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中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮

中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮
一一日本の問題と関連させて一一


はじめに
本稿は,中国,台湾,国各歴史教科書に記載された国・朝鮮近現代史を中心に,
日本を巡る関係を意識しながらとりあげ,考察するものである。
第一に,中国では
国・朝鮮史世界史の方でとりあげられる。日本の侵略に対し
て中国は激しい抵抗により植民地にはされなかったとはいえ,ある部分を占領され,か
っ「満洲国 J ,臨時政府(北平,現在の北京) ,維政府(南京) ,さらに注精政権
(南京)など{鬼儲政権がつくられた。また,重慶爆撃,毒ガス戦などにより多くの被害
を受けた。このような中国が国・朝鮮史のいかなる史実に着目し
どのような視点か
らアプローチし,いかなる歴史的評価を与えているのか。
第二に,台湾の歴史教科書をとりあげる。国・朝鮮と同様に日本の植民地にされた
台湾が国・朝鮮史,そして国・朝鮮を植民地にした日本をどのように見ているの
か。植民地政策には共通性と差異があったと考えられるが
それにいかなる歴史的評価
を与えるのか。興味あるところであろう。なぜなら,その評価自体が台湾植民地化問題
と表裏一体の関係にあるからである。
第三に,国自体が自国史をどのように記載しているのか。『国の中学校歴史教科
書(中学校国定国史)
世界の教科書シリーズ 13-.n (三橋広夫訳,明石書店, 2005 年。
なお,本教科書は慮武絃政権時代に作された教科書)は高校ではなく,中学の教科書
をとりあげる。なぜなら高校の歴史教科書は時代別ではなく
政治・経済・社会・文化
などテーマ別にとりあげ,他国教科書との比較検討に適さないことによる。なお,日本
に関する記載と言うより,北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)評価問題を巡って動揺を
きたしているようにも見える。
本稿では,中国,台湾,国各歴史教科書の具体的内容について,日本の世界史・日
本史各教科書を念頭に置きながら,以下分析を加えていきたい。
(
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3人間文化第 26 号
一中国
1「高級中学教科書世界近代現代史』上冊(選択必修) ,人民教育出版社, 2
002
年(試験修訂本)。
第 4 章独占資本主義の形
第 2 節主な資本主義国家の帝国主義への移行
明治維後,
日本は資本主義経済の迅速な展のための条件を造りだし,産業革命を
開始した 。 1885 年前後,日本産業革命は高まりを示した 。 1894'"'-'95 年の「中日甲午戦
争 J <日戦争〉は日本経済の展に重要な影響を及ぼした (112 頁。以下,各教科書
の頁数) 。
戦争後,日本は朝鮮を統制したのみならず,中国に 2.3 億テールの白銀を強要し,
中国において資源の略奪商品ダンピング
歩,
および工場開設の特権を獲得し,さらに一
日本資本主義の展を促進した。 20 世紀初頭,
日本の産業革命は基本的に完
た 。 工業展過程において明治政府は重要な役割を果たした。政府保護下で日本は独占
組織を生み出した。そして,
19 世紀末から 20 世紀初頭,日本も帝国主義段階へ移行し
た 。 日本は多くの封建的残余を残しており,国内市場は狭く,資源は不足し,農業が落
後しているなどを原因として
日本帝国主義は経済的手段を通して,その他の帝国主義
国と競争する術はなかった。そこで多くは軍事手段を用いて植民地,市場,及び資源地
域を奪取しようとしたのである 。 そこで
ると考えられるので
濃厚な「封建的独占集団 J < 財閥を指してい
「封建的」とするより「資本主義的」とすべきではないか 〉

「軍閥集団 J (軍部)が結託し,侵略拡張政策を推し進めたのである 。 日本は「軍事封建
的な帝国主義」と称されよう
(112 頁) 。
日本の「天皇制政府」は極力軍国 主 義を展させ
中国征服を中心とする「大陸政
策」を制定し,朝鮮征服を中国征服の第一歩とした 。 早くも 1876 年,やっと資本主義
の道を歩み始めたばかりの日本は武力を以て朝鮮を脅迫し江華条約」を締結させ,
朝鮮に通商港を開放させ,
日本人にその地域で工商業を経営させた 。 また,
日本は朝鮮
に対して通商港における領事館設立の許可を迫り,領事裁判権を承認させた 。
これが,
朝鮮が資本主義国 家 と締結した最初の不平等条約である 。 それ以降,アメリカ,イギリ
ス,
ドイツ,ロシアなどとも類似の条約を締結した。
1894 年日本は「甲午戦争」を挑した 。 腐敗した清朝政府は敗北し,
日本は朝鮮支
配の力量を増強させた 。 1904 年日本は日露戦争を始めた 。 1905 年日本は日露戦争勝利
に乗じて,アメリカの支持の下,朝鮮を実質 的な植民地に変えた 。 1910 年日本は朝鮮
政府に迫り日合併条約 J (1 897 年朝鮮は国号を「大帝国」に改めた 〉 を締結さ
せ,正式に朝鮮を併呑した (112'"'-'113 頁) 。
【コメント】歴史的な流れを簡潔に 書 く 。 明治維後の日本資本主義化・産業革命
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)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
から論じ始め,特にそれに日戦争の勝利が重要な意味を持った。「日本は多くの
封建的残余を残しており,圏内市場は狭く,資源は不足し,農業が落後」などの原
因から軍事手段を用いて植民地,市場,及び資源地域を奪取しようとした」と
する。そのため中国征服の第 一 歩」として朝鮮を圧迫,結局のところ植民地
したというのである。明治維後おける資本主義化と「封建的残余」の問題,およ
び日本を「軍事封建的な帝国主義」との位置づけ
定義に関しては敏密な議論が必
要であろう。
アメリカの斡旋の下, 1905 年日露は「ポーツマス条約」を締結し, <ロシアの〉ツアー
リ政府は朝鮮が日本の勢力範囲になることを承認した。また
中国大連・長春の租借
権,長春から旅順間の鉄道,及びその支線の権利を日本に譲り渡すことに同意した。日
本はサハリン(樺太)とその付近の島艇を獲得した。
日露戦争〈終結〉後,
日本は武力で朝鮮を圧迫して条約を締結させ,
日本が朝鮮の外
交事務を監督し,軍隊派遣,朝鮮地方官員の指揮する権利を有すると規定した。 1905
年伊藤博文が朝鮮駐在の最初の日本統監に就任し
それ以降統監の権力は絶えず拡大
し,朝鮮の事実上の統治者となった (113 頁)。
なお,写真入りで「官営」の八幡製鉄所の説明が付されており,
í1897 年に日本創設
の大型冶企業」とし八幡製鉄所建造のある部分の資は,甲午戦争後の中国の賠
である。その使用する鉄鉱石は中国の大冶鉄廠に強制的に提供させたものである。
......その創設は近代日本の重工業の基礎を定めた」とする。
これには練習問題」もあり,1日本は強制的に門戸を開放させてから朝鮮併呑ま
での歴史的事実を通して,
日本が「大陸政策」の第一歩をいかに実現したかを説明しな
さい。2イギリスの 1840 年の中国侵略と,
比較しなさい (114 頁) ,
日本の 1876 年の朝鮮侵略の共通点と差異を
とある。
【コメント】日本は後進資本主義から帝国主義化への歩みを示し,朝鮮植民地化の
経緯が述べられる。特に日露戦争の日本勝利後に締結されたポーツマス条約,およ
び朝鮮植民地に果たしたアメリカの役割が論述される。なお,
八幡製鉄所が建設され
戦争の賠償
それが「近代日本の重工業の基礎になった」との評価は通
説ではあるが,異論なきところであろう。「練習問題」では,1「田中上奏文」を
偽書ではなく,
自明の理と見なしているようで,
日本の「大陸政策」に関しての質
問が用意されている。2イギリスのアヘン戦争による侵略と,
日本の 1876 年の朝
鮮侵略の共通点と差異に関して興味深い質問をしている。
第3節
アジアの反植民地化運動
日本が次第に朝鮮を併呑する過程に,朝鮮人民は継続して日本帝国主義に反対する闘
争を展開した。 1907 年に日本は朝鮮で強制的に軍隊を解散させられ,広範な愛国将兵
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5人間文化第 26 号
が奮起して反抗した。人民大衆の支持の下,武装闘争を展開し,全国〈朝鮮全土〉的な
義兵運動の高まりを形した。義兵運動は最後には失敗したけれども,朝鮮民族の解放
闘争史上,輝かしいー頁を刻んだ(1 21 頁)。
【コメント】このように
義兵闘争に極め て高い評価を与える 。
