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(前11C~前369)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
侯燮-武侯(寧族)-侯(服人)-厲侯(福)-靖侯(宜臼)-釐侯(司徒)-献侯(籍)-穆侯(費生)-殤叔-文侯(仇)-昭侯(伯)-孝侯(平)-鄂侯(郄)-哀侯(光)-小子侯(小子)-侯緡(緡)-武公(称)-献公(詭諸)-恵公(夷吾)-懐公(圉)-文公(重耳)-襄公(歓)-霊公(夷)-公(黒臀)-景公(拠)-厲公(寿曼)-悼公()-平公(彪)-昭公(夷)-頃公(去疾)-定公(午)-出公(鑿)-敬公(驕)-幽公(柳)-烈公(止)-桓公(頃)
侯燮(?~?)
  姓は姫、名は燮。またの名は燮父。叔虞の子。叔虞が亡くなると、位を継いだ。水が流れていたので、国号をと改めた。
の武侯(?~?)
  姓は姫、名は寧族。侯燮の子。燮が亡くなると、の国君の位についた。
侯(?~?)
  姓は姫、名は服人。の武侯(寧族)の子。武侯が亡くなると、の国君の位についた。
の厲侯(?~?)
  姓は姫、名は福。侯(服人)の子。侯が亡くなると、の国君の位についた。
の靖侯(?~前841)
  姓は姫、名は宜臼。在位前859~前841。の厲侯(福)の子。厲侯が亡くなると、の国君の位についた。
の釐侯(?~前823)
  姓は姫、名は司徒。在位前841~前823。の靖侯(宜臼)の子。靖侯が亡くなると、の国君の位についた。
の献侯(?~前812)
  姓は姫、名は籍。在位前823~前812。の釐侯(司徒)の子。釐侯が亡くなると、の国君の位についた。
の穆侯(?~前808)
  姓は姫、名は費生。在位前812~前808。の献侯(籍)の子。献侯が亡くなると、の国君の位についた。四年(前808)、の公女姜氏を夫人とした。七年(前805)、条の地を討伐した。十年(前802)、千畝の地を討伐した。
殤叔(?~前781)
  在位前808~前781。の献侯(籍)の子。穆侯(費生)の弟にあたる。穆侯が亡くなると、の国君の位についた。甥の仇に殺された。
の文侯(前805~前746)
  姓は姫、名は仇。字は義和。在位前781~前746。の穆侯(費生)の子。太子となった。穆侯が亡くなって殤叔が立つと、出奔した。殤叔四年(前781)、一党を率いて殤叔を襲い、自らの国君の位についた。
の昭侯(?~前739)
  姓は姫、名は伯。在位前746~前739。の文侯(仇)の子。文侯が亡くなると、の国君の位についた。年(前745)、叔父の師を曲沃に封じた。七年(前739)、大臣の潘父に殺された。
曲沃の桓叔(?~前731)
  姓は姫、名は師。在位前745~前731。の穆侯(費生)の子。文侯(仇)の弟にあたる。昭侯年(前745)、曲沃に封ぜられた。欒賓をとして迎えた。七年(前739)、潘父が昭侯を弑逆したので、の都の翼に入ろうとしたが、の国人の抵抗にあい、敗れて曲沃に帰った。
の孝侯(?~前724)
  姓は姫、名は平。在位前739~前724。の昭侯(伯)の子。昭侯が潘父に殺されると、国人に推されての国君の位についた。潘父を誅殺した。十五年(前724)、曲沃の荘伯に殺された。
の鄂侯(?~前718)
  姓は姫、名は郄。在位前724~前718。の孝侯(平)の子。孝侯が荘伯に殺されると、国人に推されての国君の位についた。
曲沃の荘伯(?~前716)
  姓は姫、名は鱓。在位前731~前716。曲沃の桓叔(師)の子。桓叔が亡くなると、跡を継いだ。孝侯十五年(前724)、翼での孝侯を殺した。の国人たちの攻撃を受け、曲沃に戻った。鄂侯六年(前718)、鄂侯が亡くなると、兵を率いてを攻撃した。の桓王が虢に命じて荘伯を討伐させたので、荘伯は逃れて曲沃に立てこもった。
の哀侯(?~前709)
