0o0dグッ

古代朝鮮

15 古代朝鮮(前)

箕子朝鮮
 古代朝鮮歴史については、富軾(きんふしき)の書いた『三国史記』がありますが、日本の場合と同じで、古い記事は信用できないとされます。

 しかし、『日本書紀』の年代を修正することができて、ある程度は歴史の復が可能になりました。そこで、『三国史記』にも再検討が必要になります。『日本書紀』と同じ方法で『三国史記』の年代修正が可能になれば、日本と朝鮮と中国の古代史を比較検討することができます。それによって、今まで誰にも知られなかった歴史が見えてくるでしょう。

 まずは、『史記』を初めとする中国の正史に登場する古代朝鮮の記事から調べます。正史の記事は東洋史の基準になりますから、正史によって、古代朝鮮史のあらましを調べます。そのあとで『三国史記』を検討して、日本と古代朝鮮の関係へと話を進めます。

 正史に朝鮮半島の国が登場するのは、箕子(きし)朝鮮が最初です。司馬遷が書いた『史記』の「微子世家」によれば、の武王がを滅ぼした時に、の王族の箕子の言葉に感服したので、箕子を朝鮮に封じて臣下の扱いをしなかったといいます。紀前千年頃のことです。では、その前のや後の王朝と違い、兄弟続が多く見られます。日本の古代も兄弟続が多いですから、の王族が朝鮮に封じられたことは無視できません。

 「後漢書東夷伝」の序文の末尾には、箕子朝鮮について次のように書かれています。

 昔、箕子がの衰運を避けて朝鮮に移住した。それ以前の朝鮮の国の風俗については、何も伝えられていない。箕子の八条の規約が行われるようになって、朝鮮の人々に掟の必要なことを教えた。その結果、村にはみだりに盗むものがなく、家々は夜も門に閂(かんぬき)する必要がなく、箕子以前には頑迷無知な風俗によっていた人々も、ゆったりと大まかな法にしたがうようになった。この法は七、八百年も続き、それゆえ東夷諸種族は、一般に穏やかに行動し、心に謹しむことを慣習としている。この慣習が、東夷と他の三方の蛮夷との異なるところである。すくなくとも政治のゆきわたったところでは、道義が行なわれる。……省略……後に、中国との交易によって朝鮮との交通が次第に開け、中国王朝と交渉するようになったが、人の満は、その慣習を乱した。これより朝鮮の風習も次第に軽薄になった。老子は、「法令が多く出されることは盗賊が多く居ることだ」と言っている。箕子が条文を簡略にし信義をもってこれを運用したことは、聖賢が法律を定める基本を確立したものというべきである。(井上秀雄訳)
 ここには、箕子の統治によって朝鮮がよく治められたと書かれていますが、の王家は、もともと東北・朝鮮方面の出身だったかもしれません。箕子が中国人だったら、そううまくは治まらなかったでしょう。そしてまた、中国文明とは、四方の異民族の出会うところに生まれた混合文明だという疑いがかかります。

 この文章は、『漢書』の「地理誌・地の条」にある同様の文章を要約したもので、どちらも平凡社の『東アジア民族史・正史東夷伝・全二巻』(井上秀雄他訳注)で読めます。この文章によって、中国では箕子がすぐれた思想家・政治家として認識されていたことがわかります。

 古代朝鮮歴史書にはもう一つ、一然の書いた『三国遺事』があります。これによれば、箕子朝鮮より古い時代の話として、檀君神話という建国神話があります。檀君はおそらく箕子の別名だろうと想していますが、何せ神話ですからどのように理解したらよいのか、まだわかりません。そこでこれには触れずに、話を先に進めようと思います。

氏朝鮮と辰国
 「史記朝鮮伝」によれば、がその全盛時以来、朝鮮・真番を攻略し、統属させようとしたといいます。朝鮮は箕子朝鮮で、真番は朝鮮半島の南部でしょう。

 BC222年にを滅ぼすと、朝鮮は東郡の境域外とされたといいます。と箕子朝鮮の境界は鴨緑江のあたりと思われます。

 BC206年にが滅んでの時代になると、人の満が朝鮮に亡命し、やがて国を奪って王になりました。これを氏朝鮮といいます。

 『三国志』の「伝」によれば、国を奪われた箕子朝鮮の準王は、海に逃れて南に渡り、王になったといいます。では、満の国を承認する代わりに、二つの条件を課しました。

	①.東夷の中国への侵入を抑える。

②.東夷の君長の朝貢を妨害しない。
 ところが氏は約束を守りませんでした。氏は真番・臨屯を服属させ、その君長がに朝貢するのを妨害し、自らも朝貢しませんでした。そこでは軍を派遣し、BC108年に氏を滅ぼしました。

 ここに真番・臨屯という地名が登場するのは、真番を二つに分けたのでしょう。箕子朝鮮の準王が南に渡って王になったことによる変化です。準王の移住した東部(辰・弁辰)が臨屯だと思われます。

 「後漢書伝」によれば、半島南部の国が昔の辰国だといいます。辰には朝という意味がありますから、辰国は朝鮮国を言い換えて区別したものでしょう。昔の辰国とは、昔の箕子朝鮮国という意味になります。南に渡った準王は、馬を降伏させて王になったが、その子孫が滅ぶと、馬人が自立して辰王になったと書かれています。

 「伝」によれば、半島東南部の辰が昔の辰国だといいます。準王は海から族の地に入って住み着き、自ら王を称したと書かれています。また、『略』を引用して、準王の一族で国に留まったものは姓を氏と偽ったとありますから、国という地名は準王に由来するかもしれません。あるいは逆に、氏という姓が国の王に由来するのかもしれません。また、辰王は馬の月支国にいて、馬人を用いると書かれています。辰・弁辰の十二国も辰王に臣属するが、その辰王はなぜか、自ら王になることはできないといいます。

 これらの史料を総合すると、準王が辰の地に入って住み着き国の王になったが、やがて子孫が絶え、馬人がもとのように国を制圧して、辰王を称したと言えそうです。辰と弁辰には移住者が多くいましたが、その支配勢力は弁辰だったと思われます。弁には冠という意味があるからです。国の先住民は馬人だったのでしょう。

