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姜斉[前 11世紀~前 379]

中国の諸侯国の一つ。 (1) 代の侯国の一つ (前 11世紀~前 379) 姜姓。初の功臣太公望呂尚 (りょしょう) が封建されてできたと伝えられ,都は臨 淄 (りんし。山東省臨 淄) 。春秋時代前期に桓公が管仲を用いて富国強兵策を行い,五覇の第1となった。その後は隣国のと対立を続けたが,簡公4 (前 481) 年家臣の田氏が簡公を殺して専権をふるい,康公 15年 (前 386) 年田和 (でんか) が康公を追放して侯となり,姜姓のは滅亡した。

中国,春秋時代の姜(きよう)姓の侯国。?‐前379年。戦国田斉と区別して姜斉ともいう。前11世紀末,建国の功臣太公望呂尚が営丘(山東益都県か?)に封ぜられたのにはじまる。のち現山東臨淄(りんし)県にうつる。春秋時代には疆域を拡大,第15代桓公は北の山戎や狄(てき)を撃ち,北上するを抑え,王室をたすけ,最初の覇者となる。その死後,におされたが,山東を支配,に対抗する大国であった。のちから亡命した田氏が大夫として力を得,前386年康公を幽閉して国を奪う。

中国の国名。
春秋時代の列国の一。の武王によって呂尚(りょしょう)(太公望)が封ぜられた国。現在の山東省の地。都は臨淄(りんし)。前7世紀、桓公の時に覇者となったが、前379年、重臣の田氏に滅ぼされた。姜斉

(1)中国,代の侯国。現在の山東省にあり,臨【し】(りんし)に都した。前11世紀末,太公望呂尚(りょしょう)が封ぜられたのに始まるという。姓は姜(きょう)氏。春秋時代の前679年,第15代桓公(かんこう)は初めて覇者となった。

太公望呂尚 (たいこうぼうりよしよう) が山東省臨淄 (りんし) に封じられたのに始まる。前7世紀,桓公は管仲 (かんちゆう) を重用して国勢を伸張し,春秋最初の覇者春秋の五覇 (ごは) )となって,山東の大半を領有した。のち内乱により,前386年政権は家臣の田 (でん) 氏に帰した(これ以前を姜斉 (きようせい) ,以後を田斉と呼ぶ)。戦国の七雄の1つに数えられ,前4世紀末,都の臨淄は栄え,諸子百家の士が集まって戦国時代の文化の中心となった。前221年に滅ぼされた。
ともいう。 ➡ 北

代の侯国。の武王により呂尚(太公望)が封ぜられた国(?~前379)。今の山東省の地。桓公の時、春秋時代最初の覇者となったが、のち重臣の田氏に滅ぼされた。

中国の国名。
[一] 紀前三七九年まで続いた代の諸侯国の一つ。の武王によって呂尚(太公望)が封ぜられた国。山東を領有。前七世紀に桓公の富国強兵策により五覇となった。二九世で、重臣の田氏に国を奪われた。姜斉(きょうせい)。

田斉[前 386~前 221]

戦国時代の七雄の一つ (前 386~前 221) 。姓は田氏。田氏は氏とも呼ばれ,国の王族であったが,逃れての桓公に仕え,次第に民心を収攬して他の貴族を圧倒し,康公 15年主君の位を奪い,諸侯となった。戦国時代中期威王,宣王の頃は政治,文化の一中心をなした (稷下の学) が,王健 44 (前 221) 年の始皇帝に滅ぼされた。

戦国七雄の一。前379年、田氏がの国政を奪い建国。前4世紀後半に最盛期を迎え、山東省の全域を支配したが、前221年、に滅ぼされた。田斉

のち内乱が続き,戦国時代に入って前386年田(でん)氏が国を奪った(田斉)。威王・宣王のとき,国勢は絶頂に達したが,前3世紀からは衰える。前221年に滅ぼされた。→春秋戦国時代

[二] 戦国の七雄の一つ(前三七九‐前二二一)。初以来のを、重臣の田氏が奪って建国。前者と区別するために田斉とも呼ばれる。山東を領有。前四世紀後半に最盛期に達したが、前二八四年に敗れて国力が傾き、に圧迫され、やがてに滅ぼされた。都の臨淄を中心に商業活動が盛んで、刀貨が流通し、学問も栄えたので、諸子百家の中心地となった。

戦国七雄の一。田氏が① を滅ぼし、王より諸侯に封じられて立(前386~前221)。に滅ぼされた。田斉でんせい。

中国,戦国七雄の一つ。前386‐前221年。姜(きよう)姓のと区別して田斉ともよぶ。前672年,の貴族田完が(姜姓)に亡命し,桓公に仕えて大夫となり,勢力を得た。のちの正卿の国氏,高氏を追放して国政を掌握し,前386年の康公を幽閉して国を奪い,王より諸侯として承認された。威王,宣王のとき強盛となり,都の臨淄(りんし)(山東臨淄県)は最大の都市として繁栄,多数の学者も集まった(稷門(しよくもん))。

