0o0dグッ

大理

大理

中国雲南省に、南詔に次いで立した国家。10~13世紀に栄え、モンゴル軍に滅ぼされる。
 中国南部の雲南省にあった南詔が滅亡(902年)した後、937年に建国した。歴史辞典類には、今も大理はタイ人の白蛮とという部族が建国したと説明されることが多いが、現在ではタイ人の白蛮が建国したことは疑問視されている。山川出版社『世界史B用語集』でも、現行版では、(タイ系白蛮族説は根拠が薄い)とされている。中国の辺境にあたる雲南の歴史研究は今まで進んでいなかったが、民族的な自覚の高まりによってその歴史も次第に明らかになってきた。それによると、現在は凡そ次のように説明されている。

大理国の概要
 雲南の地に大理とよばれる国家が立したのは、中国本土の代であった。902年に南詔が滅亡した後、35年間にわたって政権抗争が続き、ようやく937年に通海節度使段思平によって大理が建国され、混乱が収束した。段思平は、南詔国の名族で大臣だった段忠国の六世の子孫であると自称している。権力を握ると、皇帝と称し、支配下の貴族の37部の徭役を免じ、奴隷を解放するなどの善政を行い、大理を強国にした。937年から、中断をはさんで1253年まで、22代316年続いた。の記録によると大理は最盛期には四川省、インド、ベトナムなどと接するまで広がった。大理国は民族だけではなく、白族を政権の主流とする多民族国家だった。中国の科挙制度や官僚制度を取り入れたが、国内の諸民族には自治を許し、王権は強くなかった。大理の王はしばしば退位して仏門に入るなど、仏教が南詔以来、盛んだった。
 またその特産の大理石は、今にこの国の名を伝えている。それだけでなく経済、工業はかなり活で、大理の冶技術や紡織技術の高い水準は、すぐれた甲冑の作製に現れており、その技術の高さはでもよく知られていた。甲冑と共に大理産の馬は、が北方民族と戦うための必需品として輸出された。
 その北が滅亡すると大理も1044年に一時消滅し、1096年に再興し、1253年まで続いた。再興後は南と密接な関係をもち交易を行った。<以上 伊原弘他『とユーラシア』世界の歴史7 中央公論社 p.230-233>

フビライに滅ぼされる
 大理国はその後、中国とビルマなどのインドシナ半島部との交易で栄え、南詔の仏教文化も継承して栄え、にも朝貢した。しかし、13世紀になると、モンゴル帝国のモンケ=ハンは中国大陸のを倒すために、弟のフビライに大理に遠征を命じ、1253年に大理国はモンゴル遠征軍によって征服され、滅亡した。以降はこの地は中国領となり、現在の雲南省となっている。

補足
 大理石の産地 大理国のあった中国雲南省には現在も大理という都市があり、そこが古くから建築材として用いられていた大理石の産地である。大理は中国とビルマ、インド方面を結ぶ中継点にあり、古くから交易の中心地として栄えていた。

