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倭人から見た朝鮮半島(中華と倭の境界)

倭人から見た朝鮮半島(中華と倭の境界)

古代の朝鮮半島を概観するためには、大陸にも注目する必要がある。後氷期の温暖化がピークを迎えた紀前5千年頃、極東に4つの文明圏が芽生えた。黄河流域、南の揚子江流域、北の河流域、そして日本列島。黄河流域に彩陶を特徴とする仰韶文化、揚子江下流に稲作の河姆渡文化河流域に宝溝文化、日本列島に環状集石群を持つ阿久遺跡(長野県原村)があった。朝鮮半島に櫛目紋土器が出現するが、4文明が特徴ある土器や遺物を残しているのと比べ、目立たない状態に留まっていた。

BC3千年頃、大陸の文明は権力の集積を示す段階に進み、黄河流域は龍山文化(BC3千年~BC2千年)に、揚子江デルタは良渚文化(BC3500年~BC2千年)に展した。日本列島は縄文中期(BC3千年~BC2千年)の三内丸山、釈迦堂、尖石、長者ヶ原ヒスイ工房などへ展したが、海洋交易という他者とは違う方向に向っていた。現在亜寒帯である河流域は紅山文化(~BC3千年)以降寒冷化の影響が厳しく、文明は衰退し始め、河文明の辺地であった朝鮮半島では櫛目紋土器時代が続いた。朝鮮半島の森林は生産性が低く、農耕も確認されず、中華文明圏との交易を目指していた縄文人が興味を持つ地域ではなく、当時の交易品である装身具や威信財はこの時期の半島からは殆ど出土しない。

BC2千以降、更に寒冷・乾燥化が進むと河文明の担い手は、一部は内蒙古に家店下層文化を残すが、華北や山東に南下し、龍山文化に影響を与え、特に龍信仰は中華文明全体に大きな影響を与えた。BC1500年頃から、嘗ての河文明地域の南端であった寧に無紋土器、支石墓が現れ、朝鮮半島にも広がる。農耕も始まったが、河文明の特徴が見えるわけではなく、北方民族が南下し住民が交替した疑いがある。

一般論として、穀物生産が原生地から人為的に拡散する場合、南方の生産者は雑草と格闘しなければならない。古代の農耕民には大変な労働で、拡散の大きな阻止力となった。北方や乾燥地への拡散はこの逆の状況が生まれ、品種改良により耐寒、耐乾燥種が生まれると農耕は有利に展開する。これにより最適農耕地は緯度的に帯状になりやすい。その他の要件も色々絡むが、気候が一定なら穀物生産の最適地は北上していく。

河流域は地球温暖化のピーク時には栽培していた雑穀の緯度的適地であった様だ。当時の満州や内モンゴルは現在より温暖で降雨量も多かったが、その後の寒冷化の速度が速過ぎて品種改良が追いつかず、穀物の生産性が低下していった状況が想定される。当時は土地の所有概念はなかったから、人々は農耕適地を求めて南下し、黄河流域に辿り着いた。

BC2千年以降、黄河流域では生産性の高い小麦の生産が広まり、アワ、キビ、大豆との混合農業と家畜飼育の普及で農業生産性が高まっていた。寒冷化したとは言え現在より温暖な黄河南部では稲作も実施された。低緯度地帯の寒冷化・乾燥化は緩慢で、緯度が大阪と同じで暖かい黄河流域の洛陽や州の農耕民には南下圧力はなく、生産性の高い小麦生産地に、稲作の北限が重なる農耕適地として中華文明を統括する地域になり、王朝に比定される二里頭遺跡(BC1800年)や、王朝初期の二里岡遺跡に展した。

鉄が普及する以前は、乾燥地の天水農耕による小麦は生産性が高かった。揚子江流域や日本列島の稲作は、生産性の優には湿った重い土壌の耕作や灌漑設備を必要とし、鉄器の普及を待たねばならなかった。

その頃の朝鮮半島は、当時の稲作には寒過ぎ、麦や雑穀には湿潤過ぎる地域だった。更に湿潤温暖な日本列島には堅果類が豊かな森林があり、漁が容易な湖沼が多く、縄文人は海産物を得る漁労という手段を持ち、人口を養っていた。西日本では焼畑による陸稲や雑穀の栽培も始まり、一説では東北地方でヒエの栽培も始まっていたが、鉄器を持たない焼畑農耕は重労働で生産性は低く、西日本の人口は多くなかった。

