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春秋

五胡十六国

春秋(読み)しゅんじゅう(英語表記)Chun-qiu

しゅんじゅう ‥ジウしゅんじゅう〔ジウ〕はるあき春秋 Chūn qiū春秋(しゅんじゅう)書名
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国の五経の一つ。の隠公1 (前 722) 年から哀公 14 (前 481) 年まで 242年間のを中心とする各国の史実を編年体で簡単に記述している。孔子が史記によって1字1句の表現に賞罰の意を寓し (これを春秋の筆法という) ,王法を示したものとされ,哀公 14年にいたったとき,聖獣麟が捕えられたのを聞き擱筆したと伝えられる。代に五経の一つとなって中国史学 (春秋学) の基となり,またこの書名から春秋時代 (前 771~403) の名称が生れた。これを解説した春秋三伝 (『公羊伝』『穀伝』『左氏伝』) も経書に数えられる。
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デジタル大辞泉の解説
1 春と秋。「春秋の彼岸会」
2 年月。また、一年。「幾春秋を経る」
3 年齢。とし。「いたずらに春秋を重ねる」
4 《史書の「春秋」から》歴史書。
中国、春秋時代歴史書。五経の一。(ろ)(山東省)の史官の遺した記録に孔子が加筆し、自らの思想を託したといわれる。の隠公年(前722)から哀公14年(前481)までの12公、242年間の編年体の記録。のちに、孔子が加筆した意図を解釈し、あるいはその記事を補うために公羊伝・穀伝・左氏伝の春秋三伝が作られた。
春秋時代」の略。
1 春と秋。しゅんじゅう。
2 年月。歳月。しゅんじゅう。「平穏に春秋が過ぎる」
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百科事典マイペディアの解説

中国,古代の史書。五経の一つ。(ろ)の隠公の初年(前722年)から哀公の14年(前481年)まで12代242年間の年代記。《孟子》によれば孔子またはその門人の編纂(へんさん)(立は前5世紀初め)とされ,儒家の教科書に用いられた。簡潔な叙述をもって史実を記し,大義名分を明らかにし,それによって天下の秩序を維持しようとしたものと伝えられ,その表現法は〈春秋の筆法〉と称された。古来《公羊(くよう)伝》,《穀伝》,《左氏伝》の3解説書(三伝)がある。→四書五経
→関連項目公羊学|経書|古文|春秋戦国時代
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デジタル大辞泉プラスの解説
春秋社が行していた文芸誌、書誌PR誌。1959年創刊。2018年6月号で休刊。
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世界大百科事典 第2版の解説

中国の古典。代の国に《春秋》と呼ばれる宮廷年代記があった。このうち隠公1年(前722)から哀公14年(前481)にいたる,12公,242年間の部分に対して,孔子が独自の理念と到な論理をもって添削を施したという。こうして立した《春秋》は儒家の重要な教科書となり,五経の一つに数えられる。《春秋》には孔子の精神が寓されており,大義名分の書である,との見方を最初に提示したのは孟子である。司馬遷は《春秋》には〈人道浹(あまね)く,王道備わる〉〈万物の散聚,みな春秋に在り〉と評価する。
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大辞林 第三版の解説
①春と秋。
②年月。歳月。 「 -を経る」 「猶心胆をねる幾-/うもれ木 一葉」
③年齢。よわい。
④中国の史書(別項参照)。
[句項目] 春秋に富む ・ 春秋の争い
①中国の史書。一一巻(または一二巻)。五経の一。前480年頃立。春秋時代ろ国の年代記。隠公から哀公に至る242年間(前722~前481)にわたる事跡を編年体で記す。孔子の編集にると伝えられ、記載事実の選択、表現方法など、いわゆる「春秋の筆法」によって歴史への批判を行なったとされる。春秋時代の呼称はこの書に基づく。春秋経。
②「春秋時代」の略。
[句項目] 春秋の筆法
①春と秋。しゅんじゅう。
②年月。歳月。しゅんじゅう。 「四十あまりの-をおくれるあひだに/方丈記」
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

