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倭族とは

憲三郎の族仮説とはどういう説か

           参考文献:

書籍名

	

原弥生人の渡来

	

出版社 

	

角川書店 

著者

	

憲三郎

	

初版年月 

	

1982.4

書籍名

	

古代朝鮮

	

出版社 

	

中公書 

著者

	

憲三郎

	

初版年月 

	

1992.7

書籍名

	

古代中国と

	

出版社 

	

中公

著者

	

憲三郎

	

初版年月 

	

2000.1

  第2部03節で、長江文明を日本列島へ伝えた人々を、人ではないかとした。この人とはどんな民族であったのだろうか。人とはどういう関係にあったのだろうか。
 
  人伝では、人について次のように記している。
 「人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。・・・男子は大小と無く、皆黥面文身す。・・・その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
 は島国で、人は皆、入墨をしている。しかも入墨の本場である江南地方の東方に位置している、と言っている。    
      また略逸文(「略」という原本は失われているが、文章の一部が別の本に引用されて残っている場合、逸文という)では、
 「以前に人は自分たちは太伯(春秋時代国の始祖)の末裔である(つまりの国からやってきた)と言っている。」
  略は、人伝の種本であったと考えられており、その本では、より明確に長江下
流域・江南地方の出身であったと記述していたという。

  しかし、人と言う表現が出てくるのは、人伝およびその関連の史書だけではない。
 弥生時代の検討に入る前に、人について壮大な仮説を提唱している古代史・文化人類学の鳥憲三郎の説を学び、知識を得ておきたい。

  倭族とは何か

 縄文晩期、稲作を伴ってこの列島に渡来した弥生人は、中国の史書などで「人」と呼ばれ、「倭国」を形した。
 ところが同じ人の称をもつ部族が中国大陸には既に存在していた。
 中国後漢時代の王充(紀27年~1世紀末頃)が著した、「論衡(ろんこう)」という思想
書によると、紀前1,000年、代初頭の記事として、
時天下泰平にして、裳(人)白雉を献じ、人鬯艸(ちょうそう)を貢す」
という文がある。この人と人はどういう関係なのか。また、鬯艸と    
は霊芝(マンネンタケ)のことで、不老長寿の霊薬として珍重されていたものという。
 鳥は、人はこの霊芝を、四川省巴県の西方の辺境、玉龍雪山という高山で採り、献じたとしている。
(筆者は、この文章こそ、西日本の縄文人が江南地方にコロニーをつくり、日本から持って行った霊芝を献じたことの証だと解釈する。日本でもこの霊芝はよく産出するからである。)

 話を鳥の著述に戻す。この中国大陸にいて、鬯艸を貢した 人とはどこに住んでいたのであろうか。
 鳥は、その人の住地を探し求める調査研究の結果、長江上流域の四川・雲南・貴州の各州にかけて、いくつもの人の王国があったことを知ったとしている。
 彼ら人は石器時代の初めごろ(10,000年前?)、雲南省の滇池(てんち)か、または辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に功したとみられる。
(鳥は、最近の稲作の長江中流域生説を採らず、多的に各地で生したと考えているようである。)
 そして、人の文化的特質の中でもっとも顕著なものは、水稲農耕を営み、増水や洪水から炊事の火を守るため高床式建物を考案したことだという。
 人はその稲作と高床式建物を携え、雲南から各河川を通じて、東アジア・東南アジアへ向けて広く移動分布した。
 そうした文化的特質を共有する民族、つまり日本人と祖先を同じくするものを鳥は、「族」というしい概念で捉えている。
 それら族の中で、長江を通じて東方に向かった一団の中から、さらに朝鮮半島を経由して日本列島にまで辿り着いたのが、日本における弥生人すなわち人であると鳥は言う。
 鳥憲三郎のイメージを、筆者が大雑把ではあるが地図に落としてみると、次図のようになる。
 

  族の日本列島への渡来

 族は、雲南の辺の大河(メコン川やサルウィン川など)の上流から下って東南アジア各地へ移動分布したが、長江を下って東方に進出した族もいた。
  彼らの最古の遺跡が有名な河姆渡遺跡であり、杭州湾を挟んで対岸には羅家角遺跡がある。これらの遺跡はともにが都をおいた紹興に近く、それらの遺跡人の後裔が人、いわゆる人であったと見てよかろうと、鳥は言う。
 音の面からみても、「」の音は当時の上古音で「wo」、「」も上古音で「wo」であり、すなわち類音異字に過ぎないというのである。
 また、上海方面にあったの領域にも、右    
図の紫で示した6,000年前ごろの遺跡が点在する。
 鳥によるとこれらの遺跡についても、雲南から下ってきた族が残したものと言う。

