伝説
-1600000 | 伝説[前約160万年] | |||
-3350 | 三皇五帝 伏犠(包犠)-女媧-神農-黄帝―帝顓頊-帝嚳-堯―舜(上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
-3350 | 上古時代 -三皇 伏羲氏 天皇 太昊[-3350年~-3040年](-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
姓は風。包犠。太皞(たいこう)。人頭蛇身の神。雷沢に生まれ、東夷の首長となった。燧人氏に代わって王となり、陳に都を置き、在位百十一年で崩じた。八卦をまとめ、料理や婚姻制度などを人間に教えたという。三皇のひとり。太コウの神話と南方(古代苗族)起源の兄妹神説話が混淆して成立したらしい。 | ||||
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。 | ||||
-3040 | 上古時代 -三皇 神農氏 地皇 炎帝[-3040年~-2510年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。太陽神・農業神・医学(漢方)神であり、また降雨をつかさどった。薬草の毒を呑んで死んだ。三皇のひとり。西方(古代羌族)起源の神らしい。 | ||||
中国の伝承で崇拝される帝王、賢人、神のことで三皇は伏羲、神農、軒轅。五帝は黄帝、高陽、高辛、堯、舜。伝説時代ということになっています。 | ||||
中国古代、伝説上の帝王。 三皇は、伏義(ふくぎ)、神農(しんのう)、女媧(じょか)。 五帝は、黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、尭(ぎょう)、舜(しゅん)。 | ||||
-2550 | 黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、尭(ぎょう)、舜(しゅん)と呼ばれる五帝が支配した伝説の時代[~前2140年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-史記年表- | |||
-2510 | 上古時代 -三皇 軒轅氏 泰皇 黄帝[-2510年~-2448年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に成長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を涿鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の雞頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを発明したとされる。 | ||||
-2448 | 上古時代 -五帝 金天氏 少昊 姫玄囂[-2448年~-2364年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
名は摯、字は青陽。金天氏。黄帝の長男。曲阜に都を置いた。在位百年にして崩じた。五帝のひとりと数えられることもある。 | ||||
-2364 | 上古時代 -五帝 高陽氏 帝顓頊 姫顓頊[-2364年--2286年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
高陽氏。昌意の子。母は昌僕。黄帝の孫にあたる。黄帝が没すると、帝位についた。鬼神をうやまい、万人を教化し、四方遠国にいたるまで彼の徳治に服したという。五帝のひとり。 | ||||
-2286 | 上古時代 -五帝 高辛氏 帝嚳 姫夋[-2286年--2216年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
高辛氏。蟜極の子。黄帝の曾孫にあたる。顓頊の跡をついで天子となった。明晰仁慈で、人民に恩徳を施し、天下は彼のもとに服した。音楽を愛したという。五帝のひとり。かれに才子八人があり、八元と称された。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍である。 | ||||
-2216 | 上古時代 -五帝 青陽氏 帝摯 姫摯[-2216年~-2213年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