 「志辰伝」によれば、辰にはの別名があり、人の言葉(文字)を使う人々がいたと書かれています。土地の老人によれば、彼らは昔の亡命者で、の労役を避けるために国に来たのであり、馬が東方の地を割いて与えてくれたといいます。

 彼らはの徐福の子孫だと思います。寿はこの人々を楽浪人の子孫と混同しましたが、楽浪人は箕子朝鮮(辰国)の人々で、徐福より遅れて国に移ってきました。

 「後漢書?伝」によれば、?(わい)・沃沮(よくそ)・高句麗は、昔はみな朝鮮の地だったといいます。BC128年には、?の君長が氏に反逆し、28万人を率いて東郡に服属しました。氏には人望が無かったのです。はこの地に蒼海郡(そうかいぐん)を置きましたが、すぐに廃止されました。蒼海郡と東郡の間に険しい蓋馬(ケマ)高原があり、支配が及びにくかったからでしょう。

 正史の中の朝鮮の歴史記事は、断片的です。そのため全体像を復原する作業は、まるでジグソーパズルのようです。

  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

15 古代朝鮮(後)

楽浪郡の時代
 BC108年に氏を滅ぼしたは、朝鮮半島に四つの郡を置きました。楽浪・玄菟・真番・臨屯の四郡です。氏朝鮮の西半部に楽浪郡を置き、東半部(旧蒼海郡)に玄菟郡を置きました。国西半部(馬)に真番郡を置き、国東半部(辰・弁辰)に臨屯郡を置いたと思われます。

 しかし住民の抵抗にあって、楽浪郡以外は長続きしませんでした。玄菟郡はほとんどの領域を放棄して、東郡の中に移りました。真番郡と臨屯郡は、20年ほどで廃止されました。以後は、楽浪郡による間接的な半島支配に移行しました。

 末からの時代には楽浪郡の南半分に帯方郡が置かれ、二郡で半島を支配しました。

 「伝」には、注目される記事がありました。馬の辰王は自ら王になることはできないとする記事です。中国の郡支配に強い抵抗を示した国の王が、自ら王になれないというのは理解できません。辰王が豪族らに共立される存在だったかもしれませんが、二郡の間接支配の陰に隠れて、別の支配体系があったかもしれません。

 思い出すのは、の五王の主張です。の五王は、馬・弁辰と百済・羅・加羅の支配権を主張し、その承認をに求めました。わざわざ古い三の名前まで持ち出したところを見ると、五王の主張の根源は3世紀までさかのぼる可能性があります。倭国の支配が辰王に及んでいても不思議ではありません。『日本書紀』では、4世紀の神功皇后の三征伐を国支配の根源と理解していますが、事実はもっと古いのだと思います。

 ただ、倭国国支配を正史で確認することはできません。卑弥呼の支配が国に及んだとする記事はありません。「伝」には、国がと接しているとか、弁辰は鉄を産し、それを・?・が取っており、楽浪郡と帯方郡にも供給すると書かれているだけです。

 3世紀の百済や羅はまだ小国です。馬の中の伯済国が後の百済で、辰の中の斯盧国が後の羅だとされます。また、高句麗が百済・羅の支配権を主張したことも謎です。高句麗は、自らを箕子朝鮮の後継者に任じたのかもしれませんし、他の理由があったのかもしれません。

 4世紀になると、世界が一変します。中国では北方民族が活になって、316年にが滅び、翌年には江南でたに東が建国されました。この時期の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を滅ぼしました。313年のことです。高句麗はさらに南の帯方郡も滅ぼしました。

 帯方郡が滅んだときには、百済が帯方郡を助けて戦ったと『三国史記』に書かれています。百済は帯方郡の遺民を吸収し、国力の充実を図ったのでしょう。4世紀後半には、高句麗を攻撃するような国に長しました。

 羅の長もこの頃からです。中国の植民地支配という重しが取れ、民族勢力が勃興する時代になりました。ただし、準王(王)の権威を引き継いだ馬の旧勢力は、次第にその力を弱めることになりました。北方系の興勢力が登場したのです。


  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

16 高句麗(前)

高句麗本紀1
 『三国史記』の「高句麗本紀」によれば、BC37年に、朱蒙(しゅもう)(鄒牟(すうむ))が高句麗を建国したといいます。その出自については神話めいた話が伝わっています。神話的な表現を取り除いて要約すると、次のようになります。

	 初め、夫余(ふよ)王の解夫婁(かいふる)がいた。宰相が天神の勧めだと言って、都を移すように進言した。東海の浜辺の迦葉原(かしょうげん)は五穀の生育に良いと言って、そこに都を移すことを勧めたのである。王はその言葉に従った。その国を東夫余と名づけた。

 夫余の旧都に、どこからか解慕漱(かいぼそう)と自称する人がやって来て、都を開いた。その死後、解慕漱の子の朱蒙と、母の柳花がやって来た。長すると、朱蒙の技能は他の王子たちよりすぐれていた。そのためにねたみを買って、殺されそうになった。

 朱蒙は、母の勧めを聞いて南に移り、卒本川(渾江)に来て都(寧省桓仁)を開いた。国号を高句麗とした。
 夫余王の姓は解氏とされていますが、朝鮮語では解を「へ」と読みます。「へ」は太陽の意味だといいます。日本語の日(ひ)と語源が同じだと思われます。夫余王は太陽氏(解氏)と理解できます。

 東海の浜辺の東夫余は、朝鮮半島の東海岸の?をさすと思われます。「後漢書夫余伝」によれば、夫余(中国東北地方)は、もとは?の地だったとされるからです。さらに、夫余国内に古城があり、?城と呼ばれるとも書かれています。?が朝鮮半島の東海岸に移住したあとに、別の夫余族がやって来たようです。

 朱蒙は諡号(おくりな)を東明といいますが、夫余の始祖も名を東明といい、その神話はよく似ています。「後漢書高句麗伝」によれば、高句麗は夫余の別種で、言語・法則には同じものが多いと書かれています。

 「高句麗本紀」によれば、BC19年に朱蒙が死亡したと書かれています。しかし「後漢書高句麗伝」によれば、を開いた王莽(おうもう)が臣下に命じて、高句麗候の?(すう)を誘い出して殺害させたと書かれています。?(すう)は、朱蒙(鄒牟)のこととされます。この事件の年代は、「漢書王莽伝」によれば、AD12年です。

