ大土地所有を 125haに制限し、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ける土地法案を 立させ、自ら土地分配委員の一人となり、実行に移した。しかし、土地問題などで 老院と対立し、その上政策をやり遂げるため伝統を無視して護民官の再選を 企てたため、翌年暗殺(撲殺)され、遺体はティベル川に投げ込まれた。 
 彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を食む野獣でさえ、 洞窟を持ち、それぞれ自分の寝ぐらとし、また隠処としているのに、 イタリアのために戦い、そして斃れる人たちには、空気と光のほか何も与えられず、 彼らは、家もなく落着く先もなく、妻や子供を連れてさまよっている。・・・」と論じた。 
 弟、ガイウス・グラックス(前153頃~前121)は、兄とともに 土地分配委員となったが、兄は暗殺された。前123・前122年と続けて 護民官となったガイウスは、兄の改革運動を受け継ぎ、土地法で大土地所有を 制限するとともに、穀物法で貧民に対して穀物を一定の安い価格で売ることとした。 さらにカルタゴに植民市を建設する法案を通過させたが、全イタリア人に市民権を 拡大しようとして老院と激しく対立し、武力闘争に展し、最後は自殺に追いこまれた。 
 

 
 
2.

4 ローマ帝国
 

(2)ローマの展と内乱(その2)
 グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族派と平民派の党争が激しくなった。その中で登場してきたのが平民派のマリウス(前157~前86)である。一兵士から身を起こした彼は前119年に護民官となり、さらに前107年にはコンスルとなった。そしてアフリカのヌミディア王とのユグルタ戦争(前111~前105)に勝利し、以後亡くなるまでに7回コンスルとなった。彼は中小農民が没落し従来の兵制が維持できなくなったので無産市民を志願兵として採用し国費で武装させる傭兵制を取ったが、これは「私兵」の始まりとされる。 
 前100年兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下のスラとの抗争が激しくなったが一時閥族派が平民派を押さえた。この時期に起こったのが同盟市戦争(前91年~前88)である。イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求して反乱を起こしたが、スラが老院の了解のもとに市民権の付与を約束して鎮圧した。しかしこの結果、ローマ市民権は全イタリア半島に広がり、イタリアは一つの領土国家となった。 
 同盟市戦争が鎮圧された前88年にミトリダテス戦争(前88~前63)が始まった。小アジアのポントス王のミトリダテスが3回にわたってローマと争ったが、このミトリダテス討伐権をめぐってマリウスとスラは激しく争い、前87年にスラの留守中にローマでスラ派に対して大虐殺を行ったが、翌年に病死した。 
 マリウスの後ローマで一時独裁権を握ったのがスラ(前138~前78)である。貴族に生まれ、初めマリウスの部下であった彼はユグルタ戦争などで功績があり、閥族派の巨頭となり、ミトリダテス戦争から帰国後、マリウス派を全滅させ、無期限のディクタトル(独裁官)に就任して(前82)、独裁政治を行った。のち突然ディクタトルを辞し、翌年没した。 
 スラの死後、台頭してきたのがポンペイウス(前106頃~前48 )である。彼はマリウスとスラの争いにはスラを支援して名をあげ、スラの後継者となり、特にスパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンスルに選出された。 
 スパルタクスの反乱(前73~前71)は当時ローマを揺るがした大事件であった。その中心人物であるスパルタクスは兵士から盗賊の首領となり、捕らえられて剣奴(グラディアトール)にされた。ローマ人は有名なコロッセウム(円形闘技場)で奴隷に生死をかけた決闘を行わせ、それを見て楽しむという悪趣味な娯楽を好んだが、そのために養されたのが剣奴である。 
 前73年、カプアの剣奴養所から78人の剣奴がスパルタクスを頭として脱出し、ヴェスヴィオス山に立てこもり反乱を起こした。奴隷制度の廃止を宣言したことから、多数の逃亡奴隷や貧民も合流したのでその数は急増し、最盛期には12万人に達した。当初は奴隷たちが生まれ故郷に帰ることを目的にしたので、南イタリアを占領した後、北イタリアに進出した。北イタリアに進出したのは奴隷の中にはガリア(現在のフランス)やトラキア(現在のブルガリア辺り)の出身の者が多かったからだが、彼らが帰郷よりも掠奪を望んだので、再び南下してシチリア島に渡ろうとして失敗し、スパルタクスは南イタリアでクラッススの軍と戦って戦死した。そのため大反乱も総崩れとなり、残党はポンペイウスに討伐され、捕虜の約6千人がアッピア街道で磔にされた。 
 スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンスルに選出されたポンペイウスはスラの政策を是正し、次第に平民派に接近していった。さらに地中海の海賊討伐にあたっては老院から強大な権限を与えられ、それに功し(前67)、ついでミトリダテスを破り(前66)、セレウコウ朝シリアを征服し(前63)、エジプトを除く東方の平定という偉業を為し遂げた。 
 しかし、その後自分の軍隊への土地分配などをめぐって老院と対立したので、彼はカエサル(シーザー)(前100頃~前44)とクラッスス(前114頃~前53)と組んで老院に対抗しようとした。一人一人では老院に対抗できないので三人が団結して政権を独占するために密約を結んだ。これが第1回「三頭政治」(前60)である。ポンペイウスはイスパニア、クラッススはシリア、カエサルはガリアの特別軍令権を得てそれぞれ勢力圏とした。 
 クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラを支持し、スラが行った市民の財産没収に乗じて巨富を得て「富裕者」と呼ばれた。スパルタクスの反乱の鎮圧に功しコンスルに選ばれ(前70)、前60年にはポンペイウス・カエサルとともに第1回三頭政治を立させた。前55年コンスルに再選され、翌年パルチィア遠征を行ったが、パルチィア軍に苦戦し、前53年にカラエで息子とともに戦死した。 
 カエサル(シーザー)はローマの古い名門ユリウス家の出身。最初の妻が平民派の政治家の娘であったことなどから平民派と見なされ、スラの迫害を受け、各地を転々とした。スラの死後、ローマに帰り政界に入り、財務官などを歴任し大神官となったが(前63)選挙で派手な買収を行い、また剣奴の試合の費用などで巨額の負債をせおった。このため前62年にイスパニア総督として赴任するときには債権者たちに阻止され、クラッススの保証によってやっと出出来たといわれている。 
 イスパニア遠征で功績をあげてローマに帰国、ポンペイウス・クラッススと結んで第1回三頭政治を始め(前60)、前59年にコンスルとなり国有地分配法案を可決させ、その他さまざまな案を民会で立させた。そしてコンスルの任期終了後5年間ガリアの総督になることを承認させ、前58年から前51にガリア遠征を行い、これを平定した。 
 このガリア征討については「ガリア戦記」で自ら記録している。最初の3年間はケルト諸族や侵入してきたゲルマン人を討ち、前55年にライン川を渡ってゲルマニア(現在のドイツ)にも入った。この間の前55、前54にはブリタニア(現在のイギリス)にも侵入した。前52年、アルウェルニ族のヴェルキンゲトリクスを中心とする大反乱では絶体絶命になったがこれを切り抜け、前51年には全ガリアを平定し、アルプス以北をローマの版図とし、征服した異民族に課税し、戦利品と課税によって巨額の軍資を手に入れた。 
 前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユリアが亡くなり、翌前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの対立が表面化してきた。前49年、ポンペイウスと結んだ老院が、カエサルに対して軍隊の解散と属州の返還要求を決議し、さらにローマへの召喚を決議した。これに対してカエサルは「骰子は投げられた」という有名な言葉とともに、自分の任地の属州と本国イタリアとの境をなすルビコン川を渡ってローマに進撃した。この時のカエサルの軍隊は11箇軍団(1軍団は約4200人)を擁していたが、多くの軍団はアルプスのかなたにあった。 
 一方、「国家防の大権」を与えられていたポンペイウスはイタリアで13万人の兵士を動員する権限を得ていたし、スペインには7箇軍団を擁していた。カエサルは5箇軍団を率いてルビコン川を渡って進撃した。ポンペイウスは南イタリアに退き、さらにイタリアでの決戦を避け、バルカン半島に渡り、東方の軍を結集してカエサルに対抗しようとしたが、テッサリア(北部ギリシアの一地方)のファルサロスの決戦(前48)に敗れ、エジプトのプトレマイオス朝に保護を求めた。しかし、エジプト側はローマの内乱に巻き込まれることを恐れ、港に着いたポンペイウスを出迎えると見せて暗殺した。 
 当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原住民の反抗によって衰退の一途をたどっていた。プトレマイオス12世の死後、クレオパトラ7世(前69~前30、位前51~前30)が慣習により、弟のプトレマイオス13世と結婚して共同統治者になっていた。 
 絶世の美女として有名なクレオパトラはマケドニア系のギリシア人でエジプト人の血は入ってない。弟と共同統治者になったが、弟と廷臣のために一時エジプトを追われが、ポンペイウスを追ってエジプトに現れたカエサルの愛人となって王位に復し、プトレマイオス13世がカエサルと戦って死んだ後は、単独統治を行った。カエサルとの間にはカエサリオン(小カエサルの意味、後のプトレマイオス15世 )をもうけ、ローマに赴いたが、カエサルの暗殺後はエジプトに帰った。 
 ポンペイウスを追ってエジプトに進出したカエサルはクレオパトラの虜となり、プトレマイオス13世側についたアレクサンドリア市民との間のいわゆる「アレクサンドリア戦役」(前48~前47)に勝利し、クレオパトラを王位につけた。さらに小アジアのポントス王を破り、前47年にはアフリカの老院派を破り、前46年7月にローマへ凱旋した。そして終身ディクタトル兼インペラトール(最高軍司令官、皇帝emperorの語源)となり独裁権を握った(前44)。 
 彼はコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設して無産者や老兵へ土地を分配し、属州での徴税請負制の廃止、100万都市ローマの都市計画に取り組んだが、後世に大きな影響を及ぼしたのがエジプトの太陽暦の採用である。ユリウス暦と呼ばれるこの暦は1年365日に加えて4年に一度閏年を置くこととし、1582年に現在のグレゴリ暦に変わるまで使用された。 
 しかし、彼個人の神格化が進み、王位につこうとしたことから独裁に対する反感が強まり、ブルートゥス、カッシウスを首謀者とする60人以上の同志による共和派の暗殺計画が進められ、前44年3月15日にカエサルは老院の会議の席上23ヶ所刺されて、ポンペイウスの立像の下に倒れた。「ブルートゥス、お前もか」は、この時のカエサルのした言葉として有名である。 
 共和政擁護の英雄として歓呼されるというブルートゥス(前85~前42)、カッシウス(前?~前42)らの目論見ははずれ、市民の反にあって彼らはローマから逃げ出さねばならなくなった。 
 カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガイウス=ユリウス=カエサル=オクタヴィアヌス(前63~後14、位前27~後14)とカエサルの部将であったアントニウス(前82~前30)とキケロを中心とする老院の三者による抗争が1年半続いたが、前43年、オクタヴィアヌスは老院と対立し、ローマに進軍して自らコンスルとなり、カエサルの部将であったレピドゥス(?~前13年頃)の仲介によってアントニウスと和解し、三者会談の結果、前43年11月末にいわゆる第2回三頭政治が立した。 
 彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス、カッシウスと前42年にマケドニアのフィリッピで戦い、カッシウス・ブルートゥスを破り、両者は自殺した。 
 この戦いで功績をあげたアントニウスの声望があがり、再びオクタヴィアヌスとの抗争が起こったが、前40年に協定が結ばれ、オクタヴィアヌスはガリアとイスパニアを、アントニウスは東方の属州を、レピドゥスはアフリカを支配地とすることとなり、たまたまアントニウスの妻が亡くなったので、オクタヴィアヌスの姉で寡婦であったオクタヴィアと結婚し、両者は結合を強めた。 
 アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィアヌスと対立したが失脚させられ、政界から引退し(前36)、閑職の大神官の地位に追いやられた。オクタヴィアヌスはレピドゥスの支配地と部下を合わせたので三頭政治は崩れ去り、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立は避けがたいものとなった。 
 東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍費を獲得するためにエジプトに目をつけ、カエサルの死後エジプトに帰り君臨していたクレオパトラをタルソスに呼び寄せた。彼女の美貌に魅せられたアントニウスはクレオパトラと結ばれ(前41)、翌40年にかけてエジプトに滞在した。 
 帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(前40)、オクタヴィアヌスとローマを東西に分割する協定を結んだ。しかし、前36年パルティア遠征を行ったが大失敗に終わり、以後ますますクレオパトラに溺れ、いわゆる「アレクサンドリアの寄贈」でキプロス島などをクレオパトラに与える約束をした。前34年に「アレクサンドリアの寄贈」が公けにされ、アントニウスのローマ市民に対する裏切りがらかになり、さらに前33年アントニウスがクレオパトラと正式に結婚し、オクタヴィアを離婚したことからオクタヴィアヌスとの対立は決定的となった。 
 前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を布告した。 アントニウスは約7万の歩兵、1万2千の騎兵、500隻の艦隊を、翌31年までに ギリシアに進めた。これに対してオクタヴィアヌスは歩兵8万、騎兵1万2千、 400隻以上の艦船を擁して東に進み、アントニウスの海陸軍を4ヶ月にわたって 包囲した。 
 前31年9月、アントニウスの艦隊が出動し、有名なアクティウムの 海戦が始まった。オクタヴィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍、 双方約500隻以上の艦船がぶつかりあったが戦闘は1回の激突で終わり、10~15隻の 艦船を失ったアントニウスの艦隊は逃げ出し、あるいは降伏し、クレオパトラは その艦隊を率いていち早くエジプトに逃亡し、アントニウスもクレオパトラを追い、 その旗艦に移ってアレクサンドリアに逃げ帰った。 
 翌年の前30年、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプトに迫り、 アントニウスはしばらく抵抗したが敗れ、クレオパトラの死の誤報を聞き、 8月1日自害し、アレクサンドリアは陥落した。アントニウスの死を知った クレオパトラも毒蛇にその腕を噛ませて自殺し、その後カエサリオン(カエサルと クレオパトラの子 )がオクタヴィアヌスに殺され、300年間続いた プトレマイオス朝エジプトはついに滅亡した。 
 

 
 
3.

4 ローマ帝国
 

(3)ローマ帝国
 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、老院は「プリンケプス(第1の市民)」の称号を(前29)、ついで「アウグストゥス(尊厳なるもの)」の称号を前27年に送った。アウグストゥス(オクタヴィアヌスは以後アウグストゥスと呼ばれるようになる)は軍隊の命令権、護民官の職権、宣戦・講和の大権、コンスルの指名権などあらゆる権限を握ったが、養父カエサルの失敗に鑑み共和政の伝統を尊重し、属州は老院と分けて統治するなど老院との共同統治の形を取った。 
 事実上は君主政・帝政だが共和政の伝統を尊重した彼の政治は「プリンキパトゥス」(首政)と呼ばれるが、一般的にはこの時から「帝政ローマ(ローマ帝国)」が始まるとされ、彼は初代のローマ皇帝(位前27~後14)とされる。彼は「内乱の1世紀(前133~前27)」と呼ばれた混乱の時代を収拾し、社会秩序の確立・財政の整備に力をそそぎ、また当時人口100万人の巨大都市ローマの美化にも努めた。彼の治世にラテン文学は黄時代を迎え、ヴェルギリウスを初めとする多くの文人が活躍した。 
 対外的には、後9年にトイトブルグの戦いでゲルマンに大敗北を喫し、2万人のローマ軍が全滅し、以後ローマはゲルマニア経営を断念せざるを得なくなり、退いてライン・ドナウ川を北境とし、東方では強国パルティアと講和してユーフラテス川を国境とした。このため以後200年間にわたって、一応の平和が保たれることになったので、アウグストゥス時代から180年までの約200年間を「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」と呼んでいる。 
 アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となったのは皇后の連れ子であるティベリウス(位14~37)であった。次いで彼の甥の子のカリグラ(位37~41)が皇帝となったが即位後、病を患い狂人の暴君となり、臣下に暗殺された。第4代皇帝となったカリグラの叔父、クラウディウス(位41~54)の時、ブリタニア遠征が行われ、ブリタニアは属州となった。 
 そして第5代皇帝となったのが、クラウディウスの後妻の子であり「暴君」として名高いネロ(位54~68)である。ネロは初期の5年間は哲学者の家庭教師であったセネカらの後見で善政をしいたが、セネカの引退後、暴虐の性格を現わし、母・妻を殺害した。また64年のローマの大火の罪をキリスト教徒にかぶせ大迫害を加えたことは有名である。しかし、ガリアの反乱をきっかけに反乱は各地の軍隊に広まり、近軍に見捨てられたネロはローマを脱出したが自殺した。 
 ネロの死によってユリウス=クラウディウス家(カエサル、アウグストゥスの系統)は断絶し、68年から69年にかけて4人の皇帝が入り乱れた内乱となったが、このなかからヴェスパシアヌスが位についてフラヴィウス朝が始まり、ティツス、ドミティアヌスと続いたが、ドミティアヌスが暗殺されフラヴィウス朝が絶えると、穏和で名門出身の老院議員のネルヴァ(位96~98)が老院に推されて66歳の高齢ながら皇帝に即位した。彼は老院との協調を図り、救貧制度の確立などに果をあげたが、嗣子がなかったために、トラヤヌスを養子にして、有能な人物を後継者に選ぶ先例を開き、いわゆる「五賢帝時代」(96~180)の幕開けとなった。 
 トラヤヌス(位98~117 )はスペインに生まれ、軍人として活躍し、コンスルを経てネルヴァの養子となり、翌年に即位した。彼は寛容・質素な性格で内政でも実績をあげたが、特に対外政策ではアウグストゥス以来の守勢から積極策に転じ、ドナウ川を渡ってダキア(現在のルーマニア)を属州とした(106)。さらに東方に進み、パルティアの首都を占領し、ローマ帝国の領土は史上最大となった。 
 トラヤヌスのあと即位したハドリアヌス(位117~138)もスペインの出身でトラヤヌスの甥にあたり、トラヤヌスの死で皇帝に推された。彼は内政を重視し、対外政策は再び守勢に転じた。また彼は帝国全土を2度にわたって巡察し、ブリタニアにも渡り(122)、「ハドリアヌスの長城」を築いて北方への防備とした。 
 ハドリアヌスの養子となり位を継いだアントニヌス=ピウス(位138~161)は、即位に際して「ピウス(敬虔な者)」の称号を与えられたが、穏健で仁慈に富み、国内はよく治まった。彼もハドリアヌスの意向に従って、マルクス=アウレリウス=アントニヌスとヴェルスを養子に迎えた。このため帝政になって初めて二人の皇帝の共同統治となった。 
 五賢帝の最後の皇帝であるマルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161~180)は、スペインの名門貴族の子としてローマに生まれた。11歳で早くもストア派の哲学者として知られ、ピウス帝の娘と結婚し、帝の死後ヴェルスと共同統治となり、彼の死後(169)単独皇帝となった。彼は「哲人皇帝」として有名であり、寛仁な性格で善政を施したが、当時は「パックス=ロマーナ」も最終段階で、パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ、20年に及ぶ治世中の大部分をバルカン北方・シリア・エジプトなどの辺境の陣営で過ごし、最後は出征地のウィンドボナ(現在のウィーン)の陣中で病没した。 
 彼の著書「自省録」はストア派の哲学者であった彼の自己反省の記録である。また中国の「後漢書」に大国王(ローマ皇帝のこと)安敦の使者と称するものがヴェトナム中部に到着し、入貢したと記録されているが、安敦はマルクス=アウレリウスのことをさしていると見られている。 
 マルクス=アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモドゥス(位180~192)を後継者とした。彼は“第2のネロ”と呼ばれた暴君で政治はお気にいりの側近に任せ、日夜遊楽にふけった。老院を無視し、近軍の俸給を増額しその機嫌をとった。財政は乱れ、政治は乱れ、コンモドゥスは近長官らが雇った剣奴によって暗殺された。 
 コンモドゥスの死後近軍はますます横暴となり、近軍や属州の軍隊に推挙された4人の皇帝が分立したが、アフリカ出身で上パンノニア(現在のオーストリア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアティア)総督であったセプティミウス=セヴェルス(位193~211)が対立皇帝を破って帝位についた。最初の軍人皇帝(軍隊に擁立された皇帝)であるセヴェルスは従来イタリア人が独占していた近軍団をすべての属州民に開放し、地方軍団の兵でしい近軍を編し、近長官の権限を強化した。対外遠征もたびたび行ったが、ブリタニアに出征中に病没した。 
 セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となったが、弟を殺して単独の皇帝となったのがカラカラ(位211~217)である。彼は軍隊の支持を得るために給与を増額し、租税の増徴を図って帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス法を布した(212)。また彼が建設したカラカラ大浴場は有名だが、そこで淫楽に耽り、パルティア遠征の途中に近長官に殺された。 
 235年に皇帝となったマクシミヌス(位235~238)はトラキアの農民出身で、一兵卒から身をおこし、巨体と怪力で軍隊の人気を集めた人物である。しかし、彼は老院の承認を得られず、イタリアに向かって進軍中に、部下に殺された。それ以後は帝国各地に駐留する軍隊が、その軍司令官を勝手に皇帝に擁立したので、235~284年の約50年間に26人の皇帝が立った。しかもうち25人は治世の半ばで殺されたり戦死したりした。大多数の皇帝は軍隊がかつぎ上げた皇帝なので軍人皇帝と呼ばれ、235~284年の約50年間を軍人皇帝時代と呼ぶ。広義には193~284年を言う場合もある。 
 この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲルマン人、東方のペルシア人が国境をえて侵入してきた。ヴァレリアヌス(位253~260)は東方から侵入してきたササン朝ペルシアのシャープール1世と戦ったが捕虜となり、消息を絶った。このような内外の混乱のなかにあってローマ帝国を立て直そうとする動きはあったが、軍人皇帝時代の混乱に終止符を打ち、帝国をしい組織の上に再足させたのはディオクレティアヌスであった。 
 

