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新羅本紀

『三国史記』第1~12巻<新羅本紀>

『三国史記』は「新羅本紀」「高句麗本紀」「百済本紀」からなる朝鮮の正史である。

 編集したのは高麗国(918~1392)の儒学者であり官僚の富軾(キム・フショク=1075~1151)で、やや儒学的偏向はあるものの、朝鮮半島では初めての体系的な歴史的記述としての価値を持つ。

 「新羅本紀」は12巻からなり、その記述に従えば初代の<赫居世居西干>(カクコセ・コセカン=在位は紀前57~紀後4年)から代56代の<敬順王>(ケイジュン王=在位は927~935)まで、992年、ほぼ千年の歴史がコンパクトに記載されている。

 「朝鮮史料に見える人」というテーマであるので、その中から人がらみの記述のみを取り上げて検討することになる。

   < 新羅本紀に見える人(倭国) >
王名 紀年 人の記事
赫居世居西干
(初代=始祖)   8年
(前50)  国号は徐那伐という。
人が辺境に侵入しようとしたが、始祖の威徳を畏れ、引き返した。
 39年
(前19) 瓠公(重臣)はもともと人で、むかし瓢(ひさご=ひょうたん)を腰に下げて海を渡り、羅にやってきたので、瓠公と称した。
南解次次雄
  (第2代)  5年
 (後8) 脱解(ダッカイ)が賢者であると知り、娘を娶わせた。
 11年
 (14) 人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。
脱解尼師今
  (第4代) 即位前紀 脱解は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北千里にある。始祖・赫居世の39年、阿珍浦の海岸にある箱が流れ着いたが、その中に居たのが脱解であった。
 3年
 (59) 五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
 17年
 (73) 人が木出島に侵入し、迎え撃った羽烏(ウウ)が戦死して敗れた。
祇摩尼師今
  (第6代)  10年
 (121) 四月、人が東部の辺境に侵入した。
 11年
 (122) 兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った。翌年、倭国と講和した。
阿達羅尼師今
  (第8代)  20年
 (173) 五月、の女王卑弥呼が使者を送ってきた。
伐休尼師今
  (第9代)  10年
 (193) 六月、人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を求めにきた。
助賁尼師今
  (第11代)  3年
 (232) 四月、人が突然侵入し、城を包囲した。軽装の騎馬隊で賊軍を追撃し、千余人を捕殺した。翌年もやって来たが、船を焼いて撃退した。
沾解尼師今
  (第12代)  3年
 (249) 四月、人が舒弗邯の干老(ウロウ)を殺害した。
儒礼尼師今
  (第14代)  4年
 (287) 人が一礼部を襲い、千人もの人々を連れ去った。
 6年
 (289) 兵が攻めてくるとの情報が入り、船と兵器を修繕した。
 9年
 (292) 兵が沙道城を攻め落とそうとしたので、一吉サン(さんずいに食)の大谷に命じて救援させ、城を守った。
 12年
 (295) 王いわく「人が襲うので人々は安心して暮らせないから、百済と謀り、海上に出て倭国を攻撃したらどうか」と。だが、時の重臣に、海戦に不慣れなのと、百済の信用できないことを説かれ、その考えを撤回した。
基臨尼師今
  (第15代)  3年