 『漢書』の年代を信じるなら、高句麗の初期には半年暦が使われたと考える他ありません。高句麗王の初めの三代の在位年数を半分にすると、朱蒙の死亡年がAD13年になるからです。「漢書王莽伝」に対して1年のずれがありますが、これは誤差でしょう。

 『三国史記』の称法では、前王の死亡年と王の年は重なるのが普通です。しかし、前王が年末に死亡した場合などに、王の年が翌年になることもあるでしょう。したがって、高句麗の三代のうちの誰かが、前の王の死亡年の翌年を年にしたとすれば、朱蒙の死亡年はAD12年になります。

 高句麗は箕子の影響で、早くから中国化が進んだと思いましたが、意外にその流れはゆるやかだったようです。あるいは、箕子が住民の文化に理解を示して、尊重したのかもしれません。そのために、この時代まで半年暦が残ったのでしょう。

 高句麗は、2代琉璃(るり)王の時に、都を集安(吉林省)に移しました。年代修正をすると、AD23年のことです。以後、5世紀に長寿王が平壌に都を移すまで、鴨緑江中流の小盆地が高句麗の都でした。

高句麗本紀2
 「高句麗本紀」の記事は、4代の王から中国暦で書かれており、中国の正史と一致するはずだと思いました。ところが実際

には、6代・7代・8代の記事が正史と大きく食い違います。何か特別の事情があると想像されます。

 図表20   高句麗三大王の死亡年
西暦 ⑥宮 ⑦遂 ⑧伯固
  53    7才即位       ー       ー
 146  100才退位   76才即位       ー
 165  119才死亡   95才死亡   77才即位
 179       ー       ー   91才死亡
 「高句麗本紀」によれば、6代太祖大王は名を宮といい、父の名は再思、母は夫余の女性だといいます。宮は53年に7才で即位したので母が摂政を務めました。宮は長寿だったようで、治世94年の146年に100才で同母弟の遂に王位を譲り、165年に119才で亡くなったといいます。

 7代次大王は名を遂といい、146年に76才で即位しました。治世20年の165年に臣下が次大王は暴虐だとして殺害しました。時に95才でした。

 8代大王は名を伯固といい、宮の末弟だといいます。165年に77才で即位し、治世15年の179年に91才で亡くなりました。

 長寿の王が三代続いたことも珍しいですが、それ以上に不自然なのは、三代が兄弟とされることです。年令差を見ると、宮と遂は24才、宮と伯固は42才です。まるで親子孫のようです。7才で即位したので母が摂政を努めたという王に、これほど年令の離れた弟がいたとは意外です。ありそうにないと言う意味では、これも一種の神話でしょう。日本書紀の三貴子分治などと同じように、高句麗でも三兄弟に特別の思い入れがあるのかもしれません。

 もっとも、日本の応神天皇と神功皇后のような事例もありますから、即断は避けるべきかもしれません

 「後漢書高句麗伝」によれば、121年に宮が死んで、子の遂が立ったと書かれています。その後、遂が死んで、子の伯固が立ちました。伯固の記事のあとに、132年に玄菟郡に屯田を置いたと書かれています。伯固の即位は132年より前と思われます。三大王については、おそらく系譜でも在位年代でも、「後漢書高句麗伝」が正しいでしょう。

 6宮─────7遂─────8伯固

高句麗本紀3
 これより以後、「高句麗本紀」には紀年上の大きな問題はないと思います。しかし、中国正史との間の人物比定に混乱があります。それは、9代・10代・11代に関わる人物比定です。ここでは、中国と高句麗の双方に問題があります。

 8伯固──┬──抜奇
      └──9伊夷模─────10位宮

 上は「志高句麗伝」に書かれた系譜です。「高句麗本紀」では、この正史の記事に惑わされて、一見奇妙な人物比定を行っています。

 8伯固──┬──(抜奇)
      ├──9故国川(伊夷模)
      ├──(岐)
      └──10山上(延優・位宮)─────11東川

  19故国川……179~197
  10山上………197~227
  11東川………227~248

 まず抜奇ですが、この人物が一番の問題です。両書とも抜奇は即位しなかったとしていますが、即位した可能性があります。「高句麗本紀」の抜奇と岐は同一人物です。どうやらこの抜奇をめぐって解釈が混乱したように見えます。

 わかりやすいのは位宮です。力が強く、乗馬に巧みで、狩や弓が上手だといいます。位宮は、記事の年代を重視して、11代東川王と見ることができます。「高句麗本紀」は位宮を延憂と同一視していますが、これは間違いで、二人は別人です。

 位宮は女王卑弥呼と同時代の人物です。景初2年(238年)に司馬懿が公孫淵を滅ぼしたときには、位宮は兵を派遣して司馬懿を助けました。しかし後に離反して、正始5年(244年)に?丘倹(かんきゅうけん)に攻撃されました。「梁書高句麗伝」によれば、翌年にも?丘倹に攻められて沃沮に逃げ、玄菟太守の王?(おうき)にも追われたと書かれています。

 伊夷模は位宮の父ですから10代山上王です。「志高句麗伝」では、伊夷模は、兄の抜奇が不肖の子だったので、国人に支持されて即位したといいます。一方、山上王は名を延憂といい、国人が兄を支持しなかったので即位したといいます。両者の話は一致します。伊夷模と延優は同一人物、抜奇と岐も同一人物です。

 抜奇は、東郡の公孫康が高句麗を攻めたときに、三万人を率いて公孫康に降ったといいます。一方、岐もまた、国を裏切って公孫氏に付いたといいます。ここでも抜奇と岐の話は一致します。

 問題は故国川王ですが、故国川王は抜奇でしょう。正史には故国川王は登場しないかに見えますが、そこには裏の事情があります。「志高句麗伝」によれば、建安年間(196~220)に公孫康が高句麗を破ったときに、抜奇が降伏したと書かれています。故国川王の在位は197年までですから、抜奇が故国川王だったと考えても、年代はどうにか合っています。敵の軍門に降った事を恥じて、この時から抜奇が不肖の子と呼ばれたのに違いありません。

 一方の伊夷模は、この事件を機に都を移して、しい国を建てたとあります。伊夷模の即位は実はこの時で、年代は197年だったと思われます。以上のことから、高句麗王の正しい人物比定は、次のようになります。

 8伯固──┬──9故国川(抜奇・岐)
      └──10山上(伊夷模・延優)─────11東川(位宮)

