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倭国

人が現われる最も古い時代を記した中国の書に、後漢の王充が編纂した『論衡』がある。そこには次のように書かれている。

時、天下太平にして、裳、白雉を献じ、人、鬯艸を貢す。
○暢草はより献ず。
王の時、常、雉を献じ、人暢を貢す。

  また戦国時代から後漢時代まで何度も加筆されてったという『山海経』には、次のように書かれている。

○蓋国は鉅の南、の北に在り。に属す。

  『論衡』にみられる王は紀前1100年頃の王で、日本では縄文時代にあたる。すでに「日本人の起源と系統について」の項でみたように、この頃、日本列島にはまだ人はいなかった。鳥憲三郎氏によれば、「鬯艸」は『山海経箋疏』に不老長寿の瑞草とされる「霊芝」だとあり、日本では産しないものだという。したがってこの人は「霊芝」の産地にいたことになるが、『本草綱目』にはその産地の一つに、中国長江中流域の四川省巴県があり、鳥氏はこのあたりを人の居住地とみている。
  『山海経』のについても、を日本列島内に限定すると不可解なものになる。このは山東半島のであり長江流域から移住してきた人たちのことだと鳥氏はみる。
  私も、これらの人記事は日本列島内のことではなく、日本列島で人が活躍する以前の日本列島外での出来事だとしてよいと思っている。
  このような中で、日本列島を中心として活動するようになった人について、最初に記した中国正史が『漢書』である(地理志)。以後中国正史はこの人そして人の国・倭国について、日本国が現われる『旧唐書』まで書き続けるのである。これら正史の関係箇所の初めの部分には人・倭国は次のように書かれている。

○樂浪海中有人、分爲百餘國、以時來献見云。(『漢書』地理志)
東南大海中、依山島爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於者三十許國。(『後漢書』)
人在帶方東南大海中、依山島爲國邑。舊百餘國、時有朝見者、今使驛所通三十國。(『三国志』「書」)
人在帶方東南大海中、依山島爲國・・・舊有百餘小國接。至時有三十國通好。(『晋書』)
國在高驪東南大海中。(『宋書』)
國在帶方東南大海島中。(『南書』)
・・・去帶方萬二千餘里。(『梁書』)
國在百濟羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。時驛通中國三十餘國。(『北史』)
國其先所出及所在、事詳北史。(『南史』)
○俀國在百濟羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。時驛通中國三十餘國。(『隋書』)
國・・・去京師一萬四千里、在羅東南大海中。依山島而居。(『旧唐書』)

  一見してわかるように、これらの記事は、と呼ばれる人たちが朝鮮半島東南の海の中の島に居住し、いくつもの国を為し、やがてそれらの国は一つにまとまって倭国と呼ばれるようになった、ということを示している。『漢書』から『旧唐書』まで、中国人はこれら人の国を一つのまとまりとしてみてきたのである。
  『志』人伝(『三国志』「書」烏丸鮮卑東夷伝人条)は、人の風俗・風習について次のように書いている。

○男子無大小皆黥面文身。
○男子皆露紒、以木緜招頭。其衣横幅、但結束連略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被穿其中央、貫頭衣之。

  男子はみな顔や体に入墨をし、服は横幅の広いものをただ束ねたものであり、婦人の服は単の衣の中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着る簡単なものだ、という。男子の「黥面文身」については、『志』は「少康之子封於會稽、断髮文身以避蚊龍之害」と書き、人の風俗・風習は中国江南から伝えられたものではないかとみている。「貫頭衣」は今も雲南省のワ族、タイのラワ族、ミャンマーからタイ西北部にかけて分布するカレン族の女性が着ていることが、鳥憲三郎氏の現地調査で確認されている。高床式住居、鳥居も原初的形態として残っている。
  日本文化の特徴である高床式住居、鳥居、『志』人伝が記す黥面文身、貫頭衣、弥生時代をもたらした水田稲作技術などは、中国江南の文化・風俗・風習そのものだといえる。日本列島の人は中国江南の系統を引く人とみて間違いない。
  『漢書』から『旧唐書』まで、中国の史書は倭国人の国とみている。人は中国江南にその源流を持ち、したがって倭国は基本的には、南方系の人たちがつくった国ということができる。
  『志』人伝は、240年頃倭国の都は邪馬壹国にあり、そこに倭国王卑弥呼がいたと書く。600年前後のことを記した『隋書』は、倭国を俀国と書き、その都・邪靡堆は『志』人伝にいう「邪馬臺」のことだと書く。倭国もその都(邪馬壹、邪馬臺、邪靡堆)も、この間は同じ場所にあり続けたことになる。
  ところで倭国の範囲というのは限定できるのだろうか。倭国の都は倭国の中にあるのだから、その都を探す前に倭国の範囲を限定することができれば、都探しも多少楽になるというものである。『隋書』は俀国の地理地形について次のように記す。