 (300) 春正月、倭国と使者の交換をした。
 10年
 (307) 国号を羅に戻した。
キッ解尼師今
  (第16代)  3年
 (312) 春三月、倭国王が王子の花嫁を求めてきたので、阿サン(さんずいに食)の娘を送った。(32年後、再び嫁を求めてきたが、既に送ってあると拒んだ)
 36年
 (345) 春二月、王が国交断絶の国書を送ってきた。
 37年
 (346) 軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、軍は退散した。
奈勿尼師今
  (第17代)  9年
 (364) 四月、兵が大挙して侵入してきた。王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく兵を打ち破った。
 38年
 (393) 五月、軍が侵入して城を包囲して5日も解かなかった。王が城を閉じて持久戦に持ち込むと、軍は退却を始めたので、挟み撃ちをして大敗させた。
実聖尼師今
  (第18代)  
 (402) 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣(ミシキン)を人質とした。
 4年
 (405) 四月、兵が侵入して明活城を攻めた。王は騎兵を率いて軍を破り、三百人を捕殺した。
 6年
 (407) 春三月、人が東部を、また六月には南部を侵掠した。
 7年
 (408) 春二月、人が対馬に軍営を置いて攻撃の準備をしているとの情報を得たので、先に攻めようとしたが、重臣の意見で取りやめた。
 14年
 (415) 八月、人と風島で戦って勝利した。
訥祇麻立干
  (第19代)  2年
 (418) 王の弟で倭国に人質に行っていた未斯欣が逃げ帰ってきた。
 24年
 (440) 人が南部と東部の辺境を侵掠した。
 28年
 (444) 四月、兵が10日も城を包囲した。食料が尽きて退却するのを王自ら追撃したところ、かえって破れ、将兵の多くが死んだ。王も囲まれたが危うく難を逃れた。
慈悲麻立干
  (第20代)  2年
 (459) 人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃して月城を攻めたが守りきった。
 5年
 (462) 五月、人が襲来して、活開城を陥れ、千人を連れ去った。
 6年
 (463) 春二月、人が歃良(ソウリョウ)城を攻めたが、勝てずに退却した。国境地帯にたに二城を築いた。
 19年
 (476) 六月、人が東部の国境地帯を侵掠した。翌年(477)も軍が侵入したが、得るところなく引き上げた。
ショウ知麻立干
  (第21代)  4年
 (482) 五月、人が辺境を侵した。
 8年
 (486) 四月、人が国境地帯を侵した。
 19年
 (497) 四月、人が辺地を侵した。
(注)
徐那伐という国号・・・本紀では羅の原国号は「徐那伐」だという。
 音では「ジョナバツ」だが、音では「ソラバル」と言う。「ソ」は「高い」、「ナ」は「国」、「バル」は「村」という朝鮮語によるとされる注記が見られるが、朝鮮語ではなく語だろう。「ソ」は熊曽の「ソ」と同じで、私見では「背」からの転訛で、「背(セ)」とは「バックボーン、本つ国」という意味であり、「ナ」は「名」で「土地・国」の意味、また「バル」は「原」で、これも「ナ」と同様に「土地」を表すが「広々とした」というニュアンスを持ち、全体で「広大なる本つ国」の意義だろう。
 語呂合わせのようだが、神武天皇が南九州から大和へ東征し、初めて建国した時、大和地方を称して「ソラミツ大和の国」と言ったときの「ソラミツ」と重なる用語のように思える。