広開土王碑
 その他の史料で「高句麗本紀」と違う記事のあるものは、広開土王碑文です。その文章は、石原道博編訳『人伝他・中国正史日本伝1』に紹介されています。

 碑文によれば、広開土王の年は391年で、時に、王は18才でした。39才で亡くなり、414年に山陵に葬ったとされます。一方「高句麗本紀」では、年を392年とし、死亡年を412年とします。広開土王は18才の391年に即位したとすれば、39才になるのは412年です。したがって死亡年については、両者の記事は一致します。

 問題は即位年です。1年ずれていますが、碑文の391年が正しいと思います。碑文には、王を山陵に葬ったとしたあと、「ここにおいて碑を立つ。功績を銘記して後世に示す。」と記されています。後に立した「高句麗本紀」より、死後すぐに立てられた碑文の方が信頼性が高いと思います。

 また、碑文の中に次の文があります。

  十七世孫国岡上広開土境平安好太王。

 国岡上広開土境平安好太王というのは、王の諡号(おくりな)です。あまりに長いので、普通は略称で広開土王とか好太王と呼ばれます。この文は、初代鄒牟王(朱蒙)の死後に、2代・3代が続いたとしたあとに現れます。名前を連ねて17世の子孫の広開土王に至るという意味になるようです。

 ここの問題は17世です。「高句麗本紀」によれば、広開土王は19代、13世の王とされます。例の三兄弟を親子孫に修正しても、まだ15世にしかなりません。したがって三兄弟のほかにも、系譜の誤りが二ヶ所あるはずです。修正の余地を残すところも二ヶ所あります。

 第一には、伯固王の在位がおよそ50年と長いにもかかわらず、子の故国川王が19年も在位したことです。ここは、故国川王を伯固王の孫としても良いでしょう。

 第二には、故国川王のあとに山上王の30年が続きますが、この二代を兄弟とする点が疑われます。故国川王の弟の子を山上王とする事もできるでしょう。

 6宮──7遂──8伯固──◯◯─┬─9故国川 
                  └─◯◯──10山上──11東川

 図表21 高句麗王年表    ◯は修正した在位年代
代 王 名  修正しない
 在位年数    年 ~ 死亡年
 1 東 明 19  ◯ 3後半~12後半
 2 琉 璃 37  ◯13前半~31前半
 3 大武神 27  ◯31前半~44前半
 4 閔 中  5    44 ~ 48 
 5 慕 本  6    48 ~ 53
 6 太祖大 94  ◯ 53 ~ 121
 7 次 大 20  ◯121 ~ 130頃
 8  大 15  ◯130頃~ 179
 9 故国川  9   179 ~ 197
10 山 上 31   197 ~ 227
11 東 川 22   227 ~ 248
12 中 川 23   248 ~ 270
13 西 川 23   270 ~ 29
14 烽 上  9   292 ~ 300
15 美 川 32   300 ~ 331
16 故国原 41   331 ~ 371
17 小獣林 14   371 ~ 384
18 故国壌  8  ◯384 ~ 391
19 広開土 22  ◯391 ~ 412
20 長 寿 79   413 ~ 491
21 文 咨 28   492 ~ 519
22 安 蔵 13   519 ~ 531
23 安 原 15   531 ~ 545
24 陽 原 15   545 ~ 559
25 平 原 32   559 ~ 590
26 嬰 陽 29   590 ~ 618
27 栄 留 25   618 ~ 642
28 宝 蔵 27   642 ~ 668

 図表22 高句麗王の修正しない系図
 
 1東明──2琉璃─┬─3大武神──5慕本
1東 明──2琉璃─├─4閔中
1 東明──2琉璃─└─再思──┬─6太祖大
 1東明──2琉璃─└─再思──├─7次大
1 東明──2琉璃─└─再思──└─8大─┬─9故国川
1東 明──2琉璃─└─再思──└─8大─└─10山上──┐
                              │
 ┌─────────────――――――――――――――─┘
 │
 └─11東川───12中川───13西川─┬─14烽上
1東 明──2琉璃─└─再思───13西川─└─◯◯――─┐
                             │
 ┌──────────────────────――――─┘
 │
 └─15美川───16故国原─┬─17小獣林
└─ 15美川───16故国原─└─18故国壌──┐
                         │
 ┌─────────────―――――――――─┘
 │
 └─19広開土──20長寿──◯◯──21文咨──┐
                          │
 ┌─────────────――――――――――─┘
 │
 └┬─22安蔵
 ─└─23安原──24陽原───25平原─┬─26嬰陽
─ 25        平       原─├─27栄留
└─24陽  原───25原       ─└──◯◯──┐
                        ┌────┘
                        └──28宝蔵

  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

16 高句麗(後)

広開土王碑
 その他の史料で「高句麗本紀」と違う記事のあるものは、広開土王碑文です。その文章は、石原道博編訳『人伝他・中国正史日本伝1』に紹介されています。

 碑文によれば、広開土王の年は391年で、時に、王は18才でした。39才で亡くなり、414年に山陵に葬ったとされます。一方「高句麗本紀」では、年を392年とし、死亡年を412年とします。広開土王は18才の391年に即位したとすれば、39才になるのは412年です。したがって死亡年については、両者の記事は一致します。

 問題は即位年です。1年ずれていますが、碑文の391年が正しいと思います。碑文には、王を山陵に葬ったとしたあと、「ここにおいて碑を立つ。功績を銘記して後世に示す。」と記されています。後に立した「高句麗本紀」より、死後すぐに立てられた碑文の方が信頼性が高いと思います。

 また、碑文の中に次の文があります。

  十七世孫国岡上広開土境平安好太王。

 国岡上広開土境平安好太王というのは、王の諡号(おくりな)です。あまりに長いので、普通は略称で広開土王とか好太王と呼ばれます。この文は、初代鄒牟王(朱蒙)の死後に、2代・3代が続いたとしたあとに現れます。名前を連ねて17世の子孫の広開土王に至るという意味になるようです。

 ここの問題は17世です。「高句麗本紀」によれば、広開土王は19代、13世の王とされます。例の三兄弟を親子孫に修正しても、まだ15世にしかなりません。したがって三兄弟のほかにも、系譜の誤りが二ヶ所あるはずです。修正の余地を残すところも二ヶ所あります。

