朝鮮三国時代
紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。
さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。
しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!
ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。
この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。
高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。
そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。
唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。
そして、668年に新羅は高句麗も滅ぼしました。
しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きますが、676年に平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。
*BC100年頃 中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。
三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。
馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。
弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。
辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。
*BC57年 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)(혁거세)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。
*BC37年 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。
*BC18年 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。
*AD313年 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。
*AD676年 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。
*698年 中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。
渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。
*9~10世紀頃 繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。
9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。
そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。
即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。
*936年 こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。
王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/tyousennsanngoku.html
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朝鮮半島の歴史(東アジア-朝鮮-先史時代) | ||||
313 | 漢直轄支配→三国時代[313-676](東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
313 | 高句麗、楽浪郡を滅亡させる国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
313 | 三国時代高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
313 | 高句麗,楽浪郡滅亡させる漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。高句麗による楽浪郡の滅亡紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(東アジア-朝鮮、高句麗、楽浪郡-) | |||
313 | 高句麗、楽浪郡を滅ぼす新羅、百済の建国(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、百済-高句麗) | |||
313 | 高句麗、楽浪郡、帯方郡を滅亡させる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
313 | 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
314 | 314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国)(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-) | |||
314 | 高句麗,帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
314 | 314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国)よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、晋宋梁陳隋唐-) | |||
315 | 百済の責稽即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
321 | 百済の汾西即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
324 | 百済の比流即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
331 | 第16代高句麗王故国原王(331~371) 大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
333 | 成務333-356(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
334 | 契王即位ケイ(汾西王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
337 | 新羅の使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
342 | 前燕、高句麗を攻略(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
344 | 第11代百済王契王(344~346) 新羅、倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
345 | 新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 百済の契即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 倭兵・新羅の風島を襲い、進んで王城を囲む(三国志記)(東アジア-朝鮮、新羅、日本-古墳時代) | |||
346 | 百済の建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | '■前期漢城時期(?475年) 中国が五胡十六国の時代'(東アジア-朝鮮、百済-前期 漢城時期) | |||
346 | 朝鮮半島南部に百済建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 第12代百済王近肖古王(346~375) 第5代加羅王伊尸品王(346~407) 近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済) 近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子) 新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 中国が五胡十六国の時代 百済,近肖古王即位 百済の照古即位 ■前期漢城時期(?475年) ソウル夢村土城跡 夢村土城の土塁跡(ソウル)中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。 346年、近肖古王の即位。 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。 百済の建国 346年ころ百済の建国朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 百済、建国。 百済(346ー660)百済は三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
350 | 朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立(東アジア-朝鮮、高句麗・百済・新羅-) | |||
356 | 新羅の建国(東アジア-朝鮮、新羅-新羅) | |||
356 | 第17代新羅王奈勿尼師今(356~402) 朝鮮半島南部に新羅建国 新羅,奈勿王即位 新羅の建国 仲哀356-360 三国時代(356ー676) 韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。:3世紀頃三国時代BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
360 | 神功360-386(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
364 | 百済再建(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
364 | 百済再建 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。 神功44年百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。 神功46年斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。 新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
366 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
367 | 百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済)(東アジア-朝鮮、百済、新羅-) | |||
368 | 日食新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
369 | 高句麗が侵入百済軍の軍旗に黄色を用いる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
371 | 第17代高句麗王小獣林王(371~384) 近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死 高句麗が侵入百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死 高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 高句麗、仏教伝来、大学設置国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
372 | 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える 高句麗、仏教の伝来。 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり) 東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。 百済王と世子(太子)が日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を倭王に贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(石神神社七支刀369製作) 百済,東晋に使節を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 百済、東晋に使節を送る国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済、東晋-) | |||
375 | 第13代百済王近仇首王(375~384) 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子) 高句麗侵入 (注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある) 百済の貴須即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