-2213 | 上古時代 -五帝 陶唐氏 帝堯 依祁放勛[-2213年~-2115年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
名は放勲。陶唐氏。帝嚳の子。母は陳鋒氏。兄の帝摯の跡を継いで天子となった。後代に理想の治世とされた聖天子とされる。その生活は質素で、宮殿とは名ばかりの茅葺き小屋に住んだ。四岳を任じて補佐させ、羲氏と和氏に命じて暦を正させた。かれの統治のもと、九族は睦み合い、百官は公正となり、万邦は帰服し、不和争乱がなくなったという。晩年には舜を見出して摂政とした。五帝のひとり。その説話の多くは西方(古代羌族)起源と思われる。 | ||||
弓の名人で狩猟にすぐれた。帝堯のころ、十個の太陽が同時に昇り、干害に苦しめられたとき、九個の太陽を射落としたという。天帝の怒りを買い、神籍を剥奪された。不死の薬を求めて崑崙に赴き、西王母に薬を与えられるが、妻の嫦娥に奪われた。東夷系民族起源の神話人物らしい。のちの夏の代になって、太康を王都より逐った人物としても名が見える。 | ||||
-2112 | 上古時代 -五帝 有虞氏 帝舜 姚重華[-2112年~-2073年](上古時代-シナ大陸-シナ伝説)-- | |||
姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。冀州の人。瞽叟の子。母は握登。姚丘に生まれた。目の中にふたつの瞳をもったといわれる。生母を早く亡くし、継母や弟の悪行に悩まされた。歴山で耕作し、雷沢で漁した。四獄に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。親族にたびたび殺されかけたが、妻の機転で危急を救われた。のちに堯帝に仕えて摂政となった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定めた。共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山に追放した。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した鯀を東の羽山に追いやった。堯帝の死後、堯の子の丹朱に譲ったが、天下の人心はおのずから舜に帰し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治した。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。 | ||||
盤古氏、混沌氏。天地創造神とされる。はじめ混沌から天地が分かれたとき、その中間にあって一日一丈背を伸ばし、一万八千年かけて九万里に及んだ。天地の間に立って天を支えていたが、死んだときその死体から万物が生まれたという。南方(古代苗族)起源の開闢説話の神らしい。 | ||||
燧皇。上古の世に人々は果実や鳥獣や魚介類などを生で食していたが、胃をこわし疾病が多かった。かれが火を起こして食物をあたためて臭いを避け毒を取り去ることを民に教えたので、推されて王となった。三皇のひとりと数えられることもある。 | ||||
大巣氏。上古の世に人々は少なく禽獣は多く、野に穴居して禽獣虫蛇の害に遭っていた。かれが巣居を発明して、木を組んで巣とすることを教えた。このため害を避けられたので、推されて王となった。 | ||||
祝庸、祝誦とも。帝として立ち、鄭に住んだ。三皇のひとりと数えられることもある。また黄帝のときの六相のうちで南方をつかさどる。ほか帝嚳のときの火官を指し、重黎が祝融となったという。 | ||||
蚩蚘、蚩郵とも。姓は姜。阪泉氏。炎帝の後裔で、諸侯の中でもっとも凶暴であった。黄帝と涿鹿で決戦して敗れて殺された。かれの遺体は二カ所に分けて葬られ、ひとつは山東省陽谷寿張にあって蚩尤冢といい、ひとつは山東省巨野にあって肩髀冢という。 | ||||
黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいう。海隅で黄帝に仕え、相に上った。六相のうちで西方をつかさどる。著に『風后兵法』があったとされる。 | ||||