レジスタンスとい
う側面から高い評価を与えることに異論があるわけではない。ただし,両班との関
係,意義のみならず限界を具体的な事例をあげながら述べる必要があったのではな
いカユ。
2「高級中学教科書世界近代現代史』下冊(選択必修)
人民教育出版社, 2
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年(試験修訂本)。
第 I章 ロシア十月社会主義革命と民族解放運動の高まり
第2節 アジア・アフリカの民族解放運動
戦後 〈第一次世界大戦後〉 アジア・アフリカ民族運動の高まり
第一次世界大戦期間,帝国主義列強は欧州で互に戦うことに忙しく,
しばらくの
間,植民地・半植民地への統制を緩め,その地域に対する資本輸出と商品輸出を減少せ
ざるを得なかった。この時期
幾つかのアジア・アフリカ国家の民族資本はかなり
し,民族資本家階級とフ。 ロレタリア階級の力 量もそれに伴い増大 し
動にたな特色が現れた。各国の展が不均衡なことによって
型が生まれた。ロシア十月革命の影響下で
が設立され,
戦後の民族解放運
民族解放運動に多くの
中国などにはプロレタリア階級の革命政党
自らの国の特徴に適合する民族解放の道が模索され始めた。インド,
トル
コ,エジプトなどの国家くと植民地 7) では,フやルジ、ョ ワ民族主義政党,あるいは組織
が設立され,迅速に展し本国 J <自 国,地 7 ) の民族解放運動 を指導した 。第一
次世界大戦の終結後,帝国主義戦勝国はたに植民地を瓜分〈再分配〉し( 8 頁) ,さ
らに植民地・反植民地国家の人民と帝国主義の間の矛盾を激化させた。アジア・アフリ
カでは民族解放運動の高まりの局面が生まれた 。その 中で 影響がかなり大きなもの
に,中国の五四運動,インドの非暴力不服従運動,
トルコのケマル・パシャによるフゃル
ジョワ革命,エジプトのワフド運動,朝鮮の三一運動である( 9 頁)。
【コメント】民族資本家階級とフ。 ロレ タ リア階級の力量増大に伴い民族解放運動
たな特色が現れた」とする。アジア・アフリカにおける帝国主義との矛盾を指
摘し,中国の五・四運動をはじめ
インド
トルコ
エジプトなど世界史的な民族
解放の流れの中で押さえたのは評価できょう。ただし,それらが「非暴力」という
特質を有していたことは押さえていない。また
民族解放運動におけるブルジョワ
階級,フ。ロレタリア階級のそれぞれの役割の共通性と差異への言及が欲しいところ
であった。もちろん階級闘争と民族解放運動には矛盾もあるし
級闘争史観で割り切れないことも多い。
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民族解放運動を階中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
朝鮮“三一"運動
日本は朝鮮を併呑した後,そこで残虐な植民統治を実行した。朝鮮人民の反日運動は
絶えず高まった。 1919 年初頭,
日本により罷免され,長期に亘り幽閉されていた前朝
鮮国王が突然死亡した。一説によれば,日本人に毒を盛られたという。ニュースが伝わ
ると,民衆は激昂した。
3 月 1 日,幾千人の青年学生と,各地から集まってきた無数の
大衆は城〈京城〉で集会を開いた。会場では,朝鮮ブルジョワ階級の民族主義者が起
草した「独立宣言書」が読み上げられ,引き続き声高らかにデモを挙行した。数日後,
デモは武装起義に転換し,さらに全国的な反日民族の大起義に展した。闘争に参加し
た者は 200 万人を超えた。日本植民地当局は血なまぐさい鎮圧をおこなった。この年の
下半期,起義は基本的に終息した。この民族運動は朝鮮人民が独立を勝ちとるために犠
牲を恐れぬ闘争精神を示し,日本植民地統治に有力な打撃を加えた。
朝鮮人民の闘争は中国人民の支持と声援を受けた。三一運動の勃後,李大剣主宰の
青年』などの刊行物は数十編の報道や文章を掲載し
日本による朝鮮植民地統治を
糾弾し,朝鮮人民の反日闘争を支持した。さらに,ある人〈朝鮮儒林の郭鍾錫のこと
か〉はパリ講和会議に出席する中国代表に電報を打ち
朝鮮独立を承認する要求を提起
するように促した。 1919 年 4 月,朝鮮愛国者は中国の上海に大民国臨時政府を
させた。朝鮮人民の反日民族大起義の前後( 9 頁) ,朝鮮愛国志士は中国東北に来て根
拠地を建設し,長期の抗日武装闘争を展開した。中国人民と朝鮮人民は日本による侵略
反対闘争でさらに緊密に団結した
なお,
(9 "'-'10 頁)。
これには,朝鮮三一運動の「独立宣言書」が資料として付されている。
「我らはここに宣言する。我が朝鮮が独立国で,朝鮮人は自由民であることを,
これ
を以て世界万邦に告げ,人類平等の大義を鮮明にする。これを以て,子々孫々,永久に
民族自存の政権であることを告げる」。
【コメント】朝鮮三・一独立運動にかなりのスペースを割き,他の各国運動から独
立して論じているところに
同運動への重視が見てとれる。朝鮮人民の独立への闘
争精神日本植民地統治に有力な打撃」と極めて高い評価を与える。また,中国
歴史教科書であるので
三・ー独立運動と中国との関連を出したのは当然のこと
とはいえ,国際的反響という点からも重要な指摘といえよう。そして,
この運動を
契機に中朝両国人民の対日連帯が強化されたとする。「朝鮮フゃルジ、ョワ階級の民族
主義者」起草の「独立宣言書」とするのは違和感を禁じ得ない。果たして天道教・
リスト教・仏教の各宗教指導者を「民族主義者」といえても「ブルジョワ階級」
と称するのは難しいのではないか。
ー・
A
1:コ

普通高級中学『歴史』第 4 冊,龍騰文化, 2008 年(第 2 学年)使用開始。
(
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) 3
7人間文化第 26 号
第 3 章歴史の転換
第3節
アジアの反植民地化運動
「東アジア地区の反植民化運動」
20 世紀初頭,列強の東アジアでの植民活動は依然として活であったが,日本は地
理的位置からその侵略が生み出した衝撃は最も重大であった。日本は明治維後,すぐ
に「台湾攻略」と「朝鮮征服」が重要な課題となっていた。そこで,台湾・朝鮮問題が
1880 年から 1890 年代に至る日本と清朝の間の最も厳しい紛糾をもたらした (119 頁) 。
【コメント】台湾と朝鮮を絡めて論じている点に特色がある 。列強の中で 日本から
の侵略が,同じアジアで近隣ということで「衝撃は最も重大」とする。
(
1
) 朝鮮人民の闘争
日本の朝鮮内政への干渉は 19 世紀後半からすでに日増しに強まっていた。 1894 年一
部の朝鮮農民は「東学道」という壮大な勢力を有する民間宗教を信じていた。「東学道」
は宗教をもって名とし

リスト教に抵抗し
最終的には東洋のやり方で外から
の侵略に抵抗しようとするものに転換した。蜂起した農民は一方で腐敗した政府を攻撃
し賎民階級」の解放,不公平な租税制度の廃止を要求したが,同時に日本の侵入へ
の抵抗に尽力した。だが,複雑な国内外の情勢により改革を推進することは難しく,ま
た農民の武力では精鋭な日本軍に対抗する術なく
朝鮮の政局は中国・日本の勢力の消
長により急激に変化した (120 頁)。
【コメント】ここで押さえるべきことは ,東学党の乱を農民運動 とし朝鮮人民の
闘争」の一環としての位置づけを与えていることである。それは「腐敗した政府」
への攻撃と賎民階級」解放,不公平な租税制度廃止など先駆的,かっ開明的な
ものであったとする。そして
それは日本の侵略にも抵抗した。これらの指摘に異
論があるわけではないが,それを口実とする日本の侵略を増長させた面もあったの
ではないか。
(
2
) 朝鮮政府の改革
朝鮮政府は日戦争後,
自主的改革,例えば式学校の設立,軍隊強化,工商業の振
興などを試み,同時に自的に 1896 年 1 月 1 日には太陽暦を採用,日本に倣って「週」
を実施した。当時,日本以外にも,西欧勢力も絶えず侵入し,港,関税をコントロール
し,最恵国待遇,領事裁判権などの特権を有していた 。アメリカ
と,朝鮮の鉄道権を争奪 した 。朝鮮は 日本文化の侵入を拒絶し
フランスなども日本
一方で式学校では英
語,算数などの西欧教育課程を用い,他方で「国語 J ,国史」などの科目を重視し,学
生の民族精神を養った。その他国文字 J < 訓民正音・ハンクゃル〉を 「国文」とし,
字に取って変える努力もおこなわれ始めた (121 頁)。
【コメント】日戦争後
日本の脅威を感じ
また日・米・仏の鉄道利権争奪の対
象となっていたため朝鮮政府」は日本文化を拒絶しながら,西洋的教育や富国
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)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
