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古事記の成立(Historical)

古代史の論点(Historical)

古事記の

古事記は「帝紀」と「旧辞」からなる、という津田左右吉氏以来の通説に、全く疑問の余地が無いわけではありません。その疑問に、果敢にも(?)挑んでみました。『古代の風』117号に掲載していただきました。

古事記の立事情は、古事記序文の解釈から、稗田阿礼が誦習した「帝紀」と「旧辞」を太安万侶が編纂したものである、という理解が一般に広まっている。ここでは、そのような理解に一石を投じたい。

古事記の序文から、問題の箇所を引用しておこう(読み下しは倉野憲司校注、岩波文庫本による)。

   ここに天皇詔りたまひしく、「朕聞きたまへらく、『諸家の齎る帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当りて、其の失を改めずは、未だ幾年も経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ。」とのりたひき。(中略)時に舎人ありき。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒しき。すなはち、阿礼に勅語して帝皇日継及び先代旧辞を誦み習はしめたまひき。(中略)然れども、運移り世異りて、未だその事を行なひたまはざりき。(中略)ここに、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安万侶に詔りして、稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといへれば、謹みて詔旨の随に、子細に採り[才庶]ひぬ。

この序文に対する理解は、津田左右吉によるものが今も支配的である。津田の解釈を見ておこう。まず、津田は、この序文から五つの論点を示す(津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』岩波書店、一九二六年及び『日本古典の研究』上、岩波書店、一九四八年[津田左右吉全集1、岩波書店、一九六三年、三十八ページ]。以下、津田論文の引文は、読み易さを考慮して適宜旧字を字に、旧仮名遣いを仮名遣いに改めた。)。

(1)諸家に帝紀及び本辞(旧辞)が伝えられていたこと。

(2)此の諸家の伝え有っているものは、それに検覈を加えて正説を一定しなければならぬほどに、其の内容が区々になってい、誤謬虚偽とすべきことが混入していたこと。

(3)官府の権威を以て定説を作る計画であったこと。

(4)阿礼が古記録を誦習したこと、此の誦習は就したけれども、正説を定めるという官府の事業は就しなかったこと。

(5)安万侶は其の阿礼の誦習したものによってこの古事記を撰録し、書物としての帝紀本辞を直接に取扱ったこと。

まず、第一の論点に関し、津田は、以下のように述べる。

   此の上表のうちにも、帝紀本辞と連称してあるほかに、帝紀旧辞とも、帝皇日継先代旧辞とも、また先紀旧辞ともあり、なお上に引いた天武紀の記事(天武紀、十年三月条を指す。―河西注)には、帝紀及上古諸事とあるのを見ると、帝紀と帝皇日継と先紀とは同じものであるらしく思われ、また本辞と旧辞と先代旧辞とはみな同じであって、其の内容は上古諸事と称すべきものであることが推知せられる。このことは、帝紀も帝皇日継も先紀も共に旧辞に対して、また本辞も旧辞も上古諸事も共に帝紀に対して、いわれているその書きかたによってわかるのである。(中略)のみならず、上表に於いては全体の文勢からもそう解しなくてはならぬので、もし同じように相対して用いてある名称がそれぞれ違ったものをさしているとすれば、文章が成り立たない。(中略)詳しくいうと、古事記の内容には帝紀と旧辞の二要素があるが、其の古事記は皇室の系譜と天皇(及び皇族)の言動としての種々の物語の外には何も無い。だからそれを帝紀と旧辞とに配当すれば、系譜が帝紀で種々の物語が旧辞であると考える外はないのである。(同書、三十八~三十九ページ)

ここに古事記の立に関する現在の通説が凝縮されていると言っていいだろう。このような理解は、現在までほとんど疑われたことがない。しかし、果たして本当だろうか。これに検討を加えたいと思う。

私が、このような理解に疑念をいだくのは、古事記序文の以下の文面だ。

   ここに、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安万侶に詔りして、稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといへれば、謹みて詔旨の随に、子細に採り[才庶]ひぬ。(前出)

ここでは、太安万侶が撰録したのは、「勅語の旧辞」だと言っている。文面のとおりに理解すれば、古事記は旧辞を基に構されたと考えるべきではなかろうか。これについて、津田は次のように述べている。

