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各論者の方法(Historical)

在位年代推定の方法(Historical)

1.各論者の方法

はじめに、在位年代推定の方法について、各論者の方法を紹介しよう。

まずは、伝統的な手法。「一世代=20~30年」による方法である。これは、親→子の世代交替がおよそ20年~30年で起こるという、いわば、経験則による方法である。那珂通世や井上光貞など、多くの論者が、神武や崇神の在位年代をざっと推定しようという場合に、用いている(古田武彦もその一人)。これは、勿論、大雑把に在位年代を推定する為の方法として用いられているもので、厳密な方法論であるわけではないが、後に論ずるように、この経験則自体は妥当なものであり、推定には妥当性があるといえる。

次に、古事記の没年干支を用いる方法がある(末松保和、水野祐等)。これは、古事記に記載された没年干支を真実を伝えるものとして、その干支から、各天皇の在位年代-この場合には、崇神以降-を推定、というよりも、確定しようという方法である。だが、この方法には致命的な欠陥がある。それは、古事記の没年干支の信憑性の問題である。古事記の没年干支は、分注として挿入されており、古事記本文とは一応、独立した情報である。だが、この没年干支は、古事記本文と矛盾するのである。仲哀記によれば、応神は先代仲哀の没後に誕生したのだという。これが、仲哀記の示す、基本的な図式だ。神功の遠征物語にとって不可欠の要素である。そして、応神記によれば、応神の没年齢は、

   凡そ此の品陀天皇の御年、壱佰参拾歳。<応神記>

とあって、その信憑性はともあれ、「130歳」であったという。ところが、没年干支に依れば、仲哀の没年干支は「壬戌」、応神の没年干支は「甲午」であって、両者の差は、32年か92年、もしくは152年(干支一運もしくは二運を含め)である。いずれをとっても、応神の没年齢とは一致しないのである。この場合、古事記本文か分注のいずれかの信憑性が疑われるのだが、没年干支が正しいのだとすれば、本文が正しくないことになり、これは、通常では考えられないケースである。従って、「古事記の本文は信用できないが、没年干支だけは信用できる」という為には、その論証が不可欠である。(かわにしは、逆に、本文は古い伝承を伝えるものとして信憑でき、分注は古事記編纂当時の太安万侶の付したものであり、その原史料が判明しない以上、信憑性は保証されないものと考える)

続いて、日本書紀の紀年を、正しいものに復しようという試みがある。つまり、日本書紀の紀年は、もともと存在した紀年を何らかの法則に従って引き伸ばしたものであると考え、これをもとの形に復しようというのである。だが、日本書紀の暦の研究(小川彦)により、雄略以後は「嘉暦」という、代の暦法が用いられているのに対し、雄略以前はの「儀鳳暦」を用いているのだということが判明し、特に雄略以前が、かえってしい暦法に従っていることからすれば、この紀年はまったく造作されたものであることが判明した為、この方法で古代の在位年代を推定しようという試みは不可能である。