力墨、力黒ともいう。大沢で黄帝に仕え、将軍となった。黄帝のもとで相に上った。著に『力牧兵法』があったとされる。 力牧は古代中国の神話中に出てくる英雄で道家の前身です。力牧と風后、太昊は黄帝に尽くし、多大なる功績をあげて黄帝の大臣となりました。 言い伝えによると、力牧はもともとは畜牧氏族の首領で黄帝に請われて大将になりました。この時力牧という名に変えたと言います。力牧は牧という姓の始祖でもあります。力牧は弓術に秀でており、力が強かったので非常に強力な弓を引くことができたと言います。黄帝は力牧を丞相に任じました。 力牧の後代に、一部は力姓に、残りは牧姓に分かれてしまったと言います。この話によると、力姓と牧姓は本来は同一で両姓とも力牧が祖先となります。 黄帝の力牧登用 黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っているとき、敗戦に次ぐ敗戦で危機に瀕していました。蚩尤軍は屈強で蚩尤の兄弟を始めとして命知らずの猛者たちが揃っており、この軍勢を相手に勝利するためには有能な人材が必要不可欠でした。 蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神 黄帝はある日奇妙な夢を見ました。夢の中では大風が吹いて地上の土や垢を拭い去っていました。別の夢では一人の千鈞の力を持っている人物が強弩を引き、千万頭の羊を牧しているという内容でした。 黄帝は夢から覚めると奇妙に感じ長く考えた末に悟りました。”風は号令の象徴で、執政者である。また、垢という字から土を取り除くと后となる。従って、これは風という姓と后という名の人物の事を指していて、その人物に国政を行わせるということだ。そして同様に千鈞の弩は力のある者の象徴で、千万頭の羊を牧していたことから民衆を導くことができる。即ち力という姓と牧という名の人物の事である。”と。 このあと、黄帝は部下風后と力牧を捜索させ、夢の通り風后と力牧を見つけることが出来ました。黄帝は力牧を黄帝軍の将軍に任命しました。力牧は黄帝の期待に応え、蚩尤と戦った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の中で多大なる戦功を上げて蚩尤に勝利しました。 車の発明 力牧はただ軍を率いただけではなく、発明により古代中国社会に多大なる貢献をしました。その発明品とは車です。 車は荷台などに車輪を設置して作られますが、重いものを運ぶ際には無くてはならない道具です。車輪は最初は石で作られていましたが、それが木製になり、その後鉄製となり、遊牧生活にとっても必需品となりました。 この発明により人々の労力は大幅に軽減され、各分野の生産性を向上させました。そして車は兵器にも応用され、戦車の創造へと繋がります。 | ||||
号は大鴻。黄帝に仕え、大臣となった。 | ||||
黄帝に史として仕えた。文字を作ったという。 | ||||
羿の妻。不死の薬を夫より奪って月に逃げたが、蝦蟇に姿を変えられてしまった。このことから嫦娥は月の別名とされた。 | ||||
許繇とも。有徳の人で、沛沢に隠れ住んだ。堯帝が天子の位を譲ろうとしたが、それを拒絶し、潁水の北、箕山のふもとに逃れたという。また堯が九州の長として召そうとしたところ、聞き入れず、潁水の浜で耳を洗ったという。一説に巣父と同一人物という。 | ||||
姓は偃、字は庭堅。曲阜に生まれた。堯に見出されて仕えた。舜の代に、士となって公平に裁判をおこなったという。禹の代となり間もなく没した。のちに子孫は英、六の二国の祖となったという。西方(古代羌族)起源の説話人物らしい。 | ||||
名は鏗。陸終氏。顓頊の後裔。堯に見出されて仕えた。殷のとき、大彭に封ぜられた。寿命が長かったことで知られる。 | ||||
大鴻(たいこう da4hong2 ダーホン) 大鴻は《史記・五帝本紀》に、”黄帝の大臣で、風后、力牧、常先と共に黄帝を補佐した。鬼臾区(神話時代の医師)は大鴻と号した。死後は雍に葬られ、故に鴻塚という。”とあります。 《史記・封禅書》にも、”鬼臾区は大鴻と号し、黄帝の大臣也。”と書いてあります。同様の記述は《史記・孝武本紀》にも見られ、”鬼臾区は大鴻と号し、死後に雍に葬られ、故に鴻塚これ也。”とあります。 伝説では、大鴻は具茨山で黄帝の軍隊を訓練し、後世の人々は大鴻が練兵を行った峰を大鴻山と呼び、兵の駐屯地を大鴻寨と呼びました。この場所は今の浅井郷の大鴻寨村と大鴻寨山と言われています。 | ||||
名は棄。周の遠祖とされる。母の姜源は巨人の足音に感応してかれを産んだという。農耕を好み、五穀を植え育てて収穫することを民に教えた。堯・舜・禹の三代に仕えた。舜のとき、農師となった。功により邰に封ぜられ、后稷と号した。子孫は代々稷に住み、周の文王・武王にいたって天子となった。 |