[479〜502]

(2)中国,南朝(南北朝)の一つ。南とも。479年武将の蕭道(しょうどうせい)(のちの高帝)がの国を奪って帝位についた。次の武帝は内政の充実をはかり永明の治といわれたが,以後は内乱が続き,502年一族の蕭衍(しょうえん)(の武帝)に国を奪われた。

中国,南朝4王朝の一つ。479‐502年。北朝のを北と呼ぶのに対して南と呼ぶ。陵武進(江蘇省常州)に僑置された南蘭陵蘭陵の人,蕭道(しようどうせい)(高帝)が創業。対北の拠点である淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰)の軍閥として実力を蓄え,中央に召されて軍政を担当,江州刺史桂陽王劉休範,荆州刺史沈攸之(しんゆうし)などの挙兵を平定してから王朝を譲られた。高帝と武帝の2代は開国の功臣や貴族の支持によって比較的安泰であったが,北との交戦によって疲弊し,また社会的には社会の底辺の寒人層の台頭が目だった。

南北朝時代の南朝の一国 479〜502

[三] 南北朝時代、南朝の第二王朝(四七九‐五〇二)。通称は南の武人蕭道(高帝)がの順帝の禅譲により建国。蕭(の武帝)に国を奪われ、七代で滅んだ。

,高[550‐577]

中国の王朝。550‐577年。北,高ともいう。東の実力者高歓の死後,その地位を引き継いだその子の高澄は政権奪取を計画していたが,不慮の死をとげた。弟の高洋は革命を敢行してを建て(文宣帝),引き続き鄴(ぎよう)を首都としたが,高氏の軍事根拠地である太原もその重要性を失わなかった。文宣帝は酒乱の暴君で,人貴族楊愔(よういん)らを股肱として一族,功臣をしきりに誅殺した。帝の死後その不満が爆して宗室の諸王が楊愔らを殺し,その中心人物常山王演が功臣たちの支持によって即位した(孝昭帝)。

[四] 南北朝時代、北朝の王朝(五五〇‐五七七)。通称は北、高。東の高洋(文宣帝)が建国。北に滅ぼされた。

④北朝の一王朝。 → 北

(3)中国,北朝(南北朝)の一つ。北とも。550年東)の帝位を権臣の高歓が奪って建国。西方の北)と対立したが,北により577年滅ぼされた。

南北朝時代の北朝の一国 550〜577

[1130〜1137]

④南の初めにの降将劉 (りゆうよ) を擁立して建てた国 1130〜37

[五] 南初期、の建てた王朝(一一三〇‐三七)。の将軍宗翰が南の降臣劉を皇帝として建国。山東、河南、陝西を領有したが、宗翰の失脚後廃された。

山東・河南・陝西の地を領有。その他,末の黄巣 (こうそう) も国皇帝を自称した。

【劉】より
…中国,の傀儡(かいらい)政権国の皇帝。在位1130‐37年。…

【山東[省]】より
…このように,地勢や気候からみて,山東は華北平原のなかで最も安定した自然条件をもつ地域であるといえよう。

文化】

大汶口文化と竜山文化]
 石器時代,黄河中下流域には多様な文明が形されたが,山東では約5000年前,大汶口(だいぶんこう)文化(泰安県大汶口遺跡を代表遺跡とする)と呼ばれる進んだ文化が,ほぼ山東全域に広がっていた。この文化は,同時期に西の中原地方にみられる仰韶文化とはやや性格を異にし,むしろ江南地方から淮河(わいが)下流域にみられる青蓮崗文化と共通するところが多く,山東より沿海に長江(揚子江)下流域まで続く,一連の文化が形されていたと考えられる。…

春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国の家臣であったの3代が主家を三分独立し,は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれるの対立抗争の時代となるからである。

歴史

 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,(山東省曲阜),(山東省臨淄(りんし)),(山東省定陶),(河南省淇県,のち滑県),(河南省),(河南省商丘),(河南省淮陽(わいよう)),(河南省上,のち,さらに安徽省鳳台),(山西省曲沃),(陝西省鳳翔,のち咸陽),(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には王室があった。…

【度量衡】より

… 春秋時代には生産力が増大し,土地私有が現れるようになると,各諸侯の国々では田賦をはじめとする賦税の徴収など,封建生産関係のなかで度量衡の整備が進んだ。春秋の国の右伯君銅権,の国の銅環権などの分銅が考古学的な証拠である。《左伝》の昭公3年(前539)の記事には,量目の升,豆(4升),区(4豆),釜(4区),鐘(10釜)が見え,氏が台頭した前5世紀のの国では四進法の容量が普及した。…

魏晋南北朝時代】より

…220年帝国が滅亡してから589年によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた・東の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…

【南朝】より

…中国,東王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち(420‐479),(479‐502),(502‐557),(557‐589)の総称。北朝に対する呼名。…