羅という国号・・・伝によれば、三世紀の半ばまで「羅」という国号は見えず、その頃あったのは辰であり、辰12国(実際は13国)のうちの「斯盧(シロ)国」が展して余国を併合し、やがて辰を代表する国名となったとされる。すなわち「シロ→シル(ラ)→シルラ」という転訛である。
 最後の「ラ(羅)」は百済を「クダラ」という時の「ラ」と同義で、「場所・土地・地方」の意味の「ラ」だろう。「ラ」は語では「ナ(名)」に当たり、ここでも当時の語と語の互換性が如実に現れている。
 上の表では第15代基臨尼師今(キリン・二シキン)の10年に「国号を羅に戻した」とあるが、これはその時(307年)に初めて国号を「羅」としたという意味だろう。
 因みに「ナラ(奈良)」をこの「ラ」との共通性から、語から来た語とする人が多いが、私見では「ナラ」は「ナナ」の転訛で、その意味は「ナの(中の)ナ」、つまり「土地の中の土地・国の中の国」すなわち「最上の土地・最上の国」の語であり、「ナナ→ナラ」という転訛を考える。

始祖・赫居世居西干・・・56代の初代がこの赫居世居西干であり、在位60年は56代中もっとも長い。あと長いといえば26代の真平王の53年(579~632)、16代・17代(上の表を参照)のともに46年で残りは30年台から1年までさまざまである。日本の初代神武天皇が在位76年(神武紀)だったり、5代考昭天皇が83年だったり、総じて異常に長いのと比べれば、かなり合理的と言える。
 しかし少なくとも15代の基臨尼師今の時に羅国を名乗る以前の「羅」は、辰12国の連合体制であり、国王もそれぞれに擁立していたと考えるのが順当であろうから、15代以前は複立・鼎立していた代表的な国王を「羅国の一系王統」に仕立て、過去に遡及させているのだろう。したがって15代以前の在位年数は2~3倍に引き延ばされていると見てよい。
 ところで「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読みできるが、「赫」は「日・火」と同義の「明るさ」を表していることは諸注に共通だが、「居世」の解釈は中古の朝鮮語訳では解けず、むしろ語の「くし(奇)」とすべきだろう。あとの王号と言われる「居西干(コセカン)」も同様に語の「くしひ(奇し日)」に同定できる。
 その意味は「光り輝く・奇しき日(の大王)」だろう。これはこじつけではなく、「伝」の「馬条」に登場する言葉で、馬をはじめ三で「月支国」に居るという「辰()王」への呼称「シウ・クシヒ・アヤシキ・ヒジリ・・・」の「クシヒ」と整合するのである(この呼称を現代和語で解釈すると「東の偉大(シウ)な王(奇し日)であり、素晴しい聖(アヤシキ・ヒジリ)のようなお方で、伽耶や(辰)を統治しておられる(大王)」となる)。

瓠公・・・瓠(コ)すなわち瓢箪を身につけて海を渡って来たので「瓠公」という。人であり始祖の重臣として仕えたと言うが、本当なら、ただの人ではなく「航海民(海人)」系の人に違いない。
 これは伝に見える「辰・弁の人々は文身(入れ墨)をしている」という記事と整合している。九州島を本拠地とするアズミ・ムナカタそして南九州系の投馬国(鴨族)の航海民などが、半島南部には無数に居り、その中の「航海王」クラスの誰かが辰羅)の重臣に就任してもおかしくはない。

脱解・・・ダッカイとは音読みだが、タケと読んで「武」あるいは「建」の語らしい。というのもこの脱解尼師今は人だ、と言っているからだ。生国は「倭国の東北千里の多婆那国」とあるから、まさしく人に違いない。
 多婆那(タバナ)国がどこにあるかでは諸説がある。
 タバナを「タンバ(丹波)」に読み替えて、文字通りの近畿丹波国とする説が強い。それは畿内こそが「倭国(の中心)」であるから、その東北千里はまさに兵庫の丹波国(丹後を含む)がそれに該当しているという地理的整合性からの説である。
 しかし百歩譲って倭国の中心が畿内にあるとしても、肝心の丹波国では東北に該当しないことを無視している。畿内奈良からだと西北であり、東北に当たるのは近江国なのである。
 私見では、半島史における「倭国」とは九州島の倭国である(志でも同様)から、この「倭国の東北千里の多婆那国」は九州島のいずれかの国を指している。
 結論から言うとその比定地は「玉名(国)」である。まず「タマナ=タバナ」という通音が大きな決め手であり、次に「脱解」=「タケ」と読めることで決め手となった。「タケ=建」は九州でも南九州の古名であることは、古事記の国生み神話から明らかである(南九州=建日別=熊曽国)。建日別とは「日(火)の盛んな」を意味し、阿蘇山をはじめ霧島山、桜島、硫黄島という活火山群を多量に抱え込んだ地域性による命名と考えられ、「熊本」の「熊」も、隼人の祖・ホテリ(ホスセリ)もともに「火の盛んなさま」を表す。
 辰の認識では「倭国」といえば「南九州の建日別=熊曽国」という時代もあったのだろう。南九州から玉名は「東北」であり「千里すなわち船行で一日」かかる玉名国。それが「倭国の東北千里の多婆那国」という風に書かれたものと解釈できる。
 したがって第4代「脱解(タケ)尼師今」とは「玉名国出身の建日(熊曽)系の王族で、半島南部の辰王に取り立てられた人物」と言うことができる。
 同じ人の瓠公は、羅(辰)初代の重臣になったが、脱解は羅(辰)の王になったのである。それは半島南部に多量の人が居住していたことの一つの帰結と言ってよい。半島の正史である『三国史記』の<新羅本紀>がゆくりなくもそのことを証明してくれたことになる。

