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呉三桂

呉三桂

に仕える有力武将であったが、李自の反乱を機にに降服し、軍を先導して北京入城をとげた。その功績ででは藩王となった。しかし、康煕帝の藩王勢力削減策に反して1673年に「三藩の乱」を起こしたが鎮定された。

呉三桂
 はじめの部将として山海関の守りについていたが、が李自の乱で滅亡すると、自ら軍にくだり、軍の先導として北京に入り、李自を追放して朝の全国制覇に大きな役割を果たした。その功績により、雲南地方の統治権を認められ、藩王となったが、の康煕帝は藩王の勢力を除いて中央集権化を図り、呉三桂にも圧迫を加えた。呉三桂は他の藩王とも連携して1673年に三藩の乱を起こし、に対抗、1678年帝位についたが半年ほどで病死した。その残党は軍に降り、三藩の乱は平定された。

勇将、恋に狂う 呉三桂

 の勇将であった呉三桂が、あっさりとに寝返り、その先陣となって李自軍を破ることになった裏には、一人の女性が存在した。
 若き呉三桂が首都北京の防責任者だったとき、崇禎帝の取り巻きの有力者田弘遇邸の宴会に招かれ、田家の家妓、円円が艶やかに歌い舞う姿を見た瞬間、恋に落ちた。円円は江南の貧しい農家に生まれ、遊郭に売られ、田弘遇に身請けされていた。呉三桂は大枚一千両を田家に払い、彼女を我が物にした。しかし間もなく呉三桂軍に備えて山海関の守りを命じられて出陣し、円円は北京に残ることとなった。1644年、李自軍は北京を制圧し、を滅ぼすと、呉三桂に北京に戻るよう呼びかけた。ところが、そのころ円円は李自軍の武将劉宗敏の手に落ちていた。その情報を得た呉三桂は激怒し、態度を一変させ、に投降して援軍を乞い、李自軍に矛先を向けたのだった。「この行為によって、呉三桂は後世、一人の女のために満州族のに身を売り国を売り、が中国全土を支配する契機を作った裏切り者と目されるにいたる。」<井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.226>

円円の後日談

 李自軍が立ち去った後の北京に堂々の無血入城をした軍の中に、山海関からの先鋒を務めた呉三桂の姿があった。呉三桂の頭は、このときすでに満州人と同じ辮髪に変わっていた。辮髪になって北京に戻った呉三桂は、円円と再会し、その後の生活を共にしたという説が有力である。の中国進出で大手柄を建てた呉三桂は、雲南に駐屯地を移し赴任した。円円もともなっていたらしい。やがて呉三桂は、雲南の駐屯権を永久のものにすることを要求した。しかし、若き康煕帝はこのような地方政権の立を認めず、ついに三藩の乱となった。呉三桂は今度は辮髪を切ってを裏切ることになったのだが、かつてを助けた呉三桂がいまさら「反」と叫んでもむなしかった。反乱は9年に及んだが、自滅の形で失敗に終わった。円円は雲南の宮殿で自殺したとか、殺されたとか、あるいは裏切りを重ねる呉三桂に絶望して出家したなど、さまざまな風説が取りざたされている。