377 | 高句麗の平壌城を攻撃 北朝の前秦へも朝貢。(百済)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済、仏教の伝来。 第14代百済王枕流王(384~385) 第18代高句麗王故国壌王(384~392) 西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認 百済の枕流即位 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子) 晋に朝貢仏僧が晋から渡来(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済、仏教伝来国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
385 | 第15代百済王辰斯王(385~392) 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟) 百済の辰斯即位 仏寺を創建(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
386 | 応神386-402 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
387 | 東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
389 | 高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、高句麗-高句麗) | |||
391 | 高句麗、広開土王即位。 高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。 高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 倭兵、海を渡り百済・新羅を破って臣民とする(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
391 | 倭兵、朝鮮半島に出兵し、百済・新羅を破り高句麗と交戦(~404)したが朝鮮半島から撤退(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
392 | 第19代高句麗王廣開土王(392~413)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
392 | 第16代百済王阿芳王(392~405)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 日食 高句麗の広開土王が侵入多くの領土を奪われる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 百済の阿辛(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
393 | 新羅、倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
395 | 高句麗の広開土王と戦うも大敗する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
396 | 高句麗,百済を服従させる 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
397 | 倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
399 | 高句麗、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
399 | 百済、倭と結び、倭兵、新羅国境に満ちる。(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
400 | 高句麗、南部に出兵して倭を討つ。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
400 | 高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
400 | 倭の五王(讃、珍、済、興、武)、南朝の宋に使いを送る(東アジア-朝鮮、日本:倭-古墳時代) | |||
400 | 倭軍、帯方郡で高句羅…古代朝鮮三国の一つに敗北(404)(東アジア-朝鮮:高句羅、日本:倭-古墳時代) | |||
402 | 第18代新羅王実聖尼師今(402~417)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
402 | 新羅、三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
402 | 仁徳402-434(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 百済から倭国へ使者を送る。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 倭兵、新羅、任那で高句麗と戦う。(好太王碑文)(日本-朝鮮:高句麗、日本:倭-古墳時代) | |||
403 | 倭国から百済へ使者を送る。 倭国の使者を特に手厚くねぎらう(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
404 | 高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 新羅、倭兵が明活城を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
405 | 百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
405 | 百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。(日本-朝鮮、朝鮮:百済-) | |||
405 | 百済、日本に漢学伝える国史年表(国史年表)(日本-朝鮮、朝鮮:百済-) | |||
405 | 第17代百済王腆支王(405~420)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 百済の直支(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子) 人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて 倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
406 | 晋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
407 | 第6代加羅王坐知王(407~421)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
407 | 新羅、春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
408 | 新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(対馬)(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
409 | 倭国の使者が夜明珠を送る厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
413 | 第20代高句麗王長寿王(413~491)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
414 | 高句麗、広開土王牌(好太王)碑建立。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
416 | 東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。 東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
417 | 第19代新羅王訥祇麻立干(417~458)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
418 | 新羅、高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
418 | 百済、倭国に白綿を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 第18代百済王久尓王(420~427)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
421 | 第7代加羅王吹希王(421~451)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
421 | 倭王讃421(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
427 | 高句麗、平壌遷都。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
427 | 高句麗長寿王,国内城から平壌へ遷都(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
427 | 高句麗、平壤遷都国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
427 | 第19代百済王毘有王(427~455)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
427 | ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
428 | 倭国の使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
429 | 宋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
430 | 倭王讃?430(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
431 | 新羅、倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
433 | 百済と新羅、高句麗に対して同盟を結ぶ 高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗?(忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。 高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅と百済は高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済と新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。 百済と新羅は高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
433 | 新羅、百済同盟成立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
433 | 新羅、百済の同盟成立。(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
433 | 新羅・百済同盟成立(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
433 | 新羅に使者を送り和親を求む(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
434 | 新羅の使者が答礼(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
434 | 履中434-437(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
437 | 反正437-439(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
438 | 羅済同盟成立。 倭王珍438(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
439 | 允恭439-454(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
440 | 新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
443 | 倭王済443(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
443 | 倭国王、済が宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を得る(東アジア-朝鮮、倭-) | |||
444 | 新羅、夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。(東アジア-朝鮮、新羅、新羅-) | |||
447 | 干ばつ新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
451 | 第8代加羅王金至知王(451~492)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