儒教の経典である五経の一つで、(ろ)の隠公(いんこう)年(前722)から哀公(あいこう)14年(前481)に至る、12公、242年間の国家的大事を略記した年代記。『孟子(もうし)』の「滕文公(とうのぶんこう)」下篇(げへん)に、孔子(こうし)が世道衰え、邪説横行するのを憂えて『春秋』をつくったとあることから、この書は、国の記録を基にして、孔子が制作したものとされている。『春秋』とよばれるのは、編年体の史書であるので、春秋をもって春秋冬の1年を意味したものと思われる。さらに『孟子』には、「(しん)の乗(じょう)、(そ)の檮(とうこつ)、春秋、一なり。」(「離婁(りろう)」下篇)とあり、それぞれの国の史書を、乗(行事を記録するの意)、檮(悪事を記録して戒(いまし)めとするの意)、春秋などといっていたことが知られる。『春秋』の経文はわずか1800余条、一万数千字の簡略なものであるが、その制作にあたって孔子は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)的な精神をもって、乱世をただす王法を『春秋』に託したとされている。司馬遷(しばせん)はこのことを『史記』に、「孔子、言の用いられず、道の行われざるを知り、二百四十二年の中を是非(ぜひ)し、以(もっ)て天下の儀表と為(な)す」(太史公自序)といっている。
 簡略な『春秋』の経文から、孔子の意図するものを汲(く)み取るため、各種の解釈書がつくられた。『漢書(かんじょ)』の「芸文志(げいもんし)」によると、代には左(さ)氏、公羊(くよう)、穀(こくりょう)、鄒(すう)氏、夾(きょう)氏の五伝があったが、鄒氏はそれを伝える師がなく、夾氏は書物になっておらず、他の三伝だけがあったことを伝えている。この『左氏伝』(春秋左氏伝)、『公羊伝』、『穀伝』を「春秋三伝」といっている。伝とは解釈書という意味である。三伝のうちでは『公羊伝』の立がもっとも早く、孔子の門人の子(しか)の弟子である公羊高(くようこう)がつくり、5世の孫の公羊壽(くようじゅ)が前漢景帝(けいてい)(在位前157~前141)のとき、門人胡母生(こむせい)らと問答して一書としたとされる。『穀伝』はの穀赤(せき)の制作で、荀子(じゅんし)に授けたといわれるが、『公羊伝』の伝文を引用したり、その説を是正したりしているので、『公羊伝』よりあとのものとされている。『左氏伝』は孔子の門人の左丘明(さきゅうめい)の作とされるが、作者や立年代は明らかでない。鎌田正は「子春秋学に影響された(ぎ)の史官左氏某が、紀前320年前後ころに制作したものではないか」(『左伝の立と其(そ)の展開』1963)と推考している。
 この三伝が春秋学を形するのであるが、前二者が記録された事実の内在的な意味を哲学的に究明するのに対して、『左氏伝』は史実を歴史的に明らかにしていく方法をとっている。しかし、経文と無関係な記事が多いため、『春秋』とは別個な歴史書ではないかという説もある。また(しん)の劉逢禄(りゅうほうろく)(1774―1829)は、『左氏伝』には前漢の劉(りゅうきん)の竄入(ざんにゅう)した文のあることを指摘して『左氏伝』偽作説の端(たん)を開き、これをめぐる論争が続いた。津田左右吉(そうきち)も『左伝の思想史的研究』を著して、思想史のうえから、『左氏伝』に劉一派の偽造にかかるものがあることを論述した。
 三伝は代においてそれぞれ学官にたてられ、並行して存立していたが、中以前においては『左氏伝』が優勢で、の啖助(たんじょ)、匡(ちょうきょう)らの活躍以後北(ほくそう)に至るまでは『公羊伝』や『穀伝』が優勢であった。そして当時の学風は、伝(でん)を廃して経(けい)(聖人の述作した書物)に従うことを主張したが、実際には『公羊伝』や『穀伝』の筆法によって論じていた。『左氏伝』は(しん)の杜預(どよ)(222―284)が『春秋経伝集解(けいでんしっかい)』を著して左氏学を集大した。の孔穎達(くようだつ)が勅命を奉じて『五経正義(せいぎ)』を作したとき、『春秋正義』は『左氏伝』を正統とし、杜預の注を用いた。その後、徐彦(じょげん)が『春秋公羊伝正義』(注、の何休(かきゅう)『春秋公羊伝解詁(かいこ)』)を、楊士(ようしくん)が『春秋伝正義』(注、の范寧(はんねい)『春秋伝集解』)を選し、これらは『十三経注疏(じゅうさんぎょうちゅうそ)』のなかに入れられて広く通行している。『四庫全書(しこぜんしょ)総目提要』の「春秋類敍(るいじょ)」では、『左氏伝』がの記録に基づいた史実性を評価し、春秋学の評価の目安をたてているが、他の二伝の哲学的解釈は代以後の思想界に大きく影響した。[安居香山]
『竹内照夫著『春秋』(1942・日本評論社) ▽竹内照夫訳註『全釈文大系4~6 春秋左氏伝 上中下』(1974~75・集英社) ▽鎌田正著『左伝の立と其の展開』(1963・大修館書店) ▽津田左右吉著『左伝の思想史的研究』(1935・平凡社・東洋文庫)』
[参照項目] | 春秋
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精選版 日本国語大辞典の解説