 第一には、伯固王の在位がおよそ50年と長いにもかかわらず、子の故国川王が19年も在位したことです。ここは、故国川王を伯固王の孫としても良いでしょう。

 第二には、故国川王のあとに山上王の30年が続きますが、この二代を兄弟とする点が疑われます。故国川王の弟の子を山上王とする事もできるでしょう。

 6宮──7遂──8伯固──◯◯─┬─9故国川 
                  └─◯◯──10山上──11東川

 図表21 高句麗王年表    ◯は修正した在位年代
代 王 名  修正しない
 在位年数   年 ~ 死亡年
 1 東 明 19 ◯ 3後半~12後半
 2 琉 璃 37 ◯13前半~31前半
 3 大武神 27 ◯31前半~44前半
 4 閔 中  5   44 ~ 48 
 5 慕 本  6  48 ~ 53
 6 太祖大 94 ◯ 53 ~ 121
 7 次 大 20  ◯121 ~ 130頃
 8  大 15 ◯130頃~ 179
 9 故国川  9  179 ~ 197
10 山 上 31  197 ~ 227
11 東 川 22  227 ~ 248
12 中 川 23  248 ~ 270
13 西 川 23  270 ~ 29
14 烽 上  9 292 ~ 300
15 美 川 32 300 ~ 331
16 故国原 41 331 ~ 371
17 小獣林 14 371 ~ 384
18 故国壌  8 ◯384 ~ 391
19 広開土 22 ◯391 ~ 412
20 長 寿 79 413 ~ 491
21 文 咨 28 492 ~ 519
22 安 蔵 13 519 ~ 531
23 安 原 15 531 ~ 545
24 陽 原 15 545 ~ 559
25 平 原 32 559 ~ 590
26 嬰 陽 29 590 ~ 618
27 栄 留 25 618 ~ 642
28 宝 蔵 27 642 ~ 668

 図表22 高句麗王の修正しない系図
 
 1東明──2琉璃─┬─3大武神──5慕本
1東 明──2琉璃─├─4閔中
1 東明──2琉璃─└─再思──┬─6太祖大
 1東明──2琉璃─└─再思──├─7次大
1 東明──2琉璃─└─再思──└─8大─┬─9故国川
1東 明──2琉璃─└─再思──└─8大─└─10山上──┐
                              │
 ┌─────────────――――――――――――――─┘
 │
 └─11東川───12中川───13西川─┬─14烽上
1東 明──2琉璃─└─再思───13西川─└─◯◯――─┐
                             │
 ┌──────────────────────――――─┘
 │
 └─15美川───16故国原─┬─17小獣林
└─ 15美川───16故国原─└─18故国壌──┐
                         │
 ┌─────────────―――――――――─┘
 │
 └─19広開土──20長寿──◯◯──21文咨──┐
                          │
 ┌─────────────――――――――――─┘
 │
 └┬─22安蔵
 ─└─23安原──24陽原───25平原─┬─26嬰陽
─ 25        平       原─├─27栄留
└─24陽  原───25原       ─└──◯◯──┐
                        ┌────┘
                        └──28宝蔵

  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(前)

百済本紀
 「百済本紀」の本文によると、始祖は朱蒙の子の温祚(おんそ)だといいます。北の夫余から朱蒙の子が高句麗にやってきて太子になったので、温祚と兄の沸流(ふつりゅう)は対立を恐れて南に下り、百済を建国したといいます。

 しかし「百済本紀」は、兄の沸流を始祖とする別伝も紹介しています。こちらの伝承では、二人の兄弟は優台の子で、夫余の解扶婁(かいふる)王の子孫としています。母が兄弟を連れて朱蒙と再婚したあとで、夫余から朱蒙の子がやってきて太子になったので、兄弟は南に下り別に国を建てたといいます。

 本文では百済王を高句麗初代の朱蒙の子孫としますが、別伝では夫余王の子孫としています。ただし解扶婁の子孫といいますから、朝鮮半島の東海岸に移住した?(わい)王の子孫です。いずれにしても、遠い先祖は夫余から出たといえます。しかし始祖を朱蒙と同時代とする点には無理があります。「百済本紀」の紀年では百済の建国はBC18年ですが、これは半年暦によっています。年代修正をすると、時代が合いません。

 「百済本紀」の紀年を修正するときには、313年が歴史上の定点になります。

 「高句麗本紀」の15代美川(びせん)王の条によれば、313年に楽浪郡に進入し、314年には帯方郡に侵入したと書かれています。高句麗が二郡を滅ぼしたのです。このとき、帯方郡では百済に救援を求めたようです。

 「百済本紀」の9代責稽(せきけい)王年の条によれば、帯方の王女を夫人とした縁で百済が帯方を救ったが、再度高句麗が攻めてくることに備えて、城を修理したと書かれています。この記事が、314年の直後に対応します。「百済本紀」の紀年ではこの記事は286年ですが、これが314年直後に収まるように年代修正すればよいのです。

 結論を言うと、13代近肖古(きんしょうこ)王のときに中国暦が採用されたと考えれば、286年は316年後半になります。近肖古王の時代には、博士の高興を得て、初めて文字で記録するようになったといいますから、近肖古王(在位346~375)は、中国暦を採用した王にふさわしいと思われます。

 この修正によれば、百済の建国は165年前半になります。百済が建国した広州は、北の高句麗・楽浪郡の勢力と、南の馬の勢力がぶつかるところです。温祚王の24年の条によれば、昔、馬が東北の地を割いて、百済に与えて安住させたといいます。

 その温祚王のときに、百済が馬を滅ぼしたとありますが、信用できません。3世紀の馬には辰王がいたからです。馬の辰王が滅ぶのは、明確な記録はありませんが、6世紀の継体天皇の頃ではないかと思われます。

 2代多婁(たろう)王の6年の条には、この年に初めて稲田を作らせたと書かれています。この記事は、百済が北方起源であることを示しています。年代修正すると、190年になります。その後、百済は次第に力を蓄えました。314年には、高句麗に攻められた帯方郡に救援の軍を送りました。そしてこの後しばらくの間、楽浪郡の残存勢力と百済の間に、争乱が続いたようです。

 9代責稽王は、322年(修正年)に人と貊(はく)の侵入を受けて戦死しました。貊は高句麗系の民族です。10代分西(ふんせい)王は、325年(修正年)に楽浪西部の県を奪いましたが、その太守の放った刺客に殺害されたといいます。