6章2節 用語リスト

[大理(937~1253)]
段思平-段思英-段思良-段思聡-段素順-段素英-段素廉-段素隆-段素真-段素興-段思廉-段連義-段寿輝-段正明-(高昇泰)-段正淳-段正厳-段正興-段智興-段智廉-段智祥-段祥興-段興智
段思平(893~944)
  大理国の建国者。太祖聖神文武皇帝。在位937~944。段保隆の子。白族の出身。小府副将より、通海節度使に上った。天福二年(937)、雲南の大義寧国の楊干貞の政権を打倒して、大理国を建国した。翌年、文徳と改した。過酷な法令を除き、冗官を省き、八府四郡三十七部を設けた。仏教を好み、しばしば寺を建立させ、仏万尊を鋳させた。
段思英(?~?)
  大理国主。文経皇帝。在位944~945。段思平の子。神武末年(944)、即位した。翌年、文経と改した。叔父の段思良と争い、廃位されて、出家して僧となった。法名を宏修大師といった。
段思良(?~951)
  またの名を思冑。大理国主。聖慈文武皇帝。在位945~951。段思平の弟にあたる。文経年(945)、甥の段思英を廃して自ら即位した。翌年、至治と改した。「楼石坪碑」を刻ませたという。文武先皇と諡された。
段思聡(?~969)
  大理国主。至道廣慈皇帝。在位951~969。段思良の子。至治六年(951)、即位した。翌年、明徳と改した。
段素順(?~986)
  大理国主。在位969~986。順徳二年(969)、即位した。明政と改した。三年(971)、三十七部とともに石城に盟誓碑を立てた。
段素英(?~1009)
  大理国主。昭明皇帝。在位986~1009。段素順の子。明政十八年(986)、即位した。広明と改した。
段素廉(?~1022)
  大理国主。宣肅皇帝。在位1009~1022。段素英の子。明治末年(1009)、即位した。翌年、明啟と改した。
段素隆(?~?)
  大理国主。秉義皇帝。在位1022~1026。段素英の孫にあたる。明啟十三年(1022)、即位した。翌年、明通と改した。四年(1026)、段素真に位を譲り、出家して僧となった。
段素真(?~1041)
  大理国主。聖德皇帝。在位1026~1041。段素廉の子。明通四年(1026)、即位した。翌年、正治と改した。
段素興(?~1044)
  大理国主。天明皇帝。在位1041~1044。段素英の孫にあたる。正治十五年(1041)、即位した。天明帝を号した。翌年、聖明と改した。遊興を好み、広壮な宮室を営んだ。多く植物を集めて植えさせ、その前で昼夜の別なく酒宴を楽しんだ。荒淫にして節度がなく、在位四年に満たずして国人により廃された。
段思廉(?~?)
  大理国主。興宗孝德皇帝。在位1044~1075。段思平の五世の孫にあたる。聖明三年(1044)、段素興を廃して自ら即位した。保安と改した。正安年(1053)、儂智高がの郎州で乱を起こして狄青に敗れ、大理に侵入すると、段思廉は儂智高を殺害して開封にその首を送った。岳侯高智昇に楊允賢を討たせ、勝利した。高智昇に太保の位を加え、徳侯に封じ、白崖茹甸の地を賜った。まもなく高智昇を鄯闡侯に進封させ、子孫に世襲させた。保徳末年(1075)、子の段連義に位を譲って僧となった。
段連義(?~1080)
  またの名を廉義。大理国主。上德皇帝。在位1075~1080。段思廉の子。保徳末年(1075)、即位した。翌年、上徳と改した。広安四年(1080)、臣下の楊義貞に殺されて位を奪われた。
段寿輝(?~?)
  大理国主。上明皇帝。在位1080~1082。段思平の五世の孫にあたる。広安四年(1080)、鄯闡侯高智昇の子の高昇泰が楊義貞を誅すと、擁立されて即位した。翌年、上明と改した。高智昇を布燮とし、高昇泰を鄯闡侯とした。上明二年(1082)、段正明に位を譲った。
段正明(?~?)
  大理国主。保定皇帝。在位1082~1094。段思廉の孫にあたる。上明二年(1082)、即位した。保定と改した。天祐末年(1094)、臣下の高昇泰に廃されて、位を奪われた。出家して僧となった。