[(前11C~前221)]

西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
・呂氏]太公望(尚)-丁公(伋)-乙公(得)-癸公(慈母)-哀公(不辰)-胡公(静)-献公(山)-武公(寿)-厲公(無忌)-文公(赤)-公(説)-荘公(購)-釐公(禄父)-襄公(諸児)-桓公(小白)-無詭-孝公(昭)-昭公(鄱)-舎-懿公(商人)-恵公()-頃公(無野)-霊公(環)-荘公(光)-景公(杵臼)-晏孺子(荼)-悼公(陽生)-簡公(壬)-平公(驁)-宣公(積)-康公(貸)
・田氏]完-湣-田文子(須無)-田桓子(無宇)-田釐子(乞)-田子(常)-田襄子(盤)-田荘子(白)-太公(和)-侯(剡)-桓公(午)-威王(嬰)-宣王(辟疆)-湣王(地)-襄王(法章)-王(建)
の丁公(?~?)
  呂伋。太公望の子。太公が亡くなると、位についた。
の乙公(?~?)
  姓は姜、名は得。の丁公の子。丁公が亡くなると、位についた。
の癸公(?~?)
  姓は姜、名は慈母。の乙公の子。乙公が亡くなると、位についた。
の哀公(?~?)
  姓は姜、名は不辰。の癸公の子。癸公が亡くなると、位についた。紀侯が哀公のことを王に讒言したため、によって哀公は殺されたという。
の胡公(?~前860)
  姓は姜、名は静。在位?~前860。の癸公の子。哀公の弟にあたる。哀公が殺されると、位についた。都を営丘から薄姑にうつした。末弟の山(のちの献公)に襲撃されて殺された。
の献公(?~前850)
  姓は姜、名は山。在位前859~前850。の癸公の子。哀公の弟にあたる。胡公を殺して即位した。胡公の子をすべて追放し、都を薄姑から臨淄にうつした。
の武公(?~前825)
  姓は姜、名は寿。在位前850~前825。の献公の子。献公が亡くなると、位についた。ときにの厲王が追われ、共和の政が行われた。の宣王が立つと、諸侯とともに入朝した。
の厲公(?~前816)
  姓は姜、名は無忌。在位前824~前816。の武公の子。武公が亡くなると、位についた。暴虐無道で、のちに国人たちに攻め殺された。
の文公(?~前804)
  姓は姜、名は赤。在位前815~前804。の厲公の子。厲公がの国人に攻め殺されたのち、即位した。まもなく厲公を殺した者たち七十人を処刑した。
(?~前795)
  姓は姜、名は説。一名に脱ともいう。在位前803~前795。の文公の子。文公が亡くなると、位についた。
の荘公(?~前731)
  姓は姜、名は購。在位前794~前731。公の子。かれの治世では強盛となった。
の釐公(?~前698)
  姓は姜、名は禄父。在位前730~前698。の荘公の子。の諸国とともにを討った。またとともにを討った。公孫無知を愛し、かれの待遇を太子と等しくした。
の襄公(?~前686)
  姓は姜、名は諸児。在位前697~前686。の釐公の子。即位以前からかれは妹の文姜と情を通じていた。文姜はの桓公にとつぎ、襄公はの国君として即位した。四年(前694)、公らがにやってくると、襄公と文姜はふたたび情を通じた。公がこれをとがめたので、襄公は彭生に命じて公をひしぎ殺させた。が償いを求めたので、彭生を殺して詫びた。八年(前690)、紀国を討ち、その都を遷せしめた。十二年(前686)、沛丘で狩猟して足を負傷し、その機に公孫無知・連称・管至父らの襲撃を受けて殺された。
の桓公(?~前643)
  姓は姜、名は小白。在位前685~前643。の釐公の子。襄公の弟にあたる。釐公の死後、襄公が継いだが、無道なふるまいが多く、小白は兄を恐れて莒に亡命した。即位十二年で、襄公は従兄の公孫無知らに弑された。また無知もまもなく殺された。に亡命していた兄の糾と小白とがの公位をめぐって帰国を争った。一歩先んじた小白がに入ると、すぐ即位し、軍を迎え撃った。軍を破り、糾を捕らえて殺した。鮑叔牙の進言で、糾の臣下だった管仲を登用し、大夫として国政を任せた。管仲の富国強兵策によって、は強盛をほこった。桓公七年(前679)、鄄で諸侯と会盟して覇者となった。二十年(前666)、王の命を奉じてを討った。二十二年(前664)、山戎を討ち、を救った。二十五年(前661)、狄を討って、邢・の二国を救った。三十年(前656)、を討ち、と召陵で盟を結んで帰った。三十四年(前652)、に内乱が起こると、諸侯とともに洮に会し、の襄王を王に立てさせた。翌年、諸侯と葵丘で会盟した。管仲の死後、管仲の忌避した易牙らを登用して専権を握られた。晩年には五人の公子の間に後継者争いが起こり、公の死後六十七日間も遺体は放置され、屍から蛆がわいて戸外に及んだという。
