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[(前11c.~前284)]

西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
微子啓-微仲(衍)-公(稽)-丁公(申)-湣公(共)-煬公(煕)-厲公(鮒祀)-釐公(挙)-恵公-哀公-戴公-武公(司空)-宣公(力)-穆公(和)-殤公(与夷)-荘公(馮)-湣公(捷)-君(游)-桓公(禦説)-襄公(茲甫)-公(王臣)-君(禦)-昭公(杵臼)-文公(鮑)-共公(瑕)-平公()-公(佐)-景公(頭曼)-昭公(特)-悼公(購由)-休公(田)-辟公(辟兵)-剔-偃
微子啓(?~?)
  微子啓⇒。
微仲(?~?)
  名は衍。の帝乙の庶子。微子啓の弟にあたる。微子啓の跡を継いで公となった。
公稽(?~?)
  名は稽。の微仲(衍)の子。微仲が亡くなると、跡を継いだ。
の丁公(?~?)
  名は申。公稽の子。公稽が亡くなると、跡を継いだ。
の湣公(?~?)
  名は共。の丁公(申)の子。丁公が亡くなると、跡を継いだ。
の煬公(?~?)
  名は煕。の丁公(申)の子。の湣公(共)の弟にあたる。湣公が亡くなると、跡を継いだ。
の厲公(?~前859)
  名は鮒祀。在位前?~前859。の湣公(共)の子。煬公(煕)を殺して、自ら即位した。
の釐公(?~前831)
  名は挙。在位前859~前831。の厲公(鮒祀)の子。厲公が亡くなると、跡を継いだ。
の恵公(?~前801)
  名はカン。在位前831~前801。の釐公(挙)の子。釐公が亡くなると、跡を継いだ。
の哀公(?~前800)
  在位前801~前800。の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。
の戴公(?~前766)
  在位前800~前766。の哀公の子。哀公が亡くなると、跡を継いだ。
の武公(?~前748)
  名は司空。在位前766~前748。の戴公の子。戴公が亡くなると、跡を継いだ。
の宣公(?~前729)
  名は力。在位前748~前729。の武公(司空)の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。十九年(前729)、病床に臥し、弟の和(穆公)に位を継ぐよう懇請して亡くなった。
の穆公(?~前720)
  名は和。在位前729~前720。の武公(司空)の子。の宣公(力)。宣公が亡くなると、跡を継いだ。九年(前720)、病床に臥し、孔父嘉を召して甥の与夷(殤公)を位につけるよう遺言して亡くなった。
の殤公(?~前710)
  名は与夷。在位前720~前710。の宣公(力)の子。宣公のとき、太子となった。宣公十九年(前729)、宣公が弟の和(穆公)を即位させるよう遺言したため、与夷は即位できなかった。穆公九年(前720)、穆公は与夷が即位するよう遺言し、穆公が亡くなると、跡を継いだ。年(前719)、穆公の子の馮がにいることをおそれて、を討ち、の東門までいたった。翌年、の報復を受けて、攻め込まれた。連年、攻戦に明け暮れ、と結んでに対抗した。十年(前710)、太宰の華父督が大司馬の孔父嘉を殺して、その妻を奪った。殤公が華父督を譴責したので、華父督は「十年で十一戦して、民は命に堪えられない」という名分を口実に殤公を弑した。
の荘公(?~前692)
  名は馮。在位前710~前692。の穆公(和)の子。穆公が与夷(殤公)に位を継がせることを決めると、馮はに出された。殤公(与夷)が華父督に殺されると、迎えられて跡を継いだ。年(前709)、華父督を宰とした。九年(前701)、の祭仲を捕らえて、突(厲公)を君として立てることを承諾させた。
の湣公(?~前682)
  名は捷。在位前692~前682。の荘公(馮)の子。荘公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前689)、とともにを討ち、の恵公を復位させた。八年(前684)、とともにを攻めたが乗丘で敗れ、将の南宮万が捕らえられた。送還を求めたところ、南宮万の身柄は返還された。翌年、に洪水が起こり、この災いを湣公は自分の罪といって責めた。十年(前682)、南宮万とともに狩猟に出かけ、博の勝負をして争いとなり、湣公は「の捕虜」と言って南宮万を辱めた。湣公は蒙沢で南宮万に殴り殺された。
君游(?~前682)
  在位前682。の湣公十年(前682)秋、湣公が南宮万に殺されると、游は南宮万によって擁立された。同年冬、蕭国との公子たちの攻撃を受けて殺された。
の桓公(?~前651)
  名は禦説。在位前682~前651。の荘公(馮)の子。湣公(捷)の弟にあたる。の湣公十年(前682)秋、湣公が南宮万に殺されると、亳に逃れた。南宮万の弟の南宮牛の軍に亳を包囲された。同年冬、蕭国との公子たちが南宮牛を攻めて殺し、君游を拭すと、禦説はの君主として擁立された。に逃れた南宮牛を捕らえさせて殺させた。二年(前680)、諸侯の攻撃を受け、の都の郊外まで攻め込まれた。二十三年(前660)、の公子燬(文公)をから迎えて、の君主の位につかせた。三十年(前652)、病の床についた。太子の茲甫が庶兄の目夷に跡目を譲ろうとしたが、桓公は許さなかった。翌年春、亡くなった。
の襄公(?~前637)
  名は茲甫。在位前651~前637。の桓公(禦説)の子。桓公の死後、跡を継いだ。庶兄の目夷を宰とした。父の葬儀の終わらぬうちに、の桓公(小白)の主催した葵丘の会に参加した。八年(前643)、の桓公が卒すると、五人の公子が後継を争ったが、太子昭がに亡命してきた。襄公は兵をして、の国人や他公子たちと戦い、昭をの国君に立てた。襄公は、覇者たらんことを望み、十二年(前639)秋に盂において会盟を主催しようとしたが、の軍に捕らえられた。その年冬に釈放された。翌年、襄公はに出兵すると、を救援すると称して、軍が敵対した。軍と軍は泓水を挟んで対峙。軍が泓水を渡りはじめたとき、渡りきらないうちに攻撃するよう進言する目夷の意見を、襄公は取りあげなかった。軍が渡河を終えて陣列を整えたところを攻撃し、大敗して敗走した。いわゆる「襄の仁」である。十四年(前637)、泓水での戦傷がもとで死んだ。