女王卑弥呼の遣使・・・第8代の阿達羅尼師今の20年(173)にかの卑弥呼が遣使したという。
 卑弥呼は王朝に対して景初2年(238)と正始4年(243)の2回にわたり遣使しているが、羅の前身である辰に遣使したという記事は見当たらない(人伝および伝)。しかも173年という時代、まだ卑弥呼は女王になってはいなかったはずである(早くて後漢の霊帝の末年あたりの180年代後半と考えられている)。
 したがってこの記事は眉唾物なのだが、干支を一巡遅らせた233年なら、有り得ないことではない。なにしろ卑弥呼の活動が志に載ったのは景初2年(238)が最初であり、それ以前の事績として、羅(辰)への遣使が無かったとは言い切れないのである。

騎馬隊・・・第11代助賁尼師今の3年(232)に騎馬隊を出動させた――という記事だが、この時代にはあり得ない。232年いうのはまさに「志」の描く時代であるが、「伝」に騎馬兵の姿はない。したがってこれも干支を一巡遅らせるべきだろう。

人が大挙して侵入・・・第17代奈勿尼師今の9年(364)のこの「大挙侵入」を、私見では神功皇后の<羅征伐>に比定できると考えている。
 もちろん神功皇后が実在したことを踏まえての説である。神功皇后の出自については古事記が「応神記」の中で、古事記には珍しく神功皇后は羅より到来した「アメノヒホコ」の子孫だ、と書く。ここで珍しくと言ったのは、古事記は原則として「半島、大陸がらみの記事は記載しない」からである。
 その原則を破ってまでして神功皇后の出自は羅である、と書いたわけだが、これはどういうことだろうか?
 考え方は2通りだろう。一つは「白村江の戦い」で敗れた宿敵・羅を、羅出自の祖先を持つ神功皇后に「征伐」させて、「溜飲」を下げた――とする考え。
 もう一つは、古事記は、羅を祖国に持つ皇后が実在し、また実際に羅との国交において多大な働きをしたが故に記載せざるを得なかった――と考えるもの。
 勢い、前者は「神功皇后造作説」であり、後者は「神功皇后実在説」ということになる。
 私見では後者であり、神功皇后は実在した。ただ「息長」(古事記)、「気長」(日本書紀)と書かれた神功皇后の姓を「おきなが」と読むことには疑問を感じる。素直に「いきなが」「きなが」と読んではいけないのだろうか?
 「息長」を「おきなが」と読んで、近江の東部にある「息長村」が「息長氏」の本拠地だ、とする注釈書がほとんどだが、近江国の「息長村」は明治初期の合併後のネーミングで、それまでの地名ではなかったのである。
「息長氏=近江の息長村ホームグラウンド説」は以上から不可とする他ないのだが、それでは「いきなが」「きなが」と読んで、どこの出自と考えたらいいだろうか?
 私見では「壱岐国」である。「きなが」は「いきなが」の「い」の脱落と見て、どちらも「壱岐国」を指していると見たい。音から言って何の問題もない比定だと思う。神功皇后紀には香椎、宇美、、松浦(津)などの九州北岸と、対馬は登場するのに、その間に位置する壱岐はなんら出てこない。隠している、わざと触れないでいる―という気がしてならない。「息長」とは「壱岐長」のことであり、「長」は「中(なか)」であるから、「息長氏」とは「壱岐国の首長」ということである。この観点で「神功皇后紀」を今、鋭意読み進めているところである。

