0o0dグッ

五胡十六国

五胡十六国(読み)ごこじゅうろっこく(英語表記)Wu-hu shi-liu-guo; Wu-hu shih-liu-kuo
ごこじゅうろっこく ‥ジフロクコクごこじゅうろっこく〔ジフロクコク〕五胡十六国 Wǔ hú shí liù guó

中国,華北を中心とし, (のちの前趙 ) と 氐族の (前蜀,のちの) が独立した 304年から 439年北の統一により南北朝時代に入るまでの時代。また,その期間に興亡した諸国の総称。五胡とは,匈奴 (けつ) ,鮮卑,氐 (てい) ,羌 (きょう) 。十六国は,五胡人の建てた 19国のうちのおもな 16国をいう。この時代の文化はさしてみるべきものはなかったが,五胡の君主のなかにはみずから仏教を信奉したり,大衆教化を仏教に求めた者もあって,仏教は飛躍的展をとげた。

中国で、4世紀初頭から5世紀初めにかけて、五胡民族が華北に建てた16の国。また、その時代。

中国,華北の地に,304年前趙)の建国より439年北)が統一するまでの間に,五胡が建てた13国(前趙前燕後趙前秦後燕後秦西秦後涼北涼南燕南涼)と族の建てた3国(前涼西涼北燕)の総称。族の大部分は江南に移動し,東の王朝を建てたが,華北でも胡は族の豪族と提携したため,文化が失われることはなかった。後趙の石勒(せきろく),石虎,前秦の苻堅(ふけん),後涼の呂光,後秦の姚興(ようこう)らは仏教を尊崇し,西域より招いた僧の仏図澄(ぶっとちょう),鳩摩羅什(くまらじゅう)らにより,中国社会に仏教が根づいた。→魏晋南北朝時代/六朝(りくちょう)文化
→関連項目永嘉の乱|中華人民共和国

4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(せんぴ)(東胡系)・氐(てい)(チベット系)・羌(きよう)(チベット系)の非族で,これまでの族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形にまで展した,文化史上特色ある時代である。