(?~前620)
  名は王臣。在位前637~前620。の襄公(茲甫)の子。襄公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前634)、との盟約にそむき、と結んだ。翌年、王の軍に攻められ、に救援を求めた。五年(前632)、の連合軍がの軍を城濮で破り、軍は引きあげた。以後、の征戦に従って、数度の出兵を行った。十七年(前620)、亡くなった。
君禦(?~前620)
  在位前620。の襄公(茲甫)の子。公(王臣)の弟にあたる。公が亡くなると、太子と公孫固を殺して、の君主として即位した。の国人に攻められて殺された。
の昭公(?~前611)
  名は杵臼。在位前620~前611。公(王臣)の子。公が亡くなると、叔父の君禦が立ったが、国人に殺され、杵臼が擁立された。即位後、敵対する公子たちを除こうとした。危険を感じた穆公・襄公の子孫たちは、先手を打って公を攻撃し、公孫固・公孫を殺した。やむなく昭公は公子たちと和解し、公族排除をとりやめた。三年(前617)、が会して、への侵攻を決めた。昭公はおそれて孟諸沢におもむき、狩猟の場での子舟に辱められた。翌年、長丘で長狄縁斯を討ち、これを殺した。九年(前611)、襄公(茲甫)の夫人王姫が伯に命じて昭公を襲撃させ、昭公は殺された。
の文公(?~前589)
  名は鮑。在位前611~前589。公(王臣)の子。昭公(杵臼)の弟にあたる。昭公が王姫のために殺されると、鮑が君として擁立された。文公年(前610)、を攻め、昭公を弑したことを責めたが、に贈与をわたして引きあげさせた。翌年、の武氏が昭公の遺児を引き入れ、文公の同母弟の司城須を奉じて乱を起こした。文公は弟の須と昭公の子を殺し、武氏と穆氏を追放した。公孫師を司城とし、楽呂を司寇に任じた。四年(前607)、に命じてを討たせた。は華を将として迎撃させたが、華は捕らえられた。馬四百匹の賠償で華の身柄を返還してもらおうとしたが、支払う前に華は逃げてに戻った。十六年(前595)、の領内を通過しようとしたの使者を捕らえて殺した。の荘王の軍により、の都は包囲された。翌年、包囲は続き、人肉食む惨状となった。華の子反に内情を語り、の荘王はそれを聞いて軍を引きあげた。二十二年(前589)、文公は亡くなった。その葬儀は華美であり、このため華と楽挙は非難された。
の共公(?~前576)
  名は瑕。在位前589~前576。の文公(鮑)の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。九年(前580)、華の子重と親しく、またの欒書とも親しかったので、の両大国と友好の誓約を交わした。
の平公(?~前532)
  名は。在位前576~前532。の共公(瑕)の末子。共公が亡くなると、司馬の蕩沢が太子の肥を殺し、右師の華を殺そうとした。華に逃れようとしたが、魚石に止められ、引き返して蕩沢を殺した。華によりの君主に擁立された。魚石・向為人・鱗朱らはに亡命した。三年(前573)、の共王に攻められて彭城を奪われ、は彭城に魚石らを封じた。翌年、諸侯が共同して彭城を攻め、魚石を殺し、彭城をに返した。八年(前568)、らの諸侯と戚で会し、盟を結んだ。十三年(前563)、らの諸侯とで会し、盟を結んだ。三十年(前546)、向戌が諸侯間の和平を訴えて、らの諸侯がの西門外で盟を結んだ。四十四年(前532)、亡くなった。
(?~前517)
  名は佐。在位前532~前517。の平公()の子。平公が亡くなると、跡を継いだ。十年(前522)、公が大夫の華氏と尚氏を憎んでいたので、華亥・華定・向寧らは公子たちを欺いて殺し、人質を取って公を脅迫した。公も華氏と尚氏から人質を取って対抗し、華費遂に華亥を攻めさせた。華亥・向寧はに逃れた。翌年、華氏と尚氏はにもどり南里に拠った。が華氏側の増援として入った。公子城がの援軍を連れて帰国した。の軍が華氏を赭丘で破った。十二年(前520)、華亥・華定・向寧らはに出国し、の危機は去った。公孫忌を大司馬に任じた。十五年(前517)、の昭公の帰国を援助して、同行したが、その途中で亡くなった。
の景公(?~前453)
  名は頭曼。在位前517~前453。公(佐)の子。公が亡くなると、跡を継いだ。十六年(前501)、の陽虎がに亡命してきたが、のちにまた去った。二十二年(前495)、孔子がに来たが、司馬の桓魋が孔子を憎んで殺そうとしたので、孔子はを去った。三十年(前487)、にそむき、またにもそむいたので、は軍を出してを滅ぼした。三十七年(前478)、熒惑が心星に重なったため、景公は災難が起こることをおそれた。司星の子韋が、災難を宰・民・年に移せることを景公に説いた。景公は、宰は自分の手足である、民あっての君主である、年が不作では民が苦しむとして拒んだ。熒惑は移動し、災難は起こらなかったという。六十四年(前453)、亡くなった。
の昭公(?~前406)
  名は特。在位前453~前406。の公孫糾の子。公(佐)の曾孫にあたる。景公(頭曼)が亡くなると、太子を殺して、自ら即位した。四十七年(前406)、亡くなった。
の悼公(?~前398)
  名は購由。在位前406~前398。の昭公(特)の子。昭公が亡くなると、跡を継いだ。八年(前398)、亡くなった。
の休公(?~前375)
  名は田。在位前398~前375。の悼公(購由)の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。二十三年(前375)、亡くなった。
の辟公(?~前372)
  名は辟兵。在位前375~前372。の休公(田)の子。休公が亡くなると、跡を継いだ。三年(前372)、亡くなった。
君剔(?~?)