管仲(?~前645)
  名は夷吾。字は仲。後世に管子とも称された。潁上の人。若い頃、鮑叔牙と友人となった。鮑叔をよくあざむいたが、管仲が貧窮していたことを知っていた鮑叔はそれに不満を漏らさなかったという。鮑叔はの公子・小白に仕え、管仲は同じく公子・糾に仕えた。小白と糾とがの公位をめぐって帰国を争うと、管仲はの軍を連れて待ち伏せし、小白を弓矢で射た。矢は小白の帯の留めに当たって、命を拾ったが、小白は死をよそおって、先にに入った。小白は即位し(の桓公)、軍を迎え撃った。糾は殺され、管仲はに逃げた。桓公は管仲を殺したいと思ったが、鮑叔が覇者となるには管仲が必要だと説いた(管鮑の交わり)ため、用いることを決めた。桓公は管仲を召し取って我が手で処刑したいと偽って、から引き渡させた。管仲は大夫となり、の国政をあずかった。五軒の家を単位とする兵員登録制を定め、物価の均衡をはかり、製塩業の利益を設定し、貧困を救い、能力ある者を登用して、は富国強兵に功した。桓公は覇者となり、管仲の富と名声もそれに匹敵するにいたった。「倉禀実ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」は管仲の名言。
無詭(?~前643)
  在位前643。の桓公の子。母は長姫。の桓公が亡くなると、易牙・豎ᑑが群臣を殺して、かれを擁立した。位にあること三カ月で国人に殺された。
の孝公(?~前633)
  姓は姜、名は昭。在位前642~前633。の桓公の子。母は姫。桓公の死後、五公子が争って立ち、易牙・豎刁が公子無詭を擁立した。の襄公が公子昭を立てようと望んで、諸侯の兵を率いてを討ち、このための人が無詭を殺した。四公子の部衆が乱をなしたので、再び軍が軍を討ち、昭をの国君として立てた。孝公九年(前634)、二度にわたってを討った。の援軍を得てを攻めると、翌年亡くなった。
の昭公(?~前613)
  姓は姜、名は鄱。在位前632~前613。の桓公の子。母は葛嬴。の公子開方の助けを借りて、孝公の子を殺して即位した。覇者としてのの文公を支持し、昭公年(前632)にを討った城濮の戦いに参加した。またのちに践土の盟や温の会に参加した。
(?~前613)
  在位前613。の昭公の子。昭公が亡くなると、国君の位についた。人望がなく、叔父の商人に殺されて、位を奪われた。
の懿公(?~前609)
  姓は姜、名は商人。在位前612~前609。の桓公の子。母は密姫。甥の舎を殺してみずから国君の位に立った。傲慢で民の信望をえられなかった。丙戎の父の遺体を暴いて足を斬り、庸職の妻を奪って後宮に入れた。丙戎と庸職が共謀して、懿公を馬車の上で殺した。
の恵公(?~前599)
  姓は姜、名は。在位前608~前599。の桓公の子。母は少姫。懿公の弟にあたる。懿公が殺されると、の国人に迎えられて立った。恵公七年(前602)と九年(前600)に莱国を討った。
の頃公(?~前582)
  姓は姜、名は無野。在位前598~前582。の恵公の子。即位当初、が邲の戦いでに敗れたのを機に、東方の覇権を確立しようと図り、と争った。頃公十年(前589)、出兵しての同盟国のを討った。同年、が連合してを攻め、鞍において会戦し、軍は大敗した。このために対して和を請い、奪っていたの地を返却した。以後は、賦税を薄くして、民力休養につとめ、国の安定につとめた。
の霊公(?~前554)
  姓は姜、名は環。在位前581~前554。の頃公の子。霊公十五年(前567)、莱を滅ぼし、高厚・崔杼に境域を確定させ、の領土は山東半島にまで広がった。二十七年(前555)、が諸侯の軍を率いて来攻した。かれ自ら軍を率いて平陰で迎え撃ったが、敗れた。軍は都臨淄の城郭を焼いて去った。翌年、病没した。
の荘公(?~前548)
  姓は姜、名は光。在位前553~前548。の霊公の子。太子のとき、に人質として出て、連合してを討ち、また会盟においてはを代表した。霊公二十八年(前554)、霊公によって廃され、牙が太子に立てられた。霊公がまもなく死ぬと、崔杼に迎えられて国君として立った。荘公四年(前550)、の栾盈の内応をえてを攻めたが、功せず、朝歌などを掠めて撤退した。のちに崔杼の妻と不倫して、崔杼の部下に殺された。