○其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、都於邪靡堆。則志所謂邪馬臺者也。
○有阿蘇山。

  ここでは方角がキーポイントになってくる。この記事の後、俀国伝の終りの方に、使裴が俀国の都・邪靡堆に行ったときの行路記事があり、

○經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國・・・

とある。この記事は対馬から壱岐に行くときのものであり、この部分は『志』人伝では「・・・千餘里至對海國・・・又南渡一海千餘里名瀚海、至一大國・・・」とあり、都斯麻國と對海國は対馬であり、一支國と一大國は壱岐のことであるから、本来「南」と書くべきところが、『隋書』では「東」となっていることがわかる。島の位置が変わるわけはないから、「其國境東西五月行、南北三月行」は「其國境南北五月行、東西三月行」としなければならないことになる。したがって俀国は東西に短く南北に長い地形をし、まわりを海に囲まれているところ、ということになる。そしてさらに、そこには阿蘇山があった。「有阿蘇山」である。このような条件を持ったところが倭国なのである。そのような条件を備えたところはどこか。それは九州しかない。
  この「東」を「南」と読むことについて、原文改定ではないかという人もいるかもしれないが、これは原文改定とはまったく異なる次の問題である。なぜなら、知の島と島という、お互いの位置関係が明白なものについて表現したものだからである。この資料事実をとらえない限り、『隋書』の解釈は永遠にできないことになる。
  また「有阿蘇山」について、倭国は九州から関東にまで及んでいたのだから、阿蘇山が倭国にあるのは当り前だという人がいる。しかしもしそうであれば、阿蘇山ではなく日本一の「富士山」にすればよいのであって、これは詭弁である。
  『隋書』のこれらの記事は、俀国すなわち倭国が九州島であることを示している。したがってその都・邪靡堆、卑弥呼が都した邪馬壹国は、九州島の中にあったということになる。

  邪馬台国探しに『志』人伝は引っ張りだこであるが、卑弥呼の都した国はそこからは見つけ出すことはできない。邪馬台国比定地が無数に存在することがそれを証明している。『志』人伝からは邪馬台国を探すことはできないのである。それでは卑弥呼の国は永遠にわからないのだろうか。そんなことはない。実は『隋書』にも、かつて卑弥呼が都した国・邪馬壹すなわち邪靡堆までの行路記事がある。今みた「經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國・・・」はその一部である。次に、『志』人伝以外に存在する、『隋書』の行路記事から、その都の位置を探してみることにする。

○經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至王國 (中略) 又經十餘國、達於海岸 。自竹斯國以東、皆附庸於俀。 俀王遣小德阿輩臺 (中略) 後十日、又遣大禮哥多[田比]、從二百餘騎郊勞。既至彼都。

  「東至一支國」の「東」はすでにみたように「南」を意味する。したがって王国への「東」も「南」となり、竹斯国は博多湾辺の国と考えられるから、王国は、そこから南に行った太宰府市あるいはその南の地域を指しているものと考えられる。そこからさらに十数か国を通って海岸に達するが、太宰府市方面に向かい、十数か国を通って達する海岸とは有明海北東部の海岸しかない(山地を防灘方面に出るとは考えられない)。そこに迎えが来て、さらに十日後に別の迎えが来て、少し行くとそこはすでに俀国の都だったという。ここで問題がある。それは「後十日」である。もしの使者裴が十日の間移動していたとしたら、俀国の都はまったくわからなくなってしまうからだ。しかし裴は「十日」の間は移動せずに海岸の近くにいたのである。それを証明するのはほかならぬ俀王その人である。『隋書』はこの記事に引続き次のように書く。