 
 
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4 ローマ帝国
 

(4)古代の終末
 ディオクレティアヌス(位284~305)はダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親隊長となり、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位についた。彼は広大な帝国を統治するためにの同僚のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、さらに2人の副帝を任命し、帝国の「四分統治」を立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めた。 
 再び統一と秩序を取り戻した帝国では皇帝は「ドミヌス」(奴隷の主人の意味)と呼ばれ、市民は臣民となり、臣民は皇帝の前に出たときはペルシア風の跪拝(ひざまずいて拝礼をすること)をしなければならなかった。彼はまたローマ皇帝を現神として崇拝する皇帝崇拝を強要した。このような専制君主政を「ドミナートゥス」と呼ぶ。彼は軍制の改革、行政改革、税制・幣制改革を進め、またインフレを押さえるために最高価格令を布したが効果はあがらなかった。 
 しい政治体制をしいたディオクレティアヌスは一方で古いローマの伝統の復活を図り、宗教の面では伝統的な多神教を崇拝した。キリスト教に対しては即位以来20年間は寛大であったが、303~305年にわたって突然全帝国内で最後の、しかも今までになかったほどの激しい大迫害を行った。キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことが最大の原因である。しかし、キリスト教を根絶することはできず、305年病気のため退位した。 
 四分統治はディオクレティアヌスという中心人物を失って崩れはじめ、各地に実力者が現れ帝位を争った。四分統治時代の西の副帝であったコンスタンティウス1世の子であるコンスタンティヌス1世(大帝)(位306~337)は、父の死後副帝に任じられ(306)帝位争いに加わった。当時帝位を争うものは6人に及んだが、彼は312年にマクセンティウスを、そして324年には最後の競争者のリキニウスを破って単独皇帝となり、ローマ帝国の再統一に功した。312年にマクセンティウスとの戦いの時、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字が浮かび、これを旗印に戦って勝利したと伝えられている。 
 コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令」を布してすべての宗教の信仰の自由を認め、禁教令を廃止し、ここにキリスト教は公認されることとなった。またリキニウスを破って単独皇帝となった頃からギリシア時代の都市ビザンティウムに都の建設を始め、330年に治世25年を記念して遷都した。しい都は「コンスタンティヌスの都市(ポリス)」と名づけられ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と呼ばれるようになる。遷都の理由は千年の伝統を持ち、異教的伝統の強いローマのキリスト教化に見切りをつけたこと、帝国にとってバルカン半島・小アジアの属州の重要性が強まっていたこと、東方のササン朝ペルシアの侵入に備えるためなどが考えられる。 
 コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一のために役立てようとしたが、当時のキリスト教会内には多くの教理の対立があり、まとまりを欠いていたので教義の統一を図るため、325年小アジアのニケーアに司教、長老など約300人を集め公会議を開催した。このニケーア公会議(宗教会議)では、キリストの神性を否定するアリウス派(アリウスはアレクサンドリア教会の長老)を異端とし、キリストを神の子とするアタナシウス(アレクサンドリアの助祭)の主張する“父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも同一である”とする「三位一体説」を正統教義として教義の統一を図った。 
 内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改革を行い、また332年にコロヌスの土地緊縛令を出し、本来自由な小作人であったコロヌスと呼ばれる農民を耕作している土地から離れなくし、逃亡した場合は連れ戻す権利を地主に与えた。 
 コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治したが、長男と三男が非業の死をとげ、次男が再び単独で統治した。彼は父の死の翌年に一族を皆殺しにしたが、このとき難を逃れたコンスタンティヌス大帝の甥であるユリアヌスが、追放された後、副帝となりガリア遠征で戦績をあげ軍隊によって正帝に推戴され、コンスタンティウスの急死によって即位した。彼は即位すると公然と異教に改宗し、キリスト教徒を弾圧したので「背教者」と呼ばれた。内政では善政を行ったが、ササン朝遠征中に没した。 
 ユリアヌスの死後、ローマ帝国はますます衰退に向かい、東方から、北方から異民族が侵入をくり返した。ヴァレンヌ帝(位364~378)らは帝国の防に努めたが、375年にはフン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川をえてローマ領内に移動した。いわゆる“ゲルマン民族の大移動”の始まりである。ヴァレンヌ帝はアドリアノープルの戦いで戦死した。 
 ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウス1世(大帝)(位379~395)である。彼はゴート族を破った後和解し、394年には帝国最後の統一に功した。その間、380年にはアタナシウス派キリスト教を信奉することを命じ、キリスト教を国教とし、392年には他の全宗教を厳禁した。395年、彼は死に際して帝国を二人の子に分与したため、ローマ帝国は東西に分裂することとなり、西ローマ帝国は476年にゲルマン民族の大移動の混乱のなかで滅亡したが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は以後1000年以上にわたって続き、1453年に滅亡する。 
 ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動であるが、ローマ帝国は内部から崩壊しつつあったといわれる。ゲルマン人の侵入を防ぐために辺境の防に当たっていた軍隊はゲルマン人や異民族の傭兵に頼るようになっていた。また長い国境線を守るために多くの軍隊を必要とし、これら軍隊や官僚を雇うために莫大な財源を必要とし、その財源を得るために、都市に重税をかけたことから都市の没落を招いたこと。その一方で都市から地方に移った有力者の大所領が国家から独立の傾向を示し、中央政府の支配力を弱め、地方分権化が進むなど社会は次第に封建社会に近づきつつあった。 
 大所領経営にも大きな変化がおきていた。共和制の末期から帝政の初めにかけて盛んであったラティフンディア(奴隷制農業にたつ大所領)は、奴隷制による経営が非能率であること(奴隷は鞭が怖くて働く振りをするだけで、奴隷が自ら進んで本気で働くとは思えない)、「ローマの平和」によって奴隷の流入が減少し、奴隷の価格が上昇したこと、奴隷反乱の危険が絶えずあることなどの理由から奴隷の大量使役は困難になった。 
 そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させたり、没落した自由農民を労働力として使役するようになった。彼らはコロヌスと呼ばれ、土地とともに売買されたり、続されるようになる。彼らは、コンスタンティヌス大帝が332年に出したコロヌスの土地緊縛令によって移動を禁止され、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていった。このコロヌス制(コロナートゥス)は中世の農奴制の先駆であり、有力者の大所領の独立と合わせて古代から中世への変化を示すものである。 
 都市の没落に伴い、商工業も振わなくなり、貨幣経済も次第に衰退して自然経済(物々交換)へと後退し、社会の頽廃、治安の悪化、人口の減少などはローマ帝国を衰退・滅亡へと向かわせた。 
 

 
 
5.

4 ローマ帝国
 

(5)ローマ文化
 ローマ人は、ギリシア人のような独創的な文化を創り出すことができず、ギリシア文化・ヘレニズム文化の模倣におわったが、古代文化を集大し、後世に伝えたという点では功績を残した。また法律・土木建築などの実用面に長所を揮した。 
 文学、哲学、歴史学などの分野はギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けた。これらの分野では、哲学者のエピクテトス、歴史学のポリビオス、プルタルコス、地理学のストラボンさらに天文学のプトレマイオスなど多くのギリシア人が活躍している。 
 文学の分野はギリシア文化の模倣という面が強いが、ラテン文学はアウグストゥスの時代に黄時代を迎えた。ヴェルギリウス(前70~前19 )は古代ローマ最大の詩人で、ローマの建国伝説をうたった叙事詩「アエネイス」は彼の最高傑作である。ホラティウス(前65~前8)は多くの叙情詩を残しているが、「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」という有名な言葉も残している。オヴィディウス(前43~後17頃)には「転身譜」「恋愛歌」などの代表作がある。 
 キケロ(前106~前43)は政治家・雄弁家・散文家として知られている。第1回三頭政治に反対して追放され、のち帰国してポンペイウスを支持してカエサルにうとまれて引退し、彼の死後政界に復帰し、第2回三頭政治では反アントニウスの立場をとって彼の部下に暗殺された。彼はギリシア思想のローマへの移入・普及に大きく貢献し、その文体はラテン散文の模範として19世紀までヨーロッパ文学に大きな影響を与えた。 
 哲学の分野では、ヘレニズムの哲学を継承し、ストア派の哲学が上流社会の実践倫理として流行した。若きネロの家庭教師で「幸福論」を著したセネカ(前4頃~後65)、ギリシア人の解放奴隷で「語録」を著したエピクテトス(55頃~135頃)、そして哲人皇帝として有名なマルクス=アウレリウス=アントニヌスなどが出た。彼は代表作の「自省録」を陣中で執筆した。 
 歴史学もギリシアの歴史学を継承展させた。古代ローマのギリシア人の歴史家ポリビオス(前203頃~前120頃)は、ローマの国家体制の熱烈な支持者で政体循環史観に立つ「歴史」(ローマ史)を著し、ローマの展をギリシア史との比較しながら記述した。アウグストゥスの恩顧を受けたリヴィウス(前59~後17)は40年を費やして大著「ローマ建国史」(ローマ史)を著し、アウグストゥスの時代を賛美した。 
 有名なカエサルは歴史家としても名を残している。「ガリア戦記」は当時のガリア(現フランス)の事情やゲルマン社会を知るための貴重な資料である。原始ゲルマンについての最重要の史料はコンスルなどを歴任した政治家・歴史家のタキトゥス(55頃~120頃)が著した「ゲルマニア」である。他に「年代記」(アウグストゥスからネロの時代)も有名である。 
 プルタルコス(46頃~120頃)の著「対比列伝」(英雄伝)は聖書、エウクレイデスの「幾何学原本」と並ぶ永遠のベストセラーでナポレオンを初め多くの人々によって読まれた。ギリシアとローマの類似の生涯を送った政治家・将軍などの伝記を対比させ、50人の伝記をまとめたものである。 
 地理学者としては古代ローマのギリシア人であるストラボン(前64頃~後21頃)が知られている。彼は当時のローマ帝国全土の地理・歴史をまとめた「地理誌」を著している。 
 自然科学の分野では、天文学・地理学者のプトレマイオス(2世紀)が天動説(地球中心説)を体系化した。彼の天動説は16世紀にコペルニスクの地動説が現れるまで1000年以上にわたって人々に信じられてきた。また彼の作した世界地図は15世紀まで大きな影響を及ぼした。プリニウス(23~79)は自然全般にわたる百科全書である「博物誌」(項目数2万といわれる)を著し、自然科学を集大した。 
 芸術や学問の分野ではギリシア文化を模倣したといわれるローマ人だが法律や土木事業などの分野では独創性を揮した。 
 特にローマ法はローマ人が後世に残した最大の遺産であり、後世に大きな影響を与えた。ローマ最初の法律は前5世紀半ばに制定された十二表法だが、以後共和制・帝政の時期に多くの法律が制定された。 
 最初の頃はローマ市民権を持つローマ市民にのみ適用される市民法であったが、都市国家ローマの展に伴いローマ市民権を持たない人々に適用される万民法が生まれた。ローマは前89年に全イタリア諸都市の自由民にローマ市民権を与え、さらにカラカラ帝が212年にアントニヌス法を布し、帝国全土の自由民にローマ市民権を与えたので、市民法は世界的な性格を持つようになり、帝国内のあらゆる民族に共通な万民法が立し、ローマ市民にも外国人にも等しく適用されるようになった。 
 後にビザンツ皇帝のユスティニアヌスが法学者トリボニアヌスを中心に編纂させた「ローマ法大全」(歴代皇帝の勅法集、学説集、法学提要の三部からり、534年に完)によって集大された。 
 土木建築はローマ人が最も得意とした分野で、アッピア街道(全長540km)に代表される道路(軍道)はローマから各地に延び、「全ての道はローマに通ず」といわれた。総延長85000km(地球の2以上)に達したといわれる。水道も各地に作られた。南フランスのガール橋は特に有名で、現在もその美しい姿を残している。 
さらに5万人を収容したコロッセウム(円形闘技場)は今もローマ観光の目玉の1つである。浴場を中心とした一大社交場である公共浴場、カラカラ帝が造ったカラカラ大浴場は有名である。その他トラヤヌス・コンスタンティヌスが建造させた凱旋門も有名である 
 カエサルは、前46年にエジプトの太陽暦を修正したユリウス暦を制定した。これを改良したのが、今日世界的に採用されているグレゴリウス暦(1582年に教皇グレゴリウス13世が制定)である。 
 

 
 
6.
5.キリスト教の立と

5 キリスト教の立と
 

(1)キリスト教の
(2)キリスト教の

(1)キリスト教の
 キリスト教の始祖はいうまでもなくイエスである。しかしイエスの生誕についてははっきり分かっていない。現在では研究の結果、前4年頃ということになっている。「約聖書」の「福音書」(約聖書の中のイエスの言行を記録した部分で、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4者によるイエスの伝記をいう)ではナザレ(パレスティナの北部)の大工ヨセフを父とし、母マリアとの子としてベツレヘム(イェルサレムの南)の馬小屋で生まれたとされている。マリアが聖霊によって懐妊したこと、処女懐胎はよく知られている。しかし幼少時代についてはほとんど分からないが、30才頃まで小村ナザレで長し、そこで生活していたらしい。 
 30才の頃ユダヤの預言者(人々の信仰に厳しい反省を求めた宗教活動家のこと)ヨハネによってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、メシア(救世主)であることを自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音(よい知らせの意味で、イエスの教えのこと)を信ぜよ」と説き、ガリラヤ(ナザレのある地方)を中心に至る所で集まってくる群衆に教えを説いた。彼は神は罪を自覚し、救いを求める全ての人々を救ってくれるという神の絶対愛と敵をも愛せよという隣人愛を説き、ヘブライ人(ユダヤ人)のみが救われるとする選民思想と律法(ユダヤ教の戒律)の形式的な遵守を排し、律法学者やパリサイ人(宗教儀礼を極端に重視したユダヤ教徒の一派)と対立した。 
 彼の説教と病気を直すなどの数々の奇跡によってイエスの名声は高まり、彼の教えはローマ帝国と富裕者の重圧に苦しむユダヤの民衆に受け入れられ、多くの人々が彼につき従うようになった。彼の説教のなかでも、「マタイによる福音書」第5章の「こころ貧しき人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」に始まる「山上の垂訓」は特に有名である。 
 イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネなどの12人の弟子を選び(彼らは12使徒と呼ばれる)伝道を助けさせ、ガリラヤからイェルサレムに入ってその神殿の内外で説教をし、当時のユダヤ教の指導者たちを批判した。ユダヤ教の祭司・律法学者・パリサイ人らはイエスを捕らえ、審問にかけようとした。彼はそのことを悟り、12人の弟子とともに「最後の晩餐」をとり、この中に裏切り者がいること、その訴えにより自分は捕らえられるであろう事を弟子たちに告げた。(この瞬間の情景を描いたのが有名なレオナルド=ダ=ヴィンチの「最後の晩餐」である)そしてユダの手引きによって捕らえられ、ユダヤの評議会の審問で神への不敬罪とされ、ローマ帝国への反乱を企てるものとしてローマ帝国のユダヤ総督のポンティウス=ピラトゥスに訴えられ、後30年頃、イェルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられた。ティベリウス帝(第2代ローマ皇帝)の時代のことであった。 
 ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に復活したという信仰が弟子たちの間に生まれた。そして彼こそ「メシア(救世主)」(そのギリシア語訳がキリスト)である、神のひとり子が全ての人々の罪をあがなうために十字架に架けられて死んだと信じられ、「主キリスト」を礼拝するキリスト教が立した。 
(2)キリスト教の
 キリスト教は以後、ペテロ・パウロなどの使徒たちによってシリア、小アジアなどパレスティナ以外の地に広められていった。特に「異邦人の使徒」とよばれるパウロは最初は熱烈なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していたが、ダマスカス城外で天からの光に打たれ、復活したイエスの声を聞いて回心し、以後熱心な伝道者となり、小アジアからギリシアに伝道し、61年頃には首都ローマに行き、ペテロとともにローマ伝道に力を尽くした。 
 64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け、当時人口100万人と言われたローマの市街の大半が消失した。有名な暴君ネロの治世の時である。このときネロがしい、きれいなローマ市街を建設するために不潔な汚いローマ旧市街に放火させ、焼き払わせたという噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。ネロはこの噂を消すために放火をキリスト教徒のせいにして、多くの信者を捕らえ、十字架の刑にしたり、火あぶりの刑にしたり、獣の皮をかぶせて猛犬にかみ殺させたりした。 
 当時はキリスト教の信仰はもちろん許されていなかったので、信者たちはカタコンベと呼ばれる古代ローマ人の地下納骨墓に夜ひそかに集まって礼拝を行っていた。ローマには総延長560kmに及ぶカタコンベがあったといわれ、しかもローマ人は墓所を神聖視し、役人も立ち入らなかったので、キリスト教徒たちが集会・礼拝所として利用した。そのため一般のローマ人から誤解され、魔術を行うとか、幼児の血を吸うとか、人肉を食べるとか、さては近親姦・獣姦を行っているとか、ひどい噂が立ち、ローマの良き伝統をけがす者であると憎まれたいた。ネロはこれを利用し、放火の罪をかぶせ、彼らを弾圧した。 
 このネロの迫害のとき、難を逃れてローマ市街に出たペテロは霧のなかでキリストに会い、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこに、行きたもう)と尋ねると、「私はローマへ行き、十字架に掛かるのだ」と答えられたので、ペテロは恥じ、ローマへ戻り、逆さ吊りの十字架に掛かって殉教したと言う伝説が生まれた。これを題材としたのが、ポーランド人のシェンキェヴィッチの名作「クオ・ヴァディス」(1896刊)で1905年にノーベル文学賞を受賞している。(第1回ノーベル賞は1901年) 
 キリスト教は当時のローマの多神教とあいいれず、またローマ皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝を拒否したため、たびたび迫害を受けて多くの殉教者を出した。しかし、たび重なる迫害にもかかわらず、まずこの世の生活になんら希望を見だせない奴隷をはじめ下層民の間に普及し、次第に上流社会にも広がっていった。この間に各地に信者の団体である教会が生まれた。 
 またマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの言行を記録した「福音書」、使徒の活躍を述べた「使徒行伝」、書簡集を集めた「約聖書」がヘレニズム世界で広く使われたギリシア語、コイネーと呼ばれる、で2世紀中頃までに書かれた。しかし、現在の形の「約聖書」が正式に公認されるのは397年のことである。 
 歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます増大し、4世紀初めの、ディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であるとさとり、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようとしたのが、コンスタンティヌス帝である。当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていたが、順次これらを破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」という文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得たので、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督あての書簡の形でキリスト教の信仰を公認した。これが有名な「ミラノ勅令」である。 
 コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一のために利用しょうとしたが、教会内に教義の対立があったので、教義の統一を計るため小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、いわゆる「ニケーアの公会議」を開いた。そして激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295頃~373)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250頃~336)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端とした。このためローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く。 
 キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス(位361~363)はギリシア文化に心酔し、ミトラ教などの密儀宗教にひかれ、即位後異教に改宗し、キリスト教を弾圧したため「背教者」と呼ばれた。 
 その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とした。 
 その後もさまざまな教説があらわれ異端とされた。特に431年に開かれたエフェソスの公会議でコンスタンティノープルの総大司教であったネストリウス(?~451頃)は、イエスと聖母マリアの神性説に反対し、イエスについては神・人両性説をマリアについては非聖母説を唱え、異端を宣告され、国外追放となった。彼の説はササン朝ペルシアを経て代の中国に伝わり、景教と呼ばれ栄えた様子は、長安の大寺内に建立された「大景教流行中国碑」に詳しく書かれている。 
 この頃までに教会の組織化が進み、聖職者身分が立するとともに、「教父」と呼ばれるキリスト教の正統教義の確立に努めた多くの学者が現れた。特にアウグスティヌス(354~430 )は最大の教父・神学者であった。彼の母は熱心なキリスト教徒であったが、彼は放縦な生活に溺れ、肉欲に苦しみ、一時マニ教に帰依したが、後に母の祈りに心を動かされ、回心を決意し、回心してからは異教や異端との激しい論争を通して正統教義の確立に努めた。彼の著書「神の国」(神国論)はアラリックのローマ荒掠をキリスト教の責任と非難したのに対して擁護したものでキリスト歴史哲学のもととなった。また「告白録」は三大告白録の1つとして有名である。 
 

 
 
1.