崔杼(?~前546)
の人。崔武の子。の恵公の寵信を受けた。の恵公の十年(前599)に恵公の薨ずると、一時に逃げた。の霊公のとき大夫となり、権を強めた。霊公が病に倒れると、廃太子の光を迎え、荘公として立てた。荘公の六年(前548)、荘公が崔杼の妻と密通したことに激怒し、荘公を殺し景公を立てた。このとき太史が「崔杼、荘公を弑す」と記録したため、この太史を殺した。太史の弟が同じく記録したのでまた殺した。太史の末弟がまた記録したので放置せざるをえなかったという。景公が立つと右に任ぜられ、左の慶封とともに専権を握った。景公の二年(前546)、慶封の手勢に邸を攻撃され、一家を滅ぼされ自殺した。
の景公(?~前490)
  姓は姜、名は杵臼。在位前547~前490。の霊公の子。荘公の異母弟にあたる。崔杼が荘公を殺すと、の国君に立てられた。はじめ崔杼を右とし、慶封を左とした。のちに晏嬰を正卿とした。在位中、宮室の修建を好み、犬や馬を集め、税は重く刑は厳しかった。そのため、民心は公室を離れ、田氏を頼りにするようになった。景公三十一年(前517)、を討って鄆を取り、に逃れてきたの昭公を帰国させようとした。四十八年(前500)、と夾谷の会を行った。
晏嬰(?~前500)
  字は平仲。晏子と称される。莱の夷維の人。の霊公・荘公・景公に仕えた。節倹力行をもって重んじられた。崔杼が荘公を殺したとき、荘公の遺体の前で哀哭し、景公が立てられたとき、崔氏・慶氏に忠誠をちかう誓約に加わらなかった。慶氏が滅ぶと六十邑を賜ったが、受けなかった。の政治の腐敗が進み、田氏の実力が日に日に強大になっているのを見て、国が田氏に取って代わられるのを見したという。『晏子』。
晏孺子(?~前489)
  姓は姜、名は荼。在位前489。の景公の末子。母は苪姫。景公が病にたおれると、国と高張が公の意を受けてかれを太子に立てた。景公が亡くなると、位についた。兄弟たちはみなおそれて国外に逃亡した。年(前489)、田乞・鮑牧が兵を挙げて、国を追放し、高張を殺した。田乞が陽生(悼公)を擁立して、晏孺子を駘に移す途中に殺害した。
の悼公(?~前485)
  姓は姜、名は陽生。在位前488~前485。の景公の子。景公の死後、大夫の間で権力闘争が激化し、禍が及ぶのを恐れてに亡命した。の晏孺子年(前489)、田乞・鮑牧が政敵の国・高張らを追い、陽生を迎えて国君として立てた。在位中、田乞をとして、田氏が国政を専断した。はじめとともにを攻める談をしていたが、のちにの季康子の妹の季姫を寵愛し、と和を結んで、讙・闡の地をに返還した。このためとの関係が急激に悪化した。悼公四年(前485)、・邾・郯の諸国を率いてを攻めると、の国内で内紛が起こり、悼公は鮑牧により殺された。
田乞(?~前485)
  僖子、田釐子とも。田無宇の子。の景公に仕えて大夫となった。税を取るには小さな升ではかり、粟を貸すには大きな升ではかって、民心を籠絡した。景公五十五年(前493)、の范氏・中行氏を助けて食糧を輸送させた。晏孺子年(前489)、鮑牧らとともに兵を率いて宮中に入り、国を追い、高張を殺し追い、陽生(悼公)を迎えて国君として立てた。さらに晏孺子を駘に移す途中に殺害した。悼公のもとでとなり、の国政を専断した。
の簡公(?~前481)
  姓は姜、名は壬。在位前484~前481。の悼公の子。即位後まもなく、国書・高無邳らにを討たせ、の郊外で戦った。が報復のために王夫差と連合してに攻め入り、博・嬴を侵した。艾陵で軍と軍が戦い、軍は大敗した。闞止を寵愛して、かれを執政としたため、田氏との間に軋轢を生んだ。簡公四年(前481)、出奔したが、徐州で捕らえられ、田常に殺された。
の平公(?~前456)
  姓は姜、名は驁。在位前480~前456。の悼公の子。簡公の弟にあたる。簡公が殺された後、田常により擁立された。田常が専権をふるい、鮑・晏の一族や公族の強勢なものたちがことごとく殺しつくされた。の安平から琅邪にいたるまで田常の封邑となったため、公の食邑は田氏のものより小さくなった。
田常(?~?)