 楽浪郡は、やがて高句麗の手中に帰しました。334年に故国原王が平壌城を増築したと書かれています。やがてこの城は高句麗の副都のようになり、427年には長寿王がここに都を移しました。

 一方、帯方郡を吸収した百済もまた、中国風の制度・文化を受け入れて、急速に国家としての長を始めました。そして、近肖古王の時代には中国暦を採用して、最初の繁栄期を迎えるのです。

干支について
 『日本書紀』は、百済から伝わった歴史書を用いて日関係を記録しています。その最初を飾るのは、神功皇后の条の近肖古王の記事です。

 『日本書紀』の紀年では、神功皇后は3世紀の人で、4世紀の近肖古王の時代とは重なりません。にもかかわらず、二人を同時代の人として扱っています。年代論は抜きにして、二人を同時代の人とする強い伝承(記憶)があったからに違いありません。

 『日本書紀』は、編者舎人親王らの悪戦苦闘する様子がうかがえる歴史書です。本来なら半年暦や親子合算の習慣に基づく記録については、年代修正すべきでした。しかし奈良時代までの間に、過去にそうした習慣のあったことは忘れられました。

 そこで二人を同時代の人とするために、『日本書紀』では近肖古王の年代を120年繰り上げる操作を行いました。つまり近肖古王の死亡年である375年(乙亥年)を、255年(乙亥年)としたのです。なぜ120年かというと、昔は干支で年代を表わす方法を取っていましたが、その方法では60年ごとに同じ干支が巡ってくることを利用したのです。それで120年ずらしたら近肖古王と神功皇后の時代が重なったというわけです。

 それでは干支(えと)とは何かといえば、十干と十二支から一文字ずつを組み合わせて、年代を特定する方法です。まず十干は、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)の十文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。10年で一巡します。

 十二支は、子(し)丑(ちゅう)寅(いん)卯(ぼう)辰(しん)巳(し)午(ご)未(み)申(しん)酉(ゆう)戌(しゅつ)亥(がい)の十二文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。12年で一巡します。

 以上のことを毎年繰り返すと、干と支の組み合わせが60通りできます。つまり干支は60年で一巡します。そこで、甲子(こうし)年から癸亥(きがい)年まで60年分の組み合わせを一つの表にして、西暦を一つ記入しておくと、任意の年の干支がすぐに計算できます。

 たとえば、2009年は、60年かける33あまり29年です。29年は次の表により、己丑(きちゅう)年ですから、2009年も己丑年になります。和風の読みかたでは、ツチノト・ウシの年といいます。

4甲子(コウシ・きのえね) 34甲午(コウゴ・きのえうま)
5乙丑(オツチュウ・きのとうし) 35乙未(オツミ・きのとひつじ)
6丙寅(ヘイイン・ひのえとら) 36丙申(ヘイシン・ひのえさる)
7丁卯(テイボウ・ひのとう) 37丁酉(テイユウ・ひのととり)
8戊辰(ボシン・つちのえたつ) 38戊戌(ボシュツ・つちのえいぬ)
9己巳(キシ・つちのとみ) 39己亥(キガイ・つちのとい)
10庚午(コウゴ・かねのえうま) 40庚子(コウシ・かねのえね)
11辛未(シンミ・かねのとひつじ) 41辛丑(シンチュウ・かねのとうし)
12壬申(ジンシン・みずのえさる) 42壬寅(ジンイン・みずのえとら)
13癸酉(キユウ・みずのととり) 43癸卯(キボウ・みずのとう)
14甲戌(コウシュツ・きのえいぬ) 44甲辰(コウシン・きのえたつ)
15乙亥(オツガイ・きのとい) 45乙巳(オツシ・きのとみ)
16丙子(ヘイシ・ひのえね) 46丙午(ヘイゴ・ひのえうま)
17丁丑(テイチュウ・ひのとうし) 47丁未(テイミ・ひのとひつじ)
18戊寅(ボイン・つちのえとら) 48戊申(ボシン・つちのえさる)
19己卯(キボウ・つちのとう) 49己酉(キユウ・つちのととり)
20庚辰(コウシン・かねのえたつ) 50庚戌(コウシュツ・かねのえいぬ)
21辛巳(シンシ・かねのとみ) 51辛亥(シンガイ・かねのとい)
22壬午(ジンゴ・みずのえうま) 52壬子(ジンシ・みずのえね)
23癸未(キミ・みずのとひつじ) 53癸丑(キチュウ・みずのとうし)
24甲申(コウシン・きのえさる) 54甲寅(コウイン・きのえとら)
25乙酉(オツユウ・きのととり) 55乙卯(オツボウ・きのとう)
26丙戌(ヘイシュツ・ひのえいぬ) 56丙辰(へイシン・ひのえたつ)
27丁亥(テイガイ・ひのとい) 57丁巳(テイシ・ひのとみ)
28戊子(ボシ・つちのえね) 58戊午(ボゴ・つちのえうま)
29己丑(キチュウ・つちのとうし) 59己未(キミ・つちのとひつじ)
30庚寅(コウイン・かねのえとら) 60庚申(コウシン・かねのえさる)
31辛卯(シンボウ・かねのとう) 61辛酉(シンユウ・かねのととり)
32壬辰(ジンシン・みずのえたつ) 62壬戌(ジンシュツ・みずのえいぬ)
33癸巳(キシ・みずのとみ) 63癸亥(キガイ・みずのとい)

  コラム 和風の読み方の解説 例・甲子(コウシ・きのえね)

 き………五行説の木・火・土・属・水のうちの一つ。
 の………格助詞の「の」
 え………「え」は年上の意味(例 えひめ)。一般に兄を当てる。
     「と」は年下の意味、正しくは「おと」(例 おとひめ)。
      一般に弟・乙を当てる。
     「えおと」が訛って、「えと」で、「兄・弟」の意味、
      後に干支・十二支の意味に転用された。
 ね………ね(鼠)・うし(牛)・とら(虎)・う(兎)
     ・たつ(竜)・み(蛇)・うま(馬)・ひつじ(羊)
     ・さる(猿)・とり(鳥)・いぬ(犬)・い(猪)
     のうちの一つ。
  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(中)