[伝説]
盤古氏、混沌氏。天地創造神とされる。はじめ混沌から天地が分かれたとき、その中間にあって一日一丈背を伸ばし、一万八千年かけて九万里に及んだ。天地の間に立って天を支えていたが、死んだときその死体から万物が生まれたという。南方(古代苗族)起源の開闢説話の神らしい。 | シナ伝説 |
燧皇。上古の世に人々は果実や鳥獣や魚介類などを生で食していたが、胃をこわし疾病が多かった。かれが火を起こして食物をあたためて臭いを避け毒を取り去ることを民に教えたので、推されて王となった。三皇のひとりと数えられることもある。 | シナ伝説 |
大巣氏。上古の世に人々は少なく禽獣は多く、野に穴居して禽獣虫蛇の害に遭っていた。かれが巣居を発明して、木を組んで巣とすることを教えた。このため害を避けられたので、推されて王となった。 | シナ伝説 |
姓は風。包犠。太皞(たいこう)。人頭蛇身の神。雷沢に生まれ、東夷の首長となった。燧人氏に代わって王となり、陳に都を置き、在位百十一年で崩じた。八卦をまとめ、料理や婚姻制度などを人間に教えたという。三皇のひとり。太コウの神話と南方(古代苗族)起源の兄妹神説話が混淆して成立したらしい。 | シナ伝説 |
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。 | シナ伝説 |
祝庸、祝誦とも。帝として立ち、鄭に住んだ。三皇のひとりと数えられることもある。また黄帝のときの六相のうちで南方をつかさどる。ほか帝嚳のときの火官を指し、重黎が祝融となったという。 | シナ伝説 |
炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。太陽神・農業神・医学(漢方)神であり、また降雨をつかさどった。薬草の毒を呑んで死んだ。三皇のひとり。西方(古代羌族)起源の神らしい。 | シナ伝説 |
蚩蚘、蚩郵とも。姓は姜。阪泉氏。炎帝の後裔で、諸侯の中でもっとも凶暴であった。黄帝と涿鹿で決戦して敗れて殺された。かれの遺体は二カ所に分けて葬られ、ひとつは山東省陽谷寿張にあって蚩尤冢といい、ひとつは山東省巨野にあって肩髀冢という。 | シナ伝説 |
姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に成長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を涿鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の雞頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを発明したとされる。 | シナ伝説 |
黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいう。海隅で黄帝に仕え、相に上った。六相のうちで西方をつかさどる。著に『風后兵法』があったとされる。 | シナ伝説 |
力墨、力黒ともいう。大沢で黄帝に仕え、将軍となった。黄帝のもとで相に上った。著に『力牧兵法』があったとされる。 力牧は古代中国の神話中に出てくる英雄で道家の前身です。力牧と風后、太昊は黄帝に尽くし、多大なる功績をあげて黄帝の大臣となりました。 言い伝えによると、力牧はもともとは畜牧氏族の首領で黄帝に請われて大将になりました。この時力牧という名に変えたと言います。力牧は牧という姓の始祖でもあります。力牧は弓術に秀でており、力が強かったので非常に強力な弓を引くことができたと言います。黄帝は力牧を丞相に任じました。 力牧の後代に、一部は力姓に、残りは牧姓に分かれてしまったと言います。この話によると、力姓と牧姓は本来は同一で両姓とも力牧が祖先となります。 黄帝の力牧登用 黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っているとき、敗戦に次ぐ敗戦で危機に瀕していました。蚩尤軍は屈強で蚩尤の兄弟を始めとして命知らずの猛者たちが揃っており、この軍勢を相手に勝利するためには有能な人材が必要不可欠でした。 蚩尤:中国神話中で最も恐れられた荒れ狂う不死身の戦神 黄帝はある日奇妙な夢を見ました。夢の中では大風が吹いて地上の土や垢を拭い去っていました。