451 | 倭国王、済使持節都督倭新羅任那加羅慕韓六国諸軍事を加号される(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
451 | 倭王済「安東大将軍倭国王」に任命される(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
454 | 安康454-456(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
455 | 第20代百済王蓋鹵王(455~475)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
455 | 蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
456 | 雄略456-479(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
458 | 第20代新羅王慈悲麻立干(458~479)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
459 | 新羅、夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
460 | 倭王460、名不明(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
462 | 新羅、夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
463 | 新羅、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
469 | 高句麗に侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
472 | 魏に朝貢 魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが 魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
475 | '■中期熊津(公州)時代(475年?538年)'(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 熊津の公山城跡(公州)長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。 高句麗、百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 第21代百済王文周王(475~477)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す 子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子) 新羅の援軍をつれて帰国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
476 | 新羅、倭人が東辺を攻める。 耽羅国(済州島)が朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
477 | 新羅、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。(東アジア-朝鮮、新羅、日本-) | |||
477 | 第22代百済王三斤王(477~479)即位サンキン(壬乞、文周王の長男幼年につき解仇が実権)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
477 | 倭王武477(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
478 | 解仇が謀反(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
478 | 大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 第21代新羅王毘処麻立干(479~500)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
479 | 第23代百済王東城王(479~501)即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
480 | 清寧480-485(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
482 | 新羅、五月に倭人が辺境を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
482 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
484 | 南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
485 | 顕宗485-488(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
485 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
486 | 新羅、夏四月に倭人が辺境を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
488 | 仁賢488-498 魏の討伐軍侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
491 | 第21代高句麗王文咨明王(491~519)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
491 | 飢饉で新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
492 | 第9代加羅王鉗知王(492~521)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
493 | 新羅に妃を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
494 | 新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
495 | 日食 高句麗の侵入に新羅が援軍(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
498 | 武烈498-507(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
499 | 干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
500 | 第22代新羅王智証麻立干(500~514)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
500 | 新羅、春三月倭人が長峯鎮を攻め陥した。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
500 | 家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
501 | 第24代百済王武寧王(501~523)即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子) 東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
502 | 新羅、牛耕実施国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
502 | 飢饉と疫病 高句麗を攻撃 新羅,牛による耕田を始めて実施(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
502 | 倭王武502(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
503 | 新羅、国号と王号を定める。(アジア-新羅)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
503 | 新羅、国号と王号を定める国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
506 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
507 | 継体507-530(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
507 | 高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
512 | 百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条) 梁に朝貢 高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
512 | 日本が任那4県を百済に割譲(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-) | |||
513 | 百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
514 | 第23代新羅王法興王(514~540) 判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
515 | 百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
516 | 日食 百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
519 | 第22代高句麗王安蔵王(519~531)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
520 | 新羅、律令頒布。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
520 | 新羅、律令を頒布、百官の広服を制定。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
520 | 新羅,律令領布,百官の公服制定(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
520 | 新羅、律令領布、百官の公服を制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
521 | 第10代加羅王仇衝王(521~562)(東アジア-朝鮮、加羅-) | |||
521 | 使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
523 | 第25代百済王聖王(523~554)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
523 | 聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子) 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
524 | 梁から綏東将軍百済王を受ける(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
525 | 百済、武寧王陵を築造する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
525 | 新羅と国交を結ぶ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
527 | 新羅、仏教公認。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
527 | 新羅、仏教を公認。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
527 | 新羅、仏教 | |||
527 | 磐井の乱527(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
529 | 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
531 | 第23代高句麗王安原王(531~545)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
531 | 安閑531-534(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
532 | 新羅、南伽耶の金宮国を併合。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
532 | 新羅,金海の金官伽耶を併合(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
532 | 任那日本府(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
535 | 宣化535-538(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
536 | 新羅,年号を使用(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
536 | 新羅、年号使用国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