中華文明が確立していたBC千年以降も朝鮮半島で何が起こっていたのか良く分からない。気候は更に寒冷化し、現在の状態に近くなっていたと思われ、雑穀栽培が始まっていた。現在の気候はケッペンの気候区分から読み取れる。

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C は温帯区分、D は亜寒帯区分。亜寒帯は最寒月平均気温が-3℃未満で、降雪があれば根雪になる。f は湿潤、w は冬乾燥、aは最暖月平均気温が22℃以上、bはそれに満たないことを示す。東京・大阪・九州・揚子江流域はCfa(黄緑)で、青森はCfb(水色)、北海道は概ねDfb(空色)だが、札幌だけDfaとする説がある。北京・瀋陽・ハルビン・ピョンヤン・ソウルは湿潤大陸性気候Dwa(灰色)で、現在は春まき小麦生産地だが、古代は雑穀栽培地で、半島南端はCfaで稲作可能な地域だった。

文献資料はBC1世紀を記録した漢書地理誌と、AD3世紀を記録した志東夷伝を待たねばならない。既に鉄器時代になって久しいから、旧石器時代を想像するのは難しいが、青銅器時代はある程度の推測がつく。漢書地理誌によれば朝鮮半島北部の楽浪郡は、末のピーク時の人口は6万戸、40万人だった。志東夷伝によれば、半島北部から中国東北部は濊と呼ばれる民族の地で、少数の民族が濊を地域的に分断支配し、扶余、高句麗などの地域政権を保持していた。最も文明化していた扶余は葬儀の際に時に数百人も殉葬して厚く葬り、の暦の正月に天を祭るとされ、の遺民が建国した様に見える。の系譜である箕子朝鮮が滅んだのは末の混乱期(BC4世紀末)だが、箕子を名乗らず他所からの亡命者とし、志の作者が記載をためらう由緒が語り継がれていた。の滅亡時に王族を迎えたの後継国とする類の伝承だったと推測される。志の編者は怪しげな伝承は採用しない合理性を持っていた。

高句麗の支配階級は、石を積んだ塚で墓を作り銀財幣で厚葬するとされ、扶余とは習俗が異なる。代以降の亡命中国人が建国したのだろう。略奪を好むが民衆は必ずしもその尚武的気風を好んでいなかった。

東沃沮では大きな箱を家毎に作り死者は次々そこに入れ、木で像を作って外に置くという別のローカルな習慣があり、別の中国系移民が征服した痕跡かもしれない。

濊と呼ばれた地域では死者が出るとその家を焼くと書かれているが、墓制は書かれていない。

鉄器時代に入ると半島の支石墓は廃れたらしいが、上記の事情を考慮すれば、鉄の武器を持った中国人に地域単位で征服され、異なる征服者の習俗に染まったが言語は変わらない民になったらしい。中国人が鉄製農具を持ち込んで支配者に納まったのであれば、単なる武力征服ではないが、征服者の数は言語が残らないほどに少数だった様だ。

濊は複数の中国人に征服され、分断されているから、青銅器時代の濊はあまり文明化されていない民族だった様だ。龍山文化に合体し、の一部を担った河文明の担い手と濊に関係があったという証拠は見当らない。族は々楽浪郡にも居たが、AD2世紀末に楽浪郡が衰えると中華の統治を嫌って馬に逃げ込んだ。濊は族の土地にも南下し楽浪郡にも居た。無紋土器・支石墓を広めたのは、半島北東部は濊、半島北西・中西部はだったらしい。

志の時代、半島南部は、馬族、辰系、弁には人の影響を受けた別の系が雑居していた。族にも嘗て人支配者が居たが、既に王統は失われていた。は濊より未開状態で王国を維持する意識がなく、小さな「国」と称する集団に分かれていた。志では族の人口は10余万戸としているが、これは過大見積だ。中国人は半島南半の事情を知らず、人に騙されていた。日本列島は容易に行けない遠方にあると思い込ませるため、馬は広く、族の人口が多いと詐称されたが、実際の馬は3万戸程度だったと推測される。前漢最盛期の楽浪郡でさえ6万戸だから、広くない馬族が10数万戸も居る筈はないが、半島南部を実際の10倍の面積と思い込まされていたから、志の作者も納得したのだろう。