高昇泰(?~1095)
  大中国主。富有聖徳表正皇帝。在位1094~1095。高智昇の子。広安四年(1080)、楊義貞が大理国の王位を奪うと、高昇泰は東方爨僰の兵を率いて楊義貞を討ち、段寿輝を大理国王に擁立した。鄯闡侯に封ぜられた。天祐末年(1094)、王位を奪い、国号を大中国とした。翌年、上治と改した。段氏に政権を返すよう子の高泰明に遺言して薨じた。
段正淳(?~?)
  大理国主。中宗文安皇帝。在位1095~1108。段正明の子。上治年(1095)、大中国主高昇泰が亡くなると、高泰明により擁立され、即位した。かれ以後の大理国は後理国とも称される。翌年、天授と改した。高泰明を国として、国政を執らせ、高泰運を棚主とした。雄城を築き、高明亮を封じた。高泰運を北に派遣して経籍六十九家・薬書六十二部を持ち帰らせた。文安四年(1108)、段正厳に位を譲って僧となった。
段正厳(?~?)
  またの名を和誉。大理国主。憲宗宣仁皇帝。在位1108~1147。段正淳の子。文安四年(1108)、即位した。翌年、日と改した。三十七部が叛いたので国の高泰明に平定させた。文治七年(1116)、高泰明が亡くなると、子の高泰運に国政を執らせた。翌年、李紫琮・李伯祥らを開封に派遣して、北に馬・麝香・牛黄などを献じ、雲南節度使・上柱国・大理国王に封ぜられた。三十七部が再び叛き、鄯闡を奪われ、高明が戦死した。高昇泰の甥の高量に立てて、中国公と号させた。紹興十七年(1147)、子の段正興に位を譲って僧となった。
段正興(?~?)
  大理国主。景宗正康皇帝。在位1147~1171。段正厳の子。広運末年(1147)、即位した。翌年、永貞と改した。高量が引退して甥の高寿貞がとなった。高寿貞が亡くなると、高寿昌がとなり、中国公と号した。在位二十五年、子の段智興に位を譲って僧となった。
段智興(?~1200)
  大理国主。宣宗功極皇帝。在位1171~1200。段正興の子。建徳末年(1171)、即位した。翌年、利貞と改した。李観音が高寿昌の位を奪い、高貞明を立てた。阿機が起兵して高貞明の位を奪い、再び高寿昌を立てた。高貞明は鶴慶に拠って明国公を自称した。また高妙音が白崖で起兵して、鄯闡に拠った。
段智廉(?~1204)
  大理国主。享天皇帝。在位1200~1204。段智興の子。安定末年(1200)、即位した。翌年、鳳暦と改した。使者を立ててに『大蔵経』千四百六十五部を求めさせ、五華楼に置いた。
段智祥(?~?)
  大理国主。神宗皇帝。在位1204~1238。段智廉の子。寿末年(1204)、即位した。翌年、天開と改した。高隆を鄯闡王に封じ、高泰祥を国とし、光日を演習とした。在位三十三年、子の段祥興に位を譲って僧となった。
段祥興(?~1251)
  大理国主。孝義皇帝。在位1238~1251。段智祥の子。仁寿末年(1238)、即位した。翌年、道隆と改した。六年(1244)、モンゴル軍が霊関を出て大理国に侵入したため、高禾に迎撃させた。高禾は奮戦して戦死し、蒙古軍は侵攻の意図をくじかれた。段連祐が南に帰順した。
段興智(?~1260?)
  大理国主。在位1251~1253。段祥興の子。道隆十三年(1251)、即位し、天定と改した。天定年(1252)、モンゴルよりたびたび招諭の使者が来たが、全て殺した。国高泰祥に沙江を守らせた。高泰祥はフビライの軍に敗れて五華楼の下で斬られた。段興智は鄯闡に逃れた。翌年、モンゴルの大将ウリャンハダイの軍に攻められ、さらに昆沢に逃れたが、捕らえられ降った。翌年、蒙古に地図を献上し、雲南諸郡の平定を願い、民を治め賦税を取る法を上奏した。憲宗(モンケ)は、かれを賞賛して摩訶羅嵯(マハラジャ)の号を与えた。ウリャンハダイの軍の先鋒かつ案内役として、雲南諸郡の平定や交趾への侵攻に従った。没後、大理向義王の号を贈られた。