第3章 アジアの古代文
6.イラン文

1 イラン文
 

(1)パルティアとササン朝
(2)イラン文
(1)パルティアとササン朝
 インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシアからイラン高原に移動し、遊牧民や農耕民として住み着いた。イラン人の最初の国家はメディア(前8世紀末~前550 )である。ついで大帝国であるアケメネス朝ペルシア(前550~前330)を建国したが、この国はアレクサンドロス大王に滅ぼされた。アレクサンドロスの死後、イラン高原はギリシア系のセレウコス朝シリア(前312~前63)の支配下に置かれた。セレウコス朝はアレクサンドロス大王の政策を受け継いで、イラン各地にもギリシア人の植民市を建設し、ギリシア人を移住・入植させた。 
 しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力者が王朝を築いて独立した。最も早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、前3世紀の半ばにギリシア人総督が独立して王国を建てた。このギリシア人が中央アジアに建てたバクトリア王国(前255頃~前139)は、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じて、西北インドにまで進出して最盛期を迎えた。その後、西方のパルティアや北方のスキタイ系の遊牧民の圧迫を受けて弱体化し、前139 年にスキタイ系のトハラ人によって滅ぼされた。 
 バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民のパルニの族長であったアルサケス(ティリダテス1世)(生没年不)が弟とともにセレウコス朝に反乱を起こし、イラン北東部のホラサーンの地に逃れ、遊牧民・定住農耕民をまとめて前248 年頃建国した国がパルティア(前248~後226)である。中国ではアルサケスの名の音訳から安息と呼ばれた。 
 パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、前2世紀に在位したミトリダテス1世(アルサケス6世)(位前171頃~前138頃)は西はユーフラテス川から東はインダス川に至る大帝国を築き、東西貿易路(シルク・ロード)の要所を押さえ、最盛期を迎えた。都は最初ヘカトンピュロスに置かれたが、メソポタミアに進出後はティグリス川流域のクテシフォンに定められた。ローマがセレウコス朝を滅ぼし(前63)さらに東方に進出してくるとメソポタミア地方を中心にローマ帝国と激しい攻防をくり返した。ローマとの200 年にわたる激しい攻防によってパルティアの国力は次第に衰え、3世紀に入るとササン朝の攻撃を受け、後226年首都クテシフォンを占領され、王国は30代で滅亡した。 
 パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けた。ミトリダテス1世の治世の前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」の銘がある。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。 
 パルティアは実に約500年間にわたって続いたが、その割には扱いがギリシア・ローマや中国に比べて実に簡単である。このことは授業をしていていつも思うことである。彼らが遊牧民で記録を残してないことも原因の1つであろうが、どう思われますか。 
 ササン朝ペルシア(226~651)の創始者であるアルデシール1世(位226~241)は、アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大しパルティア王と対立するようになった。226 年パルティア王を破り、首都クテシフォンを占領し、全ペルシアの王となった。彼はイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教とし(230)、彼らの力を統治に利用して国の統一をはかった。 
 第2代皇帝シャープール1世(位241~272)は有能な王であり、すぐれた武人であった。彼は「イラン人及び非イラン人の諸王の王」という称号を名乗り、中央集権国家の建設に努めた。東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出し、西方ではローマ帝国と連年にわたって抗争した。特にエデッサの戦い(260)ではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とした。ヴァレリアヌスがシャープールに跪くレリーフが岩壁に刻まれた戦勝記念碑に残されている。 
 第10代皇帝シャープール2世(位310~379)も英主として知られ、ローマ帝国と抗争した。ササン朝は5世紀の後半、中央アジアのイラン系遊牧騎馬民族であるエフタル(中国名は白匈奴)の侵入を受けて東方の領土を失い、国家と社会は混乱に陥った。 
 混乱に陥ったこの国を再興したのが、ササン朝最大の名君とされる第21代皇帝のホスロー1世(位531~579)である。対外的にはビザンツ皇帝のユスティニアヌス1世とシリアをめぐって激しく抗争し、562 年にはアンティオキアを攻略して有利な講和を結んだ。さらに当時中央アジアで急速に台頭してきた突厥と同盟して、今まで苦しめられてきたエフタルを東西から挟撃し(566~567)、これを滅ぼしてバクトリア地方を奪回した。国内では貴族を押さえて専制体制を強化し、地租制度の確立・灌漑・農業に力を注ぎ国を繁栄させ、ササン朝の黄時代を築いた。 
 しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の皇帝ヤズディギルド3世(位632~651)の治世の642年ニハーヴァンドの戦いでアラブに敗れ、ササン朝は事実上崩壊し、王は651年に中央アジアのメルヴで殺害され、ササン朝は名実ともに滅亡した。 
(2)イラン文
 パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けた。しかし後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなった。 
 ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文化を確立した。このことはイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教としたことによく現れている。ゾロアスター教の経典である「アヴェスター」の立年代は不であるが、現存の経典はササン朝の時代に編集された。 
 しかし、その地理的な位置から辺の宗教が流入し、国教であるゾロアスター教の他にユダヤ教・キリスト教・仏教なども信仰された。特にネストリウス派キリスト教は比較的自由な活動が許されて展し、中国にも伝播し、代の中国では景教と呼ばれ一時栄えた。 
 バビロニアに生まれたマニ(216頃~276)は初めはゾロアスター教徒であったが、神の啓示を受け、30才頃、預言者であることを自覚し、ゾロアスター教をもとにしてキリスト教・仏教の諸要素を融合した宗教であるマニ教を創始し、シャープール1世の即位に際して、公然と布教を始め、広い地域にわたって布教活動を行ったが、異端として迫害を受け、276年に磔の刑に処せられた。マニ教はササン朝では異端とされ弾圧されたが、後にローマ帝国・中央アジア・インド・中国にまで広まった。 
 マニ教と同様に弾圧された宗教にマズダク教がある。マズダク教はゾロアスター教の一派で極端な禁欲と平等を主張したため異端とされ、開祖のマズダクはホスロー1世によって処刑された。 
 ササン朝では美術・工芸が独自の達を遂げた。ペルシア固有の技法にギリシア・インドの要素を加えた銀器、青銅器、ガラス器、陶器、毛織物、絹織物などのササン朝美術はシルク・ロードを通じて東方に伝えられた。 
 ササン朝美術は南北朝・の中国を経て、飛鳥・奈良時代の日本にまで伝来した。法隆寺の獅子狩文錦、正倉院御物の漆胡瓶、白瑠璃碗などはその代表例としてよく知られている。 
 

 
 
1.
7.インドの古典文

2 インドの古典文
 

(1)インダス文
(2)アーリヤ人の侵入 
(3)宗教の
(1)インダス文
 四大文の1つであるインダス文は、前2300頃から前1800年頃まで、インダス川の下流のモヘンジョ=ダロとパンジャーブ地方のハラッパーを中心に栄えた都市文である。当時、インダス川の中・下流域には約60の都市があったといわれる。 
 1920年にインドの学者が仏教遺跡を掘中にハラッパーの遺跡を見し、そのことを知ったイギリス人の考古学者マーシャルは1922年にモヘンジョ=ダロ(「死人の丘」の意味)を掘し、遺跡を見した。 
 その後の掘により、モヘンジョ=ダロからは都市計画に基づいて造られた整然とした都市の遺跡が出てきた。東西南北に直角に交差する広い街路、焼いた煉瓦でつくられた家屋、作業場、穀物倉庫、大浴場などがあり、特に排水路が完備していたことは驚きである。青銅器、彩文土器、印章なども出土している。そして印章や粘土板には文字が刻まれている。いわゆるインダス文字(約400種類あるといわれる)と呼ばれるこの文字はまだ未解読である。 
 インダス文には西アジア、特にメソポタミア文の影響が強くみられる、すでにインドと西アジアの間で経済的・文化的な交流があったことがうかがえる。 
 インダス文には謎が多い。このすぐれた文の担い手がまだらかになっていないが、現在は南インドに分布するインドの先住民の一つであるドラヴィダ人であろうと考えられている。さらに突如として滅びていく滅亡の原因もよく分かっていない。インダス川の氾濫によるとする説、インダス川の流路が変わったことによるとする説、気候の変化による乾燥化を原因とする説、そしてアーリヤ人によって破壊されたとする説など色々あるがまだはっきりしていない。いずれにせよ前1800年頃から急速に衰え、滅亡した。そしてこの文の存在も忘れ去られ、それ以後のインド文化にも影響を与えていない。 
(2)アーリヤ人の侵入
 中央アジアを原住とするインド=ヨーロッパ語族の東方系、すなわちインドやイランに移動して定住した人々はアーリヤ人(高貴な人の意味)と呼ばれる。彼らは前2000年頃から移動を開始し、氏族・部族単位で前1500年頃までにカイバル峠をえて、パンジャーブ地方(インドの北西部、インダス川とその4つの支流によって形される河間地方で五河地方と呼ばれる)に波状的に侵入・定住していった。彼らは先住民(ドラヴィダ人など)を征服して奴隷とし、農業と牧畜を行うようになった。 
 農業・牧畜を行うようになったアーリヤ人は太陽、空、山、河、雨、雷などの自然と自然現象を神格化し、これを崇拝した。神々への賛歌や儀礼をまとめたのがヴェーダである。最古のヴェーダである「リグ=ヴェーダ」は神々への賛歌を集めたもので、前1200年から前1000年頃につくられた。他に賛歌の旋律を述べた「サーマ=ヴェーダ」、祭式の実務について述べた「ヤジュル=ヴェーダ」、呪術について述べた「アタルヴァ=ヴェーダ」がある。ヴェーダを根本聖典とし、バラモンが祭祀を司ったバラモン教が立し、司祭者であるバラモンの力が強まっていった。 
 アーリヤ人は前1000年頃から鉄の農具と武器を使い始め、ガンジス川流域に進出するようになった。ガンジス川流域は肥沃な平野で、現在では米作の中心地である。しかし、当時は樹木が繁茂し、虎などの猛獣、毒蛇、猛暑、熱帯病等が人々を脅かしたに違いない。その意味でも鉄器の使用によってはじめてガンジス川流域への進出が可能になったと思われる。そしてガンジス川流域への進出とともに農業生産が高まり、商工業も展し、村落は都市へと展し、多くの都市国家が興り、その抗争の中から小国家が形されて行く。 
 このような社会の展とともに、階級の分化が進んだ。このような社会の変動とバラモン教が結びついて、司祭者であるバラモンを最高位とし、クシャトリヤ(王侯、貴族、武士)、ヴァイシャ(庶民、農民や商工業者)、そしてシュードラ(奴隷、大部分は被征服民)という4つの身分を区別するヴァルナ(種姓)制度が、前9世紀頃に立した。 
 ヴェーダのなかに「創造神の口からバラモンが、両腕からクシャトリヤが、両眼からヴァイシャが、そして両足からはシュードラが生まれた」とあり、ヴァルナ制度はバラモン教、後にはヒンドゥー教と結びついてインド社会に定着して行った。 
 この4つのヴァルナは、社会生活の複雑化、職業の細分化とともに、しいカーストを生じ、現在では約3000あると言われている。これをインドではジャーティという。 
 ジャーティは生まれを同じくする集団の意味で、職業・出身地・言語等による小集団で、カーストとも呼ばれるが、カーストは16世紀に来航したポルトガル人が用いたポルトガル語のカスタ(家柄・血統)に由来する。 
 カースト制度のもとでは、職業は世襲である。各カーストの間には上下・貴賤の別があり、結婚は各カースト内で行われる。飲食も同じカースト内で行われるなど種々の厳格な規律があり、インド社会の近代化を妨げた。 
 カースト制度に関するもう1つの大きな問題は、カーストの外におかれる賤民の存在である。彼らはパリア(ハリジャン)、アウト・カースト、不可触賤民とも呼ばれ、厳しい差別を受け、雑役・掃・皮革業などの最下賤な職業に従事した。現在3000万人以上もいるといわれる。彼らは見ても触れてもけがれるとされ、ある時代の、ある地方では鈴をつけることを強制され、戸外を歩くときは裸でなければならなかった。服を着ていると他人の衣服に触れる可能性が高いからである。 
(3)宗教の
 前7世紀頃、ガンジス川流域を中心に有力都市国家が出現し、いわゆる十六王国時代にはいる。これらの小王国では、形式化した儀式を行うバラモンよりも、現実的な政治・軍事力を持つクシャトリヤや経済力を持つヴァイシャの力が強まり、バラモンの権威が揺らいでくる。バラモンの横暴に苦しんでいたクシャトリヤやヴァイシャは、このようなしい時代に適応するしい考え方が求められるようになった。こうした状況の中から出てくるのが、ジャイナ教と仏教である。 
 当時、祭式万能の形式主義に陥っていたバラモン教への反省と批判のなかから、前7世紀頃に、内面的な思索を重視する最古の哲学ともいうべきウパニシャッド(奥義書と訳される、バラモンの哲学書)が展した。ウパニシャッドでは祭式の根本意義、宇宙の根本原理、解脱への方法が追求され、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間存在の根本原理であるアートマン(我)は一つである(梵我一如)と説き、梵我一如によって輪廻から解脱できると説いた。 
 ヴァルダマーナ(前549頃~前477頃)は、シャカと同時代の人で、北インドのクシャトリヤ(貴族)の家に生まれ、30才で出家し、10年以上の苦行の末悟りを開いた。彼はマハーヴィラ(大勇士)、ジナ(勝利者)とも呼ばれ、彼の教えはジナの教えの意味でジャイナ教と呼ばれた。 
 ジャイナ教は、霊魂をく保つためには物質を遠ざけることが必要であるとして、不殺生を初めとする五つの戒律を遵守し、厳しい苦行を行えば霊魂は浄化され、解脱できると説いた。ヴァルダマーナは厳しい戒律と苦行によって誰でも解脱できるとし、バラモンの権威とカースト制を否定した。またその極端な不殺生主義(彼らは道を歩くとき、小さな虫をも殺さぬようにほうきで道を掃き、また呼吸によって虫を吸いこんで殺さぬようにマスクをして歩いた)のために、主として商工業者(ヴァイシャ)階級に信仰された。現在も数百万人の信者がいるが特に融業者が多い。 
 ヴァルダマーナと同じ頃に、ガウタマ=シッダールタ(前563頃~前483頃)は仏教を開いた。彼は釈迦牟尼(シャカ族の聖者)、仏陀(悟った人)、世尊、釈尊とも称される。彼は、現在のネパール・ヒマラヤ山麓のカピラヴァストゥで、シャカ族の王子として生まれた。 
 父はシャカ族の王、母マーヤーは彼の死後7日目に亡くなり、叔母に育てられた。何不自由のない環境のなかで育ち、17才で結婚し男児にも恵まれ幸せな生活を送っていたが、城外に出て人間の老・病・死の実際を見て(一説には不可触賤民の生活を見て)、無常観にとらわれ、29才で突然全てを捨てて出家した。断食を初めあらゆる苦行を行ったが悟りを開くことが出来なかったが、35才のときブッダガヤの菩提樹の下で瞑想の末ついに悟りを開いた。ベナレスでの初めての説法以後、80才で入滅するまでガンジス川流域を中心に布教活動を行い、多くの弟子を得た。弟子にはあらゆるカーストの人々が含まれていた。 
 彼の説の中心は四諦説と八正道である。四諦説はまさに哲学である。四諦とは四つの真理の意味で、苦諦・集諦・滅諦・道諦をいう。苦諦とは人生は生・老・病・死の四苦を初め苦の連続であるという真理。ではなぜ人間に苦が生ずるか、それは我々人間が無常のものに執着することにより煩悩(欲望・愛執)にとらわれてしまうからである。煩悩のなかで根本的なものが、貪(貪欲)・瞋(怒り)・痴(無知)である(集諦)。それではいかにすれば苦から開放されるか。それには煩悩を捨てさればよい(滅諦)。そして我々凡人でも煩悩を捨て去ることができる方法として八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の8つの正しい生活の法)の実践をシャカは説いた(道諦)。 
 彼は八正道を実践すれば誰でも悟りの境地(解脱、人生の苦を超すること)に達することができる、悟りの道は全ての人に平等に開かれているとして、カースト制を否定した。このためクシャトリヤやヴァイシャが多く信奉したが、特にクシャトリヤの支持を受けた。そして後にマガダ国の保護を受けて、インド全域に、さらには東南アジア・東アジアに広く伝播してその文化に大きな影響を及ぼし、現在も世界三大宗教の一つとして多くの人々に信仰されている。 
 

 
 
1.