前漢の武帝が朝鮮に4郡を置いた時、その一つである真番郡は半島南半分にあったとか、半島南端まで真番郡だったと主張する人がいるが、それはあり得ない。郡になれば軍隊が派遣され、距離や方向は軍事の要だから正確な知識を保有していなければならないのに、半島南半に関する志の距離記述は全くの誤り状態にある。また、半島南部を知っていたら、漢書に「人は楽浪郡に海から来る」とは書かず、「人は国の南と日本列島に海峡を隔て分居している」と書く筈だ。従って、中国人は半島北半しか統治した事はないと言える。

の中国系移民はの労役を逃れて来た人達で、楽浪郡の中国系移民と同類との出自伝承を持っていたが、弁の中国系は出自が不明だ。稲作と養蚕を行い上質の絹布を織り、族と違って牛馬を使い、男女の中華的区分があり、楽器を使い音曲もある。人を除く東夷一番の文明人で、男女共に人の様に入れ墨をしている。この人達は稲作で有名な松菊里文化の担い手の末裔の筈だが、松菊里は馬にあるから、松菊里時代には弁人が馬に居て、族はもっと北の楽浪郡となる地に居た事になる。弁人はその後の寒冷化で半島の南端に集まり、が南下して来たのだろう。松菊里は青森・秋田に近い気温だから、青森の田舎館村垂柳遺跡(BC3世紀~1世紀)の水田遺構の様な運命を辿った筈だ。全羅南道には、北方式と違う支石墓群(南方式)がある。これは弁人の初期の墓だと思われる。

北九州の原山支石墓群は縄文時代末期だから、東半島辺りから直接伝播したことになる。東半島での交易中にこの墓が気に入った縄文人が居たのだろう。糸島支石墓群は弁人が北九州に居住していたのか、弁式が気に入った人が作ったのかは分からない。両方あり得る。

志は弁について、「国々は鉄を産出し、・濊・の人々は皆この鉄を取る。商取引にはこの鉄を銭の様に使い、鉄は楽浪・帯方郡にも供給される。」と書かれているから、弁人は盛んに製鉄していた。弁人が製鉄技術を持ち込んだのであれば、彼らが来たのは中国で鉄器が普及し始めた戦国時代(BC5世紀)以降になり、松菊里遺跡の水田稲作もそれ以降になる。稲作を日本に伝えたと言いたい国人が、松菊里の水田跡はBC8世紀だと主張するのはおかしいということになるが、若しも、弁人が稲作民としてBC8世紀に製鉄技術を持たずに半島南端に来たとすれば、製鉄技術を持ち込んだのは人で、弁人は人から製鉄技術を習得したことになり、この場合、人が最初に製鉄を始めたのは半島ということでは不自然だから、日本列島の製鉄はBC3世紀以前に始まっていたことになる。今のところどちらであるという証拠は無いが、それ以外の状況を設定するには事情を複雑に組み合わせる必要があり、現実的ではないだろう。

考古学者は朝鮮半島から寧式青銅器である銅剣、銅矛が文明の様に日本に伝わって来たと主張するが、どの民族が伝えたのだろうか。人に敬意を払って入れ墨していた弁人しか考えられない。彼らが製鉄と一緒に青銅器の製作技術を持ち込んだという事はあり得る。しかし彼らが北九州の人の求めに応じて寧式青銅剣や矛を作ったとしても、弁人は寧や半島と宗教は共有していなかったから、単なる器機の委託生産者に留まった筈だ。珍しい威信財として交易されたものの流通と文化の流れを混同してはいけないと思う。

北九州は銅剣銅矛文化圏だが、銅鐸の複雑な器形を実現する高い鋳造技術を持っていた畿内に比べ、形が単純な剣や矛の鋳造技術はそれほどでもないと思われる。墓に威信財を埋葬する習俗を持った北九州は考古学的に文化が高い地域に見え、その習俗を持たなかった畿内は、考古学的に遺物が貧弱に見えるという構図があるのではないだろうか。銅鐸の鋳造技術は江南由来で、北九州の鋳造技術は弁人由来であったと思われる。BC1世紀頃からの寒冷化で先進工業地だった寧は壊滅的打撃を受け、楽浪郡は鉄を寧からではなく、弁の蛮族から供給を受ける羽目になったという事だろうか。