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強兵の改革を推し進めたとする。
(
3
) 民間改革の訴え
民間でも「救亡図存」の信念に基づき, 一部の改革派の政府官員,士紳,あるいは知
識分子は自的に社会団体を創設し,刊行物を行し,私立学校などを運営し,思想の
啓蒙や民族精神の揚に尽力した。民間改革派もまた議会設置運動に尽力し,政府に財
政改革,参政権の付与を要求した 。朝鮮政府 は皇権の腕に 繋がれ
民間の要求を受け入
れる術がなかった。官側からの改革は終始小規模なもので,民衆の要求とはかけ離れて
いた (121 頁)。
【コメント】こうした政府の改革では不十分であったことから
民間改革要求が高
まった 。こうした民 間改革要求の意義を認めながらも,政府がその受け皿となり得
なかったと,その限界を指摘する。
(
4
) 日露戦争後の朝鮮情勢
1904 年日露戦争が勃し,朝鮮は人力,物資を調達し,日本を支援することを迫ら
れた。戦争に勝利した日本は朝鮮の内政,外交に対して全面的な統制が可能となった。
当時,日本が特に注意を払ったのは,すべての聞,聞社の検査であり,日本側の検
閲を経てニュースが削除された。その部分を口(フゃロックの中を空白)にすることで,
聞社の言論自由と民族精神への意思を伝えた (121 頁を要約)。
【コメント】筆者は検閲による弾圧の結果による削除と単純に考えてきたが,本教
科書では,口がむしろ聞社側の抵抗の現れと見なす。
(
5
) 日本の朝鮮併呑
朝鮮政府は 1910 年以前
日本に抵抗するため
各種の手段で国際的支援を求めよう
とした。だが,積極的に呼応してくれるところはなかった。民衆側は「罷工 J <ストラ
イキ>,
í 罷市 J <商店を聞かない〉をおこない,かつ武力闘争を実施したが,
日本によ
る大規模な軍事鎮圧を招いた。 1910 年日本は朝鮮最後の皇帝である隆照帝〈純宗李王
柘のこと。高宗と関妃の息子> (1907'"'-'10 年在位)を圧迫し,合併条約に調印させ,正
式に朝鮮を併呑した。総督府を最高統治機関とし,彪大な人数の警察,憲兵を通して朝
鮮人民を厳しく監視統制した。だが,朝鮮の愛国志士は依然継続して兵を起こし,日本
の侵略に反抗し,海外でも「復国 J <独立回復〉運動が組織された ( 122 頁) 。
【コメント】簡潔に韓国併合,およびその後も抵抗がおこなわれたことを明記する。
日本人がよく主張する「合法 J ,
í合意の上」などを真っ向から否定する内容を合ん
でいる。
(
6
) 三一運動
1919 年 3 月 1 日太上皇・高宗の出棺日
数十万人の大衆が「城 J <京城〉に集まっ
た。朝鮮愛国志士は国際的な民族自決の雰囲気に鼓舞され大衆的」な「非暴力」と
いう行動綱領を掲げて,朝鮮は日本から離脱して独立することを宣言した。これが著名
(
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9人間文化第 26 号
な「三一運動」である。この独立運動は速やかに朝鮮全半島に拡がった。朝鮮総督府は
鎮圧することを決定し
朝鮮人民にかなり多くの死傷者を出した。運動に参加した少な
くない者たちが国外に亡命した。ただし,
日本の植民地統治方式もこの運動により調整
されることになった (122 頁)。
【コメント】三・ー独立運動の「非暴力的」側面を指摘する。ただし,一部で暴動
化したところもあるので
「綱領として掲げ」たと筆を押さえているのかもしれな
い。鎮圧実態への言及はない。また,
三 ・ー独立運動の中国など海外への影響は何
故か捨象される 。
(
7
) 日本による「文化政治」推進
三一運動後,任の朝鮮総督斎藤実は「文化政治」の実施を宣言し,憲兵による監視
統制制度を取りやめ
部分的に言論・集会・結社の自由を許可し
朝鮮人の教育機会を
拡大し,さらに文官が総督に就任すると表明した (122 頁)。しかし文化政治」はた
だの形式だけで,その目的は懐柔し,朝鮮の親日派勢力を養し,植民地統治を強化す
ることにあった 。 実際,朝鮮総督府は警察権力を増強し治安維持法」により「植民
地統治に反対し,民族独立」を勝ちとろうとする,いかなる人物も処罰した。教育面で
は依然として差別がおこなわれ,かっ「国語J (日本語) ,修身,
日本歴史・地理が教え
られた。進学を望む絶対多数は実業教育を受けることができるだけで,下層技術人員と
なった。その他,言論・集会・結社の自由を開放と称しながら,同時に総督府は厳しい
聞検閲制度を実施し,かついかなる社会団体の集会も警察が列席して監視し,警察は
集会を中止させる命令ができた。並びに法令違反と見なされた者を逮捕した。なお,文
官総督は 1945 年日本植民地統治が終わるまで人としていなかった (123 頁)。
【コメント】朝鮮民衆の 三 ・ ー独立運動における抵抗の結果,
日本は「文化政治」
を採らざるを得なかった側面もあった。とはいえ,確かに限界があった。台湾の歴
史教科書は他国の教科書と異なり
その点を強調し
むしろ「文化政治」のマイナ
ス面にウエートが置かれる。「言論・集会・結社の自由」も名ばかりで,実際は監
視,弾圧が続いたとする。各国教科書とも「文化政治」の意義と限界を明確にする
必要があろう。
(
8
) 大衆文化の近代化
日本の植民地時期,多くの朝鮮民衆は激しく抵抗し,
日本の影響を排斥しようとした
が,多くの都市・社会・文化の変遷は重大である。 1920 年代
多くの近代的な事物が
京城など大都市に満ちあふれた。大衆文化が形され始め,映画,流行歌,パ←,ダン
ス場,余暇小説,漫画などはますます普及した。一部の女性は流行の短髪にし始め,社
会活動に参加し,自らの職業と収入を獲得した (123 頁)。
【コメント】知の事実とはいえ
これらの社会大衆文化に対する指摘は重要であ
る。日本植民地下でも京城などでは 一 時的に大衆文化の華が開いた。大正デモクラ
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)中・台・歴史教科書 の中の国・朝鮮(菊
池)
シーなどの影響も考えられ,また,ある意味で「徒花 J (あだばな)とはいえ ,

植民地の状況を複眼的に考察することが可能となる 。
(
9
) 社会主義の動向
資本主義の展に伴い,農民や都市の労働者は日増しに厳しい貧困,失業などの社会
問題に直面した 。 国際共産主義運動の影響下で日本共産党と朝鮮共産党が立し,双方
は連繋して日本と朝鮮の農民,労働者の苦しい環境を改善しようと尽力した。しかし,
日本政府による社会主義思想の拡張防止に対する措置は厳しく,
日本国内,あるいは朝
植民地における共産党活動は尽く鎮圧され,根を下ろすことができなかった(1 23
頁) 。
【コメント】台湾の歴史教科書なので,反共的色彩が強いのではないかと考えられ
がちであるが,植民地統治の社会経済矛盾の中で,
日本共産党,朝鮮共産党の創設
と活動,および社会主義思想を肯定的に評価しており,注目される 。
レジスタンス
の一環と見なしてのことであろう。ただし,非力で鎮圧されたとする。

国の中学校歴史教科書(中学校固定国史)一世界の教科書シリーズ 13 一.n ( 三
橋広夫訳,明石書店,
2005 年) 。
v
m 主権守護運動の展開
I
独立協会と大帝国
(
1
) r 乙未義兵が起きた理由は ?J
三国干渉でロシア勢力の優位が現れると,日本に対して不満を抱いていた高宗と明
皇后は,ロシア勢力を利用する政策をおし進めた」。日本はこうした動向に困惑し,
皇后を朝鮮侵略を妨害する人物と考えた。そこで
害するという蛮行を犯した J (乙未事変
王宮で「明皇后 〈 関妃 〉 を殺
1895 年) 。 一方
親日内閣は陰暦廃止と陽暦
使用,郵便制度実施,断髪令などの改革をおこなった(乙未改革,同年) 。 日本による
皇后殺害と内政干渉
代化政策であったが
特に「断髪令は国民の怒りを爆」させた 。
これは表面的には近
国の伝統を断ち切って国人の民族精神を弱めようとする」
日本の政略が隠されていた 。
したがって,断髪令に抗議して官職を辞退したり,学生が
退学したりする事態が生した。これらを契機に抗日義兵が起きるようになった 。 「義
兵運動は日本の侵略をくい止め,国と民族を守る民族運動の流れの 一 つに続くことと
なった」との評価を与える
(222"-'225 頁)。
【コメント】高宗らはロシアより日本が危険と考えてのことであろう 。 その上,日
本は邪魔な存在とはいえ,関妃殺害という野蛮な側面を見せた。断髪令も「国人
の民族精神」を弱める日本の陰謀と見なす。 多 くの抵抗運動に言及し,義兵運動に
対しても「日本の侵略をくい止め J ,民族運動の流れの一つに続くこととなった」
(
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) 4
1人間文化第 26 号
と評価は高い 。