別の夢では一人の千鈞の力を持っている人物が強弩を引き、千万頭の羊を牧しているという内容でした。 黄帝は夢から覚めると奇妙に感じ長く考えた末に悟りました。”風は号令の象徴で、執政者である。また、垢という字から土を取り除くと后となる。従って、これは風という姓と后という名の人物の事を指していて、その人物に国政を行わせるということだ。そして同様に千鈞の弩は力のある者の象徴で、千万頭の羊を牧していたことから民衆を導くことができる。即ち力という姓と牧という名の人物の事である。”と。 このあと、黄帝は部下風后と力牧を捜索させ、夢の通り風后と力牧を見つけることが出来ました。黄帝は力牧を黄帝軍の将軍に任命しました。力牧は黄帝の期待に応え、蚩尤と戦った涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の中で多大なる戦功を上げて蚩尤に勝利しました。 車の発明 力牧はただ軍を率いただけではなく、発明により古代中国社会に多大なる貢献をしました。その発明品とは車です。 車は荷台などに車輪を設置して作られますが、重いものを運ぶ際には無くてはならない道具です。車輪は最初は石で作られていましたが、それが木製になり、その後鉄製となり、遊牧生活にとっても必需品となりました。 この発明により人々の労力は大幅に軽減され、各分野の生産性を向上させました。そして車は兵器にも応用され、戦車の創造へと繋がります。 | シナ伝説 |
号は大鴻。黄帝に仕え、大臣となった。 | シナ伝説 |
黄帝に史として仕えた。文字を作ったという。 | シナ伝説 |
名は摯、字は青陽。金天氏。黄帝の長男。曲阜に都を置いた。在位百年にして崩じた。五帝のひとりと数えられることもある。 | シナ伝説 |
顓頊(?~?) 高陽氏。昌意の子。母は昌僕。黄帝の孫にあたる。黄帝が没すると、帝位についた。鬼神をうやまい、万人を教化し、四方遠国にいたるまで彼の徳治に服したという。五帝のひとり。 | シナ伝説 |
高辛氏。蟜極の子。黄帝の曾孫にあたる。顓頊の跡をついで天子となった。明晰仁慈で、人民に恩徳を施し、天下は彼のもとに服した。音楽を愛したという。五帝のひとり。かれに才子八人があり、八元と称された。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍である。 | シナ伝説 |
名は放勲。陶唐氏。帝嚳の子。母は陳鋒氏。兄の帝摯の跡を継いで天子となった。後代に理想の治世とされた聖天子とされる。その生活は質素で、宮殿とは名ばかりの茅葺き小屋に住んだ。四岳を任じて補佐させ、羲氏と和氏に命じて暦を正させた。かれの統治のもと、九族は睦み合い、百官は公正となり、万邦は帰服し、不和争乱がなくなったという。晩年には舜を見出して摂政とした。五帝のひとり。その説話の多くは西方(古代羌族)起源と思われる。 | シナ伝説 |
弓の名人で狩猟にすぐれた。帝堯のころ、十個の太陽が同時に昇り、干害に苦しめられたとき、九個の太陽を射落としたという。天帝の怒りを買い、神籍を剥奪された。不死の薬を求めて崑崙に赴き、西王母に薬を与えられるが、妻の嫦娥に奪われた。東夷系民族起源の神話人物らしい。のちの夏の代になって、太康を王都より逐った人物としても名が見える。 | シナ伝説 |
羿の妻。不死の薬を夫より奪って月に逃げたが、蝦蟇に姿を変えられてしまった。このことから嫦娥は月の別名とされた。 | シナ伝説 |
許繇とも。有徳の人で、沛沢に隠れ住んだ。堯帝が天子の位を譲ろうとしたが、それを拒絶し、潁水の北、箕山のふもとに逃れたという。また堯が九州の長として召そうとしたところ、聞き入れず、潁水の浜で耳を洗ったという。一説に巣父と同一人物という。 | シナ伝説 |
姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。冀州の人。瞽叟の子。母は握登。姚丘に生まれた。目の中にふたつの瞳をもったといわれる。生母を早く亡くし、継母や弟の悪行に悩まされた。歴山で耕作し、雷沢で漁した。四獄に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。親族にたびたび殺されかけたが、妻の機転で危急を救われた。のちに堯帝に仕えて摂政となった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定めた。共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山に追放した。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した鯀を東の羽山に追いやった。堯帝の死後、堯の子の丹朱に譲ったが、天下の人心はおのずから舜に帰し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治した。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。 | シナ伝説 |