[大理総管]
段実(?~1282)
  またの名は信苴日。段祥興の子。段興智の弟にあたる。モンゴルの中統二年(1261)、世祖フビライに謁見し、兄の職を継いで総管となり、虎符を賜り、大理・威・鄯闡・統矢・会川・建昌・騰などを領した。至年(1264)、妖僧舍利威が威・統矢・鄯闡および三十七部と結んで叛したので、段実はこれを討ち破った。四年(1267)、フビライの五男フゲチが雲南王となり、大理に鎮した。翌年、占城・真臘への遠征に従軍した。七年(1270)、大理路軍民総管府が置かれた。翌年、フゲチが帥宝和丁に殺された。大理三十七部が南北中三路に分けられ、阿忒兒が宣撫のため大理に赴任してきた。十一年(1274)、の宗室の脱忽が雲南王となり、雲南行省平章政事の賽典赤に命じて雲南各衙門を建てさせた。妖僧舍利威がまた叛いたので、段実は石買を遣わして捕らえさせ梟首した。十七年(1280)、エセンテムルが雲南王となった。翌年、子の段阿慶とともに入朝した。十九年(1282)、歯で病没した。武定公と諡された。
段忠(?~1283)
  段祥興の子。段実の弟にあたる。至二十年(1283)、兄の職を継いで大理路総管となった。帥濶木に従って部・両林蛮・会川などの叛乱勢力を討った。功により善闡酋とされ、虎符を賜った。雲南王エセンテムルに従って、武定を討った。十二月、亡くなった。
段慶(?~1306)
  またの名は阿慶。段実の子。至十八年(1281)、父に従ってに入朝した。二十一年(1284)、大理路総管となった。二十七年(1290)、皇孫カマラが王となり雲南に鎮した。三十年(1293)、カマラの子の松山が雲南に鎮した。大徳三年(1299)、雲南水西土官の隆済が叛き、貴州知州張懐徳が戦死した。雲南行省麻九兒が隆済を討ち破った。八年(1304)、平雲南碑を點蒼山に立てた。十年(1306)、羅雄土官阿那龍少が叛き、州に拠った。右丞汪惟能に命じて討たせ、阿那龍少を斬った。この年、亡くなった。
段正(?~1316)
  段実の子。段慶の弟にあたる。大徳十一年(1307)、大理路総管となった。蒙化山中の爨族たちを招撫して戸籍に入れさせた。寧に盤龍寺を建てさせた。
段隆(?~?)
  段慶の子。延祐四年(1317)、大理軍民総管となった。延祐七年(1320)、カマラの孫の王禅が雲南王となった。至治三年(1323)、王禅の子のテムルブカが雲南王となった。至順年(1330)、豫王阿忒思納失里が雲南に鎮した。禿堅が雲南に拠って叛き、廉訪使を殺して雲南王を自称した。枢密テムルが命を受けて禿堅を討ち、捕らえた。至順二年(1331)、引退して子の段俊に位を譲った。
段俊(?~1331)
  段隆の子。至順二年(1331)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。
段義(?~1332)
  段俊の族弟にあたる。至順三年(1332)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。
段光(?~1344)
  段隆の子。年(1333)、段義の跡を継いだが、朝には承務郞・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。番兵が乱を起こしたので、孟州判官李生らが白崖を守り、高蓬が番兵を破って、勝ちに乗じて長駆して河尾関を破った。段光は兵を率いて番兵を大いに破り、多数を斬首した。翌年、張希矯・楊生・張連らを遣わして王把匝剌瓦爾密を攻めさせたが、大敗した。至年(1335)、王が大理を侵したので、段光は自ら軍を率いて昆弥山に戦い、王を破って凱旋した。侍翰楊天甫が「長寿仙曲」を作って祝った。至正年(1341)、段氏の臣下の高蓬が王の招きを断って、料理人に刺殺された。四年(1344)、段光は病没した。
段功(?~1366)
  段隆の子。段光の弟にあたる。至正五年(1345)、段光の跡を継いだが、朝には承務郞・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。翌年、木邦夷思可が叛いた。賈敦熙が雲南路の兵を率いてこれを討ち、段功が先鋒をつとめて戦勝を挙げた。功績により大理総管に任ぜられ、まもなく参政に上った。十三年(1353)、紅巾軍が建昌に流入し雲南の辺境を侵すと、阿次失里がこれを討った。十五年(1355)、の太師トクトが雲南に流されて殺された。二十三年(1363)、紅巾軍の明玉珍が李芝麻・李明二らに兵三万を率いさせて雲南を攻めさせた。王は雄に逃れ、車力帖木兒が李明二を捕らえ、段氏の将の鉄万戸が戦死した。段功は長らく中慶の王府にあったが、妻の高夫人の勧めを容れて大理に帰った。段功は王に疑われるようになった。二十六年(1366)、段功は東寺で王に仏典を講じることとなり、通済橋にかかったところ、段功の馬が逸ったため、王は機会に乗じて番将に段功を殺させた。
段宝(?~1381)
  段功の子。至正二十六年(1366)、父が王に殺されると、平章政事を自称し、大理において立った。王が段氏を族誅しようと図ったので、王と段氏は仇敵となり、鶏廟を境に南は王、北は段氏が領した。洪武年(1368)、段宝は王と和解した。舍興の乱が起こると、王を救援して舍興を破った。四年(1371)、明に降った。十四年(1381)、没した。
段明(?~1381)
  段宝の子。洪武十四年(1381)四月、段宝の跡を継いだ。九月、明の洪武帝(朱璋)の命により溥友徳・正・王弼・朝興・郭英・張銓らが三十万の軍を率いて雲南を攻めた。諸部の首長は風を望んで明に降った。王は敗れて寧に逃れ、投水死した。沐英らが入城し、王の印と図書・戸籍を接収し、民衆を安撫した。十二月、段明は亡くなった。
段世(?~?)
  段功の子。段宝の弟にあたる。洪武十五年(1382)、段明の跡を継いだ。二月、明軍が大理に迫ったので、段世は明の正朔を奉じて外臣とならんと伝えたが、溥友徳らに無視され降伏を迫られた。このため明軍を挑する書簡を送ったが、戦い敗れ、大理城を落とされ、子の段苴仁・段苴義とともに捕らえられた。四月、雲南の諸部は明によって平定された。翌年、段世と二子は南京に送られた。段氏による大理総管は断絶し、一族の段保が明朝により雲龍州土知州に封ぜられたのみであった。

人物事典トップへもどる