(
2
)
I独立協会の指導層がつくろうとした社会は ?J
皇后殺害に不満をもっていた高宗はロシアの助力で日本の脅威を避けられると考
え,居をロシア公使館に移した。これを「俄館播遷」という。高宗は約 1 年間,ここに
留まっている間,ロシアは財政・軍事顧問を送って内政に干渉した。この時期,ロシア
をはじめ,アメリカ,
日本などは鉱山採掘権,鉄道敷設権などの経済的利権を奪った
(226 頁) 。
こうした状況下に
国民の聞に国の自主独立を守ろうとする動きが起きた。こうし
て,徐載弼と開明派知識人らが中心となって独立協会を組織した (1896 年 )0 r 特に,
独立協会は国民の権利を尊重する政治」の必要を述べこれが国を富強にする根本だ」
と主張した 。 また,外国が利権を 奪うことに反対した。活動の中で活濃であったのは一
般市民参加の万民共同会であった。近代的な議会政治なと革的改革も国王に建議し
た。こうした言動に脅威を感じた一部の保守的な政治家たちは,独立協会幹部を逮捕さ
せ,ついには解散に追い込んだ。とはいえ,その「活動は国民の聞に自主独立の意識を
拡大し,以後外勢〈外国勢力〉の侵略に対抗する民族運動の展開に大きな影響をおよぼ
した J (226'"'-'228 頁)と高く評価する。
【コメント】開明的知識人らによ って組織された独立協会も「保守的な政治家 」に
よって弾圧され,解散されている 。それほど朝鮮政府内部も時代の流れを見通す政
治家に欠け,保身に傾き,腐敗が進んでいたことの傍証となるであろう。独立協会
は挫折したとはいえ
その後の侵略に抵抗する民族運動への影響は大きいもので
あったと総括する。
(
3
)
I大帝国が自主国家をつくるために傾けた努力は ?J
帝国の立:独立協会を中心に自主独立を主張する国民の声が高まると,高宗は
ロシア公館から 一年ぶりに慶運宮(徳寿宮)に戻った。国の威信を高めるため ,国号を
「光武」と定め,皇帝即位式を 挙行して自主国家の姿を整えた。
光武改革:近代国家となるための諸改革をおし進めた。特に産業の展と教育の振興
に力を注いだ。農民生活の安定と財政確保のため,土地をたに測量し,また商工業
展のため,各種会社と工場を設立した。技術者,経営者養のための商工学校,実業学
校,医学校などを設立した。多くの私立学校も設立された。国家防のために軍制を改
編,王宮・ソウルを守る軍隊を増強し,また地方にも軍隊を駐屯させた。だが,政府高
官の中には改革に反対する保守的な人物も少なくなかった。結局,独立協会を解散させ
た。特に政府高官の外国勢力依存的な姿勢によって,主要鉱山が外国人経営となり,鉄
道敷設権も奪われた。このことは民族資本を養い
近代国家に展する上で障害となっ
た (229'"'-'230 頁)。
【コメント】「富国強兵」を目指す光武改革という改良政策の意義と限界,そし てそ
4
2 (
2
6
5
)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
の後に対する影響を明確に押さえておく必要があろう。中国では民族資本家が改
革,革命,利権回収運動,
日本品ボイコットなどで急先鋒となった。朝鮮の植民地
前,植民地後を含めてその違は何なのか
2
徹密な分析が必要なのかもしれない。
日帝の侵略と義兵戦争
本教科書では「義兵戦争と愛国啓蒙運動は,抗日民族運動のもっとも大きな二つの流
れ」と位置づける点に特徴がある。
(
1
) r わが民族は乙巳条約にどのように抵抗したか ?J
日戦争後,ロシアはわが国にも勢力を浸透させようとした。ロシアの勢力が大きく
なり,日本との対立が激化すると,イギリスは同盟を結んで日本を助けた。露日戦争で
勝利した日本はわが国に対する侵略を本格的におし進めた。日本はわが国の外交権を奪
い,ソウルに統監府設置を主とする乙巴条約を強要した(1 905 年)。この条約によって
わが国の外交権を奪ったばかりか,内政全般に干渉し始めた。
高宗の拒否にもかかわらず,日本が条約を表すると,民族の怒りが爆した。商人
が抵抗,学生も授業放棄した。高官や儒生が条約無効を主張した。張志淵が「皇城
聞』で日本の侵略を非難,条約締結の先頭に立った親日大臣を激しく批判した。『大
毎日申報』や『帝国聞』も民族の抗日精神を鼓舞した
(235"-'236 頁)。
こうした状況下で,高宗は条約締結の無効を宣言した。特にアメリカに対しては朝米
修好通商条約の互協力条項を根拠にハルパートを特使として派遣し,支援を要請し
た。そして第 2 回万国平和会議が聞かれていたオランダのハーグに李高,李{需,李埠
鍾を特使として派遣し,条約無効を国際社会に知らせようとした (1907 年)。だが,こ
うした外交努力は列強の国支配を認める世界情勢の下では功しなかった。
【コメント】こ れには「学習の手助け」として「ハーグ特使」のコラムがあり日
本の激しい妨害工作によって三特使は会議に列席」できず
それを痛憤した李儒が
自殺したことが書かれている。高宗の条約締結無効の宣言,ハーグへの特使派遣な
ど抵抗が続けられたことは重要である 。
他方,大規模な義兵が日本軍と戦った。代表的人物として関宗植,崖益絃,及び平民
出身の申芝石がいる。申が率いる義兵は数千人に達したが,彼が平民であったことは義
兵運動が全民族的な国権守護運動として展開したことを意味する
(237 頁)。
この後,国内外で義挙活動が続けられたとし,サンフランシスコで田明雲らは日本の
国侵略支持の言をしたスチーブンスを射殺
また,安重根が「初代統監としてわが
国侵略の先頭に立っていた伊藤博文」をハルビンで射殺し民族独立の意志を明らか
に示した J (238 頁) ,
との高い評価を与える。
「義兵闘争の拡大」については以下の通り。高宗の強制退位後,日本は軍隊を強制的
に解散した。これに抵抗して軍人は抗日闘争を展開,ソウル市内,州などで日本軍と
(
2
6
4
) 4
3人間文化第 26 号
戦った。解散させられた軍人は義兵部隊に合流し,組織的となり,近代武器を整え,戦
闘力も向上した。これらは「汎国民的な対日戦争の性格」を有していたとする。
ソウルから日本を追い出すため
各地の義兵部隊が連合する計画を立てた。これによ
り万人あまりの義兵が李麟栄を総大将に京畿道楊州に集結した。うち 300 人あまり
の先隊がソウル付近まで進軍したが,
日本軍の先制攻撃を受けて失敗した。以後も各
地で抗日戦が続けられたが,武器や戦闘経験の面で日本軍に比べて劣勢であり,義兵活
動は次第に弱まっていった。 一部の義兵部隊は後に満州に移動して,独立軍として活動
した (240 頁)。
【コメント】安重根による伊藤博文暗殺を「民族独立の意志」を明らかにしたとし
て高い評価を与える。日本では伊藤博文は開明的で
朝鮮植民地化に反対していた
ともされるが,統監になった以上,朝鮮植民地化の象徴と見なされたとしても致し
方ない。義兵に対しては
〈闘争 )J
「全民族的な国権擁護運動 J ,
r 汎国民的」な「抗日戦争
と見なす。なお義兵の被害」の説明で r1907 年 8 月から 1909 年までに
日本軍」に「虐殺された義兵」数として r 1 万 6000 人あまり」とする
3
(240 頁)。
愛国啓蒙運動
(
1
) I民会が民族実力養運動をおし進めた理由は ?J
「わが民族は抗日民族運動として義兵戦争とともに愛国啓蒙運動を展開した 。 ......教
育と産業を興して国を富強にしようとした。......このような過程で......国産報償運動を
展開した」とある。
愛国啓蒙運動:独立協会は保守的な執権層よって解散させられたが,教育と産業を興
して富国強兵をおこなうため,知識人や役人が政治団体・教育・言論・学問・宗教・
経済各分野で国民啓蒙運動をくり広げた。政治団体として輔安会は露日戦争中に日本に
よる荒地開拓権の強要に反対する先頭に立ったが
日本によって解散させられた。その
後,独立協会出身の人々による憲政研究会が組織され,近代的な立憲議会制度を主張し
た。乙巳条約以後,統監府により国人の政治活動が禁止されると,憲政教育会の中心
人物は大自強会を組織し,高宗強制退位に反対する運動をくり広げた。
民会の運動:統監府の抑圧に対して秘密裏に民会が組織された
(1907 年)。
会は安昌浩,李昇薫らを中心に教師や学生が多く加わった。その活動目標は自主独立で
きる国民力量を養うことに置いた。特に民族教育の推進,民族産業の育,民族文化の
に重点を置いた。また,満州に独立運動の基地を建設した
(245"-'246 頁)。
【コメント】愛国啓蒙運動は知識人や役人が政治団体・教育・言論・学問・宗教・
経済各分野で実施した。極めて広い範囲で各層各分野の国民啓蒙運動的色彩を有し
ていたことは過小評価できない。これには「日本の警察によって護送される民会
会員たち」の写真が付され日帝はいわゆる 105 人事件を担造して民会を弾圧
4
4 (
2
6
3
)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