538 | '■後期泗?(扶余)時代(538年?660年) 三国時代の百済 南扶余'(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 泗?に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが、その名は定着しなかったようです。 扶余定林寺五重塔 滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。 百済、泗?(しび)遷都。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済、王都を泗?城(扶余)に遷す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済から仏教伝来538年(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 三国時代の百済 三国時代の地図、5世紀終わり頃 ByEvawen,Gzhao[GFDLorCCBY3.0] 第25代武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 武寧王の亡き後即位した、第26代聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗?(サビ)、今の扶余へ遷都しました。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(百済)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 都を泗ヒ(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする (所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済,泗ヒ城(扶余)に遷都(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済、都を泗?城に移す国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る(東アジア-朝鮮、百済、倭-) | |||
539 | 聖徳太子(厩戸皇子)摂政539年(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
540 | 第24代新羅王真興王(540~576)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
541 | 梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
545 | 第24代高句麗王陽原王(545~559)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
545 | 新羅,「国史」編纂(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
545 | 新羅、国史編纂国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
548 | 高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
550 | 高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
551 | 百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。 百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 百済、日本に仏教を伝える 『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 百済、日本に仏教を伝える国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済、日本-) | |||
553 | 新羅が百済北部を占有する 百済王女が新羅へ嫁する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 第26代百済王威徳王(554~598)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 威徳王即位イトク(昌、聖王の子) 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 王自ら新羅を攻めるも敗死(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
559 | 第25代高句麗王平原王(559~590)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
561 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
562 | 新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
562 | 新羅,大伽耶などの加羅諸国を併合(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
562 | 加羅諸国が新羅に占領される。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
567 | 陳へ朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
570 | 高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡公百済王を得る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
572 | 敏達572-584 北斉に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
576 | 第25代新羅王真智王(576~579)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
577 | 陳に朝貢 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
578 | 北周に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
579 | 第26代新羅王真徳女王(579~632)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
581 | 中国が隋の時代(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
581 | 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。 隋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
584 | 陳に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
585 | 用明585-586(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
586 | 高句麗、長安城に都を遷す(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
587 | 崇峻587-591(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
589 | 隋が陳を併合隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
590 | 第26代高句麗王嬰陽王(590~618)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
595 | 高句麗の僧慧慈日本へ,聖徳太子の仏教の師となる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
597 | 百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 第27代百済王恵王(598~599)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
599 | 第28代百済王法王(599~600)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
599 | 法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子) 殺生令をだし漁猟の道具を焼く(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 新羅征討計画。計3回の討伐で第一次は新羅の降伏。残りの2回は失敗におわる-603(東アジア-朝鮮、新羅、日本-) | |||
600 | 第29代百済王武王(600~641)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 武王即位ブ(璋、法王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 仏寺を創建 聖徳太子(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 遣隋使開始600年(東アジア-朝鮮、隋-) | |||
602 | 百済僧観勒、暦法などを伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
602 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
604 | 聖徳太子(厩戸皇子)、十七条の憲法を作る、冠位十二階制を施工604年(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
605 | 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
607 | 法隆寺建立607年(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
607 | 隋に朝貢 隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
611 | 隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される) 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
612 | 高句麗、薩水大捷。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
612 | 隋の煬帝、高句麗を攻撃(薩水の戦い)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
612 | 薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
612 | 高句麗、薩水大捷国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
613 | 百済人味摩之,伎楽舞を日本に伝える(東アジア-朝鮮、百済、日本-) | |||
616 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
618 | 中国が唐の時代(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
618 | 第27代高句麗王栄留王(618~642) 新羅が侵入 唐が成立する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
621 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
623 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
624 | 高句麗へ,唐より道教伝来(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
624 | 高句麗、唐から道教伝来国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
624 | 唐に朝貢し帯方郡主百済王を得る 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
624 | 百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
625 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
626 | 唐への使者を高句麗が妨害(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
627 | 新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する 唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す 百済は陳謝の使者を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
628 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
