0o0dグッ

[-2070?~-1600?]

夏

中国の最初の王朝。その実在は疑われていたが、最近は実在説が有力となっている。
 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子のは暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され王朝に交代したという。日本においては、王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが想されている。

王朝実在説

 この王朝は、黄河中流域における農耕社会の形の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を王朝の時代とする主張も有力になっている。現在注目されているのは、1950年代に見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。これらの遺跡で墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を王朝の都とする説がかなり有力となっている。

王朝の都見か

 2004年7月21日付『朝日聞』朝刊は、「中国の伝説上、最古の王朝(紀前21世紀~同16世紀)の都があったと推定されていた河南省偃師市の「二里頭遺跡」から、大規模宮殿を持った古代都市跡がこのほど見された。中国科学院考古学研究所などは、今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、王朝が王朝(紀前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性が一段と強まった。」と華社通信のニュースを掲載した。遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっているという。

中国の教科書での王朝

 中国の中学校歴史教科書では、王朝について、原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀前21世紀に立した中国史上最初の世襲制王朝である、と定義している。その最初の王都の陽城の位置は不であるが、最近の掘によって河南省登封県の城跡が有力とし、の後期の宮殿跡が河南省の二里頭遺跡であるとしている。<『世界の教科書シリーズ5中国中学校歴史教科書・中国の歴史入門』小島治/並木頼寿監訳 石書房 p.76 右図も同書より>

二里頭遺跡とは

※二里頭遺跡が王朝の都であるとする根拠は次のようなことが挙げられている。

   遺跡の中心の宮殿区は回廊で囲まれた巨大な正殿と広い中庭をもち、後の中国歴代王朝の宮殿と基本的に同じ構造と規模をもっている。王を中心として多数の臣下が執務する宮廷儀礼の場であったことが想定される。
   宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。また多種多様な青銅製容器は宮廷における飲酒儀礼で用いられたものである。これらはこの時期に宮廷儀礼、ひいては「礼制」を整えた王朝の成立を意味している。
   二里頭の宮殿建設には、延べ20万人ほどの動員が必要とされたと考えられるので、労働力の国家的な動員があったと想定される。また、二里頭文化期には銅製武器や鏃などが急増しており、国家権力の成立に伴う戦闘が拡大したと考えられる。

これらの事実から、岡村秀典氏は「王朝」は実在したと断定している。<岡村秀典『王朝 中国文の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年 p.266-273>

初期国家論

 王朝の実在は肯定的に見られるようになってきたが、その性格についてはまだ議論が定まっていないようだ。王朝は実在したとしても、それは本格的な古代国家であったのではなく「初期国家」あるいは「初期王朝」ととらえる見解も出されている。
 宮本一夫氏は、石器時代終末期に各地に首長権が形されるようになったが、この首長制社会は初期国家段階とは言えない。次の青銅器時代開始期である二里頭文化期は、文献史料で言う王朝期にあたり、文献史料における王朝とはこの二里頭文化の政治勢力を指すであろう。二里頭文化期は各地の宗教祭祀を統合して、「礼制」を導入し、身分標識としての酒器を青銅器という貴重な素材で製作し、階層秩序をたに作ることに功した。しかしそれはただちに強力な王権の立という段階にたっしたわけではなく、王権の形期であり、初期国家形期または萌芽期と位置づけられる、と述べている。そして本格的な初期国家段階は王朝の統治から、としている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.354-358>
 初期国家とは、文化人類学者のエルマン=サーヴィスが提起した概念で、国家が原始的な状態から次第に複雑、巨大化していく過程の最初の段階とされるもので、王と貴族、平民、奴隷などの階層制度、官僚や司祭者の存在、貢納制度、都城や宮殿の存在、などが指標とされている。<参考 宮本同上書 p.369 /竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.42>

