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五代十国

五代十国(907~960)]
⇒五代(後,後,後,後漢,後
⇒十国(,南,前蜀,後,南,,荊南,,閩,北漢
[後(907~923)]
太祖(朱全忠)-郢王(朱友珪)-末帝(朱友貞)
朱全忠(852~912)
  朱温,後の太祖⇒。
張文蔚(?~908)
  字は右華。河間の人。張裼の子。の乾符初年、進士に及第した。左補闕侍御史・起居舎人・司勲吏部員外郎・司勲郎中・知制誥・中書舎人などを歴任した。天祐年(904)、平章事・判戸部に上った。四年(907)四月、楊渉らとともに後への禅位の詔を朱全忠に伝えた。
張策(?~912)
  字は少逸。河西敦煌の人。張同の子。の広明末年、弱冠にして父母を連れて乱から逃れ、賞賛された。王行瑜に召されて観察支使・帯水員外郎となった。王行瑜が敗死すると、朱全忠をたより、滑支使となった。国子博士・膳部員外郎・職方郎中・翰林学士・兵部郎中・知制誥・中書舎人などを歴任した。後が建国されると、工部侍郎となり、まもなく中書侍郎に転じた。
建(855~912)
  字は佐時。許州長社の人。農民の出身で、州の宗権のもとで軍校をつとめた。楊復光に従って黄巣の乱の鎮圧にあたった。僖宗が長安に帰還すると、潼関防御使・華州刺史に任ぜられ、兵民を安撫し、農耕養蚕を奨励し、善政で知られた。検校太尉・平章事を加えられた。乾寧三年(896)、昭宗を迎えた。翌年、諸王を殺して廃立をおこなおうとしたが、実行できなかった。のちに平盧軍節度使に転じた。後が建国されると、司徒・同平章事に任ぜられ、しばしば諫言をおこなった。のちにの地位を退いて許州に帰り、軍乱のために殺された。
王景仁(?~914?)
  もとの名は茂章。廬州合肥の人。はじめ楊行密に仕え、淮南の将となった。の天復三年(903)、青州の王師範の救援要請を受けて出撃し、密州刺史劉康乂を斬り、朱友寧を殺した。また潤州を攻めた。功により潤州団練使・宣州観察使を歴任した。天祐二年(905)、楊渥が立つと、その怒りを買い、翌年に馬歩都指揮使李簡らの攻撃を受けて、宣州を守りきれず、銭鏐を頼って亡命した。鎮東節度副使となり、景仁と名を改めた。寧国節度使に任ぜられた。後の開平二年(908)、後に使いして淮南を取る策を述べた。後により北面行営都指揮招討使に任ぜられ、州に駐屯した。柏郷の戦いで奮戦したが、敗れた。末帝のとき、淮南西北行営招討応接使となり、廬州・寿州を攻めた。軍を率いて独山を通ったとき、楊行密の祠の前で再拝して号泣したという。霍山で軍が敗れたとき、しんがりで奮戦した。開封に帰ったのちに病没した。
楊師厚(?~915)
  潁州斤溝の人。はじめ河陽の李罕之に従い、李罕之が李克用に降ると、これに従った。のちに罪をえて朱全忠のもとに逃れ、宣武軍押衙・州刺史となった。青州の王師範との戦いで偏将八十余人を捕らえる戦功を挙げた。また襄陽の匡凝を破った。山南東道節度使・同中書門下平章事に任ぜられた。劉知俊が長安に拠ってそむくと、これを奇兵をもって撃破した。また徳威を蒙坑で破った。保義軍節度使に転じた。朱友珪が立つと、天雄軍節度使に任ぜられた。末帝が立つと、鄴王に封ぜられた。戦傷がもとで没した。
劉鄩(858~921)