  姓は姫、名は光。在位前718~前709。の鄂侯(郄)の子。鄂侯が亡くなると、の国君の位についた。八年(前710)、陘廷を攻撃した。翌年、曲沃と陘廷の軍と汾水のほとりで戦って敗れ、捕らえられた。小子侯年(前708)、曲沃の武公の命を受けた万により殺された。
の小子侯(?~前705)
  姓は姫、名は小子。在位前709~前705。の哀侯(光)の子。哀侯が曲沃に捕らえられると、の国君に立てられた。四年(前705)、曲沃の武公に誘い出されて殺された。
侯緡(?~前679)
  姓は姫、名は緡。在位前705~前679。の鄂侯(郄)の子。哀侯(光)の弟にあたる。小子侯が殺され、曲沃の武公が虢仲に攻められて曲沃にもどると、緡がの国君に擁立された。二十八年(前679)、曲沃の武公に敗れ、殺された。
の武公(?~前677)
  姓は姫、名は称。在位前716~前677。曲沃の荘伯(鱓)の子。荘伯が亡くなると、跡を継いだ。の哀侯九年(前709)、軍を汾水のほとりで攻撃し、哀侯を捕らえて殺した。小子侯四年(前705)、の小子侯を誘い出して殺した。このための討伐を受けて曲沃に戻った。侯緡二十六年(前679)、侯緡を攻め滅ぼし、の宝器をの釐王に献上した。武公はの国君に任ぜられ、諸侯に列した。
の献公(?~前651)
  姓は姫、名は詭諸。在位前677~前651。の武公(称)の子。武公が亡くなると、の国君の位についた。五年(前672)、驪戎を攻め、驪姫とその妹を得て、ふたりを寵愛した。八年(前669)、士蔿の進言に従って、の公子たちの多くを誅殺した。聚に邑を築いて都とし、絳と名づけた。十二年(前665)、驪姫が奚を産むと、太子の申生を曲沃に、公子の重耳を蒲に、公子の夷吾を屈にうつさせた。十九年(前658)、虞に道を借りて虢を攻め、下陽を奪った。二十一年(前656)、驪姫に陥れられて、申生は自殺し、重耳は蒲に、夷吾は屈に立てこもった。翌年、重耳は翟に出奔した。同年、は再び虞に道を借りて虢を攻め、虢を滅ぼし、帰途に虞を滅ぼした。二十三年(前654)、覃華に屈を攻撃させ、夷吾がに逃れた。二十六年(前651)、の桓公が主宰する葵丘の会に参加するべく出したが、途中で病にたおれて帰国した。荀息に奚のことを委ねて没した。
の恵公(?~前637)
  姓は姫、名は夷吾。在位前651~前637。の献公(詭諸)の子。献公十二年(前665)、屈にうつった。二十一年(前656)、驪姫に陥れられて、屈に立てこもった。二十三年(前654)、覃華に屈を落とされ、に逃れた。二十六年(前651)九月、献公が亡くなると、奚が立ったが、まもなく里克らが奚を殺した。荀息が奚の弟の卓子を即位させたが、十一月に里克が卓子を殺した。夷吾はの穆公に河西を割譲することを約束し、軍に護されてに帰国して、即位した。恵公年(前650)、との約束を破って河西の地を渡さず、また里克を自殺させた。邳をはじめ七人の大夫を殺したため、国人の心服がえられなかった。四年(前647)、は不作となり、の穆公に書を送って穀物を貸してもらった。翌年、が不作となったため、の穆公が穀物を求めたが、恵公は虢射の計をいれて穀物を与えず、兵をしてを攻めようとした。六年(前654)、の穆公が軍を率いてを攻めた。軍と軍は原で会戦し、軍は敗れて恵公はに捕らえられた。恵公の姉がの穆公の夫人となっていたので、その取りなしで帰国できることとなり、恵公と穆公は王城で盟を誓った。帰国後、大夫の慶を誅殺した。また太子の圉をに送って人質とした。
の懐公(?~前637)
  姓は姫、名は圉。在位前637。の恵公(夷吾)の子。恵公がにいたとき生まれた。恵公がに帰国して即位すると、太子となった。恵公八年(前643)、人質してに出された。十三年(前638)、から脱出した。翌年、恵公が亡くなると、の国君の位についた。重耳がの援助をえて帰国すると、欒枝・郤穀らが内応し、懐公は高で殺された。
の文公(前697~前628)
