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日本と朝鮮半島の歴史・・・縄文前期から5世紀、6世紀頃までと韓国の起源

日本と朝鮮半島の歴史・・・縄文前期から5世紀、6世紀頃までと韓国の起源
――― 人・文化の流れ ―――

でんひろイシダ

・崔文衡(チェ・ムンヒョン)教授の「歴史教科書に対する国内からの批判」(朝鮮日報、2005年、2006年・・・ブログ)
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k475.html
国の人材育のために、自国の歴史教育に警鐘を鳴らす。民族主義に端をする歴史の歪曲に終止符を打とうと努める歴史学の重鎮。 (ちなみに、このブログは、近・現代についてであり、以下、縄文から古墳時代・・・とは、直接的には関係しません。)

 朝鮮半島で見された前方後円墳(紀後200年~600年頃)は、朝鮮からではなく日本から朝鮮に渡った文化であると国、慶北大学の朴天秀教授は述べている。
・朝鮮半島の前方後円墳:
”これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。 また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に立したもので、 百済が南遷する前は伽耶の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった系遺物を伴うことが知られている。 国の慶北大学の朴天秀教授は、国の前方後円墳は在地首長の墓を避けるように単的に存在し、石室を赤く塗るものもあり、九州の古墳と共通点が多い為、 被葬者は九州出身の豪族だった可能性を指摘している。また、朴は、全ての文化は国から日本に渡ったし、前方後円墳だってそうだ、という反応が80年代の国ではあったが、 それは間違いで、国の前方後円墳は5~6世紀に日本から国に渡った文化を示す例と指摘している。(『朝日聞』2010年3月19日) ”脚注12― (任那日本府)

 ただ、ソウルで見された前方後円墳10数基については、 ”調査主体が考古学の調査専門機関ではないこと、掘調査ではなく地質探査技法による結果に基づいていることなどから報道内容に 疑問の声も上がっている。”(『ソウル聯合』2005年10月31日) 補足1)「このページの最下段に移動」

・前方後円墳の特徴:
”日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、 出現期より規模の巨大さを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が達し墳丘と一体化したものであると考えられている。 前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまでおよんでいる。また、近年、朝鮮半島西南部でも若干の存在が確認されている。” (前方後円墳)

 さらに時代を遡れば・・・。
・日本と朝鮮半島の土器:
”縄文前期には九州島を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島辺の他、種子島や屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、 これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことを伺わせる。また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島の高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡、 朝鮮半島の慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから見されている。縄文人が黒潮本流をえた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、 関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている。このことより当時の半島には縄文人が居住していたが、 現在の朝鮮人にY染色体D系統が存在しないことから縄文人は半島から次第に勢力を失ったと考えられる。”九州島と南島・朝鮮半島間の交流― (縄文人)
 補足2)縄文前期は縄文文化の展期で、約7000年~5500年前。補足3)「Y染色体D系統」については、最下段参照。

・以下、「世界に誇る縄文文化」より。同じ隆起線文土器。拡大写真は、リンクページで。

 左上の写真:神奈川県大和市上野遺跡出土: 縄文早期の土器・隆起線文土器、12000年前~10000年前。青森県大平山遺跡では、1万6500年前の土器が出土している。世界最古の土器である。
 右上の写真:長崎県対馬高遺跡出土: 朝鮮半島系の石器時代初期の土器、隆起線文土器、7000年前。朝鮮半島では、7000年以上前の土器は見されていない。

 また、潟県糸魚川産のヒスイ製勾玉が百済・伽耶・羅で数多く出土している。
・縄文時代・・・勾玉からみる地域交流:
”遅くとも縄文中期(5,000年前)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が見されており、 蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。 後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。”(縄文時代)

・朝鮮半島で出土した勾玉は、潟県糸魚川産と判明:
”朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川辺とミャンマーしか産地がないこと (門田誠一「国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社)に加えて、 最の化学組の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川辺遺跡のものと同じであることが判明した。(早乙女雅博/早川泰弘 「日硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会)”脚注7― (任那日本府 )

 それ以外では、縄文時代の「漆のクシ」が、鳥浜貝塚遺跡(福井県若狭)で出土している。ただ、朝鮮半島とのつながりには直接、関係しない。
・以下、「世界に誇る縄文文化」より。拡大写真は、リンクページで。
   

 上の写真:12000年前~5000年前の鳥浜貝塚遺跡出土の「赤色漆塗りクシ」。この遺跡の漆製品が、世界最古のものといわれている。

”さらに、赤色漆を全面に塗った上から、黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、 当時の高い技術による品が数多く見つかりました。”とある。 (縄文時代、弥生時代の流れを把握する上で参考になるサイト―「世界に誇る縄文文化」)