姓は偃、字は庭堅。曲阜に生まれた。堯に見出されて仕えた。舜の代に、士となって公平に裁判をおこなったという。禹の代となり間もなく没した。のちに子孫は英、六の二国の祖となったという。西方(古代羌族)起源の説話人物らしい。 | シナ伝説 |
名は鏗。陸終氏。顓頊の後裔。堯に見出されて仕えた。殷のとき、大彭に封ぜられた。寿命が長かったことで知られる。 | シナ伝説 |
名は棄。周の遠祖とされる。母の姜源は巨人の足音に感応してかれを産んだという。農耕を好み、五穀を植え育てて収穫することを民に教えた。堯・舜・禹の三代に仕えた。舜のとき、農師となった。功により邰に封ぜられ、后稷と号した。子孫は代々稷に住み、周の文王・武王にいたって天子となった。 | シナ伝説 |
大鴻(たいこう da4hong2 ダーホン) 大鴻は《史記・五帝本紀》に、”黄帝の大臣で、風后、力牧、常先と共に黄帝を補佐した。鬼臾区(神話時代の医師)は大鴻と号した。死後は雍に葬られ、故に鴻塚という。”とあります。 《史記・封禅書》にも、”鬼臾区は大鴻と号し、黄帝の大臣也。”と書いてあります。同様の記述は《史記・孝武本紀》にも見られ、”鬼臾区は大鴻と号し、死後に雍に葬られ、故に鴻塚これ也。”とあります。 伝説では、大鴻は具茨山で黄帝の軍隊を訓練し、後世の人々は大鴻が練兵を行った峰を大鴻山と呼び、兵の駐屯地を大鴻寨と呼びました。この場所は今の浅井郷の大鴻寨村と大鴻寨山と言われています。 | シナ伝説 |
三皇五帝 帝 代 帝王名 本名 読み 2 顓頊 せんぎょく 3 帝嚳 公孫夋 ていこく(こうそん しゅん) 4 尭 伊祈放勲 ぎょう(いき ほうくん) 5 舜 姚重華 しゅん(よう ちょうか) | シナ伝説 |
常先(じょうせん chang2xian1 チャンシエン) 常先は黄帝の大臣であり、数々の狩猟工具を発明したことでも有名です。ある日、常先は一等の野牛を捕らえ、皮を剥いでその皮を木の切り株の上に置きました。切り株の内部は空洞で両腕で抱えられるくらいの太さでした。時間が経つと常先は皮の事をすっかり忘れてしまいました。皮は渇き段々と縮まり切り株の表面を塞ぐように締め付けました。 ある日、王亥が馬を駆けていた時、賈斉という若者が木の切り株を覆っている野牛の皮を見つけました。その皮を叩いてみるとよく響く音が出ました。今度は少し強く叩いてみたところ音はさらに大きくなり、賈斉は面白くなって二本の木の棒を見つけてきて続けざまに強くたたきました。すると辺りには雷が鳴ったような音が響き渡り、近くにいた王亥の馬がその音に驚き、王亥を残して走り去ってしまいました。 王亥は何事かと思い音のする方へと言ってみると、賈斉が何かを叩いているのを見つけました。賈斉に何をしているのかを尋ねていたちょうどその時、常先がやってきました。そして賈斉と王亥の両者から話を聞き、何が起こったのかを悟りました。 この出来事により、賈斉が乾燥させた野牛の皮で作った太鼓をたたいた最初の人物となりました。 玄女が夢で托す 黄帝と蚩尤とが雌雄を決した涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の前、玉黄大帝は黄帝の元に九天玄女を遣わして《兵書》を送りました。その時、玄女は大きな木の下で常先が寝ているのを見つけました。もう一度見ると、常先が太鼓に合う皮が無く思い悩んでいたことを知りました。玄女は常先を起こして話をしたかったのですが、天女が凡夫と話をすることは禁じられていたため、あることを夢に托しました。 その夢の内容は、東海に流坡山という山があり、山中に怪獣がおり、形状は牛のようであるが角はなく足は一本しかない。平素はあまり活動しないが、一度出現すると海洋上には風は吹かあないが雨が降り出す。二つの眼は光を放っており、太陽と月と同様に光り、怒って吼えると雷の音よりもさらに大きな声を出す。その怪獣の名は夔牛(きぎゅう)という。 夔牛に関しては以下をご覧ください! 