  姓は姫、名は重耳。在位前637~前628。の献公(詭諸)の子。若いころから、衰・狐偃・華佗・先軫・武子などの賢臣を従えていた。献公には申生・重耳・夷吾の三人の有力な公子があった。献公は驪戎を攻めて得た驪姫を寵愛し、その子の奚を太子にしようと望んだ。三人の公子は、驪姫に陥れられて、申生は自殺し、重耳は狄に、夷吾はに出奔した。献公の病没後、では叛乱が起こって奚は殺されたため、の援助をえた夷吾が即位した(の恵公)。国人の信服が得られない恵公は、狄の重耳のもとに刺客を送り込んだ。重耳はを目指し、放浪の旅に出た。の五鹿では、空腹のあまり農民に食物を乞うたが、土を盛って差し出された。重耳は怒ったが、衰が「封土を得るということです」といさめたため、拝礼してそれを受けた。重耳はに着くと、桓公(小白)にもてなされ、妻としてめあわされたの公女を愛して安逸を貪った。動こうとしない重耳に業を煮やした臣下たちは、の公女の協力を得て、重耳を酔いつぶし、出させた。では共公が重耳を冷遇し、その一枚肋を見物しようとした。では襄公により重耳は手厚くもてなされた。の文公は重耳に冷ややかだった。は重耳を諸侯の格式でもてなした。重耳は戦場で「三舎を避く」ことをに約束した。恵公十四年(前637)、の恵公が病床につくと、重耳はの援助をえてに帰国し、国君として立てられた。このとき六十二歳。国内を平定し、功臣に行賞をあたえた。を攻めたときは、を救った。またが追撃戦をしかけると「三舎を避く」の約を守った上でこれを撃破した。など、冷遇した国々には、仇を返した。文公は王によって覇者に任ぜられた。
の襄公(?~前621)
  姓は姫、名は歓。またの名を驩。在位前628~前621。の文公(重耳)の子。文公が亡くなると、の国君の位についた。年(前627)、・滑を攻めたので、襄公は喪服を黒く染めて、軍と殽山で戦って勝利した。母の文嬴の言を容れて、三軍を解体した。三年(前625)、に汪を奪われた。翌年、の穆公が大軍をし、黄河を渡って王官を奪った。軍は守りを固めて出なかった。五年(前623)、を攻撃して城を奪った。翌年、衰が亡くなり、盾が政務にあたった。七年(前621)、軍を廃止し、三軍を復活した。
の霊公(?~前607)
  姓は姫、名は夷。在位前621~前607。の襄公(歓)の子。襄公が亡くなると、の国君の位についた。奢侈を好み、宮室を増築させ、増税でそれらをまかなった。弾丸を庶民に撃ちかけ、楼閣の上から見物してそれを楽しんだ。熊の掌が煮えていないという理由で料理人を殺し、その遺体を婦人に運ばせて朝廷の前を通りすぎた。盾や随会らがしばしば諫めたが聞き入れなかった。盾を殺そうとはかり、伏兵をしいたが、察知された。盾が亡命しようと国境をえる直前、盾の従兄の子の穿が霊公を殺した。
公(?~前600)
  姓は姫、名は黒臀。在位前607~前600。の文公(重耳)の子。襄公(歓)の弟にあたる。霊公が穿に殺されると、盾にから迎えられて帰国し、の国君の位についた。年(前606)、卿の嫡子を公族とし、田邑を分与した。三年(前604)、を攻めると、荀林父を派遣してを救わせた。六年(前601)、盾に代えて郤缺に執政させた。翌年、荀林父に諸侯の軍を率いさせを攻めさせた。
の景公(?~前581)
  姓は姫、名は拠。またの名を獳。在位前600~前581。公(黒臀)の子。公が亡くなると、の国君の位についた。年(前599)、についたため、と結んでを攻め、を再びにつかせた。三年(前597)、荀林甫が軍を率いて、邲でと戦い、大敗した。翌年、先穀が翟と図ってを攻めようとしたため、その一族を滅ぼした。十一年(前589)、郤克・栾書・厥らにを攻めさせ、軍を鞍で大いに破った。翌年、の六軍を編した。十四年(前586)、虫牢で諸侯と会し、盟を結んだ。十六年(前584)、馬陵で諸侯と会し、盟を結んだ。のちに病にかかり、の名医緩の治療を受けたが、そのかいなく薨じた。
の厲公(?~前573)