  在位前372~前331。の辟公(辟兵)の子。辟公が亡くなると、跡を継いだ。四十一年(前331)、弟の偃に襲われて敗れ、に亡命した。
君偃(?~前284)
  在位前331~前284。の辟公(辟兵)の子。剔の弟にあたる。剔を襲撃して破り、自ら即位した。十一年(前320)、王号を称した。東にに勝って五邑を奪い、南にに勝って三百里を切り取り、西にを討ち破り、滕国を滅ぼした。革の袋に血を詰めてぶら下げ、矢を射て「天を射る」と称した。酒色に溺れ、諫める臣下には矢を射かけた。このため諸侯からと呼ばれた。四十七年(前284)、の攻撃を受けて、偃は逃亡し、は滅んだ。偃はで没した。

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[南北朝(386~589)]

⇒北朝(北,東,西,北,北),南朝(,,,),柔然,高昌

[(420~478)]

武帝(劉裕)-少帝(劉義符)-文帝(劉義隆)-(劉劭)-孝武帝(劉駿)-前廃帝(劉子業)-明帝(劉彧)-後廃帝(劉昱)-順帝(劉准)
劉裕(363~422)
  の武帝,高祖⇒。
孔琳之(369~423)
  字は彦琳。会稽郡山陰の人。孔廞の子。若いころから、文章を好み、音律に通じ、草隷の書をよくした。桓玄が太尉となったとき、西閤祭酒として召された。尚書左丞・揚州従事・尚書吏部郎などをつとめた。劉裕が王となると、国侍中に任ぜられた。永初二年(421)、御史中丞となり、法を破ったかどで尚書令の徐羨之を弾劾した。顕位に対しても節を曲げなかったので、あえて禁を犯すものはいなくなったという。官は祠部尚書に終わったが、家産を増やすことをせず、生活は貧を保った。
徐羨之(364~426)
  字は宗文。東海郡郯県の人。若いとき、東の太子少傅主簿となった。安帝のとき、劉裕とともに桓脩のもとで撫軍中兵参軍をつとめた。興三年(404)、劉裕の起兵に従って、桓玄を討ち、鎮軍参軍に任ぜられた。義煕十二年(416)、劉裕が関中を攻めると、劉穆之の下で留守を預かった。劉穆之が没すると、吏部尚書・丹陽尹となった。末には尚書僕射に上った。に入って南昌県侯に封ぜられ、司空・録尚書事・散騎常侍・揚州刺史に上った。武帝の遺命を受け、傅亮らとともに少帝を補弼した。景平二年(424)、傅亮・謝晦らとともに少帝を廃殺し、文帝を迎え、司徒に上った。のちに文帝に弑逆の罪を問われて自殺した。
傅亮(374~426)
  字は季友。北地郡霊州の人。傅咸の玄孫にあたる。経史に精通し、文辞をよくした。はじめ東の建威参軍となった。義煕十二年(416)、劉裕が関中を攻めるのに従軍した。に入って、建城県公に封ぜられた。中書監・尚書令に進んだ。永初三年(422)、武帝の遺命を受け、徐羨之らとともに少帝を補弼した。景平二年(424)、徐羨之・謝晦らとともに少帝を廃殺し、劉義隆を文帝として擁立し、散騎常侍・左光禄大夫・開府儀同三司を加えられた。のちに文帝に弑逆の罪を問われて殺された。
謝晦(390~426)
  字は宣明。郡陽の人。はじめ東の建武府中兵参軍をつとめた。ついで太尉の劉裕のもとで参軍となった。刑罰の裁定をよくしたので、刑獄賊に任ぜられた。のち豫州治中従事に転じた。義煕九年(413)、土断を行い、揚州・豫州の民戸を判別した。太尉主簿となった。劉裕の北伐に従軍し、軍内外の要務を果たした。に入って、右将軍・侍中に上った。次いで領軍将軍・総統宿などをつとめた。少帝が即位すると、領中書令を加えられ、徐羨之らとともに輔政にあたった。景平二年(424)、傅亮とともに少帝を廃殺し、荊州刺史として出た。嘉三年(426)、文帝により少帝弑逆の罪を追求され、徐羨之らが殺された。討伐軍を派遣してきたため、抗戦を決意して巴陵に進軍したが、檀道済らの軍に敗れて、建康に連行されて処刑された。
陶潜(365~427)
  字は淵明、または亮。号は五柳先生。諡は靖節。潯陽郡柴桑の人。陶侃の曾孫にあたる。若い頃は経世済民の志をもったが、門閥の壁が厚く、また戦乱や天災にあって鬱々と日を送った。二十九歳のとき、はじめて仕官して江州祭酒に任ぜられた。孫恩が乱を起こすとその鎮圧に活躍した。官界の醜悪な人間関係に飽きて、四十一歳のとき、彭沢県令を最後に退官して田園に隠棲した。晩年に檀道済から仕官を勧められたが拒絶した。続之・劉遺民とともに潯陽三隠と称された。また隠逸詩人、田園詩人とよばれる。「帰去来辞」「桃花源記」など詩文を多く残した。
王華(385~427)
  字は子陵。琅邪郡臨沂の人。はじめに住んだ。東末に劉裕に仕えて北主簿となった。初、宜都王劉義隆に従って江陵に鎮した。西府司馬・南郡太守に累進した。景平二年(424)、徐羨之、傅亮らが少帝を廃殺し、劉義隆を迎えようとした。劉義隆は少帝が殺されたので、疑ってあえて行こうとしなかった。王華は劉義隆に固く勧めて入京させた。劉義隆が帝位につくと、侍中・右将軍となった。嘉三年(426)、徐羨之、傅亮を殺し、護軍将軍に進んだ。
王曇首(394~430)
  琅邪郡臨沂の人。王珣の子。王弘の末弟。兄弟と財産を分けたとき、ただ図書のみを取ったという。はじめの琅邪王大司馬属をつとめた。のちの宜都王劉義隆に従って、冠軍府功・鎮西府長史を歴任した。ときに少帝は遊興に節度なく、徐羨之・傅亮らが廃立を謀り、劉義隆に江陵より東下を勧め、帝として擁立した。嘉初年、侍中となり、徐羨之・傅亮を誅殺し、謝晦を討ち平らげるはかりごとに参与した。太子詹事に進んだ。
僧求那跋摩(367~431)
  功徳鎧。インドのカシミールの人。カシミールの王であったが、出家して仏教を学んだ。ジャワに渡り、嘉八年(431)に建康に渡来。祇園寺で法華経・十地経を講じ、大乗戒法を伝えた。『優婆塞五戒略論』、『優婆塞二十四戒』。
王弘(379~432)