  子、田子とも。名は恒ともいう。田乞の子。鮑牧がの悼公を殺したのち、壬(簡公)を擁立した。左として簡公を補佐した。右の監止と争い、監止・子我を殺し、簡公を徐州で捕らえて殺した。驁(平公)をの国君として擁立し、となった。に旧領を返還し、と盟を結び、と使節を交換した。刑罰をつかさどり、鮑氏や晏氏や公族の強勢なものたちをことごとく殺しつくした。安平から琅邪にいたる広大な地域を自領とし、平公の支配地より広い領分をえた。の国内から身長七尺以上の女性を選んで妾とし、妻妾は数百人、子は七十人余におよんだ。
の宣公(?~前405)
  姓は姜、名は積。在位前455~前405。の平公の子。ときにの政治において田氏が専権をふるっていた。
の康公(?~前379)
  姓は姜、名は貸。在位前404~前379。の宣公の子。酒色におぼれ、朝政を見ず、の政治は完全に田氏のものとなった。康公十四年(前391)、田和のために海島の上にうつされ、食邑は一城のみとなった。十九年(前386)、王が田和を諸侯と認めた。康公の死後、田氏が国を乗っ取り、太公望以来の姜氏の祭祀は絶えた。
の太公(?~前385)
  田和。在位前386~前385。田白(田荘子)の子。の康公のもとでとなり、の国政を専断した。康公十四年(前391)、康公を海島の上にうつし、一城をもって祖先の祭祀を続けさせた。十八年(前387)、の武侯と濁沢において会し、諸侯となることを求めた。翌年、王により諸侯と認められた。これが戦国田斉の始まりである。
田剡(?~前375)
  侯剡。在位前384~前375。田和の子。三年(前382)、を助けてを攻めた。五年(前380)、を攻めて桑丘にいたった。翌年、の康公が亡くなり、太公望の後裔が絶えた。翌年、に攻められ、三の軍は霊丘まで迫った。十年(前375)、田午(のちの桓公)に殺されて位を奪われた。
の桓公(?~前357)
  田午。在位前374~前357。田和の子。侯剡十年(前375)、侯剡を殺して自らの国君となった。国都臨淄の稷門の外に学館を置き、広く文士を集めて、講学議論させた。
の威王(?~前320)
  田嬰。またの名を因。在位前356~前320。の桓公の子。はじめ女色を好み、政を卿大夫に委ねてかえりみなかった。のちに政治にめざめ、賞罰分明で、即墨大夫と称された。前後して鄒忌・田嬰をとし、田忌を将とし、孫臏を軍師として、国力の増加につとめた。父を継いで稷門の学を保護した。威王七年(前350)、長城を拡張した。十六年(前341)、軍を馬陵で大いに破った。二十三年(前334)、の恵王と徐州に会し、互いに王として尊びあうことを誓った。このころから戦国諸侯が王を称するようになった。
の宣王(?~前301)
  田辟疆。在位前319~前301。の威王の子。田忌を将とし、田嬰をとして、国は再びの盛時を迎えた。宣王六年(前314)、の内乱に乗じて、匡章に五都の兵を率いてを攻めさせた。二ヶ月弱で全土を制圧したが、人の反抗にあい、撤退のやむなきにいたった。八年(前312)、と連合してを攻めたが、濮水の上で軍に敗れ、将軍声子が捕らえられた。文学遊説の士を好み、稷下に学官を置き、鄒衍・淳于髡・田駢らを上大夫に列して、講学議論させた。稷下の学は盛んとなり、学者の数は数百から千人に達した。
の湣王(?~前284)
  田地。またの名を遂。在位前300~前284。の宣王の子。田文(孟嘗君)をとし、匡章・司馬穰苴らを将として用いた。と連合してを垂沙に破り、またを攻めて函谷関に入り、の旧領を返還させた。また軍を破った。王が西帝と称し、王が東帝と称して、帝号を分かち合った。湣王十五年(前286)、を滅ぼし、淮北の地をえた。十七年(前284)、が楽毅を上将軍とし、と連合してを討つと、都の臨淄から追われ、の七十余城を奪われて、即墨・莒を保つのみとなった。かれは出奔して、まもなくの将の淖歯に殺された。
の襄王(?~前265)
  田法章。在位前283~前265。の湣王の子。湣王十七年(前284)、の将の楽毅が、と連合してを討ち、都の臨淄に侵入すると、湣王は逃げ出して、まもなくの将の淖歯に殺された。法章は姓名を変えて、莒の太史敫の家の雇い夫となった。のちにの臣に擁立されて莒で即位した。田単が軍を破ってを恢復したのち、臨淄に入って、田単を安平君に封じ、国に任じた。
王建(?~前221)
  田建。在位前264~前221。の襄王の子。后勝をとした。后勝はより賄賂を受けており、に入朝するようさかんに勧めた。戦いの備えをせず、の亡国を座視して助けなかった。五国が滅びたのち、の王賁が兵を率いてに侵入し、都の臨淄を陥した。王建に降り、幽閉されて餓死した。