   ただここで一つ解し難いのは、上表に「稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とある「勅語旧辞」の一句である。文字のままによめば勅語と旧辞との意であろうが、「勅語」は「旧辞」に対すべきことではない。そうして「旧辞」は上に挙げた如く常に「帝紀」「先紀」「帝皇日継」に対して用いられているから、此の「勅語」もやはり「帝紀」などの誤写ではなかろうか。(中略)なお古事記は所謂「帝皇日継」即ち皇室の系譜に特に意を用いてあって、末の方へゆくとただ系譜のみになっているほどであるから、安万侶の取扱った阿礼の解説には「帝皇日継」即ち「帝紀」が重きをなしていたはずであり、従って[玄玄]にも「旧辞」と共にその名が現われていなければなるまいと思う。上文にも「勅語阿礼」という一句があって此の「勅語」という熟字も、一般の慣例から見ると少しく異様であるが、それはともかくもとして、「勅語旧辞」の語はどうも意義をなさぬようである。もし強いて解釈すれば、旧辞の種々の異本のうちで「阿礼に誦めと勅命せられた旧辞」という意義とでも見るのであるが、甚だ穏やかでない。安万侶が撰録し阿礼の誦習して置いたものは、旧辞のみではなかったからである。しかし此の勅語という文字の問題は別として、古事記に撰録せられたものが阿礼の誦んだ帝紀と旧辞との二種であったことは、其の内容の上から明かであるのみならず、上表全体の書き方から見ても疑は無い。もし旧辞だけで帝紀が採られなかったのならば、帝紀と旧辞とを幾度もくりかえして並べて述べて来たのは無意味のことだからである。(津田前掲書、六十四~六十五ページ)

つまり、津田は、(1)古事記は現に「帝紀」部分と「旧辞」部分に分解できるから、(2)この上表(古事記序文)において「帝紀」と「旧辞」は対として用いられているから、ここの「勅語」も「帝紀」の誤りではないか、と疑っているのである。

(1)に関しては、あくまで津田の古事記分析の結果に依存しており、津田が古事記をそのように分解したことを示すものである。決して、古事記そのものがそのように分割されているわけではない。そもそも、系譜と物語とは、おのずから記述方法が異なるから、両者を分別することは、決して難しいことではない。問題は、そのような分別を果たして津田の言うような「原史料」の別と見なしてよいか、ということだ(聖書やギリシア神話を参照しても、同じように系譜部分と説話部分に分解できる。しかし、それが必ずしも原史料の別であるとは考えられてはいないということを付け加えておこう。)。したがって、問題は古事記が「帝紀」と「旧辞」によるものなのか、という最初の問題に戻ることになるのである。

津田は、古事記序文において帝紀―帝皇日継―先紀、本辞―旧辞がそれぞれ同じものを指しているとする。文面の違いは文修飾上の違いだと言うのである。その上で、これを書名だと考えているようだ。しかし、これが書名のような固有名詞として理解されるのならば、こういった言い換えは容易になされるものではない。こういう言い換えは、それが単なる言い換えだとすれば、普通名詞だからこそ行なわれるものである。津田の議論は、「帝紀」と「旧辞」という二種類の書物が既にあった、というところから始まる。そして、古事記にはその両方が含まれていなければならない、という必要から、帝紀を強いて系譜だけに限定するのだ。津田自身が言うように、帝紀とは、一般的には、中国史書に言う「本紀」の類のことであって、系譜だけを「帝紀」と呼ぶような例はない。

逆に、一旦、古事記は「旧辞」のみから構される、と言ってみたとき、「帝紀」を強いて系譜に限定する必要も理由もない。「旧辞」に系譜が含まれてはならない理由もない。津田の疑いは、順序が逆なのである。あくまで、古事記序文の文面を尊重する限り、古事記は「阿礼の誦習した旧辞」からるのであり、天武の詔も、その観点から分析されるべきなのだ。

古事記が「帝紀」と「旧辞」という二つの原史料からる、と考えたとき、太安万侶の古事記編纂作業の内実が問題になる。津田はこのように分析している。

   だから、古事記の撰録は、阿礼の誦んだものが或る一本ずつの帝皇日継及び先代旧辞であるとすれば、帝紀と旧辞と別々になっていたのを一篇の古事記にまとめ、また其の読み難く解し難いところを書き改めたり註を施したりするようなことをいうのであろうし、もしまた阿礼が諸家に伝わっている帝紀と旧辞との多くの異本を誦み明らめて置いたのならば、それらの種々の異本を調べ、それらに見えている諸説を取捨選択して、それによって新に一つの成書を作ることをいうのであろうし、此の二つのうちの何れかでなくてはならぬ。が、此の撰録に費やされた月日が甚だ短くして、僅かに四月あまりであることから考えると、それは、第一の方であったと推測せられる。(中略)
   のみならず、勅命を以て一私人たる安万侶にここにいったような意義での述作、即ち一種の修史ともいうべき事業、をさせるというのも、解し難いことである。(中略)それからまた上表を見ても、その撰録の用意を述べているのが、全く文字の書きかたについてであり、その他には一言も及んでいないが、これは彼のしごとが、主として阿礼の施した訓詁によってそれを書きかえることであったことを、示すものであろう。(同書、五十八~六十ページ)