  字は休。琅邪郡臨沂の人。王珣の子。東の丞王導の曾孫にあたる。はじめ東の会稽王司馬道子のもとで驃騎参軍主簿をつとめた。ときに喪に服していて桓玄の乱の難を免れた。劉裕に召されて鎮軍府諮議参軍となった。太尉左長史となり、北伐に従った。が建国されると、尚書僕射掌選となり、彭城太守を領した。謝霊運が桂興を殺した事件を弾劾して、免官させた。のち江州刺史に遷った。景平二年(424)、徐羨之らが少帝の廃立を謀ると、召されて入朝した。文帝が即位すると、司徒・揚州刺史・録尚書事に累進した。嘉五年(428)、旱害に遭い、引責して将軍に降格した。旧制で十三歳で半役、十六歳で全役であったのを、十五から十六歳で半丁、十七歳で全丁と改めるよう上奏し、文帝はこれに従った。九年(432)、太保に進み、中書監を領した。『書儀』。
謝霊運(385~433)
  字は宣明。郡陽の人。謝玄の孫にあたる。はじめ、東の琅邪王参軍となった。義煕年間に劉裕のもとで国従事中郎・太子左率をつとめた。のち事件に連座して免官された。が建国されると登用されたが、国の枢機に参与できないことにいつも憤慨していた。少帝のとき、朝政を誹謗したかどで永嘉郡太守に左遷された。病と称して官職を捨て、会稽に移って山水を楽しんだ。このころ「山居賦」を作った。嘉年間に召されて、秘書監となり、宮中の蔵書を整理して、目録を作った。侍中に上ったが、日夜遊宴にふけったため免官された。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。臨川郡内史となったが、讒言にあって広州に流され、殺された。嘉の三大家のひとり。『游名山志』。
謝恵連(394~433)
  郡陽の人。謝霊運の従弟にあたる。嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。
檀道済(?~436)
  高平郡郷の人。檀凭之の甥にあたる。東末、劉裕の起兵に従って、桓玄を討つのに功績があり、太尉主簿・諮議参軍に累進した。義煕十二年(416)、劉裕の北伐の先鋒をつとめ、許昌・洛陽・潼関を抜き、長安を平定し、後秦を滅ぼした。征虜将軍・琅邪内史に進んだ。が建国されると永脩県公に封ぜられ、南兗州刺史に任ぜられた。景平二年(424)、少帝を廃して文帝を擁立する挙に参与し、征北将軍に任ぜられた。嘉三年(426)、荊州刺史・謝晦の乱を平定する功績を挙げ、征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史となった。八年(431)、軍を率いて北伐し、連戦して北の軍を多く破り、歴城にいたったが、兵糧が尽きて退却した。司空に上り、潯陽に鎮した。文帝が病に伏せたとき、その威名を恐れられ、召還されて殺された。捕らえられたとき、頭巾を地に投げ捨てて「汝の万里の長城を壊すのか!」と叫んだという。
劉湛(392~440)
  字は弘仁。南陽郡涅陽の人。史伝に通じた。末、劉裕の下で太尉行参軍をつとめた。が建国されると、彭城王劉義康のもとで長史となり、郡・歴陽太守をつとめた。法令を用いるに厳格で、百銭以上を着服した官吏はみな処刑した。嘉八年(431)、文帝に召されて太子詹事となり、ついで領軍将軍となった。のち景仁と対立した。旧主の劉義康と結んで、景仁を追い落としたため、文帝に憎まれ、のちに処刑された。
景仁(390~440)
  またの名を鉄。郡長平の人。若いころから大が期待され、司徒の王謐が娘をめあわせた。東の末、劉毅のもとで後軍参軍をつとめ、劉裕のもとで太尉行参軍をつとめた。に入って、秘書郞・中書侍郎を歴任し、太子中庶子となった。文帝のとき、王華・王曇首・劉湛とともに侍中となり、世人にもてはやされた。尚書僕射・中書令・護軍将軍を歴任した。劉湛が彭城王劉義康と結んでかれを失脚させたため、病と称して五年のあいだ世に出なかった。帝とひそかに書簡をやりとりし、朝政のさまざまなことを了解していた。帝が劉湛を処刑すると、劉義康に代わって揚州刺史となった。まもなく病没した。
羊欣(370~442)
  字は敬。泰山南城の人。羊不疑の子。王献之に師事し、とくに隷書をよくした。桓玄の輔政のとき、平西主簿をつとめた。義煕年間、劉裕の知遇をえて、右軍・劉藩の司馬をつとめた。のちに安太守。臨川王のもとで輔国長史、廬陵王のもとで車騎諮議参軍を歴任し、再び安太守となり、義興太守・中散大夫などをつとめた。書のほか、黄老を好み、服薬し符水を飲んだ。医術にも通じ『薬方』を撰したという。
劉義慶(403~444)
  長沙王劉道怜の次男。武帝(劉裕)の甥にあたる。永初年(420)、臨川王に封ぜられ、侍中に上った。丹楊尹・尚書左僕射などを歴任した。嘉九年(432)、荊州刺史に任ぜられた。十六年(439)、江州刺史に転じた。翌年、南兗州刺史となった。『世説語』、『集林』。
范曄(398~446)
  字は蔚宗。南陽郡順陽の人。范泰の四男。若いころから学問を好み、経史に通じ、文章をよくし、隷書に秀で、琵琶の演奏を得意とした。洒脱を好み、奇行が多かったという。東末に劉裕の国掾をつとめた。が建国されると、尚書吏部郎に上った。彭城王劉義康に逆らって、宣城太守に左遷された。このころ『後漢書』を撰した。左将軍・太子詹事に累進した。のちに孔煕先らとともに劉義康を帝に擁立しようとして、捕らえられて処刑された。
劉義康(409-451)
  の武帝(劉裕)の四男。永初年(420)、彭城王に封ぜられた。南豫州刺史・南徐州刺史を歴任した。嘉三年(426)、荊州刺史をつとめた。六年(429)、司徒・録尚書事・南徐州刺史として召され、王弘とともに朝政を輔けた。王弘が亡くなると、代わって揚州刺史を兼ね、朝政を総覧した。ときに文帝が病床にあることが多く、太子詹事の劉湛らと朋党を結び、帝を害そうとした。十七年(440)、文帝が劉湛を処刑すると、江州刺史として出され、豫章に鎮した。二十二年(445)、范曄らがかれをまつりあげて謀反し、捕らえられて庶人に落とされた。安郡に流され、のち殺された。
裴松之(372~451)
  字は世期。河東郡聞喜の人。東に仕えて、殿中将軍に任ぜられた。尚書祠部郎に上った。劉裕が司州刺史のとき、州主簿をつとめた。に入って、国子博士となった。のち中書侍郎に転じた。嘉六年(429)、勅命を受けて、寿の『三国志』に注を付した。のち、永嘉太守・太中大夫を歴任した。ほか『紀』を著したが散佚した。
劉劭(426~453)