2 インドの古典文
 

(4)古代統一国家の
(5)クシャーナ朝と仏教の革 
(4)古代統一国家の
 前7世頃のインドはいわゆる十六王国時代であるが、前6世紀にはいると、この中からガンジス川中流域、現在のビハール州を中心とするマガダ国と、同じくガンジス川中流域(マガダより上流域)のコーサラ国が強大な国家になっていった。 
 マガダ地方は古代インドの政治・経済・文化の中心地であり、仏教の生地でもある。 この両国の抗争は、前5世紀にマガダ国の勝利に終わり、コーサラ国は滅び、その領域はマガダ国に併合された。マガダ国では仏教・ジャイナ教が保護された。 
 マガダ国では前4世紀後半に、シシュナガ朝に替わり、ナンダ朝がマガダ国王となり、ガンジス川流域を支配した。創建者であるマハーパドマは卑賤な身分の出身と伝えられ、「すべてのクシャトリヤを倒した」と言われた。 
 その頃、中央アジアを征服したアレクサンドロス大王はカイバル峠をえて、パンジャーブ地方へ攻め入った(前327)。彼はさらにインダス川をえて東進しようとしたが、部下の反対にあい、インド征服をあきらめ西に引き上げていった。 
 このアレクサンドロス大王のインド侵入は、インド人の間に統一の機運を生み出し、インドに統一国家を出現させることとなった。 
 チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、ナンダ朝の武将となった人物であるが、アレクサンドロス軍の西北インド侵入の混乱に乗じて、ナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝(前317頃~前180頃)を樹立した。チャンドラグプタ(位前317頃~前296頃)はガンジス川流域を征服し、西北インドに進出し、アレクサンドロスが残したギリシア勢力を駆逐し、セレウコス朝の進出を押さえてアフガニスタンを手に入れ、南にも勢力を拡大し、インド最初の統一国家であるマウリヤ朝を建設した。パータリプトラ(仏典にみえる華氏城)を都とし、強力な軍隊と官僚組織をもって、富国強兵策を推し進めた。 
 彼の後は子のビンドゥサーラが継ぎ、国力はますます充実した。 
 その統一事業を継承・完させ、マウリヤ朝の全盛期を現出したのが第3代の王、有名なアショーカ(位前268頃~前232頃)である。彼は東南方のカリンガを征服し、インドの南端を除く全インドを統一した。このカリンガ征服の際、10万人の死傷者、15万人の捕虜が出たが、その悲惨な状況を目にしたことから、悔恨の情に動かされ、仏教の慈悲の心にひかれ、以後仏教に帰依し、熱心な信奉者となり仏教を保護奨励した。 
 彼は自分が理想とするダルマ(法と訳される、人間の普遍的な倫理を意味する)に基づく政治姿勢を詔勅として布し、これを石柱碑、磨崖碑に刻ませ、各地に建立した。これらは現在までに数十ヶ所から見されている。またサーンチーのストゥーパ(仏舎利を納めるための塔、日本の三重の塔などの起源とされる)などを建立した。 
 また第3回目の仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行い、仏教の布教のために王子のマヒンダをセイロン島に派遣した。セイロン島は後にインドで仏教が衰えるなかで、仏教の一大中心地となり、以後東南アジアに仏教が広まる拠点となった。 
 マウリヤ朝は、アショーカの死後急速に衰退し、約50年後の前180年頃、最後の王は部下の将軍に殺され、マウリヤ朝は滅び、シュンガ朝(前180頃~前80頃)が立した。しかしこの王朝の勢力は西北インドには及ばず、西北インドにはバクトリア(中央アジア)のギリシア人やイラン系の遊牧民族のサカ族が侵入した。 
(5)クシャーナ朝と仏教の革
 前2世紀前半、中国の西・モンゴル高原の南で活躍した月氏(民族系統不)は匈奴の攻撃を受けて西に追われイリ地方に移ったが、再び烏孫に追われてアム川上流のバクトリアに移り、大月氏国(前140頃~後1世紀)を建てた。 
 大月氏はバクトリアのイラン人を支配下に置き、その地に5翕侯(きゅうこう、諸侯の意味)を設けたが、その1つがクシャーナであった。 
 このクシャーナ族に、前1世紀の後半にクジュラ=カドフィセス王が出て、他の4翕侯を併せてバクトリアの地を支配下に置き、その後南下してインダス川流域に進出し、パンジャーブ地方をも領有するようになった。 
 クシャーナ朝(1~3世紀)の第3代の王が有名なカニシカ王(位130頃~170頃)である。彼はガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)に都を置き、西は中央アジア・イラン方面、東はガンジス川中流域に至る北インドまで領域を拡大し、クシャーナ朝の全盛期を築いた。クシャーナ朝は東西通商路の要衝を支配したので、貿易の利益を独占して大いに栄えた。 
 カニシカ王はあつく仏教を保護し、仏教徒からは第二のアショーカ王と呼ばれた。彼は仏教学者500人を選び、12年を費やして第4回仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行った。このため仏教は西北インドで大いに栄えたが、この頃仏教に大きな変化があらわれた。大乗仏教の立と仏像の製作である。 
 大乗仏教は、保守化・形式化した従来の仏教(小乗仏教と呼ばれる)に対しておこった革的な宗教で、広く万人の救済を約束する菩薩信仰が中心思想である。菩薩とは仏陀(悟りを開いた者)になりたいと誓願し、すべての人を平等に救済することを通じて自分も救済されようとして衆生救済のために種々の修行を積む者、いまだ仏陀とならない前の仏道修行者をいう。この菩薩の慈悲にすがって救済されようとするのが菩薩信仰である。 
 大乗仏教は2~3世紀頃のナーガールジュナ(竜樹)によって大され、中国・朝鮮・日本に伝播したので北伝仏教とも呼ばれ、これに対して個人の救済を目的とする従来の仏教の一派である上座部仏教はビルマ・タイ・カンボジアなどの東南アジアに伝播したので南伝仏教とも呼ばれた。 
 インドの仏教は釈迦の没後も、長い間その教祖の像を持たなかった。その仏像が最初に作られたのが、大乗仏教が栄えたクシャーナ朝の首都プルシャプラを中心とするガンダーラ地方においてであった。 
 この地方はアレクサンドロス大王の東方移住政策によって多くのギリシア人が移住して以来ギリシア文化の遺産が残されていた地である。ギリシア人は人間の姿をした神々の像をはじめとして多くのすぐれた彫刻を残した。このギリシアの神々の像が仏教徒を刺激した。こうしてこの地の仏教徒が今まで禁止されていた仏陀の姿を像に刻み、礼拝の対象とするようになった。このため当然のことながら、ギリシアの神像を模範として作られた初期の仏像・菩薩像はカールした頭髪、深い目、高い鼻、ひげ、衣装などにギリシア的な仏像であった。これがガンダーラ美術である。 
 ガンダーラ美術は5世紀頃まで続いたが、時代が下がるにつれてインド的要素が増していき、中央アジア・中国・朝鮮に影響を与えた。 
 クシャーナ朝が栄えていた頃、デカン高原を中心に栄えていた国がサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝、前1世紀~後3世紀)である。中インドはマウリヤ朝が崩壊した後は小国が分立し、西北インドから侵入した外国勢力によって圧迫された時期もあった。 
 サータヴァーハナ朝は外国勢力の一つであるサカ族の南下と戦いながら次第に強力となった。この王朝はインドの原住民ともいうべきドラヴィダ系の人々が建てた国で、1~2世紀、特にガウタミープトラ=シャータカルニ(位80頃~104頃)の時にデカン高原一帯を統一し最盛期を迎えた。 
 この時期に全盛期のローマとの間に季節風を利用した貿易が盛んに行われ、インドからは象牙・真珠・香料・染料・宝石・木綿が西に運ばれ、ローマ帝国からはぶどう酒・ガラス・特に多量の貨・銀貨が輸入され通貨として使用された。 この王朝では仏教が栄え、多くの遺跡が残っている。また仏教と並んでバラモン教も復興のきざしを見せており、次のグプタ朝ではヒンドゥー教となり民衆の間にひろまって行く。 
 

 
 
2.

2 インドの古典文
 

(6)ヒンドゥー国家と古典文化
       
 3世紀になるとクシャーナ朝は衰退し、北インドは分裂状態に陥った。4世紀前半、かってのマウリヤ朝の都であったパータリプトラのグプタ家(ビハール州の藩王の家)のチャンドラグプタ1世(位320~335頃)がビハール州で台頭し、ガンジス川中流域を征服し、「諸王の大王」と称し、分裂状態にあった北インドを再統一し、グプタ朝(320頃~550頃)を開き、パータリプトラを都とした。 
 彼は即位した320年2月26日を紀とする「グプタ紀」を創設したが、この「グプタ紀」は北インドで以後500年間にわたって使用された。 
 チャンドラグプタ1世を継いだサムドラグプタは領土をパンジャーブ地方にまで拡大し、第3代の王チャンドラグプタ2世(位376頃~414頃)は、さらに領土を拡大し、デカン高原を除くほぼ全域を支配下に置き、グプタ朝の最大領域・全盛期を現出した。 
 チャンドラグプタ2世は「武勇の太陽」と名乗り、中国ではその訳である「超日王」の名で知られている。 
 クシャーナ族をはじめ、インドにおける全ての外国人勢力を追い出したグプタ朝のもとでは「インド人のインド」という民族意識がもりあがり、グプタ朝はマウリヤ朝の復活を理想とした。チャンドラグプタ2世の時代にインド古典文化の復興の傾向が強まり、インド古典文化は黄時代を迎え、サンスクリット文学も栄えた。サンスクリット語は梵語と訳されるが、古代インドで使われた文語であり、俗語に対する雅語である。 
 インドのシェークスピアといわれるインドの文豪カーリダーサは戯曲「記念の指輪によってめぐりあったシャクンタラー」(たんに「シャクンタラー」とも)によって世界的に有名であるが、彼はチャンドラグプタ2世の宮廷に仕えている。 
 またインドが世界に誇る二大叙事詩である「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」(どちらもサンスクリット語で書かれている)が完したのもグプタ朝の時代である。 
 「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」の原形は紀前4世紀頃までにつくられたが、題材・背景となっているのは前10世紀頃のバーラタ族の戦争(マハーバーラタ)、コーサラ国の王子ラーマの数奇な運命(ラーマーヤナ)で、活躍するものはすべてクシャトリヤ(王侯・武士)で、統一前の小国の分立・抗争の時代におけるクシャトリヤの活躍、台頭が反映されている。 
 「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」で活躍するクリシュナ(マハーバーラタ)とラーマ(ラーマーヤナ)はともにヒンドゥー教の創造神ヴィシュヌの権化とされているところから、この二大叙事詩はヒンドゥー教の経典とされ、インドはもちろん、のちにヒンドゥー教が伝播する東南アジアの人々にも愛誦された。カンボジアのアンコール=ワットの回廊の浮き彫りに描かれ、インドネシアのバリ島の影絵の題材にも使われている。 
 グプタ朝のもとでの「インド人のインド」という民族意識のもりあがり、インド古典文化が復興したことは宗教面でも大きな変化を生み出した。 
 民衆の間でヒンドゥー教の信仰がひろまり、仏教信仰が急速に衰えたことである。 
 ヒンドゥー教は古代インドの宗教でカースト制とも結びついたバラモン教を受け継ぎ、諸地方の民間信仰や、仏教の影響も加え、様々な神々や考え方を吸収し融合して立した宗教であり、特定の開祖・教義・経典はなく、インド人の独特の思考様式・生活様式・社会習慣の総合であると説される。まさに「インド人の宗教」で、われわれには理解しがたい宗教であると言うしかない。 
 ヒンドゥー教は多神教で無数の神々が信仰されているが、そのなかで特に信仰を集めているのが二大神である護持神のヴィシュヌ、そして破壊神のシヴァである。シヴァは舞踏・性力の神でもあり民衆の間で人気がある。そして創造神のブラフマンも有力な神である。 
 ヒンドゥー教には特定の教義はないが、霊魂は不滅であり、よい行為にはよい報いが、悪い行為には苦の報いがあるという因果応報の思想と人間は永遠に生まれ変わり死に変わるという輪廻転生の思想は多くの派に共通した教義である。そして、それから逃れるにはさまざまな修行を行い、神にすがって輪廻を断ち切ることによって解脱(さとり)の境地に入ることができると信じることも共通した考えである。 
 「マヌの法典」はそれ以前の法典を集大して、後200年頃までに立した。12章2685詩句からり、人々の宗教的義務や日常生活の規範が述べられているが、全編にわたって4つのヴァルナ(カースト)の差別とバラモンの特権的地位を強調している。そのためカースト制度と深く結びついたヒンドゥー教の経典としての役割をも果たした。このインド人の生活指導書とも言うべき「マヌの法典」はつい最近までインド人はもちろん東南アジアでも尊重された。 
 グプタ朝の時代、ヒンドゥー教の台頭によって民間の仏教は急速に衰えた。 
 ヒンドゥー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し、仏教の寺院は僧侶の修行の場であり、教義の研究の場であって、民衆との結びつきがほとんどなかったことが大きな原因である。このため民衆の間では仏教は衰えたが、仏教の教義の研究は依然として盛んであった。 
 ナーランダ僧院は、5世紀にグプタ朝のクマラグプタ1世が僧院を建てて以来仏教教学の一大中心地として展し、玄奘や義浄などの中国の僧をはじめアジア各地から僧侶が集まった。玄奘(「西遊記」の三蔵法師のモデルとなる)が6年間を過ごした7世紀前半には約1万人の僧侶がいて研究に励んでいたといわれている。 
 仏教美術の面では、クシャーナ朝時代に栄えたギリシア的な仏教美術であるガンダーラ美術にかわって、純インド的な仏教美術であるグプタ様式(グプタ式美術)が完し最盛期を迎えた。特にアジャンターやエローラの石窟寺院の仏像や仏画は有名である。 
 有名なアジャンターの石窟寺院は、前3世紀頃から後8世紀頃にかけて、タプティー川の支流に臨む玄武岩丘陵の中腹を掘ってつくった29の石窟に僧院がつくられ、多くの仏像が刻まれ、壁に仏画が描かれた。6世紀から7世紀の壁画が多いが、その中にはグプタ様式の代表的な作品が多く含まれている。その画風は中央アジア・中国を経て日本に伝わった。法隆寺堂の壁画の観音菩薩像はアジャンターの流れを汲むものとして有名である。 
 4世紀前半以来、100年余にわたって繁栄したグプタ朝も、5世紀後半には支配下の諸勢力が独立するようになり、さらに中央アジアで強大となった遊牧騎馬民族であるエフタルの侵入を受け、次第にインド北西部の領土を失い、6世紀に入ると領土はビハールとベンガルの北部のみとなり、550年頃についに滅亡した。 
 グプタ朝の滅亡後、北インドには小国が分立した。こうした状況の中でハルシャ=ヴァルダナ(位606~647)の父と兄はガンジス川の上流域で勢力を伸ばし、西北からガンジス中流域に進出しようとしたが、兄はベンガルの王によって打ち破られた。ハルシャはその後を継いでガンジス流域を中心として北インドを統一し、カナウジ(カンヤクブジャ)を都として、古代インド最後の強力な統一王朝であるヴァルダナ朝(606~647)を築いた。 
 ハルシャ王は、初めはヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰したが、のち熱心な仏教徒となり、国内に多くの仏塔・伽藍を建立し、仏教を保護した。彼は文人としても優れ、3編のサンスクリット語の劇を残こしている。学問・芸術を保護したので宮廷を中心に文芸が栄えた。 
 の僧、玄奘がインドを訪れ、ナーランダ僧院で学んだのもこのハルシャ王の時である。玄奘の旅行記「大西域記」(これをに後に小説化したのが「西遊記」)にハルシャ王は「戒日王」の名で登場する。 
 しかし、ヴァルダナ朝はハルシャ=ヴァルダナ一代で終わる。王の死後、王国は急速に崩壊し、インドは再び分裂状態に陥り、やがて8世紀以後はイスラム勢力の侵入を受けることになる。 
 

 
 
3.
8.東南アジアの諸文

3 東南アジアの諸文
 
(1)インド文化の普及と東南アジア文化の形
 現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文、いうまでもなく中国文とインド文の影響を受け、古くから多くの民族により独自の文化・国家が形されてきた。 
 ヴェトナム北部では早くから中国文化の影響を受けて青銅・鉄器文化が形されていた。前3世紀頃から前1世紀頃にかけて栄えたドンソン文化で1924年に見された。一方インド文化は1世紀頃からインドシナ半島に伝わった。 
 インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世紀にかけてメコン川下流域で栄えた扶南である。この国はクメール人かインドネシア系の人々がインド文化の影響のもとに建てた国で、支配者はインド系でサンスクリット語が公用語とされた。宗教はバラモン教と仏教を受け入れた。当時のインドシナではインド文化を受け入れて国家体制を整えることが辺の人々を容易に服属させる原動力であり、支配者層はインド文化の受け入れによって支配の正当性と強化を図った。 
 扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、マライ半島の一部にまで領土を拡大し、1、2世紀頃から盛んとなる東南アジアとインド間の海上貿易の要衝を押さえ、中国のやインドのクシャン朝とも外交・通商関係をもった。また海上貿易により莫大な利益を得て、特に3世紀頃から6世紀頃にかけて大いに繁栄した。しかし、6世紀頃から真臘の圧迫を受けて衰退し、7世紀中頃滅亡した。 
 カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に栄えた国がチャムパーである。チャムパーはチャム人(インドネシア系)が建てた国で2世紀末から15世紀後半まで1000年以上にわたって続いた。中国に史書には林邑、環王、占城の名ででてくる。 
 林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃まで栄えた。初め中国文化、5世頃にインド文化が流入し、その影響を強く受けた。の侵入を撃退したが、には朝貢した。林邑も扶南と競合しながら海上貿易で繁栄した。 
 8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動した。この国は中国では環王と呼ばれた。環王は9世紀中頃には衰えた。 
 8世紀の後半チャムパーの中心が再び中部に戻った。以後のチャムパーは中国では占城と呼ばれる。しかし、10世紀以後ヴェトナムが南下してくる。特に11世紀以後は李朝の圧迫を受け、しかも11世紀から13世紀初めには真臘の侵入・支配を受け、13世紀前半にヴェトナムの朝の出現により衰退し、13世紀後半にはモンゴルの侵入を受け、15世紀には黎朝の南下により急速に衰退し、1471年に滅亡した。 
 占城も海上中継貿易によって国力を維持し展したが、中国では時代の技術の進歩(羅針盤の実用化、大船の建造など)によって、13世紀頃から中国人が海上に進出し、東南アジアやインドと直接取引をするようになり、チャムパーの経済的基盤が失われ、国力の衰退を招いた。 
 扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではクメール人(カンボジア人)の真臘が興った。真臘も扶南やチャムパーと同じく「インド化された国」の1つであった。 
 真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を滅ぼして大勢力となった。8世紀初めから9世紀の初めに、北の陸真臘と南の水真臘に分裂したが、9世紀初めに再統一され、9世紀から13世紀にかけてのクメール朝(アンコール朝)の時代に全盛期を迎えた。 
 12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(位1113~45)は王都アンコール・トムの南に壮大なアンコール・ワット(首都の寺の意味)を造営した。アンコール・ワットはヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の神)に神格化された国王を祭り、死後はその墓所となった。完には約30年間を要したと云われる。最初はヒンドゥー教寺院であったが後に仏教寺院となった。長らく密林の中に埋没していたが1861年に見された。 
 12世紀から13世紀の初めに在位したジャヤヴァルマン7世の時にクメール朝の領土は最大となった。王はまた現存する王都アンコール・トム(大きな都の意味)の造営を行った。クメール朝は内陸農業国家の典型で、水の確保・管理は真臘の王にとって最も重要な事業であった。9世紀から13世紀にわたって繁栄した真臘も13世紀以後はタイのスコータイ朝の侵入を受けて衰退し、15世紀には同じくタイのアユタヤ朝の侵入を受け、アンコールは占領され、アンコール時代は終わりを告げた。 
 メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァーラヴァティーが、扶南の弱体化に乗じて自立した。この国は扶南の商業活動の影響を強く受け、銀銭も使用した。また仏教も栄えたが、 8世紀初め頃以後は衰退した。かわってメナム川上流域に同じモン人 の国であるパリプンジャヤが興り、8世紀から13世紀頃まで続いた。この間の11世紀から12世紀にはクメール朝と対抗したが、13世紀末にはタイ人の活動が盛んとなるなかで滅ぼされた。 
 同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系のピュー(驃)人の国家があり、8世紀頃プロームを中心に栄えた。この国では仏教が盛んであったが、9世紀になると衰え始め、11世紀にはパガン朝(1044~1287)に併合された。 
 ミャンマーの沿海地方に住んでいたモン人は、9世紀にペグーに都をおくモン人の国家を建てた。彼らは早くからインドと文化的関係を持ち、海上貿易に活躍した。またこの国では上座部(小乗)仏教が栄えた。 
 シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀にわたって南下・定住していった。 ピュー人の衰退に乗じて、9世紀頃パガンに中心をおき、その後勢力を拡大し、11世紀にはミャンマーのほぼ全域を支配下におくビルマ最初の統一王朝であるパガン朝(1044~1287)が立する。 
 諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7世紀に興り、14世紀まで続いた。スマトラ島南部から興ったシュリーヴィジャヤは、6世紀から7世紀に扶南が衰退・滅亡していく好機をとらえ海上貿易に進出し、マラッカ海峡を押さえて展していった。の僧、義浄は7世紀後半にこの国を訪れ、「南海寄帰内法伝」をこの国で書いた。 
 シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャイレーンドラ朝の興隆に押されて弱体化した。 
 シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、ジャワ島中部を中心に栄え、有名な仏教遺跡であるボロブドゥールを造営した。ボロブドゥールは1辺約120m四方の基壇に方形・円形の壇がピラミッド状に重なって出来た石造の大ストゥーパで、多くの石仏・仏塔・回廊の浮き彫りなどで名高い仏教遺跡である。 
 一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁栄を取り戻し、全盛期を迎えた。その背景には、8~9世紀に東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易が急速に展したことがある。この東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易をほぼ独占したのが シュリーヴィジャヤであった。全盛期にはマライ半島の大部分、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島さらにフィリッピンを含む一大海上帝国となった。 
しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム商人の進出などにより、海上貿易独占の利益を失い、海上帝国の支配組織が崩れ始め、14世紀にはジャワ島のマジャパヒト王国の台頭によって衰亡していった。 
 

 