○我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即見。

俀王は「私は夷人であり、礼義がわからない。そこで境内にしばらく留まってすぐに会わなかった」と自ら言っているのである。「十日」はまさにこの「稽留境内」の期間だったのである。これらのことから、俀国の都・邪靡堆は有明海北東部の沿岸にあったことがわかるのである。当時の有明海は内陸部に少し食い込んでいたとみられており、邪靡堆の候補地としては、筑後市・八女市あたりが考えられるだろう。
  この『隋書』の存在によって、俀国すなわち倭国は九州島であり、その都・邪靡堆は有明海北東部沿岸にあったことがわかる。『隋書』には、俀国の都・邪靡堆は志にいう邪馬臺だとあるから、『志』人伝にある卑弥呼が都した邪馬壹国も、当然この有明海北東部沿岸にあったことになる。つまり『隋書』と比較すれば、『志』人伝の行程記事の表現も、それが何を意味しているのかわかるようになる、ということである。
 それではこのあと、倭国はどうなったのだろうか。『旧唐書倭国伝には次のようにある。

○東西五月行、南北三月行。世與中國通。・・・四面小島五十餘國皆附屬焉。
○貞觀五年・・・又遣州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。
○至二十二年、又附羅奉表、以通起居。

「東西五月行、南北三月行」は『隋書』と同じ書き方であり、さらにそのまわりの五十余の小島も倭国に属しているといい、引き続き倭国は九州島であることを示している。また貞觀二十二年(648)にも羅に託して、に表を奉じ起居を通じており、『旧唐書倭国伝においては、少なくともこの年まで倭国は九州島に存在していたのである。
  ここで時代を遡って、後漢の光武帝から印を賜った委奴国王の国について、少し述べておかなければならない。『後漢書』には次のように書かれている。

○建武中二年、奴國奉貢朝賀。・・・國之極南界也。光武賜以印綬。
○安帝永初年、國王帥升等献生口百六十人、願請見。

  建武中二年(57)に光武帝より賜った印綬は印紫綬で、志賀島で見された「委奴國王」印に間違いないと思われる。そしてこの奴国は倭国の一番南に位置しているという。これは奴国は倭国ではなく、の中の一国であり、の代表だったことを示し、またこの時代、人の国は博多湾辺地域を最南部とし、それより北の朝鮮半島南部地域を含む国々の集まりだったことを示している。『志』人伝で狗邪韓国の北岸と表現したのは、こういった過去の状況を踏まえたものだったのかもしれない。
  建武中二年の朝貢はの代表である奴国だった。しかし安帝永初年(107)になると、朝貢したのは倭国王帥升とあるように、倭国王になっている。この五十年間にの国々は倭国という組織をつくり、その中から倭国王を立てるようになったとみることができる。この倭国王は歴史の流れからみて、名実ともに倭国王となった奴国王だったと考えられる。
  2世紀末になると、倭国は乱れ歴年王がいなかったという。そこでの国々は女性の卑弥呼を倭国王に立てたところ、国はおさまったという。このときのことを『志』人伝は

○其國本亦以男子爲王、住七八十年、國亂、攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼・・・

と書く。卑弥呼が共立される前は「本亦以男子爲王」とあるように、倭国王は男王だった。男王の時代は「住七八十年」とあるように70~80年続き、その後2世紀末に戦乱が起きた。つまり倭国王として男王が生まれたのは2世紀の初め頃だったことになる。それは、安帝永初年に後漢に朝貢した倭国王帥升の時代であり、その王は奴国王であり、2世紀末の戦乱で最後となった男王も奴国王だった可能性が高くなる。この戦乱により、奴国の時代は終わり、邪馬壹国の時代になるのである。
  人の国は1世紀中頃、九州博多湾辺地域を最南部として、朝鮮半島南部地域にかけてあり、博多湾岸の国・奴国がそれを代表していた。2世紀初めにはそれらの国は倭国としてまとまり、倭国王を立てるようになった。その王も引き続き奴国から出た。そして7、80年経った2世紀末、倭国は乱れ倭国王が不在となる事態となった。そこで人の国々がともにはかって、邪馬壹国の女性・卑弥呼を王に立てると、戦乱はおさまった。
  この2世紀末の倭国乱の結果、倭国の覇権は奴国から邪馬壹国に移った。これは倭国の都(王都)が博多湾辺の奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移ったことを意味する。その後は倭国の中心国には大きな変動もなく、邪馬壹国(邪馬臺国、邪靡堆)は倭国の都として7世紀代まで生き続けるのである。