  の文帝(劉義隆)の長男。嘉六年(429)、皇太子となる。二十七年(450)、北の太武帝が大軍を率いて瓜歩にいたると、石頭に出陣して水軍を統率し、よく防御にあたった。のち巫女の厳道育を宮中に入れ、天師と称して彼女を敬った。謀議して巫蠱をおこない、文帝の像を玉に刻んで殿前に埋めた。事が洩れたが、文帝はかれを罰するに忍びなかった。三十年(453)、廃されるのをおそれて父帝を殺し、自ら帝を称し、太初と改した。まもなく武陵王劉駿(のちの孝武帝)に捕らえられ、殺された。
卜天与(?~453)
  興郡余杭の人。弓射をよくし、の文帝はかれを皇子たちの教師とした。のちに広威将軍に進んだ。嘉三十年(453)、太子劉劭が父文帝を殺して自立したとき、殿中で劉劭を射抜き、劉劭の部衆に殺された。
蕭思話(406~455)
  南蘭陵郡の人。嘉三年(426)、青州刺史に任ぜられた。八年(431)、檀道済の北伐ののち、北軍の来寇を恐れて、任地を捨てて平昌に逃げた。十年(433)、州・南州刺史となったが、氐王・楊難が侵入して、中を失陥した。のち雍州刺史・吏部尚書を歴任した。三十年(453)、太子劉劭が文帝を殺して自立すると、劉駿(孝武帝)に応じて挙兵し、中書令・丹楊尹・江州刺史・郢州刺史となった。
顔延之(384~456)
  字は延年。琅邪郡臨沂の人。若いころから無頼奔放で酒豪であった。劉裕の北伐を慶賀する詩を書いたために、見出されて舎人として仕えた。に入って、尚書儀郎・太子中舎人となった。少帝のとき、始安太守となった。文帝の嘉年間、太子中庶子・領歩兵校尉に任ぜられた。のち、紫光禄大夫に上った。傲慢な言動と酒乱のため、しばしば事件を起こした。劉湛に恨まれるところとなって、免官された。謝霊運と並び称される詩人。嘉の三大家のひとりとされる。『顔光禄集』。
戴法興(414~465)
  会稽郡山陰の人。戴碩子の子。家は貧しく、若いころから葛を売って生業とした。学問を好んだ。のちに尚書倉部令史となった。彭城王劉義康のもとで記室令史となり、劉義康が失脚すると、武陵王劉駿のもとで征虜撫軍記室掾となった。江州にうつって南中郎典籤となった。劉駿が劉劭を討つのに従った。劉駿(孝武帝)が即位すると南台侍御史・中書通事舎人となり、戴明宝とともに重用された。賞罰の選定に参与し、賄賂を多く受け取ったので、家産は千をかさねた。前廃帝が即位すると、騎校尉となり、詔勅や尚書の事務のことごとくを決裁した。宦官の華願兒が「法興こそ真の天子」と市井で謡われていると讒言したので、帝はついに法興の官位をことごとく剥奪し、まもなく死を賜った。
(406~465)
  字は孝仁。河東郡解県の人。曾祖父の代から襄陽に住んだ。若いころから弓馬を習い、父に従って南方の少数民族を討った。嘉年間、江王劉義恭に召されて中軍将軍をつとめた。嘉二十七年(450)、が北を攻めると、建威将軍を加えられ、軍を率いて盧氏・弘農・潼関などで勝利した。別軍の王玄謨が敗れたため、命により軍を返した。孝武帝のとき、劉劭の乱などを平定した功により、巴東郡公に封ぜられた。侍中・驃騎将軍・南兗州刺史となった。帝により前廃帝(劉子業)を補佐するよう遺嘱され、尚書令・丹陽尹に進んだ。のちに顔師伯らとともに帝を廃して太宰劉義恭を立てようとしたが、事が洩れて殺された。
顔師伯(419~465)
  字は長淵。琅邪郡臨沂の人。幼少のころ孤児となり、貧苦に耐えた。嘉年間、雍州刺史の劉道彦のもとで輔国行参軍となった。太子劉劭が文帝を弑すると、武陵王劉駿の起兵に従って、参謀をつとめ、功により平都県子に封ぜられた。大明二年(458)、輔国将軍・青冀二州刺史となった。ときに北に侵攻すると、軍を率いて北の軍を破り、征虜将軍に進んだ。召されて侍中となり、吏部尚書・尚書右僕射などを歴任した。孝武帝が亡くなると、遺命により前廃帝を補佐した。長く顕官にあって、家産を蓄えた。のちに柳景らとともに帝の廃立を謀り、事が洩れて殺された。
劉義恭(413~465)
  の武帝(劉裕)の五男。嘉年間に江王に封ぜられた。徐州・荊州・南兗州などの刺史を歴任した。嘉十七年(440)、召されて司徒・録尚書事となり、朝政をたすけた。太子劉劭が文帝を弑すると、太保として召されたが、武陵王劉駿のもとに逃げ込み、劉駿に帝位につくよう勧めた。孝武帝が劉劭を平らげると、太傅・大司馬に上った。前廃帝のとき、中書監・太宰・太尉・録尚書事にいたった。柳景らとともに帝の廃立を謀り、失敗して殺された。
沈慶之(386~465)
  字は弘先。興郡武康の人。若くして勇気と腕力があった。年三十にして寧遠中兵参軍となる。武帝(劉裕)のとき、殿中員外将軍に任ぜられた。嘉年間、雍州刺史の劉道彦が亡くなると、雍州の諸族が蜂起したので、建威将軍に任ぜられて征討にあたった。沔水のほとりや沔北で諸族を大いに破り、捕らえた諸族を都や町に移して戸籍に編入した。太子歩兵校尉に進んだ。太子劉劭が文帝を弑すると、孝武帝(劉駿)に従って劉劭を討ち平らげ、鎮軍将軍・南兗州刺史となった。孝建二年(455)、老年を理由に引退を願い出て、許されて始興公として屋敷に入った。のち、南郡王の乱や竟陵王の乱の平定にあたり、司空に上った。楼湖に移住し、家財は千万を重ね、奴僕は千をかぞえた。孝武帝が亡くなると、遺命により柳景らとともに前廃帝を補佐した。泰始年(465)、江王劉義恭を立てて帝を廃そうと謀った柳景らを告して、柳景・劉義恭らは殺された。帝をしばしば諫めたが、不興をかい、ついに死を賜った。
謝荘(421~466)
  字は希逸。郡陽の人。謝弘微の子。はじめ始興王劉濬のもとで法行参軍となった。太子・劉劭が父・文帝を殺して自立すると、司徒左長史に任ぜられた。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、檄文を改作して京邑に宣布した。孝武帝(劉駿)が即位すると、吏部尚書に任ぜられた。明帝のとき、中書令に上った。「木方丈図」を作り、中国で最も古い木刻地形図として知られた。また詩文をよくした。『謝光禄集』。
鮑照(405~466)
  字は明遠。東海郡の人。嘉年間に臨川王・劉義慶に見出されて出仕し、国侍郎・海虞令・太学博士・中書舎人などを歴任した。のちに臨海王劉子ギョクに仕えて前軍刑獄参軍事となり、臨海王の乱に参加して、敗れて荊州で殺された。嘉の三大家のひとり。「蕪城賦」、「河頌」など。『鮑氏集』。