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[南北朝(386~589)]

⇒北朝(北,東,西,北,北),南朝(,,,),柔然,高昌

[479~501]

高帝(蕭道)-武帝(蕭サク)-鬱林王(蕭昭業)-海陵王(蕭昭文)-明帝(蕭鸞)-東昏侯(蕭宝巻)-和帝(蕭宝融)
蕭道(427~482)
  の高帝,太祖⇒。
褚淵(435~482)
  字は彦回。河南郡陽翟の人。の文帝の娘の余姚公主をめとり、著作佐郎に任ぜられた。明帝が即位すると、吏部尚書に累進した。徽二年(474)、桂陽王劉休範が乱を起こすと、袁粲とともに宮中を護した。蕭道と結んで後廃帝(劉昱)を廃した。荊州刺史の沈攸之が叛したとき、袁粲らが宮中で呼応するのを警戒するよう蕭道に進言し、的中して袁粲らは敗れた。が建てられると、侍中・録尚書事・司空・驃騎将軍に上った。死に臨んで家に余財がなかったという。
王僧虔(426~485)
  琅邪郡臨沂の人。王曇首の子。はじめの秘書郎に任ぜられた。御史中丞・会稽太守にまで累進したが、阮佃夫らの佞臣に追従するのを潔しとせず、ひとたび免官された。のち侍中に進んだ。明帝のとき、湘州刺史・尚書令などを歴任した。昇明年間、朝廷礼楽について正典からの逸脱が多くなっていたので、非違を改めるように上表して容れられた。に入って、侍中・特進・左光禄大夫に任ぜられた。隷書をよくし、文史に通じ、音律を解した。また古今の書家の優劣を詳しく論じた。『論書』、『書賦』。
(?~485)
  字は彦倫。汝南郡安の人。はじめ海陵国侍郎をつとめた。建初年、山陽令となる。のち、国子博士・著作に上った。『三宗論』、『四声切韵』。
王倹(452~489)
  字は仲宝。琅邪郡臨沂の人。王僧綽の子。幼くして父が殺され、叔父の王僧虔に養われた。に仕えて秘書郎となり、秘書丞に進んだ。の明帝の娘の陽羨公主をめとった。『七略』より『七志』四十巻を撰し、また『徽四部書目』を撰した。蕭道に引き立てられて、右長史となった。が建国されると、尚書右僕射に上り、吏部を領した。儀礼制度を議して、意見の多くは容れられた。高帝(蕭道)が崩じると、遺詔により侍中・尚書令となった。永明三年(485)、国子祭酒を領し、また太子少傅を領した。のときには国学が頽廃していたが、かれが経学を提唱し、自宅に学士館を開いたので、儒学はここにおいて大いに興ったという。七年(489)、中書監を領した。この年に病没した。
蕭嶷(444~492)
  字は宣儼。の高帝(蕭道)の次男。母は劉氏。はじめの太学博士となった。沈攸之の乱が平定されると、江州に出て、次いで荊州に鎮した。州にあって刑罰を寛大に夫役を減らすようつとめ、すこぶる民心をえた。に入って豫章王に封ぜられ、揚州刺史となり、次いで南蛮校尉をつとめ、荊湘二州刺史となった。沈攸之の余党の張群を平定した。父高帝が崩ずると、耳目から血を流して哭したという。武帝が立つと太尉となった。永明五年(487)、大司馬に上った。
王奐(435~493)
  字は道明。琅邪郡臨沂の人。王粹の子。はじめに仕えて著作佐郎となり、侍中・祠部尚書を歴任した。昇明初年、丹陽尹に遷った。のち吏部に転じた。の武帝のとき、累進して尚書右僕射となった。雍州刺史として赴任したが、寧蛮長史劉興祖と馬が合わず、永明十一年(493)に劉興祖を殺した。帝は道剛・武を遣わして王奐を収監しようとしたが、子の王彪が兵を率いて門を閉ざしてこばみ、兵敗れて、親子ともに殺された。
王融(467~493)
  字は長。瑯邪郡臨沂の人。秀才に挙げられ、中書郎となった。永明九年(491)、武帝が朝臣とともに芳林園に宴を開いたとき、「曲水詩序」をなした。詩文にすぐれ、「竟陵の八友」のひとりとなる。鬱林王が立ったとき、蕭子良を擁立しようとして殺された。
蕭子良(460~494)
  字は雲英。武帝(蕭サク※1)の次男。母は裴氏。はじめの会稽太守となった。が建国されると、聞喜公に封ぜられ、丹陽尹に任ぜられた。武帝の即位後、竟陵郡王に封ぜられ、南徐州刺史・南兗州刺史を歴任した。護軍・司徒に上り、西州に鎮した。朝政にあっては、税制の改革に努力した。また学問・文学に熱心で、「八友」と呼ばれる文士を集えた。仏教を篤く信仰し、名僧をまねいて経典を講じさせた。文恵太子の死後、彼は世子に立てられず、太孫の蕭昭業が世子に立てられた。補弼の任を命じられたが、これを固辞した。『四部要略』、『浄住子』。
王晏(?~497)