・朝鮮半島南部の倭国(日本)、諸外国の見解:
”世界各国では世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。 また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、 国南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダやオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する。 またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀前12世紀に、中国人、箕子が半島北部に建てた国だ。 その当時、半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている。中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は 「羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している。中華人民共和国の外務省は、 同省のホームページの日本史介欄で、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述していたが、 国政府からの抗議を受け、日本紹介欄から第二次世界大戦以前の日本歴史部分を全て削除した。”日本と国以外での記述― (任那日本府)

・日本書紀にみる任那日本府:
”任那日本府(みまなにほんふ)とは、日本書紀の欽明紀に記されている、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあった倭国の統治機関。 の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的。なお、「任那日本府」の表記は、国号の表記が「日本」と定まった後世に用いられるようになったものであり、 鎌倉時代末期に立したと推定される『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』では任那日本府を任那之宰(みまなのやまとのみこともち)と注釈していることから、 任那日本府が存在したとされる時代にあっては、府(やまとのつかさ)とも表記したのではないかとされる。また、日本書紀では任那官家(みまなのみやけ)という表記も見られる” (任那日本府)

 朝鮮半島で古代遺跡、土器などが数多く見され、近頃、勾玉の化学組検査まで行われるようになったが、現代の我々に何を語ろうとしているのだろうか。それは、 古代にどのような民族がその地域を治めていたか、知る手がかりを示してくれているのではないか。  さて、次は、木造建築である。

 木造建築について言えば、4世紀半ばに任那日本府(朝鮮半島南部「伽耶」紀後369年~562年)が存在していたことから、また、 羅建国(紀後356年)の王族が人で、 多くの人がその地に暮らし、王朝の重職に召抱えられていたことからして、人(日本人)が人(この人は東アジアに見られる一系統の人として決め付けないほうが無難)を 連れ立って朝鮮半島から持ち帰った文化であるといったほうがつじつまが合うだろう。

 これに関し、興味深い記事を見つけたので紹介したい。

・「日本とウクライナの木造建築」(2009.03.18):*ウクライナ=中央アジア
”3月18日(水)、ウクライナ日本センターにおいて、今回で第20回目となるUAJCフォーラムが「日本とウクライナの木造建築」をテーマに開催され、 キエフ国立建築大学助教授のガリーナ・シェフツォバ氏が講演しました。シェフツォバ女史は、文化の起源であるところの歴史と宗教について言及し、 聴衆は、キリスト教以前、その後紀後初期のウクライナにタイムスリップしました。同氏は日本とウクライナ両国の木造建築の起源、 とりわけ二つの基本要素である〈丸太〉と〈枠組み〉の展と盛衰について説明しました。・・・フォーラムでは、日本とウクライナの「納屋」を比較することによって、 両国の建築物の共通点が見出され、参加者はスクリーンに映し出される写真を見て、その共通点があまりに多いことに驚いていました。 氏は次々に写真を見せ、注釈を加え、建築の観点から説明しました。・・・加えて、両国の建築における似点は民族住居の建築に最も顕著に現れるというお話があり、 こちらも確かに、古典的な村を見ると、すぐにはどちらの国のものなのかわからないほどでした。藁葺き屋根の下の粘土壁の小屋、同様に建てられた塀、同じように 屋根の下に干されている青物に玉ねぎ、家のりに咲いている花。シェフツォバ氏によれば、住居と農業建築物のこのような似は、 日本民族もウクライナ民族も農業に従事していたことに起因しているそうです。” (第20回フォーラム「日本とウクライナの木造建築」――ウクライナ日本センター)

 朝鮮民族と木造建築との関係だが、アリラン文化を持つ朝鮮民族が、そのルーツを北方系狩猟民族にさかのぼるとすれば、木造建築は朝鮮民族の文化でないことがわかる。 また、その時代背景からして、朝鮮民族が主となって木造建築を日本に伝えたということは、まず考え難い。伝えたのであれば、任那日本府が消滅(562年)し、倭国の影響(白村江の戦い663年)が 朝鮮半島からなくなってからだろう。しかし、それでは、奈良「法隆寺」創建(607年)の年代と歴史的に矛盾する。それに、建築技術の移植は、一般の渡来人では難しく、 優秀な専門家集団(たとえば、氏=「氏と応神天皇」、あるいは、 消えた北イスラエル王国の10支族=「日本とヘブライの共通点」を想起する) の存在がなければ到底果たせないことである。