630 | 遣唐使開始630年(東アジア-朝鮮、唐-) | |||
631 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済、唐-) | |||
632 | 第27代新羅王善徳女王(632~646) 新羅攻撃唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
633 | 新羅攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
636 | 漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済) 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
636 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
640 | 王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
641 | 第30代百済王義慈王(641~660)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
641 | 義慈王即位ギジ(武王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
642 | 高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
642 | 第28代高句麗王宝蔵王(642~648)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
642 | 高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
642 | 皇極642-644 唐の使者が帯方郡主百済王を与える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
642 | 唐に朝貢 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
643 | 高句麗と和睦し新羅を攻撃新羅は唐に救援を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
644 | 唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
644 | 唐の太宗,高句麗を攻撃(~648)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
644 | 唐に朝貢太宗は両国を諭す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 高句麗、安市城の戦いで唐に勝利(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
645 | 高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
645 | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
645 | 高句麗、安市城の戦いに勝利国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
645 | 大化の改新645年(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
645 | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 孝徳645-654(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
647 | 第28代新羅王真徳女王(647~654)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
647 | 新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
647 | 新羅王子金春秋(後の武烈王)来日(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
647 | 新羅、瞻星台建立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
647 | 新羅を攻めるも敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
648 | 新羅を攻めるも再び敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
651 | 唐に朝貢太宗再び諭す (新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
653 | 倭国と国交を結ぶ 高句麗、靺鞨とともに新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
654 | 第29代新羅王太宗武烈王(654~661)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
654 | 新羅,武烈王即位(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
655 | 高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
655 | 斉明655-660 新羅は危急を唐に知らせる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
658 | 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗?城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
660 | 百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 新羅と、唐と連合して百済を滅ぼす(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 新羅、唐の連合軍により百済滅亡(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 百済、唐・新羅に敗れ、百済の遺臣が救いを求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 百済の滅亡(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
■百済滅亡と白村江の戦(660-663年) 扶余扶蘇山城より眺める白馬江 扶蘇山城より白馬江を望む660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に泗?城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
660 | 唐は13万の軍を率い新羅も5万をもってこれに従う(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 百済滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 第30代新羅王文武王(661~681)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
661 | 斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 第31代百済王豊璋王(661~663)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 天智661-670 義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する 百済軍敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
662 | 白村江の戦い.新羅・唐軍に倭軍大敗(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
662 | 扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う 唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く 百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる 唐の高宗は扶餘隆を都督とする(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
662 | 阿曇比羅夫、百済再興に向かう(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
663 | 白村江(はくすきのえ)の戦い。朝鮮半島の白村江での倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで唐の勝利。倭は敗戦の影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。(東アジア-朝鮮-) | |||
663 | 白村江の戦い(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、日本-) | |||
663 | 百済が唐に滅ぼされる(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(百済)(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 新羅、唐の連合軍、日本軍を白村江で撃退(白村江の戦い)(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 新羅、倭国の水軍が来て、百済を助ける。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 白村江の戦い錦江河口付近 白村江?錦江河口付近(群山)百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
664 | 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
665 | 唐使来日、入京百済人400人余を近江国神(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
665 | 扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
666 | 百済人2000人を東国に移す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
668 | 唐により高句麗の滅亡(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 高句麗が唐に滅ぼされる(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 高句麗滅亡(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
668 | 高句麗滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-) | |||
669 | 百済人700余人を近江国蒲生郡におく(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
670 | 新羅、十二月倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。(東アジア-朝鮮、新羅、倭:日本-) | |||
671 | 弘文671-672(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
672 | 壬申の乱が起こる672年(東アジア-朝鮮、日本-) | |||
673 | 天武673-685(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
676 | 三国時代→統一新羅時代(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~ 紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 統一新羅時代(676ー935) 統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 新羅、半島を統一(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 新羅、三国統一(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 統一新羅と後三国時代[676~918年] 新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退すると新羅による朝鮮半島の統一が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 新羅、三国統一国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 676-679扶餘隆高句麗にて死去 唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(東アジア-朝鮮、百済-) |