劉子勛(456~466)
  字は孝徳。の孝武帝(劉駿)の三男。大明四年(460)、安王に封ぜられた。八年(464)、江州刺史となる。泰始年(465)、前の撫軍諮議参軍の何邁が前廃帝を殺して劉子勛を立てようとした。事が洩れて何邁は殺された。前廃帝は劉子勛にも死を賜ろうとしたため、長史の鄧琬がかれを奉じて起兵した。前廃帝が殺されて明帝が立っても、兵をおさめようとしなかった。二年(466)、鄧琬により尋陽で帝に擁立され、義嘉と改した。乱は半年におよんだが、沈攸之により殺された。
卜天生(?~466)
  興郡余杭の人。兄の卜天与が劉劭の乱によって難に遭い、このため孝武帝に知られるところとなった。西陽王劉子尚のもとで撫軍参軍となった。大明三年(459)、沈慶之に従って竟陵王劉誕の乱の平定にあたり、のち弋陽太守となった。泰始初年、豫州刺史琰とともに安王劉子勛の乱に従って敗死した。
僧求那跋陀羅(394~468)
  中インドの人。仏僧となり、大乗を学んだ。嘉十二年(435)、広州に渡来し、雲峯寺に住持した。のちに文帝に召されて建康に迎えられ、祇園・東安の諸寺に住持した。華厳経を講じて、門徒は七百人余に及んだ。弟子の宝雲とともに小乗・大乗の仏典を翻訳した。北宗禅の第一祖とされる。「勝鬘経」を翻訳した。
王彧(413~472)
  字は景文。琅邪郡臨沂の人。王僧朗の子。の明帝の王皇后の兄にあたる。言理を好み、若くして謝荘と名声を等しくした。はじめ太子太傅主簿となった。孝武帝のとき、司徒左長史となった。のち侍中となり、射声校尉・左将軍を領し、給事中・太子中庶子を加えた。景和年(465)、尚書右僕射に上った。明帝が立つと、左将軍・丹陽尹を加えた。江州刺史・揚州刺史を歴任した。官は中書監にいたり、太子太傅・散騎常侍・揚州刺史を領した。かれの一門はあまりに強盛だったため、明帝は自身が危篤に陥ると、後難をおそれてかれに死を賜った。
劉休範(448~474)
  の文帝(劉義隆)の十三男。はじめ順陽王に封ぜられ、のち桂陽王に改封された。大明三年(459)、江州刺史となった。明帝が劉子勛の乱を平定すると、南徐州刺史とし、のちまた江州刺史とした。凡庸で木訥な言動のため、兄弟たちが殺されても、粛を免れた。明帝が崩ずると、遺詔により司空に進んだ。蒼梧王劉昱が即位したが、寒門の専横のため入京を妨げられ、叛逆を企てた。徽二年(474)、尋陽で起兵し、建康に迫ったが、右将軍の蕭道らに敗れて殺された。
袁粲(420~477)
  字は景倩。郡陽の人。袁淑の甥にあたる。はじめ揚州従事となった。明帝の末年、累進して尚書令・領丹陽尹に上った。帝の遺命を受けて後廃帝を補佐し、吏部尚書・侍中をつとめた。徽二年(474)、桂陽王劉休範が叛乱したとき、母の喪中で蟄居していたが、宮中に上がって社稷と存亡をともにする事を示し、諸軍を叱咤した。順帝の初年、中書監に進み、石頭に鎮した。蕭道を打倒する計画に参加して、事がもれて殺された。
阮佃夫(427~477)
  会稽郡諸曁の人。寒門の出で卑官から出し、嘉年間に台小史となった。孝武帝に補内監として召された。前廃帝のとき湘東王劉彧のもとで主衣となり、後に請われて世子の師をつとめた。泰始年(465)、劉彧の奪権に協力して、彼を明帝として擁立した。その功績で蘭台侍御史に任ぜられ、建城県侯に封ぜられた。明帝の信任を受けて累進した。司徒参軍・太子歩兵校尉・南郡太守・陵太守・驍騎将軍・黄門侍郎などを歴任した。明帝の信任を恃んで専横のことが多く、賄賂を好み、邸宅の華美豪奢さを諸王と競ったという。明帝が崩ずると、子の後廃帝(蒼梧王劉昱)に仕えた。中書通事舎人・南豫州刺史・歴陽太守などをつとめた。升明年(476)、後廃帝を雉射ちに連れ出したところ、政変が起こって安王劉準(順帝)が立てられたため、後廃帝によって殺された。
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⇒歴代皇帝(,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,明,
[北(960~1127)]
匡胤(927~976)
  北の初代太祖。在位960~976。涿郡の人。の次男。母は杜氏。洛陽東郊の夾馬営に生まれた。後の荘宗(李存勗)に見出され、その禁軍に入った。後漢の乾祐年(948)、郭威の幕下に投じた。広順初年、滑州副指揮に任ぜられた。後の世宗(柴栄)に従って北漢を防ぎ、淮南を征し、殿前都点検・州節度使の要職に上った。顕徳七年(960)、契丹()に対する遠征の途上、いわゆる橋の兵変により、推戴されて帝位についた。酔って眼を覚ますと黄袍を着せられていて、将兵から万歳の歓呼を浴びたという。禁軍を強化して、天下平定の戦いを進め、北漢を除く地方独立国を次々と征服。武官専横の社会から文治政治の社会への転換を図り、科挙官僚を登用して要職にすえた。中央の門下省を廃して、六部を皇帝に直属させ、皇帝権力の強化を図った。また地方の節度使の軍権・徴税権を回収して、中央の直轄とし、文官の知州を派遣して治めさせた。
匡義(930~997)
  北の二代太宗。在位976~997。の三男で、匡胤の弟にあたる。橋の兵変において、兄太祖即位の立役者であった。建隆年(960)、殿前都虞侯となり、兄の諱を避けて光義と改め、泰寧軍節度使に任ぜられた。翌年、開封尹となる。開宝六年(973)、王に封ぜられた。九年(976)、兄の跡をついで帝位につき、炅と改名した。いわゆる「燭影斧声千古の疑」で兄殺しの疑惑をかけられたまま玉座に上った。太平興国三年(978)に平海軍節度使の洪進やの銭俶が次いで入朝し、翌年には親征して北漢を平定して、中国は再び統一の時代を迎えた。勝利に乗じてを攻めたが、高河の戦いで大敗して帰還した。太祖の創業を受け継いで、科挙官僚を登用し文人政治を推進した。武徳司という監察機関を皇城司と名を改めて強化し、皇帝の独裁権力を強化した。崇文院を建てて、『太平御覧』などの書を編纂させ、文を重んじる気風が強まった。文治の推進にともなって武力は低下し、雲十六州の奪回は困難となり、また西夏の勃興を防ぎきれなかった。ほか異母弟の王廷美や太祖の子の徳昭や徳芳らを害して、内紛の芽を断った。淳化年間に王小波や李順の乱を鎮圧した。