  姓は姫、名は寿曼。またの名を州蒲。在位前581~前573。の景公(拠)の子。景公が亡くなると、の国君の位についた。年(前580)、の桓公と黄河をへだてて盟を交わした。の桓公が帰国すると、盟約を破った。六年(前575)、を攻めた。を救わんとする軍を鄢陵で破り、威は諸侯に鳴り響いた。のちに驕奢淫逸にふけり、多くの夫人をめとり、大夫たちとは疎遠になった。大夫の郤錡・郤犫・郤至らを殺し、代わって寵姫の兄弟たちを重用した。ついに栾書・荀偃らに拭された。
の悼公(前586~前558)
  姓は姫、名は。またの名を糾。在位前573~前558。の恵伯談の子。襄公(歓)の曾孫にあたる。栾書・荀偃が厲公を殺害すると、迎えられての国君の位についた。文公の覇業を恢復せんと志し、賢者を任用し、内治を整え、諸侯と会盟し、戎狄と和を結んだ。たびたびを攻めて戦った。十一年(前562)、諸侯とともにを攻め、に盟を誓わせた。の救援を名目に侵攻してくると、軍は櫟で戦ってに敗れた。十四年(前559)、櫟の敗戦に報復するため、諸侯を率いてを攻めたが、功なくして兵を退いた。征戦に明け暮れるあいだに、国内では卿族の力が増大していた。
の平公(?~前532)
  姓は姫、名は彪。在位前558~前532。の悼公()の子。悼公が亡くなると、の国君の位についた。年(前557)、諸侯と会し、邾・莒がしばしばを侵したので、邾君と莒君を捕らえた。まもなく荀偃・栾黶らを派遣してを攻めさせ、湛阪で軍を破った。三年(前555)、諸侯を率いてを攻め、都を囲んだ。翌年、諸侯と督揚で会し、大国が小国を侵略してはいけないと取り決めた。五年(前553)、また諸侯と澶淵で盟を交わした。十二年(前546)、弭兵の盟に参加した。賦税を重くし、淫逸を好んだ。晩年、虒祁宮を建てて民力を消耗し、六卿の権門が政治を掌握するようになった。
の昭公(?~前526)
  姓は姫、名は夷。在位前532~前526。の平公(彪)の子。平公が亡くなると、の国君の位についた。二年(前530)、荀(中行穆子)に肥を滅ぼさせ、また鮮虞を攻めさせた。翌年、諸侯と平丘で会し、叔向の計を容れて兵車四千乗で威を示した。知氏・氏・氏・氏・范氏・中行氏の六卿の勢力が強く、の公室は弱体化した。
の頃公(?~前512)
  姓は姫、名は去疾。在位前526~前512。の昭公(夷)の子。昭公が亡くなると、の国君の位についた。年(前525)、荀(中行穆子)に陸渾の戎を討たせて滅ぼした。六年(前520)、の景王(姫貴)が崩じ、諸王子が位を争ったので、の六卿が出兵して王室の紛争をおさめ、敬王(姫匄)を立てさせた。九年(前517)、諸侯と黄父で会した。翌年、兵を率いての敬王を雒邑に送った。十二年(前514)、祁氏・羊舌氏が六卿に滅ぼされた。朝・固らを大夫とし、六卿が強盛となり、公室の勢力は弱体化していった。十三年(前513)、刑鼎を鋳造し、范宣子の定めた刑書を頒布した。
の定公(?~前475)
  姓は姫、名は午。在位前512~前475。の頃公(去疾)の子。頃公が亡くなると、の国君の位についた。二年(前510)、諸侯を率いて(洛邑)の城を修築した。六年(前506)、諸侯と召陵で会し、を攻めることを決めたが、荀寅(中行文子)がの昭侯から賄賂を取ろうとして得られず、また士鞅(范献子)が出兵を断るよう勧めたので、は諸侯の信頼を失った。十五年(前497)、鞅(簡子)が午の背約を責めて殺すと、稷が邯鄲に拠って叛き、范吉射(范昭子)と荀寅が鞅を攻めた。荀躒(知文子)・不信(簡子)・曼多(襄子)が定公を奉じて范吉射と荀寅を攻めた。范吉射と荀寅は敗れて朝歌に逃れた。翌年、が范氏と中行氏の乱を支援して出兵し、都の絳にいたったが、利なく撤退した。このの内戦は、范吉射と荀寅がに亡命する二十二年(前490)まで続いた。三十年(前482)、王夫差・の哀公・の単平公らと黄池で会した。と血をすする順番を争い、盟約がまとまらないまま終わった。
の出公(?~?)