     長江下流域に達した族の一部は、さらに山東半島に向けて北上し、代には、徐・淮(わい)・郯(たん)・莒(きょ)・奄(えん)・萊(らい)などの国を作った。
 族は彼らを異民族として「東夷」と呼んだが、それらの国は言うまでもなく族が築いた国であった。
 ただ、それらの国は小国であったので、に討たれ、最後にはによって統一される。  
 その春秋時代末には南のに打たれて亡びる(紀前473年)。の滅亡を契機としての遺民だけでなく、の領民となっていた上図の国々の民たち、すなわち族も、稲作文化を携えて朝鮮半島の中・南部に亡命し、さらにその一部が日本列島に渡来して、いわゆる弥生人になったと、鳥は考える。 

  朝鮮半島における

 の滅亡で流民となり、朝鮮半島に渡った族には、当然幾つかの集団があったに違いない。
 朝鮮半島中部に上陸し、先住の濊(わい)族や貊(ばく)族を征しながら最初に築いたのが、「辰国」である。辰国が対外的に認められると、民族としての呼称が生じ“族”と呼ばれることになった。その辰国から派生する形で「辰」「弁辰()」の二国が生まれ、母体の辰国は「馬」と呼ばれるようになる。
 一方、朝鮮半島南部に上陸した族は、半島中部の族すなわち族に統合されることを嫌い、「加羅(または伽耶)国」を作った。これが人伝にみえる“狗邪(くや)国”であり、彼らが入墨の習俗を持っていたので、古称の“人”の称で区別されたと思われる。
 
 後漢書や三国志に
は---その北は楽浪と、南はと接し、辰は東にあり---
弁辰は---辰の南にあり、その南またと接す---
 とあるのは、上記のことを説明していると考えられる。    
 さらに鳥は、馬・辰・弁辰などが族が築いた国であることを立証するために、それぞれの国の神話に着目する。
 まず、馬諸国を統一して建国されたのが、百済である。建国者は扶余国の王族の一人である。(扶余族は、もと黒竜江上流域にいたモンゴル種の遊牧狩猟民であったと見てよいが、紀前二世紀末、中国東北平原に南下して、先住民のツングース系の諸族を征服し混血して、主農半猟の民族としてを扶余国建てた。)

 そのため、百済の神話は、馬の“先祖が海を渡って来た”神話が消し去られ、北方民族の生活環境--豚や馬が登場する--を反映した神話に置き換えられた。
 一方、羅には、朴(パク)、昔(ソク)、(キム)の各氏が伝える三種類の神話があるが、その中の昔氏の神話を例に取ると、卵を箱に入れて海に浮かべ、辰の浦に漂着したと言う先祖の行動そのものになっている。
 すなわち、羅の神話では、族の行動がデフォルメされて神話として残り、百済では、征服者扶余の神話に置き換えられたと、鳥は説明する。

  族仮説の評価
 
 以上、難解な鳥の首記参考文献3冊をまとめ、要約して説明したが、鳥の“族仮説”ともいえる説には、いろいろ問題がある。
①稲作の起源が、長江中流域だけでなく、多的に、雲南でも10,000年前に開されたと、この説は言うが、研究ノート07でも調べたように、雲南での稲作遺跡の年代は、ずっと遅く4,000~3,000年前程度である。説はこの事実と明らかに矛盾する。
②稲作が、長江下流域から北上して山東半島へ、さらに海を渡って朝鮮半島に伝わり、朝鮮南部から北部九州に伝播した、という考古学の知見を具体的に説明する仮説となっている点は評価される。
③しかし、山東半島から朝鮮への稲作の伝播時期が、春秋時代末の紀前473年とされていることは、最のC14年代見直しの流れ、すなわち、菜畑遺跡や板付遺跡の年代は3,000年前とされてきていることには反するものである。
(この点について、意外にも、鳥は最初の著書「原弥生人の渡来」の中(p97)で、もし板付遺跡の年代が2,900年前と言うような場合は、代の初め、王(前1063~25)に討たれた淮国か穆(ぼく)王(前976~20)に討たれた徐国から人が流民化したのかもしれないと記述している。)
 ④族が先住の濊(わい)族や貊(ぱく)族を制して朝鮮半島に国々を築いたというが、朝鮮半島で7,000年前から櫛目文土器を作っていた原住民は、どんな民族だったのだろうか。族がこの説のように族の変名だとすると、朝鮮族はいなかったのかという疑問が残る。
 ⑤族が族の変名で、かつ日本列島の弥生人=人も族だとすると、それもせいぜい遡っても3,000年前の出来事だとすると、言語などにもっと近縁性があってもよいのではないか、などいろいろな疑問が生じる。

 筆者は、稲作が長江下流域から山東半島を経由して朝鮮に伝わり、それから北部九州に伝播したと言う、稲作伝播の定説部分については同意できるが、それを担った人々が、雲南を故郷とする族であった。彼らこそ人(=人)であったとするこの壮大な仮説には幾多の無理があるように感じられる。


http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/008_1wajinn_no_syutuji_nituite.html