(968~1022)
  北の三代真宗。在位997~1022。太宗(炅)の子。太平興国八年(983)に王に封ぜられ、端拱年(988)に襄王に封ぜられ、淳化五年(994)に寿王に封ぜられて、開封尹に任ぜられた。至道年(995)、太子となり、判開封府事をつとめた。三年(997)、太宗が崩ずると、即位。当初は政治に精励し、全国を十五路に分けて、各路の転運使に京師への物流路を確保させた。景徳年(1004)、軍が南下すると、寇準にうながされて親征し、との間に澶淵の盟を結んで講和した。のちに王欽若を信任して、財政は放漫となり、民衆の負担は増加した。五年(1008)、天書を迎えたてまつって、大中祥符と改した。東に泰山で封禅をおこない、西に汾陰で封祀し、曲阜の孔子廟や亳州太宮に詣でた。
(1010~1063)
  北の四代仁宗。在位1022~1063。真宗(恒)の子。大中祥符八年(1015)、寿春郡王に封ぜられた。天禧二年(1018)、升王に封ぜられ、太子に立てられた。乾興年(1022)、真宗が崩ずると、即位した。はじめ劉太后が垂簾聴政し、寇準・丁謂らが輔政して果をあげた。明道二年(1033)、太后が亡くなると、親政をはじめ、琦・范仲淹・欧陽脩らが輔政して、治世の中期には慶暦の治と称される一時期を現出した。康定年(1040)、西夏の間に戦いが起こると、軍は三川口の戦い、好川口の戦い、定川砦の戦いと大敗を重ねた。慶暦三年(1043)、絹十三万疋・銀五万両・茶三万斤を歳賜として西夏に供与し、李昊を王として認めることで、講和が立した。その前年、間の紛争に乗じて圧力をかけ、歳幣額に絹十万疋・銀十万両を上乗せしている。軍費の増大など、年ごとに歳出は増大して、改革の必要性が認識されるようになった。
(1032~1067)
  もとの名は宗実。北の五代英宗。在位1063~1067。濮王允譲の十三男。嘉祐七年(1062)、皇子に立てられ、曙と改名し、鉅鹿郡公に封ぜられた。翌年、仁宗が崩ずると、帝位についた。病のため、太后が垂簾聴政した。治平年(1064)、病が癒えると親政をはじめた。三年(1066)、西夏を攻めると、使者を送って詰問させ、和平を回復した。司馬光が『通志』八巻を撰して献上すると、書局を置き官を設けて編纂を継続させ、のちに『資治通鑑』として結実した。
(1048~1085)
  北の六代神宗。在位1067~1085。英宗(曙)の長男。嘉祐八年(1063)に淮陽郡王に封ぜられ、治平年(1064)に穎王に封ぜられた。三年(1066)、皇太子に立てられた。翌年、英宗が崩ずると即位。煕寧二年(1069)、王安石を参知政事に任じ、翌年には宰に起用して、法による改革を断行。旧法党による猛烈な反対を受け、二度王安石を宰から去らせた。法の改革は財政的には一定の効果を上げた。しかし、旧両党の党争を生み出したことは、のちの朝の土台を揺るがす禍根となった。豊三年(1080)、官制を改革し、豊の改制と称される。また王韶に命じて煕・洮五州を開拓させ、煕河路を置いて西夏に対する防御を強化した。しかし豊四年(1081)、霊州の戦い及び永楽城の戦いで西夏に敗れ、打撃を受けた。在位十九年、三十八歳の若さで夭逝した。
(1076~1100)
  北の七代哲宗。在位1085~1100。神宗(頊)の六男。豊五年(1082)、延安郡王に封ぜられた。八年(1085)に太子に立てられ、同年三月に神宗の跡を継いで即位した。ときに幼年だったため、高太皇太后が垂簾聴政した。年(1086)、旧法党の司馬光・呂公著・文彦博らを起用してとし、法党をことごとく左遷して、王安石の法は全面的に撤廃された(祐更化)。八年(1093)、太皇太后が亡くなると、親政をはじめた。紹聖年(1094)、范純仁・呂大防・蘇轍らの旧法派を罷免し、法党の章惇をとし、曾布・卞らを執政として、法を次第に復活させた(紹聖紹述)。
(1082~1135)
  北の八代徽宗。在位1100~1125。神宗(頊)の十一男。哲宗(煦)の異母弟にあたる。豊八年(1085)に遂寧郡王に封ぜられ、紹聖三年(1096)に端王に封ぜられた。符三年(1100)、哲宗が崩ずると、嫡子がなく、向太后の支持により即位した。はじめ向太后が摂政して旧両法を折衷した政治をとった。太后が没して親政を開始すると、法を採用して、京らを重用した。道教を尊崇し、教主道君皇帝を自称した。宮殿や人工庭園を作り、多くの道観を建てたりして、国費をついやした。また花石綱と呼ばれる珍木奇石を開封に運ばせたり、画院を盛大にして院体画の隆盛を招いたりした。自らも詩文・書画・音楽にたくみであった。とくに書法は自ら一家を創始し、痩体と称され、「千字文巻」などの書跡が後世に伝わった。文化史上に宣和時代といわれる盛世を現出した。しかし、北方のの圧迫から逃れるため、と結んでを挟撃し、雲十六州を一時回復したが、のちにと紛争を生じた。宣和七年(1125)、軍が開封に迫り、皇太子(欽宗)に譲位した。翌年、開封は陥落。靖康二年(1127)、徽宗は欽宗や后妃・皇族らとともに軍の捕虜となって北方に送られた(靖康の変)。五国城に抑留されて、その地で没した。
(1100~1161)
  北の九代欽宗。少帝。在位1125~1127。徽宗(佶)の長男。建中靖国年(1101)に京兆郡王に封ぜられ、大観二年(1108)に定王に封ぜられた。政和五年(1115)、太子に立てられた。宣和七年(1125)、軍が侵入すると、開封牧となり、徽宗より帝位を譲られた。靖康年(1126)、太原・中山・河間の三鎮を割譲してとの和平を立させたが、まもなく和約は破れ、開封を攻め破られた。翌年、徽宗らとともに北方に連行され、北は滅んだ。五国城に抑留されて、その地で没した。

[南(1127~1279)]
(1107~1187)