[1] 〘名〙 (古くは「しゅんしゅう」とも)
① 春と秋。
※続日本紀‐神亀年(724)一〇月壬寅「春秋二時、差二遣官人一、奠二祭玉津嶋之神明光浦之霊一」
※日葡辞書(1603‐04)「Xunxǔ(シュンシュウ)。または、Xunjǔ(シュンジュウ)」 〔礼記‐王制〕
② 一年間。一年中。一年の長さ。
※太平記(14C後)八「聖主扆(い)を負て、春秋安き時無く」 〔詩経‐頌・閟宮〕
③ 年月。歳月。星霜(せいそう)。
※菅家文草(900頃)四・白毛歎「早衰蒲柳雖二同顧一、初見春秋已過レ潘」
※山陽詩鈔(1833)一・癸丑歳偶作「十有三春秋、逝者已如レ水」
④ 年齢。とし。よわい。
※続日本紀‐養老五年(721)一二月己卯「崩二于平城宮中一。安殿時春秋六十一」
※蔭凉軒日録‐文明一七年(1485)一二月二四日「公曰、子璞春秋如何。六十歳許歟」 〔辞‐九弁〕
歴史の書。
※文華秀麗集(818)中・賦得司馬遷〈菅原公〉「続レ孔春秋、基レ軒得失明」
[2]
[一] 中国の古典。代、国の隠公年(前七二二)から哀公一四年(前四八一)までの、を中心とする歴史書。来はの史官の遺した記録であるが、孔子がこれに筆削を加え、その表現の中に彼の歴史批判を含めたものとされるところから、五経の一つとして重んぜられるようになった。のち、その本意を明らかにするため、「左氏伝」「公羊伝」「穀伝」などの解説書ができた。春秋経。
※続日本紀‐延暦四年(785)五月丁酉「春秋之義、祖以レ子貴」 〔孟子‐滕文公・下〕
[二] 「しゅんじゅうじだい(春秋時代)」の略。
※歌舞伎・文手管始(人殺し)(1789)二「土(もろこし)にては春秋の会盟」
〘名〙
① 春と秋。春や秋。しゅんじゅう。
※貫之集(945頃)一〇「はるあきに思ひ乱れてわきかねつ時につけつつうつる心は」
② 年月。歳月。また、年齢。しゅんじゅう。
※類従本堀河百首(1105‐06頃)雑「いくめぐり過しきぬらん春秋にそむる衣をうつろはせつつ〈河内〉」
※浮世草子・近代艷隠者(1686)二「十にたらぬ春秋(ハルアキ)をし程は」
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旺文社世界史事典 三訂版の解説

中国古代の (ろ) の年代記
儒学の経典とされ,五経の1つ。以前からあったこの年代記を,孔子が編纂 (へんさん) し直して大義名分を明らかにし,天下の秩序を維持しようとしたと伝えられる。の隠公年(前722)から哀公 (あいこう) 14年(前481)に至る242年間の記録。春秋時代の名称はこの書名による。これを解釈した書に『春秋左氏 (さし) 伝』『春秋公羊 (くよう) 伝』『春秋 (こくりよう) 伝』の,いわゆる春秋三伝がある。
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世界大百科事典内の春秋の言及
【公羊伝】より

…《春秋》の解説書。《春秋》は事実の客観的なしかも簡略な記録にすぎないが,そこに託された孔子の精神,いわゆる微言大義を解明している。…

春秋戦国時代】より
…この間の大部分に王室は東のに存続したので東周時代ともよぶ。また前453年で前後に二分し,前半を春秋時代,後半を戦国時代とよぶ。前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。…

【正名】より
…この名と実の正しい一致の主張には,孔子の当時の〈礼楽〉的貴族領主制の,君臣・父子の身分秩序を乱さず,孝悌道徳の壊敗を許しえぬ立場,敵対する鄧析(とうせき)(前545‐前501)らの法的平等思想を忌避する態度が表明されている。孟子は,しく編された《春秋》を孔子の正名(名分)の具現とみて,そこから〈名を正して分を定め,情を求めて実を責める〉(欧陽修)君父制を重視する尊王思想を学びとろうとした。以後,人倫道徳と政治上の視野から〈《春秋》は〈名分〉を道(い)う〉(《荘子》天下篇)と評定された。…

【啖助】より
…平生,陋巷の狭い住居に安住し粗食に満足していたという。761年(上2)ころから年来の《春秋》三伝の批判的研究を整理し始め,770年(大暦5),その業を卒(お)えたという。彼はそれまでの,《春秋》を《公羊(くよう)伝》《穀伝》《左氏伝》のいずれかによって解釈するという態度を改め,三伝の解釈を並列的に比較検討し,合理的な解釈が得られないときはみずから独自の解釈を下すという態度をとった。…