 他方、木造建築技術は、古来から日本に住んでいた人の文化であるとする見方もあるので、付け加えておきたい。
”九州から渡っていった縄文人が、半島南部に進出し、縄文土器などの先進的文化を持ち込み定住していました。 (ちなみに、その頃の日本は木造建築の技術も当進んでおり、長浜浩明氏の著書によれば「木造建築の先進性の証拠として、 1万2千年前から弥生時代まで続いた富士山の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千年前の高床式建物が出土した。この事実から、 高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も「誤」であることが確定した。そして約35センチを単位とする尺度があったとも考えられ、 奈良の法隆寺や東大寺の技術基礎はこの時代から育まれていたのである」という)” (「朝鮮語の起源は縄文人の言語」)より
 稲作文化は、弥生時代に渡来人が伝えたものではなく、縄文時代にすでに確立されていたことが、最近の調査・研究で明らかにされている。 (稲作の始まり―縄文時代または弥生時代、参照。)

・バイカル少数民族、アリラン・スリラン "言葉の使用"(ソウル=聯合ニュース 2005.08.14):
http://sports.media.daum.net/general/news/moresports/breaking/view.html?cateid=1031&newsid=20050814104013460&p=yonhap
 11日、ロシアのバイカル湖近くで、ロシアと国の研究者・専門家、100人余りが集まり、文化フォーラムを開催した。 その中でオシルハ教授は、エベンキ族が、アリラン(迎える)、スリラン(感じて知っている)を言葉として使っていることを伝え、それは、 ”古代北方シャーマニズムの葬儀文化の「魂を迎えて別離の悲しみをこらえる」という意味だったと推定される"と述べた。 遺伝子レベルでは、国人の70%ほどが、シベリア先住民のY染色体O系統(かなりしい系統)に属するという調査結果が示された。(記事原文はGoogle翻訳で可)

国外大カン・トクス教授"エベンキ人言語国語と非常に類似":http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/353.html
”(ソウル=聯合ニュース)カン・ジンウク記者=ロシアで最も広い面積を占める沙下(サハ)自治共和国の辺境に国人と似た容貌に国語と類似の言葉を使う少数民族が生きていると確認された。 8日国外国語大ロシア語課のカン・トクス教授はサハ共和国南北辺境に住むエベンキインドゥルが使うエベンキ(ツングース)語が国語と根源が同じでこれらが使う数字や一家親戚を称する単語は国語と 非常に似ていると話した。”(2010.06.08)

・ロシア、サハ共和国で国語の根を確認(上記、の記事、2010.06.08・・・記事原文はGoogle翻訳で可):
http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2010/06/07/0200000000AKR20100607151400069.HTML

 ・・・それでは、アリラン文化を民族の誇りにする朝鮮民族が、いつから朝鮮半島で主流をなすようになったのだろうか。高句麗時代(紀前37年~ 668年)か、それとも高麗(918年~1392年)からか。 主流という場合には、民族的な起源の一端が、支配する国に及ぼされるだけでは足りない。それ以上の根拠が必要になる。つまり、三国の統一と民族的主流という2つの条件である。

 高句麗は、朝鮮半島の北を支配していた国 (中国では羅、百済を独立王朝とし、高句麗は中国の地方政権とする。国では高句麗を独立王朝と主張)で、この国の民族は、ワイ貊系であった。 ワイ貊系民族は、 ”中国の黒龍江省西部・吉林省西部・寧省東部から北朝鮮東部にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族”に属し、 ”紀前2世紀の中国東北部にいた「ワイ」「貊」は、ワイ貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の国江原道にいた「東ワイ(ワイ貊)」は前漢代の中国東北部にいたワイの後裔”となる。 高句麗滅亡( 668年)後は、”後に勃興した女真の”(中国王朝1115年~1234年)に吸収されて行った流れと、それを機に 半島から日本に逃れた一派があった。他方、どちらにも属さない流れもあり、この一派は、次の高麗に大きな影響を与えたといわれる。 民族の主流はこのとき、高句麗人、即ち、高麗人となり得たか否か。

 以下、補足記事(「フルタイム」2012年10月28日)
・「高句麗は中国の属国だった」米議会の報告書に国驚愕
”米議会の東アジア歴史報告書に「高句麗は中国史」 国驚愕米国が「高句麗は中国の属国」との記述がある東アジアの歴史に関する報告書を近く刊することが判明し、国が驚愕している。”