軍が侵入し、城を包囲・・・上と同じ第17代奈勿尼師今の時代だが、ほぼ30年後の38年(393)に軍が侵入し、王城である「城」を包囲して5日間も動かなかった――という。
 これは「高句麗広開土王碑」に刻まれている「が渡海して攻め入り、羅・百済・加羅を臣民化した」というのと見事に対応する。ただし広開土王碑では人侵攻を391年(辛卯の年)とするが、記載上の誤差としてよいだろう。と言うのも37年(392)に、羅は高句麗に人質を送ったことを書いており、このことは軍との戦いに対して高句麗の援助を求めているのと同義と考えられ、したがって羅が軍の攻撃に手を焼いていたことが窺われるからである。
 「高句麗本紀」の故国壌王9年(392)にも同様の記事があるので、人が渡海して半島南部を攻略しようとしたのは史実に違いない。したがって日本人による「広開土王碑」改ざん説はり立たない。

 
未斯欣を人質にする・・・ミシキンは書紀の「神功皇后紀・摂政前期」に見える「羅王の微叱己知波珍干岐(ミシコチハチンカンキ)を以って質(しち=身代わり)と為し」た、という記事中の王名と合致するように見える。
 だが、新羅本紀ではその年代を402年とするので、私見の神功皇后の治世年代とは合わない。また新羅本紀では、ミシキンが逃げ帰ってきたのを17年後とするが、神功皇后紀では治世5年目のことである。そうするとミシキンとミシコチは別人と考えるべきか? 
 羅は百済や高句麗との交渉でも、王子を人質に出すことを頻繁にやっているので、この倭国との国交においても、50年ほどの間に2度人質出すことは十分考えられる。
 この第18代実聖尼師今から20代慈悲麻立干の時代(402年~477年)は倭国ではいわゆる「の五王の時代」で、半島では百済が高句麗の南下政策により一時王城を明け渡してしまうという厳しい時代でもある。
 九州の倭国が百済からの亡命者を受け入れたのもこの頃のことであった。

※最後に登場する
 この後、500年代を迎えると、新羅本紀倭国の記事は姿を消してしまうが、660年に軍と合同で百済を滅亡させた後の665年秋に、次のような場面が出てくる。

 < 劉仁軌は、わが国の使者および百済・耽羅・人の四国の使者を引き連れて海上に出た。西方(大陸)に帰ってから会盟して泰山を祭った。>(第30代 文武王)

 ここに登場する人は、白村江の戦役で敗れた後、への降伏文書を持参した倭国の使者で、『日本書紀』天智天皇紀四年12月条に見える小錦下・守君大石や小山下・坂合部連石積等のことであろう。倭国に派遣された使は劉徳高であった。

倭国から日本へ
 同じ文武王の記述の最後の所で、倭国が日本と改名したことに触れている。

 < 倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所にに近い(から)として(日本を)名とした。 >(文武王10年12月条)

 これは西暦では670年のことになるが、中国史書『新唐書』日本伝では咸享年(670)に次の記事がある。

 < (倭国が)使いを遣わして高麗(高句麗)を平ぐるを賀す。後にやや音を習い、の名を悪(にく)み、更に日本を号とす。使者自ら言う「国日の出づる所に近し。以て名と為せり」と。或は云う「日本すなわち小国にしてを併せる所たり。故にその号を冒す」と。使者、情を以てせず、故に疑わし。 >

 文武王10年の記事はこれに対応している。

   
       
            (新羅本紀の項・終り)