中国の伝説上の最初の王朝。姓はじ。『史記』によると王より 17代,約 500年ぐらい続いたという。は鯀 (こん) の子で,帝舜に仕えて水土を司り,黄河の治水に功し,天下の土地を測量して貢物を定め,舜の禅譲を受けて王朝を建てた。から 17代目にあたるは暴君で奢侈淫逸にふけり,商 () の湯に滅ぼされたという。の後裔といわれる杞が代の諸侯国として存したが,そのものの実在は現在までのところ確証はなく,偃師二里頭期と考える者もあるが,依然として不である。

(いん)以前にあった中国最古の王朝。始祖は(う)。紀前15世紀ごろの(けつ)王が暴政を行ったため、の湯(とう)王に滅ぼされたという。

(1)中国の伝説における最古の王朝。(う)が王朝を開き,17代の(けつ)に至って(いん)に滅ぼされたと伝えられる。その実在は確認されていないが,河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により,存在が強く主張される。また,とは中国をさす呼称にも用いられる。

中国古代の王朝名。始祖黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに功し,舜から帝位を譲られ,后と称した。その死後,子孫が位を継ぎ,最初の世襲王朝となった。第17代の履癸(王)は暴君で,諸侯が背き,湯大乙に滅ぼされた。の卜辞(甲骨文)のごとき文字史料が未見で,その実在は未確認であるが,最近,河南省偃師県二里頭遺跡が見され,その文化の性格をめぐり,の存在が強く主張されるにいたった。

伝説的な中国最古の王朝。治水に功績のあったうが、舜しゆんの禅譲をうけ王位についた。世襲により一七代続き、暴君けつの時、いんの湯王に滅ぼされたという。三代と並称。

中国の王朝名。
[一] 中国最古の伝説的な王朝。始祖(う)が舜の禅譲(ぜんじょう)を受けて位につき、前後四七一年間続き、第一七代王の時、の湯王に滅ぼされたとされる。しかし現在までそれを実証する遺物、遺跡は現われていない。

伝説上の中国最古の王朝

中国で(いん)王朝より以前に存在したとされている最古の王朝。の3王朝をあわせて「三代」とよび、旧中国では諸制度の整った理想的な時代とされていた。に先だつ王朝としてが存在した可能性は十分にあるが、現在のところ、その都がどこにあったかは定説がない。近年、河南省の登封(とうほう)市の「王城崗(おうじょうこう)」遺跡が、(う)の都した陽城の跡だとする説が出されているが、異論も多い。『史記』の「本紀」が伝えるところによると、王朝の始祖は黄河の洪水を治めるのに献身的に努力し、その功により、舜(しゅん)の死後、諸侯から推されて天子となった。は自分も禅譲の原則により民間から賢者を選んで天子の位を譲ろうとしたが、諸侯はの子啓(けい)を後嗣(こうし)として推戴(すいたい)し、それ以後子孫が次いで天子となったという。17代目の履癸(りき)すなわち(けつ)に至って、政治が暴虐を極めたため、民心を失い、の湯(とう)王によって攻め滅ぼされた。

