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朝鮮の先史時代

旧石器時代
 
 
 
 前期旧石器文化
 
 前期の年代は未だ特定されていないが、前期の遺跡の一つである全谷里遺跡を火山灰の分析、熱光測定、ポタシウム・アルゴン法など、さまざまな年代測定法を用いて分析した結果、約30万年前から4万5000年前という数値がでた。それ以外の遺跡では、10万年から6万年前という結果が出ている。
 
 この時代は、石英や珪石で作られた握斧、打割器、横刃斧、ピックといった打製石器が主流であった。石器の形が定まっていないのも特徴であり、忠道以北で握斧が多く出土し、南部にいくほど、出土数は減り、形が定まり左右のバランスがとれた握斧が少なくなる。そのほかに小型剥片を活用した削器も確認されている。
 
 見されている前期の遺跡のうち、最も年代が古いと考えられているのが全谷里遺跡である。この遺跡では、アジアで初めて前期旧石器時代の典型的な握斧が出土し、東アジアは打割器文化圏に属するという常識を覆すことになった。
 中期旧石器文化
 下記のように、中期旧石器時代の特徴であるルヴァロア技法が朝鮮半島においては確認されておらず、資料も不足しているため、現時点では中期の設定は困難である。
 なお、長崎県にある入口遺跡の中期旧石器時代の石器は、国の竹内里遺跡の中期旧石器に類似している。そのため、入口遺跡の中期石器は朝鮮半島の影響を受けていると考えられている。
 後期旧石器文化
 
 後期旧石器時代は、現生人類であるホモ・サピエンスが現れ、石刃を利用した石刃文化の時代で、3万5000年前から1万年前に当たる。
 朝鮮半島の石刃技法で特徴的なのは、欧州や中東では、ネアンデアルタール人とホモ・サピエンスが交代する形で、それまでのルヴァロア技法と石刃技法の交代が行われたが、朝鮮半島ではルヴァロア技法が確認されず、後期旧石器時代になっていきなり石刃技法が現れている。朝鮮半島の石刃技法は、石英で出来た石器から達したのではなく、シベリアの石刃石器群にルーツがあるという説も唱えられている。
 この時代は石刃文化とは別に細石刃文化というものが存在しており、細石刃は、非常に小さいため石刃のように、それ単体では用いることは出来ず、木、あるいは骨などで出来た柄や軸などに付けて使用された。これら石刃は、石刃を製作しやすい頁岩や泥岩で作られており、当時の人々はこれらを利用して狩猟を営んでいたと考えられている。
 
 これら石刃の出土する石器群は朝鮮半島全土で出土しており、その代表的な遺跡の一つである垂陽介遺跡の後期旧石器時代の層からは、珪質頁岩などでつくった石刃石核と大量の石刃が確認された。石英製の石器は殆ど出土しなかった。この遺跡からは、石刃や細石刃以外にも両面調整石器、剥片尖頭器、チョッパー、掻器、削器、スキー状削片、彫器、楔形細石刃核などが見された。これら遺物の年代は、約1万4000年前だと測定されている。
 
 もうひとつの代表的な遺跡が、古礼里遺跡である。ここでも、石刃技法を用いた石器群が出土し、他にも剥片尖頭器、石錐、彫器、抉入石器、掻器が出土している。遺物の年代は2万年前から1万7000年頃と測定されている。剥片尖頭器は朝鮮半島で大量に見されているが、この剥片尖頭器は2万5000年前の噴火による火山灰の層よりも下から見されており、朝鮮半島においても最古のものとされている。日本においては、九州で尖頭器が集中して出土しており、技術の比較検討によって、朝鮮から日本列島に進出した人々が尖頭器をもたらしたと考えられている。
 2010年6月13日に放映されたNHKハイビジョン特集「私たちはどこから来たのか」では、2000年に国大田広域市、龍湖洞で、九州の剥片尖頭器より遥かに古い、40000年前の剥片尖頭器が出土し、剥片尖頭器が朝鮮半島から九州に伝わったことは確実となった。
 旧石器時代の人々
 
 現時点で、朝鮮半島において猿人や原人の骨は見されていないが、旧人、人の骨は出土している。現時点での最古の人骨は平壌の力浦区域で出土したもので、その地にちなんで力浦人と呼ばれている。
 また、平安南道徳川市では、下層から旧人、上層からは人の骨が出土した。旧人は徳川人、人は勝利山人と呼ばれている。旧人の年代は約20万年前と測定されている。
 平壌の勝湖区の遺跡からも人の骨が見されており、晩達人と呼ばれている。他にも忠道などで旧石器時代の人骨が見されている。このように朝鮮半島北部から中部にかけて化石人骨が見されているが、大抵の場合、骨の一部が見されるだけであり、当時の人々の研究については、今後の資料、データの蓄積を待たなければならない。
 
 彼らは狩猟や漁労、植物の採集などで生活しており、血縁に基づく氏族集団を形していたと考えられている。
 
 従来の通説では、日本列島にやってきた日本人の祖先は、やがて縄文人と呼ばれるようになり、その後、約2900年前以降、渡来系弥生人が日本列島に来て先住の縄文人と混血し現代の日本人に繋がる人々になったとされてきたが、ここで言われる縄文人というのは南方という特定のルートに起源を持つ均一な集団であった。
 しかしながら、近年研究が進歩し、「均一な縄文人」という通説は覆されることになった。
 まず、DNAの分析により、縄文人は起源の異なる様々なタイプの人々がいた。また、最人類学の研究では、従来、縄文人の先祖だと言われてきた沖縄の港川人が九州以北の縄文人と繋がりがないことが判明した(ただ、沖縄の縄文人の祖先なった可能性はある。沖縄の縄文人は、日本本土の縄文人とは文化的にも身体的にも異なっていた)。日本本土の縄文人が南方起源だという可能性は消えた今、本土の縄文人は北方のシベリア、朝鮮半島という二つの起源を持つと考えられている。北海道、東北の縄文人はおよそ2万年前、シベリアからマンモスを追ってやって来た集団を祖先としていると考えられている。関東以西の縄文人は朝鮮半島から来たと考えられている。2万9000年前の姶良カルデラ(現在の桜島も含む)における大噴火で生した巨大な火砕流が九州を襲い、その結果、当時そこに暮らしていた多くの人々は死滅、人口が激減したところに、剥片尖頭器をもったたな人々が朝鮮半島から進出し生活をするようになったのである。また、6000年前の石器時代の朝鮮半島の人骨と九州北部の縄文人の人骨は外耳道骨腫など共通の特徴を有して非常に似ていることも判明している。
 従来、朝鮮半島からの人々の進出は、弥生時代以降とされていたが、実のところ、石器時代はもちろん、旧石器時代から行われていたことが判明した。
 動植物
 朝鮮半島は、殆ど氷河に覆われることがなかったため、メタセコイアなどの植物が生い茂っており、マンモスも朝鮮半島まで南下していた。他にもビーバーやオオツノシカ、水牛の化石が勝利山遺跡から見されている。