  姓は姫、名は鑿。在位前475~前452。の定公(午)の子。定公が亡くなると、の国君の位についた。このころ公室の力が弱まり、知氏・氏・氏・氏・范氏・中行氏の六卿が国政を握っていた。十七年(前458)、知伯が氏・氏・氏とともに范氏と中行氏を滅ぼし、その地を分け取りにした。出公は怒って、の出兵を請い、四卿を討とうとしたが、かえって四卿に撃ち破られて、に逃れた。のちに帰国したが、公の勢力はさらに弱まっていた。二十二年(前453)、氏・氏・氏が知伯を殺し、その地を三分して、の三分の形勢ができあがった。翌年、出公はに逃亡した。
の哀公(?~前434)
  の懿公とも。姓は姫、名は驕。在位前452~前434。の姫忌の子。昭公の曾孫にあたる。出公(鑿)が亡くなると、の国君の位についた。の国政は知伯に専断されており、哀公は口をはさむことができなかった。四年(前453)、襄子・康子・桓子が協力して知伯を殺し、その領土を分割した。
の幽公(?~前416)
  姓は姫、名は柳。在位前434~前416。の敬公(驕)の子。敬公が亡くなると、の国君の位についた。公室は衰微し、幽公はおそれて、氏・氏・氏の朝に出仕した。公はわずかに絳と曲沃を保持するのみで、ほかはの領するところであった。のちに夜に外出して婦人と密会していたところ、盗人のために殺された。一説に夫人の嬴に殺されたという。
の烈公(?~前389)
  姓は姫、名は止。在位前416~前389。の幽公(柳)の子。一説に幽公の弟ともいう。幽公が殺されると、の国君の位についた。十三年(前403)、の威烈王がを諸侯として認めた。
の桓公(?~前369)
  姓は姫、名は頃。在位前389~前369。の烈公(止)の子。烈公が亡くなると、の国君の位についた。の三卿がすでに諸侯となり、桓公は三卿の朝に出仕した。二十年(前369)、により屯留にうつされ、ここに国は滅んだ。

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⇒歴代皇帝(,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,明,
西晋(265~316)] Western JIN
司馬炎(236~290)
  字は安世。西晋の初代武帝(Wudi)。廟号は世祖。在位265~290。河内郡温県の人。司馬昭の長男。司馬懿の孫にあたる。咸煕二年(265)に司馬昭が没すると、王および国の位を継いだ。同年の十二月に帝から禅譲を受け、帝位に就いた。国号をとした。が宗室を圧迫して皇室を孤立させた失敗を考慮して、親族に大封を与えた。羊祜を荊州に派遣して、の陸抗に対抗させた。また王濬に益州で水軍を整備させた。羊コが没すると、杜預に代え、賈充を大都督として二十万の兵を南征させた。太康年(280)、王濬に石頭城を攻めさせて、主・孫晧を捕らえ、天下は統一された。地方の武備を縮小し、屯田を廃して占田・課田法を制定した。また税制として戸調式を布。九品官人法をさらに整備した。晩年になると、後宮に美女一万人を集め、女色に溺れたという。
司馬衷(259~306)
  字は正度。西晋の二代恵帝(Huidi)。在位290~306。武帝(司馬炎)の次男。泰始三年(267)、皇太子に立てられた。永煕年(290)、帝位につき、皇后の賈氏に政権を握られた。八王の乱が起こって、しばしば玉として担ぎ上げられ翻弄された。永康二年(301)、王司馬倫により廃位され、永昌宮に幽閉された。まもなく司馬倫が殺されて、復位した。永安年(304)、東海王司馬が帝を奉じて鄴を攻めたところ、都王司馬穎に敗れて帝は捕らえられた。まもなく司馬穎は王浚に敗れたため、帝を連れて洛陽に逃げた。のち張方により長安に移された。光煕年(306)、司馬の部将祁弘が長安を攻めて、恵帝を奪い返し、洛陽に帰還した。のち餅による食中毒で崩じた。毒殺されたともいう。かつて恵帝は華林園で蝦蟇の声を聞いて、「この鳴いているのは、君か?私か?」。天下が乱のため荒廃して穀物が取れず、人民が餓死していると聞いて、「どうして肉を食わないのだ?」。
