0o0dグッ

序章 (Historical)

九州王朝説批判-川村明(Historical)

序章
川村 明

 本論文は、古田武彦氏によって1970年代に提起された「九州王朝説」の批判である。この説は、提唱者の古田氏が偽書問題で影響力を失った以上、改めて批判する必要があるのかと不審に思う方もおられるかもしれない。しかし、同説は、決して内容的に批判されて葬られたわけではない。『東アジアの古代文化』87号(1996年行)の井上秀雄氏の論文等を見ればわかるように、同説は専門家の間でも支持者が出てきているのである。そこで私は同説の内容的な批判を行うことは、今日でも十分意義があるのではないかと思い、あえて本論文を書いた次第である。
 内容は、中国史書の「」「日本」関係記事や、それに関連する『日本書紀』の記事を徹底的に分析し、九州王朝説の方法論や個々の論拠を逐一批判的に検証することにより、同説を単に否定するだけでなく、関連する文献の史料性格を浮かび上がらせ、日本古代史の謎を少しでも解明しようと試みたものであり、『市民の古代』第18集所収「中国史書の『』の徹底解明」を、特に後半部分について大幅に拡充したものである。

 さて、従来から、中国史書の中の「の五王」や「日出づる処の天子」は大和朝廷の人物であるとされてきた(いわゆる「大和一説」)。ところが一方で、中国史書の・日本関係記事には次のような特徴があることも知られていた。

a  『宋書』『南書』『梁書』『隋書』『旧唐書』などの歴代中国史書には倭国が一続きの国であったように書かれていて、しかも都が移動したという記事が一切ない。
b  『宋書』の「の五王」とその時代の天皇とは名前、系譜、在位期間がすべて合致しない。
c  『隋書』俀国伝の「多利思北孤」とその時代の推古紀は王の性別、名前、他の日本側の人名に一致するものがない。
d  同じく『隋書』俀国伝には阿蘇山があるとか、都が志の邪馬臺と同じだ、と書いてある。
e  『旧唐書』には日本はの別種だと書かれており、伝も別々になっている。
f  また同書によれば、倭国は島であり、そのりの小島も領有している。
g  同じく同書によると、日本国は南と西は海に面すが、北と東は山で限られていると書かれ、地理的記述もと異なる。また、日本国はもと小国で、倭国を併合したと記されている。さらに、日本国の記述の中にのみ、大和の人物である阿倍仲麿等の名前が出て来る。

 これらの事実は一見すると、「大和一説」の矛盾を示しているように思われる。しかもaとd~gの記事は、先入観なしに読めば、7世紀に至るまで、大和にあった「日本国」とは別に、「倭国」なるものが九州に存在していたことを主張しているかのように見える。そして、その主張に素直に従えば、昔からの謎であったbやcの矛盾も解消するかのように見える。これが有名な「九州王朝説」である。
 この九州王朝説は、提唱からほぼ30年経つにもかかわらず、内容のある反論は少なかった。例えば安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』や、その改訂版にあたる『虚妄の九州王朝』では、『明史』日本伝の記事の食い違いを取り上げて、だから中国史書は信用できないという一般論で批判している。しかしその食い違いというのは、【資料0】に掲げた原文からも明らかなように、「信長が関白であったとか、秀吉が関白を僣称したとか、明智とは別の阿奇支というものがいたかのように記す」という程度のものであり、『旧唐書』のような「国の数が1つか2つか」といった「大きな」事実に対する誤りではない。したがって、a~gのような複数の中国史書の史料事実がそろって主張しているように見える「九州王朝説」を批判するには、『明史』の例は全く役不足なのである。
 それにもかかわらず、九州王朝説が一般に受け入れられなかったのは、やはり『記・紀』の描く古代像と容れないからであろう。『記・紀』の中には「九州王朝」の存在を述べた記事など全く存在しないのだから、結論が突すぎてどこから批判したらよいかわからない、といったところではなかろうか。
 こうして、九州王朝説支持の立場からは、同説が一受け入れられないのは、学界が単に『記・紀』の呪縛から解き放たれていないからに過ぎないと思われて来たのである。
 ところが以上に述べてきた九州王朝説のゆるぎないと思われた文献上の根拠が、以下に述べるように、一見些細に見えたキズから崩れることになるのである。