した J
(
2
)
池)
(246 頁)とする。
I近代教育と言論活動が民族運動におよぼした影響は ?J
近代的学校に対してしい学問を教え,民族精神を養い,外勢〈外国勢力〉の侵
略に対抗する民族運動の基礎となった J (247 頁)との高い評価を与える。そして,政
府が英語講習機関,及び戚鏡道の徳源では住民が山 学舎 ( 1883 年設立,住民と役人
の出資)を建て,知識と外国語を教えたが,
これが近代教育の出点とする 。
その後,政府が育英公院(アメリカ人教師 3 人,両班の子弟対象) ,また,外国人プ
ロテスタント宣教師が培材学校,梨花学堂などを建て,西洋文化,英語を教えた 。甲午
改革過程でも,政府は師範学校,外国語学校,小学校を次々と建設,大帝国の立後
も中学校や各種実業学校を建てた (247 頁)。このように民族の自主独立,民権の確
立」のために,教育を重視する 姿勢が政府のみならず,国民の聞にも広まったとする。
この後言論活動」が書かれ,ハングルと英文の『独立聞 dl (1896 年)の啓 蒙,
自主精神養,外国人にわが国の状況を伝え,次いで、ハングルと文の 『皇城聞』は
乙巳条約が表されると,
日本の侵略を糾弾する先頭に立った。またIi'帝国聞』は
婦女子を対象にハング、ルを多用し,国民啓蒙や民族精神を高める論説,記事を掲載した
(249 頁)。
【コメント】教育とマスメディアに関しては現場の教育のみならず,現在,研究で
も脚光を浴びている分野である。果たしてこれらがどのような役割を果たし,影響
を及ぼしたのか。当然のことながら,教育とマスメディア双方とも当局と,それに
反対する勢力の激しい言論合戦がおこなわれる。本教科書でも,教育,マスメディ
アを極めて重視し,民族精神の育,民族運動の基盤形など,日本植民地体制に
対する抵抗の観点から言及されている。
(
3
)
I 国債報償運動はなぜ起きたのか ?J
経済自立運動:開港以後
外国の経済浸透に対抗して
民族資本育に努力がはらわ
れ,運輸,銀行,鉱山分野などで近代的な経営体制が導入された。だが日本の経済
侵略によって大帝国政府の財政自立は困難であった J (250 頁) ,
と結論づける。
国債報償運動:日本はわが国の近代化を名目に道路,水道を整え,銀行,学校,病院
などを設立した。こうした施設は日本人のためであったにもかかわらず,
日本政府から
の借款という形態を強要された 。国民は日本の干渉からのがれるため ,その借を国民
の力で返還すべきと考えた。そうして,国債報償運動が 1907 年大郎で始まり,全国に
拡大した。国民は禁煙・禁酒によるや指輪などを拠出,諸国体や言論団体も募活動
の先頭に立った。こうして,民族運動の性格を帯びて展開されたが,統監府の妨害で中
止された (250"-'251 頁)。
【コメント】経済自立運動
国債報償運動も対日レジスタンス
独立を目指すもの
と位置づけられ,その観点から評価する。こうした運動はインパクトの面から弱い
(
2
6
2
) 4
5人間文化第 26 号
感じもするが,抵抗の多重構造を理解する上で
看過できないものといえよう。
「学習の整理」で,1愛国啓蒙運動は教育と産業を興し,富国強兵をおこなうもの,
2民会は教育・産業の振興,独立運動基地の創設,3近代教育は民族志士とフ。ロテス
タント宣教師による学校建設であり,近代知識の普及,民族意識を高めることに貢献,
4言論活動はIf'独立聞』がハングルで、書かれた最初の聞で、国民啓蒙に貢献If'皇城
聞J],
If'大毎日申報』は日帝の侵略糾弾,民族意識を鼓吹,5国債報償運動は国民の
力で日本からの借を返そうとする経済救国運動,
とそれぞれ要約している
(252 頁)。
ここで,驚かされるのは「単総合遂行課題」であり国を危機から救うために立
ち上がろう! J
とのタイトルが付しである。つまり生徒に対して
んで「自らどのようなやり方で
国を救うか」を考えよ
当時の歴史に入り込
という実践的な問いをして
いるのである。
まず,1「主題」で「救国方案文を書く J ,2「目標」で救国運動の諸民族運動勢力
の動きを調べる,3「内容」で日帝の侵略に対抗して展開されたわが民族の救国運
動を理解し,......当時の人々の立場で,国を救うための方策を整理する」とある。特に
4「留意事項」ではこの課題は当時の愛国者の立場で考える」とする。そして,
の立場に立っか選択するとして,

(イ)独立協会参加者, (ロ)大帝国での改革者,け義兵,
lニ)学校を設立し,民衆啓蒙を目指した教育者などを出し
自己の主張の提示を求める
(253 頁)。
【コメント】これは,他国教科書には見られない特色である。こうしたやり方に批
判的で生徒を一定方向に誘導する点で、問題」と考える人々もいる可能性もある。
ただし,
こうしたテーマ設定の適否はともあれ,当時の歴史に入り込み,デイベー
トをさせるというのは,別テーマでもある意味で有効なやり方かもしれない。な
お,国の現状,中学生の展段階などから不可能であるとは思うが親日派」
も入れると,より構造的になるかもしれない。さらに
この中に社会主義者・共産
主義者の選択肢を入れれば,より構造的な把握が可能となるであろう。
政民族独立運動
1
民族の受難」
「学習概要」で国権を強奪された後,......朝鮮総督府の強圧的な武断統治を受けな
ければならなかった。朝鮮総督は立法権,司法権,行政権,軍事権を掌握し,憲兵警察
を動員してわが民族の自由と権利を膝摘し,土地と資源の収奪をほしいままにした。
三・一運動後,
日帝はいわゆる文化統治を掲げたが,それはいつわりの民族分裂政策に
すぎなかった。......しかしわが民族は...・いねばり強く独立運動を展開した J (256 頁)。
(
1
) r 日帝の憲兵警察統治の実像は ?J
「国権侵奪日帝は植民地化のために,一進会の李容九ら親日派が日本との併合
4
6 (
2
6 1
)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
の各種請願書などを出した。こうして「国権侵奪」が国人の要請のように「偽装」し
た。そして日帝は軍隊と警察を全国各地に配置してわが民族の抵抗をあらかじめ遮
断し,李完用を中心とする売国内閣,いわゆる合邦条約を締結した(1 910 年) J 。こう
してわが民族は国を奪われ,
日帝の奴隷状態」に陥ったとする
(257 頁)。
(
2
) r 日帝の経済収奪政策は ?J
土地の略奪:総督府は土地所有関係の近代的整理の名分で
土地調査事業をおし進め
た。これにより少数の地主を除いた大多数の農民の急速な没落をもたらす契機となっ
た。土地申告主義により申告しなかった多くの人々が被害を被った。村の共有地,王室
や公共機関所属の土地は所有者のいない土地に分類され,多くが総督府の所有地となっ
た。総督府はこれらの略奪した土地を東洋拓殖株式会社
および国に来た日本人に安
く譲り渡した (260"-'261 頁)。
「産業の侵奪日帝の「産業侵奪」政策によってわが民族の経済活動は大きく衰退
し,民族産業の展は抑圧された。日本の融機関は日本商人の活動を支援し,しい
貨幣により国の融を支配した。朝鮮総督府は会社令を公布して国人による会社設
立を許可制とした。それは
国人の企業活動を抑制し
民族資本の長を抑圧する措
置であった。朝鮮人参,塩,タバコなどは専売制度となり,朝鮮総督府の収入となっ
た。森林資源も朝鮮総督府と日本人の所有となり,,銀,タングステン,石炭などの
鉱山,国沿岸の主要漁場も,日本人がほとんど独占的に支配した。また,国を大陸
侵略の足がかりとするため,鉄道,道路,港湾などを整えた (261 "-'262 頁)。
食糧収奪:日本は第一次世界大戦を景気に都市人口が増大,深刻な食糧問題に直面し
た。日帝は半島で,品種改良,水利施設の拡充によって産米増産計画を実施して食糧
問題を解決しようとした。日帝は増産量より多くの米を日本にもっていった。これに
よってわが国の食糧事情はかなり悪化した (262 頁)。
米の生産量と日帝の収奪量(単位:千石)
年度(平均)
生産量(A)
収奪量(B) (A)一 (B)
(
B
) / (刈%
1
9
1
2
'
"
"
'
1
9
1
6 12 , 303 1 , 056 11 , 247 8
.
6
1
9
1
7
'
"
"
'
1
9
2
1 14 , 101 2 , 196 11 , 905 1
5
.
6
1
9
2
2
'
"
"
'
1
9
2
6 14 , 501 4 , 342 10 , 159 2
9
.
9
1
9
2
7
'
"
"
'
1
9
3
1 15 , 798 6 , 607 9 , 191 4 1
. 8
1
9
3
2
'
"
"
'
1
9
3
6 17 , 002 8 , 757 8 , 245 5 1
. 5
1
9
3
7 19 , 410 7 , 161 12 , 249 4 1
.