畿内の先進的邪馬台国は後進的九州が黄河流域との交易にこだわっていた事をどう評価していたのか考える必要がある。邪馬台国が黄河流域との交易に傾斜することを、縄文時代から江南交易の本流だった関東・東海の狗奴国に咎められた可能性があるだろう。邪馬台国がに朝貢することは、狗奴国の江南交易をやりにくくしただろう。から見れば、邪馬台国に肩入れして狗奴国との諍いを有利にさせることは、の代理戦争での勝利だと解釈していたのだろう。

少し脱線するが、縄文人が日本列島に水田稲作の導入を試みる場合の最初の地を選ぶ場合、最も暖かい九州南部で細々始めるのではなく、北九州の平野と半島南岸とした可能性を考えることもできる。地理的に中国大陸に近いからで、非科学的根拠ではあるが、初めて試みる縄文人にとって重要な論拠だったかもしれない。江南から稲作を導入するのに、船の経路である南九州をパスした理由があっただろう。

半島南端での水田稲作と製鉄のために連れて来た弁人は、気候が近い華中出身者だった可能性が高い。九州は江南より気温が低い事を承知していれば、その選択が合理的だ。華中のの人であった徐福の類の人の流れが春秋戦国時代から続いていたとすれば、話としては理解しやすいし、徐福の行き先は弁だった可能性もある。佐藤洋一郎氏の遺伝に関する主張と歴博の炭素年代測定を勘案すれば、半島南端に徐福の類の人が来るはるか以前に、日本列島では水田稲作に功していた。釜山より北九州の方が暖かく、労働力も豊富だった筈だから、当然だ。

以上を踏まえ大雑把に、BC2千年頃から一貫して寒冷化が進み7世紀に寒冷化のピークを迎え、半島には北から民族の流入が続いた前提で半島の歴史を類推してみる。

櫛目紋土器を使っていた人達はBC2千年頃に北から来た族に圧迫されて半島南部に閉塞し、北九州の縄文人と交流して漁労民となり、辰・弁系の農耕民が流れ込むと再度圧迫され、最終的に済州島に逃げ込んだと考えるのが合理的に見える。

BC1千年頃、濊族は満州や半島北部に南下して農耕を始めていた。族は濊族に北から圧迫されて半島中部辺りまで南下した。半島南部は湿潤で、石器を用いた雑穀農耕の適地ではなかっただろう。

BC4世紀頃、中華世界の動乱の中で中国人が濊の諸地域を征服し、扶余、高句麗などを政権化した。人の難民も半島に入植した。族は濊と人に圧迫されて馬に南下し、半島北半分は濊と人の地となった。

その頃、製鉄や造船などの技術導入に暗躍していた人は、華中の製鉄稲作民を半島南岸に海路送り込んだ。ドラマになりそうな事件の処理として何処かの部族を運んできたのだろう。人にとっては初期の移民ビジネスだったかもしれない。彼らは半島南端で人の属民になって稲作と製鉄を始め、帰服の証として入れ墨など人の習俗の一部を取り入れ、一部は農地を求めて松菊里にも拠点を設けたという辺りが確からしい。

の武帝の半島北半の征服により濊もも南に圧迫され、も一時北から逃れて来た中国人の支配を受けた。前漢末気候が寒冷化し、弁人は馬での稲作を放棄して弁に逼塞し、馬には北から濊と人に圧迫された族が南下流入し、辰には楽浪郡からの人難民が流入し、弁人とは同じ系としての交流が生まれた。

 以上、石器時代の朝鮮半島を概観したが、中華文明の先進地と交易していた人にとって朝鮮半島は興味ある交易手ではなかったと思われる。しかし鉄器が普及し、向上した農業技術が伝播すると半島に多数の人間が流れ込み、南下して来る。そうなれば狭い朝鮮海峡を挟んだ対岸の日本列島に移民が流れ込み、中華政権の影響が及ぶ恐れが生した。

楽浪郡が設置された頃から人には半島の南半分を勢力圏にしなければならないという意識が芽生え、具体的な行動に入ったと思われる。伝統的な手段は中国人に偽情報を流し、日本列島は大陸からはるかに離れた絶海中にあるから往来できないと思わせる事だが、軍事行動で半島南半を支配し、中国人を寄せ付けないという手段も視野に入った。が衰えても幽州を支配していた公孫氏は楽浪郡から帯方郡を分割し、高句麗も強勢化し、共に南下の姿勢を示していた。