夔:伝説によるとこの世のどこかにあと一匹存在する一本足の牛 さらに、雷澤に一匹の雷獣がおり、毎日憂慮なく過ごしており、仰向けに寝そべることが好きであった。爪で腹をつつき楽を成し、腹を叩けば巨大な雷が起こった。 そして九天玄女は、”夔牛の皮で太鼓を造り、その太鼓を雷獣の骨で造ったバチで叩くと地は動き山を揺るがす威力を得ることができる。”と言いました。 常先は目覚めると、夢の出来事を黄帝に話しました。黄帝はこれを聞くと応龍と大鴻と水泳が得意な者たちを派遣して海に入りその怪獣を捕まえるように命じました。程なくして夔牛と雷獣は捕らえられました。そして50日かけて常先の設計した通りの80面の夔牛の太鼓を、160本の雷獣の骨のバチが完成しました。 涿鹿の戦い(たくろくのたたかい)の際に、80面の太鼓を伏兵させ、蚩尤が突撃してきた際に一斉に打ち鳴らしました。不意打ちを受けた蚩尤軍の兵士たちは交戦する前にその大きな音で倒れてしまい、大混乱に陥りました。 その機を逃さず黄帝は太鼓の合図で総攻撃を開始して、蚩尤を涿鹿の野で打ち破りました。この戦い以降、太鼓は戦争において必須の道具となり戦鼓と呼ばれました。 | シナ伝説 |
[註]
1.コウ=コウ
↓次の時代=夏
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[伝説]
盤古(?~?)
盤古氏、混沌氏。天地創造神とされる。はじめ混沌から天地が分かれたとき、その中間にあって一日一丈背を伸ばし、一万八千年かけて九万里に及んだ。天地の間に立って天を支えていたが、死んだときその死体から万物が生まれたという。南方(古代苗族)起源の開闢説話の神らしい。
燧人氏(?~?)
燧皇。上古の世に人々は果実や鳥獣や魚介類などを生で食していたが、胃をこわし疾病が多かった。かれが火を起こして食物をあたためて臭いを避け毒を取り去ることを民に教えたので、推されて王となった。三皇のひとりと数えられることもある。
有巣氏(?~?)
大巣氏。上古の世に人々は少なく禽獣は多く、野に穴居して禽獣虫蛇の害に遭っていた。かれが巣居を発明して、木を組んで巣とすることを教えた。このため害を避けられたので、推されて王となった。
伏羲(?~?)
姓は風。包犠。太コウ※1。人頭蛇身の神。雷沢に生まれ、東夷の首長となった。燧人氏に代わって王となり、陳に都を置き、在位百十一年で崩じた。八卦をまとめ、料理や婚姻制度などを人間に教えたという。三皇のひとり。太コウの神話と南方(古代苗族)起源の兄妹神説話が混淆して成立したらしい。
女?(?~?)
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女?は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。
祝融(?~?)
祝庸、祝誦とも。帝として立ち、鄭に住んだ。三皇のひとりと数えられることもある。また黄帝のときの六相のうちで南方をつかさどる。ほか帝?のときの火官を指し、重黎が祝融となったという。
神農(?~?)
炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。太陽神・農業神・医学(漢方)神であり、また降雨をつかさどった。薬草の毒を呑んで死んだ。三皇のひとり。西方(古代羌族)起源の神らしい。
蚩尤(?~?)
蚩?、蚩郵とも。姓は姜。阪泉氏。炎帝の後裔で、諸侯の中でもっとも凶暴であった。黄帝と?鹿で決戦して敗れて殺された。かれの遺体は二カ所に分けて葬られ、ひとつは山東省陽谷寿張にあって蚩尤冢といい、ひとつは山東省巨野にあって肩髀冢という。
黄帝(?~?)
姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に成長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を?鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の?頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを発明したとされる。
風后(?~?)
黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいう。海隅で黄帝に仕え、相に上った。六相のうちで西方をつかさどる。著に『風后兵法』があったとされる。
力牧(?~?)