しかしながら、「帝紀」と「旧辞」という二つの書物を一つにまとめるという仕事もなかなかの大仕事ではある。現に古事記の次のような記述を見てみよう。

   ここに天之日矛、その妻の遁げしことを聞きて、すなはち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間、その渡の神、塞へて入れざりき。故、更に還りて多遅摩国に泊てき。すなはちその国に留まりて、多遅摩の俣尾の女、名は前津見を娶して、生める子、多遅摩母呂須久。〈応神記〉

このように、説話と系譜とが巧みに結合されている場合は少なくない。特に神代の国生み説話については、系譜そのものを語ることが、一つの物語形態として確立しており、これを切り離すことは出来ないだろう(聖書の創世記、ギリシア神話の多くも同様の形態をとる。筒井康隆がパロディしたように(「バブリング創世記」)無数の系譜の羅列そのものも、一つの物語的効果があると言ったほうがいいだろう。)。そういった点を踏まえれば、これを強いて別系統の史料に属するものとして処理する必要は無いのではないか(これを「天皇の系譜」とそれ以外の氏族の系譜とに分割することは、「帝紀」を更に限定するだけのことであり、ことさら「天皇の系譜」だけを別史料とすることに果たしてどれほどの意味があるのか、甚だ疑問である。)。

また、既に記紀の間の系譜の違いは、多くの論者の指摘するところである。しかしながら、古事記の内部における系譜と説話の差異は、見出されてはいない。書紀が多くの矛盾を内包するのとは対照的である。これも、二種類の原史料を想定した場合、安万侶の仕事となろう。そう考えたとき、津田の言うように、安万侶の主な仕事が訓詁と書法にあったとすれば、安万侶が対象としたのは、ただ一つの「旧辞」であって、「帝紀」と「旧辞」とを結合する作業ではなかったと言うべきなのである。

また、津田や後の研究(例えば、武田祐吉『古事記研究一―帝紀攷』青磁社、一九四四年など。)によって「帝紀」に含まれると見なされている陵墓や没年齢の記事は、物語の展開の中に巧みに盛り込まれている。既に一つの書物として立していた「帝紀」なるものを、分解して物語の中に埋め込んだのが安万侶の仕事であれば、これもまた、多くの用意と考証の要る作業なのではあるまいか。

古事記の文学作品としての完度の高さは、既に多くの文学者によって指摘されてきたことである。その完度が安万侶の手に全て委ねられていたのだとすれば、津田の言うように、それはまさに一つの修史であり、考え難いことなのではないか(この際、「文学」と「歴史」という近現代的或いは学部的な区別を持ち込むことは、妥当ではない。)。

津田の個々の指摘に関しては、今も傾聴すべきことが多く、その輝きは失われていない。むしろ、その理路を徹底させれば、古事記が「旧辞」のみからなることは、明らかなのだ。以下にそれを示そう。

1、太安万侶の仕事は、期間・人員・序文の内容から言って、訓詁と書法に限られており、編纂は含まれていない。

2、稗田阿礼は、一つの「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習したのであって、阿礼の仕事も訓詁に限られていて編纂ではない。

3、太安万侶・稗田阿礼の仕事は、修史という国家的事業の準備の為の作業なのであって、これらの仕事そのものが修史なのではない。

4、修史の目的は、「帝紀」や「旧辞」に誤りが多く、入り乱れているのを正すためである。

だから、太安万侶が、たった一つの、「帝紀」と「旧辞」の結合した書物をまとめてしまったら、それで、修史は終わってしまうのだ。それをし遂げるための準備作業なのだから、安万侶のまとめたものが、序文に言うとおりに「旧辞」に限られることは、何の矛盾もないのだ。もちろん、阿礼が誦み、安万侶のまとめた「旧辞」そのものの来歴は、決して単純ではないだろう。しかし、その議論は、安万侶の仕事をしっかりと見定めた後に行なうべきなのであって、今の議論には関係のないことだ。

従って、津田に端をする「帝紀=系譜」説は、その根拠を失うこととなる。このことは、日本書紀の理解にも多くの影響を及ぼすことになるだろう。それについては、また別に論じたいと思う。