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(8~23)]
王莽(前45~23)
王莽⇒。
揚雄(前?~18)
  字は子雲。都の人。四十余歳で王音に見出されて門下吏となり、帝に仕えて黄門侍郎に上った。司馬如を尊崇して、その賦を学び、「長揚賦」「甘泉賦」を作って文名を謳われた。やがて「雕虫篆刻」と言って文学を捨て、『論語』を真似て『揚子法言』を著し、各地の方言を収集して『揚子方言』を著した。また『易経』にならって『太玄経』を著した。彼の言説に批判が出ると、「解嘲」「解難」を書いて答えた。王莽の建国後、甄豊親子の罪に連座して捕縛されるところ、投身自殺を図って未遂に終わった。ひとたび退官したが、ふたたび召されて大夫となった。
呂母(前?~22)
  琅邪郡海曲の人。酒造を営んで家は富み、資産は数百万銭に及んだ。その子が冤罪によって県宰に殺されたため、その報復のために家財を散じて刀剣・衣服を買い集め、貧家の少年百余人と交わりを結んだ。天鳳四年(17)、蜂起して海曲県を攻撃した。将軍を自称し、県宰をはじめ官吏を殺し城を破却した。彼女の病死後、彼女のつくった集団の多くは樊崇らの赤眉軍に合流した。赤眉の乱の嚆矢となった女傑。
劉歆(前53~23)
  字は子駿。劉向の末子。父とともに諸子の学問を修めた。前漢に仕えて黄門郎・中塁校尉・騎都尉・奉車都尉を経て、光禄大夫に上った。諸儒にねたみ怨まれて、中央の官を退き、河内郡太守に遷った。次いで五原郡・涿郡の太守を歴任した。王莽時代になって、右太中大夫・中塁校尉・羲和・京兆尹を歴任した。紅休侯に封ぜられた。王莽謀殺を企図して露見し、自殺した。『三統暦譜』『七略』。
劉玄(前?~25)
  字は聖公。更始帝。在位23~25。劉子張の子。春陵侯・劉賈の子孫にあたる。王莽時代末期の混乱の中で、淮陽王として自立した。市兵と号する遊侠・亡命者・没落農民らに推戴されて帝号を称した。更始と建した。更始年(23)長安に侵攻して、王莽軍を撃破した。王莽を殺して、長安に都を置いた。大動乱を収拾することができず、赤眉軍に敗れて死んだ。後に光武帝は劉玄を一族として葬り、その三男が列侯として封じられた。
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