(前2070?~前1600?)]
(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)
(?~?)
  姓は姒、名は文命。后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜の代に司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れてのもとに来たので、ついに天子となった。王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。
(?~?)
  舜に仕えて虞官をつとめ、山沢をつかさどった。が立つと、が天下をおさめるのを助けた。が崩ずると、の遺言によって帝となったが、三年の喪がけるとの子の啓に位を譲り、箕山の南に隠棲した。
帝啓(?~?)
  帝開、后開ともいう。の子。は臣下の益を後継者に指名していたが、益はの喪がけると啓に位を譲ったので、啓はの天子となった。一説には啓が益を殺して天下を奪ったともいう。同姓の有扈氏が叛いたので、これを討った。以後、天下の諸侯はみなに入朝した。また西河を攻めたという。
太康(?~?)
  啓の子。啓の跡を継ぎ、の天子となった。酒色に溺れて政治を顧みなかった。東夷の有窮氏の后羿がこの機に乗じての都の斟尋を攻めたため、国外に逃げてまもなく没した。
中康(?~?)
  啓の子。太康の弟にあたる。太康の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
  中康の子。中康の跡を継ぎ、商丘で即位した。年、淮夷を攻めた。二年、風夷や黄夷を攻めた。七年、于夷が入朝してきた。寒浞の子の澆に殺されたという。
少康(?~?)
  帝の子。父が澆に殺されたので、母の実家である有仍氏に育てられた。人して有仍氏の牧正となった。澆の追捕を逃れて、有虞氏のもとに身を寄せた。庖正となり、有虞氏の娘をめとった。の旧臣を集めて、の再興を計画した。の遺臣の伯靡が斟灌氏や斟尋氏の残党を集めて、寒浞を攻め滅ぼすと、王に立てられた。の天子となる。さらに澆を過で滅ぼし、の中興の主となった。帝の殺害事件と少康の中興の記事は『左伝』に見えるのみで、『史記』や『竹書紀年』に見えないため、異論も多い。
帝杼(?~?)
  少康の子。少康の跡を継ぎ、の天子となった。はじめ原におり、老丘にうつった。杼の子が東海と王寿を攻め、九尾の狐を得たという。
(?~?)
  后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、の天子となった。三年、九夷が来朝してきた。
(?~?)
  后荒ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
  帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。二十一年、畎夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷らに領地と官職を授けた。
不降(?~?)
  帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。六年、九苑を攻めた。
帝扃(?~?)
  帝の子。帝不降の弟にあたる。帝不降の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
  またの名は胤甲。帝扃の子。帝扃の跡を継ぎ、の天子となった。西河に都した。かれの治世に十個の太陽が同時にのぼったという。
孔甲(?~?)
  帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。鬼神のことを好み、荒淫にふけった。徳が衰え、諸侯がそむいたという。
劉累(?~?)
  陶氏の子孫。竜をならすことで、帝孔甲に仕えた。御竜氏という姓を与えられ、豕韋の跡を継いだ。竜の牝の肉を后氏に食わせたが、美味だったため、さらに所望され、恐れて逃亡したという。
(?~?)
  孔甲の子。帝孔甲の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
  后敬、または恵ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。年、諸夷が王門に来朝した。
(?~?)
  名は履癸。王朝の最後の天子。帝の子。妹喜との情におぼれて、百官を殺傷し、民を苦しめた。の湯王の軍に敗れて、天下の実権を奪われた。鳴条に逃げたが、歴山に放逐されて死んだ。
↓次の時代=

人物事典トップへもどる
十六国(304~439)]
十六国前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
十六国以外(西,仇池,代,冉魏,翟魏,段部,宇文部,

(407~431)]