力墨、力黒ともいう。大沢で黄帝に仕え、将軍となった。黄帝のもとで相に上った。著に『力牧兵法』があったとされる。
鬼臾区(?~?)
号は大鴻。黄帝に仕え、大臣となった。
蒼頡(?~?)
黄帝に史として仕えた。文字を作ったという。
少昊(?~?)
名は摯、字は青陽。金天氏。黄帝の長男。曲阜に都を置いた。在位百年にして崩じた。五帝のひとりと数えられることもある。
??(?~?)
高陽氏。昌意の子。母は昌僕。黄帝の孫にあたる。黄帝が没すると、帝位についた。鬼神をうやまい、万人を教化し、四方遠国にいたるまで彼の徳治に服したという。五帝のひとり。
帝?(?~?)
高辛氏。?極の子。黄帝の曾孫にあたる。??の跡をついで天子となった。明晰仁慈で、人民に恩徳を施し、天下は彼のもとに服した。音楽を愛したという。五帝のひとり。かれに才子八人があり、八元と称された。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍である。
帝堯(?~?)
名は放勲。陶唐氏。帝?の子。母は陳鋒氏。兄の帝摯の跡を継いで天子となった。後代に理想の治世とされた聖天子とされる。その生活は質素で、宮殿とは名ばかりの茅葺き小屋に住んだ。四岳を任じて補佐させ、羲氏と和氏に命じて暦を正させた。かれの統治のもと、九族は睦み合い、百官は公正となり、万邦は帰服し、不和争乱がなくなったという。晩年には舜を見出して摂政とした。五帝のひとり。その説話の多くは西方(古代羌族)起源と思われる。
?(?~?)
弓の名人で狩猟にすぐれた。帝堯のころ、十個の太陽が同時に昇り、干害に苦しめられたとき、九個の太陽を射落としたという。天帝の怒りを買い、神籍を剥奪された。不死の薬を求めて崑崙に赴き、西王母に薬を与えられるが、妻の嫦娥に奪われた。東夷系民族起源の神話人物らしい。のちの夏の代になって、太康を王都より逐った人物としても名が見える。
嫦娥(?~?)
?の妻。不死の薬を夫より奪って月に逃げたが、蝦蟇に姿を変えられてしまった。このことから嫦娥は月の別名とされた。
許由(?~?)
許?とも。有徳の人で、沛沢に隠れ住んだ。堯帝が天子の位を譲ろうとしたが、それを拒絶し、潁水の北、箕山のふもとに逃れたという。また堯が九州の長として召そうとしたところ、聞き入れず、潁水の浜で耳を洗ったという。一説に巣父と同一人物という。
帝舜(?~?)
姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。冀州の人。瞽叟の子。母は握登。姚丘に生まれた。目の中にふたつの瞳をもったといわれる。生母を早く亡くし、継母や弟の悪行に悩まされた。歴山で耕作し、雷沢で漁した。四獄に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。親族にたびたび殺されかけたが、妻の機転で危急を救われた。のちに堯帝に仕えて摂政となった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定めた。共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山に追放した。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した鯀を東の羽山に追いやった。堯帝の死後、堯の子の丹朱に譲ったが、天下の人心はおのずから舜に帰し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治した。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。
皋陶(?~?)
姓は偃、字は庭堅。曲阜に生まれた。堯に見出されて仕えた。舜の代に、士となって公平に裁判をおこなったという。禹の代となり間もなく没した。のちに子孫は英、六の二国の祖となったという。西方(古代羌族)起源の説話人物らしい。
彭祖(?~?)
名は鏗。陸終氏。??の後裔。堯に見出されて仕えた。殷のとき、大彭に封ぜられた。寿命が長かったことで知られる。
后稷(?~?)
名は棄。周の遠祖とされる。母の姜源は巨人の足音に感応してかれを産んだという。農耕を好み、五穀を植え育てて収穫することを民に教えた。堯・舜・禹の三代に仕えた。舜のとき、農師となった。功により?に封ぜられ、后稷と号した。子孫は代々稷に住み、周の文王・武王にいたって天子となった。
[註]
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