  南の初代高宗。在位1127~1162。徽宗の九男。欽宗の異母弟にあたる。大観二年(1108)に広平郡王に封ぜられ、宣和三年(1121)に康王に封ぜられた。靖康年(1126)、軍が開封を陥れて、翌年に徽宗・欽宗の二帝を北方へ連行していくと、南京で帝位につき、建炎と改した。建炎三年(1229)、苗傅・劉正彦らが叛逆して、いっとき退位したが、張浚・世忠らがこれを討ったため復位した。翌年、軍が江南に来攻し、臨安・明州・譚州などを陥れたため、海上に逃れた。その後、世忠らが軍を撃退し、叛乱を平定したので、紹興八年(1138)には臨安を行在に定めた。十一年(1141)、宰檜と図って、に対して臣と称し、歳貢銀二十五万両・絹二十五万疋を贈ることでと講和した。三十一年(1161)、の海陵王が大軍を率いて侵入してきたが、虞允文が采石磯にこれを破って安泰せしめた。翌年、養子の孝宗に位を譲った。内政においては檜の専横があったが、田地の開墾を奨励し、総制銭・和買折帛銭を設けて財政を確立し、会子などを行した。このため江南の開は進んで、経済展の基礎が築かれた。
シン(1127~1194)
  字は永。南の二代孝宗。在位1162~1189。父は秀王子称。太祖(匡胤)の七世の孫にあたる。高宗(構)に子がなかったため、紹興二年(1132)、選ばれて禁中で育てられた。十二年(1142)、普安郡王に封ぜられた。三十年(1160)、皇子として立てられ、建王に封ぜられた。三十二年(1162)、太子に立てられ、高宗から帝位を譲られた。即位後、張浚を起用し、岳飛の名誉を回復するなど、失地回復の意欲を見せた。北伐の戦況は思わしくなく、乾道年(1165)にと和約を結んで、歳幣銀二十万両・絹二十万疋とし、両国の関係を叔姪の関係に改めた。帝の治世の二十七年間は南の全盛期と評価されている。淳煕十六年(1189)、光宗に帝位を譲って太上皇となった。
(1147~1200)
  南の三代光宗。在位1189~1194。孝宗の三男。紹興三十二年(1162)、恭王に封ぜられた。乾道七年(1171)、太子に立てられた。淳煕十六年(1189)、孝宗より帝位を譲られた。紹煕年(1190)、皇后李氏が嘉王擴を太子に立てるよう請うたが、太上皇が許さなかった。五年(1194)、太上皇が崩ずると、病と称して朝に出ず喪に服した。太皇太后氏が汝愚らの言を容れて、嘉王擴を即位させると、太上皇となった。
(1168~1224)
  南の四代寧宗。在位1194~1224。光宗(惇)の次男。淳煕十二年(1185)、平陽郡王に封ぜられた。十六年(1189)、嘉王に封ぜられた。紹煕五年(1194)、光宗が病と称して朝に出なくなると、汝愚・侘冑らによって帝位につけられた。翌年、汝愚を罷免し、道学(朱子学)を禁止し、侘冑に執政させた。岳飛を鄂王に追封し、檜の封号を奪うなど、歴史の再評価をおこなった。開禧二年(1206)にを攻める詔を出したが、翌年に北伐は挫折して講和を求めた。が首謀者の処罰を求めたため、楊皇后・史弥遠らが侘冑を殺害した。嘉定年(1208)、侘冑の首級を献じてとの間に和議を結んだ。こののち、史弥遠が専権をふるった。
(1205~1264)
  もとの名は与莒。南の五代理宗。在位1224~1264。希瓐の子。太祖(匡胤)の十世の孫にあたる。嘉定十四年(1221)、選ばれて宮に入り、貴誠の名を賜り、沂王の後嗣となった。十七年(1224)、寧宗が崩ずると、丞の史弥遠に擁立されて帝位についた。紹定六年(1233)、史弥遠が没すると、親政をはじめた(端平更化)。端平年(1234)、蒙古と結んで州でを破り、滅ぼした。その後も三京の収復を謀り、北方国境は安定しなかった。開慶年(1259)、蒙古兵が鄂州を囲み、朝野は動揺した。宰の賈似道が蒙古に貢納して退かせながら、朝廷には勝利と偽って報告し、この後賈似道の専権が強まった。帝は朱子学を推奨し、国家の学問としての地位を確立した。
(1240~1274)
  南の六代度宗。在位1264~1274。栄王与芮の子。淳祐十一年(1251)、建安郡王に封ぜられた。宝祐年(1253)、皇子として立てられ、永嘉郡王に封ぜられた。翌年、忠王となる。景定年(1260)、太子に立てられた。五年(1264)、理宗が崩ずると、即位した。賈似道が専横をきわめ、辺患は日増しに深刻になった。帝は酒色にふけり、決断力に欠けた。咸淳九年(1273)、襄陽と樊城が次いで軍に攻略され、朝野は震駭し、国勢は一気に敗亡へと傾いた。
ケン(1271~1323)
  南の七代恭宗。在位1274~1276。度宗の子。咸淳九年(1273)、左上将軍となり、嘉国公に封ぜられた。翌年、度宗が崩ずると、四歳にして即位し、謝太后が垂簾聴政した。ときに軍に鄂州を破られ、朝は危機に瀕していた。詔して天下に勤王の兵を募ったが、応じる者は少なかった。徳祐年(1275)春、賈似道の軍が蕪湖で潰滅し、長江沿岸諸郡の臣はに降る者あり、逃亡する者ありで、朝を見捨てていった。数度にわたって軍のもとに講和の使者を送ったが、面会を許されなかった。翌年正月、に降る表をたてまつった。三月、軍が臨安に入った。五月、帝は北方に連れ去られ、瀛国公に封ぜられた。のちに出家して僧となり、法名を合尊といった。吐蕃薩迦寺に住持した。の至治三年(1323)、の英宗の命により殺された。
(1269~1278)
  南の八代端宗。在位1276~1278。度宗の庶子。はじめ建国公に封ぜられ、恭宗が立つと吉王となった。徳祐二年(1276)正月、軍が臨安に迫ると、益王に改封され、判福州・福建安撫大使となった。五月、丞宜中らに擁立されて福州で即位した。景炎と改し、楊淑妃が垂簾聴政した。軍が福建に入ると、海上に逃れた。景炎二年(1277)十二月、井澳にいたり、颶風に遭って病にたおれた。翌年三月、占城に向かおうとして果たせず、コウ※4洲にたどりついた。翌月、病死した。
ヘイ(1272~1279)
  南の九代王。在位1278~1279。度宗の庶子。はじめ永国公に封ぜられ、恭宗が立つと、信王に封ぜられた。徳祐二年(1276)正月、軍が臨安に迫ると、広王に移封された。五月、端宗(昰)が福州で立つと、王に封ぜられた。景炎三年(1278)四月、端宗が崩ずると、陸秀夫・張世傑らに擁立されて帝位についた。五月、祥興と改した。六月、厓山にうつった。翌年二月、海上で軍に敗れ、陸秀夫が帝を背負って投水死した。南はここに滅んだ。
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