世祖(赫連勃勃)-廃主(赫連昌)-後主(赫連定)
赫連勃勃(381~425)
  字は屈孑。の初代世祖武烈帝。在位407~425。匈奴族鉄弗部の出身。劉辰の三男。父は前秦に帰属していたが、北の道武帝に攻められて一族とともに殺された。赫連勃勃は逃れて、後秦の姚興に従った。驍騎将軍に任ぜられ、奉車都尉を加えられた。安遠将軍に進み、陽川侯に封ぜられた。安北将軍に上り、五原公に改封された。のち朔方において自立して、陝西北部を平定し、天王大単于を称した。国号は大夏。鳳翔年(413)、統万に都城を築いた。六年(418)、東の劉裕が北伐して長安を取り、後秦を滅ぼした。まもなく劉裕が南帰すると、赫連勃勃は長安を攻略し、帝を称した。長安を南都とした。性質は暴虐で、統治も苛酷であったといわれる。
赫連昌(?~434)
  の二代廃主。在位425~428。赫連勃勃の三男。はじめ太原公に封ぜられた。赫連勃勃が後秦の上邽を攻めると、前将軍・雍州刺史となり、陰密に鎮した。東後秦を滅ぼすと、潼関に鎮し、諸軍と会しての劉義真・朱齢石らを攻めた。真興六年(424)、太子赫連潰が乱を起こすと、これを襲い殺し、太子に立てられた。翌年、位を継ぎ、承光と改した。承光三年(427)、北に都の統万を落とされ、上邽に走った。四年(428)、再び北に敗れて平に奔り、安定で戦って、将の安頡に捕らえられた。平城に送られ、北の始平公主を娶され、会稽公に封ぜられた。のち王に改封された。延和三年(434)、北に叛いて西走したが、捕殺された。
赫連定(?~432)
  の三代後主。在位428~431。赫連勃勃の五男。はじめ平原公に封ぜられた。太子赫連潰が乱を起こして殺されると、雍州牧として長安に鎮した。兄の赫連昌が位を継ぐと、都に戻った。承光二年(426)、北の奚斤が長安を落とすと、長安奪回のため、これを攻めた。四年(428)、赫連昌が北に捕らえられると、平で帝を称した。長安を恢復し、いっとき北に臣を称した。南朝と連合して北を攻めようとしたが、鶉觚原で北と戦って敗れ、上邽に走り、関中を失った。勝光四年(431)、軍を遣わして南安を破り、西秦を滅ぼした。渡河して北涼を攻めようとしたが、吐谷渾に攻められて捕らえられ、身柄を北に送られた。ここには滅んだ。翌年、殺された。

-2144''夏王朝(かおうちょう) ()
―启―太康―仲康―少康―杼―不降―扃―廑―孔甲――癸―''(上古時代-シナ大陸-后))--
-2144、治水に功し、天子の位につく、始まる(木徳・青・東)(-シナ大陸-后))-史記年表-
伝説上の最古の王朝。開祖は(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代(けつ)のとき(いん)に滅ぼされる。その実在は確認されていないが、河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により、存在が強く主張される。紀前21世紀~前16世紀頃
-2070[-2070~-1600]
中国王朝立(伝説)
王朝・・ 帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)[- -1600]
(-シナ大陸-后))--
-2070[前2070?~1600B.C.?](-シナ大陸-后))-中国史人物事典-
-2070[前21世紀~前17世紀](-シナ大陸-后))--
王朝中国最古と伝承される王朝。