腆支王の謎
 『日本書紀』には、4世紀の近肖古王から6世紀の威徳王に至るまで、百済王の在位年代を示す記事があります。その記事は、大きく前半と後半に分けることができます。前半では、7人の王の在位が120年繰り上げて記録されています。後半では、7人の王の在位が繰り上げなしで記録されています。二つのグループの間には、記載から漏れた王(毘有王)が一人います。

 120年の繰り上がりを修正すると、『日本書紀』には欠けたところや細かな違いはあるものの、おおむね「百済本紀」の年代記事と一致します。このことは、互いに手の正しさを証明し合っているようなものです。細かな違いについては、「百済本紀」のほうが正しいと思います。全ての年代がそろっていることを重視します。ただし、「百済本紀」にもいくつか問題があります。

 まず腆支(てんし)王の死亡年に問題があります。『日本書紀』では、直支(とき)王(腆支王)の死を414年(修正年)としています。ところが、「百済本紀」では420年としています。さらに「宋書百済伝」によれば、余映(腆支王)が424年に朝貢したと書かれています。日本・朝鮮・中国の記録がみな違っています。

 この件について、『日本書紀』に興味深い記事があります。応神天皇の25年の条に、次のように書かれています。

	 百済の直支王(ときわう)薨(みまか)りぬ。即ち子久爾辛(くにしん)、立ちて王(こきし)と為(な)る。王、年(とし)幼(わか)し。木満致(もくまんち)、国政(くにのまつりごと)を執(と)る。王(こきし)の母(いろは)と相(あい)婬(たは)けて、多(さは)に無礼(ゐやなきわざ)す。天皇(すめらみこと)、聞(きこ)しめして召す。

 この記事のポイントは、直支王が亡くなった時に、幼少の太子とその母が残されたことです。幼少の太子は後の毘有(ひゆう)王でしょう。母は、久爾辛王だったと思います。

 「百済本紀」では腆支王の子は久爾辛王で、久爾辛王の子を毘有王としています。しかし分注には、腆支王の子を毘有王とする別伝があると書かれています。その分注を重視して、太子の毘有王が長するまでのつなぎとして、母の久爾辛王が即位したと考えます。

 百済では、女王久爾辛の存在を中国に対して隠し通し、さも腆支王の治世が続いているかのように装ったのでしょう。日本でも推古女帝の存在を隠した例があります。女王を戴くことで中国に軽んじられることを避けたのかも知れません。

 そこで、腆支王から毘有王までの年代については「百済本紀」をそのまま採用し、系図については次のように考えます。

 18腆支王
    ├────20毘有王─────21蓋鹵王
 19久爾辛王

 次に蓋鹵王以後の七代については、年代は「百済本紀」が正しく、系譜は『日本書紀』が正しいと思います。「百済本紀」で系図を作ると、5世紀の100年間に六世代が収まって不自然です。100年間に三世代か四世代が収まるのが普通で、この点で『日本書紀』のほうが信用できます。

 次に、前半の枕流(ちんりゅう)王と辰斯(しんし)王の二代は在位が短く、近仇首(きんきゅうしゅ)王の弟と考えたほうが良さそうです。阿華(あか)王が近仇首王の子だと思います。ついでになりますが、近仇首王以前の系図については、8代・9代・10代の三人の王は、4代王の孫とすると収まりが良くなります。三国の中では、百済の系図に混乱が目立つようです。

 図表23  百済王の比較年表
代 王 名 百済本紀
年~死亡年
日本書紀
年~死亡年

13 近肖古 346~375   ~255
14 近仇首 375~384 256~264
15 枕 流 384~385 264~265
16 辰 斯 385~392 265~272
17 腆 支 392~405 272~285
18 阿 華 405~420 285~294
19 久爾辛 420~427 294~  
20 毘 有 427~455 記載漏れ
21 蓋 鹵 455~475   ~475
22 文  475~477 477~  
23 三 斤 477~479   ~479
24 東 城 479~501 479~502
25 武 寧 501~523 502~523
26  聖 523~554 524~554
27 威 徳     554~598 557~  

 図表24  百済王の比較系図

 ◯百済本紀

 13近肖古───14近仇首─┬─15枕流───17阿華──┐
               └─16辰斯         │
  ┌────────────―――――――――――――――┘
  │  別伝に
  │   18腆支───────────20毘有──
  │
  └───18腆支───19久爾辛───20毘有──┐
                           │
  ┌────────────―――――─────――┘
  │
  └─┬─21蓋鹵─―─22文─―─23三斤
    │
    └──◯◯──―─24東城─―─25武寧──┐
                          │
                  ┌─────――┘
                  └─26聖──27威徳
 ◯日本書紀

 13近肖古───14近仇首─┬─15枕流──┐
               └─16辰斯  │
                       │
 ┌────────────―――――――――┘
 │
 └─17阿華───18腆支─19久爾辛──┐
                      │
 ┌────────────――――――――┘
 │
 └─(20毘有)

   ┌─女性─┬─21蓋鹵──25武寧──26聖──27威徳
   │    │
   │    └──◯◯───24東城 
   │
   └─22文───23三斤

  もどる    つぎへ    目次2へ

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(後)

百済と倭国の五王まで)
 「百済本紀」には日本の記事はわずかしかありませんが、『日本書紀』には百済との交流記事が多く、対照的です。

 『日本書紀』によれば、366年に倭国と百済の国交が開始されたあと、早くも369年に倭国の軍が朝鮮半島に出征しました。この時の出征が、朝鮮半島に支配権を確立した画期として記憶されています。よほど大きな戦果を上げたのでしょうか。

 「百済本紀」によると、369年に百済は高句麗の侵入を撃退し、371年にも高句麗を撃退しました。特に371年には平壌まで攻め込んで、高句麗の故国原王を戦死させました。これは倭国と百済が同盟した果だと思います。しかし同時に、高句麗の恨みを買った事件でもあったでしょう。

 「百済本紀」によれば、372年に百済は南朝の東に朝貢しました。その一方で、『日本書紀』によれば、同じ372年に倭国に七支刀を献じたと書かれています。その七支刀は、奈良県天理市の石上神宮に伝わり、刀身には東の泰和4年(372年)の銘文が刻まれています。