【中国文学】より
…その時代から現代にいたるまで約3000年間の文学の展を五つの時期に分けて述べよう。
【古代(西周および春秋戦国時代――前11~前3世紀末)】
 中国文学の源流は二つある。一つは史官の文学,他は巫(ふ)の文学である。…

【年代記】より
…【増田 義郎】
[中国]
 時代の甲骨文や文は,干支(日),月,祀(王の在位年)という紀時法を用いており,それによって記された記録は,年代記の始源を示唆している。年代記の体裁が最もよく整った現存する最古の書物は《春秋》で,国12代の治世の年月にしたがって当時の主要な事件を記す。《春秋》は儒家の経典の一つであるが,本来は年中行事のために作られた暦に,その年の重要事件を記入したものといわれる。…

歴史】より
代の章学誠は,儒家のいわゆる六経はもともと古代の史官の記録から起こったものだという〈六経皆史〉説を唱え,今日でも高く評価されている。この説によって考えれば,西周中期以後史官の手で作られた記録がさらに春秋末期以後儒家によって方向づけられ六経となったようである。六経のうち《詩経》は祖先の功業をたたえ族人の和合を楽しむ氏族社会の歌謡を源泉とし,《書経》は西周創業期の誥(みことのり)を中心として尭舜から先に至る王朝史の体系を構し,《礼経》(儀礼・礼記・礼)は西周の氏族儀礼と国制を基準として大同思想に基づく時代観を展開し,《易経》は日常の占筮法から出して陰陽二論による宇宙論的運動法則を導き出した。…

※「春秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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春秋時代(読み)しゅんじゅうじだい(英語表記)Chun-qiu-shi-dai; Ch`un-ch`iu-shih-tai

しゅんじゅうじだい シュンジウ‥しゅんじゅうじだい〔シユンジウ〕
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,東周 (→ ) 時代の前半をさす。の平王が都を鎬京 (こうけい) から洛陽に移した平王1 (前 770) 年から威烈王 23 (前 403) 年あるいは貞定王 16 (前 453) 年までをいう。名称は孔子が編纂したと伝えられる『春秋』に由来する。王室の東遷は異民族の犬戎の侵入のためであったから,この時代は有力諸侯が形式的には王を尊重,異民族を撃退し,中国民族を結合させようとして「尊王攘夷」を唱え,実際は諸侯を集めて同盟をつくり,その覇者として実権を握っていた。の桓公をはじめ,「春秋の五覇」と称される諸侯がそれである。やがて諸侯も実権を貴族の卿大夫 (けいたいふ) に握られ,「下剋上」の風潮が現れてきた。旧秩序が崩壊し,秩序が生れようとする過渡期で,文化・社会面に大きな展がみられる。
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デジタル大辞泉の解説
(ろ)の年代記「春秋」に記載された時代の意》中国古代、の洛陽(らくよう)への遷都(前770年)から(しん)の太夫(ぎ)・(ちょう)の三氏が諸侯に列する(前403年)までの約360年間。王室の権威が次第に衰え、諸侯は互いに対立・抗争を繰り返し、小国を併合した有力諸侯が出現。異民族の中国侵入も次いだ。「春秋」に記載された期間は前722年から前481年までだが、史家はその前後を含めていう。
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大辞林 第三版の解説

ろの年代記「春秋」に由来〕
の東遷からが三分してが独立するまでの約360年間(前770~前403)。室の権威が衰え、諸侯が抗争のうちに淘汰され、一方次ぐ異民族の侵入に対して尊王攘夷を名目として有力諸侯が糾合し覇権を唱えた。
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精選版 日本国語大辞典の解説
中国、東周の前期。紀前七七〇年の室の東遷から紀前四〇三年まで、すなわち、晉の三氏の独立によって戦国時代のはじまるまでの時代をいう。の年代記「春秋」に記載された時代の意。封建的氏族秩序の崩壊してゆく時代で、室の権威が次第に衰え、諸侯間の対立・抗争が激化し蛮族の中国侵入がついだため、有力諸侯が覇者として中原の支配にあたった。
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旺文社世界史事典 三訂版の解説

前770年室が洛邑 (らくゆう) に遷都してから,前403年三国がから分立して諸侯に列するまでの時代
春秋』が大体この時代を扱っているのでこの名がある。は洛邑付近を領し,王として尊ばれていたが,諸侯は対立抗争して近隣諸国を併合。初め140余あった国も,春秋末期には有力な国としては10余国となり,王の権威をかりて覇者が天下に号令した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
春秋戦国時代
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世界大百科事典内の春秋時代の言及
春秋戦国時代】より

…この間の大部分に王室は東のに存続したので東周時代ともよぶ。また前453年で前後に二分し,前半を春秋時代,後半を戦国時代とよぶ。前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。…

※「春秋時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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