 中国の最初の王朝。その実在は疑われていたが、最近は実在説が有力となっている。
 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子のは暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され王朝に交代したという。日本においては、王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが想されている。
-2070[前2070?~前1600?]
(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)(-シナ大陸-后))--
(前2070?~前1600?)]
 帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)
禹(帝禹)() [?~?]
姓は姒、名は文命。后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜の代に司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れてのもとに来たので、ついに天子となった。王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。
(えき) [?~?]
舜に仕えて虞官をつとめ、山沢をつかさどった。が立つと、が天下をおさめるのを助けた。が崩ずると、の遺言によって帝となったが、三年の喪がけるとの子の啓に位を譲り、箕山の南に隠棲した。
帝啓(ていけい) [?~?]
帝開、后開ともいう。の子。は臣下の益を後継者に指名していたが、益はの喪がけると啓に位を譲ったので、啓はの天子となった。一説には啓が益を殺して天下を奪ったともいう。同姓の有扈氏が叛いたので、これを討った。以後、天下の諸侯はみなに入朝した。また西河を攻めたという。
太康(?~?)
 啓の子。啓の跡を継ぎ、の天子となった。酒色に溺れて政治を顧みなかった。東夷の有窮氏の后羿がこの機に乗じての都の斟尋を攻めたため、国外に逃げてまもなく没した。
中康(?~?)
 啓の子。太康の弟にあたる。太康の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
 中康の子。中康の跡を継ぎ、商丘で即位した。年、淮夷を攻めた。二年、風夷や黄夷を攻めた。七年、于夷が入朝してきた。寒浞の子の澆に殺されたという。
少康(?~?)
 帝の子。父が澆に殺されたので、母の実家である有仍氏に育てられた。人して有仍氏の牧正となった。澆の追捕を逃れて、有虞氏のもとに身を寄せた。庖正となり、有虞氏の娘をめとった。の旧臣を集めて、の再興を計画した。の遺臣の伯靡が斟灌氏や斟尋氏の残党を集めて、寒浞を攻め滅ぼすと、王に立てられた。の天子となる。さらに澆を過で滅ぼし、の中興の主となった。帝の殺害事件と少康の中興の記事は『左伝』に見えるのみで、『史記』や『竹書紀年』に見えないため、異論も多い。
帝杼(?~?)
 少康の子。少康の跡を継ぎ、の天子となった。はじめ原におり、老丘にうつった。杼の子が東海と王寿を攻め、九尾の狐を得たという。
(?~?)
 后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、の天子となった。三年、九夷が来朝してきた。
(?~?)
 后荒ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。二十一年、畎夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷らに領地と官職を授けた。
不降(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。六年、九苑を攻めた。
帝扃(?~?)
 帝の子。帝不降の弟にあたる。帝不降の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
 またの名は胤甲。帝扃の子。帝扃の跡を継ぎ、の天子となった。西河に都した。かれの治世に十個の太陽が同時にのぼったという。
孔甲(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。鬼神のことを好み、荒淫にふけった。徳が衰え、諸侯がそむいたという。
劉累(?~?)
 陶氏の子孫。竜をならすことで、帝孔甲に仕えた。御竜氏という姓を与えられ、豕韋の跡を継いだ。竜の牝の肉を后氏に食わせたが、美味だったため、さらに所望され、恐れて逃亡したという。
(?~?)
 孔甲の子。帝孔甲の跡を継ぎ、の天子となった。
(?~?)
 后敬、または恵ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。年、諸夷が王門に来朝した。
王(?~?)
 名は履癸。王朝の最後の天子。帝の子。妹喜との情におぼれて、百官を殺傷し、民を苦しめた。の湯王の軍に敗れて、天下の実権を奪われた。鳴条に逃げたが、歴山に放逐されて死んだ。
(伝説)王朝・・帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)
前21世紀~前16世紀頃(か)伝説上の最古の王朝。開祖は(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代(けつ)のとき(いん)に滅ぼされる。その実在は確認されていないが、河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により、存在が強く主張される。
歴史書には王の系譜まで載っており、血族による皇帝制度はこの王朝から始まったとされています。最近になってやっとその存在を証するようなものが見されています。[- -1600]
二里頭文化人(にりとういせきじん) [(前2000?~前1600?) ]
1959年、徐旭生らによって河南省偃師市二里頭で見された。遺跡は約二キロ四方で、中心部には二つの宮殿跡が確認された。この遺跡の人々は、西龍山文化・河南龍山文化を継承し、青銅鋳造の技術を持っていたとみられる。王朝を形した人々と擬せられている。
前1900年頃 - 紀前1600年頃[-2069~-1600][前2070?~1600B.C.?][前21世紀~前17世紀](前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
の時代のことはよく分からない。
の啓という王様(王朝の先祖)については異常出生説話がある。
が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女はの子をはらんでいたので、はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
西域の方をといい、は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)

中国の最初の王朝。その実在は疑われていたが、最近は実在説が有力となっている。
 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子のは暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され王朝に交代したという。日本においては、王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが想されている。

***王朝実在説 [#r34db01f]
 この王朝は、黄河中流域における農耕社会の形の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を王朝の時代とする主張も有力になっている。現在注目されているのは、1950年代に見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。これらの遺跡で墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を王朝の都とする説がかなり有力となっている。

***王朝の都見か [#yd1a76e3]
 2004年7月21日付『朝日聞』朝刊は、「中国の伝説上、最古の王朝(紀前21世紀~同16世紀)の都があったと推定されていた河南省偃師市の「二里頭遺跡」から、大規模宮殿を持った古代都市跡がこのほど見された。中国科学院考古学研究所などは、今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、王朝が王朝(紀前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性が一段と強まった。」と華社通信のニュースを掲載した。遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっているという。