 
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9.中国の古典文

1 黄河文明
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1 黄河文明
 黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文で、石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、の青銅器文化に展していった。 1921年、スェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソン(1874~1960)は河南省の仰韶村で彩文土器を掘した。翌年の掘によって竪穴住居跡が見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。 アンダーソンは口店洞穴の見者であり、北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の掘の端緒をつくった人物でもある。 
 前5000年~前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土地帯でおこったこの中国最初の農耕文化は最初に見された遺跡にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれる。 1954年に掘された西安の東にある半坡(はんぱ)村の集落遺跡は後期に属するが、仰韶文化の代表的な遺跡である。 
 仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼い、また鹿などの狩猟も行った。主として竪穴住居に住み、集落を形し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。 仰韶文化を代表する出土品は彩陶である。そのため仰韶文化は彩陶文化とも呼ばれる。 彩陶は薄い赤色の地に赤・白・黒などの色を使用して文様が施されている素焼きの土器で甕・鉢・碗型のものが多く、焼温度は約1000度位である。なお彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものであると言うオリエント伝来説がアンダーソン以来唱えられている。 
 1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が掘され、黒陶文化の存在がらかになった。黒陶文化は代表遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。 黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器でロクロも使用され、器形は鬲(れき、湯をわかしたり、蒸すのに使う)・鼎(てい、物を煮るのに使う)などの三足土器が特徴的だが多様である。焼温度は約1000度以上である 
 竜山文化期(前2000~前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形されるようになった。この大集落がのちに都市国家に展していく。 
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 黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現して争う中から、多くの都市国家を支配する有力な王が出現するが、今日確認されている最古の王朝はである。 
 中国の代の有名な歴史家・司馬遷は「史記」のなかで、中国の歴史三皇五帝から始め、王朝の歴史を記述している。三皇五帝中国史上の伝説の帝王)のうち三皇伏羲(ふくぎ、漁労の者)・神農(農業の者)・燧人(すいじん、火食の者)の三人の神をさし、この三皇に続いて五帝について記述している。 
 五帝黄帝民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられた。尭は舜に位を譲り、舜は黄河の治水に功のあったに位を譲ったとされている。 は黄河の治水に功して、舜から譲位されて帝位について王朝を創始した。 
 王朝は以後17代450年間続いたが、暴君(けつ、の紂とならんで暴虐な君主の代名詞となる)があらわれ「酒池肉林」にふけり、暴政を行ったのでの湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には書かれているが現在のところ実在を証する遺跡等は見されていない。現在の段階では伝説上の王朝ということになるが、将来実在を証する遺跡等が見される可能性はあると思われる。従って現在確認できる中国最古の王朝はである。しかしそのの実在が証されるようになったのは20世紀に入ってからである。 
 1899年、王懿栄という学者がマラリヤの持病に悩まされ、「竜の骨」が特効薬で良く効くと教えられ、薬屋から買ってきた。「竜の骨」は実は地中から掘り出された動物の骨で、よく見ると骨の表面に文字らしきものが刻まれていた。そこで薬屋に行きその出所をやっと聞き出し、「竜の骨」の蒐集に務めた。しかし薬屋は出所の秘密を守るために他所の地を教えていた。 
 王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県の郊外の小屯村(の後半の都があった所)を掘し、そこから甲骨文字(字の原型になった文字)を見した。 王氏と劉氏は甲骨文字を見したが、その解読は羅振玉・王国維の二人の学者によって行われた。さらに羅振玉は小屯村を掘し、甲骨のほかに青銅器や玉器、骨角器、石器などを掘した。 
 羅振玉・王国維は辛亥革命(1911)後、京都に亡命し、京都大学の学者らと共に甲骨文字の研究・解読をすすめ、1913年に甲骨文字の解釈に関する本を出版した。見された約3000の甲骨文字の半数近くが彼らによって解読された。その中で羅氏は甲骨に刻まれた王の名が、司馬遷の「史記」などに残っているの系図に出てくる王の名とほぼ一致していること、小屯村がの末期の都であることなどを論証した。 
 1928年から1937年にかけて墟(河南省安陽県小屯村を中心としたの都の跡での時代には「大邑商」(大きな町、商)と呼ばれていた)の大掘が中央研究院によって15回行われ、世界中の注目を集めた。しかし1937年日中戦争の勃にともない、戦場となったために掘はすべて中止された。 
 墟の掘により宮殿跡の辺から竪穴式の住居跡、大小1000以上の陵墓をはじめ、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(東南アジア産の貝で貨幣として使用された)・鼈甲などが多数出土した。なかでも王の墓とされる大型の地下墳墓は約10メートルの地下に掘り下げて作られており、19メートルと14メートルの長方形で、中央に王の棺がその辺に青銅器、武器、武具が埋められていたが、特に人々を驚かしたのは数100人もの殉死者であった。 
 王朝は伝説ではを滅ぼした湯王から30代続き、紂王(ちゅうおう)の時にに滅ぼされたとなっている。しかし、前半の歴史は不で、第19代の盤庚(ばんこう)(墟に都を移した王)以後の250年間の歴史掘によって究されている。 王位は初めは兄弟続であったが後に父子続に変わったこと、王は政治・軍事・農業など 国事をすべて占卜によって決定する神権政治を行ったことなどが分かっている。 
 の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域を支配したが、次第に専制的となった。最後の紂王は妲己(だつき)という美女を寵愛し、人民から重税を取り立て、宮殿を造営し、広い庭を造営して酒池肉林、連日宴をはり、人民を苦しめた。その頃、西方の陜西省で勢力を持ってきたの武王が、の支配に不満を持つ諸部族と連合して牧野(ぼくや)の戦いで紂王をうち破った。敗れた紂王は自殺し、約500年続いたはついに滅亡する。 
 の文化を代表するのは高度な青銅器である。青銅器は当時とても貴重なものであったので 主に祭器や武器に使用された。の青銅器はとても精巧なもので、とても3000年も前に作られたとは思えないほどで、当時の技術の高さが想像できる。 は農業を主としているが、農具には貴重な青銅器は使用されず、まだ石器や木器が使われていたので生産力は低かった。 
 の後半の都は「商」と呼ばれていたが、の滅亡後「商」の住民は各地に離散した。そして土地を持たない彼らは物を売買する事で生計を立てる者が多かった。そのため「商」の人々が物を商う人、すなわち商人と呼ばれるようになったと言われている。 
 陜西の渭水流域から興った(前1027頃~前256)は、はじめに服属していたが、有徳者と伝えられている文王が諸侯の信頼を得て、領土を拡大し、都を鎬京(現在の西安付近)に移し、さらに東進政策を押し進めたが亡くなり、子の武王(姓は姫、名は)に引き継がれた。 
 武王は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い、彼を軍師・総司令官として牧野の戦いに勝ちを滅ぼしたというのは有名な話で、釣りの上手な人を太公望というのはここに由来している。また伯夷・叔の兄弟が武王に 「父(文王)の葬りも済ませないうちに戦争を始めるのは孝行といえるか、臣として君を殺そうとするのは仁といえるか」と諫め、の世になるとの米を食べることを拒み、首陽山に隠れてわらびを採って暮らす中で餓死したというのも有名な話である。 
 武王は周王朝を創建し、在位7年で亡くなり、その子王が後を継いだが、まだ幼少だったので、武王の弟・叔父の公旦が王を補佐し、当時東方で起きたの反乱及びそれと結びついた東夷(山東省辺りに住む民族)を征討し、領土を東方から長江流域にまで拡大し、東方の統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設するなどの基礎を確立した。また彼はの封建制度の創始者とされている。 
 の封建制度は、の制度を模倣して、一族・功臣や各地の土着の首長を諸侯とし、公・侯・伯・子・男の五等にわけて、この爵位に応じて封土(ほうど)(領地)を与え、その地を支配させるとともに、彼らに軍役(王のために兵を率いて戦うという軍事的な義務)と貢納の義務を負わせる政治組織をいう。の王や諸侯のもとには、卿・大夫(上級の家臣)・士と呼ばれる世襲の家臣がいて、それぞれ封土を与えられ、その地の農民を支配した。 
 日本やヨーロッパにも封建制度があった。ヨーロッパの場合、主君と家臣の間にある、家臣は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護するという関係は個人と個人の間での契約(契約だから主君が約束を守らない場合は、家臣も約束を守らなくてもよい)の上にり立っていた。 
 これに対しての封建制度では、主君と家臣の関係は、本家と分家の関係でつながれているのである。これがの封建制度の特色である。中国では宗族が重視される。宗族というのは父系の同族集団、つまり同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)という原則があった。そして宗族間では本家が優し、分家は本家を中心に団結しなければならないという宗法(そうほう)というきまりがあった。 
 の封建制度ではの王(本家)と一族の諸侯(分家)の関係にもそれが当てはめられる、分家の諸侯は本家のの王を中心に団結しなければならないという社会のきまりをの支配に利用したということで、氏族的性格が濃いとか血縁関係を重視しているのが特色だといわれる。 
 4代目の昭王は東南地方に支配権を確立しようとした。5代目の穆王は西北地方に勢力を拡大しようとして犬戎(けんじゅう、代に陜西・山西の山地にいた遊牧系の未開民族)を討った。10代目の厲王(れいおう)は都の反乱のため東方に逃亡し、王位は一時空位となった。11代目の王宣王は中興の英主とされるが、次の12代目の幽王は西周を滅ぼした暗君とされる。 
 幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒じが笑わないのでの笑わせるために外敵の進入を知らせる狼煙台ののろしを上げさせた。すわ一大事と四方から諸侯がはせ参じたが何事もないので呆気にとられた。彼らの間抜けな顔がおかしいと褒じが初めて笑った。その笑顔をみたい一心の幽王はその後も何度ものろしを上げた。もちろん諸侯達はのろしを信じなくなった。 
 前770年、西北から犬戎が侵入してきた。幽王は必死になってのろしを上げるが諸侯は誰も集まって来ない、幽王は犬戎の手に掛かって殺された。都の鎬京は犬戎の手に落ちた。 諸侯は都を捨てて東に逃げ、洛邑を都とし、前の皇太子を平王として即位させた。以後は東周の時代と呼ばれる。 
 は800年近く続いた王朝であるが、中国史ではこの前770年の出来事を境に、前1027年頃から前770年までの都が鎬京に置かれていた時代を西周、そして都が洛邑に移されてから以後の前770年から前256年までを東周の時代と呼ぶ。さらに東周を前半と後半に分けて、前半の前770年から前403年までを春秋時代、後半の前403年から前221年までを戦国時代と呼ぶ。 
 

 

 
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3 春秋戦国と鉄器の普及
 
3 春秋戦国と鉄器の普及
 東周の前半にあたる春秋時代(前770年~前403年)には、西周時代の封建制度が崩れて王室の勢力が衰え、実力のある諸侯が互いに争う時代となった。春秋時代の「春秋」は、有名な孔子の書物の名前から来ている。「春秋」は孔子の生国であるの国の前722年から前481年に至る歴史を書いた書物で、その扱っている時代がほぼ春秋時代と同じであるところから、この時代を春秋時代と呼んだ。 
 春秋時代の初めには約200余りの国(小さな都市国家も含む)があったといわれるが、次第に有力な国に併合され、40~50余りの諸侯国にまとめられていく。このうち特に有力な諸侯を覇者と呼ぶ。春秋時代には王室の権威は衰えたとはいえ、まだ王として尊ばれていたので、有力諸侯は「尊皇攘夷」(王室を尊び、辺の異民族(夷)を討ちはらうの意味)を唱えて諸侯の同盟を指導して秩序を維持し、中原(黄河中・下流域)の支配をめぐって争った。 
 覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれる。誰々を五覇とするかについては諸説あるが、一般的にはの桓公(位前685~前643)、の文公(位前636~前628)、の荘王(位前613~前591)、王闔閭(こうりょ)(位前514~前496)、王勾践(位前496~前465)をいい、を除いての穆公(位前659~前621)との襄公(位前651~前637)とする説もあり、の荘王にかえて王夫差(位前495~前473)とする説もある。 
 初めて覇者となったのはの桓公である。は中原から離れた東方の山東省近くにあったが、の国力を展させたのが桓公を補佐した名宰として有名な管仲である。彼は商工業を保護奨励するなどの富国強兵策をとっての国力を充実させた。桓公は中国の西北部に住む異民族の侵入から中原を守り、また南方のの北上阻止に努め覇者となった。しかし、桓公の死後、は内乱のため衰えていった。 
 にかわって盟主となったのが山西省を本拠としたである。は武王(の初代の王)の子が建てた国で前7世紀前半頃から強力となった。しかし、後継者の続をめぐる内乱が絶えず起きていた。文公も公子のときこの内乱を避けて腹心の部下とともに19年間も諸国を渡り歩き、の援助のもとにやっと帰国し、62歳で即位した。そして前632年に中原に侵入してきた軍を城濮の戦いで撃破し、覇者となった。 
 春秋時代の中期以後はを中心とする北方とを中心とする南方の国々の対立・抗争という様を呈してくる。 中国文はもちろん黄河流域から興り、からの初め頃までは民族の勢力範囲はほぼ黄河流域に限られていた。 
 民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領域に入ってくるのが春秋時代からである。は古くから蛮夷の国とされ、の人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしていたし、後に出てくるを建てた人は入れ墨・断髪の風習があり、当時華南からヴェトナムに分布していた南方系民族の一派であった。春秋時代は中国文化圏が長江流域を含む南方に拡大していった時代でもあった。 
 前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠としたは、前632年に城濮の戦いで敗れたが荘王(位前613~前591)の時代に再び中原に進出して洛陽に入り、前597年に を破り、荘王は覇者となった。 
 の対立はその後も続いたが、勝敗はつかず、前545年に和議を結んだ。その頃長江下流域の江蘇省の蘇州を中心にまずが興り、次いで浙江省の紹興を中心にが興った。王闔閭(位前514~前496)は、前506年に覇者となったが、王勾践との戦いに敗れ、臨終の床に子の夫差を呼んで「 勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と言い残して亡くなった。夫差は毎夜、薪の中に臥し復讐を誓った。そして2年目にに攻め込んで軍をうち破った。 
 勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだし、属国となることを誓った。このとき夫差の謀臣であった伍子胥(ごししょ)は 勾践を滅ぼすよう進言したが、夫差は聞き入れずその降伏を許した。許された勾践は座右に胆をおき、座ったり、寝る度ににがい胆を嘗めて夫差に対する復讐を誓った。そして夫差が中原に出てと覇を争っている隙をついて蘇州を攻めた。 そして知らせを聞いて急遽帰国してきた夫差の軍勢をうち破った。敗れた夫差は自殺した。 
 これが有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの意味)の復讐の物語である。またの抗争にからんで「同舟」という言葉も生まれ、現在もよく使われている。 
 を滅ぼした王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時代最後の覇者となった。の激しい抗争は、次第に実力抗争の時代になったことを示している。時代は戦国時代へと変わっていく。 
 戦国時代がいつからかについても諸説があるが、一般的には春秋時代の強国であったの六卿(六つの大臣の家)であった氏、氏、氏がを3分して自立し、王室から正式に諸侯として認められた前403年から前221年までを戦国時代と呼んでいる。戦国の名称は「戦国策」という書物に書かれている時代と言うことに由来している。 
 戦国時代になると、春秋時代までは衰えたとはいえまだ尊ばれていた王室は全く有名無実化し、辺の諸侯が強大化し、彼らは公然と王と称して、覇権をめぐって抗争するようになった。各国は自国の領土の拡大を目指して富国強兵に努め、そのために優れた人材を集めようとした。このため実力主義の時代へ、そして下剋上の時代へと移り変わっていった。前述のが3人の有力な家臣に国を奪われた出来事はまさに下剋上の典型である。 
 こうした状況のなかで、春秋時代には200もあった国が、次第に併合され、戦国時代には7つの有力な国家に統合されていった。7つの有力な諸侯国を「戦国の七雄」と呼ぶ。東の方からの7カ国である。 
 七雄を中心とする激しい抗争の中で、前4世紀に入ると、まずなどが強盛となり、さらに前4世紀中頃からはが勃興してきた。 
 は、はじめ甘粛省の東部にあり、前8世紀にの諸侯となり、その後渭水(黄河の支流)に沿って東方に進出していくが文化も遅れていた後進国であった。その後進国のが、前4世紀の孝公(位前361~前338)の時代に、逃亡してきたの国の公子商鞅(しょうおう)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に功し、一躍強国にのし上がった。 
 商鞅は国の経済のもとを農業におき、農地の開拓を押し進め、人民を5家・10家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせた(什伍の制)。郡県制を採用し、従来の貴族による土地所有・支配を廃止して国の土地とし、中央政府の官吏を派遣して統治させることとし、中央集権化を進めた。またこれらの政策を実施するために厳しい刑法を定めた。 
 孝公の死後、商鞅は反対派に反乱を企んでいると訴えられ追われる身となった。国境の関所の宿屋に泊まろうとしたが、「商君(商鞅のこと)の法によると、旅券のない者を泊めると、私も同罪になりますので」とことわられた。商鞅は「ああ、法の弊害は、ついにこの身に及んだか」とため息をついて立ち去り、後に捕らえられて車裂きの刑(左右の手足を2台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引き裂く極刑)に処せられた。 
 の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威であった。中原の六国が互いに争っていたのでは、に対抗できないことはらかだった。この時、六国が連合してにあたろうという政策、合従(がっしょう、縦に連合する意味)策をもって諸侯を説いたのが蘇(?~前317)である。彼は洛陽の人で若いとき雄弁術を学んだが、貧乏して郷里に帰り、親戚から嘲笑された。憤した彼は「錐股(すいこ)」(眠気を覚ますために、錐をもって股を刺して一心に勉強すること)して勉強を続けた。 
 そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積はの5倍になり、軍隊の数は10倍になる。連合してを攻めれば必ず勝てる。それなのにに臣として仕えているのは何事ですか」と説いて、ついに前333年に六国の連合を立させ、六国の宰となったが、後に張儀の連衡策が立すると、で刺殺された。 
 蘇の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を立させたのが張儀(?~前309)である。彼はの人で若いとき蘇と同じ先生に学んだ。諸侯に遊説して回ったが、の大臣の家でご馳走になったとき、宝玉がなくなった。粗末ななりをしていた張儀が疑われさんざん鞭打たれた。家に帰ると妻から「あなたが本ばかり読んで勉強したり、遊説しなければ、こんな辱めを受けることがなかったのに」と嫌みをいわれたが、彼は「俺の舌を見てくれ、まだあるか」と尋ね、妻が「まだある」と返事すると、 「舌さえあれば十分だ」と答え、また遊説に飛び出した。 
 張儀は「六国が同盟してもには勝てないでしょう。それよりと同盟を結び、その援助を受けるほうがよろしい」と蘇の合従策を壊していった(前311)。そしての大臣となったが、後に連衡も破れて失脚し、に逃れて死んだ。 
 戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきた。従来は貴族を主とする戦車戦が中心であったが、戦国時代には歩兵の占める役割が増大した。武器も鉄製の武器が広まり、大きな弩(いしゆみ、ねじのような仕掛けで弓を引き絞って射するので、貫通力が高まった)もされた。さらにの武霊王が北方の遊牧民と戦う中で、北方遊牧民族の騎馬戦術を取り入れたが、これにより戦争の様が一変してくる。そして各国が動員する兵力も30万人をえてくる。春秋時代では大国の兵力が15万人位で、 普通は2,3万人といわれている。当然死傷者の数も飛躍的に増加していった。 
 前259年、を攻めて、40万人の兵を穴埋めにした。はますます強盛となり、前256年にを滅ぼした。その後、の順に六国を滅ぼし、前221年に初めて中国全土を統一したのは始皇帝の時のことであった。 
 春秋時代の末期から戦国時代にかけては中国の社会が大きく変化した時期であった。中国史の上で、社会が大きく変化する時期が3回ある。1回目は春秋時代の末期から戦国時代にかけてであり、2回目は末から五代十国の時代(8世紀後半から10世紀前半)にかけてである。そして3回目は20世紀の初め朝の滅亡から中華民国立の時期である。 
 春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化した最大の理由は、中国で鉄器が使用されるようになったことである。中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されなかった。従って春秋時代になっても農具は石器・木器であった。ところが前6世紀から前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していく。しかし、鉄の生産には大量の木炭が必要なため、多くの木が切られたために華北一帯の緑が失われていったといわれている。 ともあれ鉄の生産が行われるようになり、しかも初期の鋳鉄はもろくて武器に適さなかったため農具に使われた。 
 戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、また牛に犂(すき)をひかせる牛耕農法がされたこととまって、農業生産力が急速に増大した。鉄製農具の使用により、1つは従来よりはるかに土地を深く耕すことが可能となり、深耕によって作物の出来がよくなり、単位面積あたりの収穫量が増えたこと、2つ目は大規模な荒れ地の開墾や治水・灌漑用水路を引くことが容易になり、耕地が飛躍的に増大した、これによって農業生産力がおおいに高まったのである。多くの農作物が取れるようになると、余剰が出てくる、 この余剰農産物は当然自分の必要な物と交換されるようになり、交換経済が始まってくる。最初は小規模で物々交換であったろうが、やがて規模が大きくなり、商業が盛んとなり、交換の手段として貨幣が使われるようになってくる。 
 貨幣経済の展はますます商業を、そして鍬・鎌などの農具や陶器を生産して販売して生計を立てる手工業者も現れてくる。さらには商人や手工業者の住む都市が展をしてくる。このように中国社会は大きく変化してきた。 
 貨幣としては古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)が使われてきた。 そのため経済に関係のある字には貝扁の文字が多い。貨・債・財・賃・買・貯・費・預など、まだまだ沢山あるので思い出してほしい。ところが貨幣経済の展とともに、大量の貨幣が必要となり、しく青銅貨幣が登場してくる。特に有名なのが刀の形をした刀貨と農具の犂を形取った布貨である。刀貨は主としてなどで使用され、布貨はなどで使われた。その他にで使われた蟻鼻銭(ぎびせん)やなどで造られた中央に丸い孔(のちに四角の孔になる)のあいた環銭などがある。 
 商工業や貨幣経済の展は王侯とならぶほどの富を持った富豪を生み出した。従来の農業を中心とする社会では土地が最大の財産であったが、商工業の達は貨幣というしい財産形態を生み出した。また各地に大都市が出現してくる。春秋時代の大都市は人口5万人程度であったが、戦国時代になると商工業の達により農村の人口が都市に集中し、の都の臨しは人口50万人以上の世界的な大都市であった。の都の邯鄲(かんたん)も大都市として有名である。 
 こうした社会の変化の中で、代の封建制度を初めとする古い制度は崩壊し、それまで公有であった土地は私有となり、後に大土地所有者である豪族を生み出すことになる。 
 