中国、四世紀初頭の末から439年の北による華北統一まで、華北に興亡した五胡および人の建てた王朝の総称。また、その時代。

4世紀から5世紀初めの中国北部に興亡した国家群、ならびにその時代名。五胡とは匈奴(きょうど)、(けつ)(匈奴の別種)、(てい)(チベット種)、羌(きょう)(チベット種)、鮮卑(せんぴ)(トルコ種説が強い)をさすが、十六国中には人の国も含まれる。[窪添慶文]
五胡時代の大勢目次を見る
匈奴の劉淵(りゅうえん)が王を称し、巴蛮(はばん)(の一種)の李雄(りゆう)が都王を称し、304年、五胡十六国時代が始まる。は311年に洛陽(らくよう)を陥落させて懐帝を捕らえ(永嘉(えいか)の乱)、316年には長安を落として愍帝(びんてい)を捕らえ、西晋(せいしん)を滅ぼした。その後は、南方に東があり、華北には五胡諸国の争覇という状況が続くが、五胡の争覇の過程では東西に二大勢力が対立する傾向がみられる。すなわち、前趙(ぜんちょう)(の改称)に対しては、もと劉淵の武将であった石勒(せきろく)の建てた後趙が襄国(じょうこく)に都を置いて対抗し、勝ち残った後趙が内部崩壊したあとは、(ぎょう)に拠(よ)る慕容(ぼよう)氏の前燕(ぜんえん)と、長安に拠る前秦(ぜんしん)が対峙(たいじ)し、五胡第一の名君と評される苻堅(ふけん)統治下で前秦前燕を倒し、ついで代、前涼(ぜんりょう)2国をも滅ぼして376年に華北統一に功、西域(せいいき)にも勢力を広げる。しかし中国統一を賭(か)けた東遠征に383年水(ひすい)で敗れると、前秦支配下の各種族は一に独立に向かい、400年の時点で9国が分立するという極度の分裂状態を現出した。そのうち中心となったのは前燕の系譜を引く後燕と長安に拠る後秦であったが、旧代国の後身である北(ほくぎ)が前者を中原(ちゅうげん)から駆逐して強大化し、439年には華北統一に功、五胡十六国時代に幕を下ろす。以後は、東にかわって420年江南に立していた(そう)と北が対峙する南北朝時代に入る。[窪添慶文]
五胡時代の背景目次を見る
十六国以外にも、短命の西や北の前身である代の諸国があり、さらには丁零(ていれい)の(てき)氏などの小政権がみられ、この時代は政治的分裂を第一の特色とする。しかし五胡の活動のみがそれを引き起こしたのではない。黄巾(こうきん)の乱から三国分立と、2世紀末よりすでに分裂の様は深く、それは豪族勢力の伸張という中国社会内部の変化と深い関係をもっていた。その背景のなかで直接に五胡の蜂起(ほうき)を触したのが八王の乱によるの中央政府の弱体化であり、しかも八王らは異民族の武力を導入して互いに争ったのである。
 また五胡諸族は、多く以降の中国の対外展の結果として中国の支配下に取り込まれた存在である。1世紀に後漢(ごかん)に下って長城南辺に置かれた南匈奴は、3世紀には山西省全域に分布し、西方のや羌も後漢の討伐を受け甘粛(かんしゅく)や陝西(せんせい)に移されていた。しかも南匈奴にみられるように人に圧迫され隷属的地位に落とされていた。蜂起はそのような状況における自立性回復の試みであった。
 このように中国社会の内部的、対外的展の招いた矛盾が五胡時代を生んだといえよう。[窪添慶文]
胡族による支配目次を見る
この時代における特色の第二は、胡族による族支配の立にある。支配種族を中心とする非族(胡族)が、遊牧時代の部族制を維持しつつ組織され、国軍の主要構員として胡族による支配の中核を形する。国軍を分掌するのは多く宗室の一員である諸王である。一方、族に対しては多くの場合、以来の郡県制を適用し、官僚を媒介とする統治を行った。族と胡族と形態を異にする二重支配体制が実施されたわけであり、その全体を統治したのが皇帝もしくは天王であった(王や公の称号にとどまった国もある)。なお胡族を統治する称号として前・後趙などでは大単于(ぜんう)があったが、前燕では帝号をとるとともに廃されるなどその存否は一定せず、かつそれへの就任者が皇太子など次期皇帝候補者であることにみられるように、皇帝号の下位に置かれていた。ところで、以上の体制は、国軍を分掌する諸王の内部抗争によって動揺しやすく、五胡の諸国はおおむね短命に終わらざるをえなかった。その弱点のいちおうの解決は、部族解散を断行した北をまたねばならなかった。
 五胡の諸国は人統治の必要上、人豪族を地方官や将軍に任じてその秩序維持能力を利用する一方、積極的に知識人を登用した。後趙の石勒(せきろく)の設けた君子営は著名であって名臣張賓(ちょうひん)を出し、前秦の制覇には人名宰王猛の寄与が大きい。なお、五胡諸国においては、征服地域の人民や兵士を国都の辺に移(徙(うつ))して自らの支配を固める徙民(しみん)政策が多くとられていることにも留意する必要がある。
 五胡の諸君主は一般に仏教に深い関心を示した。後趙が仏図澄(ぶっとちょう)に対したような高僧のもつ神異的能力の利用、あるいは人心の収攬(しゅうらん)を図ったのであるが、その結果仏教の盛行を招いた。敦煌(とんこう)の石窟(せっくつ)の開かれたのは前秦統治時期においてであった。君主の尊崇を受けた僧としては、ほかに前秦の道安、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)が名高く、とくに後者の訳経事業は貴重である。
 五胡時代は政治的分裂を特色とするが、胡族という要素を含み、(ずい)・へつながる第一歩を記した時代として評価すべきであろう。[窪添慶文]
[参照項目] | 南北朝

五胡十六国時代の華北

五胡十六国王朝交替表

中国、晉末から南北朝時代が始まるまで、華北に興亡した五胡人の建てた王朝およびその時代の総称。十六国は、匈奴(きょうど)の建てた前趙)・北涼(けつ)の後趙鮮卑(せんぴ)の西秦前燕後燕南燕南涼、氐(てい)の前秦後涼)、羌(きょう)の後秦人の北燕前涼西涼をいう。八王の乱以後、晉の統制力がゆるんだのに乗じ、五胡が蜂起。三〇四年、匈奴の族長劉淵がを建ててから、四三九年、鮮卑の拓跋氏の建てた北が華北を統一するまで各地で割拠した。

西晋末期より1世紀余りの間(304〜439),匈奴 (きようど) ・鮮卑 (せんぴ) ・ (けつ) ・氐 (てい) ・羌 (きよう) の五民族および民族が華北に建設した小国
五胡のうち,前三者が北方遊牧民族,後二者がチベット系民族と考えられる。後漢 (ごかん) ・三国のころから中国の北西部に侵入していたが,八王の乱に乗じて蜂起し,華北に割拠した。匈奴前趙)・北涼鮮卑前燕後燕西秦南燕南涼後趙,氐の前秦後涼,羌の後秦のほか,民族の建国した前涼西涼北燕がある。439年,北により華北が統一され,それ以降,華中の民族と対立する南北朝時代にはいる。五胡十六国時代は,中国史を貫いてみられる農耕民族と遊牧民族の抗争の顕著な例である。