邪馬台国統治の立前、倭国大乱があったとされるのは、この事態への対処方法を巡る混乱だった可能性がある。これは奈良朝が立する前の、白村江の戦い以後の混乱期と対比出来るかもしれない。日本列島を統合し武力対決姿勢を示すのは望ましい手段だが、誰がどの様に統治するか、話合いでは決着が付かないのは時代を問わない普遍事項だ。卑弥呼や台与が奈良朝の女系天皇と同じ役割を演じたとすれば、公孫氏に朝貢して宥和を図る勢力が、卑弥呼を担いだ可能性がある。狗奴国はそれに反対する勢力だったとしても、必ずしも地域対立ではなかった筈だ。

暫く宥和派が勢力を維持し、やがて国粋派が台頭するのも良くある話で、武断的なヤマト権力が立し、半島に出兵した。鮮卑族が華北に侵入して西晋王朝が滅亡し、満州に靺鞨が侵入して扶余が滅亡すると、北からの軍事圧力が弱まり、武闘派に有利な情勢下で、馬に百済、辰羅という友好勢力を育した。百済は扶余の遺民を帯方郡に傭兵として抱え、族統治を委任した勢力で、羅は入れ墨までして人と親和的だった弁と、彼等と親和的な辰系移民を統治する勢力であった。族は自己統治出来なさそうだったから、扶余の遺民を呼び込んだのだろう。この経緯は「人伝に見る日本(宋書)」に書いた。当初は高句麗が強勢で、実質的には高句麗と倭国の戦争だったが、人の目的はあくまでも半島南半分の軍事的優勢を確保し朝鮮海峡の安全保障を守ることだから、高句麗は中華帝国と親和的ではないということが分かれば、人は無理に高句麗と戦う必要はなく、やがて停戦協定が結ばれただろう。人が、農業生産に乏しく交易の利益が薄い土地に領土野心を持つ筈はないだろうから。

半島の三国は人と関係なく、自国の覇権の為に争い続けた。人内部に百済派と羅派が生まれ、海を通して行ける高句麗と親交を結ぶ者も現れただろう。

羅は立過程が分からない国だが弁を母体とした国だから、日本的な要素を多分に持っていた。中華的父系制が失われて庶民は姓を持たず、王族は近親婚で血統を守り、時に王族の女が女帝になる。衣服もと似ていた。人だから父祖の言葉はシナ語族的なSVO言語の筈だが、羅語を祖とする今日の朝鮮・国語が日本語と同じSOV言語なのは、人語の文法を取り入れたからだと考えられる。現代国語は弁語彙の中華訛りを基礎に、羅の半島統一以後・濊の言葉と混合し進化し、現代日本語とはかなり違っているということだろう。

百済には半島の貴種である扶余の遺民だというプライドがあったと思われる。に申告した建国の歴史にそれが現れている。志によれば、扶余には王朝の系譜伝承があり、人はに親和感があった故に扶余にも親近感があり、馬の経営を任せたのだろう。

志に、人は骨を炙って割目の形で吉凶を占う。その方法は中国の作法に似ている(令亀法)と書かれ、の習俗を受け継いでいたらしい。卑弥呼の墓に奴婢百余人を殉葬したが、東夷でこの習俗を持っていたのは扶余だけだった様に書かれている。では王の墓に多数の人間を殉葬したことが知られている。では女性の言力が強く、婦好という女傑を生んだが、男女の区別がない人の特徴と似ている。志に記すと、の共通点で、扶余には無いものがあるから、人は扶余を通しての習俗・宗教を学んだのではなさそうだ。人は海の交易者であり、人は商人の祖だから、宝貝の交易で両者が密接な関係を持ったと推測され、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子解析で、人系が見つかるのはその名残ではないかと思われる。

羅が半島を統一することに人が異を唱える必要はない。この観点で羅の半島統一のドラマは分かりにくい。百済と羅いずれかを選択しなければならなくなった倭国として、一応百済の応援をしてと戦い、最終的に羅の半島統一を是認したが、敗者に優しい日本人は、日本書紀で百済の顔を立てたという事だろうか。

朝鮮半島の民族独立意識は、人が半島を中華帝国と日本列島間の緩衝国として育てた必然の結果かもしれない。日本は必要に応じて半島の人々を援助する必要があるだろう。その文脈では日韓併合後の半島振興は正しい判断で、戦後の半島の独立は旧来の状況に戻ったことになり、日本にとって望ましいことになる。多少の不都合は我慢して半島の人々の国威揚を援助するのは伝統政策の延長上にあることになる筈だ。