司馬熾(284~313)
  字は豊度。西晋の三代懐帝(Huaidi)。在位306~311。武帝(司馬炎)の二十五男。太煕年(290)、豫章郡王に封ぜられた。八王の乱のときは、交遊もたえてせず、世事と関わらなかった。はじめ、散騎常侍をつとめた。永興年(304)、鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事に任ぜられ、皇太弟に立てられた。光煕年(306)に即位したが、東海王司馬に政権を握られた。永嘉五年(311)、将の劉曜が洛陽を陥落させたため、捕らえられて平陽に連行された。により会稽公に封ぜられた。七年(313)、主劉聡が宴会を開くと、青衣を着て酌をさせられた。まもなく殺された。
司馬鄴(300~317)
  字は彦旗。西晋の四代愍帝(Mindi)。在位313~316。孝王司馬晏の子。はじめ王に封ぜられた。永嘉五年(311)、劉曜が洛陽を陥落させると、長安に逃れて、皇太子に立てられた。懐帝の死後、即位した。建興四年(316)、劉曜が長安に迫ると、降伏して捕らえられ、平陽に連行された。主劉聡により光禄大夫に任ぜられ、懐安侯に封ぜられた。翌年、劉聡は、猟に出るとかれに戟をもって先導させ、宴会があると酌をさせ杯を洗わせて、かれを辱めた。まもなく殺された。

[東(317~420)] Eastern JIN
司馬睿(276~322)
  字は景文。東の初代帝(Yuandi)。廟号は中宗。在位317~322。河内郡温県の人。司馬覲の子。母は氏。司馬懿の曾孫にあたる。十五歳のとき、父の跡を継いで琅邪王となった。恵帝が即位すると、員外散騎常侍に任ぜられ、左将軍に進んだ。永興年(304)、都王・司馬潁討伐に従ったが、敗れた。王導の勧めにより、八王の乱のうち続く都を逃れ、山東の封国に帰った。永嘉年(307)、安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられて、建康に鎮した。愍帝のとき、丞・大都督中外諸軍事となった。五胡の乱が起こり、建興四年(316)には劉曜に愍帝が捕らえられて、西晋は滅亡した。翌年、司馬睿は王となり、建武と改した。建武二年(318)、愍帝の死報が伝わると帝位につき、朝を復し、建康に都を置いた(東)。旧都・洛陽を回復しようと試みたが果たせなかった。永昌年(322)、王導の従兄・王敦が叛乱を起こし、その叛乱を鎮圧する前に崩じた。
司馬紹(301~325)
  字は道畿。東の二代明帝(Mingdi)。廟号は粛宗。在位322~325。帝(司馬睿)の長男。幼いころから聡明で、帝はことのほか彼を愛した。建興初年、東中郎将に任ぜられ、広陵に鎮し、皇太子に立てられた。王敦はかれを嫌って廃そうと謀ったが、未遂に終わった。帝が崩ずると、位を継いだ。王導の輔政を受け、諸将を監督して王敦の乱の平定にあたらせた。王敦が病没して、まもなく乱は静まった。陶侃・王舒にそれぞれ荊州・広州を担当させ、上流の勢力を分けた。
司馬衍(321~342)
  字は世根。東の三代帝(Chengdi)。廟号は顕宗。在位325~342。明帝(司馬紹)の長男。太寧三年(325)、明帝が崩ずると、年五歳にして即位し、咸和と改した。母の庾太后が朝政を執った。王導・庾亮が輔政にあたった。咸和二年(327)、蘇峻・祖約の乱が起こると、捕らえられて石頭城に移された。四年(329)、乱は平定された。後趙が強盛で、庾亮が北伐して失敗した。領内の豪族・貴族たちが、各地の山川を私領化していたため、咸康二年(336)に壬辰詔書を下して、これを禁じた。七年(341)、土断をおこなって、王公以下を戸籍に編入した。
司馬岳(322~344)
  字は世同。東の四代康帝(Kangdi)。在位342~344。帝(司馬衍)の弟。はじめ王に封ぜられ、のち琅邪王に改封された。咸康五年(339)、侍中・司徒に累進した。八年(342)、帝の病が篤くなり、詔により後嗣に定められた。帝が崩ずると、帝位につき、建と改した。政務を庾冰・何充に委ねた。まもなく庾氏が政権を掌握した。