  密州安丘の人。はじめ青州の王師範の部将で、登州刺史・行軍司馬をつとめた。のちに王師範が朱全忠に降ると、朱全忠のもとで従都押牙となった。後が建国されると、左龍武統軍となり、のちに永平軍節度使に任ぜられた。のち鎮南軍節度使・開封尹となる。乾化五年(915)、李存勗と漳河をはさんで対峙し、ひそかに兵を動かして陽を襲おうと図ったが、長雨に阻まれて退いた。翌年、貝州を守っていたところ、末帝(朱友貞)が決戦するよう命じ、諸将も戦いを望んだ。「主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、卒は怠惰」と嘆いた。やむなく州を攻めたが、李存勗に敗れた。このため黄河を渡って滑州に退いた。貞明六年(920)、朱友謙が王李存勗に降ると、同州に侵攻したが、の援軍に敗れた。段凝らに名声を忌まれて誣告され、毒殺された。
王鎔(874~921)
  祖先は回鶻の阿布思族の人。四世の祖の王庭湊以来、代々徳節度使をつとめた。中和三年(883)、父の王景崇の後を継いで徳節度使となった。末の戦乱において保身のために河東節度使の李克用や宣武節度使の朱全忠に次いで帰属した。盧龍節度使の李匡威と親交が深く、李匡威が追放されると軍中に迎え入れた。まもなく李匡威が四州を奪うと、兵を率いて李匡威を討ち滅ぼした。朱全忠が帝を称すると、後の正朔を奉じ、中書令・尚書令に任ぜられ、王に封ぜられた。晩年は崇仏求仙の心強く、広壮な私邸を築き、供応は頻繁で、民衆からの収奪は苛烈をきわめた。後の貞明七年(921)、兵変が起こり、部将の王徳明に殺された。
李振(?~923)
  字は興緒。代々郡守をつとめる家柄に生まれた。の末年、吾将軍・台州刺史となった。朱全忠に見いだされて天平軍節度副使となった。後が建国されると、宣義軍節度副使・検校司徒授殿中監となり、のちに戸部尚書に上った。朱友珪が立つと崇政院使に任ぜられた。後が滅びると処刑された。
王彦章(863~923)
  字は賢明。鄆州寿長の人。幼いころから軍卒となり、朱全忠に従った。戦いのたびに先鋒で勇戦し、王鉄槍の異名を取った。後が建国されると、濮・澶州刺史や汝・州防御使、許・滑州節度使などを歴任し、開国侯に封ぜられた。李存勗はかれを恐れて、かれの妻子を捕らえて誘ったが、使者を斬って拒んだ。龍徳三年(923)、後が鄆州を失陥して危地に陥ると、かれは北面招討使となり、百余戦して後の侵攻をはばみ続けた。兗・鄆の境で李嗣源に敗れ、中都に退いてまた敗れて捕らえられた。李存勗はかれを助けようとしたが、「に朝事しておきながら、に暮事できようか」「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」と言って拒否して斬られた。
敬翔(?~923)
  字は子振。同州馮翊の人。後に入って兵部尚書・銮殿大学士に累進した。朱友珪が立つと、中書侍郎・同平章事に任ぜられたが、病と称して出仕しなかった。末帝(朱友貞)のとき、たびたび上疏したが、巌らに憎まれて取りあげられなかった。後が滅びると自縊した。
寇彦卿(?~?)
  字は俊臣。開封の人。宣武軍の牙将をつとめた。朱全忠が宣武軍節度使となると、右長直都指揮使に累進した。の昭宗が鳳翔に逃れると、朱全忠の命を受けて彦卿は洛陽遷都を昭宗に迫った。昭宗が華州に行くと、彦卿はまた華州におもむいた。後が建国されると、感化軍節度使に任ぜられた。左大将軍・州防禦使・河陽節度使などを歴任した。末帝(朱友貞)が即位すると威勝軍節度使にうつった。
荊浩(?~?)
  字は浩然、号は洪谷子。河南沁水の人。経史に通じ、詩文をよくした。乱世を避けて太行山に隠遁した。とくに山水画にすぐれ、画風は雄渾高古といわれる。北宗画中興の祖とされる。『筆法記』。
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