***中国の教科書での王朝 [#m30a1cc6]

 中国の中学校歴史教科書では、王朝について、原始社会から奴隷制社会に移行に伴って紀前21世紀に立した中国史上最初の世襲制王朝である、と定義している。その最初の王都の陽城の位置は不であるが、最近の掘によって河南省登封県の城跡が有力とし、の後期の宮殿跡が河南省の二里頭遺跡であるとしている。<『世界の教科書シリーズ5中国中学校歴史教科書・中国の歴史入門』小島治/並木頼寿監訳 石書房 p.76 右図も同書より>

***二里頭遺跡とは [#ob886e28]
※二里頭遺跡が王朝の都であるとする根拠は次のようなことが挙げられている。

遺跡の中心の宮殿区は回廊で囲まれた巨大な正殿と広い中庭をもち、後の中国歴代王朝の宮殿と基本的に同じ構造と規模をもっている。王を中心として多数の臣下が執務する宮廷儀礼の場であったことが想定される。
宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。また多種多様な青銅製容器は宮廷における飲酒儀礼で用いられたものである。これらはこの時期に宮廷儀礼、ひいては「礼制」を整えた王朝の立を意味している。
二里頭の宮殿建設には、延べ20万人ほどの動員が必要とされたと考えられるので、労働力の国家的な動員があったと想定される。また、二里頭文化期には銅製武器や鏃などが急増しており、国家権力の立に伴う戦闘が拡大したと考えられる。

これらの事実から、岡村秀典氏は「王朝」は実在したと断定している。<岡村秀典『王朝 中国文の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年 p.266-273>

***初期国家論 [#s6ea3d6f]
 王朝の実在は肯定的に見られるようになってきたが、その性格についてはまだ議論が定まっていないようだ。王朝は実在したとしても、それは本格的な古代国家であったのではなく「初期国家」あるいは「初期王朝」ととらえる見解も出されている。
 宮本一夫氏は、石器時代終末期に各地に首長権が形されるようになったが、この首長制社会は初期国家段階とは言えない。次の青銅器時代開始期である二里頭文化期は、文献史料で言う王朝期にあたり、文献史料における王朝とはこの二里頭文化の政治勢力を指すであろう。二里頭文化期は各地の宗教祭祀を統合して、「礼制」を導入し、身分標識としての酒器を青銅器という貴重な素材で製作し、階層秩序をたに作ることに功した。しかしそれはただちに強力な王権の立という段階にたっしたわけではなく、王権の形期であり、初期国家形期または萌芽期と位置づけられる、と述べている。そして本格的な初期国家段階は王朝の統治から、としている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 講談社 2003 p.354-358>
 初期国家とは、文化人類学者のエルマン=サーヴィスが提起した概念で、国家が原始的な状態から次第に複雑、巨大化していく過程の最初の段階とされるもので、王と貴族、平民、奴隷などの階層制度、官僚や司祭者の存在、貢納制度、都城や宮殿の存在、などが指標とされている。<参考 宮本同上書 p.369 /竹内康浩『中国王朝の起源を探る』世界史リブレット95 山川出版社 2010 p.42>


*** [#d7c1d032]

中国の伝説上の最初の王朝。姓はじ。『史記』によると王より 17代,約 500年ぐらい続いたという。は鯀 (こん) の子で,帝舜に仕えて水土を司り,黄河の治水に功し,天下の土地を測量して貢物を定め,舜の禅譲を受けて王朝を建てた。から 17代目にあたるは暴君で奢侈淫逸にふけり,商 () の湯に滅ぼされたという。の後裔といわれる杞が代の諸侯国として存したが,そのものの実在は現在までのところ確証はなく,偃師二里頭期と考える者もあるが,依然として不である。