1
なお,米の残留量((刈一 (B) ),および収奪の生産量における比率(%)は筆者が算出。
【コメント】日中戦争・太平洋戦争との関係から重要な時期である 1938"-'45 年が不
明なのは遺憾であるが,
この統計数字は興味深いものがある。 1927"-'1937 年は 4 ,
5 割を日本に移送された。 1937 年は産米増産計画がある程度功しており,米の
(
2
6
0
) 47人間文化第 26 号
残留量は 1224 万 9000 石もあった。各年別統計ではなく
他にも統計数字がある可
能性もあるが,種々考察する必要があろう。
(
3
)
r わが民族が民族抹殺統治下で味わった苦難は ?J
民族抹殺政策:太平洋戦争を遂行するため日帝は戦時動員体制を動して,わが
民族を戦場に動員した」。民族精神を根絶やしにするため
いわゆる「日鮮同祖論」を
主張し内鮮一体」と「皇国臣民化」のスローガンを掲げた。また国語〈ハング
;v) の使用を禁じ,......私たちの歴史を教えることも禁じた。ハングルで、刊行されてい
聞も廃刊」にさせた。さらに日本式の名前に変えるように強要し,各地に日本の神
社を建てて参拝させた。「このような日帝の蛮行は世界史に類例」がないと強調する
(263 頁)。
物的・人的資源の収奪日帝の侵略戦争によってわが国は戦争物資を補給する兵姑
基地に変わった」とし,属,機械,化学系統の軍需工場を建設し,鉄,石炭,タング
ステンなどの増産を促した。供出という名目で食糧や各種物資,戦争末期には屑鉄,真
織の器の供出から,飛行機の燃料として松ヤニまでも採取させた。そればかりではな
い。強制徴用によって鉱山や工場での労働を強要し,志願兵制度,学徒兵制,徴兵制を
実施して多くの青年を戦場に追いやった。女性たちも勤労報国隊,女子勤労挺身隊の名
目で連行し,労働力を搾取した。さらに 多くの女性を強制的に動員して日本軍が駐
屯しているアジアの各地域に送って軍隊慰安婦として非人間的な生活をさせた J
(
2
6
4
頁)。
「学習の手助け」として軍隊慰安婦」がとりあげられ軍隊慰安婦とは国,中
国,フィリピンなど,日本の植民地や占領地で日本軍によって強制的に戦場に連れてい
かれ,性奴隷の生活を強要された女性たちをさす言葉である。 1930 年代はじめから行
われたこのような蛮行は,
1945 年日帝が敗北するまで続いた」との説明が付される 。
さらに「日本軍慰安所」の写真も掲載され
その下に「日本軍は慰安婦たちの生活を徹
底して統制した J (264 頁)と書かれている。
【コメント】日本植民地支配を, 皇民化政策による「民族抹殺政策 J ,お よび物的・
人的資源の収奪などに分けて論じている。特に「軍隊慰安婦」は「学習の手助け」
でも重点的に論じられる。日本の教科書が自己規制しているのに対し,ある意味で
対照的である。しかし,
これは歴史的事実であり,むしろ現在の日本の教科書に問
題があると言えよう。「強制的に戦場にくまで〉連れていかれ」たのは朝鮮人慰安
婦が圧倒的に多く
2
その点を強調してもよかったかもしれない。
三・一運動J
「学習概要」で,
三 - 一運動は高宗の死と二 ・八独立宣言を契機に,民族あげての運
動で,完全な自主独立を主張したできごとであった。その結果
4
8 (
2
5
9
)
内には大民国臨時政中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
府が樹立され,外にはアジア各国の民族運動を刺激した,
池)
とする。
(
1
) r三 ・ 一運動 の展開過程とその意義は ?J
三・一運動の背景独立運動は 19 世紀末以後,外勢の侵略に対抗して展開されてい
た国権守護運動の延長だった」。わが民族の独立運動団体は,民族自決主義の提唱〈ア
メリカ大統領ウィルソンは平和 5 原則を表,植民地問題の解決に民族自決を提唱し
た〉の動きを知ってパリ平和会議に代表を派遣,独立運動の資を集めた。日本留学の
国人学生は変化する国際情勢を独立運動の機会と捉え
し,
東京で朝鮮青年独立団を組織
(1 919 年 2 月 28 日,朝鮮 YMCA において〉独立宣言書と決議文を表した(これ
には読み物資料」に「二・八独立宣言決議文」が付されている)。
三・一運動の展開:第一次世界大戦が終わる 1918 年から,国内では孫乗照,李昇薫,
龍雲ら宗教界中心の民族運動指導者が民族をあげた独立運動を準備していた。
ソウルでは孫乗照ら民族代表 33 人が 3 月 1 日正午に「泰華館 J <泰和館?)で独立宣
言式をおこない,同時刻に学生と市民が「タプコル公園 J <パゴダ公園〉で独立宣言書
を朗読し,太極旗をうち振って独立万歳デモを繰り広げた。各地方でも万歳デモを展開
した 。 日本の 警察と軍隊は平和的方法で 「独立万歳」を叫ぶデモ隊を,銃剣で鎮圧し
た。日本軍は華城堤岩里の住民を教会に押し込んで火をつけ,銃撃を加える蛮行をおこ
なった。数多くの民家や学校なども日帝の蛮行によって破壊されたり,焼かれてしまっ
た (266'"'-'269 頁)。
「学習の手助け」には,忠南道で独立万歳デモを指導した「柳寛順の抗日戦争」が
載っている。「柳寛順は裁判所で『私は堂々たる大の国民である。大の人である私
がお前たちの裁判を受ける必要もなく,お前たちが私を処罰する権利もない』と叫び,
抵抗した Jo r法廷侮辱罪」まで加算され,女性として最高刑の懲役 7 年の判決を受けた
が,獄中闘争をくり広げ,激しい拷問で「殉国」したとする。
また読み物資料」には『国独立運動の血史』の 1 部が掲載されている「 三 ・ 一
運動以後,わが民族は老若男女と内外,遠近を問わず,一つになって活動し,一致団結
して動き,水火も問わずに飛び込み,数多くの死も厭わなかった。これまでは伊藤博文
を狙撃した者は安重根 1 人だったが,今日では数百の安重根がいる。......すなわちすで
に運動は展開〈開始〉されたのである(朴殿植) J (269 頁)。
三・ 一運動の意義民族の民族独立運動一つにまとめ,民族をあげて展開された
最大規模の独立運動」と位置づける。三・一運動はわが民族の目標が完全な自主独立で
あることを確認させ,国内外で多様な展開をみせ,その結果,大民国臨時政府が樹立
された 。三 ・ ー運動は 「日帝強占期はもちろん,以後民族が分断された時期にもわが民
族を一つにまとめる精神的土台となった」。さらにアジア各地の民族運動にも少なから
ぬ影響をおよぼした。特に
された (270 頁) ,
その影響により中国やインドでは大規模な民族運動が展開
とする。
(
2
5
8
) 4
9人間文化第 26 号
「三・ー運動の規模と被害」として
集会総数は 1542 回
参加人数は 202 万 3098 人,
検挙された者は 4 万 6948 人死亡者は 7509 人,負傷者 1 万 5961 人 (270 頁)との統計
数字を提示している。
【コメント】朝鮮三・ー独立運動に関しては体的事例も幾つもだし,力点を置いて
いることがわかる。三・ー独立運動に「国権守護〈擁護〉運動の延長」との位置づ
けを与える。アメリカ大統領ウィルソンの民族自決に強い影響を受け,独立運動が
展開されたという歴史的流れは押さえている。ただしロシア十月革命の影響への言
及はない。三・一独立運動が中国,インドに影響を与えたことは事実である。「平
和的方法」としているものの
エ ジプ トのワフド運動などを包括して,さらに世界
史において非暴力抵抗の重要な位置にあったと
ないか。また,
もっと強調してもよかったのでは
レジスタンスの継続を強調するため捨象されてしまったが,
この運
動によって朝鮮植民地支配がいかに変わったのか,もしくは変わらなかったのかを
具体的に指摘することも大切と考えられる。
(
2
)
r大民国臨時政府の樹立過程とその活動は ?J
民国臨時政府の樹立:城政府〈三・ー独立運動中にソウルに 13 道の代表が集
結,政府樹立を宣言),上海の大民国臨時政府,さらにアメリカなどでも臨時政府樹
立を推し進めた。沿海州でも大国民議会という臨時政府が組織された。こうした圏内
外に樹立された種々の臨時政府は上海の大民国臨時政府に統合した。大民国臨時政
府は自由民主主義と共和制を基本とした国家体制を整え
李承晩を初代大統領に選出し
た。
民国臨時政府の活動:臨時政府は杢植をパリ講和会議に民族代表として派遣
し,国独立を主張,アメリカに欧米委員部を設置してアメリカ政府,国民に独立を訴
えた。また,臨時政府は「連通制 J
(秘密行政組織を通じて国内外の連絡するシステム)
により圏内各地域の独立運動を指導し,資を準備した 。そして
r独立聞」を
し,国内外の同胞の独立精神を喚起し,各独立運動団体に方向性を示した
(271 '
"
"
2
7
3
頁)。
【コメント】中国上海
アメリカなどに大民国臨時政府が樹立された事例は三・
一独立運動後の抵抗という側面と,独立を回復した後の受け皿を考察する上で看過
できない事実といえる。また
3
「独立聞』行の意義にも言及する。
独立戦争の展開」
「学習概要」では三・ 一運動以後,わが民族の独立運動はいくつかに分かれ て展開
された。その主な流れの一つは
日帝の侵略に武力で対抗して戦う独立運動と義挙だっ