 

 
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4 古典思想の開花
 
4 古典思想の開花
 春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化した。そのなかで古い秩序は崩壊し、 しい時代にあった秩序・思想が求められてくる。また諸侯は各国の富国強兵をはかり、有能な人材を 求めた。さらに実力主義の風潮が広まる中で、多くの思想家・学派が現れ、多くの書物が書かれた。 これらを総称して「諸子百家」と呼ぶ。諸子の子は一家の学説を立てた人の尊称で先生の意味である。 男子の尊称として使用され、日本にも取り入れられた。小野妹子(初めての遣使として有名)などは この例である。但し、日本では後に女子の名前に使われるようになった。最近は少なくなったが以前は ほとんどの女子の名前に使用されていた。いつ頃からどのような理由でそうなったかは勉強不足で分からない。 百家の百は多いの意味、家は学派の意味に理解している。諸子百家のなかで特に重要なのが儒家・墨家・ 道家・法家の4つの学派である。 
 諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本などの東アジアの歴史に大きな影響を 及ばしたのが儒家である。儒家は有名な孔子を祖とする徳治主義に立つ学派である。 
 孔子(前551頃~前479)は、春秋末の公の子孫が封じられた国)の曲阜の人である。 孔子はの国の祖先である公旦を理想の人物として尊敬し、に伝わるの制度・文物を学び、 公がつくったの制度を復興し、の礼に帰ることで当時の混乱の世を救おうとした。54歳の時の 司寇(司法をつかさどる大臣)となり、国制改革に取り組むが豪族の反対によって失敗に終わり、 前497年頃になどの諸国を巡遊したが、孔子の政治理念は理解されず、実現を断念して 帰国し、以後は弟子の教育と古典の整理に専念した。 
 孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復するためにの礼に帰ることが必要であり、そのためには 個人の道徳(仁)の修養が必要であると考えた。そして、「修身・家・治国・平天下」(天下を 治めるには、まず自分の身を修め、家庭を平和にし、国を治めれば、天下は治まるの意味)を説いた。 平和な天下を実現するもとは、一人一人が身を修め、立派な人間になること、そして「修身」とは、 「仁」という徳を身につけることだと説いた。 
 有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物である。その中にも「仁」という言葉が 盛んに使われているが、孔子は弟子の質問に対して様々な言葉で説している。あるところでは 「忠恕」と言う言葉で、また「孝悌」と言う言葉で説している。忠恕はまごころと思いやりの心、 孝は親孝行、悌は兄または年上の人につかえて従順なこと。つまり、親孝行をし、兄弟仲良くし、 思いやりの心を持つことが仁の徳のもとだということで、一人一人が仁の徳を身につければ、その 集まりである家庭はうまくいく、そうすれば家庭の集まりである国が、そして天下がうまく治まると 説いた。 
 孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義であるが、春秋末から戦国時代と いう軍事力で覇権を握ろうと考えている諸侯に受け入れられなかった。 孔子の弟子は3000人と言われている、これはもちろん誇張であるが、多くの弟子達によって 孔子の思想は受け継がれていった。孔子の弟子の曾子は、その学を子思(孔子の孫)に伝えた。 
 その子思の門人に学んだのが、孔子の教えを継承して大したとされる孟子(前372頃~前289頃) である。孟子が幼少の頃、厳格な母のしつけを受けたという話は有名である。墓の近くに住んでいた とき、孟子が葬式ごっこばかりして遊ぶので、母親は市場の近くに引っした。ところが今度は 商人のまねばかりして遊ぶので、再び引っしをし、今度は学校の近くに住んだところ、孟子は熱心に 勉強するようになったという。これが有名な「孟母三遷」の教えである。 
 子思の門人に学んだ後、などの諸国を遊説し、王道政治を説いたが受け入れられず、晩年は隠退して弟子と政治や人間について問答した。その言行を集めたのが四書の一つの「孟子」である。 
 孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来ない同情心(人に忍びざるの心)を 持っている、よちよち歩きの子供が井戸に落ちそうになっているのをみたら誰でも助けるであろう、 つまり全ての人間は生まれつきよい心を持って生まれてきていると説く。これが有名な孟子の性善説で ある。そして生まれつき持っている人に忍びざるの心(惻隠の心)、羞恥の心(羞悪の心)、謙遜の 感情(辞譲の心)、善悪を判断する心(是非の心)は、それぞれ仁、義、礼、智の徳のもとである (この思想は四端説と呼ばれる)とし、特に仁・義の徳を重視した。 
 孟子は上の思想を展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物が支配者となって政治を行なえば 理想的な政治が実現できるという「王道政治」を唱えた。そして天子(天帝の子の意味、皇帝)は、 天帝(中国人は天帝がこの宇宙を支配していると考えた)の命令によって天下を治めているが、もし その支配者が徳を失えば、別の徳を備えた立派な人物(有徳者)が天命を受けてしい王朝を開くと いう「易姓革命」の思想を唱えた。 
 私たちがよく使う「革命」という言葉はここに由来している。革命は命(天命)が革(あらたまる) の意味である。「易姓」は姓が易(かわる)の意味で、王朝の交替によって支配者(皇帝)の姓が 変わることを意味している。孟子が活躍したのは戦国時代の中頃にあたり、「王道政治」という徳治 主義の思想は当時の諸侯に受け入れられるはずがなかった。しかし、「易姓革命」の思想は以後の 中国の歴史の中で大きな役割を果たすことになる。 
 戦国の末期の荀子(前298頃~前235)はの国に生まれ学問修業を続け50歳過ぎて初めて遊説し に仕えた、後にはに仕えた。荀子は孔子の説を継承したが、孟子の性善説に反対して性悪説を唱えた。 「人の性は悪にしてその善なる者は偽なり(人の生まれつきは悪で、善は後からの作為的な矯正に よるものだ)」と述べ、人間は生まれつき自分の利益を追求する傾向がある、また嫉(ねた)んだり 憎んだりする傾向がある、だからそのままにしておくと必ず争い・奪い合うことになり、世の中は混乱に 陥ると主張した。 
 だから礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道徳を維持し、混乱した 社会を再建しないといけないと説いた。荀子が強調する礼は法に近いものを言っており、法家の思想に 大きな影響を及ぼしている。法家の代表的な思想家である非・李斯は荀子の門下である。  
 儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃~前390頃)を祖とする学派が墨家である。 墨子も孔子と同じの国に生まれた。彼も最初は儒家の思想を学んだが満足せず、儒家を去って一派を 開いた。墨家の墨は入れ墨の意味である。古くは入れ墨は刑罰の1つで徒刑者は顔に入れ墨された。 墨家の思想に勤倹節約がある。彼らはぼろをまとい、夜も昼も休まずに働いた。その有様が徒刑者の ような暮らしだと言うことで墨家と呼ばれるようになったと言われている。墨家の思想の中で特に注目 されるのが「兼愛」と「非攻」である。 
 墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けられる愛であり、不徹底な愛であり、 差別愛であると批判し、家族愛をえる無差別平等の愛を説いた。これが兼愛である。そして「我が 身を愛するように他人を愛し、我が家を愛するように他家を愛し、我が国を愛するように他国を愛して いけば、世界は平和になる」と説いた。 
 兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反戦思想に展していく。人間を 人間として愛していくと言う兼愛を否定し、人間が人間を殺し合うのが戦争である。一人の人間を 殺しても死刑になるのに、戦争では何千人・何万人と殺して賞賛される、戦争は罪悪だと主張する。 但し、墨子は戦争に反対したが、防御の戦争・自のための戦争はやむを得ないものとし、そのための 軍備も認めた。つまり自分の方からは絶対に戦争を仕掛けない、それを「非攻」と名付けた。 
 当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した墨家は孟子の頃にはとても盛んで あったが、支配者にとっては都合の悪い思想であったなどの理由からか、以後は全く衰微して しまった。 
 道家は老子を祖とする学派である。老子については孔子と同時代の人と考えられているが実在を 疑う説もある。老子は儒家や墨家の説を人為的な虚礼を説くものとして否定した。 
 「大道廃れて仁義有り」(本当の大道がすたれると仁とか義とかがとりざたされる)、「六親和せず して孝慈あり」(親子・兄弟・夫婦の六親の間に不和が生じてくると、初めて親孝行とか慈愛とかが とりざたされる)「国家昏乱して忠臣あり」などの有名な言葉でこのことを述べている。 
 老子は孔子のいう親孝行だとか墨子のいう兼愛など人間として当たり前のことではないか、 それをわざわざ「仁」とか「孝」とかと騒ぎ立てることはない、それらはすべてわざとらしい、 人為的なものであるとして否定したのである。 
 老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼んだ。道は知性や感覚ではとらえることの出来ない ものであるとして無とも呼んだ。私たち人間はこの道=無の前ではまったく無力である。だから何事に もこざかしい人為・作為をろうせず、偉大な・絶対的な道に逆らわず、素直に従っていきること、 このことを「無為自然」と言う言葉で表し、これこそが人間の理想的な生き方であると考えた。そして 柔和でへりくだり、人と争わない心を持った少数の人々が住む小国家、「小国寡民」こそが理想の 社会であると考えた。 
 老子の思想を継承展させ、道家の思想を確立したのが荘子(前4世紀頃)である。荘子は宇宙を 動かす偉大な力である道は比喩で直感的にとらえるしかないと考えた。「北の冥(うみ)の魚、名は 鯤(こん)、鯤の大きさ幾千里かはかり知れぬ。変じて鳥となる。名を鵬(ほう)という。鵬の背中は 幾千里かはかり知れぬ。」は荘子の著書の「荘子」の中の有名な一説で、かっての大横綱「大鵬」の 名はここから取られている。 
 さらに荘子は道は絶対・無差別であると説き、自然のままの世界ではいっさいの対立・差別が なく、すべてが同一であると説いた。「荘子がある時、夢の中で胡蝶となり、楽しく飛び回った。 そして夢から覚めたとき、荘子が夢の中で胡蝶になったのか、胡蝶が夢の中で荘子になったのか分から なくなった」という有名な「胡蝶の夢」でこのことを比喩的に説いている。そしていっさいの欲望や 知から自由になり、無心・無我となり、自然と一体になることが理想的な生き方である説いた。 
 道家の思想は老子荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ、後に神仙思想や様々な民間信仰と 融合して道教となり、民衆の中に深く浸透し、中国人の思想に大きな影響を及ぼしていくことになる。 
 法家は他の学派が説く礼とか道徳は、実際に国家を統治していく上では無力であると考え、法を 重んじ信賞必罰に基づき、君主に権力を集中して国家を統治して行くことを説いた学派である。管仲を 祖とし、で改革を行った商鞅や非(非子)(?~前233)、李斯らが有名である。 
 法家思想を大したと言われるのが非である。彼はの王族として生まれ、李斯とともに 荀子に学んだ。ではしばしば王を諫めたが用いられず、学問に打ち込み「非子」(55編)を 著した。後にに使いし、李斯に計られて自殺した。彼は乱世にあっては仁義礼智などの徳では支配で きない、法律や刑罰を重視し、それによって悪人を取り締まらないと世の中は治まらないと主張した。 法家思想はの始皇帝に採用され、李斯は宰としての統一事業を実施していくこととなる。 
 この儒家・墨家・道家・法家のほかにも多くの学派が現れた。 
 兵家は用兵や戦術を説いた。孫子・子などが有名である。孫子はの闔閭・夫差に仕えた。 「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」とか「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐 (しず)かなること林の如く、侵掠は火の如く、動かざること山の如し」などの言葉はよく知られている。 後者の言葉から取った「風林火山」は武田信玄が旗印に掲げた言葉として有名である。 
 前述した合従策を唱えた蘇と連衡策を説いた張儀に代表される外交策を講じた人々は総称して 縦横家と呼ばれる。 
 農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により天下平等であるべきことを説いたが、 この平等思想は彼の死後消滅してしまった。 
 公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係をらかにしようとする論理学派で、 原初的な弁論術や論理思想がみられるが、後には言葉の概念にとらわれ、「白馬は馬にあらず」 (白い馬は白い馬であって馬とは違うの意味)などの詭弁に陥った。 
 陰陽家は陰陽五行説を説く派であるり、鄒衍(すうえん)は陰陽説と五行説を集大した代表的な 陰陽家とされる。陰陽説は自然及び社会のあらゆる現象を陰と陽で説する説であり、五行説は木・火 ・土・・水の運行によって万物の変化を説する説である。 
 陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象と人間生活の関係を結びつけて 説しようとしたので迷信や禁忌とも結びついた。特に陰陽五行説は、後世まで中国人の生活・思考に 溶け込んで大きな影響を及ぼすことになる。 
 この時代には「詩経」や「辞」などの文学作品もまとめられた。 
 「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」のひとつとされる。地方の民謡やの祭祀 ・儀式の歌などからり、主に黄河流域の歌が集められている。 
 戦国時代の王族であった屈原(前340~前278)は王のもとで内政・外交に活躍していたが 讒言によって退けられ、都を追放された。流浪のうちに祖国の滅亡を前に投身溺死したといわれ、 詩人としても有名だが、この屈原らの詩を集めたのが「辞」である。 
 

 

 
3.