(いん)以前にあった中国最古の王朝。始祖は(う)。紀前15世紀ごろの(けつ)王が暴政を行ったため、の湯(とう)王に滅ぼされたという。


(1)中国の伝説における最古の王朝。(う)が王朝を開き,17代の(けつ)に至って(いん)に滅ぼされたと伝えられる。その実在は確認されていないが,河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により,存在が強く主張される。また,とは中国をさす呼称にも用いられる。

中国古代の王朝名。始祖黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに功し,舜から帝位を譲られ,后と称した。その死後,子孫が位を継ぎ,最初の世襲王朝となった。第17代の履癸(王)は暴君で,諸侯が背き,湯大乙に滅ぼされた。の卜辞(甲骨文)のごとき文字史料が未見で,その実在は未確認であるが,最近,河南省偃師県二里頭遺跡が見され,その文化の性格をめぐり,の存在が強く主張されるにいたった。


伝説的な中国最古の王朝。治水に功績のあったうが、舜しゆんの禅譲をうけ王位についた。世襲により一七代続き、暴君けつの時、いんの湯王に滅ぼされたという。三代と並称。

中国の王朝名。
[一] 中国最古の伝説的な王朝。始祖(う)が舜の禅譲(ぜんじょう)を受けて位につき、前後四七一年間続き、第一七代王の時、の湯王に滅ぼされたとされる。しかし現在までそれを実証する遺物、遺跡は現われていない。


伝説上の中国最古の王朝


中国で(いん)王朝より以前に存在したとされている最古の王朝。の3王朝をあわせて「三代」とよび、旧中国では諸制度の整った理想的な時代とされていた。に先だつ王朝としてが存在した可能性は十分にあるが、現在のところ、その都がどこにあったかは定説がない。近年、河南省の登封(とうほう)市の「王城崗(おうじょうこう)」遺跡が、(う)の都した陽城の跡だとする説が出されているが、異論も多い。『史記』の「本紀」が伝えるところによると、王朝の始祖は黄河の洪水を治めるのに献身的に努力し、その功により、舜(しゅん)の死後、諸侯から推されて天子となった。は自分も禅譲の原則により民間から賢者を選んで天子の位を譲ろうとしたが、諸侯はの子啓(けい)を後嗣(こうし)として推戴(すいたい)し、それ以後子孫が次いで天子となったという。17代目の履癸(りき)すなわち(けつ)に至って、政治が暴虐を極めたため、民心を失い、の湯(とう)王によって攻め滅ぼされた。