 高句麗に広開土王が現れた4世紀末から5世紀初めにかけては、高句麗と倭国が交互に半島南部に侵入して、軍事的圧力を加えています。応神朝の出来事です。

 この時期の羅では、高句麗と倭国の両方に人質を送り、危機を回避しました。しかし百済は、倭国には人質を送りましたが、高句麗との間にそのような記事は見られません。そのため、談徳(広開土王)の激しい攻撃にさらされたようです。「百済本紀」の399年の条には、民は役務に苦しみ、羅に逃げる者が多く、人口が減少したとあります。

 百済は、397年に太子の腆支を倭国に送りました。403年には、倭国の使者を丁重に迎えたとする記事もあります。これは日本史にとって重要な記事だと思われます。『日本書紀』の応神天皇の14年(283年)の条によれば、百済王が縫衣工女を送ってきたとあります。120年繰り下げると、403年になります。雄略天皇の7年(463年)にも、百済が陶部・鞍部・画部・錦部・訳語の才伎(工人等)を送ってきたとありますが、この年も403年のことかもしれません。この記事に限っては、60年繰り下がっている可能性があります。

 475年には、高句麗の長寿王が百済の都を攻略し、滅亡の危機に追いやりました。しかし、このときには倭国が援助して、都を南の公州の移し、百済を再興したことが『日本書紀』に書かれています。雄略朝のできごとです。雄略天皇(王武)は、478年にに使者を派遣して上表文を奉じましたが、そこには、高句麗の暴虐をに訴えて、高句麗討伐の援軍を請う目的があったと思われます。

百済と倭国の五王以後)
 継体天皇の時代には、百済は倭国から馬地方の割譲を受けて、国の再建を図りました。おそらくこれが馬滅亡の時期でしょう。倭国はこの馬を押さえたことにより、半島南部の支配権を手に入れたと考えた節があります。その馬を百済に譲り渡したのです。百済は、538年には都を扶餘(ふよ)に移し、倭国に対しては、聖明王が欽明天皇に仏像その他を献上しました。これが日本への仏教伝来の初めとされます。

 551年には、聖明王が、高句麗と不和になっていた羅と同盟して北上し、高句麗を討ちました。この結果、百済は山城(広州)辺の故地を回復しました。

 欽明天皇の23年(562年)の条のよれば、大伴狭手彦(おおとものさてひこ)が百済の計を用いて数万の軍で、高句麗を討ち破ったといいます。この年次を別伝では11年(550年)とします。おそらく大伴狭手彦は、550年に倭国を出し、551年に高句麗を討ったのでしょう。550年(庚午年)と562年(壬午年)の間違いについては、どちらも午年(うまどし)であるために間違えたのでしょうか。

 しかし553年になると、百済が高句麗の平壌を攻めた留守を羅に襲われて、山城辺の地を羅に奪われてしまいました。そこで554年には、羅の裏切りに怒った百済の太子が羅攻撃に向かいました。この時に、聖明王が心配して太子の後を追いましたが、羅兵の待ち伏せにあって、王が戦死しました。

 7世紀になると、百済にも武王という軍事的天才が現れて、初めて自力で失地回復に努めました。ところがこのことにより、かえってに軍事介入の口実を与えたらしく、660年には羅の連合軍に攻撃されて、滅亡してしまったのです。倭国はこのときにも倭国にいた王子の豊璋を立てて、国の再興を図りました。しかし663年に白村江の戦いに敗れて、百済再興の望みは絶たれてしまいました。

	参考 従来、4世紀には百済が馬韓を支配したとされていましたが、今変わりつつあります。

 現在の全羅南道・栄山江流域は、原三国時代には馬の領域であったが、4世紀以降は百済の領域となったと考えられてきた。近年、この地域の墓制や遺物の独自性を評価し、全羅南道地域の百済への服属を5世紀末ごろと捉え、それ以前は人甕棺葬などを特徴とする独自の勢力が存在したと考えられるようになってきた。(白井克也)

 4~5世紀の全羅南道・栄山江流域を中心とした地域に,百済に属さぬ独自の政治勢力(馬)が存在したのではないかという議論は,最近の重要な研究課題となってきている。(白井克也)
 図表25  百済王の年表
代 王 名  修正しない
 在位年数    修正した
    年 ~ 死亡年
 1 温 祚 46 165前半~187後半
 2 多 婁 50 187後半~212前半
 3 己 婁 52 212前半~237後半
 4 蓋 婁 39 237後半~256後半
 5 肖 古 49 256後半~280後半
 6 仇 首 21 280後半~290後半
 7 沙 伴 1 290後半~290後半
 8 古 爾 53 290後半~316後半
 9 責 稽 13 316後半~322後半
10 汾 西 7 322後半~325後半
11 比 流 41 325後半~345後半
12 契 3 345後半~346後半
13 近肖古 30 346 ~ 375
14 近仇首 10 375 ~ 384
15 枕 流 2 384 ~ 385
16 辰 斯 8 385 ~ 392
17 阿 華 14 392 ~ 405
18 腆 支 16 405 ~ 420
19 久爾辛 8 420 ~ 427
20 毘 有 29 427 ~ 455
21 蓋 鹵 21 455 ~ 475
22 文  3 475 ~ 477
23 三 斤 3 477 ~ 479
24 東 城 23 479 ~ 501
25 武 寧 23 501 ~ 523
26 聖 32 523 ~ 554
27 威 徳 45 554 ~ 598
28 恵 2 598 ~ 599
29 法 2 599 ~ 600
30 武 42 600 ~ 641
31 義 慈 20 641 ~ 660

   図表26  修正しない百済王の系図

 1温祚──2多婁──3己婁───4蓋婁──┐
                      │
  ┌───――――――――――――――――┘
  │
  └┬─5肖古───6仇首─┬─7沙伴
   │           └─11比流───13近肖古─┐
   └─8古爾───9責稽───10汾西───12契   │
                              │
  ┌─────────────────────――――――┘
  │
  └─14近仇首─┬─15枕流───17阿華──18腆支─┐
          └─16辰斯              │
                              │
  ┌──────────────―――――――――─―――┘
  └─19久爾辛─┐
          │
  ┌─――――――┘
  │
  └─20毘有─┬─21蓋鹵───22文───23三斤
         └──◯◯────24東城───25武寧─┐
                              │
  ┌─────────────――――――――――――――┘
  └─26聖─┬─27威徳
        └─28恵───29法──30武──31義慈

  もどる    つぎへ    目次2へ