  字は休黙。琅邪郡臨沂の人。はじめに仕えて建安国左常侍となり、のち蕭サク※1に従って、湓城に鎮した。が建国されると、太子中庶子となった。蕭サク※1がの武帝となると、侍中祭酒に遷った。司徒左長史・丹陽尹・江州刺史・吏部尚書を歴任した。武帝の死後、鬱林王が立つと尚書左僕射となった。蕭鸞とともに廃立を図り、蕭鸞が明帝として立つと、功により驃騎大将軍となった。のちに明帝に謀反の志があると疑われ、誅殺された。
謝チョウ※2(464~499)
  字は暉。郡陽の人。はじめ豫章王太尉行参軍をつとめた。永明年間に竟陵八友のひとりとなる。隆昌初年、中書郎・宣城太守に任ぜられた。明帝の建武年間、南東海太守・行南徐州事となった。永泰初年、王敬則の謀反を告した功績で、尚書吏部郎に進んだ。永年(499)、始安王・蕭遙光を擁立しようとした事件に連座して、殺された。詩文にすぐれ、謝霊運とともに二謝と称された。沈約らとともに永明体を創始した。『謝宣城集』。
徐孝嗣(453~499)
  字は始昌。東海郡郯県の人。の孝武帝の娘の康楽公主をめとった。に入って、陵太守から諸官を歴任して尚書令・丹陽尹に上った。連年にわたる北との戦いで軍資が欠乏していたので、建武四年(497)に淮南で屯田を布くよう上表した。東昏侯が即位すると、帝が凶暴で殺人を好んだため、虎賁中郎将の許淮に廃立を勧められたが、逡巡して決断できないでいるうちに殺害された。
祖沖之(429~500)
  字は文遠。范陽郡逎県の人。数学・暦法・天文に優れた。はじめの孝武帝に仕えて、南徐州で公府参軍をつとめた。婁県令・謁者僕射・長水校尉などを歴任した。ときに「嘉暦」がすでに実体から乖離していたので、「大明暦」を作って、一年を365.24281481日と計算した。また円率を精密に計算して、3.1415926と3.1415927の間であると求めて、「祖率」と称された。ほか指南車・欹器などを作ったという。『綴術』、『九章術義注』、『駁議』。
崔慧景(438~500)
  字は君山。河郡東武城の人。はじめの国子生となり、のちに南蛮府長史に任ぜられた。が建てられると、輔国将軍となり、二州刺史をつとめて、州の李烏奴を平定した。永明四年(486)に司州刺史となり、十年(492)に豫州刺史をつとめた。州にあって蓄財し、州刺史をやめるごとに財数百万を朝廷に献上したので、武帝に賞された。建武四年(497)、度支尚書・太子左率となり、北の兵を撃つべく軍を率いて襄陽に向かったが、鄧城で敗れた。永二年(500)、東昏侯が凶暴であったため、広陵で挙兵して乱を起こし、江王蕭宝玄を奉じて建康を囲んだが、豫州刺史蕭懿に敗れ、単騎で逃れて蟹浦にいたったところ、漁民に殺された。
蕭懿(?~500)
  字は達。南蘭陵郡蘭陵中都里の人。の武帝(蕭衍)の長兄にあたる。はじめの安南邵陵王行参軍となった。永明末年、二州刺史をつとめ、北の侵攻を南で防ぎ、歴城など六つのとりでを奪った。永二年(500)、豫州刺史の裴叔業が叛くと、崔慧景とともにこれを鎮圧した。崔慧景が広陵で叛いて首都を囲むと、精鋭三千を率いて豫州より救援した。崔慧景の乱が平定されると、功により尚書令・都督征討水陸諸軍事に上った。東昏侯に忌まれて殺された。のちに長沙郡王を追贈された。
顕達(427~500)
  南彭城の人。の孝武帝のとき、右将軍張永のもとで前軍幢主となった。末に蕭道に従い、左眼を失いながらも奮戦して、桂陽王劉休範をはばんだ。功により豊城侯に封ぜられ、遊撃将軍に任ぜられ、広州刺史に転じた。が建てられると、護軍将軍となり、益州刺史として赴任した。武帝のとき、鎮西将軍に進み、益州の大度村獠を討ち、苛烈な粛をおこなって西南諸族を畏服させた。明帝の永年(499)、侍中・太尉に進み、軍を率いて北を討ち、襄陽を恢復したが、南郷で大敗して軍を失った。江州刺史に転じた。ときに東昏侯が立ち、建康で大臣貴戚の多くが殺戮されるにおよんで、湓城で挙兵して叛いたが、丹陽の西州で敗死した。
孔稚珪(447~501)
  字は徳璋。会稽郡山陰の人。若いときから学問・詩文に優れた。のときに秀才に挙げられ、安王のもとで車騎法行参軍となった。に入って永明年間に王植の『律』修訂に参与した。永明九年(491)、『律文』『録書』を上表した。十一年(493)、鬱林王が即位したとき、王融を告して死にいたらしめた。明帝の建武初年、南郡太守となった。永年間、太子詹事に上り、散騎常侍を加えられた。「北山移文」は名篇として知られた。

[註]
1.サク=サク
2.チョウ=チョウ
↓次の時代=