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公孫氏

東の公孫氏の所在地確定作業、

公孫氏東にあり

人伝を考える時に公孫氏を考察しなければならない。

なぜなら、公孫氏を亡ぼしたからこそ、に対し朝貢したのではないか。あるいは、もっと言うなら公孫氏を亡ぼすためにが和を結んだとも考えられる。もちろん従来の史観によって,が日本にあったと考えている場合はまったく関係のない話ではあろう。

公孫氏の繁栄した時期、場所等を正しく認識する事で、邪馬台国の持つ意味が判ってくるのではないだろうか。

それでは手っ取り早いところで、ウイキペディアの公孫氏を調べてみよう。

(引用はじめ)

公孫氏(こうそんし)とは、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱の混乱に乗じて東地方に半独立政権を樹立した。

民族・風習とも、まったくの民族であるが、その領土は朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南はと接し、東北は高句麗、 西北は烏丸・鮮卑、西南はの幽州と接するなど、・・・略・・   公孫氏は高句麗や後漢と争いながら、朝鮮半島の北端である楽浪郡や山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、を勢力下に置くほどまでに至る。父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、衰退期にあったとはいえ中国の統一王朝であった後漢の存在は無視できず、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられている。公孫康の後継にはその弟である公孫恭が即位したが、228年に先代で兄の公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が半ば崩壊しの三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領とも密接につながるに臣従を装いながら、一方ではと同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。 236年、の皇帝叡から上洛を求められた際、公孫淵はついにに反旗を翻して、王を称した。 公孫淵は一度はの幽州刺史の軍勢を退けたものの、238年、太尉司馬懿の討伐を受け 国都襄平に包囲され、一族ともども滅ぼされた。

なお、『人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼によるへの遣使までに関する記事が途絶えている一因には、公孫氏の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っていたからではないのかとする説もある。(引用終わり)

歴史的な事実としては十分に説明されている。しかし、場所的な考え方が間違っている。あえて楽浪郡を現在の平壌へ持ち込んでいるがため全体の位置が半島にずれ込んでいる。何回でも言わなければならないが、あくまで公孫氏東地域が本拠であって、幽州の中の楽浪郡の南部、そこにたに帯方郡を設置したのであれば、その範囲は現在の半島または北朝鮮地域に入る事はない。

漢書地理誌に楽浪郡は二十五県があると書かれている。その中の7県に公孫氏が帯方郡をおいたわけだ。

三国志に「建安中、公孫康分屯有県以南荒地為帯方郡」(屯有県を分かち、南の荒地をもって帯方郡となす。)

晋書には「帯方郡、公孫度置。・・・帯方・列口・南・長岑(ちょうしん)・提奚(ていけい)・含資・

海冥・平州初置・・・・・」

この地名の特定が出来ればもうこれで帯方郡がどこなのかは完璧だ。

山形明郷先生がその地域を特定している、(確実にそうだとは言えないが、)

帯方・・・・漢書地理誌の一文「含資、帯水西至帯方入海」、から見て現在の蓋県の、南を「帯水」とみなせば、帯方は「蓋県」の古名ではないか。

②三東半島にあり

公孫氏が滅びたのは238年であり、人伝には、

「景初二年六月、女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉遣吏將送詣京都」

とあるが、

晋書には「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶・・」とあり、この文自体が問題はあるが、一応宣帝の平らげるやと読むなら、亡ぼした後に卑弥呼はに朝貢した事になる。もちろん、卑弥呼が公孫氏の娘説、つまり、宣帝の平らげたる公孫氏と読む、も捨てがたい魅力があり、仮にそうなるとがあえて公孫氏の娘を朝貢させ、散々宣伝に利用しようと言う意図も判らないではない。この文章の読み方で議論していても中国人ですらどちらともいえないという以上、両方の可能性で議論しなければきりがない。ましてや、公孫氏の娘であった前提で歴史を組み立てる事は危険である。他の史書では239年に卑弥呼が朝貢したことになっている。これは思うに239年が正しく本来は滅びるべき邪馬台国をわざと助けた事を隠し238年、公孫氏が滅びる前に朝貢したのだとは表明したのだろう。だから、後世になり「ばればれじゃん。」と訂正したものと思われる。