司馬耼(343~361)
  字は彭子。東の五代穆帝(Mudi)。廟号は孝宗。在位344~361。康帝(司馬岳)の子。建二年(344)、二歳で即位し、永和と改した。褚太后が朝廷にのぞんで摂政にあたった。庾冰・何充が次いで没し、武陵王司馬晞・会稽王司馬旻らが政務にあたった。升平年(357)、褚太后が政権を返した。
司馬丕(341~365)
  字は千齢。東の六代哀帝(Aidi)。在位361~365。帝(司馬衍)の長男。はじめ琅邪王に封ぜられた。升平三年(359)、驃騎将軍に任ぜられた。五年(361)、穆帝が崩ずると、帝位につき、隆和と改した。興寧二年(364)三月の庚戌の日に、桓温らが中心となって土断を励行した。庚戌土断と称される。長生薬を服用して中毒となり昏迷におちいったため、褚太后が朝廷にのぞんで摂政にあたった。三年(362)、没した。
司馬奕(342~386)
  字は延齢。東の七代廃帝。在位365~371。帝(司馬衍)の末子。哀帝の弟。咸康八年(342)、東海王に封ぜられた。升平五年(361)、琅邪王に改封され、侍中・驃騎大将軍・開府をつとめた。興寧三年(365)、哀帝が崩ずると、帝位を継いだ。桓温が専権をにぎり、北伐をおこなったが、枋頭で敗れて失敗した。太和六年(371)、廃位されて東海王となった。翌年、海西県公に落とされた。県西柴里に移された。盧悚が皇太后の密詔を受けたと称して、復辟をはかろうとしたが、従わなかった。毎日飲酒にふけって、屈辱に耐えつつも、難を避けた。において没した。
司馬昱(321~372)
  字は道万。帝(司馬睿)の末子。東の八代簡文帝。廟号は太宗。在位371~372。幼くして聡明で、帝に愛された。永昌年(322)、琅邪王に封ぜられた。咸和年(326)、会稽王に改封され、散騎常侍に任ぜられた。永和年(345)、撫軍大将軍・録尚書六条事に進んだ。八年(352)、司徒となる。太和年(366)、丞・録尚書事となった。太和六年(371)、廃帝(司馬奕)が廃されると、桓温に迎えられた。帝位につき、咸安と改した。桓温が実権を握り、帝は位を保つのみであった。
司馬曜(362~396)
  字は昌明。東の九代孝武帝(Xiaowudi)。廟号は烈宗。在位372~396。簡文帝(司馬昱)の三男。はじめ会稽王に封ぜられ、咸安二年(372)に皇太子に立てられた。簡文帝が崩ずると、帝位についた。翌年、寧康と改した。桓温が没すると、褚太后が摂政にあたった。王彪之を尚書令とし、謝安を尚書僕射とした。太年(376)、親政をはじめ、謝安に中書監・録尚書事を加えた。八年(383)、淝水の大戦で、謝玄・謝石・劉牢之らが前秦の苻堅の軍を大いに破った。酒色にふけり、会稽王司馬道子を重用して、西府との不和をきたした。のち酒による急性中毒で没した。
司馬徳宗(382~418)
  東の十代安帝(Andi)。在位396~418。孝武帝(司馬曜)の長男。太二十一年(396)、孝武帝が崩ずると、即位し、隆安と改した。幼くして知恵遅れで口が利けなかったという。朝政は会稽王司馬道子が専断した。桓玄が建康を占領し司馬道子を放逐すると、桓玄に政権を握られた。興二年(403)、桓玄が簒奪し帝を称すると、廃されて平固王に落とされ、尋陽に移され、さらに南郡・江陵に移された。桓玄が劉裕に敗れると、復位し、政権は劉裕に帰した。義煕十四年(418)、劉裕により殺された。
司馬徳文(386~421)
  東の十一代恭帝(Gongdi)。在位418~420。孝武帝(司馬曜)の子。安帝(司馬徳宗)の弟。はじめ琅邪王に封ぜられた。桓玄が帝を称すると、石陽県公に落とされた。乱が平定されると、復爵し、大司馬・司徒に任ぜられた。劉裕の北伐に随行して、後秦が滅びると、帰京した。義煕十四年(418)、安帝が崩ずると、帝位についた。煕二年(420)、帝位を劉裕に譲り、零陵王に封ぜられて、秣陵に移った。翌年、殺された。
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