た。独立戦争は満州や中国本土を根拠地にして,日帝が敗北するまで絶え間なく展開さ
れた。特に大民国臨時政府は国光復軍を創設して日帝に宣戦布告をし,連合軍とと
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)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
もに対日戦争に参戦した。そして義烈団や人愛国団のような愛国団体も義挙活動を通
して民族精神を呼び覚ます役割を果たした J (275 頁) ,
とする。
【コメント】大民国に繋がる民族系運動のみをとりあげ
朝鮮民主主義人民共和
国(北朝鮮)に繋がる社会主義系は完全に捨象している。私見によれば,この双方
が日本の侵略に抵抗し,打撃を加えており
一方だけでは当時の抵抗状況を正確に
明らかにできない。
(
1
) í独立軍の武装独立戦争が収めた果は ?J
間島地方に居住する同胞社会を基盤に独立運動の基地を建設した。「国を失った後も
間島地域には多くの学校が設立され,軍事訓練も実施して武装独立運動の基礎を整えて
いった。......圏内の民族教育運動と武装義兵活動は,日帝の武断統治によって衰退せざ
るをえなかった。そうして日帝の手があまりおよばない豆満江の対岸の龍井,延吉,理
春などの民族集団居住地域が抗日民族運動の中心地となった。......特に,間島地方の
独立軍,北路軍政署軍......と沿海州の血誠固などが代表的な独立軍部隊だった。
......これらの中には......圏内に進入し
日本軍と警察署など植民統治機関を攻撃して多
くの戦果を上げた J (276 頁)。
【コメント】本教科書は,学校での民族教育と武力抵抗を両輪として重視している。
間島地方は複雑な地域で,植民地朝鮮から脱出した独立運動家を含め,約 50 万人
中,朝鮮人が 38 万人 (76%) ,中国人が 12 万人であった。このように,朝鮮人の方
が圧倒的に多く,朝鮮人の「民族基盤」と称されるほどであった。 1930 年農業恐
慌によってさらに多くの朝鮮人農民が移住した。さらに日本は間島地方の朝鮮人
利用し,彼らを挺子に満州進出を画策した。間島地方の朝鮮人が,結果的に日本に
よる満洲侵略の急先鋒としての役割を果たす場面が出現したのである。したがっ
て,朝鮮人と現地中国人との矛盾対立も激化していく必然性があったといえよう。
(
2
)
í愛国の志士たちはどのような義挙活動を展開したか ?J
義烈団独立軍の活動と大民国臨時政府の組織的な対日闘争が展開されるととも
に,愛国の志士たちは秘密組織を結して日帝植民統治機関を爆破したり,国内外で日
本人要員を射殺するなど、の闘争を続けた」。義烈団のは朝鮮総督府に爆弾を投げ,
玉は独立志士に残忍な拷問をおこなった鍾路警察署に爆弾を投げて大被害を与え
た。そして,羅錫瞬は東洋拓殖株式会社で幹部を射殺し,日帝警察と市街戦をくり広げ
た。また,日本在住の朴烈は皇室の結婚式の日,天皇父子を「とり除く」準備中に
し,日本敗北まで 22 年間,獄中にあった (278 r-....,279 頁)。
人愛国団:九の率いる人愛国団の団員李奉昌は,
1932 年東京で「国侵略の
凶である日本国王(天皇) J を処断するため,馬車に爆弾を投げつけたが功しな
かった。一方,同じ団員である手奉吉は上海の虹口公園(現在の迅公園)で開カ亙れた
「上海占領祝賀記念会場」に爆弾を投げつけて日本軍をこらしめた。「手奉吉義士の義挙
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) 5
1人間文化第 26 号
は当時日本の侵略を警戒していた中国人に大きな感動を与え
中国政府と中国人が
人の抗日独立闘争に積極的に協力する重要なきっかけともなった J (279 頁) ,
との高い
評価を与える。
【コ メン ト】 天皇に対するテ ロ活動を 含め,すべて 「 義挙」ととらえ,
レジスタン
スの一環として高く評価する 。 関妃殺害の事例などを考えると,その報復としての
意味合いもあった可能性もある。また,困難な中でも日本に対する民族主義に燃え
た抵抗は消えることがなかったことを生徒に教えようとしている。さらに万宝山事
件で冷え込んだ中朝関係が,
こうした「義挙」をおこなう中で連帯が強まっていっ
たことは事実である。
(
3
) r国光復軍の組織 と活動のようすは ?J
国光復軍の創設:大民国政府は中日戦争が起きると,中国政府とともに上海から
重慶に移ってしい体制で独立運動を指揮した。......独立戦争を効果的に展開するため
政府組織を主席制に変え」
九が主席に就任した。一方,日帝の中国侵略が激しくな
り,満州地域の独立軍の活動はかなり制約されるようになった 。そ のため,独立軍部隊
は中国の内陸に移動したが,大民国臨時政府はこれらを土台として国光復軍を編
した (280 頁)。
国光復軍の活動日帝が太平洋戦争を起こすと,大民国臨時政府は日本に宣戦
布告をし,連合軍とともに独立戦争を展開した。このとき,国光復軍は中国各地で中
国軍と協力して日本軍と戦い J ,遠くはインドやビルマ戦線で、 もイギリス軍とともに対
日戦闘に参加した 。一 方,
日帝に対抗して戦い
1938 年,鳳を中心とする朝鮮義勇隊は中国軍と協力し,
一部は国光復軍に合流した。だが
で社会主義系独立運動家とともに
合流しなかった人々は華北
1942 年朝鮮独 立同盟を組織し,朝鮮義勇軍と名前
を変えて抗日闘争を継続した。アメリカ在住の同胞でアメリカ軍に参加する者もいた。
その結果,列強は国独立問題に関心を持つようになった。こうして,カイロ宣言
(1 943 年)とポツダム宣言 (1945 年)で,国独立を約束する土台が築かれた (280'"
281 頁) 。
【コ メント 】ここでも,現在の国に連続する国光復軍,大民国臨時政府を重
視する 。 ただし中国政府の中でも最右派に属する立夫ら íC ・ CJ 系と結びつい
たことは押さえておく必要があるかもしれない。特筆すべきは現在の北朝鮮に繋が
る社会主義系独立運動家
朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍を評価していることであろ
つ。
4
国内の民族運動」
「学習の概要」で三 ・ ー運動以後,圏内の民族運動はさまざまに展開された。民族
資本家たちが中心となった民族運動は物産奨励運動と民立大学設立運動だった。学生は
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)中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
6 . 10 万歳運動や光州 学生抗日運動の先頭に立った。一方
池)
日帝の民族抹殺政策から
民族文化を守る努力によって国語〈ハングル〉とわが歴史の研究も活だった J (
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頁)。
【コメント】いわば暴力抵抗と合法的抵抗がいかに矛盾しながらも,抵抗の車の両
輪として展開していくのかを深く考察する必要に迫られているといってよい。
(
1
) r 民族実力養運動がおし進められた方向は ?J
経済的民族運動: 1920 年代の民族運動は,経済的社会的
文化的な面で民族の実
力を養する方向で展開された。物産奨励運動は民族産業を展させ,民族資本を育
し,経済的自立を図ろうとするものであった。そこで,
自給自足,国産品愛用,消費節
約を掲げた。一方,農民と労働者は日帝の経済的搾取に対抗して小作争議や労働争議を
起こしたが,経済闘争と同時に,抗日独立運動の性格ももっていた。
教育と言論活動:日帝の教育差別に対抗して
民族の力で大学を設立しようとする民
立大学設立運動がおこわれた。設立期会を組織して,全国的な募運動をくり広げ
た。しかし,
日帝の抑圧と干渉で功しなかった。一方,学生は休暇を利用して農民啓
蒙に立ち上がった。彼らは夜学や講習所を建ててハングルを普及させ,民族意識を高め
ようとした。さらに民族実力養運動には言論機関も積極的に参加し,朝鮮日報社は文
字普及運動を,東亜日報社は非識字者撲滅運動を主導した。だが,
こうした活動に対し
て,日帝は検閲,記事削除,停刊などの弾圧を加えた (285'"'-'287 頁)。
【コメント】日本植民地下の国・朝鮮で経済・教育・言語・マスコミなど自立化
運動が多方面で繰り広げられたことが主張される。私はこの点は重要であると考え
る。なぜなら,
これらは植民地下でも民族の自尊心を護り,未来における独立を可
能とするからである。そして
そのことは同時に日本の植民地支配がいかに無謀
で,抑圧的なものであったかを我々日本人にも突きつけることになるからである。
X
民国の
「光復 J
(植民地からの解放)について書かれる。 f1945 年 8 月 15 日,
日本の降伏で第
二次世界大戦が連合国の勝利に終わると,わが民族は日帝の苛酷な植民統治から抜け出
して,夢に描いていた光復を迎えた」。それは「アメリカとソ連をはじめ連合国の勝利
がもたらした結果でもあるが
それまでわが民族があらゆる犠牲をかえりみず日帝に抵