つまり、志はのことがぼろかすに書いてある。本来は奴隷にするところを助けてやったのだと言わんばかりではないか。

さて、239年ごろの東半島については「志」及び後漢書史を見なければならない。

志の伝」をみよう。

「 は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南にと接し、地積は四千里ばかり。には三種あり、一に馬、二に辰、三に弁。辰とは昔の辰国なり。馬は西に在る。・・略・・景初年間(237年-239年)、の明帝は密かに帯方郡太守の劉昕、楽浪郡太守の鮮于嗣を派遣して、海をえて二郡を定め、諸々の国の臣智らに邑君の印綬を加賜し、その次には邑長に与えた。その風俗は衣幘を好み、下戸(賤民)は郡に詣でて朝謁するときは、皆か衣幘を借り、印綬と衣幘に服する者は千余人。

 部従事(官職名)林は楽浪を以て国を統治し、辰を八国に分割して楽浪に与えたが、約定が異なり、臣智は激昂、は憤怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。その時の太守弓遵、楽浪太守の劉茂は兵を挙げて討伐したが弓遵は戦死、二郡は遂にを滅ぼした。」

つまり、楽浪郡の南方に帯方郡があり、その南にはがいたことになる。そして、が激怒して帯方郡を襲ったのは公孫氏が滅びた後の話になる。

そして、その帯方郡はその当時激戦の真っ只中にあった。そんな時に、帯方からの使者がわざわざ船で対馬を渡り九州まで行く必要があったのかどうか。また、邪馬台国も東半島を横目で見ながら朝貢しに行くのだろうか。

後漢書伝」をみると、「には三種あり、一に馬、二に辰、三に弁辰という。馬は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南にと接する。辰は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰の南に在り、また十有二国、その南はまたと接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。」とあるが、注目すべきは両書とも南にと接すると書いてある。最低限、が日本ではないことの証明ではないか。

もちろん、従来の史観によれば、馬等の三半島の南部に存在するのであれば対的な位置は矛盾しない。しかし、楽浪郡は少なくとも鴨緑江より南に来る事はなく、帯方郡は楽浪郡を出ることはないことを確認していただきたい。

それから、上の文書では七十八国と非常に規模が大きいことがわかる。そして、後の百済となる伯済がわざわざの一部であると書いてある。

そして,梁書には、

の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、は親王と為し、仮の印紫綬を授けた。

 正始中(240-249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。 その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。」

なぜ各書で公孫氏と卑弥呼がセットで語られねばならないのか見当が付くであろうか。

遠くはなれた日本と公孫氏はまったく関係のない出来事であり、偶然時期が重なったとしたら、書き方はもっと違うのでないか。

難しい文書ばかりで申し訳ないが、頭の中での位置を想像していただきたい。が例えば現在の平壌辺りにあるのと、九州(もちろん大和でも)にあるのとでどちらが合理的だろう。

人伝はが以下に大きな国と朝貢したのかを誇るために、倭国を拡大解釈したというのが私の結論になる。

つまり、当時、人はいろいろなところに居た。南は雲南地方、沖縄、半島、日本、しかし、それは民族名であり、国の名前ではない。

日本はその当時(三世紀)、九州王朝、出雲王朝、吉備王朝,大和王朝などが乱立していたのではないだろうか。

後漢書の記事での国の中に百済のがあることになっている。私はこれは馬隠しだと思う。実際は邪馬台国は滅び靺喝になっていく。

百済は馬から出たことを隠すためわざわざ後漢書はその一文を挿入したように思える。その理由はまた後にしよう。


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