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古朝鮮と中国の戦闘

2.古朝鮮と中国の戦闘
満朝鮮の登場(紀前194年)

半島で古朝鮮が平和に暮らすなか、中国では繰り返したな王朝が登場しては国土を細かく切り裂き、ついに春秋戦国時代を迎えることとなる。各国の王たちは拡張と存続の為に隣国との戦闘に明け暮れるが、最後はの統一により終結を迎える。中国で最初の統一国家をした影幀は自らを始皇帝と称し、それまでは地域などによりバラバラであった書体や度量衡の統一を行うなどの功績を残した。また一方では、思想をも統一しようと焚書坑儒を敢行したがこちらは 後世まで批判を受ける事となる。

始皇帝は万里の長城と巨大な阿房宮を建てるべく過酷な税をかけ強制賦役を強き、百姓達の生活は日増しに疲弊していった。その結果、紀前221年中国を統一したはわずか15年後の紀前206年に滅亡し、中国は改めて大混乱に陥る。

この後中国は5年の間戦争に明け暮れ、その余波から罹災民が多く生まれ中国東北部(満州)や半島に移住する人々が続出した。このときの状況を志は次のように記録している。
『・・・天下がに反し戦乱が起こると 難を逃れようとした多くの人々がなどから朝鮮に向かい、その数は数万に及んだ』
このようにして古朝鮮に入った多くの人たちの中に満(ウィマン)という者がいた。彼はの人だったが、匈奴に滅亡させられると千余名の群衆を率いて古朝鮮に移ってきた。満はまず古朝鮮の準王に許され国境近くの地に居住し、その後さらに王の厚い信任を受け博士の官職と辺地を与えられ、中国の流移民者たちの統率まで任されるようになる。

自身の勢力が拡大した満は野心を抱くようになる。準王を追い出し自らが王になろうと考えたのである。そしてそれは紀前194年に見事達され、満は王になった。
この時期を満朝鮮という。
追い出された準王は江以南の辰国に逃亡し、満朝鮮はさらに勢力を拡大していった。そして満の孫である右渠王(ウゴワング)の時代にその勢力は絶頂を迎える。

古朝鮮の滅亡(紀前108年)

一方、中国では劉邦(の高祖)が紀前202年にを建国したが、満朝鮮の台頭時には中国東北部の勢力は匈奴が握っていた。満の勢力が大きくなると、これを脅威に感じたの武帝は、右渠王に使臣として渉何を送り朝貢を要求してきたが、右渠王はこれを拒絶し渉何を鴨緑江まで送り返した。しかし、渉何は鴨緑江で接待官を殺すと武帝に対しては朝鮮の大将を殺したと報告し、武帝は渉何を東東部都尉に任命した。

これを聞いた右渠王は渉何を不届き者とし大軍に鴨緑江をえさせることとなり、古朝鮮(満朝鮮)ととの戦いが始まる。
武帝は樓船将軍・楊僕に7千の軍を与え王儉城(現在のピョンヤン)への攻撃を命じるが、楊僕軍は大部分が殲滅し楊僕と数名の部下だけがようやく逃げ帰った。
その後漢武帝はたにより一層の軍を東に送ったが、やはりこの軍も古朝鮮の軍を破ることはできなかった。

両国間の膠着状態が続くなか、先に逃げ帰っていた楊僕が再び現われ王儉城の南側を攻めてきた為に、右渠王はいよいよ和睦を考えるようになった。
そんな折、王儉城の中では和睦派と主戦派に分かれ意見が対立していた。路人・陶・尼谿・参など和睦派はに投降することを謀議し、結果として主戦派である右渠王を殺め路人が投降することになった。これにより右渠王は和睦派の手にかかり、路人も投降の途中で殺されてしまった。(理由は不明)

右渠王は亡き後も最後まで王儉城は陥落しなかった。大臣であった己が城の中の者たちを励まして引き続き対抗した為である。しかし、戦争が1年以上も続いた紀前18年のはすでに投降していた右渠王の子である長と、路人の子である最をけしかけて己を殺させ、ここに古朝鮮は滅亡する。
古朝鮮は結局により倒れたが、戦争に敗れた訳ではなかった。
中国の歴史家・司馬遷は古朝鮮ととの戦争について
「・・・両軍ともに傷を負い生きながら功を建て諸侯(大臣)に封じられる者がいなかった」と記している。
武帝は108年に古朝鮮の地に楽浪・真番・隣屯の3郡を置き、その翌年には玄菟郡を置いた。

この中で楽浪郡は最も朝鮮の社会に影響を与え、その文化は急速に半島全域に広まることとなった。
楽浪郡で掘された多くの文化遺産からは当時の豊かな生活ぶりをうかがうことが出来る。
に対抗した古朝鮮の遺民たちは静かに力を蓄え、後にこれら四郡の支配者たちに対抗し始める。そして一方、玄菟郡はしい力である高句麗(コグリョ)により追い出され、その後楽浪郡もこの勢力に併合される。