 国では、朝鮮の建国を紀前2333年、古朝鮮(伝説上の檀君朝鮮)からだとしている。しかし、”朝鮮で自国名を「朝鮮」と称するのは、高麗以降のこと” (ウィキペディア「古朝鮮」)である。オーストラリア政府(外務部サイト)は、918年、高麗(統一は936年)=KOREAを国の起源(国では波紋が広がっている= ハンギョレ聞/2011/04/22・・・記事原文はGoogle翻訳で可)とする。 同じく高麗を国の始まりだとする人もあろうが、一般的な文献を読む限りでは、倭国・百済遺民連合軍が羅連合軍に敗れた白村江の戦い(663年)、 高句麗滅亡(668年)以降の統一羅が、一つの分岐点になるのではないか。 ちなみに、”現在、主に国国内にて朝鮮民族を民族・人と呼称するが、これは羅建国前の人とは本質的に別民族である” (羅:紀後356年~935年)とされる。 これを考えると、統一羅が、どこの民族で構された国であったかは重要である。 むろん、この視点とは別に、朝鮮という自国名が歴史に登場してから李氏朝鮮が終焉を迎えるまで、朝鮮が中国の属国に甘んじていたという史実は、念頭に入れて置く必要がある。

・・・後世、李氏朝鮮時代(1392年~1910年。1897年大帝国となる)に登場する朝鮮通信使が日本に派遣され始めた頃、 世宗の命を受けた使者が、1429年、先進技術導入のため日本を訪問している。その使者であった朴端生は、「水車」・「銀メッキ」・「紙すき」・「朱紅」などの製作・製造方法を本国に持ち帰った。 ”水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には当の技術格差があったのではないか” との見方がなされている。

 歴史資料からの考察をして、締めくくることにする。

 中国の正史、『隋書』第81巻-15によれば、「羅百済皆似為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」=「羅、百済みな、倭国を大国とみなし、珍しいものが多く、 並んで、これを敬い仰ぎ、つねに使者を往来させている」、とある。『隋書』が、書かれたのは、の時代の7世紀初頭(636年)から中頃(656年)にかけてだから、 この歴史書は、任那日本府(369年~562年)が滅んで以降のものであることがわかる。 『広開土王陵碑』には、「百残(百済)羅舊是属民由来朝貢而以辛卯年来渡海破百残(百済)・・(加羅)・羅(羅)以為臣民 」=「 もともとは、羅と百済は高句麗の属民であり、 朝貢していたが、が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・羅を破り、臣民となしてしまった」とあるので、倭国が、当時の羅、百済を治めていたと考えれば、 大国である祖国にものが溢れ、憧憬し、倭国と半島との往来が盛んであったことは、うなずけるところである。 しかし、『隋書』は、これより後の時代(羅[統一羅を除く]・百済の末期)に書かれ、白村江の戦い(663年)にも近く、それゆえ、リアルタイムに記された出来事なのか、否かは定かではない。 つまり、その内容が、人が治める羅、百済の比較的穏やかな時代を対象にしたものだったのか、どうかということである。 倭国と半島を分けて書いたことについては、時代の節目だったからか、単に地理的な捉え方をしたのかは、それほど深く追究する必要はないと思われる。

 最近、『職貢図題起』という倭国羅の関係を記す一級資料が見された。この題起には、「羅がの属国」という一節がある。 これにより、『広開土王陵碑』などと並んで、倭国が半島南部を統治していた歴史の裏づけが、もう一つ追加されたことは、確かである。(5.31'12)

・注)下線の引かれた文字部分(リンク)は、一部を除きウィキペディアを参考にした。

 (日本が、歴史の歪曲に加担するようでは、我が日本こそ、まともな人材は育たない。また、その分、真の融和は、遠のく。自虐史観を惹き起こすような誤った歴史教育は、 厳に慎むべきでしょう。歴史は真実が命、史実を曲げたら、それは歴史ではありません。)

・補足1)
【ソウル聯合】(2005年10月31日)
”KBSは31日のニュース番組で、ソウル・江東区一帯で城百済時代に作られた前方後円墳10数基が1度に見されたと報道した。 KBSではこれらを百済初期の王陵クラスの墓と推定している。前方後円墳は日本で典型的な古墳方式だが、朝鮮半島では全羅南道の栄山江流域で10基あまりが確認されるだけだ。 しかし、調査主体が考古学の調査専門機関ではないこと、掘調査ではなく地質探査技法による結果に基づいていることなどから、報道内容に疑問の声も上がっている。” http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=052005103110500 (現在、記事サイト検索不可)

・補足3)
 Y染色体D系統(YAP型とも呼ばれ古い系統)は、日本人・チベット人に特徴的な遺伝子。チベットと日本との間(大陸)にD系統=YAP型の空白地帯在り。
 日本人のY染色体による系統分析: ”D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。 この系統はアイヌ人・沖縄人・本土日本人の一部に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られないことも判明した。・・・ アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、 ・・・縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。 現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。・・・後に両者を隔てる広大な地域にアジア系O系統が広く流入し、 島国日本や山岳チベットにのみD系統が残った。”D系統(YAP型)の分布:アイヌ88%、本土日本30~40%、沖縄50%、チベット50%。 (日本人)