5 の統一
 
5 の統一
 中国を初めて統一したのが、中国史上最も有名な人物の一人であるの始皇帝である。始皇帝 (姓は瀛(左の文字からさんずいをとった文字、読みはえい)、名は政)(前259~前210)は 「戦国の七雄」のの第31代の王で、荘襄王の子としての都の邯鄲(かんたん)で生まれた。母は 邯鄲の歌妓で荘襄王の妃となる前は呂不韋(りょふい)の愛人であったため、大商人であった呂不韋が 実父であるとも言われている。 
 始皇帝の父、後の荘襄王は、の強敵であったの人質として邯鄲で暮らしていた。その荘襄王に 目をつけたのがの豪商であった呂不韋である。彼は「奇貨居くべし」(これは掘り出し物だ、買い 入れておいたほうがよかろう)として荘襄王に取り入り、面倒を見た。二人が親しくなるなかで、 荘襄王は呂不韋の最愛の歌妓を一目見て気に入りゆずってくれと言い出した。呂不韋は内心では怒ったが、 せっかくここまで投資したのだからと考えて譲った。このときすでに歌妓は身ごもっていたのを隠して 嫁いだ。そして生まれたのが後の始皇帝だと言われている。 
 呂不韋は荘襄王をから脱出させ、に帰国させるために、様々な工作を行い大を使った。 帰国後、太子となった荘襄王は父の死後秦王となった(前250)。即位した彼は呂不韋を宰に 任命し、洛陽の地に10万戸を与えた。   
 荘襄王は在位3年にして亡くなり、太子の政が王となった(前247)。まだ13歳であった ために政治は母の太后と呂不韋にまかされた。政は親政を始めた翌年(前238)に呂不韋の職を 免じ都を追放し、さらに流罪の刑に処した。追いつめられた呂不韋はついに自殺した(前235)。 この間、はますます東方に進出し、ついにを滅ぼした(前230)。ついで(前225)、 (前223)、(前222)を滅ぼし、翌前221年には最後まで残ったを滅ぼし、ついに 中国を統一した。 
 中国を統一した王の政は、王の称号をやめ皇帝(伝説上の三皇五帝の徳を兼備するの意味)と 称し、自らは始皇帝(位前221~前210)と称した。 
 大帝国の統治にあたっては、丞の李斯(?~前210、法家の思想家としても有名)の意見を 入れて、統一前からで行われていた郡県制を実施した。すなわち、全土を直轄地とし、全国を36郡 (のち48郡)に分け、郡の下に数十の県(1つの県は約1万戸)を置き、皇帝に任命された官吏を 中央から派遣して統治させた。 
 中央官制、地方行政については、中央に丞(最高行政官、行政全般を統括する)、大尉(軍事を 統括する最高官)、御史大夫(ぎょしたいふ、官吏の監察を行う最高官)を置き、郡には守(民政を 担当)と尉(軍事を担当)を置いた。 
 また今まで7つの国に分かれていたため、国によって異なっていた度量衡の統一など、中国を 一つにまとめるために様々な統一事業を行った。まず度量衡を統一し、国が定めた量(ます)や権 (おもり、分銅)を全国にくばった。ついで車軌を統一した。車が通ったなとに溝が出来、幅が違うと 通りにくいので車輪の幅を同じにしたのである。文字もの書体である篆書(てんしょ)に統一された。 貨幣も刀貨・布貨など国・地域によって異なる貨幣が使われていたが、始皇帝は円形で四角の穴の あいた半両銭(重さが半両であった)に統一した。この円形で四角の穴のあいた半両銭が後世まで 貨幣の基本の形となる。 
 また民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(現在の西安郊外)に強制的に移住 させ、都の繁栄を図った。 
 始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大をはかり、外征に乗り出した。中国の北に広がる モンゴル高原には、古くから遊牧民族が住みつき遊牧と狩猟の生活を営んでいた。 
 中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍したのが匈奴である。匈奴はトルコ系またはモンゴル系 といわれる遊牧民族で、戦国以来中国に侵入し、巧みな騎馬戦術で中国を脅かしてきた。戦国時代の 末期には盛んに南下し、が築いていた長城を突破し、黄河の南のオルドス地方を占領した。このオルドス 地方を奪回するために、始皇帝は名将の蒙恬(もうてん)に30万人の軍を授けて匈奴を討たせた(前215)。 
 そして匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を築かせた。長城はすでに戦国時代 などで築かれていたが、始皇帝はそれを修築・連結して築いたといわれている。西は甘粛から東は 東に及んだ。現在私たちが見ることの出来るそれはの時代の15・16世紀に修復されたもので、 のそれよりかなり南にある。世界史の教員でありながら外国へ行ったことのなかった私は1995年に 初めて中国に旅行し、八達嶺の万里の長城に登った。初めて見たときの感激はいまだに覚えている。 八達嶺のそれは煉瓦造の堂々たるものだったが、代のそれはもっと簡単な土塁であった。騎馬民族で ある匈奴の侵入に備えるには、馬が飛びせない程度のものであればそれでよかったのである。実際に 登ってみて感じたのは写真で見るよりはるかに傾斜が急であるということで、この強制労働に狩り 出された人々のつらさが少し分かるような気がした。 
 南方遠征も行われた。民族は当時、長江流域まで居住地域を拡大していたが、長江流域から南、 現在の浙江省・広東省・広西省からヴェトナムにいたる地域には「」と呼ばれる民族が住んでいた。 戦国時代も彼らが建てた国と考えられている。現在の華南からヴェトナム北部は、当時「南」と 呼ばれていた。ちなみにヴェトナムは字では「南」と書かれていた。50万人と称する大軍が 南に攻め込み、その地を征服した(前214)。始皇帝はこの地に南海(現在の広東)・桂林・象郡 (この位置についてはいくつかの説がある)の3郡を設置した。 
 今やの領土は、の時代に比べると比較にならないほどに拡大し、民族の居住の範囲も 広まった。この中国最初の統一王朝であり、巨大な帝国となった(Chin)が中国の代名詞となり、 その音が辺民族に伝わり、シナ(支那)あるいは英語のChinaの語源となった。 
 始皇帝は、丞李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と呼ばれる思想言論統制を行った。 前213年に「焚書」、すなわち医薬・卜筮(ぼくぜい、占い)・農業などの実用書を除く全ての 書物を焼き捨てた。儒学者が封建制度復活論を説いたのがきっかけとなったといわれている。これに よって以前の貴重な古書の多くが失われてしまった。 
 ついで翌年には「坑儒」が行われた。多くの 儒学者が捕らえられ、そのうちの460人が大きな穴に生き埋めにされて殺された出来事である。 始皇帝が不老長生の薬を求めて東海に探索隊を送ったが、もちろん見つかるはずがなく、失敗に 終わった儒学者が始皇帝の悪口を言い触らしたことがきっかけとなったという話しが伝えられている。 
 上に述べてきたようなことが、統一後のわずか10年程の間に行われてきたのである。その あまりにも急激な改革に対する保守派の人々の反感、またたび重なる外征や大土木事業に動員された 人々の反が強まるのは当然のことであった。 
 大土木事業としては、まず万里の長城があげられるが、そのほかにも六国平定後に始まり未完に 終わった阿房宮の建設がある。阿房宮は、東西700メートル、南北150メートルで、1万人を 収容できる壮大な宮殿であったといわれ、70万人の囚人が働かされたといわれている。の滅亡後、 項羽によって焼き払われたが、燃えるのに3ヶ月もかかったと伝えられている。さらに始皇帝陵 (当時は生前から自分の墓を造る習慣があった)の地下墳墓は死後も生前と同じ生活が送れるように 造られ、地上の陵墓は高さ76メートル、囲2キロメートルに及ぶといわれ、やはり70万人の 囚人が動員されたといわれている。 
 さらにその始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守るの 大軍団が7000余体の実物大の陶製の人馬像(俑、よう)で再現されていた。これが1974年に、 付近の農民が畑の中に井戸を掘っていて偶然に見し、世界的に有名となった「兵馬俑」である。 「兵馬俑」も幸いに実物を見たが、巨大なドームに入場し多くの俑の前に立ったときの震えるような 興奮もいまだに忘れることができない。 
 始皇帝は、前210年に5回目の行幸を行ったが、江南地方をまわり、北上して山東に至って 急病で亡くなった(50才)。李斯は反乱をおそれ、死を隠し、首都咸陽に着いて初めて喪をした。 その間宦官の高は詔書を書き換え、賢であった長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追いこみ、以前から 親しくしていた凡庸な弟の胡亥(こがい)を太子とした。こうして即位したのが二世皇帝である。 二世皇帝は高の言うままに、蒙恬を自殺に追いやり、李斯を腰斬の刑に処し、高を宰とした(前207)。 
 始皇帝の死後まもなく各地で反乱が起きた。その中で有名なのが「勝・広の乱」(前209 ~208)である。勝も広も、ともに河南省の日傭百姓であったが、万里の長城の工事に徴され、 北に向かう途中で大雨にあい道が通れず、決められた期限までにはとうてい間に合わなくなった。 当時のの厳しい法では期限に遅れれば斬罪である。このまま行っても殺される、逃げても見つけ 次第殺される。同じ死ぬなら大きな事をやって死のうと反乱を起こすことを決意し、引率のの軍人を 殺し、反乱に踏み切った。 
 そのとき勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯将いずくんぞ 種あらんや」である。王も諸侯も、将軍も丞も別種の者ではない(血筋に別はない)、俺たちだって 時を得ればなれるんだの意味で生まれを問題にしない戦国時代の下剋上の実力主義の風潮を示す言葉で あるとも、平等主義を示す言葉であるとも解釈されている。勝・広らは、の最後の都であった を目指したが、そこへ着く頃にはの政治に反を抱く人々が加わり数万の大軍にふくれあがって いた。そこで勝は王位についた。一時は反乱に加わるもの数10万に達したが、統制のとれてない 寄せ集めの軍は軍の反撃にあって敗れ、勝を見限るものが続出する中で広は軍中で殺され、 勝は乱軍のなかで死んで、反乱は6ヶ月で鎮圧された。 
 中国最初の大規模な農民反乱であった勝・広の乱は鎮圧されたが、この反乱をきっかけに してに対する反対勢力は各地で立ち上がっていた。その中でもっとも大きな勢力であったのが項羽と 劉邦の軍であった。 
 項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり、司馬遷の「史記」のなかでも最も 劇的なところである。高等学校で学ぶ文のなかでも「鴻門の会」「四面歌」は最も印象に残る 名文中の名文と言っても過言ではないと思う。項羽と劉邦については、司馬太郎氏をはじめ多くの 人が優れた作品を書かれているのでぜひ読んでいただきたい。ここでは概略をたどっていきたい。 
 項羽(前232~前202)は、代々の将軍の家に生まれた。彼の祖父は軍と戦って戦死 している。の時代になって叔父の項とともに(蘇州)に住んでいたが、勝の挙兵を聞いて 挙兵し(前209)、8000の兵を率いて北上し、山東に至って勝の死を知った。項を 再興し、西に進んで大いに軍を破ったが、増強された軍に不意を打たれて敗死した。項の死後、 の懐王は諸将を集めて「最初に咸陽(の都)に入った者が王たるべし」との約束をさせた。 項のあとを受け継いだ項羽は、全軍を率いて北方に向かい、函谷関(かんこくかん、河南省の北西部に あり東の中原と西の関中とを結ぶ要衝で、はここに関を設けた)から関中へ入ろうとしたが、この方面で の主力軍を手に激戦を重ねながら進撃することになり、劉邦に先をされることとなる。 
 劉邦(前247~前195)は、江蘇省の沛(はい)の中流の農家に生まれた。若いときは ほとんど家の仕事はせず、遊侠の徒と交わり、壮年になって沛県の亭長という下級の役人となった。 公道の宿舎を管理し、その近辺の警察のような仕事をするのが役目であった。前209年、勝の 挙兵の知らせが沛の町にも伝わって、町は動揺していた。県の役人であった蕭何(しょうか)が劉邦を 役所に招いた。劉邦が100人ほどの手下を引き連れて役所へ行くと、沛の人々は県令(県の行政の長、 の役人)を殺して劉邦を迎え入れ、彼を沛公(県令の尊称)に立てた。以後、劉邦は沛公と呼ばれる。 やがて沛の若い男子が集められて数千の軍ができたので、その兵をもって辺の地域を攻略していった。 この時期、名参謀の張良も加わり、劉邦軍は次第に勢力を拡大して行き、項が諸将を招いたのに 応じてその軍に加わった。そして項の死後、項羽と競いながらの都を目指した。 
 項羽がの主力軍を手に戦い進撃が遅れたのに対し、劉邦は南を進み裏口の武関をねらい、 項羽よりも先にしかも楽に関中に入った。ではその直前に二世皇帝が殺され、三世皇帝が即位して いたが、劉邦に降伏してきた。前206年、は滅亡した。 
 都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、の財宝には封印し、主だった者を 集めて次のように言い渡した。「法は三章のみとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者は罪せられ、 物を盗んだ者は罰せられる」。今までのの刑罰はとても厳しかったので人々は安心し喜んだ。 
 劉邦が都に入って2ヶ月ほど遅れて、項羽はようやく函谷関に達した。関の門は固く閉ざされて おり、劉邦はすでに都に入ったことを聞き大いに怒り、函谷関を破って関中に入り、鴻門に陣をひいた。 項羽の部下の范増が劉邦を殺すように進言した。そこで鴻門で宴会を開いて暗殺する計画が立てられた。 劉邦は百余騎を従えて鴻門に入り、項羽に敵対する気持ちのないことを釈した。その後酒宴が開かれるが、 このときの様子を実にリアルに書いているのが前述した司馬遷の「史記」の「鴻門の会」である。 なかでも樊かい(はんかい)の行動を描いた場面は圧巻である。結局、劉邦は途中で退席して逃げ帰り、 命拾いをした。 
 項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房宮を焼き払った。阿房宮は3か月に わたって燃え続けたと言われている。さらにの財宝を略奪して、東に帰り、彭城(後の徐州)を 都とし、西の王となった。 
 先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万人に対して10万人では如何とも しがたく、項羽が一時覇権を握り、劉邦は巴(四川省)と中の地を与えられ、中王に封じられた。 
 覇権を握った項羽であったが、狭量な性格が災いし、評判は悪く、不人気であった。彼に対する 不満は日に日に高まり、その一方で度量の広い劉邦の人気はますます高まった。後に劉邦の危機を 救い、項羽との戦いに大活躍する有名な信もこの時期に項羽を見限り、劉邦陣営に加わっている。 
 劉邦が中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こった。その機をとらえて劉邦も挙兵した。 関中に出撃し、函谷関をえて、半年で洛陽に達して、項羽が東方に遠征しているすきをねらって 本拠地の彭城を突いた。しかし、項羽はすぐさま取って返し、劉邦軍を破った。以後2年あまりの 戦いでは項羽は常に優勢を保ったが、項羽の優勢をみて項羽側についたを次々に破り、 劉邦の危機を救ったのが信であった。 
 前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に追い詰めて取り囲んだ。項羽軍10万人、 劉邦軍30万人、主力は信が率いた。以下、「史記」の「四面歌」の名場面になる。「四面歌」 はりがすべて敵で孤立無援の状態を表す言葉としてよく使われる。垓下を取り囲んだ劉邦軍から 聞こえてくるのはの歌ばかりだった、項羽は驚き、はすでにの地をすべて取ったのか、何と 人の多いことよといい、帳のなかで酒を飲み、虞美人(項羽の寵姫)に舞うよう命じて、歌を 読んだ。「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい、愛馬の名)逝(ゆ)かず、 騅の逝かざるは奈何(いかん)すべき、虞や、虞やなんじを奈何せん」。ちなみに虞美人草はひなげしである。 
 項羽は夜陰にまぎれて脱出した。800余騎が従った。ついに長江の北の烏口に達した。わずか 26騎になっていた。烏口の亭長が江東(長江下流の南)に逃げて再起をはかれと勧めたのに対し、 「かって自分は江東の子弟8000人とともに渡った。今は一人も帰る者がいない、たとえ江東の 父兄が自分を憐んで王にしてくれても、自分は何の面目あって見(まみ)えん」と言って、追っ手の 中に討ち入り、最後は自分で首を切って死んだ。 
 劉邦は、中国を再び統一し、前202年に前漢)王朝を開き、のちに長安(現在の西安)を 都とした。中国史上、農民出身で皇帝になったのは、劉邦との太祖(朱璋)の二人だけである。 
 

 

 
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6 の内政と外征
 
6 の内政と外征
 項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(位202~前195)劉邦は、最初は洛陽を、のちに長安を都として前202年に前漢王朝(前202~後8)を開いた。高祖はの制度・法律をほとんどそのまま継承したが、が郡県制をはじめとする急激な改革によって反感を招き、短期間で滅亡したことを反省し、漸進主義をとった。 
 劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用した。すなわち直轄地(都の長安辺をはじめ西部に多い)には郡県制をしいて、中央から官吏を派遣して統治させ、遠隔地(東部・南部に多い)には王国・侯国をつくり、一族や功臣を封じた。劉氏一族以外で王になった者は信など7人、列侯となった者は百余人を数えた。しかし、皇帝支配が安定してくると、高祖は一族以外の異姓の王・侯をほとんど除き、そのあとに同姓(劉氏)の者を配置していった。信も反逆の疑いをかけられ、王から侯に下げられ、後に捕殺された(前196)。 
 当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈奴の君主の称号、位前209頃~前174)のもとで大帝国となり、かつて始皇帝の時に奪われたオルドス地方を奪回し、の北辺にしばしば侵入を繰り返していた。 
 中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて匈奴討伐に向かった(前200)。匈奴はほとんど抵抗せずに退却していった。高祖は得意になり平城(現在の大同付近)の白登山まで進撃した。しかし、翌朝目を覚ました高祖は仰天した。りは冒頓単于自ら率いた40万騎の匈奴軍によって包囲されていた。この包囲は7日間に及び、逃れられないことを知った高祖は莫大な贈り物を単于の妃に送り、単于に兵を引いてもらうように頼み込み、やっと危機から脱出し、命からがらに逃げ帰った。そして以後必ずの王室の娘を公主として単于に送り、毎年莫大な絹・米・酒・食糧を送ることを約束する和議を結んだ(前198)。これ以後高祖は対外的に消極策を取り、国力の充実に努め、王朝の基礎を築き、前195年に亡くなった。 
 高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(位195~188)が即位し、呂后は太后として政治の実権を握った。かって高祖は気の弱い恵帝を嫌い、晩年寵愛した戚夫人の子を太子に立てようとしたために、呂后は我が子の太子の地位を守るために努力し、戚夫人とその子を憎んだ。高祖が死ぬと、戚夫人を捕らえ後宮の獄に監禁し、子の王を毒殺し、戚夫人に対しては、手足を切り、目をくりぬき、耳を焼いた。声の出なくなる薬を飲ませ、厠(かわや)に投げ込み、人豚と名づけた。数日後、恵帝にそれを見せた、ショックを受けた恵帝は以後酒におぼれ、淫楽にふけり、政務を見ず、ついに病床につき、23歳で亡くなった。 
 恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後宮の女官の子を立てた。少帝恭(位前184~180)である。少帝恭は4年後に殺害され、かわってやはり女官の子であった少帝弘(位前180)が立てられた。 
 呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、劉氏の一族は次々に殺され、 いまや呂氏の勢力は劉氏を圧倒するようになった。その呂后も前180年についに死んだ。 劉氏の者達は、この機会をとらえ、高祖の功臣であった平や勃らと謀り、呂氏一族を全滅させ、劉邦の次男の代王劉恒を立てた。すなわち5代皇帝の文帝(位前180~前157)である。 
 文帝は在位23年、仁政にはげみ、連座制など苛酷な刑罰を廃止した。文帝は前漢の皇帝のなかで理想的な皇帝とされている。文帝の死後、景帝(位前157~前141)が32歳で父のあとを継いだ。この景帝の時代に起きた最大の出来事が七国の乱である。 
 高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯としたが、諸王の勢力は強大で、この頃王国は16を数えていた。特に広大な領土を有するなどは中央に反抗的であった。そこで景帝は諸王・諸侯の勢力を弱めるためその領土を削減する政策をとった。 
 前154年、王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩の産地)を削減することが決まった。王は、王(高祖の兄弟の孫)・王(高祖の孫)ほか4王に呼びかけて七国が連合して反乱を起こした。これが七国の乱である。主力の軍は20万で、その勢力はを脅かした。七国軍は長安に攻め込もうとしたが、王に西進をくい止められ、亜夫(勃の子)は軍とその本国との連絡を断つ作戦に出た。糧道を断たれた反乱軍はやむなく退却しようとしたが追撃され、王は途中で殺され、七国の連合はくずれ、さしもの大乱も3ヶ月で鎮圧された。乱後、有力諸王が殺されたり自殺したりした結果、諸王・諸侯の領土は細分・削減され、その勢力は著しく弱体化し、逆に中央の皇帝の権力は強大となり、中央集権化が進展していくこととなった。 
 景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の充実に努め、次の武帝の時代に現出する前漢の全盛期の基礎を築いた。 
 景帝の死後、九男の劉徹が16歳で即位した。中国史上有名な、第7代皇帝武帝(位前141~前87)である。九男の彼が即位した背景には女の争いがあったようだがここでは省略する。 
 武帝の時代には、七国の乱の平定後、諸王・諸侯の領土の削減が図られた結果、その勢力は完全に抑えられ、初以来の郡国制は実質的には郡県制と変わらなくなり、中央集権化が進み、は最盛期を迎えた。 
 武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じた。この時推薦を受けた者のなかに儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ、前176頃~前104頃)がいた。彼は儒学による思想統一を進言して採用され、前136年には五経博士が置かれた。五経博士は五経(当時の儒学で重んじられた古典である「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」をさす)を教授し、文教政策を司るために置かれた学官である。以後礼と徳を重視する儒学は統一国家を支える思想となり、官学となった。 
 官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義などの徳のある者、有能な人物を地方の長官に推薦させて任用する「郷挙里選」と呼ばれる制度を始めた。この官吏任用制は次の後漢時代にも行われたが、推薦されたのは地方の豪族(大土地所有者)の子弟がほとんどを占めた。 
 武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、の領土を拡大し、中国始まって以来の大帝国を建設したことにある。高祖以来、対外的には消極策を採り、内政を重視するなかで、七国の乱はあったが、長らく太平が続いた結果、の国力は充実していた。この力を対外展・領土拡大に向けたのが武帝であった。 
 武帝がまず取りかかったのが、北方から中国を脅かしていた匈奴に対する攻撃である。匈奴は前述した冒頓単于(?~前174)が父を殺して2代目の単于となり、諸部族を統一し、さらに西は月氏、東は東胡を打ち破って遊牧民族最初の大国家を建設し、匈奴の全盛期を築いた。前200年には高祖を白登山に包囲して敗走させた。冒頓単于の後を老上単于(前174~前160)が、その後を軍臣単于(前160~前126)が継いだ。武帝が即位した頃の単于が軍臣単于である。 
 武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙古高原の西半を支配する大勢力であったが、冒頓単于に敗れて、主力は甘粛方面から追い出されて西遷し、天山山脈の北に移動し、その後さらに匈奴の攻撃を受けて西遷し、アフガニスタンの北部にあったバクトリア王国を倒して、その地に大月氏国を建てた)が匈奴に敗れ、匈奴は月氏の王の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んでいる。月氏はそのことを怨み仇としている。しかし同盟して匈奴を討とうとする国がない」ということを聞き、月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃できると考え、月氏へ使いする者を募った。これに応募してきたのが張騫であった。 
 張騫(?~前114)は武帝からつけられた100余人の従者を連れて、前139年頃に長安を出した。ところが張騫一行は河西(甘粛省の黄河以西の地)で匈奴に捕まり、そのまま拘留された。その間匈奴の妻をあてがわれ、子供まで産まれた。しかし、彼は武帝の命令を忘れてしまったわけではなく、すっかり匈奴の人になった思わせて油断させ、監視がゆるんだすきを見て、10余年後に妻・仲間とともに脱出した。西に走ること十数日で大宛(現在のウズベキスタン共和国のフェルガナ)にたどり着いた。ところが月氏はすでに そこからさらに西に移動していた。フェルガナ国王が付けてくれた道案内によってやっとソグディアナ地方(現在のウズベキスタン共和国のサマルカンド付近)に移住していた大月氏国にたどり着いた。張騫はその地に1年あまり留まって大月氏にとの同盟を結ぶことを説得したが、肥沃な土地に安住していた大月氏には遠いと同盟して匈奴と戦う気持ちは全くなく、説得は失敗に終わった。目的を果たせぬままに帰国の途についた張騫はまたも匈奴に捕まり、拘留された。しかし、軍臣単于の死による匈奴の内紛にまぎれてかろうじて脱出し、13年ぶりに長安に帰ってきた。出時の100余人の一行は、張騫と匈奴の妻と従者の3人になっていたと言われている。 
 張騫の大旅行の目的は達されなかったが、彼がもたらした貴重な情報によって西域(当時の中国では、中央アジア及びそれ以西の地をこう呼んだ)の事情が分かるようになり、後にシルク・ロードが開かれるきっかけとなった。 
 武帝は、張騫の帰国前の前129年に青(?~前106)に1万騎の兵を援けて出撃させた。 青は武帝の2番目の皇后氏の弟で才能に恵まれ武帝の寵愛を受けた。彼は長城をえて甘粛省に攻め込み匈奴を破った。前127年にはオルドス地方を奪回し、前119年までに7度遠征軍を率いて匈奴と戦い、多くの軍功をあげた。 
 青と並んで匈奴征討に活躍したのが、彼の甥の霍去病(かくきょへい、前140~前117)である。霍去病は18歳で武帝に仕え、叔父の青の匈奴征討に従って軍功をあげた。前119年には青とともにそれぞれ5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い、約7万の匈奴兵を斬殺した。敗れた匈奴は遠く漠北に去り、以後20年の間、匈奴の大規模な衝突はなかった。しかし霍去病は前117年にわずか24歳で病死した。 
 中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味、当時の中国の馬に比べて、背が高く大型の馬で早く走った)の産地として知られていた。張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得するために李広利(?~前90)に大宛遠征を行わせた。李広利は、武帝が寵愛した李夫人の兄で、武帝に重用された。李広利は前104年の遠征には失敗したが、前102年の遠征には功し、目的の多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせた。以後、中国の名産の絹と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク=ロードを利用して盛んに行われることになる。 
 李広利は、前99年・前97年に匈奴遠征を行ったが失敗に終わり、前90年の第3回遠征の時に外モンゴルまで攻め入ったが敗北し、匈奴に捕えられて殺された。前99年の遠征の際、李陵は8日間にわたる単于の本隊との戦いで部下のほとんどを失い、匈奴に降った。この李陵の罪が論議されたとき、李陵を弁護して武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)を受け、出獄後執筆に専念し、名著「史記」を著したのが司馬遷(前145頃~前86頃)である。李陵については、中島敦の名作「李陵」をぜひ読んでほしい。 
 前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやったは以後南方と東方に領土を拡大して行く。 
 南方では、末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)であった陀(ちょうだ)が南(前203~前111)を建国し、華南からヴェトナム北部を領有し、族を支配していた。南に服属していたが、事実上独立国での入朝の命令に従わなかった。武帝は南の内紛に乗じて前111年に南を滅ぼし、9郡を設置した。これにより、の領土はヴェトナム北部にまで及ぶようになった。 
 東方の朝鮮では氏朝鮮(前190頃~前108)が続いていた。この国は初の王の臣であった満が北朝鮮に亡命し、箕子朝鮮の王の信任を受けていたが、前190年頃に国を奪って建てた国である。満を東太守の外臣として辺の諸部族を服属させた。 
 氏朝鮮も入朝しなかったので、前109に大軍を陸海路から送り込み、苦戦したが、前108年に氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置した。このうち楽浪郡は中国文化が東方へ伝播する拠点として栄え、ここを経由して中国文化が古代の日本に入ってきた。 
 このようにしては東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央アジア、北は長城の北にまで及ぶ中国始まって以来の大帝国となった。しかし、この展をもたらしたたび重なる対外遠征により、豊かであった国の財政も苦しくなった。この財政難を解決するために武帝は様々な政策を行った。 
 前119年には、塩と鉄を専売とした(後に酒も専売となる)。同年、「五銖銭」(銖は重さの単位)を鋳造させ、貨幣の私鋳と物価高騰を防ごうとした。 
 前115年には、均輸法が布された。均輸法は、均輸官を郡国におき、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して物価の平均を図る政策で、物価調節の名の下に国庫の収入増をねらった政策である。前110年には平準法を実施した。平準法は、物資が余り価格が下がったときに政府が購入して貯蔵しておき、物価が不足し価格が高騰したときに放出して、物価の維持を図るものだが、これも物価調節の名の下に国庫の収入増を図った政策であった。さらに売位・売官まで行ったので社会不安が増大していった。 
 武帝の死後、昭帝(位前87~前74)が8歳で即位し、若くして亡くなった霍去病の弟の霍光が政敵を倒し、摂政となり独裁権を握った。昭帝は在位13年で死去し、子がなかったので甥にあたる廃帝が跡を継いだがわずか27日で廃位され、武帝の曾孫が宣帝(10代、位前74~前49)として即位した。宣帝は18歳で即位し、43歳で亡くなるまで25年間在位した。宣宗は賢で民間の事情にも通じていて人望も高かった。 
 当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立った。これを統一したのが14代呼邪(こかんや)単于である。やがて兄も単于を称したため、兄と匈奴を東西に二分した(前54)。のち兄と戦って敗れた呼邪単于は南下し、宣帝に拝謁して援助を求めた(前51)。 
 2年後に宣帝は亡くなり、帝(位前49~前33)が即位した。東匈奴の呼邪単于は内モンゴルでに服属していたが、と東匈奴は同盟して西匈奴を攻めて滅ぼした(前36)。喜んだ呼邪単于は前33年にも来朝し公主を賜り、と姻戚になりたいと請うた。この時、帝が匈奴との和親を保つために呼邪単于に与えたのが王昭君である。 
 帝の頃、後宮には多くの宮女がいて、皇帝は全ての女を見ることが出来ないので、画工に宮女の姿を描かせ、それを見て美しい女を召した。王昭君は絶世の美女であったが、画工に賄賂を送らなかったので醜く描かれ、帝は匈奴に与える女に王昭君を選んだ。別れに際して現れた王昭君を見て、帝は驚き後悔したと伝えられている。王昭君は泣く泣く匈奴に嫁しその地で亡くなった。この悲話は後に多くの文学作品に取り上げられたが、特に代に書かれた戯曲(曲)の「宮秋」は有名である。 
 では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用され、実権を持つようになった。それに伴い、皇帝に近侍する者が政治の実権を持つようになった。その代表が外戚と宦官である。特に年少の皇帝が即位したときや皇帝が政治に関心を持たないときなどに、そのことが顕著となる。 
 帝のあとの帝(12代、位前33~前7)が治世の後半に女色におぼれた頃から、帝の后(帝の生母)の王氏一族が外戚として権勢を持つようになり、王氏一族の10人が諸侯に封じられた。 
 王莽(おうもう、前45~後23)は、父が早く死んだので、外戚の王氏のなかでは最初は不遇であったが、その間に儒学を学び、後に実力が認められて高官となり、王氏を代表する人物になった。 
 王莽は、帝の次の哀帝が在位6年で死ぬと、9歳の平帝(前1~後5)を立てたが、後に毒殺し、わずか2歳の孺子嬰を立てて摂政となり、事実上実権を握り、後8年に天命が下ったと称して、孺子嬰を廃して自ら皇帝の位につき、国号を「」と称した。ここに15代、約200年間続いた劉邦以来の前漢(前202~後8)はついに滅びた。 
 