抗し,ねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあった」と総括する。それゆえ,
「連合国の指導者もカイロ会談やポツダム会談でわが民族の独立を約束せざるをえな
かった J (299 頁)とする。これには光復の喜び」として沢山の人々が独立万歳をし
ている写真が載せられている。
【コメント】米ソなど連合国による対日勝利と認める 一 方,国・朝鮮民族の抵抗,
f~虫立運動の結実」とする 。この把握は大筋 として歴史的事実といえよう。ただし
(
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) 5
3人間文化第 26 号
中国における抗日戦争などを捨象し
「連合国」に解消してしまっていいものか否
か。なお,東京裁判に関する記載はない。このことは,日本の戦争犯罪よりも,そ
の後の分裂,朝鮮戦争を重視していることと関連するものと考えられる。
おわりに
以上のことから,以下のようにまとめることができる。
第一に,中国の歴史教科書は,三・一独立運動や対日武力闘争に対して高い評価を与
える一方,改革・改良に関しては捨象される傾向にある。日本の明治維後の動向につ
いて,資本主義化をメルクマールに書かれる。そして,
斑を残し,圏内市場の狭さ
日本は後進資本主義で封建的母
資源不足農業落後という現状の中で ,経済面で他の帝国
主義国に対抗できず,軍事力に訴えた。かくして,日本は財閥と「軍関 J (軍部)が結
託した「軍事封建的な帝国主義」と称されるとする。そして,ポーツマス条約締結の
際,朝鮮植民地化にはアメリカが加担したと見なす。ここでは,高宗の抵抗は捨象さ
れ義兵運動が述べられ朝鮮民族の解放闘争史上,輝かしいー頁を刻んだ」との極
めて高い評価を与える。第一次世界大戦後の世界情勢については,アメリカのウィルソ
ン大統領による民族自決は捨象され,ロシア十月革命の影響が前面に押し出され,アジ
ア・アフリカで、 の民族ブルジ、ョワジーとフ。ロレタリア階級の台頭という形で階級概念か
らの分析が示される。中国
インド
トルコ エジプトなどでの民族解放運動の一環と
して朝鮮三 ・ー独立運動が位置づけられるが それらの非暴力運動としての特質には触
れられない。中国では,非暴力闘争だけでは勝利できないと考え
その評価が対的に
低いためであろうか。なお,階級概念からの分析が本教科書の大きな特徴であるが,宗
教指導者を「民族主義者」とするのはともあれ
「フゃルジョア階級」とするのは無理で
あろう。三・一独立運動の『青年』など中国に対する影響を書く。さらに上海の大
民国臨時政府,中国東北における根拠地建設など
の継続に具体的に言及している点は,
朝鮮人民による日本の侵略反対闘争
日本の歴史教科書では捨象されており,評価でき
る。ただし三・ー独立運動の結果としての「文治政治」に関しては一切言及がない。
第二に,台湾の歴史教科書は,列強の侵略の中で日本の侵略が地理上,近隣であった
ため,衝撃が最も大きかったとする。これを前提に以下のような論を展開する。日本の
朝鮮内政への干渉は 19 世紀後半から強まった。その時,東学党の乱が生したが,そ
れは朝鮮政府攻撃のみならず賎民階級」解放など先駆的要求も出したとする。そし
て,それを「朝鮮人民の闘争」の 一 環と見なす。日戦争後
朝鮮政府は重い腰をあ
げ,西洋的な式学校の設立,富国強兵策などが推進された。教育を重視したというこ
とであろう。また,民間改革もおこなわれたが結局
政府や官僚の旧い体質から十分
実施することができなかった。ここに大きな限界があった。日露戦争後も抵抗があり,
1910 年日本により韓国併合が強引に実施されるわけだが
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)
各方面での多くの抵抗を述中・台・韓各歴史教科書の中の韓国・朝鮮(菊
池)
ベ,それがいかに不当・不公正なものであったかを示唆する。それら抵抗の頂点に位置
するのが三・一独立運動であるが,大衆的な「非暴力」闘争であったことが指摘される
だけで,その実態を詳述しているわけではない。本教科書はその後にむしろウエートを
置き文化政治 J (文治政治)の限界を強調する。「文化政治」へと転換したが形式だ
けで,懐柔,親日派勢力の養などにより植民地統治体制を強化するものであったと断
言する。さらに治安維持法などによる弾圧・差別教育などの実態を指摘する。これは意
義を強調し,限界の指摘のない日本の歴史教科書と好対照をなす。その後,京城などで
の大衆文化,社会経済矛盾の中での社会主義思想の台頭,朝鮮共産党の立にまで言及
し,全体像の把握,歴史学的な視点,問題点の摘出,および争点の提示など,各国教科
書の中でも優れた点を多く有しているのではないか。
第三に,国の歴史教科書が自国史なので最も詳細に記述している。そして,全般的
に具体的な内容に踏み込んで述べており,その点で他国教科書の追随を許さない。だ
が,
自国史,
もしくは自国民の活動を肯定的に評価しようとするあまり,視野が逆に狭
くなっている点もあるのではないか。その特徴は,韓国併合の不法性を前提に,テロを
も合む,あらゆる抵抗形態を肯定し,
レジスタンスと位置づける。これは民族自尊の問
題とも密接な関連を持つのであろう。それは,日本植民地体制の破壊・打倒を目的とす
る運動から,植民地の枠内で人権改善,差別撤廃を求める改良主義運動まで評価する姿
勢をとる。この点は韓国併合
植民地を多数保有していた欧米中心の立場に立脚し
て,条約などを根拠に合法とする日本側共同報告研究者の主張と真っ向から対立し,そ
の不法性を前提とする。重要な点は,韓国併合前,併合後,そして三・ー独立運動,臨
時政府樹立,光復軍の活動と日本敗戦まで連綿として継続する抵抗闘争・活動を強調し
ている点である 。ただし,現在の 北朝鮮に 繋がる社会主義系独立運動家,朝鮮独立同
盟・朝鮮義勇軍を一定評価しているとはいえ
その実態や互関係に踏み込むまでには
至っていない(今後李明博政権による教科書改訂により
さらに悪化する可能性があ
る)。民族系,社会主義系の双方が日本の侵略に打撃を加えた歴史的事実を鑑みれば,
前者のみに傾斜し,後者を軽視しては正確な歴史を再現できない。現在の国・北朝鮮
の確執を遡及させて歴史を描くと
書の最大の欠点、がある。また
当時の 実態からかけ離れる。ここに国の歴史教科
日本にすり寄って利益を得た人物(こうした人々も多種
多様で一概には論じきれず,問題人物も多く,逆に完罪も多くあろう)に関しても一定
程度記載すれば,歴史の複雑さを生徒に理解させ,考える契機となる。なお従軍慰
安婦問題」については,現実にその被害者が存在していることからも,不退転の覚悟の
ように見受け られる。当時の国 ・朝 鮮は亡国となり,約 35 年間も日本に飲み込まれ,
世界に存在しなかった。その怒りが国の歴史教科書の根底に流れている。また,こう
した実態にあったからこそ
う長所を有しながらも
抵抗を挺子に多くの歴史的事実をビビッドに描き出すとい
自国民族に焦点を合わせすぎた結果
世界の動向に対しての記
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2
) 5
5人間文化第 26 号
載の稀薄さ,およびこれら運動の世界史における位置づけ,構造分析が不足している点
は惜しまれる。
主要参考文献・史料
( 1 ) 芝薫著,梶原秀樹訳『国民族運動史 J 1975 年。
(2 ) 朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史一古代から近代まで一』朝鮮青年社, 1976 年。
( 3 ) 朴永錫『万宝山事件研究』第一書房, 1981 年。
( 4 ) 李淑子『教科書に描かれた朝鮮と日本一朝鮮における初等教科書の推移 1895-1979 一」
ほるぷ出版,
1985 年。
( 5 ) 九著,梶原秀樹訳 r 白凡逸志 J (東洋文庫 234) 平凡社, 1986 年。
( 6 ) 休溝,孫志科『大民国臨時政府在中国』上海人民出版社, 1992 年。
(7) 胡春恵「国独立運動在中国』中華民国史料研究中心, 1976 年。
(8 ) 中央研究院近代史研究所編『国民政府与国独立運動史料 J 1988 年。
( 9 ) 歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(国)編『日歴史共通教材
交流
歴史先史から現代まで一』明石書店, 2007 年。
(
1
0
) 君島和彦『日歴史教科書の軌跡一歴史の共通認識を求めて一』すずさわ書店, 2009
年。
(
1
1
) 拙稿「都市型特務 IFC' CJ 系の『反共抗日」路線について J (目的近きに在りて』第
35 , 36 号, 1999 年 6 月, 12 月。
(
1 2
) 拙稿「万宝山・朝鮮事件の実態と構造 J ,愛知大学「人間文化』第 22 号, 2007 年 9 月。
5
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2
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)