 これまで王朝の存在は呂氏春秋史記などの文献に書かれているだけで、その存在は確認されていませんでした。しかし、1950年代終り、考古学者の徐旭生が河南省偃師県で二里頭遺跡を見、王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。
 さらに、1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平・淇県爻遺址を掘、1984年からは京大学歴史系考古教研室が西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱土固堆・山遺址を掘しました。
 その後の調査と考証の結果、豫北地方が河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であり、二里頭文化期には、河型先商文化・岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立していたことが解されました。また、二里崗下層期には河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化に取って代わったことが判りました。これらの状況は、文献上で商()がを滅ぼした記述と符合し、二里頭文化王朝の存在を証することがらかになりました。
 二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似ています。
 宮殿址の土台は人工的に固められた方形で、囲に塀、内・外側に回廊が見つかっています。
 また、宮殿の側に大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものであったと考えられています。
 二里頭文化は四期に分かれるとされており、一期から三期までは拡大期で四期は衰退期と考えられています。この一期から二期までが王朝、三、四期が商に入るとされています。((『華考古』1991-2による)
 第一期には三門峡、関中平原東部、河南省南部に拡大し、二期になると、汾水流域に拡大し、その地域に二里頭文化東下馮類型を形します。
 三期には沁水以西地区、河南省東・東南部に拡大します。二、三期頃になると、河北の輝文化・下七垣文化、山東の岳石文化などとの衝突が始まります。
 この時期の年代特定については、断代工程(『時代区分に関するプロジェクト』)によって、確定されています。
文献上の王朝の歴史
 族は黄河中流域を支配する部族で、五嶽(中国の聖山:東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省))の一つ、嵩山のほとりに住んでいました。
 堯、舜の時代はたびたび黄河の大洪水が起こったため、五帝のひとり、堯に使えていた鯀の息子・が“居外十三年、過家門不敢入(:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という努力の結果、黄河の治水に功し、王に即位、陽城(現在の河南省登封)に建国したとされています。王朝の版図は河南省南・中・北部と山西省南部とされています。
 は補佐役の益に禅譲し、益はの死後3年間喪に服したあと、の子の啓に帝位を譲り、箕山に隠棲しました。
 啓は、釣台(河南省県)で多くの部族の首領らを召集して盛大な祭神の儀式を行い、帝位の継承を表しました。しかし、西方の一部族(陝西省戸県)の有扈氏は、禅譲を主張して反対し、挙兵しました。
 甘水(戸県の西)での開戦直前、啓は上帝の名を借り、「上帝は有扈氏を滅ぼそうとされている。われわれの戦いは上帝の懲罰を行うためである。もし戦闘の最中に、戦車の左側にのる射手が上手に矢を射ず、戦車の右側にのる勇士が上手に敵を殺さず、戦車の御者が上手に馬をやらなかったならば、命令に服従しないものである。命令に服従するものには賞を与える。命令に服従しないものには罪を与えて、あるものは死刑にし、あるものは奴隷にする」という詔をしました。その結果、有扈氏が負け、多くの部族が服従し、啓に朝貢しました。これ以降帝位は世襲制になりました。
 啓の時代、各部族・氏族の首領は貴族(大奴隷主)となり、捕らえた俘虜を奴隷にする奴隷社会が形されました。
 5代目の王・中康の頃に、有窮国に攻め込まれて国都から落ち延び、その孫の少康の代でようやく復興します。
 15代目の王・孔甲は淫乱で、好んで鬼神と力比べをするなどし、王朝は衰退へ向かいます。16代目・、17代目・の時代には、王朝は急速に滅亡へと向かいます。
 B.C.1600頃、の子のが洛陽で18代目の王となりました。の暴虐無道・財物の浪費は、「ひとたび太鼓が鳴ると、3000人のものが一に牛のように首を伸ばして酒池の酒を飲んだ」とあります。また、は人を馬の変わりにして、その背にまたがって歩き、自分を太陽になぞらえました。
 そのころ、商部族首領の湯が挙兵し、を南巣(安徽省巣県)に追放し、王朝は滅亡しました。

王朝の系図

初代・
 |
2代・益
 │
3代・啓
 ├─── ─┐       
5代・中康 4代・太康 
 │
6代・
 │
7代・少康
 │
8代・豫
 │
9代・
 │
10代・
 │
11代・
 ├─── ─┐
13代・扃 12代・不降
 │     │
14代・廑 15代・孔甲
 │   
16代・  
 │
17代・
 │
18代・

―启―太康―仲康―少康―杼―不降―扃―廑―孔甲――癸―
----
-2069 王朝 か (-1600)開祖は(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代(けつ)のとき(いん)に滅ぼされる。河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により、存在が確認される。

#style(class=box_blue_ssm){{

}}
(前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
の時代のことはよく分からない。
の啓という王様(王朝の先祖)については異常出生説話がある。
が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女はの子をはらんでいたので、はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
西域の方をといい、は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)

http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/11/908.html

***

夏后
(読み)かこう
世界大百科事典内の后の言及
】より

…中国古代の王朝名。始祖黄帝の子孫といわれ,帝舜のとき,中国を襲った大洪水を,13年かけて治めることに功し,舜から帝位を譲られ,后と称した。その死後,子孫が位を継ぎ,最初の世襲王朝となった。…