 

 
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7 後漢の再統一
 
7 後漢の再統一
 王莽(前45~後23、位後8~23)は、いわゆる「禅譲」の形をとって皇帝の位につき、国号を「」と称した。 
 王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式がある。「禅譲」は孟子の「易姓革命」説による有徳者に位を譲る、平和的な政権の移譲の形式を言い、これに対して「放伐」は武力による政権奪取の形式を言う。今までの中国史での政権交代は「放伐」で、「禅譲」の形式を用いたのは王莽が最初であった。 
 王莽は、の政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行った。まず土地制度については天下の土地をすべて「王田」とし、「奴婢(ぬひ)」(奴隷)を「私属」と改め、その売買を禁止し、一定以上の土地を持っているは余分の土地を分け与えよと命じた。 
 前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化していた。豪族とは広大な土地と多くの奴婢・農民を支配下におき、自分の土地を守るために私兵を所有した有力者で、彼らは官職を独占し、経済的・社会的・軍事的な有力者となり、地方の政治の実権を握るようになった。 
 豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土地を離れて流民となり、また身を売って奴婢となった。王莽の改革は、このような現状を改めようとしたものであったが理想的にすぎ、豪族の強い反にあった。 
 また貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を行したので、物価の変動が著しく経済は大混乱をきたした。 
 さらに儒教思想により、辺異民族の「王」の称号を奪い、すべて「侯」に改めたので、各地の諸部族が反乱を起こし、王莽は、匈奴に対しては30万、南方に対して20万の大軍を送ったが戦果はあがらず、軍事費は増大し、農民の負担を重くし、各地で農民の暴動がおこった。 
 18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及んだ。反乱軍は眉を赤く染めて目印としたので、この農民反乱は「赤眉の乱」(18~27)と呼ばれた。その頃、南方でも「緑林軍」と称する農民反乱が起こった。 
 劉秀(前6~後57)は、前漢の6代皇帝景帝の6代目の子孫で、一族は前40年頃に南陽郡(湖北省)に移封され、その地で豪族化していた。赤眉の乱が起きると、劉秀も南陽で挙兵し、同族の劉玄を擁立した。王莽の大軍を破り(前23)、河北に進出した。 
 前23年に緑林軍は長安に入り、王莽を殺した。「」はわずか15年で滅亡した。 
 前25年には赤眉軍が長安に入り、劉玄を殺し、掠奪と暴行を繰り返し、人心を失うなかで、河北の平定にあたっていた劉秀は人望を集め、劉玄が殺されると、豪族の支持を得て、洛陽で皇帝の位についてを復活した。これが後漢(25~220)で、劉秀は後漢の初代皇帝となった。すなわち光武帝(位25~57)である。光武帝は、その後赤眉の乱を討ち(27)、各地に割拠した群雄を破って、全土を統一した(36)。 
 統一後、光武帝はヴェトナムに出兵し、徴(チュン)姉妹の乱(40~43)を平定し、北ヴェトナムを制圧し、またこの頃、匈奴が南北に分裂(48)したのに乗じて、南匈奴を服属させた(49)が、その後は対外的には消極策をとった。 
 内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出来るだけ避ける政策をとった。後漢の官僚や軍人の大部分は豪族出身者で占められていて、後漢は豪族の連合政権という性格が強かった。 
 光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出した。また儒学を復興・奨励したので、儒教の道徳思想が一般にゆきわたった。 
 光武帝は在位33年、57年に63歳で亡くなり、帝(位57~75)が即位した。の奴国王が朝貢し、委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を授かったのはこの年(57)のことである。この印は江戸時代に博多沖の志賀島で見された(1784)。   
 帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、帝は従来の対外消極策から積極策に転じた。 
 73年、竇固(とうこ)らが大いに北匈奴を破った。この匈奴討伐に従軍して軍功をあげたのが班超(32~102)である。彼は同年西域招撫の任を受けて西域に赴いた。 
 班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(西域統治機関である西域都護府の長官)に任じられ(91)、パミール高原の東西にある50余ヶ国を服属させ、後漢の勢力を西域に及ぼした。102年に老齢のために帰還を許され、洛陽に帰ったが1ヶ月後に亡くなった。すでに4代和帝の時代になっていた。 
 班超は、97年に部下の甘英を大国(ローマ帝国のこと)に派遣したが、甘英は安息(パルティア)を経て条支国(シリア)に達したが、大海(地中海説とペルシア湾説の両方がある)の航海困難を聞き、引き返したと記録にある。 
 帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書にはあるが、最近の研究では前2年頃に伝来したことになっている。 
 帝の次の章帝(位75~88)までは、外戚が遠ざけられていたが、第4代の和帝(位88~105)が10歳で即位したため、竇太后や外戚の竇憲(とうけん)が実権を握るようになった。竇憲は89年に北匈奴を討って大功を立てその専横は目に余るようになった。和帝は宦官と結んで 竇氏一族を滅ぼし(92)、親政を行った。 
 章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大し、対外的には後漢の勢威が最もふるった時期であったが、国内では以後幼少皇帝が次ぎ、外戚と宦官の対立・専横がはなはだしくなり、政治は乱れ、後漢は次第に衰退して行くことになる。 
 外戚は、ふつう母方の親戚をいうが、今までに出てきた外戚は皇后の一族の意味で使われている。多くの場合、皇帝が亡くなり、若い(幼い)子が皇帝になった時、皇后の父あるいは兄弟(皇帝から見て、祖父・伯父・叔父)がその地位を利用して実権を握るケースが以後ますますひどくなっていく。 
 宦官は後宮に仕える去勢された男子のこと。古代より西アジア・インドの後宮には多くの宦官がいた。中国でも古くは宮刑(去勢される刑)に処せられた罪人や異民族の捕虜が宦官として使われた。後に宦官が皇帝の身辺にいて、権力を握るようになると、自ら志願して手術を受けて宦官となる者も出てくる。中国史上では特に後漢でその弊害が激しかった。古代日本は中国から様々な文化を取り入れたが、幸いにもこの宦官の制度だけは取り入れられなかった。 
 後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が次いだ。5代殤帝(生後100余日)、6代安帝(13歳)、8代順帝(11歳)、9代冲帝(2歳)、10代質帝(8歳)、11代桓帝(15歳)、 12代霊帝(12歳)、14代献帝(9歳)という具合であった。 
 皇帝の交替の度ごとに、外戚が権勢をふるい、外戚が排除されると宦官が権力を握った。 この間、安帝の即位の翌年に西域都護は廃止された(107)。後漢の勢力はもはや西域には及ばなくなった。 
 桓帝(位146~167)の治世の終わり頃の166年に、大国王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者と称する者が、日南(ヴェトナム中部)に到着し、入貢したことが歴史書に書かれている。 
 8代順帝の皇后の(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間にわたって権力を握ってきたが、桓帝の時に一族が滅ぼされ(159)、以後宦官の勢力が強まり、朝廷は宦官と宦官の推薦で役人となった者によって占められるようになった。この宦官の横暴に対して儒教学派の廉な官僚たち(党人)が朝廷で宦官を攻撃した。しかし、逆に宦官によって逮捕され、出身地での終身禁錮を申し渡された(166)。この出来事を「党錮(とうこ)の禁」と呼ぶ。 
 第2次「党錮の禁」は霊帝の時代の169年に起きた。宦官の皆殺しの計画を知った宦官は軍隊を動かして機先を制して首謀者の蕃(ちんばん)を襲って殺し、竇武(とうぶ)を自殺に追い込み、さらに党人100余名を殺し、600~700名を禁錮とし、党人を支持した太学の書生(学生)1000人以上を逮捕・投獄した。 
 二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官全盛の時代となった。 
 宦官に操られた霊帝(167~189)の治世の184年に、ついに大農民反乱が起きた。「黄巾の乱」である。 
 有名な「三国志演義」は最初の方で「この度の乱の源をただせば、およそ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は正義の士を弾圧し、宦官を重用した。桓帝崩じ、霊帝即位するや、大将軍竇武・太傳蕃両名がともに輔佐に当った。折しも宦官節らが権力を壟断しており、竇武・蕃これを誅せんと謀ったが、事破れて却って殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。」と「党錮の禁」についてふれ、ついで張角が黄巾の乱をおこし、その討伐に劉備・関羽・張飛が立ち上がる「桃園の義」へと進んでいく。 
 政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民にかかってくる。多くの農民が土地を捨てて逃亡し、流民となっていった。彼らをとらえたのが「太平道」である。 
 黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の「太平道」を組織した。張角は、神仙説を受けて、呪文で病人に懺悔させ、護符を沈めた水を飲ませて、病気を治すと称して信者を集めていった。太平道は生活に苦しむ河北・山東の農民の間にたちまち広まり、10年余りで数十万人の信者を集めた。 
 184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵した。彼は自ら天公将軍と称し、信者を36の軍隊組織に編し、目印に黄色の布(巾)を着けさせたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれた。張角自身はこの年に病死し、乱の中心勢力は同年末までに後漢に協力した地方豪族によって鎮圧されたが、その残党や呼応した反乱が各地で起こり、討伐に従事した諸将が各地に割拠し、後漢は崩壊に向かった。 
 操の長子、丕が王になると、後漢最後の皇帝献帝(14代、位189~220)は丕に禅譲し、丕は王朝を樹立し、14代約200年間続いた後漢は、220年についに滅亡した。   
 

 

 
6.

4 中国の古典文
 
8 の社会と文化
 戦国時代頃から始まった大土地所有制は代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢(ぬひ、奴隷、奴は男奴隷・婢は女奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族があらわれた。代の農民の多くは彼らの支配下に入り、半奴隷的な状態となった。 
 前漢の末、哀帝の時(前7)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策がつくられたが、反対が強く、実施されなかった。 
 当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推薦し官吏とする方法)と呼ばれたが、「郷挙里選」で推薦されたのは、ほとんど地方豪族の子弟であった。 
 こうして豪族は経済的・社会的だけでなく、政治的にも官職を独占して権力を握るようになった。特に後漢は地方豪族が劉秀を押し立ててつくった連合政権という性格が強かった。 
 代の文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化・歴史書の編纂・製紙法のである。 
 代の初めには、法家・道家思想が支配的であったが、前漢の武帝は、董仲舒の献策をいれ儒学を官学とし、当時儒学の重要な古典とされた五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」(らいき))を教え、文教をつかさどるために五経博士を置いた。 
 儒学が官学とされ、官吏になるためには儒学の教養が必要とされたので代を通して儒学が盛んであった。学者達は儒学の古典(特に五経)の復旧と訓詁学(古典の字句解釈・注釈を主とする学)に努めた。後漢の馬融(79~166)や玄(じょうげん、127~200)はその代表的な学者として知られている。 
 中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれてきた。そのなかで「正史」と呼ばれる歴史書は、中国の古代からまでの各時代について正統と認められてきた紀伝体の歴史書で25種あり、「二十五史」と呼ばれている。中国では、一般的に前の王朝の歴史を次の王朝が書いた。以後は勅命で前王朝の正史が編纂されるようになった。 
 正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・・と続くが、このうち代に書かれたのは「史記」と「漢書」である。 
 「史記」の著者は司馬遷(前145頃~前86頃)である。陜西省西安の人、代々の史官の家に生まれ、10歳頃から古典を読み、20歳で修史の記録収集のため各地を旅行し、23歳頃武帝に仕えた。父の遺志に従って太史令(天文・暦学・修史を扱う役所の長官)となった(前108)。しかし、前述した李陵を弁護して、武帝の怒りにふれて死刑判決を受けたが(前99)、宮刑(去勢されて宦官になる刑)によって死を免れ、出獄後修史に励み、「史記」130巻を完させた(前91)。 
 「史記」は、五帝から武帝の時代までを、「本紀」、「表」、「書」、「世家」、「列伝」に分けて書いている。この記述の形式を「紀伝体」といい、以後の「正史」はこの形式で書かれた。 
 「本紀」は、王・皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたもので、「五帝本紀」、「本紀」、「本紀」、「本紀」、「本紀」、「始皇本紀」、「項羽本紀」、「高祖本紀」、「呂后本紀」、「孝文本紀」、「孝景本紀」、「孝武本紀」の12からっている。項羽は皇帝にはならなかったが、司馬遷はあえて本紀に入れている、ここに司馬遷の項羽に対する評価が見える。2代皇帝の恵帝でなく実権を握っていた呂后本紀を入れ、以後の文帝・景帝・武帝と続いている。 
 「表」は系図・年表で10巻からり、「書」は、制度・音楽・兵法・暦・天文・治水土木技術・貨幣を主とする経済史などが8巻にまとめられている。「世家(せいか)」は、列国や諸侯の歴史を30巻にまとめたものであり、「列伝」は重要人物の伝記で70巻からっている。「史記」のなかでも特に面白いのが「列伝」である。  
 「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国の歴史の父」と呼ばれる。 
 班固(32~92)は、陜西省出身で、先祖はの名族、司馬遷と並ぶ後漢の有名な歴史家であり、西域経営に活躍した班超の兄である。父の遺志(司馬遷の「史記」に続く歴史書の編纂)を継いで、20余年の歳月をかけて「漢書」(かんじょ)120巻を著したが、獄死したため妹が補って完させた。班固は和帝の時代に行われた竇憲(とうけん)の匈奴征伐に従軍し(89)、後に竇憲以下、外戚の竇氏が滅ぼされるなかで、連座して捕らえられて獄死した。 
 「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡までの前漢一代の歴史のみを扱っているが、1つの王朝の歴史だけを書くという記述形態が以後の正史に受け継がれることになる。 
 この「漢書」の地理志にはじめてのことが書かれている。「夫(そ)れ楽浪海中に人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以って(定期的に)来たり献見すと云う」。これが日本に関する最古の記録である。 
 倫(さいりん、?~121頃)は、紙の者として知られている。彼は帝の時、宦官として宮廷に入り、宮中の諸道具製作の長官となった。樹皮・麻布・漁網・ぼろきれなどで紙をつくり、105年に和帝に献上した。これが紙の始まりとされてきた。それ以前にも原始的な紙が造られていたらしいが、筆記用の紙は倫に始まる。従って最近の教科書には、倫は製紙法の改良者として記載されている。 
 それまでは書写の材料としては木簡・竹簡が使われていた。薄く削った木片や竹片の表面を平らにし、両側に小さな穴をあけ、ひもで繋ぎ合わせ、保存するときは巻いて束にした。そこから巻1とか1巻という言葉が生まれてきた。 
 書体としては、隷書が代を通じて広く使われたが、後漢末に隷書から楷書が作られて一般化していった。    
 

 

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7.

第4章 内陸アジアの変遷(省略)